最終話. ゴデチアをあなたに


目が覚めると、涙が頬を伝っていた。どんな夢を見ていたのかは覚えていない。ただ、とても静かに、冷たい涙が頬を濡らしていた。あぁ、どれほど悲しい夢を見ていたのだろうか。それは悪夢だったろうか。ゆっくりと呼吸をしながらベッドを抜けて、隣の部屋のドアを開ける。パチリと電気を点けるが人はいない。誰も利用しなくなった電動ベッドは冷たく、室内もひやりと肌寒く感じる。もう、いるわけないのに。


夜中、ふと起きては隣の部屋を確認する事が癖のように習慣付いてしまったようだった。いるはずがないと分かっているのに、もしかしたらふらっと自分の部屋に戻って来るのではないかと考えてしまうのだ。誰もいない部屋を眺め、俺はまた寝室へと戻る。寝室に戻り、マサが使っていた枕へと手を伸ばす。マサの足が良くなって、少ししたあの日から、共に寝ていたが、その時使っていた枕は今でもまだそのまま自分の枕の隣に置いてあった。手に取るが、こちらもひやりと温度を無くしている。使われなくなって、もうどれほど経ったろうか。


あの日、記憶は戻ったのか、と訊ねた俺に、マサは否定した。虚な記憶は夢なんかじゃない。マサは確かに否定したのだ。


でも俺が撃たれたあの時、確かにマサは俺の事を肇ではなく、「肇さん」と呼んだのだ。マサの嘘に、瞬間、俺はこの男がもし記憶を戻したのなら、組織の為、俺の為、動こうとするのではないか、そして何処かへ消えてしまうのではないか、そう不安に駆られたのだ。でも酷く重い倦怠感と眠気に俺は、意識を失うように落ちてしまった。再び目を覚ました時、その不安は現実のものとなっていて、マサの行方は未だに誰も掴めてはいなかった。


同時に、野江が潜伏していたらしい郊外の隠れ家が全焼した。中から4名の遺体が発見され、出火原因は寝室の寝タバコだとされた。あり得ない話ではないが、そんな不用心な事をするだろうか。情報を初めて聞いた時、そう疑問が湧いた。そしてその遺体の身元は、野江についていた宇木組の組員だと判明した。そこに野江の遺体は無く、野江だけが忽然と姿を消したらしい事を知る。誰かが手を下した、そう思った。その誰かは、ひとりの男を指しているように思えてならなかった。


野江の行方不明をキッカケに、敵対組織が空中分解していく様を、俺はどこか空っぽになった心で眺めていた。


………

……



「………で、答えはどうだったのでしょう」



「YES、でした。会長の読み通り、穂花さんと真城さんは籍が抜けており、離婚している事が分かりました。七尾組長宛に、穂花さんから電話があったようです。真城さんとは離婚が成立して、今は武田と交際し、籍を入れるつもりだ、と。謝罪を伝えた後、幸せにやってるから、もうこれ以上は関わらないで、そして心配しないで、と伝えたようです」



「そう、ですか。……離婚が成立したって事は、ふたりは会ったって事ですよね?」



「はい。ふたりの離婚届が出された事は確かです。電話があったのが数日前ですから、たぶんそれより前に、真城さんは穂花さんと接触して、離婚届を出したのではないかと思います」



「穂花さんの居場所はまだ分からないのでしょうか」



「えぇ。生憎。こちらの情報屋も、それから七尾組に探りも入れてますが、進展はありません。彼女は探さないでほしいと父親に伝えたようですから、七尾組も本当に彼女の居場所は知らないのかと思います」



「…そうですか。マサの口座の件はどうなりました?」



「もぬけの殻。本人が引き出し、クローズした事は間違いありません。どこかでまた口座を作っているなら、そこから足取りを辿れる可能性もありますが、さすがに難しいでしょう。これ以上は探り用がありません」



