第8円

 寿司屋の暖簾をくぐった瞬間、鼻腔をくすぐる酢飯の香りに思わず頬が緩んだ。

 カウンター席に座り、目の前で職人が握る皿を立て続けに平らげる。大トロ、中トロ、ウニ、イクラ――普段なら絶対に頼まないようなネタばかりを豪快に。


(……っしゃあ! 回転寿司じゃねえ、ほんとの寿司屋だぞ!)


 心の中で叫びながら、口の中いっぱいに脂と旨味を広げる。

 ポケットの財布は昨日より厚い。寿命を削った対価を、俺はこうして一瞬で溶かしていく。


『がははっ! 兄弟、相変わらず無駄遣いの天才だな! 寿命で稼いだ金をトロに変えるとか、最高にクズだぜ!』


 耳の奥でグリードが煤けた声で笑う。

 俺は箸を動かしながら、にやりと返した。


(うるせぇな……寿命なんてまだまだある。俺は若いうちに目一杯遊んで、健康なうちに死ぬ。それで十分だろ)


 すっかり気分を良くした俺は、寿司の後、駅前のカラオケに飛び込んだ。

 ドリンク片手にリモコンをいじり、誰もいないボックスでマイクを握る。

 画面に映し出された古いロックバンドの映像を見て、思わず笑みがこぼれた。


「ははっ……まさか寿司の次にカラオケまで行けるとはな」


 熱唱。跳ねるリズムに合わせてマイクを振り回し、声が枯れるまで歌い散らす。

 これまで我慢してきた贅沢を、一気に取り返すように。


『がははっ! ハル、寿命削って歌うって……命の使い道としてはワーストランキング入りだな!』

「いいじゃねぇか。どうせ楽しんだもん勝ちだろ?」


 笑いながら、ソファに背を預ける。

 満腹の余韻と、喉の焼けるような痛み。

 財布はまた軽くなったが――心は妙に晴れやかだった。


(……最高の夜だ。これだから、やめられねぇ)



――翌朝。

 寿司とカラオケで散財した夜の余韻がまだ残っているのに、足取りは妙に軽かった。


 教室に入れば「おはよー桐生!」と数人から声が飛ぶ。

 俺はにこやかに手を振り返す。

 ――外面だけなら、完璧優等生。


 授業中。先生に指されれば模範解答を口にし、ノートも誰より整っている。

 隣の席のやつに「写させてくれ」って頼まれて、笑顔で差し出せば「ありがと!」と感謝される。


(……楽勝だな。こっちは金もあって、信用もある。魔女どもが血反吐吐いてる間に、俺は“勝ち組”ってわけだ)

『がははっ! 兄弟、外から見りゃお前は聖人君子だ。だが中身は――まあ、言うまでもねぇな』

(うるせぇな。バレなきゃ勝ちなんだよ)


 昼休みには購買で偶然最後のカレーパンを引き当てる。

 友人に「運いいなー!」と羨ましがられ、俺はただ爽やかに笑って見せた。


(……優雅だろ? これが“本物の余裕”ってやつだ)



――数日後の放課後。

 俺はコンビニ袋を片手に部室へ入った。


「差し入れです。みんなで食べません?」


 袋から取り出したのは、小分けのスイーツとジュース。

 ちょっと値が張ったけど、その分見栄えはする。


「えっ、これ……!」

「おいおい、どうしたのよ桐生。最近羽振りがいいわね」


 桃川はおずおずとお菓子を受け取り、日野がジト目で笑う。

 神崎先輩は目を細めてこちらを見て、わざとらしく息をついた。


「……ふぅん。何かいいことでもあったのかしら?」

「いやいや、そんな大したことじゃないですよ。親戚からちょっと臨時でお小遣い貰っただけです」


 爽やかに笑ってみせると、神崎先輩は「そう」とそれ以上は追及しなかった。

 日野と桃川もすぐにお菓子へ気を取られ、部室は甘い香りで満たされていく。


(……フッ、ちょろいもんだな。魔女だろうが教師だろうが、皆んな俺の外面に騙されてんだ。俺の中身なんざ、誰ひとり見抜けやしねぇ)

『がははっ! ハル、マジで役者だな。俺ら悪魔でも舌を巻くぜ!』

(……誰も俺を疑わない。――俺は勝ってるんだよ)



