記録:少女A'

玄道

少女A'──罪と罰──

 モノクロかセピアか、判別のつかない稲穂の海。

 

 それが"私"の最初の記憶。


 二十世紀最後の年──。


 母の腹を裂くやり方で、私はこの世に生を受けた。その事を話すと父は怒鳴った。


 誰が、どんな意味で私の名を七海ななみとしたのかは、今もわからない。


 ただ、同学年に四人『七海』がいたので、ありきたりな名なのだろう。


 ◆◆◆◆


 数年家で過ごし、それから保育園に通い始めた。


 私は、仕事に向かう母を泣き叫んで呼んだ。彼女は車に乗りこむ。


 そして、働いてくたくたになって園に向かい、最後まで残った我が子に泣き付かれる。


「七海ちゃん、また癇癪がひどくて……薬まで使ってしまいまして」


 保育園の先生は、そう母に謝る。私はひたすら泣いた。


「すみません……ほら、なっちゃん、帰るよ?」


 暗い道を、家へと運転する。途中で、お菓子を買う。


 それが日課となっていた。

 

 家路につく車内で、FMラジオだけが、二人の間をすり抜けるように流れていった。


 母の影が、ポツリと呟く。


「七海、何を考えてるの?」


 ──これは、本当に私のお母さんなのかな。


 ──私は、本当にここの家の娘なのかな。


 ◆◆◆◆


 家に帰ると、父と祖父が肩を組み、赤くなって帰宅する。その帰宅手段について私は知らない。


 祖父は、頻繁に私を軽トラックに乗せてくれた。そして、近所の店での私のツケを、時折精算していたと聞く。


 病に倒れる前の彼は、とにかく優しい祖父であった。


 後で祖母から聞いた話だが、彼女が相撲に夢中になる横で、祖父は「何が楽しいんだ?」と繰り返したそうだ。


 ──祖父と父……親子だな。


 今では、そうとしか感じない。我ながら薄情だ。


 その祖母は、よく近所の今で言うコンビニのような店に連れて行ってくれた。祖父がツケを払った店だ。


 彼女は、私の浪費を「あらお巡りさん」の台詞で回避する頭の良い人であった。


 その機知は、私の矮小な人格に遺伝することはなかった。


 ◆◆◆◆


 祖母の側の親類の少年が、よく遊びに来ていた。それが初恋である。


 兄のように慕っていた少年だった。


 私は彼を慕っていたが、私から悪戯ばかり仕掛けていた。書くことすら憚られる。


 それでも彼は我が家に通っていた。


 味を占め、悪戯は毎度の事となった。


 恐らくこれで地獄行きのチケットを手にしたのだろう、悪因悪果とはこの事だ。


 彼とはしゃいで出掛けた帰りに、書き置きがあった。


 祖父が倒れたのだ。


 以来、一家は苦労することとなる。


 そして、娘のことで苦労は深まっていく。


 ◆◆◆◆


 四歳の時、弟が産まれた。


 彼は最初から保育園に預けられた。


 思えば、彼がマトモに育ったのはその事に起因している。


 社交的で明るい、姉によく懐く子供。それが幼少期の彼だ。

 


 保育園での特筆する記憶は、トイレに恥ずかしくて行けず、漏らしたこと、それと、そこの園長が近所の方だと言うことくらいだ。


 今になって思えば、教育者として素晴らしい人物であった。


 ◆◆◆◆


 幼稚園。

 

 鮮明な記憶は三つ。

 

 犬の絵を描いて、町の文化祭に出展された。

 

 そのコメントをどうするか訊かれ、『犬の体の中を見てみたい』と書けと抜かしたのだから、その頃から異常だったのだろう。勿論コメントは修正された。


 もう一つは、近所の学習塾に通い始めた事。

 

 後に習熟度か何かで表彰されるくらいなので、まあ期待はされていた。


 その表彰式の帰り、ゲームセンターの心理テストの結果で叱られた。


『あんた! 女の子がこんな……ああもう!!』


 似たような話がある。


 幼稚園で、『武器は人を殺すもの』と発言して、親類から『酒鬼薔薇聖斗の同類』と言われたことは、今も呪いとなって、私を縛り付けている。その言葉が、私の存在を規定したと言ってもいい。