「そうですか…」



「…これから、どうするんです? ひとまず安否は確認できました。あなたの立ち回り次第では、また戦争となりますが」



「七尾組、ですか…」



「えぇ。七尾組長が、私にここまで話したのは、あなたの許しを乞う為です。穂花さんに対する暴力だって無かった上に、若頭が野江と繋がって裏で糸を引いていたんです。反乱を起こそうとしていたのですから、お咎めなしで許されるとは思ってないでしょうけど。でもまだ許しを乞い、許される事に期待しています。七尾組長はもう会長には二度と歯向かえませんから、どんなケジメでもつけるはずです。緑翔会を抜けた脱退組織で立ち上げた組織はバラバラですし、宇木組があんな状態の中、負けは決まっていますから続けようもない。どうにかしてでも生き残る為に、あなたの許しが欲しいのです。でももし会長が断るのなら、七尾組は最後の足掻きを見せるはずです」



「……松葉会長は、どう、お考えですか?」



「私の意見なんか聞くんですか?」



「あなたは誰よりも頭で動ける人だと思っていますから」



「買い被りすぎです。昔は荒れ狂ってたと有名だったのに、今じゃ会長にも進言するとは、私も出世したものです」



「ふふ、頼りにしてます。だから意見を聞かせてくれませんか?」



「……私の意見を聞かなくたって、あなたの意思は決まってるかと思いますが、良いでしょう、あなたの気持ちを代弁してあげましょうか。…真城さんを脅して飛び降りさせた野江と繋がりがある七尾組はクソ喰らえ。…でも、七尾組を取り込む事で、緑翔会は安定し、また力を戻せる。個人的には許せないほどの怒りがあるが、七尾組と戦争をして無駄に血は流したくないし、彼らを手中に収めるメリットが組織として大きい。七尾組を戻し、緑翔会を立て直し、そして宇木さんを助けたい。だから緑翔会のトップとしては、七尾組を許して緑翔会に戻す。それが答えでしょう?」



「……そこまで読めますか」



「当たっていましたか?」



「宇木さん、…いえ、宇木の叔父貴にも、戻ってくるよう説得します。あの人はうちに必要です。同じように七尾組も、組長派閥の連中は戻しても問題はないかと思います。ただ、七尾組に関しては、野江と話していた事実のある七尾組若頭は絶縁する事を条件とします」



電話口で松葉会長はくすっと笑ったのが聞こえた。



「絶縁だなんて優しいですね。いっそ、消すよう命令してしまえば良いのに」



「あなたの血の気の多さは今の地位についてから収まったと思ったんですがね、間違いでしたか」



「ふふ。ちょっとね、思っただけですよ」



「…ちょっと、ね。あの若頭を消した所で、マサは戻りませんから、絶縁で良いんです。俺からの命令としては、絶縁、でね」



「へぇ。命は取らずに組から追い出すだけ、一聞するとあなたは優しく懐の深い男に聞こえますがね、真意は逆でしたか。本当の意図を汲める者だけが、ゾッとする。……許せませんか、何があっても」



「えぇ。何があっても」



「真城さんの行方について、進展はありませんか」



「…えぇ。…あいつは何処で、何をしてるのでしょうね。………解任してなければ、隣にいたのでしょうか」



「解任していなければ、殺されていたかもしれません。全てはタラレバですが、会長の判断は間違っていなかったと思います。同時に、真城さんの判断も、最善だったかと」



「…最善、ですか」



「えぇ」



あまりにも即答するものだから、自分への後悔は少しだけ置き去りになる。椅子の背に寄り掛かり、溜息が宙を舞った。



「……消えた男を追うってのは、容易ではありませんね」



松葉会長は少しの沈黙を開けて訊ねた。



「でも会長、あなたは、今真城さんを見つけても彼の元へは行かないでしょう? いや、行けない、と言った方が正しいでしょうか」



この人は全く、どこまで読んでいるのだろう。あまりにも俺の考えを読んでいた松葉会長に、何を言うべきかと口ごもっていると、松葉会長は言葉を続けた。



「真城さんは今どこか、ここから遠い地でひっそりと暮らしている事が分かったとします。でも、あなたはその場所に行って、また共に暮らそうとは言えない。だから常に居場所だけは掴みたいんです。共に暮らそうと言える時が来た時に、すぐにそう伝えられるように」



