贅閹(ぜいえん)
原田庸
贅閹
一、
畑がまばらに広がる平原を豪奢な馬車の一団が馳せている。
宮中に上がって以来、帰郷するのは初めてだ。自分の家などどこにもなかった。政争を生き抜き名だたる人士と交際し栄達を極め一族を次々と官界に送り込んでも、
三十年ぶりである。当時は鶏と豚を数頭飼っているだけの小さな家だったが、いまでは広大な荘園に殿宇が立ち並んでいる。一族の老若男女が門の外まで出迎えに来ている。それはそうだ。一族の繁栄はすべて曹騰のおかげだ。
自分の金で建てられた豪華な門をくぐり、会ったこともない親族と挨拶をかわす。会ったことがあるのは兄だけだが、面相はすっかり変わっている。賢そうなかわいい子供たちが拝礼する。いい教育を受けることのできる環境にいるのだろう。
挨拶が済むと下の世代の若者や子供たちは逃げるように曹騰の前を離れていく。仕官の口利きをしてくれとでも頼まれればいくらでも力になるのだが。曹騰の帰郷の目的を察しているのだろう。逃げるのも当然だ。人間として扱われないことには曹騰は慣れている。曹騰は恨めしげな色も見せずに兄に用件を話し始めた。
「ありがたいことに、宦官でありながら子を持つ許可を賜りました」
兄は居心地が悪そうに祝辞を述べる。
「長年のご奉公が認められたな」
長年のご奉公。一言でまとめれば簡単である。何も言うまい。
一族の躍進の犠牲になることは三十年前に決まっていた。恵まれた家庭出身の高官たちが辞を低くして交際を求めてくる今になっても、曹騰が人間として扱われないことは変わらない。
「つきましては、同じ曹姓の若者から養子を迎えたいのです。誰か来てくれる子はいませんか。大事にします」
「騰がそう請け合ってくれるなら間違いはないだろう。しかし息子はたった三人で、それぞれすでに結婚している。嫁の実家を説得することが難しいのではないか。孫はなおさら」
なぜ孫はなおさらなのか。孫はまた産めるのではないか? そんな問題ではないのだろう。嫁の実家を銭の力で黙らせることは可能かもしれないが、何よりも兄自身が嫌がっている。
いつまで経っても何をやっても、結局自分は一人なのか。去勢され一人で宮中へ送られた時から、それは決まっていたのかもしれない。
気晴らしに郊外へ出た。粟の収穫の時期である。数人の若者が談笑しながら穂を刈り束ねている。一人だけが穂を集め荷車に積む重労働を担っている。たくさん入った籠を背負っているところに、
「おーう、これも頼むわ」
とわざと穂束を足されたり、
「早くしろよ」
と罵られていたりする。からかいの対象になっているようだ。他の若者たちは刈るだけ刈ると、
「はい終了ー。あと頼むわー」
と言って、草を振り回してふざけ合いながら帰ってしまった。
残された若者が黙々と穂束を拾い荷車へ運ぶ様子を曹騰はしばらく眺め、ゆっくりとそちらへ近づいた。若者はちらりと曹騰を眺めると、気にする様子もなく穂束を拾い続けている。曹騰はたずねた。
「なぜ君だけが重労働を担っているのかな」
若者は手を止めて曹騰のほうに体を向けた。
「自分が迫害の対象になっているからです」
若者はくだらないことを聞くなと言いたげな表情で答えた。あまりにも簡潔な答えである。曹騰は腕組みをして考え込んだ。
「もういいですか」
「どうして君が迫害の対象になっているんだい」
「なぜそんなことを知りたいんですか」
「他人事だとは思えなくてね」
「へえ、変わってますね」
若者は不遜な目つきで曹騰を眺めた。そして、誇り高い自分が質問に答えることは質問者の年齢と品のよさに免じて与える恩恵なのだといいたげな態度で語を継いだ。
「原因はいろいろ考えられますね。自分の家は父が早くに亡くなって貧しいので、一族のお荷物なんです。一族の共有財産のうちのけっこうな量をうちに援助してもらっているので。彼らの親とかがうちへの不平を自宅の中でこぼしているんじゃないですか。他には、自分の見た目ですかね。かっこいい雰囲気じゃないじゃないですか。見た目だけでもからかうのに十分ですよ。それに、不当な扱いをされても言い返したり暴れたりしないんで、彼らの日常のイライラのはけ口にぴったりなんじゃないですか」
