十月の夜風に、君の声を聴く
三角海域
十月の夜風に、君の声を聴く
第一章 再会の夜
死んだ人と話せるアプリがある。
遠藤晴樹は震える指で「トンネル」のアイコンを押した。話すのは三ヶ月ぶりだった。
「晴樹くん、久しぶりね」
柔らかな声が夜の静寂を破った瞬間、晴樹の目には涙があふれた。図書館前の石段に腰を下ろし、スマートフォンの画面を見つめる。
街の灯りが滲んで、まるで水彩絵の具を溶かしたみたいに見えた。そんなことを思うのは、きっと五月の影響だろう。彼女はいつも、ありふれた風景を絵に例えて話していた。
「五月……」
仁科五月。三ヶ月前に交通事故で亡くなった、彼の恋人。美大を出て小さなアトリエで絵を描いていた彼女。現実的で、それでいて優しかった。
「泣いてるの?」
スピーカーから聞こえる声は、確かに五月のものだった。少しハスキーで、でもあたたかい。笑うときの癖も、話し方の間も、すべてが記憶通りだった。
「君が死んでから、僕は何も書けなくなった」
晴樹は詩を書いていた。五月は彼の詩を読んで、「晴樹くんの言葉には色がある」と言ってくれた。でも今は、白紙のノートを前にしても何も浮かばない。
「でも今夜は違うでしょう? こうして私と話してるじゃない」
画面には波形が踊っている。音声解析のようなグラフィックが、五月の声に合わせてゆらゆらと動いていた。このアプリ、「トンネル」について晴樹が知っているのは、死者の「残留思念」とやらを電磁波として捉え、それを音声に変換するという話だけだった。胡散臭い話だと思っていたが、実際に五月の声を聞いた今、もうそんなことはどうでもよかった。
「覚えてる? 画材屋で初めて会ったときのこと」
「ああ……」
晴樹は目を閉じる。あれは二年前の春だった。
第二章 記憶の風景
色をテーマにした詩でも書こうかと思い、詩集を探しに来た帰りに晴樹は神保町の小さな画材屋に立ち寄った。
その店の奥で、ひとりの女性が絵筆を手に取って光にかざしていた。
女性――五月は、まるで宝石を見るような目で筆を見つめていた。
「絵を描かれるんですか?」
気がつくと晴樹は声をかけていた。
「ええ。でも下手なんです。だから、せめて道具だけは良いものをって、変でしょうか?」
五月は笑った。その笑顔に、晴樹は心を奪われた。
「僕は詩を書くんですが、同じですよ。才能がないから、せめて良いペンをって」
「詩人さんなんですか? 素敵ですね」
それが始まりだった。
「あの日、君は水彩絵の具を十二色も買ってたね」
「覚えてるのね。嬉しい」
スピーカーから聞こえる五月の声は、あの日と変わらなかった。
「美術館にも一緒に行ったっけ。君はいつも、絵の前で長い時間立ち止まって、僕にはよく分からない話をしてくれた」
「退屈だったでしょう?」
「そんなことない。君の話を聞いてると、僕にも絵が違って見えたから」
「本当?」
「本当だよ」
あの頃の記憶が、まるで昨日のことのように蘇ってくる。
「公園の坂道も歩いたね。桜が咲く頃だった」
「そうそう。あの坂、きつくて息が切れちゃって。でも晴樹くんが手を引いてくれた」
「君は『坂道って、人生みたいね』なんて言ってた」
僕たちの時間は頂上に着く前に終わってしまった。晴樹はそう思ったが、口には出さなかった。
「ねえ、晴樹くん」
「何?」
「私たち、幸せだったよね」
「……うん」
幸せだった。間違いなく、あれが晴樹の人生で最も輝いていた時間だった。
第三章 トンネルの仕組み
「でも、ひとつ聞いていい?」
五月の声が、急に真剣になった。
「何?」
「私は……本当に私なの?」
晴樹は息を呑んだ。五月が自分の存在を疑っている?
「残留思念って言うけれど、本当は集合的な電磁波でしかないんじゃないかしら。個人の記憶や人格じゃなくて、もっと大きな情報の海みたいなもの」
画面の波形が揺れる。まるで五月の迷いを表すように。
「このアプリは、その波形を解析して、人格らしきものを疑似的に再現してるだけかもしれない」
晴樹は胸が苦しくなった。そんなことを考えたくなかった。
「つまり、私は五月の記憶を持った、ただのプログラムかもしれないってこと」
「そんなことない」
「でも可能性はあるでしょう? 晴樹くんの記憶と期待を元に、アルゴリズムが作り出した『五月らしきもの』」
「君は五月だ。声も、話し方も、考え方も、すべて五月のものだ」
「本当にそう思う?」
晴樹は答えられなかった。確かに疑問に思ったことはあった。この声は本当に五月なのか、それとも自分の願望が生み出した幻なのか。
「科学的に考えれば、死んだ人間の意識が電磁波として残るなんて、非現実的よね」
「でも……」
「でも、何?」
「君がそんなことを言うなんて、それこそ五月らしいじゃないか」
しばらく沈黙があった。
「そうね。私らしいかもしれない。でも、それさえもプログラムされた反応かもしれないわ」
晴樹は頭を抱えた。この会話の意味は何なのだろう。五月は何を伝えようとしているのだろう。
「ねえ、晴樹くん」
「うん」
「もし私が偽物だったら、どうする?」
「偽物なんかじゃない」
「もし偽物だったら、って聞いてるの」
晴樹は長い間黙っていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「偽物でも構わない」
「え?」
「君の声が聞けるなら、君と話せるなら、それが偽物でも構わないんだ」
第四章 幻想と現実の狭間
「それは逃げよ」