 自縄自縛だ。 

 

 最後は、小学校との合同であった運動会だ。

 

 新一年生のお披露目で、校庭を練り歩く際、両親の姿がない。

 

 ──あ、逮捕されたな。


 そして泣き喚いた。両親は車を移動させていただけだった。

 

 何故そう感じたのだろう、馬鹿としか言いようがない。

 

 

  小学校に上がった。

 

 テストは百点がほとんどだった。塾の成果だ。


 一年次に、転校間近の同級生から尻を触られ、蹴り飛ばした。当然問題になった。


 一度、担任の女教師がクラス全員の名前と罪状を読み上げたのを覚えている。それ程、私たち子供は、彼女の逆鱗に触れたのだろう。

 

 いつも本ばかり読んで、それなのに問題を起こす児童であった。図書室の司書の女性が当時の憧れである。


「せんせー、この本まだ貸し出し中?」


「こーら近藤こんどう、順番待ちくらいできなきゃ、中学で苦労するわよ?」


 そうしてぶすっとする私を、彼女は笑った。その笑顔が、凛としていた。


 その司書の方が結婚される時、お祝いの手紙を書くことになった。


 書けずに泣いた。書きたくなかったのだ。


 寝てもいないのに、寝取られた思いだった。我ながら思い上がりの甚だしい事だ。

 

 もっとも当時の私は、『寝取られ』という言葉など知らなかったが。


 今では、NTRなる略語すら理解している。時の流れを、こんな下らないことでも実感する。


 上級生の女子児童は、私をペットとして見る派閥と、虐めの対象として見る派閥に分かれていたらしい。少なくとも当人はそう見ていた。


『虐め派』ができた原因には心当たりがある。人気のロボットアニメのキャラを真似た髪型にしていたのだ。さすがにピンクに染めはしなかったが。


 他にも様々な要因のお陰で、よく苛められた。その頃『いじめ』は社会問題として表面化していたが、私には関係なかった。それが良かったか悪かったかは知らぬ。

 

 二年次の教師が、隣のクラスの教師と交代しないかと願っていたが、その教師も鬼だったと、後に他の児童から聞いた。


 書道の時間、毛筆を拭く紙の無い生徒は「右や左の旦那様」をするように命じられていた。当時は何の事かわからずにいた。


 無知とは恐ろしいものだと、今は心底思う。


 三年次、比較的楽な担任に当たった。


「勉強より、子供は遊ぶのが大事だからな」


 彼の記憶はそれくらいだ。


 三年生の頃は、音楽教師とよく話した。話題はアニメの事ばかりだ。音楽室といい、廊下といい、会えばそこはアニメ同好会の様相を呈した。


 当時放映していた日曜夕方のアニメで、序盤の父娘の悲劇について、私に意見を求めたのが、最も鮮明な彼女だ。話の詳細は失念したが、やけに理詰めで会話したのを覚えている。


 まだ小学生の私と、二十代の音楽教師が、生命倫理について会話する様は、端から見て異様だったろう。


 インターネットにもろくに触れたことすらない女子小学生が、だ。化け物だと思われたかもしれない。自覚はある。


 何年生の頃か記憶に無いが、従姉妹のクラスメイトが転校してきた。


 従姉妹とは仲の良い娘であったと記憶している。その内戻っていった。


 従姉妹から、「七海ちゃんと話してると、宇宙人と話してるみたいだ」と話していたと聞いた。後の事は分からぬ。


 六年生になった。


 修学旅行先の岡山で、夜を泣いて過ごし、同室の児童から迷惑がられた。


 後のネタにされたことは言うまでもない。


 当時、かなり悪どい児童がいた。


 校区外から来ていたと聞くので、何かやらかしたのかも知れない。家庭の事情であったかもわからない。

 

 真相は当人しか知らないだろう、聞きたくもない。


 彼と卒業で別れる時、ガッツポーズをしたのを覚えている。

 