「…何故、そう思うんです?」



「だってあなたは、この緑翔会のトップです。先代から引き継いだこの組織を蔑ろに出来ませんし、恩も責任もある。そして何より、真城さんがあなたの前から消えた理由は、きっと解任されようが何されようが、極道としてあなたと兄弟盃を交わし、あなたの為に命を使おうと決めた身だからです。あなたの為に、あなたが守る組織の為に、命を張った男の気持ちを重んじるあなたなら、この緑翔会を捨てる事はできない。再建し、復興させ、安定させる。…真城さんは、堅気としてあなたの前から消えたんです。世界が違うという事を、真城さんは誰よりも理解しています。組織に迷惑を掛けないよう、線引きをしたんです。だからあなたは、真城さんの居場所が分かっても、今のままでは会いには行かないと決意しているはずです」



「………そこまで読むものですか」



「情報は多いに越した事はないので。集めて考えれば、自ずと分かるものでした。なんてね。…前にも、知り合いで似たような事が起きまして。まぁ、そいつらも、片方が片方の為に姿を消したんです。自分の命は狙われているにも関わらず、愛する者の命だけは守り抜きたくて、…ふふ、愛とは尊いものです」



「どうなったんです? そのふたり」



「んー。…両方とも死にました」



「え?」



幸せに暮らしました、と返ってくるかと思っていた。ハッピーエンドを想像したのだが、死にました、とあっけらかんと答えが返って来て、つい聞き返してしまう。



「ふたりは再会したのですが、追っ手に追われて、映画のようなカーチェイスの後に、海が一望できる景色の良い、有名な丘から車が落ちてしまったのです。ふたりとも見つかっていません。あそこは崖の近くの海流が激しいんでね」



「……もしかして、志野ヶ崎の丘、ですか?」



「あ、ご存知でした?」



「なるほどね」



あの丘は昔、チキンレースによく使われていた事をふと思い出す。臆病に、直前でブレーキを掛けて速度を落としながら落ちれば一巻の終わり。アクセルを踏み抜いて海に突っ込む方が海流を避けられるし、深くなっていてる箇所に着水する確率が高い為、案外軽傷で済む。とは言え、可能性の話だし、車はダメになる。しかしその情報を知っている人間ならば、きっと…。だから、そうか、と片眉が上がった。



「ふたりとも、見つかってないんですね」



「地獄で仲良く暮らしてますよ、きっと」



「そうですか。俺もいつかはきっと」



そこが地獄でも良いからあいつの隣にいたいものだ、そう頬がゆるりと上がっていた。



「マサを探し続けます。居場所だけは突き止めます。あなたが言うように接触は出来ませんが、何もかもが終わった時、すぐにあいつの元に行けるように、居場所だけは」



「強いですね。七尾組を戻したとして、この緑翔会を安定させるには、最低でも5年はかかりますよ」



「えぇ、分かってます」



「彼、良い男ですよ? 逃げちゃうかもしれませんよ?」



「意地の悪い事を言うんですね。…でも他の誰かと幸せになるなら、それでまで。仕方ありませんよ。あいつの人生です」



「ふふ、逃げないって分かってるような言い方ですね」



「そんな風に聞こえましたか?」



「何故でしょう、自信があるのだろうな、と思ってしまいます」



自信、か。どうだろうか、あいつも同じだと良いなと思っているだけだが、それでもやはり俺という人間はどこか傲慢で、あいつは俺しか見なきゃ良いと願ってしまうのだ。



「……あいつもずっと同じ想いなら良いなと、願ってはいます。でも、あいつの幸せが第一ですから。どこかへ行ってしまうのなら仕方のない事。…ただ、できる事ならもう一度、そう願ってはいます」



「…へぇ、会長はそういう人でしたか。私も願ってますよ、どうか苦労人のあなたの苦労が報われますように」



「…松葉会長、」



「何です?」



「ありがとうございます、色々と」



「ふふ、良い案件をお待ちしてますよ」



「えぇ。また、何かあればお伝えします」



「では、また何かあればご連絡を」



「では」



電話を終えて窓の外に視線を向ける。外は、あっという間に季節を変えて寒くなり、初雪が散らついていた。


一週間ほど前、郷ヶ先山麓の樹海で発見された首吊りの腐乱死体が、宇木組若頭の野江だと判明した。胸ポケットには遺書が残されており、今の状況を作り出したのは自分だと、責任を取ると書かれていたらしい。その筆跡は野江のものだと判定され、自殺として処理された。だが、あの野江が自殺なんてするはずがないのだ。野心の塊のような男が、自ら死を選ぶなんて。そう考えると自ずと答えは浮かぶが、口には出さない。


