ノリコの苦悩 ~いくら丼を支える女~

羽鐘

磯の香りを纏う黒き衣

 ふっくらと炊き上がった私は、熱々の炊飯器からおひつに移動して、すし酢を浴びた。


 パタパタと団扇で扇がれ、私は人間がサウナの後に水風呂に入ったときのように『整う』という感覚を味わった。


 私が生み出す甘く柔らかな香りと、すし酢の刺激的て妖艶な香りが混じり合い、人間たちの食欲を掻き立てる酢飯へと変貌を遂げた。


 今日も私はマグロちゃんやエビさんを乗せた海鮮丼や、イクラちゃんを乗せたいくら丼として人間たちの胃袋を満たし、笑顔を生み出すのだ。

 そんな幸せな瞬間を考えると、私の胸は高鳴った。


 整いながら私がどんぶりに盛られるのを待っていると、厨房の片隅からしくしくと泣き声が聞こえてきた。


「誰が泣いてるの?」

 私は少しだけ勇気を出して聞いてみた。


「お米さん、私です……」

 その声は、海苔のノリコちゃんだった。


「ノリコちゃん、どうしたの? 何か悲しいことあった?」

 ノリコちゃんとは長い付き合いだ。

 意味もなく泣くようなコじゃないことは、日本人の食卓を長年、共に支えあった私が一番わかってる自信があった。


「お米ちゃん、最近、とある界隈で『いくら丼』が流行ってるらしいの。イクラちゃんって可愛いし美味しいから人気があるのはわかる。お米ちゃんは主食だからいつでも話題沸騰。でも、私は、誰からも気にされてないの……」

「そんなこと……」

 ノリコちゃんの悲痛な声に、私は『そんなことないよ!』と言ってあげたかった。

 でも、私自身、ノリコちゃんが目立たない存在であることを知っていたので、下手な慰めの言葉が出なかった。


「私だって漁師の皆さんが丹精込めて育ててくれた存在なの。荒波に耐え、光合成をして海に酸素を与え、ミネラルを蓄えてるの。私を消化できるように日本人のDNAに刻まれた絆があるのに、私は目立つことはないの……」

 ノリコちゃんの告白は苦悩に満ちていた。


「確かに私は目立たない。色も黒いし、最終的にはどんぶりの底や蓋の裏、口の中の上に張り付くだけの存在でしかないことは理解できてる。でも、そんなのって、あまりにも悲しいじゃない」

「そんなに自分を卑下しないで……」

 私はノリコちゃんを抱き締めてあげたかった。

 でも、そんなことをしたら、パリっとカッコいいノリコちゃんがへなってしまうので、できなかった。


「いくら丼って名前だから、イクラちゃんが主役になるのはわかる。でも、能天気に『ハーイ!』とか『ちゃーん!』とか言ってるあの子のそばで、ただただ誰にも気にされずどんぶりにへばりつくのが、堪らなく悲しいの……」

「ノリコちゃん、それはダメ。それは言ってはダメなこと……」

 ノリコちゃんが触れてはいけない何か領域に足を踏み入れるように思えたので、私は慌てて窘めた。

 でも、泣き止まないノリコちゃんに何と言っていいか、わからなくなっていた。


「そっか、私は能天気に見えてるのか」

 突然聞こえてきたその声は、イクラちゃんのものだった。


「あっ、ごめんね。ノリコちゃんも悪気はないの」

 いくら丼の主役の気分を害してしまったら、人間たちが美味しく感じてくれなくなると考えた私は、イクラちゃんに謝った。


「いいのよ。私もあのキャラは演じてるところがあるし、いくらイクラとおだてられても、本当はサケの卵なんかじゃなくてマスの卵のこともあるだなんて、私には言えないから」

 イクラちゃんが悲しそうにカミングアウトした。

 確かにアルミカップなどに乗って少し添えられた小粒のイクラは、マスコと呼ばれるマスの卵であることがある。

 でも、そうだとしても、魚卵を意味するロシア語から転じたイクラの名前に間違いはない。

 イクラちゃんは、何ら恥じることはないんだ。


「だからさノリコちゃん、お米ちゃんが言ったとおり、そんなに卑下しないで。貴女がいるから、私の紅が映えて人間たちを魅了できるんだし、私とお米ちゃんだけでは足りない旨味をノリコちゃんが与えてくれるからこそ、いくら丼は完璧な存在になるんだから」

「イクラちゃん……」

 ノリコちゃんの気持ちが前向きになったことを、私は厨房を満たす美味しさの空気で感じ取った。



「いくら丼! 2つ入ります!」

 ホール係のお姉さんの元気の良い声が厨房に響いた。

 私はすぐにどんぶりに盛られ、ノリコちゃんを纏うと、イクラちゃんをたっぷり乗せてもらった。

 最後の仕上げに細切りのノリコちゃんを少しふりかけ、私たちは完璧ないくら丼になった。


 ____



 いくら丼を食べた人間は、満足そうな笑みを浮かべ、膨らんだお腹をポンポンと叩いた。


 その様子を見ながら、最後までどんぶりの底にへばりつき人間の口に入らなかった、一粒の私と一欠片のノリコちゃんは、お互いの顔を見合わせて、笑いあった。

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