――夜。


 机の上に置かれているのは、校庭のベンチか教室の机か――誰かが置き忘れたらしい、薄い文庫本だった。装丁の角は擦り切れ、背表紙には名前の痕跡もない。拾ったときは「忘れ物だろ」とだけ思って、家に持ち帰っておいたものだ。


 ソファに沈み、ページをめくると、物語は意外と読みやすくてつい夢中になる。登場人物の台詞に笑い、思わず眉を潜める場面ではページを押さえ、読み終えたときには夜も深くなっていた。


(……ちょうどいい暇つぶしだったな)


 本を机の上に置き、ふと視線がページの端にある値札の跡に止まる。古い文庫本だ。価値は大したことないかもしれないが、財布の厚みを取り戻すには十分だ。学校で見つけたら誰のものか分からない――足もつかない。俺にとって、手軽に換金できる“忘れ物”は理想の餌だった。


 無造作に本を掴む。部屋の明かりがページの輪郭を際立たせる。気楽な気分で――いつものように――つぶやくように言った。


「……換金」


 だが、その瞬間、耳の奥で煤けた声が滑り落ちた。


『なあ、ハル』

「……ん?」

『お前、自分の“本来の寿命”って、どれくらいだと思ってる?』


 握った手が止まる。

 なんだよ、急に。今さら何の話だ。


「は? そりゃ……百歳って言いたいとこだけど、まあ七十とか八十くらいだろ。平均的に考えてさ」


 軽口のつもりで言った。

 だが次に返ってきた声は、あまりにも冷たかった。


『……残念だが、ハル。お前は元々三十まで生きられなかったぜ』


 ――時が止まった気がした。

 握っていた参考書がふっと消え、机の上に小銭が転がる。だが、それを確認する余裕なんてどこにもなかった。


「……は?」


 視界が急に滲み、足元から力が抜けていく。

 胸の奥を氷の手で握られたみたいに、心臓が動きを忘れる。


『……楽器の換金が痛かったな。アレさえなければ、今のペースで換金を続けても高校卒業ぐらいまではもったはずだぜ』


 煤けた声が、どこか哀しげに笑った。

 けれど俺の耳には、もはや遠く霞んで届く。


「……っざけんなよ……俺、まだ……遊び足り……」


 言葉は途切れ、意識が黒く溶けていった。最後に聞こえたのは、自分の心臓の音が遠ざかるような音だけだった。


 机の上には、換金された小銭がカランと転がったまま。俺だけが、そこから消えていた。


















――暗い部屋。

机の上に転がったままの小銭を、誰も拾うことはなかった。


『……ちっ。兄弟、ほんと笑わせてくれるぜ。最後まで“バレなきゃ勝ち”を貫いて、そのまま寿命切れでドロップアウトか』


 煤けた声に、皮肉と、ほんのわずかな哀惜が滲む。


『惜しいな。俺が“本当の寿命”を隠してなきゃ、もう少しは生きられたかもしれねぇのによ……』


 吐き捨てるように言いながら、声の奥ではかすかな笑みが混じる。

 ――だからこそ、自分は今まで生き残ってきた。

 愚かで、欲に目がくらんだ契約者を踏み台にしながら。


 小銭が月明かりにかすかに光った。

 悪魔の影はふっと消え、部屋はただの静寂に沈んでいった。

















――数日後。放課後の文芸部室。

机の上には、いつも通り原稿用紙とノートが並んでいる。


「桐生くん、今日も来ないのね」


神崎先輩が小さくつぶやく。


「なんか最近学校にも来てないって聞いたけど」


日野がジト目を細める。


「……大丈夫でしょうか」


桃川が心配そうに手を胸に当てる。

神崎先輩は少しだけ微笑んで、まとめるように言った。


「まあ、きっとすぐ戻ってくるわ。あの子は……優しいし、頼れる部員だから」


 三人は再び原稿へと視線を落とす。

冷房の効いた部室には、カリカリとペン先の音が響くだけだった。


――誰も知らない。

その“頼れる部員”が、悪魔と契約し、寿命をすり減らして死んだなんてことは。

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クズとネズミの金勘定 上下上下 @kamishita

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