野江の死は、真城組の溜飲を下げるには最も効果的となった。宇木の叔父貴を戻したかった俺は、野江が行方不明になった時点で手打ちとしたが、真城組の連中の怒りは収まらず、話は難航、今回ようやく、その真城組の怒りも収まったようだった。


数がだいぶ減ってしまった宇木組も、若頭を変えた七尾組も緑翔会へと戻し、マサが残した真城組も残る。懸念は皆無かと問われれば、答えはいいえだが、それでも緑翔会は一致団結し、組織を復興させようと手を取り合うようになっていた。


何とも不思議なものだった。誰かが敷いたレールの上を走っていて、そしてそれが最善であると言われている状況が。しかしこれ以外の方法で、緑翔会が再び纏まる方法が思いつかないのだ。緑翔会は手を下さず、野江についた組員が事故死と判断され、野江自身は自殺と処理される。うちの組の関係のないところで、敵が消えた。野江が生きていればもっと戦争は激化し、うちのダメージも計り知れなかったろう。それも最小限に済んだと言っても過言ではないのだ。


その絵図を描いた男は、きっと、今頃どこか遠く離れた地にいるのだろう。もしかしたら、あいつ自身は一生俺には会うつもりなんてないのかもしれない。そう雪が舞う外を眺めて溜息を吐いた。


お前のお陰で助かった。お前のお陰で、緑翔会も危機を脱して、大きく成長できるだろう。でもお前のいない世界は、あまりにも淡々と空虚に過ぎていく。色も温度も失くした日々の中で、俺は一歩も前に進めない。空っぽの時間だけが流れ、俺はその中に取り残されているのだ。それでも下火になった緑翔会は再び浮かび上がり、年月は静かに過ぎていった。マサと離れてからの5年という歳月は、永遠のように長く感じたが、それでも時は平等に流れて行くもので。



「……就任、おめでとう。後は頼んだぞ、御影」



「はい、五代目が守り抜いた緑翔会、私が責任を待って守ります」



俺は静かに役目を終え、その座を御影に渡した。春と初夏の間、暖かな空気を肺に押し込んで、俺はうんと伸びをする。航空券と一枚のフェリーのチケットを握り締め、本家の屋敷を後にした。





夏が終わり、冷たい秋風が頬を撫でる季節、穂花さんを見つけた。彼女を探すのには苦労した。田舎街にある、場末の小さなスナックで彼女を見つけた時、彼女はきっと殺されると思ったのか、それとも父親の元に連れ戻されると思ったのか、ひどく怯えた顔をしていた。俺としては詫びだった。彼女には一年間、苦しい思いをさせてしまったのだから、申し訳なかった、という気持ちだった。ボストンバッグに詰めた金と、サイン済みの離婚届を彼女に差し出すと、彼女の目はギョッとしたように見開かれる。武田という男から貰ったのだろう、左手の薬指には小さなパールが嵌め込まれた、細いゴールドリングが輝いていた。



「どうか、お幸せに」



そう頭を下げると、彼女は眉を顰めて弱々しく笑った後、こくりと頷き、白い歯を見せて、「どうか、正允さんも」そう言ってくれた。


彼女の前から去ったのが、もうどれくらい前になるだろう。彼女を見ると、ふと、そんな事を思い出す。彼女は今、幸せそうに家族と過ごしている。観光地でもない小さな離島に、彼女が子供と夫の武田と共に島にいたのには心底驚いた。どうやら武田の父方の親戚が、この離島にいるようだった。武田という男を見た事がなかったが、元極道という言葉に疑問を抱くほど、優しそうな男であった。俺は彼女には姿を見られないよう、その場を後にした。


小さなアパートの一室で、ぼうっと次の引越し先を考える。俺の事を知っている人と関わりのある場所に、長居はできないからだった。居心地の良い場所ではあったが、近いうちにどこかへ引っ越さなければならない。隣の島なんてどうだろうか。いや、いっそ遠くへ行くのもありかな。西の諸島なんて魅力的か。そう考えながら、まだ読んでいなかった朝刊を手にして、コーヒーを啜る。へぇ、あの大臣は辞任したのか。あ、連日騒がれてたあの市長が、ついに賭博で逮捕されたんだ。目で文章を追っていた。そしてひとつの記事に、俺は目を見開いた。あまりにも驚いた。