 今でも殺してやりたい、そんな男だった。


 卒業式で、司書の女性も学校を去った。


 結婚してからも、変わらず生徒に接し、きちんと叱る人であった。


 その式で、卒業証書を持ったまま転倒し、笑い者になった。


 会場が焼け落ちる妄想をして己を慰めた。いっそ、核でも落ちてこの世が終わらないかとさえ願った。


 司書の女性が、はらはらした表情で私を見つめ、立ち上がると胸を撫で下ろすのを見て、己を恥じた。


 ──私は……私の方が死ねばいいんだ。


 この時、七海と呼ばれた少女は、A'となった。


 そして、卒業後の春休み、祖父が亡くなった。雨の日だった。当時は、死後の世界を信じていた。


 今はこうだ。


 ──サンタクロースと同じだ。神も仏も、地獄も天国も存在しない……死ねば灰と煙になるだけだ。


 ともあれ、遺体については人並みの反応を示した。教育の成果であろう。


 元従軍看護婦という、人の死に慣れた祖母が、臨終の際に最も気丈であったと記憶している。


 小学校の頃は、ともすれば里子に出されかねない事を他にも数多くやらかした。

 

 黒歴史、としか形容しようがない。

 

 ◆◆◆◆


 中学校。


 その頃我が家にパソコンが導入された。回線の向こうに広がる世界に、私は驚愕した。すぐにのめり込んだのは、言うまでもない。

 

 中学では陸上部であった。

 

 女子400M走を専門にしていた先輩が、当時の憧れだ。足の速い、王子のような少女だった。

 

 体育祭の時、調子に乗って応援団に入り、その先輩がいたので喜んだ。打ち上げで、二人で写真に収まり、しばらく有頂天になっていた。

 

 しかし私は、先輩の体操服の姓と、先輩の名前が一致しないのを不思議がるくらいには世間知らずであった。


 まったく単純な雌餓鬼だ。猿と言っても良い。


 先輩には、卒業後に一度だけ再会した。その頃開店したコンビニの制服を着ていた。


 私の憧れだった少女は、大人になっていた。


 化粧をした疲れた顔で、高校の制服に身を包む私に、釣りを渡した。


「先輩……私、中学の時先輩のこと」


「ごめんね、七海……私達、女の子じゃん、ね?」


 その目が、言っていた。


『気持ち悪い』


 こうして私は、二度目の始まりの無い破局を経験した。嗤うなら嗤えばいい。


 その頃、親類のお兄さんが大学生になっていた。


 更に魅力を増し、交際する女性もいた。

   

 私が実家を離れた後、結婚したと伝え聞くが、後は知らない。

 

 二年次、初めて自傷行為をした。


 手首に軽く刃を当て、赤い血が流れた。


 後になってクラスの暴れん坊にばれ、囃し立てられた。


 彼は二年次に転校して行った。それから先は知りたくもない。


 当時、中弛みとインターネットで成績が落ち、家族会議にかけられた。


 ──裁判だな。このまま、火炙りにされるのかな。ま、それも良いか。


 読んでいた本まで悪者にされたのだから恐ろしいものだ。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いという理屈だろう。


『新撰組の話なんぞ読みおって!!』


谷崎潤一郎たにざきじゅんいちろうの本だと!!』


 大人になってから、趣味で読書や執筆に励んではいるが、あの家にいては叶わなかったろうと思うと、寒気がする。


 結果として、高校受験では滑り止めに特A判定、本命にも合格した。


 誰かが、「B君は○○(私立の進学校)に受かったってよ」と溢したのを記憶している。

 

 合格発表の日、教師からの電話に歓喜し、小躍りした。


 卒業文集に『忘れたい記憶もあったけど』とふざけて書いたが、結局その事すら覚えている。


 他の生徒は絵や文章の素晴らしい頁を寄せていた中でのそれである。


 思えば、私の歴史には黒歴史しかない。

 

 ◆◆◆◆ 


 高校では帰宅部だった。


 放課後は、図書館で勉強ばかりしていた。

 

 人と遊ぶことの少ない少女であった。

 

