望郷――吉良義周 🏯
上月くるを
望郷――吉良義周 🏯
目 次
プロローグ
1 諏訪高島城南ノ丸の幽閉屋敷
2 松平忠輝に託された「野可勢の笛」
3 義周のむかし語り
4 吉良上野介の妻・富子
5 高家筆頭・吉良家へ輿入り
6 上杉家に財政を頼る吉良家
7 上杉綱勝の急死で吉良三郎を養子に
8 吉良義央の領国・三河国吉良荘
9 浅野内匠頭の叔父・内藤和泉守の斬付事件
10 五代将軍・綱吉の鬱屈と動物愛護令
11 浅野内匠頭、吉良上野介を斬る
12 赤穂事件と義周の流罪
13 吉良義周の永訣
エピローグ
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プロローグ
その墓は意外な場所にあった。
山寺の裏山の中腹、急な石段を登り詰めたところに一基の自然石が建っている。横並びの供養塔や石碑は後世のものなので、赤穂事件の咎で流された
鬱蒼たる雑木林の落葉が墓の周囲を埋め尽くしている。
終日陽が射さない峻厳な事実を物語るように、墓も、横の石碑群もびっしりと苔に覆われている。寺の心尽くしか白百合と黄菊白菊の供花の瑞々しさが唯一の救いに思われた。
合掌して不運な故人の冥福を祈り、墓石に近寄ってみる。
寶永三丙戌天
室燈院殿岱巌徹宗大居士 神儀
正月廿日
人知れず風雪に堪えた文字は、皮肉にもほとんど摩耗していない。戒名に「巌」の文字が入っている事実に胸を突かれた。そこから見えるのは鷲峰山法華禅寺本堂の裏屋根だけという侘しさにも。もう一度合掌し、永遠に青年のままの墓の主に拙いペンの許しを乞うた。
*
翌日は心療内科の受診日だった。
主治医のH先生は歴史愛好家で、治療の一環として歴史小説の執筆を勧めてくださっていたが、前日の墓参りの件をお話すると、即座に明晰で魅力的な推理をご示唆くださった。
――それは興味深いですね。人びとが諏訪大社上社本宮へ詣でると、横に並び立つ鷲峰山法華禅寺の義周の墓にも自然に手を合わせることになります。江戸の幕府に知られず一山を古墳と成すようひそかに配慮した、当時の地元のどなたかの強い意志が感じられますね。
折々に少しずつ書いていた作品は、こうしてスタートすることになった。
1 諏訪高島城南ノ丸の幽閉屋敷
――
何日も降りつづく雨に、一向にやむ気配が見えぬ。
厳重な矢来に囲まれた幽閉屋敷からはうかがうことも適わぬが、陰うつな空の色を映す諏訪湖の水面にも、烈しい雨粒が間断なく叩きつけて、岸辺近くに身を寄せ合う水鳥どもの安逸をさんざんに脅かしていることであろう。
祖父であり養父でもある
秋といっても江戸辺りのそれとはまったく趣を異にすることは申すまでもない。
明瞭質朴な当地の人情さながらに、かっと照りつける真夏の強日差しとは打って変わる薄い日差しのもと、紅葉狩りだの茸狩りだのと楽しんでいられるのはほんの寸の間のこと、当地の秋はことごとくを凍りつかせる極寒の季節への前触れそのものである。
地元では
――由姫どの。
幼馴染みで許嫁でもある、そなた。
わたしはこの冬を越せるだろうか。
実父の上杉綱憲、祖母で養母の富子、実母の阿要之方……昨夏から秋にかけてのわずかな期間に相次いだ三人の訃報以来、わたしはこの先を生きる力を失った。日ごとに痩せ衰え、足腰も弱まり、近ごろでは庭へ降りることすらままならぬ。
赤穂浪士によるわが吉良邸討入への対応の不備を理由に配流の重罪を申し渡された身に江戸からの同行を許された二人の従者――家老・左右田孫兵衛(七十歳)と中小姓・新八郎こと
「若殿、どうかお気を強くお持ちくださいませ。年老いた爺の目から見ますれば生々流転は世の倣いにて、いまはひたすら堪忍一辺倒が肝要と存じます。ときが過ぎ、やがてお仕置きの潮目が変わりますれば、晴れのご大赦もございましょうゆえ」
「若さま、ご家老の仰せのとおりにございます。われらが大いなる誇りとする名門・吉良家を再興され、無念の死を遂げられた大殿さまのご無念に報いてさしあげられるのは、若さまおひとりなのですから、その日までは、なんとしても生き延びていただかねばなりませぬ」
なれど、申し訳ないが、わたしにはどうしてもそうは思えぬのだ。
――騒動の相手の浅野家へのお赦しはあろうとも、わが家へのお赦しはあるまい。
過ぐるある日、養父上が独語のごとく呟かれたお言葉を、わたしは忘れておらぬ。
「いかなる恩人であろうと、おのれの弱点を握られている人間は煙たいもの。それが人情というものじゃ。そうじゃ、たとえいかに高貴なお方であられようともな」
――いつなんどき秘密を漏らすやもしれぬ口は、永遠に封じこめねばならぬ。
それもまた、頂点に立たれるお方のきわめて率直なお心というものであろう。
――由姫どの。
わたしが幽閉されている南ノ丸は湖を埋め立てた湿地で、かつては薬草園だったと聞く。四季の花々が咲き乱れ、蝶や蜂が飛び交い、木立ちでは小鳥どもが囀り交わす美しい場所であったはず。代々諏訪藩を治めて来た諏訪家では、ご当地ならではの珍しい薬草を栽培し、極寒の地の領民の滋養や療養に供せられて来た。
その様相が一変したのはおよそ八十年前、寛永三年(一六二六)春のことであった。
――
いまを去る二昔前、ほかならぬこの屋敷で無念の最期を遂げられた方のお名前を、図らずも同じ境遇に陥っているわたしは格別な想いで唱えずにはいられぬが、便宜上、以後の語りには、忠輝さまをはじめ登場人物の敬称は省かせていただく。
