シルバーロマンス
ニギアカガネ
シルバーロマンス(1話完結)
私は大学三年の春を迎えていた。講義に、課題に、友人たちとの他愛ないおしゃべり。
そんな日々の中で、ひときわ心を惹かれる時間がある。村瀬教授の講義だ。
わかりやすい言葉と、静かで端正な佇まい。その姿に、憧れ以上の感情を抱いていることを、私は否定できなかった。
けれど、祖母の澄江の看病に追われる今の私には、その気持ちを確かめる余裕もなかった。
祖母は七十八歳。長いあいだ持病とつきあい、通院を続けている。
そんな祖母には、ひそかな楽しみがあった。かつての初恋の人、幸蔵さんとの文通だ。
祖父が亡くなって十年ほどたった頃、偶然に再会した二人は、懐かしい日々をたどるように手紙を交わすようになり、
それは五年にわたって続いていた。祖母はそのやり取りを、とても大切にしていた。
◇
ある日、私は祖母に提案した。
「おばあちゃん、手紙だと届くまでに日にちがかかるでしょう。スマホでメールにしたらどう?」
最初はためらっていた祖母も、やがて頷き、幸蔵さんも同意してくださった。
そうして二人の交流は、文字の往復が一層速くなるメールへと移っていった。
文通からEメールへ。二人は若き日の心をもう一度取り戻したかのように、嬉々として言葉を重ねた。
澄江にとってその時間は、病を忘れさせるほどの希望だったのかもしれない。
だが、静かな日常に、やがて影が差した。祖母の体調は少しずつ、しかし確実に悪化していったのだ。
私は信じていた。祖母はまた元気を取り戻すと。
私は祖母になり代わりメールを打つようになった。そんな日が少しずつ増えていった。
祖母に倣い、祖母ならこう答えるだろうと想像しながら文章を綴った。
幸蔵さんの返事からは、律儀で、気品を感じさせる人柄が伝わってきた。
背筋をすっと伸ばして話す姿が思い浮かぶ。きっと祖母は、そんな人をずっと心に抱いていたのだろう。
本当のことを伝えるつもりだった。だが、折を見失ううちに季節が巡り、一年が過ぎてしまった。
その間に、祖母は容体を崩し、そして静かに息を引き取った。
葬儀の知らせを送るとき、私は幸蔵さんに真実を告げる勇気を持てなかった。
結局は「澄江の孫」として、淡々と連絡するしかなかった。
心の中には、後悔が重く沈んでいた。なり代わってメールをしたこと。騙すような真似をしてしまったこと。
祖母なら許さなかっただろう。それでも、葬儀が終わったら最後のメールを送ろう。そう思っていた。
◇
葬儀が終わり、私は日常に戻った。
寂しさに心は穴のように空いていたが、生活は待ってはくれない。
そんなとき、不意に祖母のスマホにメールが届いた。差出人は幸蔵さんだった。
“澄江さんのご家族の方ですか? 大変恐縮ですが、お線香をあげさせていただけませんか。
訳あって葬儀には参加できませんでした"
短い文面に、誠意がにじんでいた。
"ぜひお願いします。祖母も喜ぶと思います"
私は、それだけを返すのが精一杯だった。会ったときに、すべてを話そう。そう決めた。
そして当日。玄関の前に立っていたのは、思いがけない人物だった。
「村瀬教授……?」
驚きのあまり声が震えた。
「君は……佐伯さん? 澄江さんのご家族だったのですか」
教授もまた、私を見て目を丸くしていた。
「村瀬幸蔵は私の祖父です。私はその孫、村瀬悠真です」
応接間に通し、私は切り出した。
「実は、幸蔵さんに謝らなければならないことがあるんです」
しかし教授は、それに被せるように言った。
「私からも謝罪と報告があります」
教授の口から語られたのは、驚くべき事実だった。
「実は、一年ほど前から、祖父になり代わって私がメールを送っていました」
頭が真っ白になった。なり代わっていたのは私だけではなかったのだ。
教授は静かに続けた。
「祖父は、澄江さんの余命を知らされた数日後、病で他界しました。
もしそれを伝えたら、澄江さんが気を落としてしまうかもしれない。
だから私が、祖父の名を借りて、最期までやり取りを続けようと」
教授の声には深い悔いと、優しさが混じっていた。
私は思わず言葉を返した。
「教授……お気遣い、本当にありがとうございます。でも、謝らなくてはならないのは私の方です。
私も祖母の代わりに、祖母を装ってメールを送っていました。すみません」
応接間の空気は一瞬、重たくなった。だが次の瞬間、二人とも思わず苦笑していた。
真実を告げることが正しさなのか、それとも覆い隠す優しさこそが正しさなのか。
答えはわからない。ただ、澄江と幸蔵が願ったのは、互いの心が最後まで寄り添うことだったのかもしれない。
しばしの沈黙の後、教授が口を開いた。
「……では、佐伯さん。差し支えなければ、今度お詫びのしるしに食事でも。もちろん断っていただいても構いません」
その声音は、どこか照れを含んでいた。
私は小さく頷いた。
「ぜひ、お願いします」
応接間に射し込む午後の光が、柔らかく二人を包み込んだ。
互いに背負った秘密も、語り合うことでようやく重さを減じていく。
その日の別れ際、私は思った。きっと祖母も幸蔵さんも、遠いところで微笑んでいる、と。
夜。静かな部屋でスマホを手に取った。
もう祖母のアドレスにメールが届くことはない。けれどこれからは、教授と、私自身の言葉でやり取りをしていける。
そう思うと、胸の奥に小さな灯が灯った。
未来はまだ定まっていない。
けれど、あの日の告白が、新しい扉を開いたのだと私は信じている。
完
シルバーロマンス ニギアカガネ @nigiakagane
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