 小遣いが申請制だったからか、社交性が欠落していたせいか。恐らく後者だ。そもそも図書館に入り浸るガリ勉と、誰がファーストフード店や、お洒落なショップに行くと言うのだろう。

 

 一年次の体力測定で、またもやらかす。


 それで、面白い女と思われたらしく、メガネをかけていたためにグラビアアイドルに準えた渾名を付けられた。


 それを聞き付けた他クラスの男子が、たまに覗きに来た。


「顔は……なあ。でもカラダは確かに」


 赤面して、本で顔を隠す日々が続いた。

 そのせいで、首から下を見物に来る男は後を絶たなかった。


 一年次の文化祭。

 

 クラスの壁紙に『眼鏡っ娘アイドル』と書かれていた事を、記憶している。

 

 その文言に、悪意しか見ない嫌な女であった。


 クラスで模擬店をし、調理担当だったので、私の感想は恐らく正しい。


 ホットケーキを焼いている最中、「えー、グラドルいるって聞いたんだけどー?」という声が聞こえたが、私には関係ない話だ。


 一年の時に英検二級を取得した。

 

 奨められても、それ以上を受けなかったのは、『試験会場が遠かった』事と『交通費の問題』が理由だ。

 

 ふざけた女だ。

 

 一年の体育祭に親を来させなかった。


 娘の方から「来るな」と言ったのだから酷いものだ。当日は保護者でごった返していた。


 当時買ってもらった携帯電話を使いすぎ、『何のために高校に行ってる?』と詰められた。


 母は『それとこれは関係ないでしょ!!』と言い、二人は対立した。

 

 そして、私の体は男の欲望を刺激するに足るものだと、思い知らされる事件が起きた。通学中、電車内での事だ。


「混んだ車内であのカラダ見ちゃあね」と、その男は証言したと聞く。


 家庭では犯罪者──それも加害者──扱いを受けた。


 学校で、女子は何も聞かずにいてくれたが、男子の噂は耳に入ってきた。


 家族と同じことを、彼らは考えていた。

 

 思い詰めた結果として、八月三十一日を命日にしようと決めた。

 

 ドアノブに、輪にしたベルトをかけ、じっと見つめていた。


 いつの間にか、私は眠っていた。

 

 次に目を開けると、アニメの通り『知らない、天井』であった。


 ──死後の世界……あったんだ。


 実際、私は発見され、N総合病院に搬送されたらしかった。


 誰もいない病室から、よろよろと出たことで、それがわかった。


 夜勤の看護師の方々が、菓子を振る舞って話をしてくれた。私の経験した事に、彼女たちは真剣に耳を傾けてくれた。

 

 そして、誰ともなくカミングアウトが始まった。


 看護師の性被害について、全く無知であった私の胸の方が痛んだ。


 私は初めて、祖父以外の他人のために泣いた。ひたすらに、後から後から涙が溢れた。


 ──私は、自分の痛みだけしか見えていなかった。


 彼女たちは強く、逞しく、優しかった。


「どうして、私は死のうとしてしまったんでしょう」


「死にたい時は、"死ぬこと"しか見えなくなるのよ。急に明るくなったり、人に感謝したり……で、ある日突然、ってのが多いわ。希死念慮に疑問を持てるようになったなら、ひとまず……ね」


 自殺未遂の女子高校生にしては、検査の結果は良好だという。あくまで体の話だ。


 "健全な精神"ばかりが健全な肉体に宿るものではない。私が実例だ。


 ◆◆◆◆


 閉鎖病棟で三度入院する。


 聞いていたような、危険な場所ではなかった。


 ただ、"これは……ああ。"と思われる患者もいた。


 同族嫌悪だろう。


 一度目の退院後、苛立った父が母に訊ねた。


「七海なんて捨てちまおう。施設探しとけ、でなけりゃ放り出しゃいい」


「あなたねえ!! あの娘がどんな思いで……もういいわ!!」


 ──やっぱり、助からなきゃよかった。


 恐らく二度目の時だ。


 一時帰宅時に焼き肉を食べに行った。


 ──そんなに嬉しいのかな?