五月の声が、突然厳しくなった。
「逃げじゃない。君を愛してるからだ」
「愛してるのは私? それとも私との思い出?」
「五月……」
「答えて」
晴樹は答えられなかった。確かに、彼が愛しているのは過去の五月だった。生きていた頃の、温かい手を持った五月だった。
「私はもう死んでるのよ、晴樹くん」
「分かってる」
「分かってない。分かってたら、こんなアプリに縋らないもの」
晴樹の目から涙がこぼれた。
「君がいないと、僕は何も書けないんだ。何も感じられないんだ」
「それが問題なのよ」
「何が問題なんだ」
「私に頼らなくても、晴樹くんは素敵な詩が書けるはず。私がいなくても、美しいものを美しいと感じられるはず」
「でも……」
「でも、何?」
「でも、君がいた時の方が、世界は輝いて見えた」
「それは当たり前よ。だって、恋をしてたんだもの」
五月の声は優しく、少しだけ照れているようにも聞こえた。
「私はもういない。でも晴樹くんは生きてる。生きてる人は、生きてる人を愛すべきよ」
晴樹は立ち上がった。石段の冷たさが、現実を思い出させた。
「君以外愛せない」
「愛せないんじゃなくて、愛そうとしてないだけ」
「違う」
「違わない。晴樹くんは私への愛に逃げてる」
晴樹は反論しようとしたが、言葉が出なかった。
「覚えてる? あの日、私たちが最後に会った日」
晴樹の胸が締め付けられた。あの日のことは、思い出したくなかった。
「君は僕に別れを切り出した」
「そうね」
「なぜだったか、僕にはまだ分からない」
「分からない? 本当に?」
晴樹は黙った。
「私、気づいてたのよ。晴樹くんが私を理想化しすぎてることに」
「そんなこと……」
「私を完璧な恋人、完璧な女性として見てた。でも私は完璧じゃない。普通の女の子よ。嫉妬もするし、機嫌も悪くなる。でも晴樹くんは、そういう私を見ようとしなかった」
晴樹の記憶に、あの日の五月の表情が蘇った。悲しそうで、でも決意に満ちた顔。
「そして今も同じ。晴樹くんは私を理想化して、思い出の中に閉じ込めてる」
「でも僕は君を愛してる」
「愛してるのは思い出の中の私。本当の私じゃない」
晴樹は何も言えなくなった。
第五章 決断の瞬間
「ねえ、晴樹くん」
しばらくの沈黙の後、五月が口を開いた。
「うん」
「私のこと、忘れて」
「そんなことできない」
「なら、せめて囚われないで」
晴樹は石段に座り直した。
「どうすればいいんだ」
「前に進んで」
「君なしで?」
「私なしで」
風が吹いて、街路樹の葉が舞った。
「怖いんだ」
「何が?」
「君を忘れてしまうことが。君との思い出が色褪せることが」
「忘れないわよ、きっと。でも思い出は思い出のままにしておいて」
「君がいなくなったら、僕は詩を書けるのだろうか」
「書けるわ」
「なぜそんなに断言できるんだ?」
「だって、晴樹くんの才能は、私が与えたものじゃないもの。もともと晴樹くんの中にあったものよ」
晴樹は空を見上げた。星が見えた。
「君と話すのは、これが最後になるのか?」
「そうね」
「寂しいな」
「私も寂しいわ。でも、それをネガティブにとらえないでくれたら嬉しい」
晴樹はスマートフォンを握りしめた。
「ありがとう、五月」
「何に対して?」
「愛してくれたことに。そして、手放してくれることに」
「どういたしまして」
五月の声は、穏やかだった。
「最後に、ひとつだけ言わせて」
「何?」
「さようなら、晴樹くん……愛してる」
「僕もだ。さようなら、五月」
第六章 余韻
通話が切れると、スマートフォンの画面が暗くなった。。
晴樹は立ち上がり、石段を下りた。夜の街を歩き始める。行き先は決めていなかった。ただ歩きたかった。
コンビニの前を通り過ぎた。カップルが缶コーヒーを買って出てきた。女性が男性に何かを言って、ふたりは笑い合った。晴樹は彼らを見て、少しだけ微笑んだ。
信号で立ち止まる。向こう側に、遅い時間まで開いている本屋があった。詩集のコーナーに新しい本が並んでいるかもしれない。
本屋の前で立ち止まり、ウィンドウを覗く。新刊コーナーに、知らない詩人の本があった。『心窓』というタイトルだった。
店に入り、その本を手に取る。パラパラとページをめくると、ひとつの詩が目に留まった。
『忘却について』
晴樹はその詩を読んだ。死別の痛みについて歌った詩だった。でも最後は、生きることの美しさで終わっていた。
晴樹はその本を買った。
外に出ると、風が頬を撫でていく。十月の夜風。少し冷たいけれど、気持ちよかった。
ポケットから小さなノートを取り出す。詩を書くために持ち歩いているノート。三ヶ月間、白紙のままだった。
ペンを取り出し、最初の一行を書く。
「十月の夜風が頬を撫でていく」
手が止まる。次の行が浮かばない。
でも、焦らなかった。今夜書けなくても、明日書けばいい。明後日でもいい。
角を曲がると、二十四時間営業のカフェがあった。晴樹は中に入り、コーヒーを注文した。窓際の席に座り、ノートを開く。
「十月の夜風が頬を撫でていく」
その下に、もう一行書いた。
「君の声は もう聞こえないけれど」
そして三行目。
「風の音に 君の笑い声を聞く」
晴樹は書き続けた。五月のこと、別れのこと、そして今夜のことを。言葉が、久しぶりに流れ出てきた。
窓の外では、街の灯りが滲んでいる。美しい夜だった。
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