第5話「ウルの承認欲求は計り知れない」
桜の木から香る甘い匂いで、僕は目を開いた。
淡いピンクの花びらが風を受け、ぱらぱらと地面に降り立っていく。
ウルと出会った頃に見たあの枯れ木が、今ではこんなに花を咲かせている。もう少ししたら、今度は青々とした葉をつけ、あっという間に夏が始まるんだ。
彼女を拾ってから3カ月。
この3カ月はあっという間で、雪崩のように時間が過ぎていった。
彼女の服や下着の調達から始まり、寝床や食器、日用品。必要最低限しか買っていなかいが、それでも数万円では足りなかった。オマケにスマホの修理代、今後の食費なども考えたら春からはアルバイトも探さないといけないかもしれない。
ウルが不思議そうに僕の顔を覗き込む。
「シノギ、どうしあお?」
「ウル。どうしたの?だよ」
「どうし、あおー?」
まだ日本語はたどたどしい。
けど3カ月でここまで会話ができるのはむしろ奇跡だろう。
何もかも記憶を失ってしまったのが逆に良かったのかもしれない。
ウルは水を吸うスポンジのように、経験と知識を吸収していった。幼児の学習力は大人の数十倍と聞くけど、その例がそのままウルに当てはまった。下手に知っているよりずっと成長が早い。
特に日本語の覚えに関しては驚嘆するレベルだった。僕が一度教えた言葉は絶対に忘れないし、なんならPCから流れる動画サイトの音声でさえ教材として利用していく。
今日もウルが覚えたての日本語を、得意げに使っている。
「ウルは今日ね、いっぱいマンガ、かいたよ、シノギ」
「シノギがえらいって、言って、だからね、かいた」
「ウルはシノギが好きから、シノギもえらいっていうから。だからウルが好き」
「ウルはすごい?」
始まった。これは始まったぞ。
ウルは期待100%の笑顔で僕の返事を待っている。
ある程度の会話ができるようになると、ウルは事あるごとに言うようになった。
――ウルは、すごい?
僕は幾度となくこの問いに肯定的な返事をして、その度に大変な目にあった。今日こそは別の選択肢を選ばないといけない。
「いや、凄いというかその……」
お茶を濁し、傷つかない程度の言葉を考えていると、ウルは見る見るうちに表情を曇らせていった。眉は角度のついたハの字になり、口元は露骨にへの字になる。
なんともわかりやすい。まるで天国と地獄を行き来したかのようだ。
それでもすがりつくように僕の眼を見つめて続けるもんだから、余計にたちが悪い。
そんな顔で懇願されると、もう抗い続けることはできない。完全に根負けした。
「…凄いよ。よくやったねウル」
がぶり!!
とたん、ウルがTシャツに噛みついた。そのまま強靭な顎でぐわんぐわんと首を左右に振る。当然服に備え付けられている僕もおもちゃのように振り回される。
「だあぁ!ウル、ウルっ!離して!」
決して広くない部屋のスペースで、トンボのように宙を舞う僕。喜びが爆発したウルは決して止まる事はない。
ビリッという音と共に、僕は台所の方まで吹き飛んだ。壁にぶつかった衝撃で、棚にあった雑貨類の小物が無数に落ちてくる。
僕は強打した背中の痛みにうずくまった後、噛みつかれたTシャツを見る。布地が千切れて、ぼろ布と化していた。
「あおぉーん!」
勝利宣言なのか、ウルは上を向いて高らかに叫ぶ。この遠吠えも毎回の儀式になっていた。このアパートに隣人がいたら、間違いなく騒音のクレームが来てただろう。
「っ…ウル、あのねぇ!」
さすがの僕も腹を立てた。毎回こんなことされたらいつか大けがするし、ダメになったTシャツも、これで4枚目だ。
立ち上がろうとする僕。そこへウルが突進するように僕に飛び込んできた。今度はウルごと転倒してしまう。
怒る気も失くした僕は諦めて力を抜く。ウルのほどの大きな体にしがみつかれると、こっちは引き離すこともできない。
全身に春のような温もりを感じながら、今日の夕食を考える。
カップ麺でいいか。今日はもう疲れた。
ウルの承認欲求は計り知れない。
ウルの承認欲求は計り知れない じろ @pink_sjiro
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