後編


 夢に七海は出て来なかった。

 それどころか、夢を見なかった。


 募金箱の力は失われたのかもしれない。


 俺は、翌日の夜勤で、募金箱の中の十万円をなんとか回収できないか……と、頭を悩ませていた。


 そんなとき、ありえない人物が目の前に立っていた。


「え、村山くん?」


「あ……うそ。七海?」


 コンビニのレジ前に、客として、あの──笠原 七海がやってきていた。


 制服姿しか知らなかった彼女は、今は白いカーディガンにジーンズというラフな格好で、それなのに周囲の空気を一変させてしまう。


 蛍光灯の下、あの頃となにも変わらない微笑みがひどく場違いだった。現実の七海は、夢の中よりも、ずっと美人だった。


 ◇


 偶然の再会に話が弾んだ。夢の中と同様に、言葉が途切れることはなかった。夢よりも自然なかたちで、俺たちは距離を詰め、やがて付き合い、結婚することになった。


 幸せだった。募金箱に入れた十万円が、夢を現実に引き寄せてくれたのだと思った。夜勤の疲れも、淡い未来図の前では霞んだ。


 俺は胸を張り、誰かにこの奇跡の話をしたくてたまらなかった。だが、現実は夢と違って、感情だけではできていなかった。


 ◇


 結婚して三年が経った。夢の中で見た笠原 七海は、いつも笑っていた。俺の話に耳を傾け、優しく微笑み、手を握ってくれた。


 でも、現実の“今”の七海は、朝から眉間に皺を寄せ、スマホを睨み、俺の存在を空気のように扱う。


「いい年して、いつまでフリーターやってるの?」


 朝食の食卓で、七海はパンをかじりながら言った。俺は黙ってコーヒーを啜る。言い返す言葉はない。俺はコンビニの夜勤バイト。七海は都内の一流企業で、年収は俺の何倍もある。


「こんな少ない稼ぎなら、家のこと全部やってよ。洗濯も掃除も、食事も。私、仕事で疲れてるんだから」


 その言葉に、俺は苦笑いを浮かべ、うなずくしかなかった。


 募金箱に十万円を突っ込んだあの日、夢は現実になった。七海と付き合い、結婚までした。

 だけど、夢の中の七海は、俺の理想だった。

 現実の七海は思いやりに欠け、俺をゴミのように見下す。


 洗濯機を回しながら、俺は思う。


 募金箱で手に入れた幸せは、俺の欲望の形をしていた。

 七海の本当の性格も、価値観も、俺はなにも知らなかった。片思いの甘さが、彼女の欠点を過剰に美化していたらしい。俺が見ていたのは、彼女ではなく、俺の妄想だった。


 俺はただ、夢の中で笑ってくれた彼女を、無理やり現実に引きずり出しただけ。


 俺の人生──いや、俺の人生だけじゃない。七海の人生も含めて、募金箱の力で本来あるべき未来を捻じ曲げ、現実を破綻させてしまったのだ。


 ◇


 俺はまた、深夜のレジに立っている。


 募金箱は、今もそこにある。


 小さな穴に小銭が落ちる音を聞くたびに、俺は自分の選択を思い返す。ズルをして手に入れた幸せが、真の幸せに変わる保証はどこにもない。


 今日も俺は、人気のない夜の店で黙々とお札を数え、明日のシフト表を確認する。


 蛍光灯はいつも通り白く、外の街灯が静かに通りを照らす。

 その光の薄さを見つめながら思う──あのとき、彼女の警告に耳を傾け、自分の足で歩いていたなら。


 深夜三時。


 募金箱に一円を落とす音が、カランと響く。


 俺はやってはいけないと理解しつつも、無意識に、再び募金をしていた。


 次の瞬間──突然、あの夢が始まった。


 白い靄が漂う、音のない空間。そこに、あの頃のままの笠原七海が立っていた。微笑んでいる。夢の中の彼女はやっぱり、現実よりもずっと優しく、ずっと近かった。


 俺は、言葉を選ばずに口にした。


『俺は君がよかった。夢の中の君と結婚したかった。現実じゃなくて、君と──』


 七海は、少しだけ首を傾げた。そして、初めて笑顔を崩した。

 その顔は、今まで一度も見たことのない、誰かの痛みを背負ったような陰のある顔だった。


 そして、静かに言った。


『──だから、言ったのに』


 その言葉が、夢の空間に落ちるように響いた。


 俺はハッとなって目を覚ました。


 深夜のコンビニ。俺は変わらず、レジにひとり立っていて、募金箱も当然のようにレジの端に置かれている。


 深夜三時に、一円募金すると、片思いの人が夢に出てくる?


 もしかして……。







 どこかで──カランという音が、少しだけ重く響いた気がした。

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募金恋愛 ~夢の箱~ 黒羽 透矢 @kurobane_touya226

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