そうか、……引退、したんだ。


ふっと頬が緩んだ。無意識に口角が上がり、目尻が下がる。肇さんも堅気になったんだ。


窓を開けて、清々しい空を眺める。温かく、優しい風が頬を撫でた。晩春と初夏の間、心地の良い季節だ。ゴデチアが咲く、美しい季節。肇さんのこれからは、うんと幸せだと良い。うんと、人生を楽しんでくれれば良い。俺にとってはあの人の幸せが何よりの幸せであり、喜びだから。


でも、願わずにはいられない。俺はここにいる。だから、堅気のあなたに、同じ世界に来たあなたに、もう一度会いたい。もう一度触れたい。


覚えているだろうか。離島で、小さな一軒家、縁側に座布団敷いて、猫もいて。俺は新鮮な野菜で料理を作って、もちろんアンチョビも加えて。そんな夢物語を語った事を。良い酒片手に、昼から飲めたら幸せだろう。あなたといる事は、どうしようもないほどの幸福だ。夢のまた夢のような途方もないアレコレを想像しながら、新聞を閉じ、窓の木枠にコツンと頭を寄せて、左手を太陽に翳す。


やっぱり左手の薬指には、大きいんだよなぁ。


………

……


畑の植え付け作業の休憩時間、俺は暇を持て余すように、畑の端で冷えた麦茶を飲みながら、泥で汚れた指輪を磨き、薬指に嵌め直していた。そしてポケットからゴデチアの栞を取り出してぽつりと呟く。



「肇さん、御生誕、おめでとう御座います」



本人には届く事のない祝いの言葉を呟くのも、今日で何度目だろうか。そう考えていたその時、腰の曲がった農園主が、珍しく畑へと出て来て、俺の方に向かって来るのが見えた。誰かもうひとりを後ろに連れて歩いている。



「おーい、田中さーん。お客さんだぁー」



俺に客人…? 身構えずにはいられない。刺客か、否か。こんな所で流石に騒ぎは起こしたくないが…。そう腰を上げて目を凝らす。春の陽気と言うには強すぎる日差しに客人は目を細めていた。男は真っ黒な髪を軽く後ろに撫で付け、白い麻のシャツの胸元を少し肌蹴させ、暑そうに袖を捲り、筋肉質な長い腕を見せていた。長い脚には深い紺色のジーンズ、年季の入っていそうな革のサンダル。その客人とやらが近付き、シルエットがはっきりすると、途端に呼吸が止まった。時間も止まった。思考ももちろん止まった。俺は一瞬して身動きができなくなっていた。



「……よう」



男は目の前に来ると、そう言って片手を上げる。心臓が耳元で騒がしく鳴り響く。動揺を隠せずにいると、農園主のじぃさんが、「飲んでけぇ」とこの島でしか見た事のない派手なパッケージの甘い缶ジュースを、男と俺に手渡して来た道を戻って行った。



「……精が出るな、田中サン」



男はカシュッと音を立てて缶を開けると、泥だらけの俺を見て笑う。一口飲んで、「何だこれ、甘ッ」と目を丸くしていた。


何かを言おうとしては、言葉が喉につっかえた。色んな感情が一気に脳を支配して、どうすべきかと行動を考えているうちに、頭はショートする。落ち着けと言い聞かせながら、息を深く吸って深く吐く。そしてまずは言わなきゃならない事があるだろうと、頭を深々と下げた。



「お疲れ様でした、肇さん」



肇さんは少し照れ臭そうに目を細めると、「ありがとう」と笑った。顔を上げるとそっと俺の左手を取り、小首を傾げながら、トンとそれに触れる。



「これは右手の中指に嵌めるのが丁度良いって言ったろう?」



また肇さんに触れられた、それだけで感無量なのだ。ツンと痛み出す鼻先と、赤くなっているだろう瞳、俺は眉根を寄せながらも、精一杯微笑みながら肇さんを見つめる。



「ここに着ける事に、意味があるんです」



絞り出した言葉に、肇さんは「そうか」と見た事がないくらい穏やかに優しく笑ってくれる。



「なら、これから作りに行こう。ちゃんと、お前用のやつを。先代もその方が良いって言ってると思うぜ?」



そう言って顎で指輪を指すから、俺は目を見開いてしまう。



「こ、これからですか?」



「そ。あのじぃーさんとは話し付いてる。お前を攫って良いって許可は貰ってるんだ。さ、荷物纏めてさっさと行こう。フェリーとは名ばかりの小船はもうすぐ最終便だ。あの船、とんでもなく揺れるんだよなぁ…」