2 松平忠輝に託された「野可勢の笛」
天正二十年(一五九二)一月四日、初代将軍・徳川家康の六男として江戸城で誕生した松平忠輝は、なぜか生まれついて実の父に疎まれる運命にあった。その理由は、生母の茶阿局の身分が低かった(鋳物師(いもじ)出身)がゆえとも、忠輝の容貌が魁偉だったがゆえとも、逆に、織田信長の命で斬殺させた長男・信康に酷似した端整な顔立ちだったがゆえとも言われる。
とにかく六歳を迎えるまで父との面会は適わず、下野国栃木城に捨て置かれた。
同母弟で早くから取り立てられた(このあたりも理屈に合わぬが)松千代の早逝で武蔵国深谷一万石を与えられたのは、慶長四年(一五九九)八歳のときだった。
以後、風向きが変わったのか他の異母兄弟たちと分け隔てなく遇されたようで、三年後に下総国佐倉五万石に加増移封され、元服して上総介を名乗る。さらに翌年には信濃国川中島十二万石に加増移封され、その当時、家康の信頼を一手に集めていた大久保長安を附家老とする待城(松代城)主の座に就いた。
二年後の同十年には父・家康の命で大坂の豊臣秀頼のもとに出向いた。翌年、全幅の信頼を寄せる附家老・大久保長安の仲介により、陸奥一帯を支配する大大名、伊達政宗の長女・
当初、夫婦は福島城に住んだが、のち政宗の音頭取りで新築なった高田城へ移る。その年の大坂冬の陣では留守居を命じられるが、翌年の夏の陣では打って変わって大和口の総督を命じられ兵を率いて出陣した。だが、戦後、次の理由により家康から勘当を申し渡される。
――大坂へ向かう途上、二代将軍・秀忠の重臣・
――肝心の戦場に大幅に遅参したため敵の首級をひとつも挙げられなかった。
――戦後、越後高田への帰国時、家康の許可を得ずに間道の
翌元和二年四月、自らの臨終を悟った家康は、四人の息子たちを枕元に呼んだ。
早逝した長男・信康、五男・信吉、七男・松千代、八男・仙千代、さらには先年相次いで不審死を遂げた次兄・結城秀康および四兄・松平忠吉を除くと、家康の血を引く現存の男子は、三男・秀忠、六男・忠輝、九男・義直、十男・頼宜、十一男・頼房の五人となったが、そのなかで勘当中の忠輝のみ面会を許されなかった。
ただし、だれも知らぬところで、きわめて重大な出来事が生じていた。
家康の病床に最後まで付き添っていた忠輝の生母・茶阿局を通じて、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、三人の天下人に愛用された因縁の篠笛「
その事実も理由も伏せたまま同年四月十七日に家康が没する(享年七十四)と、それから三か月も経たない七月六日、家康の生前から二代将軍の座にあった秀忠は異母弟の忠輝にとつぜんの改易を命じ、即座に伊勢国・
――伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り。
そう謳われて古くから民衆の尊崇を集めてきた山岳信仰の聖域を早々に追い立てた背景には、謀叛はもとより、大衆の同情を集める危険をはらむ切腹すら御法度、生かさず殺さずの生殺し状態に苛立ちを募らせた忠輝が、かつての配下の隠れキリシタンと組んで不穏な動きに及ぼうとしたためではないかと、巷ではもっぱらのうわさだったらしい。
寛永三年(一六二六)四月、三十五歳になった忠輝に再度の配流替えが命じられた。
三度目の流刑地は標高が高い湖畔沿いの地域で、冬には極寒となる信濃諏訪だった。
*
――由姫どの。
改易以来つき従っていた四十四人の家臣団と移り住んだ忠輝さまは、天和三年(一六八三)七月三日、九十二歳の天明を全うされるまでの六十年近い歳月を、ここ、まさにいまわたしが幽閉されている高島城南ノ丸で過ごされたのだ。その絶望、孤独の深さを想うと、わたしは身体の震えを抑えられなくなる。わたしも忠輝さまと同じ身の上をたどるのではないか。いや、この衰弱した身体がそんなにもつはずがない。それに幽閉の生き地獄に堪えるくらいなら、いっそ早く懐かしい方々のもとへ旅立ってしまいたい。思いは千地に乱れるのだ。
――由姫どの。
カリカリと鼠に胸をかじられるような、払暁のさびしさといったらどうだろう。
なにかに追われるように暮れ急ぐ、黄昏どきの寂寥ならわたしにも覚えがある。
「春千代(義周の幼名)どのはご聡明なだけあって、人一倍、勘の鋭いお子でしたからね。ことに冬の逢魔が時なんぞは、屋敷の薄暗がりに魑魅魍魎が潜んでいると大泣きするので、宥めるのに苦労したものですよ」祖母でもある養母の富子から聞かされてもいた。
だが、その不吉に思われた江戸の逢魔が時より、蓼科山から太陽が昇る前の森閑たる寂寞のほうが、病んだ心身には何層倍も応えることを、わたしは諏訪に流されて初めて知った。
苦悶の疲れに助けられて眠りにつく夜にはまだ救いがある。
だが、またしても新たな苦痛が始まる朝には絶望しかない。
思い返せば、いまから二年半余り前の春まだ浅いころ、粗末な木綿の囚人着物を着せられ、罪人駕籠に押しこめられたときは、まだぼんやりとした希望を抱いていたような気がする。
――なにかの間違いだ。やがて真相が判明すればご公儀のお赦しも出るだろう。
夜盗に押しこまれた被害者の側が罰せられるなどあろうはずがないと本気で思っていた。
けれども、頼りの江戸からはなんのお沙汰もないまま、いたずらに無為の時ばかり重ねた。
――公方さまはもはや、わたしのことなどお忘れになってしまったのでは?
