姫、トートバッグに潜る

五平

懐かしき日々 潜入!シーズー姫のトートバッグ作戦

静まり返った部屋に、カチャリ、と鍵のチェーンが揺れる乾いた音が響いた。純粋なシーズーである「姫」は、その音に全身の毛が逆立つような感覚を覚えた。普段は午後の日差しを浴びて、うとうとと昼寝をしている時間だ。だが、今日は違う。飼い主が普段着ではない、少しカチッとした外出用の服に着替えている。微かに香る香水が、姫の鼻腔をくすぐった。


(なんだこの匂いは……!いつものお散歩の匂いじゃないわ……!まさか、この私、姫を置いていく気!?)


姫の心の中で、緊急警報が鳴り響く。「私は姫よ。置いて行かれるなんて、プライドが許さないわ!」玄関へ向かう飼い主の足音に、姫はたまらず小さく「くぅん……」と鳴いた。その声に飼い主が振り返ると、姫はすかさず「最強のウルウルビーム」を発動する。上目遣いで、これ以上ないほどに潤んだ瞳を飼い主に向けた。


「ふふ、行かないでって顔してるわね。ごめんね、姫。ちょっと買い物に行ってくるだけだから」


ああ、ダメだわ。どうやら今回は最強のウルウルビームも通用しないらしい。過去の経験が脳裏をよぎる。お腹が痛いフリ、急に寂しくなったフリ、玄関に突っ立って動かないフリ……どれもこれも、優しい飼い主を困らせるだけで、結局お留守番という悲しい結末を招いた。プライドを捨ててまで、こんなことをするなんて……!でも、おやつには勝てないわ。


飼い主が、何かを忘れたのか、一瞬だけ背を向けた。その隙を、姫は見逃さない。まるで訓練された特殊部隊の兵士のように、姫は無音で、まるで床を滑るようにリビングの隅に置かれた青いトートバッグへと向かった。バッグの持ち手に前足を引っ掛け、そのまま頭からバッグの中に滑り込む。バッグの布の匂い、飼い主の優しい香り、そして少しだけ湿った地面の匂い。


(完璧よ!これなら気づかれないはず!……ふふ、私はトートバッグを拠点に街を偵察するスパイよ。この暗闇は、私の秘密基地!)


暗闇の中で、姫はひとりごちた。想像の中では、もう勝利の雄叫びをあげていた。スーパーのカートの中に座り、堂々と肉コーナーの前でスタンバイ。きっと、いつも美味しそうな匂いをさせている店員さんが、こっそりハムの試食をくれるに違いないわ。


(やったー!成功よ!これで私は、飼い主さんと一緒に、あの公園へ!あのベンチで一緒に日向ぼっこ!最高ね!)


姫が勝利の余韻に浸っていると、バッグの上から優しい声が降ってきた。


「ふふ、何やってるの?」


姫は慌てて飛び出そうとするが、もう遅い。飼い主がバッグの口を広げ、覗き込んでいる。姫は観念したように、じっと飼い主を見上げた。飼い主はくすくすと笑いながら、姫を優しくバッグから抱き上げた。おでこに柔らかいキスが落ちてくる。


「いい子にしててね。帰ったら、姫の大好きなおやつ、いっぱい買ってきてあげるからね」


その言葉に、姫は満足そうに目を細めた。ああ、「おやつ」って言ったわよね?待って、おやつってことは……。

姫の頭の中では、脳内の連想ゲームが暴走し始める。

(ササミジャーキーかしら?いや、きっとカリカリに焼いたチーズスティックよ!いや待て、最近飼い主さんがスマホで調べてた、あの贅沢な「犬用プリン」かもしれない……!もしそうなら、私は今日から本当にプリンセス!)


よだれが垂れそうになるのを必死でこらえながら、姫は飼い主の胸に顔をうずめ、安心しきったように目を閉じた。今日の作戦の失敗なんて、もうどうでもいい。最高の褒美が待っているのだから!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

姫、トートバッグに潜る 五平 @FiveFlat

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