幕末奇譚「最後の侍たち」―武士道、散りてなお

青島日向

第1話 黒船の影

嘉永六年六月、江戸・品川沖。


海の彼方より現れた四隻の巨船は、黒き怪物のごとき姿を晒していた。

町人も百姓も、武士すらも、その異様なる姿に息を呑み、ただ黙して空と海を見比べるばかりであった。

黒い煙を噴き上げ、鉄の塊のように動くその船を、人々はただ「黒船」と呼んだ。


その群衆の中に、一人の若き武士が立っていた。

榊原隼人――三十に手が届くほどの歳。小藩の郷士に生まれ、剣をもって立身を夢見たが、藩内のしがらみと冷遇に苦しみ続けてきた男である。

彼の眼差しは、群衆の恐怖にも似たざわめきとは異なり、静かに、しかし深く揺れていた。


「――これが、時代というものか」

隼人は小さく呟いた。


黒船の甲板に並ぶ異国の兵士たちは、遠目にも異様であった。異国の旗がはためき、太陽を遮る黒き煙が江戸の空を覆う。

それは、長き泰平に慣れ切った日本にとって、避けがたい裂け目の兆しであった。


その夜。江戸の町は普段と変わらぬ灯火をともしていたが、酒場には異様な熱が漂っていた。

攘夷を唱える浪士たちが声を荒げ、盃を打ち鳴らしながら議論を戦わせている。


「異国を追い払わねば、この国は奴らに呑まれる!」

その先頭に立つのは、隼人の旧友・岡田新太郎であった。

かつて共に剣を学び、共に志を語った仲。しかし今やその瞳は激情に燃え、血を求める色を帯びている。


隼人は盃を置き、低く諭すように言った。

「武士道はただ異国を斬ることにあらず。己を律し、義を守ることにこそある」


新太郎は嘲るように笑った。

「義? 律? そんなものは安穏の中で眠る言葉だ。国が奪われるとき、剣を取らぬ者は死んだも同然よ!」


二人の間に、取り返しのつかぬ溝が刻まれた瞬間であった。


家に戻れば、妻・志乃が灯火の下で縫い物をしていた。幼子は母の膝で眠っている。

志乃は夫の顔を見つめ、不安げに問いかけた。

「隼人さま……この国はどうなってしまうのでしょうか」


隼人は答えに窮し、しばし黙した。やがて、幼子の寝顔に目を落としながら静かに言った。

「……武士の道を外さぬ限り、我らは生きられる。たとえ世が乱れようとも」


だが、その声には確信の響きがなかった。彼自身が最も強く、時代の奔流を感じていたからである。


月の冴え渡る夜。隼人は偶然、新太郎ら浪士の密会を耳にする。

「異国人を斬り伏せ、江戸を守るのだ!」

血気盛んな声が響き、剣が抜かれる音が夜気を裂いた。


隼人は闇に身を潜めながら、己の運命を悟った。

友情と忠義、理想と現実――それらが鋭い刃となって、彼の胸を切り裂こうとしていた。


やがて浪士たちに気づかれ、月光に照らされた庭先で隼人は囲まれる。

旧友・新太郎が剣を抜き、叫ぶ。

「隼人! おぬしもこの国の武士ならば、共に血を流せ!」


隼人の手は自然と刀の柄にかかっていた。

風が鳴り、木々がざわめく。

刃と刃が交わる瞬間、幕末の物語は静かに動き始めた――。

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