ひとたび頭をもたげた黒い疑念は、日を追って嵩を増してゆくばかりだ。
――由姫どの。
初々しく、やわらかく、愛らしく、恥じらいに富んだ薔薇の蕾のような唇。あの愛らしい膨らみにせめてもう一度だけ、この手で触れることができたなら、わたしは、わたしは……。
3 義周のむかし語り
天涯孤独。
係累に恵まれていたわたしが、よもやこのような境涯に陥ろうとは思ってもみなんだ。
――由姫どの。
そなたも承知のとおり、わたしには父母が二人ずついる。生みの親は出羽国米沢藩第四代藩主・上杉綱憲と側室・阿要之方。養いの親は公方さま直轄の高家筆頭・吉良上野介義央と正室・富子。複雑な親子関係の由来を簡略に申せば、つぎのようなことになる。
後継を決めないまま急逝した前藩主・綱勝さま(富子の実兄)の末期養子として上杉家に迎えられたのが吉良義央・富子夫妻の長男・綱憲だった。それから二十六年後、今度はその綱憲の次男のわたしがやはり後継のいない吉良家の養子に入った。つまり、両家は「行って来い」の関係ということになる。
五歳の春、輿入りと見紛うばかりに美々しく飾り立てた駕籠に乗り、前後を屈強な家臣団に守られて米沢城を発った朝のことはいまも鮮明に覚えている。子どもの目には見るもの聞くもの珍しいものばかりの長旅の末、江戸は鍛冶橋の吉良邸に到着したのは、元禄三年の桜吹雪が舞う夕暮れどきだった。それから今日までの十数年間、競うように可愛がってくれる四人の親たちと親戚縁者に囲まれて育ったわたしに孤独ほど縁のない言葉はなかった。
それがどうだろう。
三年前の雪の夜半の押し込み事件で、祖父で養父の義央が無念の死を遂げた。
謎だらけの一件から二年を経た昨年、残された三人の親も相次いで身罷った。
あり余るほどの愛情に囲まれていたわたしは、ぽつんとひとりだけ残された。
――由姫どの。
諏訪湖の藻のように寄る辺なき身の上を思うと、
――因果応報。
そんな言葉が泡のように浮かんで来てならぬのだ。
偉大な不識院殿さま(上杉謙信)を祖と仰ぐ上杉家、かたや清和源氏を発祥とする吉良家。両家ともども長い渡世のあいだには世間に憚りのある出来事の二つや三つあったとしても当然であろう。とりわけあの一件は……。
「五十年も前に起こった出来事など若さまにはなんの関係も責任もないことでございます。考えても仕方のないことで思い悩まれず、きれいさっぱりとお忘れになってくださいませ」
左右田の爺や新八郎に叱られるとおり、はるか昔のそれも他家での出来事を、後世の弱輩のわたしが取り沙汰してみても、いまさらどうにもならないことはよく承知している。
だが、二六時中のきびしい監視生活のゆえか、どうかすると、ついついそこに思いが行き着いてしまうのは、上杉家先代・綱勝さま怪死の一件、およびその予兆とも位置づけられる
――由姫どの。
その後の動向については、そなたも承知してくれていよう。
不可解きわまりない誤毒殺事件でご愛妻・援姫さまを失われた綱勝さまは、当分のあいだ失意の底に沈んでおられたが、まことにお気の毒にも、大勢の家臣を率いる藩主としては、いつまでも亡妻恋しとばかり言っておられなかったのであろう。周囲の強い勧めもあって、富子さま(たまたまわが養母と同名)と再婚なさったのは、家中の慟哭のなかで援姫さまのご葬儀を執り行ってから一年後のことだった。
だが、いかなる運命の皮肉か、寛文四年閏五月七日、実妹・
継室の富子さまとの間に
――由姫どの。
先述のとおり、こうして系譜の糸を手繰り寄せてゆけば、現在の不運の因果にたどり着くような気がしてならぬのだ。それがわかったとて、どうなるものでもないのではあるが……。
4 吉良上野介の妻・富子
――由姫どの。
失意の上総介さまを精神的に支えつづけられた月仙寺の和尚のように、わたしにも心を開ける朋輩がいてくれたら、この地底に引きずりこまれそうな孤独も少しはやわらぐのであろうが、こうして二六時中床についているような状況では如何ともしがたい。
そうじゃ、朋輩の代わりに由姫どの、波乱の生涯を終えた女人の身の上を聞いてくれぬか。わたしにとっては祖母であり義母でもあった吉良富子の健気にして哀切な物語を……。
*
十六歳の当時は三姫と呼ばれていた自分に母から提示された道が、果たして正しかったのかどうか、あとになって富子はつれづれに考えてみることがあった。名門・上杉家の姫として、諸大名からの縁談はそれこそ降るほどあったのだから……。
万治元年七月二十五日戌の刻。
出羽米沢二代藩主・上杉定勝の四女・三姫は、江戸白金の上杉下屋敷で、生母の
前年の「明暦の大火」(振袖火事)で、桜田上屋敷と中屋敷(
木の香も新しい下屋敷の奥座敷にいた三人は、異口同音に驚愕の叫びを発する。
「なんですと?」
「援姫さまが?」
「なにゆえに?」
あろうことか妹姫の婚礼の前祝いが阿鼻叫喚の場に一転したと聞き、全員絶句。
――毒殺!
だれの胸にも禍々しい二文字がよぎる。
何者かの手にかかったのが、なぜ援姫だったのか。凶悪な事件の裏には、だれの、どんな思惑がはたらいていたのか……。使いの者を矢継ぎ早に責めても一向に要領を得ない。
三姫が姉の亀姫と連れだって桜田上屋敷に義姉の援姫を訪ねたのはつい数日前だったが、義姉はいつもどおり明るくなごやかに、心から打ち解けたようすで歓待してくれた。
自分より三歳年長の義姉を、三姫は実の姉のように慕っていた。美しく聡明で気品のある、女性のお手本として憧れてもいた。その義姉が、なにゆえに惨たらしい殺され方をされねばならぬのか。だれかが義姉を深く恨んでいたのか、ご実家の保科家でなにかがあったのか。答えのない疑問ばかりが荒々しく胸中を駆け巡る。
急ぎ駕籠を飛ばして三人で桜田上屋敷へ駆けつけると、遺骸はすでに丁寧に浄められて白木の棺に納められていたが、苦悶の痕跡を留める口もとがことのほかに哀れだった。
綱勝をはじめ家中が号泣する葬儀のあと、棺は米沢の林泉寺で荼毘に付された。
十九歳の亡者の名号は、
――清光院殿。
儚く簡潔な名号を目にした三姫は、涙の壺が空っぽになるほど泣きに泣いた。
援姫の舅に当たる保科肥後守正之のきびしい詮議によって、不可解な毒殺事件に一応の決着がつけられたと聞いたのは、それからしばらく経ってのことだった。
華奢な身がのけぞるほど驚いたことには、側室腹の松姫さまのお輿入れを妬んだ継室の於万ノ方さまが、祝膳の料理にこっそり毒を盛ったが、宴が始まる直前に肥後守さまの指示で座る席が入れ替えられたため、思惑外れで実の娘が毒を食する結果になったのだとか。
