ひとくちの他人

不似透

 



 藤井和人は、洗面所の鏡の前で立ち止まった。

 手には、数本の自分の髪の毛。

 さっき風呂上がりに、自分で切ったものだ。鋏の跡がまだ生々しく、毛先にわずかな湯気の名残が残っている気がした。


指先で髪をつまみながら、藤井はふと、これまで集めてきた無数の髪のことを思い出す。


落ちていた毛。誰かが無意識に置き去っていった、抜け殻。

排水口の奥、座席の隙間、枕の縁――どれも他人の気配をほんのり残したまま、誰にも拾われずにいたものだ。

ときには、眠る誰かの頭に指を伸ばし、そっと“触れた”。

それが髪を集める理由だった。

藤井にとってそれは、唯一、他人に触れられる瞬間だったのだ。


目を見れば拒絶を想像し、声をかければ否定を恐れた。

誰かと関わるたび、自分が世界からはみ出していることを思い知らされるようだった。


たとえば、湯気の立つ食卓に箸を置いたとき。

音が消えたその一瞬だけ、息をするのが怖くなったこと。


たとえば、父親の足音が遠ざかるたびに、胸の奥が少しだけ軽くなったこと。

けれど、いなくなった日の足音も――、まったく同じ音だったこと。


だからこそ、髪は特別だった。

名前も交わさず、表情も知らないまま、

それでも確かに“触れた”と言える何かだった。


髪の毛には、その人が歩いてきた人生の軌跡が、静かに刻まれている。

たった一本で、その人の生活や癖、香りや感情の名残が感じ取れる。

それを舌に乗せることで、触れ合ったことのない誰かの人生を、疑似的に味わうことができた。


藤井はそれらの髪を、ひとつ残らず同じように扱った。

丁寧にティッシュで包み、静かに封筒に入れ、

日付と採取場所、それに彼が勝手につけた名前を書き添える。


「バスの後部座席の女」

「小雨のロータリー/傘の少年」

「終電のホーム/居眠りの中年」


それは“収集”ではなかった。

記録でも、所有でもない。

それは、すれ違った誰かとの“触れ合いの記録”

だった。

現実では得られなかった交流を、後から補うように。


髪に触れることで、藤井は一瞬だけ“誰かと繋がれた”気がした。

それが事実かどうかは、どうでもよかった。

たとえ嘘でも、孤独がほんの少し、温まる気がしたのだ。


部屋には、無数の封筒が棚に並んでいる。

それらは藤井にとって、誰かの名を呼ぶ代わりに置かれた、名前の代わりに残された――生の温度だった。



今日、藤井は初めて、自分の髪を手にした。


 一本だけ取り出し、唇に近づける。

 何百回と繰り返してきた、あの静かな儀式――その通りに進むはずだった。


 舌先がわずかに動き、空中で迷った。

 ほんの一瞬、触れる直前で、止まった。

 その動きには迷いも葛藤もなかった。ただ、そうなった。


 何がそうさせたのか、自分でもわからなかった。

 気がつけば、髪は封筒に戻されていた。


 封はしなかった。

 折り目だけをつけて、机の隅に置いた。

 終わったわけでも、始まったわけでもない――そんな手つきだった。


 手のひらに、うっすらと汗が滲んでいた。

 それを拭うことなく、照明を落とした。





—————





日が落ちてからでなければ、藤井の一日は始まらない。

 明るい時間は、誰かの気配が濃すぎて、息苦しくなるのだ。


 今夜は公園だった。駅前の広場から少し外れた場所に、老木の根元を囲むように置かれたベンチがある。

 若い女がひとり、背を丸めて眠っていた。

 指先には絆創膏。かすかなミントの香り。タバコとアルコールの匂いが重なり、その下に泣き止んだばかりの空気が漂っていた。


 藤井はゆっくりと近づき、腰をかがめる。

 彼女の髪は長く、ベンチの背もたれから少し垂れている。

 指でそっとつまみ、ためらいながら一本だけ引き抜いた。

 呼吸のリズムは乱れず、まるで許されたような気がした。


 舌を出し、髪の根本をなぞる。

 油と汗、甘いシャンプーの残り香――その奥に、熱の残る気配。

 それだけで、今日の彼女がどんな時間を過ごしたのか、かすかに想像できた。



 藤井は目を閉じる。

 きっと、今日の彼女は、誰にも言えない涙をどこかでこぼした。

 誰かに別れを切り出したのか、押しつけられたのか――それはわからない。

 けれどこの髪には、まだ言葉にならない感情の湿り気が、かすかに残っていた。



 舌の裏に、まだ少しだけ温もりが残っていた。

 甘さと塩気がほんのわずかに混ざり合い、消えかけの灯のようにじんわりと滲んでいく。


 藤井は目を閉じたまま、しばらく動かなかった。


 誰とも交わさず、誰にも触れられなかった一日。

 その終わりに、ようやく“誰か”に触れたような気がした。


 ほんの一瞬だった。けれど確かに、自分の内側に何か小さなものが灯ったように思えた。




 藤井は髪をそっとティッシュに包み、封筒に入れる

 「公園のベンチ/たぶん泣いていた女」とだけ書き、ポケットにしまった。






——————






それから数日後の夜、藤井はなんとなく、鏡の前に立っていた。


 理由はわからなかった。

 ただ、あの日、初めて自分の髪を手に取ったとき――

 切り落としたそれが、思っていたよりも“軽かった”ことが、どうにも気にかかっていた。



 洗面所の鏡には、無表情の男が映っていた。

 髪は少し乱れていて、湿気を帯びている。いつものように。

 なのにその姿は、どこか「味の無い料理」のように見えた。


 誰かの髪には、ほんのわずかな熱や湿り気、生活の名残があった。

 シャンプーの甘い残り香、汗、脂、涙の匂い


 けれど鏡の中の自分には、それがなかった。何も滲んでいない気がした。


 


