第12話 終章 暖かな涼風

 ハンドルに体重を預けてようやく歩く僕に付き合い、さつきちゃんも自転車を押して一緒に歩いてくれた。とぼとぼ歩く僕のスピードに合わせたせいで、さつきちゃんも帰りがかなり遅くなってしまった。さつきちゃんの家が近づき親水公園を突っ切ろうとする地点まで来ると僕は疲労困憊した状態になってしまっていて、更にスピードが落ちた。さつきちゃんの家はもう後300mほどなので、もう行って、と言ったのだけれども、もう少し僕に付き添うと言ってくれた。

「かおるくん、ちょっと座った方がいいみたいだよ。もし、よければそこからの眺めがきれいだから、どう?」

 さつきちゃんはちょっと先のベンチを指さす。僕は疲れて背中が丸まってしまい、公園の景色など見ている余裕もなかったので、言われるままにベンチまで歩き、自転車のスタンドを立ててベンチにへたり込んだ。

「ほら」

 さつきちゃんの声にようやく顔を上げて見てみる。

「あ」

 公園に引き込まれた運河の支流に沿って、薄いブルーのライトが幾つも配置され、それが水面にも映ってさざ波に揺れている。水面に映っているのはその光だけではなかった。

 この公園用にデザインして建設されたカフェの外装とガラス張りの店内から漏れる暖かな灯り。それから、秋に完成したブライダル施設の結婚披露宴用のレストランのライトアップの光。それらが混ざり合うか単独での煌めきを残すか、というぎりぎりの配色で運河の優しい佇まいと公園の木々や芝生や草にも反射している。

「見て、かおるくん」

 さつきちゃんがそれらの夜の風景の更に上を指さす。

 3月末の細い月が、冬の空気の透明度をまだ残した空に昇っている。その空気の下に、堤に沿って植えられた桜の木の蕾の香りまで流れてくるような気がする。

「かおるくん」

 もう一度声を掛けられ、僕は無言でさつきちゃんの方に顔を向ける。

「あの男の子、助かるよね?」

「・・・・分からない・・・」

 僕はそう答えた。冷たいだろうか。でも、本当に分からないし、あの子が助かるかどうかということすら考えずに体が勝手に動いていただけなのだ、実際。

「助かるといいね」

「うん」

 さつきちゃんも疲れたのだろう、ぐっと背伸びをしてさっきまでの緊張感でこわばった筋肉をストレッチしているようだ。僕はその様子を見ると、突然質問したくなった。

「そう言えば、僕が岡崎にパイプで殴られた時のことだけど・・・」

 さつきちゃんは僕の方に顔を向ける。

「あの時、その・・・僕の頬に・・・」

「あ・・・チューしたことでしょ・・・ごめんね、つい、癖で・・・」

「癖!?」

 僕は、一瞬、気が気で無くなった。癖って・・・どういう意味?他の誰かにもあんなことしてるってこと?

「うん。親戚の小さな子とかが転んで泣いたりした時にほっぺたにチューして‘泣かない、泣かない’ってやってあげてるから。耕太郎が小さかった頃も泣くとそうしてたよ。小学校に入ってから嫌がられてもうさせて貰えないけど」

「そっか。僕は耕太郎と同じ扱いなんだ・・・」聞こえないように呟く。

「大丈夫?もしどこか痛かったり辛かったりしたら、またしてあげるよ」

「いや、いい、いいよ。大丈夫」

 どこまでが冗談でどこまでが本気なのか分からない。けれども真顔で言うさつきちゃんの表情を見ながら、僕は恥ずかしくて顔がかあっと赤くなるのが自分で分かった。月の光は2人の顔を白く照らし、そのお蔭で僕の顔の赤らみは分からないだろうから、ありがたい。

「もう、3年生だね」

「うん」

「かおるくん、春休みの残りも受験勉強?」

「実は、兄貴の所に顔を出そうと思って」

「お兄さんの所?」

「うん。○△県で1人暮らしして大学に通ってるって話したよね。大学に入ってからお盆も正月も一度も帰省しないから、両親も心配してるし。二泊三日ぐらいで押しかけようかなと」

「そっか・・・じゃあ、お兄さんとは久しぶりの対面だね」

 どこからかバイオリンとドラムの音が聞こえて来、それにシンセでベースの音色を歌うキーボードが重なる。向こう岸の野外簡易ステージで若い女性バイオリニストと、男性のキーボーディスト、それに女性ドラマーが優しい・絞った音量で演奏している。公園に来た人たちはその美しいメロディーに聴き入っている。手をつないでステージを見つめる男女もいる。

『なんていう曲だろう?』

 僕は心地よいメロディーに目を閉じると急に眠くなった。ぼんやりとした意識の中、『かおるくん、かおるくん、風邪ひくよ?』という声が微かに聞こえる。

 僕が寝言のように、うん、うん、分かったよ、と返事をすると、

‘かぷっ’

という、小鳥の嘴が右頬を齧るようなユーモラスな感触があった。

 僕は、眠さのあまり、ああ、またさつきちゃんが僕の頬を齧ってるんだな、と思っただけで、そのまますやすやと寝息を立て始めていた。

僕はこの2年間で彼女の不思議な感覚の世界の住人になってしまったようだ。



おしまい


















































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月影浴2 ノイズ~静寂 naka-motoo @naka-motoo

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