 父が乾杯の音頭をとった。


「A''君(弟)の卒業を祝ってカンパーイ!」


 食べ終わると、夜の町を彷徨い歩いた。


 歩き疲れて帰ると、父は妙におどけた口調で言った。


「どう? 誰かひっかけて寝た? このメンヘラ女が」


 ──何で帰りに事故に遭ってないんだ? この糞親父。

 

 退院後、引きこもり生活が始まる。


 ◆◆◆◆


 監視のため、部屋は取り上げられた。


 両親の寝室に、粗末な仕切りを設けられ、こう言われた。


「寝てろ、トイレ行きたい時は言え」


 だらだらとFMを聞く日々。


 携帯電話も時間を決められていたので、なかなか投稿もできない。


 一度だけ、ローカル番組から連絡が来た。電話で出演しないかという打診だった。


 焦りに焦った。時間帯を考えれば、親が聞くことのない番組だ。


 ──助けを求めようか。


 結局、私の声は少しだけ電波に乗った。


 半分座敷牢の少女のSOSは、出せなかった。


『学校に行けない、病気の女の子』が少しだけパーソナリティと話すに留まった。


 精神科以外で、久しぶりに話す外の人間は、引きこもりに理解を示した。


 知人からの連絡は、一件だけあった。


『七海、学校来れなくなったの……私のせいじゃなかったんだ。ごめん、気付けなくて』


『ごめん、ミキ。携帯、時間決められてて。返信遅れた。心配してくれてありがとう』


 やり取りは、そこで途切れた。


 ある日帰ってきた携帯のアドレス帳から、家族以外の名が全て消えていた。


「メール使わないなら、時間制限撤廃するけど」


 ──へぇ、兵糧攻め?


 ──殺す気……なんだろうな。自殺しなくても、このままじゃ死ぬな、私。


 ミキが今どこで何をしているのか、私は知らない。閲覧用にアカウントを取得したSNSにも、彼女はいない。


 会えないし、SNSでも繋がれないのだ。ミキは亡くなったと思うことにしている。


 ◆◆◆◆ 

 

 ところで、トイレの話だ。

 

 娘が引きこもっていると知らない近所の方々は、祖母と茶を飲む為にしばしば来訪した。

 

 その度に私は、座敷牢で、息を殺し続ける。

 

「なっちゃん、大学生じゃない? よかったねぇ、第一志望で」

 

「本人、頑張ったからねぇ」

 

 ──へぇ、日頃『人間の屑』、『お母さんに土下座は? ほら』とか言ってる口で、ねえ。


 その間にも、膀胱は悲鳴を上げ、括約筋が苦情を連発する。

 

 トイレに行ける合図がすると、無言で用を足しに走った。


 体内の汚物は排出したが、心の澱は溢れるほど溜まっていった。


 それが、飽和し、諦めとなるまでに、そう時間はかからなかった。


 私は、とうとう、おまるを与えられることとなった。

 

 ──ペット、なんだ。もう娘じゃないんだな。

 

 それでも家族からは性的虐待が無かったのは、やはりただの畜生として扱われていた証拠だろう。

  

 ◆◆◆◆

 

  精神科に通い、少しずつ外に出られるようになった。


 成人式には不参加であったが。この事について、両親はほっとした表情しか浮かべなかった。"そういうこと"なのだろう。


 あの九月一日、午前二時の大人たちの話は、私の中にあった。


 彼女たちは、私を強くしてくれた。


 私は、N総合病院の清掃のバイトを始めていた。


 長袖やアームカバーを着けることで、患者の心理的負荷をかけないように努めた。


 休憩時間に、恩人たちとたまには会話をした。

 

 そして、気付けば二十五歳になっていた。


 その年の夏の日の事だ。


 それは、慣れから来る怠慢だった。


 血液に触れる際に、ゴム手袋をはめ忘れていたのだ。


 数週間後の昼、全身に激痛が走る。


 職場にいたのは不幸なのか幸いなのか、わからない。

 