下手人として捕縛された於万ノ方さまは、奥の座敷牢に幽閉されているという。
保科家の世子・正経さまのご生母でもあられるため、想像するだに恐ろしい最終的な処罰ばかりは免れたが、祝膳に関わった賄係や御台所奉行、女中衆にまで疑いの目が向けられ、肥後守さまご自身によるきびしいご詮議が行われたらしい。危うく難を逃れた松姫さまのお輿入れは、日を改めて行うことになったという。
事件の詳らかな経緯を知った三姫には、ふくよかな肢体どおり鷹揚な性格と聞いていた於万ノ方さまが、輿入れといってもまだほんの子どもに過ぎない松姫さまを殺したいほど憎んでいたとはどうしても思えず、取り残された幼い弟妹たちが不憫でならなかった。
5 高家筆頭・吉良家へ輿入り
それから五か月後、三国一と謳われる美貌の三姫は、御輿渡役、御貝桶渡役、輿迎、輿送、足軽、若党ら数十名の行列を連らね、四人姉妹のなかでも破格の五千石の化粧料(持参金)を携えて、鍛冶橋の吉良邸へ輿入りする。暮れも押し迫っての慌ただしい婚礼には、援姫の事件が影響していたことは言うまでもない。
――将軍の縁戚筋に当たる保科家との関係が稀薄になったことは認めざるを得ないが、その分を末娘の縁組みで補い、ご公儀とのつながりを少しでも堅固にしておきたい。
そうした思惑が上杉家の人びと、ことに二代藩主・定勝亡きあと、実質的な領内の仕置きを執り行っていた生善院のなかに働いたであろうことは想像に難くない。
贅の限りを尽くした姫駕籠が出立しようとしたとき、サラサラと粉雪が舞い始めた。
「まあ、きれい!」
生まれてこの方、江戸の外へ一歩も出たことがない三姫には遠い最果ての地に思われる米沢の領民たちが贈ってくれた祝賀の花吹雪のように見えた。
舅・義冬、姑・志保、御書院の番士を務める叔父・
――大名なら一万石は下らないのに、その半分以下の俸禄で大所帯を……。
苦労知らずの三姫にも家刀自としての家計のやりくりの苦難は想像がつく。
見たところ、大大名でありながら衣食住全般において質実剛健を旨とする上杉家に対し、高家筆頭という煌びやかな職種柄に加えて、衣装道楽の妻・志保に甘い義冬の放任もあり、吉良家ではすべてにおいて驚くほどの派手好みだった。この家では、日々身上以上のお金がまるで底の抜けた柄杓のように出て行くことを、富子はほどなく知ることになった。
翌二年、合力(家禄とは別に本人に下賜される俸禄)として米千俵を賜った夫・義央は、高家見習いとして出仕し、ほどなく将軍の名代として日光東照宮の門跡に遣わされる。
夫が留守のあいだ、富子は舅・義冬から吉良家の由来についての教授を受けた。
承久の乱の戦功で三河守護となった足利義氏(北条政子は伯母)を祖とする吉良家は、戦国の動乱で断絶したものの、徳川家の祖・松平氏との姻戚関係から再興を果たしたという。
従兄に当たる徳川家康と吉良氏中興の祖・義定との関係を、富子はとくに面白く聞いた。義定の子(義冬の父)・
重々しく父祖の偉業を物語る義冬の口調には、先代に勝るとも劣らない自身への自負があからさまに見える。果たして富子は、義冬自身が著したという「謝礼細工之部」「躾之部」「髪置之部」「献立之部」「小袖之部」「百人一首抄解」らに列挙された二五〇か条にわたる『吉良流伝書』を長々と教授されることになった。
この年九月、上杉家の兄・綱勝が、姻戚筋に当たる
6 上杉家に財政を頼る吉良家
万治三年五月。若葉が匂い立つ季節に、富子は長女・鶴子を出産した。
周囲の期待を裏切って女児だったので、初めての産褥の床にあっても肩身が狭く、屋敷内の落胆の空気を敏感に感じながら、子に恵まれなかった亡き媛姫の胸中を思いやった。
翌年の正月、江戸の大火で吉良邸が類焼したので、富子は一歳にもならない鶴子を連れて上杉の白金屋敷へ避難する。以前からそう決められていたかのように、吉良家の屋敷は富子の持参した化粧料全額はもちろん、さらに上杉家からの追加援助を受けて新築された。
しかし、その上杉家にしても、三年前の大火で類焼した桜田屋敷と白金屋敷の建て直し、国もと米沢の火事の後始末、江戸城二ノ丸御殿の造営への賦役などの物入りが重なる時期に当たっており、そのうえでの吉良家への資金援助は相当な負担になっていた。
それなのに、当主の義冬・志保夫妻を筆頭として、依然として贅沢三昧をあらためる気配も見えぬ吉良家の家風に、富子の付き添いとして上杉家から派遣されていた老乳母・村岡や傅役・浅間五郎兵衛信忠は日ごとに苛立ちを募らせていく。
寛文二年(一六六二)正月、二十二歳の義央は高家としての初仕事を成し遂げたが、それにはこんな事情があった。
ここ数年、全国各地で頻発している火災や地震、水害に加え、伊勢神宮の炎上、京の大火による御所の炎上などが相次いだところへ追い打ちをかけるように全国的な規模の大地震が発生したので、たび重なる天変地異に恐懼した人びとは、一一一代・
次代天皇として白羽の矢が立てられたのは、弟の
謹んで平伏して重責を承った義冬は、高家としての手腕を公に披瀝できるうえ、京の公家衆に後継をお披露目する絶好の機会到来と考え、補佐役として息子・義央を同行させた。
義冬・義央父子はまず吉良家の姻戚筋を訪ねて天皇家を取り巻く組織図の糸口をつかみ、内大臣、右大臣、左大臣、関白など公家の幹部連に入念な根回しを行った。その結果、後西天皇には粛々とお引き取り願ったうえで一一二代・
ご公儀の覚えがますますめでたくなった年の春、富子は次女・
翌年正月、前年、京に顔見世したばかりの義央に願ってもない活躍の機会が巡って来た。
幕府の
一方、第四代将軍・家綱のご意見番だった酒井忠勝、さらに「知恵伊豆」こと松平信綱が没すると代わって頭角を現してきたのが老中・酒井忠清だったが、如才ない義央はさっそく酒井老中に近づいたので、吉良家の交際はいっそう華やかになってゆく。財政窮迫のなか、茶器、軸物、饗応、接待、進物と出費は嵩む一方となり、六月に着道楽の志保が他界すると、それまで無念を堪えていた富子の傅役・浅間五郎兵衛信忠がついに義央に進言する。
「殿さまに謹んでお願い申し上げます。ご当家とご実家の板挟みの奥方さまのご心情を慮られ、これ以上、上杉家に財政負担をかけないようにご配意いただけませんでしょうか」
だが、義央は妻の忠臣の心からの諫言(かんげん)をすげなく一蹴する。
「家臣の分際でいらざることを! 分をわきまえよ、分を!」
絶望した信忠はその夜、吉良家と富子への思いの丈を書き置いて自刃した。
二女・布利が七か月の短い命を閉じたのは、それから三日後のことだった。