 藤井は静かに眉を寄せ、舌を少しだけ突き出してみた。

 だが、唇が動く前に、視線を逸らしていた。

 その仕草が何を意味するのか、自分でもよくわからなかった。



——— 



 翌朝、藤井は一枚の封筒を机の上に置いた。

 昨日切った自分の髪を、そっと取り出す。

 他人のものと同じように、丁寧にティッシュで包み直し、一本だけを選ぶ。


 封筒には、まだ何も書かれていない。


 


 息を吸い、毛先を唇に近づける。

 ためらいはなかった。動きは静かで、正確だった。

 ただ、その指先だけが、わずかに湿っていた。


 


 舌先に、髪が触れる。


 瞬間――“無”が口に広がった。


 味がない。匂いがない。熱もない。

 ただの繊維だった。

 何百人の髪にあった生活の滲みも、感情の痕跡も、ここにはなかった。


 


 もう一度、そっとなぞってみる。

 それでも何も感じなかった。


 たとえば他人の髪を舐めたときには、確かに誰かの時間の味があった。

 夕方に泣いた人、甘いものを食べた人、誰かに拒絶された人。

 そうした感覚が、少しずつ口の中に滲んできたものだった。


 けれど今は、どれもない。

 冷たい床を触ったときのような、濡れていない石鹸を握ったときのような、

 ――そんな空虚さだけが、確かに残った。


 


 藤井は目を伏せ、髪を封筒に戻す。

 だが、封を閉じることはできなかった。


 


 これは、記録にならなかった。


 記録にするには、あまりにも空っぽだった。

 これを棚に並べてしまえば、自分という存在の“無”を永遠に保存してしまう。

 そんな気がして、藤井は手を止めた。


 


 そのまま、封をしないままの封筒を、棚の左端にそっと立てかける。

 まるで、どこか遠い他人のものを扱うように、静かに。


 ラベル欄には、まだ何も書かれていない。

 ただの白い余白が、いつもより広く見えた。





—————





藤井は夕暮れの公園にいた。


 誰かを探していたわけではない。

 ただ、足が勝手に向かった。

 西日がオレンジ色に傾いて、影が長く伸びていた。

 


 広場の隅にある古いベンチ。

 そこに、小さな男の子が座っていた。

 膝を抱え、首をうずめたまま、ゲーム機を握った手がだらりと垂れている。

 靴は泥で濡れていた。ランドセルは傍らに置かれたまま、誰も気にかけていない。


 


 親の姿は見えなかった。

 通行人は、彼を視界に入れてすぐ、興味を失うように通り過ぎていった。

 藤井だけが、数メートル離れたベンチに腰を下ろし、じっと見つめていた。


 風が吹く。髪がふわりと揺れた。


 


 どれくらい時間が経っただろうか。

 空は藍色に染まり、街灯が灯りはじめた。

 それでも、男の子は目を覚まさなかった。


 藤井は立ち上がり、静かに近づいた。


 


 しゃがみこみ、そっと手を伸ばす。


 躊躇はなかった。けれど、指先が髪に触れた瞬間、藤井の中で何かが軋んだ。


 


 この髪には、まだ何も染み込んでいない――


 そう感じた。

 汗の匂いも、涙の跡もない。

 けれどそれは、空虚ではなかった。

 まだ染まっていない、白紙の味だった。


 それが“無垢”だからだとは、藤井は思わなかった。

 ただ、“これからを持っている”髪なのだと感じた。

 まだ、誰にも触れられていない記録。

 まだ、誰かの人生になっていない頁。


 藤井は、髪を一本だけ抜いた。

 痛みで目覚める様子はなかった。


 静かに封筒を取り出す。

 丁寧にティッシュで包み、封筒に収める。

 そして、ペンで一言だけ書き込んだ。


 


 「少年/未記録」


 


 その文字は、震えていた。

 それが自分に向けた祈りなのか、それとも子どもへの願いなのか、藤井にはわからなかった

 


 藤井はゆっくりと立ち上がる。

 誰にも気づかれず、誰にも話しかけられず、日が沈んでいく。


 

 封筒の重さは、いつもと変わらなかった。

けれど、それを胸ポケットにしまった瞬間――

なぜだか、少しだけ心臓の音が、聞こえたような気がした。



まだ誰にも触れられていない髪。

まだ悲しみも苦味も染みていない、生の素材。

それを、今この瞬間、自分だけが知っているという事実が――ぞくりと甘かった。



藤井は、うっすら笑った。

唇の端だけが動いた、微細なものだった。



この子が大人になるまで、悲しみに触れるまで、

この一本の髪だけは、ずっと自分の中に残り続ける。

誰よりも早く、“その人生の味”に触れたのは、自分なのだ。



それが祈りなのか、欲望なのか、もうわからなかった。


………


歩きながら、藤井はふと目を閉じた。

すると、自分の手の中に、ランドセルの重さがよみがえった。

泥で濡れた靴の感触。

小さな指先に貼られた絆創膏の、ひりつく感覚。


心臓の音が、いつのまにか、自分のものではない気がした。

微かなミントの香りとともに、誰かの時間が流れこんでくる。


「……今日は、泣かずに済んだんだね」


誰の声だろう。

自分の声にも、あの子の声にも、そのどちらでも無いようにも聞こえた。


藤井は歩きながら、指先でポケットを撫でた。

それが誰の髪だったのか、もう思い出せなかった。


けれどその記録の中で、自分は確かに、生きていた。

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ひとくちの他人 不似透 @glaple

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