終章:微かな光

 外壁送りから数週間が過ぎた。

 居住区の人々の口から、すでに「カナ」という名は消えつつあった。

 日々の労働、酸素分配の儀式、循環する生活。彼女の存在は波紋を立てたが、やがて水面に吸い込まれるように沈んでいった。

 共同体は忘却によって生き延びる。誰もがそれを知っていた。


 通路を歩く長老アミエルの姿は以前と変わらなかった。冷徹な仮面をつけ、人々を見下ろし、秩序を保つ象徴であり続けた。

 だが彼の心の奥では、あの夜の眼差しがいまだに燃えていた。

 祈りを口にしても、その光は消えなかった。

 「これは正しい。これしかない」と繰り返す声の背後で、別の声が囁いていた。

 ――本当に、これしかないのか。



 一方、エリオは人々の中に紛れ、目立たぬように働き続けていた。

 端末の奥に眠る暗号化ファイルは、誰にも知られていない。

 彼は毎夜それを開き、数字の羅列を眺めた。

 酸素は安定していた。虚構は虚構のままだった。

 だが、その記録は確かに存在していた。


 「誰も見つけなくても構わない」

 エリオは自分にそう言い聞かせた。

 「それでも、残すことが意味だ」


 カナの笑みを思い出すたび、胸に痛みが走った。

 しかし、その痛みはもはや耐え難いものではなく、彼の呼吸の一部になっていた。



 コロニーの外には、永遠の真空が広がっている。

 逃げ場はなく、掟は続く。

 虚構は力を持ち、共同体を縛り続けるだろう。

 希望は微かすぎて、まるで存在しないかのようだった。


 それでも――

 夜の居室で、エリオの端末が小さく瞬いた。

 暗号化されたファイルの奥で、無数の数字が淡く光を放つ。

 それは人には見えず、声も持たない。

 だが確かに、消えぬ火のように存在していた。


 その光は、真空よりもなお冷たい沈黙の中で、誰にも知られぬまま、静かに燃え続けていた。

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真空の掟 天上天下全我独尊 @TianshangTianxiaQuanWoDuZun

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