 倒れ込み、すぐに検査を受けた。


 処置室で、見知った顔である三笘みとま医師が、深刻な顔で告げた。


「近藤さん……あのね、劇症型溶血性レンサ球菌感染症……"人食いバクテリア"って言えばわかる?」


 ──あ、死んだな。


「ええ。最近流行中だって聞きました。油断したなぁ……はは…………先生」


「薬で菌殺して、病巣切除するから」


 私は、首を振らなかった。


「いいんです、もう……致死率三〇パーセント以上らしいし。それに……私」


「自棄になってもいいこと無いよ」


「じゃあ!! まだ生きろっていうんですか!? きっと、なるべくしてなったんです!! 私が悪いのよ!! もう放っといて!!」


 瞬間。


 鎮静剤が打たれた。


 注射器を握る、知己の看護師の目が私を強く睨んでいた。


 眠りにつく瞬間、声が聞こえた。

 

「七海……ごめん」

 

 ◆◆◆◆

 

 目が覚めると、私の右腕、肘から先が私を見限っていることに気づいた。

 

 ──全部、切り刻んでくれたらよかったのに。

 

 情けなさと、わけのわからない諸々の感情がダムとなり、涙すら出ない。

 

「気がついた?」


 完全防備だが、声には覚えがある。


 旧知の看護師、安倍美代あべ みよ──あの九月一日のカミングアウト会にいた、恩人の一人だ。

 

「安倍……しゃん、いみゃ何日なんひひ?」

 

 薬の作用で舌の回らない私の質問に、姉の一人は答えた。


「まだ一日も経ってないよ。七海、あのね」

 

「?」

 

「ご家族……その、連絡は……したのよ」


 ──あいつらが、私の為に駆け付けるとでも思った? 美代姉。


「『死んだらまたかけてこい』……って」


 カーテンの向こうは、闇の中だった。


 私の生涯も、似たようなものだと思う。


 母の腹を割いて産まれた、酒鬼薔薇聖斗の同類が、"暖かい人たちに囲まれて幸せに暮らす"などと、そんなことが許される筈がないのだ。


 ──殺そうとしたのは、自分だけなのにな。


美代姉いよええ


 安倍美代は、これまで見たこともない目で私を見つめる。


私ねああしね


 少しずつ、呂律が回り始める。


「ここにしか、居場所ないの」


 美代の視線が凍る。


 "N総合病院の聖女"の目ではない──別れを覚悟した、遺族の目だった。


「家族も、恋人も……友達も、何もなくって、お姉ちゃんたちだけが、私を人間扱いしてくれた」


 美代の目尻に、雫が浮かぶ。


「私ね、いいことがあまり無かったけど、最期にお姉ちゃんできて、人間になれて……」


「七海」


 少し大きな声は、震えて湿っていた。


「近藤七海は……人間よ。私たちと何も変わらない人間なのよ!? 何で!? どうしてそんなに自分を貶めるのよ!!」


 姉の雷も、もはや薬効は期待薄だった。


「お姉ちゃん達は好きだよ。でもね、私は私が嫌い」


「やめて!! もうやめて七海!! やめてよう……」


「…………ごめんね。きっと何かの報いね」


 美代の胸に、何が去来したのか、私の矮小な人格では想像もできない。


「…………ごめん、って……こっちの台詞じゃん」


 ──何でよ、お姉ちゃん。


 美代は、それ以上何も言わずに病室を去った。


 疼痛が、再び私を責め立てる。


 この世界に生まれてきたことが、私の存在が、私の罪だったのだろう。


 この世界は、壁も鉄格子も、看守すらいない牢獄で、生きることは罰だったのだろう。


 いつか、誰かがテレビで訳知り顔で言っていた。


『あんた、地獄に落ちるわよ』、『死ぬわよ』と。


 落ちるまでもなくこの世は地獄で、人は必ず死ぬと言うのに。


 痛みの中で、思考は一点に収束する。


 そして、意識が遠退き始めた。


 ナースコールは、敢えて押さなかった。


 ──ごめんね、お姉ちゃん達。


 今生最期の吐息に、想いを乗せる。


「生まれたく……なかったな」


 二○二五年七月二十六日、少女A'──近藤七海は、こうして俗に"人生"と呼ばれる牢獄で、獄中死した。


 <了>

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