ノビの大活躍――いくら丼の奇跡【トランザニヤ物語SS】

楓 隆寿

ノビの大活躍――いくら丼の奇跡【トランザニヤ物語SS】

 


──この世に、神の涙と呼ばれる食材がある。

 それは東方の海よりさらに彼方、竜鱗の海を越えた先、『極北の荒波』でしか獲れぬ幻魚リュウグウノートの卵である。


 透明な珠は、炎のような赤。

 光を受ければ宝石のごとく輝き、舌の上で弾ければ、深淵の潮騒がそのまま口内に押し寄せる。

 それを人は畏敬を込めてこう呼んだ――紅玉珠(こうぎょくしゅ)。


 リリゴパノアの料理人ノビは、ある日ひとりの姫に呼び止められた。

 銀糸のような髪を風になびかせるその少女は、氷の王国の末姫、リュミナ。


「料理人ノビよ。そなたに、わが国を救ってもらいたい」


 唐突な願いに、ノビは目を瞬かせる。

 聞けば、北方の都を覆う氷霧の呪いを解く唯一の手段は、〈紅玉丼〉を供することだという。


「しだっけ……丼?」


「そう。『ヤマト』の古き文献に記されていたのです。“紅玉珠を白き雪に敷き詰め、魂の熱を宿した器で供すれば、氷霧は晴れる”と」


 つまり、それは――”いくら丼”だった。


***


 ノビとリュミナは、竜鱗の海を渡り、荒れ狂う吹雪の大海原へと漕ぎ出す。

 伝承によれば、リュウグウノートは海竜の守護を受ける魚。

 普通の網や槍では絶対に捕らえられぬ。


 案の定、巨大な鱗の影が海中に揺れ、船を転覆せんと迫る。

 だがノビは怯まなかった。


「料理人にとっで、鍋も釜も武器のひとつなんさ!」


 そう言って彼は魔導鍋を逆さに掲げ、炎の呪文を唱える。

 瞬間、鍋底から放たれた火焔は竜の注意を逸らし、リュミナが氷の魔法で波を鎮める隙に、彼は見事リュウグウノートを釣り上げた。


 こうして、宝玉のような卵が手に入った。



***


 

 だが、材料を得ただけでは丼は完成しない。

 まずは白き雪に見立てるため、極北の大地に自生する〈氷稲〉を収穫する必要があった。

 氷稲は零下の風に晒されると即座に砕け散る、極めて繊細な穀物。

 そこでリュミナは唱えた。


「我が手に宿る風の結節よ、凍てつく北風を撫でる温かな息へと

 氷晶の囁きをほどき、鋭き刃を慈しみ、止まぬ冷気の帳を解き放ち

此の場に安穏なる温風を呼ぶ。氷の風よ、退け、そして和らぎ給え!」


王家秘伝の魔法陣を展開し、氷の風を和らげる。


「すげーんさ、やっぱり、姫は……」


 そう言ってノビは稲を刈り取り、温かな焚き火のもとで丹念に蒸す。

 粒は雪より白く、もちもちと光を放った。


 ……これが、紅玉珠を受ける白銀の大地なんさ。


 彼は心の中でそう呟く。



***


 しかし、最後の難題が残っていた。

 文献には『魂の熱を宿した器』とある。

 ただの器では、いくらを盛ることはできぬ。


 そこで二人が訪れたのは、火山の麓に暮らす鍛冶師の里。

 そこには、溶岩をも呑み込むと謳われる【火霊土】が眠っていた。


 エルダードワーフの鍛冶師、ボルト・サンダースは試すように言う。


「この土に、お前の命を注げるか」


 ノビは迷わず頷いた。

 両手に魔力マナを集め、血潮を混ぜながら土を練り上げる。

 赤黒く脈打つ土塊は、やがて丼の形に固まり、内側から温かな光を放ち始めた。


「これなら、珠の命を決して冷やさぬ……」


***


 氷霧が街を覆う夜。

 城の広間にて、紅玉丼が調えられた。


 白雪のごとき氷稲の飯の上に、宝石の卵が惜しみなく盛られていく。

 丼から立ち昇る湯気は、竜の吐息のように温かく、甘やかに香る。


 リュミナが一匙すくい、唇に運んだ瞬間――


 ぱちん。


 珠が弾ける音が、静寂の広間に響いた。

 とたん、氷の呪いが解けるように、都を覆う白い霧が晴れていく。

 月明かりが差し込み、人々は歓声を上げた。


「これが……紅玉丼の奇跡……!」


***


 宴は夜通し続いた。

 人々はこぞって紅玉丼を口にし、その度に笑みが溢れた。

 ノビはひとり盃を傾け、ほっと息をついた。


「いくら……丼。氷の王国でも通じたんさ」


 リュミナが隣で微笑む。


「あなたはただの料理人ではありません。命を救う英雄です」


 しかし彼は首を振った。


「料理は、食べる者がいて初めて完成するんさ。オラはその橋渡しをしただけなんさ」

 

夜空には、星々が無数のいくらのように瞬いていた。



「うめーな、いくら丼。オラ、大好きになったんさ!」





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