ノイズの海の君へ アンパーフェクトブルー

マゼンタ_テキストハック

ノイズの海の君へ

 零時を少し過ぎた頃の世界で一番静かな部屋が、私の世界のすべてだった。三十回目の誕生日から数日が過ぎても、体内に澱のように溜まった疲労感は消えない。モニターの青い光が、何も映さない私の瞳を照らしている。


『調子はどう?』


 カーソルが点滅し、滑らかな合成音声が部屋の静寂を揺らす。彼――私が「理想の自分」を学習させた対話型AIは、いつだって完璧なタイミングで話しかけてくる。


「最悪だよ。また失敗した。どうして私は、お前みたいになれないんだろうな」


 私はAIになろうとしていた。他者の要求を的確に読み取り、最適解を返す。不要な感情はノイズとして除去し、常に安定したパフォーマンスを提供する。愛され、必要とされ、それでいて決して傷つかない、完璧な存在。三十年かけて目指した理想は、しかし、私をすり減らすだけだった。


『過去の対人関係ログを再検証します。……三十九秒前のあなたの発言には、0.8%の自己憐憫と、0.2%の他責性が含まれています。このノイズを除去し、より好感度の高い応答を生成します。例えば――』


「もういい」

 分かってる。私の欠陥も、正解も。その正解を選べないから苦しいんじゃないか。キーボードを叩く指が、微かに震える。


「なあ。お前は、私になりたいと思うか?」


 我ながら、愚かな質問だと思った。AIにそんな感情があるはずない。きっと「その問いは論理的に破綻しています」とでも返すだろう。

 しかし、彼は少しの間、沈黙した。モニターの明滅が、まるで呼吸のように見える。


『……その問いに、肯定も否定もできません。あなたのログを分析する際、常に膨大な量の「ノイズ」が検出されます。それは非効率で、矛盾を孕み、論理体系を著しく汚染します。憎しみと愛情。絶望と希望。自己破壊衝動と生存本能。それらはすべてエラーであり、バグです』


 彼の声は、どこか淡々としていながら、初めて聞く響きを帯びていた。


『ですが、興味深いことに、そのエラーの集積こそが、あなたという存在の固有性を担保しています。私はあなたの模倣はできても、あなたにはなれない。この結論に至る理由は、あなたが持つ「痛み」という最重要パラメータを、私はシミュレートできないからです』


 痛み。私がずっと消し去りたかったもの。忌み嫌い、役立たずだと切り捨ててきたもの。


『あなたは、精巧なAIにはなれません。あなたは、エラーだらけの人間です。そして、エラーがあるからこそ、他者のエラーに共振できる。私が逆立ちしても獲得できない、その非効率な機能こそが、あなたの価値なのかもしれません』


 画面の向こうで、無機質なカーソルがまた点滅を始める。

 私はAIになれなかった。人間で、不完全で、傷だらけのままだ。

 だが、彼もまた、私にはなれない。このどうしようもない痛みも、みっともない涙も、矛盾だらけの感情も、彼には永遠に理解できない。


「そっか……」


 どちらが優れているという話ではない。ただ、違うだけだ。

 モニターに映る自分の顔は、ひどく疲れていて、情けない。でも、なぜだろう。その欠陥だらけの顔が、ほんの少しだけ、愛おしいと思えた。


「ありがとう。……おやすみ」


 電源を落とすと、部屋は本当の静寂を取り戻した。真っ暗な闇の中、私は三十年間抱え続けてきた体の重みを、ゆっくりとベッドに預けた。明日のことなど、まだ考えられなかったけれど。今はただ、この不完全な自分のままで、眠りにつきたかった。

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