「その扱いに納得しているのかい」
「納得するかどうかなんて考えないですよ。考えたってむかつくだけじゃないですか」
この若者は冷静で賢い。しかし、そこはかとない違和感を覚える。自分の胸を冷たい手で掴まれるような。
「もういいですか」
「ああ。邪魔したね」
二、
養子はできれば同姓から迎えたほうが世間体がいい。しかしこの際、姓が違ってもかまわない。ただ、縁もゆかりもない家から迎えるのはいやだった。できれば故郷の
帰らなければならない時期が近づいている。いつでも自由に飲めるようにと兄が部屋に置いてくれている
「出てこないほうがいい」
と言う。この家は兄の家なので、余計なことは言わずに部屋に戻る。しばらくして兄が部屋に入ってきた。
「たいしたことじゃないんだ」
「力になれることがあれば……」
「いや、ほんとうにたいしたことじゃない。
「親戚同然に過ごしていた思い出があります」
「みんな同じように貧しかった頃は仲良くしていたんだがなぁ」
貧しいままのほうが、よかったのだろうか。
「これでもずいぶん先方には妥協してきたんだが」
「何か無理難題でも言ってくるのですか」
「たいしたことじゃない。冬作物のために畑を耕す時期だが、土がカチカチでね。水を通せばいいんだが今年は水量が少ないんだ。それで夏侯家が水路を少しいじって自分の家の畑に水を通していたんだが、そうなるとうちが困ってしまってね。水路を元に戻したらこうだよ。むこうが悪いと思うが、こちらのほうが家計に余裕があるものだから、少しぐらい水を譲っても当然だと思われているのかもしれないな」
曹騰は宮中でどんな困難にも打ち勝ってきた。かなりのことがあっても感情的にならない自信がある。しかし今はこんな小さな出来事がこたえる。自分はこの三十年間で誰も幸せにしなかったのではないかという想念が頭から離れない。まったく合理的ではない。後悔したところで元には戻れない。自分で選んだことでもない。後悔する筋合いもない。
敷地内の楼台に上って外を眺める。夏侯家の人々は
門の前ではこちらの食客と先方の代表とが話し合っている。話し合いがもつれたのだろう。二人がつかみ合いを始めた。若者たちは、いよいよ祭りが始まったというように色めき立った。あの冷めた若者が、おまえが行けとばかりに若者たちから騒動の真ん中に押しやられる。おざなりに
物分かりがよすぎる。あの若者を見ている時の違和感の正体はこれだ。
三、
翌日、都に戻ることにした。夏侯家との小競り合いはもう収まっている。何も植わっていない寂しい畑の横を豪奢な馬車の一団が馳せていく。
あの若者が粟の刈り取られたあとの畑で牛を使って土起こしをしている。曹騰は馬車を止めさせた。止めて何をしようという考えもなく、ただ止まっただけである。若者はちらりと馬車を見ると、気にする様子もなく土起こしを続けた。曹騰は馬車を降り、ゆっくりと若者へ近づいた。しばらく若者を眺めていると、若者は牛を止めて曹騰に体を向けた。
「なんですか」
なんだろう。
「助けてほしい」
自分で思いがけない言葉が口をついて出た。若者は首を斜めに傾けた。
「助けが必要なようには見えないですよ」
「金ならある」
何を言っているのだろうか。分からないまま曹騰は語を継いだ。
「何も諦める必要はないのだと証明してほしい。暴れたいだけ暴れてほしい。私の養子になって、宦官の養子でありながら位人臣を極めてほしい。——迷惑だろうか」
「なるほど、金があるならできますね。まったく迷惑ではないですよ」
若者は
この若者が曹騰の養子になってからの名前は
曹嵩の息子の一人が魏の武帝。曹騰は中国史上で唯一、帝号を追諡された宦官になる。
(完)
贅閹(ぜいえん) 原田庸 @lclvthubik
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