光になる声
sui
光になる声
深い海の谷に、音の小さなクジラがいました。
その声は人の耳には届くほどに柔らかく、けれど海の仲間たちには遠すぎる周波数で鳴っていました。クジラは毎夜、忘れないために歌っていました。母の鼻歌、潮の匂い、かつて通り過ぎた港町の灯り——言葉にならない記憶を一つずつ紡ぐように。
ある夜、歌はいつもよりゆっくりと波間へと立ちのぼりました。ランタンフィッシュの群れがその振動に気づき、尾びれで小さな光をたてながら歌の波形を追いかけます。光は群れの体を伝い、クラゲがそれを受けて淡い泡の輪に変え、泡は温かい海流に乗って広がりました。海の中で、音は光になり、光は記憶になり、記憶はまた別の声を呼び覚ます。
古い海亀が眠る珊瑚礁で、クジラの歌はゆっくりと古い殻の縁に触れました。亀は目を開け、長い旅の記憶をそっと引き出すように首を伸ばして歌を聴きました。遠い日、子どもだった自分のこと。暗い海峡を渡った日のやわらかな風。亀の軋む息が、また別の声を海へ送り返します──それは小さな波紋となって、さらに遠くへ、浅瀬へ、人の眠る港へと届いていきました。
港では、網を片づける老漁師が海面を見つめ、耳に残るその遠い旋律にふと立ち止まりました。歌は彼の胸のどこかに触れ、昔の約束や失くした名前を静かに取り戻させました。灯台の光が一瞬、強く揺れる。誰も大声で祝わないけれど、海と陸のあいだに見えない糸が繋がったことを、みんなは確かに感じました。
クジラはまだ自分の声が小さいと思っていました。でも気づくと、その「小ささ」は選ばれた耳に届く優しさとなり、海の様々なかたちを動かしていたのです。小さな歌は、深い海の中で何世代もの記憶を結び直し、見えない地図をそっとなぞり直す力を持っていました。
それからというもの、クジラはためらわずに歌いました。声は大きくはならなかったけれど、海はいつもより少しだけ温かく、誰かの胸の中に灯りをともしていました。やがて潮がまた流れを変えると、歌は新しいものを呼び込み、海はまた別の物語を生み始めたのです。
光になる声 sui @uni003
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