肇さんは来た道に視線を戻して、早く行こうと促してくる。とは言え、何もかもが急だ。



「ちょっと、え? いや、荷物は引っ越そうと思ってたんで纏まってますけど、…そうじゃなくて、話し付いてるって、契約は終わってませんし、いくら渡したンですか。俺はきっと高いはずです」



この俺が安い訳がないと、冗談混じりで肇さんを見つめると、肇さんはケタケタと笑い出し、「安くはねぇな」と白い歯を見せる。



「でも、引っ越そうと思ってたんだろ?」



「まぁ、はい…。この島に、知人の家族がいるようだったので」



「知人?」



「穂花さんです。穂花さんの夫、武田の家族が島にいると分かったんです。家族三人で幸せそうにしていましたよ」



「ふふ、そうか。安堵した顔をしてんな」



「そりゃぁ、まぁ。穂花さんには辛い想いをさせてしまった事に変わりありませんから」



「…すまなかったな。結婚しろ、なんて言ってさ」



「い、いえ。あなたの為なら、何でもすると決めた身ですので」



肇さんは困ったように弱々しく笑うと、首を少しだけ傾けて俺を見つめた。



「その言葉、今でも有効なのか?」



「…え?」



「俺の為なら何でもするって言葉」



俺はこくりと頷いた。当たり前だと咄嗟に思った。



「はい。もちろんです」



肇さんはその言葉を聞くと白い歯を剥き出し、「それなら、」と言葉を続ける。



「俺について来てくれないか? 今すぐお前を連れ去りたいんだ」



俺に選択肢なんかあるものか。



「街に戻ったら、観たかったあの西部劇のリメイク版、一緒に観れますか。結局映画館で観れませんでしたから」



「DVD借りて、な?」



「今はネットで何でも観れるんですよ」



「味気ないだろー。やっぱレンタル屋行って、あーでもない、こーでもないって言いながら借りるのが良いんだろ」



「ふふ、街にいる間はそれで良いですけどね、俺が住みたい離島にレンタル屋なんてありませんよ」



「えー、そうなの? お前、どこに行くつもりだっんだよ」



「ここから更に西にある諸島のひとつです」



「諸島ねぇ。そこに永住するなら、縁側付きの平屋、買わなきゃならなねぇなぁ。あと座布団と猫。…でもその前に、一旦街。それからだな。うーんとふたりで楽しもうぜ? これからの人生をさ」



肇さんは屈託なく笑うと目を細める。その愛らしい笑顔を見ながら、俺の感情は唐突に溢れそうになった。泣くものかと涙を堪えて頭を下げるが、どうしたって声が震えてしまう。



「………肇さん、…ありがとうございます」



「馬鹿、感謝すんのは俺の方であってお前じゃねぇよ。俺の方こそ、ありがとう」



肇さんもぺこっと軽く頭を下げ、俺の様子を伺うが、俺があまりにも頭を上げないもので不安になったのだろう。



「ど、どうしたよ?」



そう顔を覗き込む。グズッと鼻を啜りながら、俺はポケットから栞を取り出した。俺にとって大切なお守りだ。



「お守りの効果、ありましたね」



「お守り?」



「…これ、肇さんから貰ったゴデチアの栞です。お守りに、って言ってたでしょう? まぁ、目が見えないから、って話しでしたけど。でも今もこうしてお守り代わりに持ち歩いてンです」



「それ、まだ持ってたのか」



「はい。あなたから貰ったものなんです、捨てるわけがありません。あなたがこんな風に栞にしてたなんて、想像もしていませんでしたよ」



瞬間、肇さんに腕を引かれて長い腕に包まれた。優しくて、爽やかな香水の香りを嗅ぎながらも、今の自分は汗と泥まみれで、肇さんの真っ白なシャツを汚してしまうと咄嗟に焦って体を捩るが、その力強い腕は離れそうにもない。



