第7円



 夕焼けに染まる廊下。

 俺と先生の影が並んで伸びていた。心臓はドクドク鳴りっぱなしで、耳の奥まで血の音が響く。


「……あ、はい。大丈夫ですけど」


 作り笑いで返すと、先生は柔らかく頷いた。


「ちょっと準備室の方まで付き合ってくれるかな。すぐに終わると思うからさ」

(……準備室!? まさか雑誌の件じゃ……いや、違う。違うはずだ。俺がやったなんてバレてるわけがねぇ)


 それ以上、先生は何も言わなかった。

 廊下に響くのは、二人分の靴音だけ。

 無言の時間が続くほどに、不安はどんどん膨らんでいく。


(……くそ、沈黙が一番怖ぇ……! 今すぐ「お前だろ」って言われた方がマシかもしんねぇ……!)


 やがて、準備室の前にたどり着いた。

 先生が鍵を開けて扉を押し開ける。


 中には積み上げられた楽器ケース、埃をかぶった譜面台、古びた椅子の山。

 雑多に押し込まれた物たちが、夕陽に照らされて影を伸ばしていた。


「実はね――整理を手伝ってほしいんだ」


 肩の力が一気に抜ける。思わず小さく息を吐いた。


(……なんだ、ただの雑用かよ。マジで心臓に悪ぃ……)

『がははっ! ビビりすぎだろ、ハル。顔は笑ってんのに中身はガタガタじゃねぇか』

(うるせぇ……! あんな沈黙で連れ回されたら誰だって疑うだろ)


 軽く睨み返しながら、ふと周囲を見渡す。

 積み上げられた楽器ケース、古びた譜面台、半分壊れかけた椅子。

 夕陽が差し込み、乱雑に押し込まれた物たちが赤黒い影を床に落としていた。


(……なるほどな。ここに“宝”があるわけか)


 先生は乱雑に積まれた棚を指さした。


「桐生くんは、こっちの整理をお願いね。私は隣の音楽室を片づけてくるから」


 そう言うと、音楽室の扉を開けて姿を消す。準備室には俺ひとりが取り残された。


「……はぁ。こういうのって普通、吹奏楽部とかが、やるもんだろ」


 小声でぼやきながら、譜面の束を机に移す。

 汗臭い楽器ケースや埃まみれの椅子――ただのガラクタ山にしか見えない。


(……でも、まあ。文句言いつつ、こうして“お宝”の倉庫に入れたのは運がいいってことか)


 皮肉めいた笑みが口元に浮かぶ。

 心臓はまだ早鐘を打っているのに、視線の奥ではもう“金勘定”が始まっていた。


「さてさて……どれが一番、金になりそうかな」


 楽器ケースをそっと撫で、譜面台を持ち上げてみる。

 埃を被った鍵盤ハーモニカ、錆びついたトランペット。

 一見ガラクタでも、市場に出せば思わぬ値がつくかもしれない。


『がははっ! 教師からの雑用が、一瞬で“宝探し”に変わるんだからな。お前ってほんとブレねぇよな』

(うるせぇ。チャンスが転がってきたら拾うだけだ。悪いことか?)


 鼻で笑い、棚の奥を覗き込む。

 ――そこには、厚手の布にくるまれた古い楽器ケースが眠っていた。


(……おいおい。こいつぁ、マジで当たりかもしれねぇぞ)


 棚の奥から引っ張り出した古い楽器ケースは、思ったよりも重かった。

 金具は錆びつき、布の匂いに混じって金属の匂いが鼻を突く。


「……なんだこれ。トランペット? いや、もっとデカいな」


 金具を外し、慎重に蓋を開ける。

 中から現れたのは、真鍮の光沢をかすかに残した古いサックスだった。

 マウスピースは黒ずみ、管の表面には細かな傷。けれど――全体の形はまだ美しい。


(おお……これはマジで高ぇやつだろ。ネットで見たことあるけど、古いサックスってビンテージでめっちゃ値がつくんだよな……!)