7 上杉綱勝の急死で吉良三郎を養子に
寛文三年十月二十八日、富子は待望の男子・三郎を出産する。
――三郎を、ぜひとも、わが上杉家の仮養子に迎えたい。
資金援助を楯に吉良家に働きかけを行ったのは上杉家を仕切る生善院だった。結婚から四年を経ても子どもに恵まれない綱勝と継室の富子夫妻もこれを了承せざるを得なかった。
翌四年正月、生後三か月の三郎を上杉の桜田邸に迎えた生善院は、にぎやかな迎春の宴を催した。その年の春、国もとの米沢から江戸へ出て来た綱勝は、自分の仮養子となった甥の三郎と初対面を果たし、のち家綱将軍に拝謁して三十万石の領地判物を賜っている。
その綱勝に信じがたい異変が生じたのは閏五月一日のこと。
江戸城からの帰途、吉良邸に立ち寄った綱勝は、義冬、義央、妹・富子、姪や甥と酒食を共にし、夕刻には茶事でもてなされて、機嫌よく桜田邸へ帰って行った。
その夜半、はげしい嘔吐と腹痛が始まった。駆けつけて来た御典医も恐懼するほど腹部が異常に腫れあがり、昼夜を問わず七転八倒して悶え苦しんでいたが、六日の夜には手足が冷え脈が乱れ始め、七日卯の刻(午前六時頃)、あっけなく息を引き取った(享年二十七)。
発病までの経緯が経緯だっただけに、いまや飛ぶ鳥を落とす勢いの吉良家を妬む世間は綱勝の義弟・義央による「上杉乗っ取り説」を取り沙汰したが、幼少時より蒲柳の質だった綱勝はこれまでにも大病を何度か繰り返していたので、米沢からの長旅や不慣れな政務の疲労による罹患というところに落ち着いた。だが、発病の前夜に自宅でもてなした吉良家、とりわけ妹の富子は、義姉・援姫の一件を思い起こす兄の悶死にいたたまれなかった。
とつぜんの藩主の死は、上杉家の家中に大混乱をもたらせた。
なにはともあれ、つぎの藩主を決め、一刻も早く幕府に届け出ねばならない。
「この際、亡き援姫さまの弟君・保科正純さまを養嗣子に迎えられるのが本来の筋かと存じます」強硬に主張したのは、亡き綱勝の寵臣・福王寺八弥信繁だった。主の綱勝より二歳下、衆道関係も取り沙汰されていた信繁は、父親のような重臣たちに囲まれた綱勝にとっては家臣というより気心の知れた親友だったが、小姓から側近に成り上がった幸運を妬む者も少なくなかった。
縁戚といえど他家の血を入れたくない生善院や重臣らに反対され、そのうえ保科正之の固辞で保科正純案は信繁の独り相撲に終わる。傷心の信繁は、いまも敬愛してやまない亡き主君・綱勝の遺骨を奉じて高野山へのぼり、幻智と名乗って三年の喪に服すことになった。
となると、後継ぎの選択肢は限られて来る。
「いまとなっては、今日を予想したかのような仮養子の手筈だったことになろう。富子、な、頼みます。どうかこの母を助けると思って、三郎を上杉におくれ」
再三にわたる生母の懇願により、富子は襁褓(むつき)もとれていない赤子を手放すことを決意し、「上杉の繁栄は吉良ご当家のご繁栄。僭越ながら上杉なくて吉良家の未来はございませぬ。両家ともに生き延びるために、どうか三郎を上杉の養子にやることをお許しくださいませ」家中を懸命に説得してまわった。富子に言われるまでもなく、上杉家の後ろ盾がなくなれば、吉良家の財政も危うくなる。夫・義央、舅・義冬をはじめ主だった家臣も承諾せざるを得なかった。
かくて六月五日、吉良三郎あらため喜平次景倫(きへいじかげとも)による上杉の相続が決定するが、その裏に亡き綱勝の舅・保科正之から酒井忠清老中への働きかけがあったことは明らかだった。
生善院たっての要請で行われた仮養子の縁組みは、あくまでも吉良と上杉、両家の内々のことであり、まだ幕府には正式な末期養子として届けていなかった。であれば、本来は藩主の急逝と同時にお家お取り潰しとなるところだが、前将軍の異母弟である保科正之の懇願を受けた幕府は、羽州米沢三十万石を廃絶のうえで、あらためて米沢十五万石に半知(半分に削減)という苦肉の結着をつけることにしたのである。
――まことにありがたき幸せ。
関係者一同、打ち揃って平伏すべき場面ではあるが、ことはそう簡単な話ではなかった。ふつうなら廃藩になるところ格別のご采配だったとはいえ、五千余の家臣の俸禄を一率に半減するしかない上杉家仕置きの重責が生後七か月の赤子の双肩に担われることになったのであるから、乳飲み子の三郎を養子に出した富子の心配はひと通りではなかった。
七月十一日、幼い藩主を合議制で補佐することになった長尾権四郎景光ら五人の老臣は、藩の将来を託す喜平次の傅役を全員一致で保科(ほしな)勘(か)解(げ)由(ゆ)有(あり)澄(すみ)に決定したが、有澄は固辞する。
「そこを押して平にお頼み申す」
「人品骨柄にすぐれた貴殿以外には考えられぬ」
「上杉家の将来のために、ひと肌脱いでくださらぬか」
それぞれ言葉を尽くしての再三の要請に、有澄は条件を提示する。
――義冬さま、義央さま、富子さま、そして生善院さまは、喜平次さまの教育に関して、いっさいのお口出しご無用にございます。
うるさ型の確約を得て、大恩ある保科正之との同姓を憚って竹俣勘解由義秀と改名した有澄は、以後、肉親にもまさる情愛を喜平次の養育にかたむけ、十二年間の傅役を全うした。
気骨ある武士・竹俣勘解由義秀は、幼い藩主に謙信・景勝時代、ことに神仏を信仰し学問を愛した謙信の事績を鑑とするよう繰り返し語って聞かせるかたわら二十数年がかりの『北越武鑑』を編纂する。その一方で、江戸城の老中に掛け合い、もとの三十万石への復権をたびたび嘆願するなど上杉のために誠意を尽くした。約束どおり生母・富子はかげながら息子の成長を見守る立場を貫き、母・生善院の横紙破りを耳にすると、書簡でたしなめた。
8 吉良義央の領国・三河国吉良荘
寛文五年、将軍の東照宮参詣の折り、二十五歳の義央は父・義冬の名代として初めて
八年三月、父・義冬の没(享年六十二)により家督相続が許されると、そのお礼にと義冬の遺品から土佐光信の絵巻を将軍に献上した義央は、贈答の慣習をことのほか大切にした亡父を見倣い、以降、老中などへの付け届けをさらに丁寧に行うようになる。
八月、六歳の喜平次は将軍家綱に初御目見えを果たすが、その登城にも義央が同伴した。
九月、富子は三女・阿久利(女子の止め名)を出産する。
一方、義央の代になってさらに華美を極める吉良家の買掛金は六千両にまで達したが、「高家筆頭という立場上、ある程度の羽振りのよさはどうしても必要なのです。どうかそのあたりをご理解いただきたく……」拝み倒された上杉家が毎年千両ずつ肩代わりしている。