「は、肇さん、あの…」



肇さんの抱き締める力は一層に強くなり、離さないと言われているようだった。俺はこの人の腕の中にいる事に対して、どうしようもなく満たされていた。広い背中に腕を回して顔を埋めると、肇さんはぽつりと呟いた。



「……待たせたな」



我慢の限界だった。景色が歪んで見え、鼻水が垂れてくる。啜っても鼻は垂れ、涙は肇さんのシャツにシミを作ってしまった。



「指輪、買ったらちゃんと伝えたい事がある」



「……俺に、ですか」



「お前以外に誰がいるんだよ」



「…元極道の俺に、甘い言葉でも掛けてくれるんですか」



「おう。元極道が、元極道に、甘ったるい言葉を何の恥じらいもなく言うからよ、しっかり受け取ってほしい。俺はさ、きちんと言葉に出して言いてぇの。…長い道のりだったからな」



「本当に、長い道のりでした」



体を離すと、肇さんはじっと正面から俺の顔を見つめた。



「あの、さ」



「はい」



「俺の事はまた肇って呼んでくれないか。タメ口も使って、同等で、主従もない。また、あの日々みたいに俺に甘えてくれ」



あの時は記憶が無かったから呼び捨てにも出来たし、タメ口で話せたが…。



「……記憶が戻ってますから、ちょっと、それは…」



「もう会長でもなけりゃぁ、カシラでもねぇんだからよ」



「そう、です、けど…」



「ん?」



肇さんの片眉がキュッと上がる。俺はしどろもどろと口を開いた。



「そう、だな……、タメ口、だな」



肇さんは嬉しそうに、「おう」と目尻に皺を刻んで笑うと言葉を続けた。



「で、お前の気持ちもちゃんと聞かせろ」



その言葉を受け取って、俺は再び深呼吸をした。じっと肇の瞳を見つめると、肇も俺の瞳を見つめ返してくれる。



「俺は今も昔もこれからも、ずっと、あなただけのものだ。だからこの先は、あなたから離れないし、あなたを離したくない。……肇、俺はあなたの隣にいたい。ずっと、ずっと」



肇は少し驚いたように目を見開くと、照れたように頭を掻いた。その頬は若干赤くなるものだから、笑ってしまった。



「……… 指輪、作る前にホテル行くぞ」



「もちろん。あ、でもその前に、花屋に寄って良いかな」



「花屋…?」



今日が何の日か、この人はどうやら忘れているらしい。



「そう。花屋。ありったけのゴデチアを集めないと。…今日は良い日だな、肇?」



ふっと笑うと、肇は数秒間考えた後、「あー」と間の抜けた声を上げた。



「忘れてた。すっかり忘れてた。でも、とんでもなくドでかい誕生日プレゼント貰えて幸せだよ」



「ふふ、ドでかい誕生日プレゼント、か」



「あぁ、ドでかいんだ。…なぁ、理充」



「は、はい…」



理充、なんて呼ばれたら緊張してしまう。タメ口で、なんて言われたが、さすがに咄嗟に「はい」と答えてしまうと、肇さんは優しく目尻を下げて俺の腕を掴んだ。



「もう、離さねぇからな」



その言葉の破壊力たるや。緊張に緊張が重なっていくようだった。



「は、はい」



「…はい?」



「あ、っと…、つい、な。でも、うん、離さなくて良い。だからこれからはふたりで生きよう」



「そうだな」



肇は真っ青な空を眺めると、優しく口角を上げる。



「……突き抜けるような晴天の空、良い日だ」



本当に、どうしようもないくらいに良い日だ。


俺は肇の隣に肩を並べ、ふたりでゆっくりと歩き出す。これからの人生を考えては、どうしたって頬が緩んで、心が温かくて、口角が上がったまま戻りそうにもない。こんな顔になってしまうのは、いつぶりだろう。いや、生まれて初めてだろうか。


この人の隣に、何のしがらみもなくいれる事は何よりも幸せな事なのだ。やはり俺が欲しかった関係は、これだったのだろう。左側に立つ肇の掌にそっと触れると、肇は照れたように眉を下げながら、その指先を触れ返す。街に戻ったら、まずは花屋。そう考えながら、指と指の間に指先を滑らせた。掌を重ねると、思っていたよりもずっと温度の高い熱があった。その熱を確かめるように、互いの指をゆるりと絡めた…。










『ゴデチアをあなたに』

End

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