 胸が高鳴る。昨日の雑誌とは比べものにならない金額が頭をよぎり、自然と口元が歪んだ。


『がははっ! ハル、目がギラついてんぞ。欲、丸出しだな』

(うるせぇ……これひとつで数ヶ月遊び放題じゃねぇか)


「……換金」


 囁いた瞬間、サックスは煙のように掻き消え、代わりに分厚い札束がケースの中に落ちた。


「……っしゃあああ!!」


 抑えきれずに声が漏れる。

 重みのある札束を握りしめ、頬が勝手に緩んでいく。


『がははっ! やったなハル! ただし――覚えとけよ。そういう“共有物”は寿命のコストが跳ね上がるんだぜ? 吹奏楽部のガキども、顧問、職員……全員分の触った時間がドカッと乗っかってくる』

(……知ってるよ。吹奏楽部が何十人も使ってきたんだ。軽いわけねぇだろ。でも――俺には余裕がある)


 胸を張るように、心の中で言い聞かせる。


(人間の寿命なんて七十、八十は当たり前。少し削れたって大したことじゃねぇ。俺はまだ十代だ。どうせ先は長いんだ)


 高揚感で全身が熱くなる。

 寿命なんて見えない。今はただ、膨らんだ財布のことしか頭になかった。


 札束を握りしめ、頬が緩む。

 けれど、すぐに深呼吸して財布へ滑り込ませると、崩れたケースを黙々と整え始めた。


(……ここで気を抜いたら台無しだ。俺は“優等生”で通すんだ)


 指先に布巾を巻き、楽器ケースに溜まった埃を丁寧に拭き取る。

 ずれた譜面台を直し、雑然としていた棚をきっちり並べ直す。

 もし誰かが今ここを覗いたら――きっと「桐生くんは真面目だな」としか思わないだろう。


『がははっ! 小銭稼ぎの裏でボランティアかよ。二重生活ってやつだな』

(黙れ。これが俺の“保険”だ。バレなきゃ、犯罪じゃない)


 鼻で笑いながら最後のケースを片付け終えた瞬間、背後から足音が近づいた。


「――お、助かるよ。ここまできれいにしてくれるとは思わなかった」


 振り返れば、音楽教師の佐藤先生が立っていた。

 昨日の“騒ぎ”で一番声を荒らげていた人物。その顔が、今は穏やかにほころんでいる。


「いえ、そんな。整理するのは好きですから」


 俺は爽やかに笑い返す。汗を袖で拭いながらも、声色は一切乱さない。


 先生は少し考えるように俺を見て――ふっと笑った。


「……そうか。じゃあ、ありがとうの気持ちだ。ジュースでもどうだ?」


 ポケットから小銭を取り出し、廊下の端の自販機へ歩いていく。

 すぐに戻ってきた先生の手には、缶コーヒーと炭酸ジュース。


「はい、桐生くんはこっち」

「……え、いいんですか? ありがとうございます!」


 笑顔で受け取って、プルタブを開ける。

 冷えた炭酸が喉を抜け、シュワッと爽快感が体を駆け抜けた。


(……最高だな。金も増えて、評価も上がって、ジュースまで貰えるとか。こりゃあやめらんねぇな)


 俺は缶を軽く掲げ、にやりと笑った。


 ジュースを飲み干した俺は、空き缶を軽く振って笑った。

 遠ざかっていく先生の背中を見送りながら、胸の奥に満足感が広がる。


(完璧すぎるだろ、今日の俺)

『がははっ! ほんっと世渡り上手だな、ハル。悪事の後に教師から感謝されてジュースまで奢られるとか、悪魔の俺でも笑うぜ』

「……お前も飲めりゃよかったな」


 冗談めかして呟くと、耳の奥で煤けた声がさらに笑いを弾ませた。


『俺にゃ寿命の味しかねぇよ。だが安心しろ、ハル。お前が飲んでる時点で、俺も悪くない気分だ』

(……はは、便利な相棒だよな)


 俺はポケットの財布を叩き、浮かんだ笑みを隠そうともしなかった。


――空き缶をゴミ箱に放り込み、伸びをひとつする。

 夕暮れの校舎を出た足取りは軽く、財布の重みがポケットで心地よく揺れた。


(……焼肉の次は寿司だな。回らない店とまでは言わねぇけど、普段なら絶対頼まねぇ中トロくらいは余裕でいける)


 想像だけで腹が鳴りそうになる。

 昨日までは考えもしなかった贅沢が、今は“現実”として手を伸ばせる位置にある。


『がははっ! 命を削って寿司かよ! 次は寿命をシャリにでも乗っけるつもりか?』

「うるせぇな……寿命は見えねぇし、どうせ余裕だろ。楽しんだもん勝ちだ」


 夜風に吹かれながら、にやりと口元を歪めた。

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