里帰りした富子にこぼす生善院の愚痴は決まっていた。「そなたの化粧料五千石に義央どのに遣わした分が千石で、計六千石。そのうえ、そなたに付けてやった上杉藩士二十二人の知行扶持までわが家が負担しておるのじゃぞ。なのに、さらなる無心とは、そなたの婿どのはなにを考えておられるやら」そう責められても富子にもどうしようもない。
――吉良家との縁組みに熱心だったのは母上ではありませんか。
言い返したい気持ちは黙って飲みこんだ。
そこへもってきて、生善院の長嘆息をさらに増やす出来事が発生した。捗々しくない取立に業を煮やして町奉行所へ訴え出た呉服屋伊兵衛をはじめ、さがみ屋又兵衛、薪屋庄兵衛らからの買掛金三千二百両まで上杉家が立て替える羽目に立ち至ったのだ。
そんな状況下、寛文十二年十二月二十八日、保科肥後守正之が没した(享年六十三)。
援姫誤毒殺一件以来、下手人として顧みられなかった継室・於万ノ方は、当初の座敷牢こそ解放されたものの、夫のそばに侍ることも許されず、肩身の狭い暮らしを強いられていた。
同じ家刀自として同情を寄せていた生善院は「上杉をお救けくださった方にかようなことを申し上げてはなんじゃが、大方の信濃人と同じく、肥後守さまもよくよく頑迷なお人柄と見える。長年連れ添った奥方がいかような人物かもわからぬとは、肝っ玉の小さきお方よ」小声で富子にこぼす語り口に歯ぎしりせんばかりの口惜しさを滲ませた。
延宝元年(一六七三)、三十三歳の義央は名跡を継いでより初めて領国の三河国吉良荘を訪問する。風光明美で温暖な吉良荘には岡山、横須賀、饗場、宮迫、乙川、小山田、鳥羽の七か村があり、その多くが飛び地だったが、なだらかな海に連なる三河湾の海岸には塩田が広がり、蜜柑や茶の生産も盛んだった。三か所の陣屋を拠点に、義央はいつもの贅沢を秘し、ふだん使いの駄馬「赤馬」で領内をくまなくまわり、下流に洪水被害をもたらす鎧が淵の治水などを即座に命じたので、領民は温かく飾らない人柄を慕い、だれからともなく義央は、
――赤馬さま。
と呼ばれるようになった。
この年、御三家のひとつ、紀伊中納言光貞卿の娘・栄姫(弟はのちに五代将軍・綱吉の女婿となる紀伊中将綱教)と喜平次の縁組が整い、その翌年春、喜平次の傅役をつとめてきた義秀が没する。当初の約束どおり上杉・吉良両家のだれにも口を挟ませず、わが手ひとつで育て上げたも同然の喜平次への遺言は真心あふれるものだった。
――甘言をささやく
翌年、喜平次は元服する。家綱将軍の一字をもらいうけて弾正大(だい)弼(ひつ)綱憲を名乗り、従四位下侍従に叙任された。同日、義央と富子夫妻の長女・鶴子(喜平次の姉)が喜平次の養女として島津綱貴(七十七万石)の継室に輿入れしている。
同五年九月、三十七歳の義央と三十四歳の富子に四女・菊子(清姫)が誕生した。
「もはや男子誕生の望みはお捨てになるべきがよろしいかと。ここはひとつご側室を……」用人の小林平八郎らのたびたびの進言を「なにも心配無用じゃ。跡取りが生まれなければ、そのときはそのとき、打つ手はいくらでもある」愛妻家の義央はきっぱりと退けている。
9 浅野内匠頭の叔父・内藤和泉守の斬付事件
延宝六年六月一日、綱憲(十六歳)と栄姫(十九歳)の婚礼が執り行われた。
大上臈、小上臈、介(かい)副局(ぞえのつぼね)、年寄、総女中など三十人を超える家臣団に守られ赤坂の紀伊屋敷を出立した嫁入りの輿が到着したのは、実家が御三家とあって下へも置けぬ花嫁のために上杉が新たに建て替えた麻布の中屋敷だった。念願の徳川御三家と姻戚を結んだ上杉家の出費は、以降、加速度的に嵩み、逼迫した財政はさらに困窮の一途をたどることになる。
たとえばこんな調子だった。学問好きで知られる五代将軍綱吉が、神田台に聖堂「孔子廟」を建立して昌平坂学問所を称すると、綱憲も米沢に学問所を造営したうえ、幕府の書院を真似て豪華な書院や能舞台を新設し、さらに金剛流宗家の金剛五郎四郎を召し抱える……。
一方、吉良家では、上杉の祖と仰ぐ謙信公に倣い毘沙門天に熱心に祈願した富子の努力が実ってか、この年十一月、待望の男子である二男・三郎が誕生したのだが、家中をあげての喜びもつかの間、わずか八歳で早逝する。
延宝八年は複雑な思惑が絡み合う因縁の年となった。
五月八日、四代将軍・家綱が没する(享年三十八)。
仕置きに不熱心で何事も家臣任せだったので、
――さようせいさま。
と仇名された家綱には子どもがいなかった。
消極的な将軍の代わりに権力を一手に握り「下馬将軍」と称されていた大老・酒井忠清は「鎌倉幕府の先例に倣い、次期将軍には有栖川宮幸仁親王こそふさわしい」と主張する。
かたや、老中・堀田正俊(外祖母である春日局の養子)は「本来なら将軍を継がれるべき綱重公(甲府城主)は二年前に急逝されている。となれば、弟君・綱吉公をさしおいて宮家から次代将軍を迎え入れるなど、絶対にあってはならぬことにて」と強硬に言い放った。
結局は末期の家綱の説得に策を弄した堀田正俊側が勝利したのだが、かねて酒井忠清と昵懇の間柄だった吉良義央は、今後の身の振り方に苦慮を強いられはしたものの、持ち前の機転で巧みに事態を切り抜けている。
五月十四日、天台宗東叡山寛永寺で家綱の葬礼が営まれ、さらに翌六月二十六日、浄土宗増上寺でも法会が営まれたのだが、この席で、かねて諍いがあったわけでもない法会奉行・永井信濃守尚長を警衛・内藤和泉守忠勝(浅野内匠頭長矩の母方の叔父)がとつぜん
奇妙奇天烈なこの一件は、綱吉時代に多発する大名家廃絶の発端となった。
増上寺の法会に参列していたため、不可思議な凶行の一部始終を目撃することになった四十歳の吉良上野介義央が、それから二十年後にまさか下手人・内藤忠勝の甥の浅野内匠頭長矩によって同じ目に遭わされようとは……。
ちなみに、義央はこの事件の概要を記録に残している。「増上寺本堂において永井信濃守殿と内藤和泉守殿が喧嘩。信濃守殿は深手ゆえに即座に死去。和泉守どのは清龍寺にて切腹を仰せつけらる。検使は板倉石見守、渡辺大隅守、能瀬惣十郎」
二か月後、五代将軍・綱吉の宣下(朝廷から武家が受ける最も重要な儀式)が執り行われ、高家筆頭・吉良義央は宣旨取次役(三代将軍・家光の同役は義央の祖父・義弥)をつとめた。
翌九月、将軍宣下の謝使として井伊掃部頭直興に従って上洛し、零元天皇より宗恒の太刀を賜り少将に任ぜられた。大老職を免ぜられた酒井忠清は、翌年五月に没する(享年五十八)。
10 五代将軍・綱吉の鬱屈と動物愛護令
