シルバーロマンス

ニギアカガネ

シルバーロマンス(1話完結)


 私は大学三年の春を迎えていた。講義に、課題に、友人たちとの他愛ないおしゃべり。

 そんな日々の中で、ひときわ心を惹かれる時間がある。村瀬教授の講義だ。

 わかりやすい言葉と、静かで端正な佇まい。その姿に、憧れ以上の感情を抱いていることを、私は否定できなかった。

 けれど、祖母の澄江の看病に追われる今の私には、その気持ちを確かめる余裕もなかった。


 祖母は七十八歳。長いあいだ持病とつきあい、通院を続けている。

 そんな祖母には、ひそかな楽しみがあった。かつての初恋の人、幸蔵さんとの文通だ。

 祖父が亡くなって十年ほどたった頃、偶然に再会した二人は、懐かしい日々をたどるように手紙を交わすようになり、

 それは五年にわたって続いていた。祖母はそのやり取りを、とても大切にしていた。



 ある日、私は祖母に提案した。

「おばあちゃん、手紙だと届くまでに日にちがかかるでしょう。スマホでメールにしたらどう?」

 最初はためらっていた祖母も、やがて頷き、幸蔵さんも同意してくださった。

 そうして二人の交流は、文字の往復が一層速くなるメールへと移っていった。


 文通からEメールへ。二人は若き日の心をもう一度取り戻したかのように、嬉々として言葉を重ねた。

 澄江にとってその時間は、病を忘れさせるほどの希望だったのかもしれない。

 だが、静かな日常に、やがて影が差した。祖母の体調は少しずつ、しかし確実に悪化していったのだ。


 私は信じていた。祖母はまた元気を取り戻すと。

 私は祖母になり代わりメールを打つようになった。そんな日が少しずつ増えていった。

 祖母に倣い、祖母ならこう答えるだろうと想像しながら文章を綴った。

 幸蔵さんの返事からは、律儀で、気品を感じさせる人柄が伝わってきた。

 背筋をすっと伸ばして話す姿が思い浮かぶ。きっと祖母は、そんな人をずっと心に抱いていたのだろう。


 本当のことを伝えるつもりだった。だが、折を見失ううちに季節が巡り、一年が過ぎてしまった。

 その間に、祖母は容体を崩し、そして静かに息を引き取った。


 葬儀の知らせを送るとき、私は幸蔵さんに真実を告げる勇気を持てなかった。

 結局は「澄江の孫」として、淡々と連絡するしかなかった。

 心の中には、後悔が重く沈んでいた。なり代わってメールをしたこと。騙すような真似をしてしまったこと。

 祖母なら許さなかっただろう。それでも、葬儀が終わったら最後のメールを送ろう。そう思っていた。


 ◇


 葬儀が終わり、私は日常に戻った。

 寂しさに心は穴のように空いていたが、生活は待ってはくれない。

 そんなとき、不意に祖母のスマホにメールが届いた。差出人は幸蔵さんだった。


“澄江さんのご家族の方ですか? 大変恐縮ですが、お線香をあげさせていただけませんか。

 訳あって葬儀には参加できませんでした"


 短い文面に、誠意がにじんでいた。


"ぜひお願いします。祖母も喜ぶと思います"


 私は、それだけを返すのが精一杯だった。会ったときに、すべてを話そう。そう決めた。


 そして当日。玄関の前に立っていたのは、思いがけない人物だった。


「村瀬教授……?」


 驚きのあまり声が震えた。

「君は……佐伯さん? 澄江さんのご家族だったのですか」

 教授もまた、私を見て目を丸くしていた。

「村瀬幸蔵は私の祖父です。私はその孫、村瀬悠真です」


 応接間に通し、私は切り出した。

「実は、幸蔵さんに謝らなければならないことがあるんです」

 しかし教授は、それに被せるように言った。

「私からも謝罪と報告があります」


 教授の口から語られたのは、驚くべき事実だった。

「実は、一年ほど前から、祖父になり代わって私がメールを送っていました」


 頭が真っ白になった。なり代わっていたのは私だけではなかったのだ。

 教授は静かに続けた。

「祖父は、澄江さんの余命を知らされた数日後、病で他界しました。

 もしそれを伝えたら、澄江さんが気を落としてしまうかもしれない。

 だから私が、祖父の名を借りて、最期までやり取りを続けようと」

 教授の声には深い悔いと、優しさが混じっていた。


 私は思わず言葉を返した。

「教授……お気遣い、本当にありがとうございます。でも、謝らなくてはならないのは私の方です。

 私も祖母の代わりに、祖母を装ってメールを送っていました。すみません」


 応接間の空気は一瞬、重たくなった。だが次の瞬間、二人とも思わず苦笑していた。

 真実を告げることが正しさなのか、それとも覆い隠す優しさこそが正しさなのか。

 答えはわからない。ただ、澄江と幸蔵が願ったのは、互いの心が最後まで寄り添うことだったのかもしれない。


 しばしの沈黙の後、教授が口を開いた。

「……では、佐伯さん。差し支えなければ、今度お詫びのしるしに食事でも。もちろん断っていただいても構いません」

 その声音は、どこか照れを含んでいた。

 私は小さく頷いた。

「ぜひ、お願いします」


 応接間に射し込む午後の光が、柔らかく二人を包み込んだ。

 互いに背負った秘密も、語り合うことでようやく重さを減じていく。

 その日の別れ際、私は思った。きっと祖母も幸蔵さんも、遠いところで微笑んでいる、と。


 夜。静かな部屋でスマホを手に取った。

 もう祖母のアドレスにメールが届くことはない。けれどこれからは、教授と、私自身の言葉でやり取りをしていける。

 そう思うと、胸の奥に小さな灯が灯った。


 未来はまだ定まっていない。

 けれど、あの日の告白が、新しい扉を開いたのだと私は信じている。


 完

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