本来の将軍候補から外れた立場で、生まれついての将軍教育を受けていないだけに常に周囲の目を意識し、当初から双肩に並々ならぬ力瘤が入っていたと見える五代将軍・綱吉の為政は前将軍の裁定を根底からくつがえす「越後騒動」の裁定に始まった。
藩主・光長の跡目相続をめぐって越後高田藩松平家に起こった御家騒動は、光長の妹婿で家老の小栗美作守に不服を申し立てた糸魚川城代・荻田主馬に処罰が下されていたが、この裁定に納得しない荻田派は将軍の代替を機に再審を請求してきた。
――これにて決案す。はやまかり立て。
先代の裁定を取り消した綱吉は、喧嘩両成敗であるとして松平家を取り潰し、藩主・光長は伊予松山藩、養嗣子・万徳丸も備前岡山藩預けとした。重臣の意見を図らず、綱吉が独断で行った半ば強引な裁定は、将軍後継の亜流としていつまでも軽視したがる世間の風潮に、一矢報いた格好になった。
天和三年(一六八三)、四十三歳の吉良義央は高家の最高位の
上杉家にも動きがあった。結婚後、三年経っても子どもができない綱憲に、養母の生善院がふたりの側室を招いたのだ。御三家から正室に迎えた栄姫にとっては残酷な仕打ちではあったが、綱勝が急逝したときのお取り潰しの危機だけはなんとしても避けるというのが上杉の家刀自としての役目と、生善院は信じて疑わなかった。
貞享元年(一六八四)八月、この頃は大老の職についていた堀田正俊が江戸城中で若年寄・稲葉正休に惨殺される。乱心を問われた稲葉はその場で処罰された。ふたり同時に失脚した堀田正俊と稲葉正休に代わって将軍の側近に重用されたのは、側用人の牧野備後守成貞と柳沢出羽守保明の両名だった。成貞は綱吉よりひとまわり上の戌年生まれ、保明(のち吉保)も同じく戌年生まれだったことが、のちの「犬将軍」を育てる素地となる。
あれほど忠義を尽くした堀田大老の遺族を綱吉が顧みなかったことにより、根が剛直で自分の思い通りにならない堀田が疎ましくなった将軍による策謀説が巷間で囁かれた。
「つごうよく働かせておいて、煙ったくなれば、古雑巾のように使い捨てかよ」
「使い捨てどころか、一気にばっさりやっちまうとはなあ。くわばらくわばら」
「結局のところ、あれだな、お上も下々も、人情に変わりはねえってえことさ」
そんな評判をよそに、綱吉と成貞、保明両名の親密度は増すばかりだった。将軍の柳沢邸への御成りは五十八回、牧野邸は三十二回にのぼった。あろうことか、両名とも好色な綱吉に妻や娘を献上し、柳沢の娘・貞(のち吉里)は綱吉の落胤と、もっぱらのうわさだった。
この年十一月七日、上杉家の米沢城で、綱憲の長男・勝千代(吉憲 生母は側室の要)が誕生した。翌年、紀伊家の綱教に将軍家の鶴姫(九歳 生母は側室・お伝の方)が輿入れ。将軍・綱吉と御台所・鷹司信子には子どもがなく、お伝の方が産んだ徳松は夭逝したので、この年四十歳になった綱吉は、娘・鶴姫に男子の出産を期待して輿入れを急いだものという。
同年七月十四日、将軍綱吉は初めての「動物愛護令」を発布する。「将軍御成の道では、犬や猫を繋がず、放しておいてよろしい」というお触れを見た江戸っ子は肝をつぶした。
11 浅野内匠頭、吉良上野介を斬る
貞享三年(一六八六)二月二十二日、上杉家の米沢城で綱憲の二男・春千代(義周 生母は側室・要)が誕生した。吉良家では四十六歳の義央が領地・三河の治水に黄金堤を築いた。
同五年、津軽政兕(つがるまさたけ)に輿入れしたばかりの三女・阿久利が没し(享年二十一)、心労で眼病を患った富子は身延山の七面天女に祈願する。同時に義央は、妻の眼病快癒を供養して三河の「
元禄二年(一六八九)十二月、五十歳を間近に控えた義央は、かねて上杉家に申し入れてあった孫・春千代の養子願を幕府に提出する。翌年、吉良家は五歳の春千代を鍛治屋橋邸に迎えた。付け人として新貝弥七郎が従って来た。
同八年五月、綱吉の命で大久保と四谷に大規模な犬小屋が作られ、住民は強制立ち退きを命じられた。翌年、十一歳の春千代は初めて将軍に謁見し、左兵衛義周とあらためる。
翌々年の夏、鍛冶橋邸の類焼で、吉良家は呉服橋に二千七百坪の替地を賜る。新たな拝領地は隣に松平弾正忠、蜂須賀飛騨守、戸田采女正、細川越中守、いずれも十万石以上の大名屋敷が並ぶ一等地だった。祖父であり養父でもある義央は屋敷の新築費用八千両の大半をまたしても上杉家に頼り、さらに米沢から普請奉行と五十人の大工も派遣された。
元禄十四年一月十一日、六十一歳になった義央は朝廷への年賀使として江戸を出立した。高家筆頭としての旅には、綱吉将軍の生母・桂昌院を従一位に昇階させるための根まわしの役目も隠密に仰せつかっていた。従来の慣例では従三位どまりのところ「出自の低い生母の、しいては、そのためもあって、なにかにつけて歴代将軍より軽く見られがちだった自分の名誉回復をこの機に一気に図っておきたい」という綱吉将軍たっての願望を託されていた。
二月四日、
二月二十九日、首尾よく上洛の目的を果たした義央は、早駕籠を飛ばして江戸へ帰着する。
そして、三月十四日。
江戸城松の廊下で待ち伏せていた浅野内匠頭長矩が、朋輩の高家衆とともにやって来た吉良上野介義央にいきなり斬りかかるという大事件が発生した。危うく一命を取り留めた義央は額に深手を負い、居合わせた留守居番・梶川頼照に取り押さえられた長矩は、のち、切腹を命じられた。先輩に当たる吉良義央への怨恨の理由はさいごまで明かされなかった。
12 赤穂事件と義周の流罪
――由姫どの。
ここから先はそなたも承知のことゆえ、事実のみを簡潔に語るに留めよう。
額に傷を負った義央は、蘭学医の栗崎道有の懇切な治療によって一応の快復を見たので、高家筆頭の御役御免を願い出たところ、上さまは至極あっさりと許可された。そればかりか、上杉家の援助を受け趣向を凝らして新築したばかりの呉服橋の屋敷をお召し上げになり、本所の古い空屋敷への替地をお命じになった。
府下とは名ばかりの、大川(隅田川)を渡った川向こうに当たり、長いこと空き家だったため板塀や壁土が無惨に崩れかけている古屋敷へ移転したのは事件から五か月後の盆過ぎだった。養母・富子が上杉家の白金屋敷に留まることになったことだけが救いだった。
十二月六日、再度の願い出によって義央は隠居、十七歳のわたし、義周が家督を相続し、表高家を称することになったが、それはまさに落魄という言葉がぴったり当てはまる辛い境涯だった。事件の一方的な被害者である吉良家が責を問われ、奈落の底に転落させられる結果になったことは、率直に言って、わたしにはとうてい納得しかねるものがある。
――歴代ご公儀への忠節は、この際、灰燼に帰されるおつもりですか?
できれば上さまにお訊ねしてみたいものと、いまもそう念じている。
強いて理由を探るとすれば、おそば近くお仕えする立場上、ご公儀の事々を詳らかに知り過ぎたがゆえではなかったかと、いまは亡き養父の独語のような呟きを思い返してもいる。
世に言う赤穂事件の発生は、元禄十五年十二月十四日のこと。
本所の代替屋敷で年納めの茶会を開いていた義父上を、浅野内匠頭の家臣の大石内蔵助良雄が率いる赤穂浪士が急襲したのだ。無念にも義父上は斬り殺され(享年六十二)、後日、牛込万昌院に埋葬された。翌年二月四日、襲撃時の対応の不首尾を理由として、信濃諏訪藩高島城に改易流罪とされた十八歳のわたしは、同月十一日、流人駕籠で江戸を出立した……。
13 吉良義周の永訣
――由姫どの。
前言を翻すようだが、わたしはもはやどなたをも恨んではいない。松の廊下で斬りつけた浅野内匠頭長矩。理不尽な仇討を果たした赤穂浪士を許された上さま。それにわたしの運命の遠い引き金となった援姫さま誤毒殺事件や上杉綱勝さまの急死に関わっただれをも……。
――なぜ、わたしだけが、かような目に遭うのだ。
世を儚み、だれかれを恨み、恥ずかしながら自暴自棄に陥った時期もあった。だが、いまはすべての事物を許したい、ありのままをそっくり受け容れたい。自分でも不思議なのだが、わたしの内にあれほど激しく渦巻いていた感情が消え失せたいまは、清らかな陽光が降り注ぐ諏訪湖の湖水のような心持ちに至っている。だれもが事情を抱え、偶然と見えた折々の事件は起こるべくして起こった、やむを得なかったのだと心底から思えるようになった。
――由姫どの。
わたしの命は、おそらく春まで保つまい。そのことはわたし自身がよく承知しているし、すでに納得もしている。ただ、この世に恨みを残して死んでいく無残な事態だけはなんとしても避けたいのだ。すべてを許し、受け容れ、心安らかに義父母と父母のもとにまいりたい。
――由姫どの。
そなたのことだけが心残りだが、いまでもわたしを大切に想っていてくれるのであれば、どうか良き縁を見つけて、いままでの分まで幸せになってほしい。それが死にゆくわたしの唯一の望みだ。
今宵はことのほか底冷えがするようだ。こうして臥せていても、布団の下から凍った湖の寒気が這い上がって来る。明朝は
湖面の南から北へ向けて亀裂が奔り、まるで山脈のように氷が盛り上がるのは、諏訪大社上社の男神さまが、下社の女神さまのもとを訪ねた跡と言われているようだ。
――わたしも、そなたのもとを訪ねられたなら……。
すっかり薄くなった胸で詮ない繰り言を述べても、まさか神罰は当たるまい。
エピローグ
宝永三年一月二十日(一七〇六年三月四日)。
前日から危篤に陥っていた義周は、諏訪高島城南ノ丸で没した(享年二十一)。
塩漬けにされた遺体は二月四日(三月十八日)幕府の検死を待って埋葬された。
――自然石で墓石を立ててほしい。
最後まで義周を守り通した二人の遺臣、左右田孫兵衛と山吉盛侍の懸命な懇願に応えて寺域の裏山を手向けたのは、諏訪大社上社本宮に隣接する鷲峰山法華禅寺の住職だった。
――一山を古墳と成す。
判官贔屓の目論見は、四代高島藩主・諏訪忠虎も承知していたものと思われる。
義周の死により、吉良家は廃絶する。生前の義周が「婆さま」と慕った生善院は江戸の上杉白金屋敷でその報を聞くと、孫息子のあとを追うように息を引き取った(享年九十二)。
いまはむかしの出来事となった援姫誤毒殺一件以来、夫・保科肥後守に排斥されつづけた亡き於万ノ方(享年七十二)の名誉の復活を最後まで気にかけていたという。
****
義周の客死から四十二年後の寛延元年(一七四八)八月、大坂の竹本座で、浄瑠璃作者で同座の座本でもある竹田出雲らの合作による『仮名手本忠臣蔵』が初演された。浅野内匠頭長矩の暴挙と家臣の仇討ちを面白おかしく歪曲し正当化した脚本だったが、庶民が好きな勧善懲悪が人気となり、のちの世に吉良上野介義央大悪人説を流布させる発端になった。
時代が昭和に入ってから、吉良家の所領だった愛知県吉良町の有志による吉良上野介の復権が図られたが、大衆受けする当初の脚本の恣意は根強く生き残り、三百余年後の現代においても、年末の歌舞伎興行などの演目として定着している。 [完]
望郷――吉良義周 🏯 上月くるを @kurutan
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