第9話:壊滅の予兆

 刺繍布に現在の予兆を示す星配置の‘天’の術式を敷き、祭壇からもんもんと立ち込める香の煙と、自分の口から発せられる単調なリズムに招かれたとろんとしたトランス状態の中、これも茫とした意識をもたらす元である半眼でじっと水晶玉の内を見つめ続け、トーイス家独自の‘人’の占術を行う。


 と、麻痺させられた五感と、際限なく動かし続けられる舌に覚える軽い疲労感のため、かくと首が前に傾いで一瞬目の前が真っ暗になって意識が落ち込み、次に目を開けた瞬間、目の前の透明な水晶玉の、先ほどからじぃと付かぬ焦点を向けていた中心部の辺りからもくもくと黒い煙のようなものが丸く小さく立ち込め始め、膨らんでいったそれはあっという間に水晶玉の全体に広がっていった。まるで、中が空洞で、ガラスの壁に遮られたかのように、球形の水晶玉の中一杯を黒い煙が覆い尽くす。もちろんこうした光景が見えるのはトーイスの血を引き、その占術法を行っている私だけで、他の者がこの場に居合わせたとしても、ただ私が相変わらずぶつぶつと何かを唱えながら透明な水晶玉をとろんとした眼で一心不乱に眺めているようにしか見えないだろう。


 その黒い煙がもくもくと内に立ち上った時、私は香の煙と、唱え続ける呪文の混濁した意識の中で、思わず息を呑んだが、なおも、術式に没頭するべく、頭の片隅で冷静を意識する。しばらくすると、今度はその黒煙の右側に赤い煙が立ち上った。これを見た私は今度こそ目をかっと見開いて、呪文を唱え続ける口も止めた。瞼を半ば閉じた半眼がもたらすとろんとした感覚と、絶えず動かし続ける舌の痙攣的な痺れから解放され、覚醒する。


 徐々にはっきりした意識を取り戻すと、それに伴って、トーイス家独自の‘人’の術式が中断されることにより、水晶玉の内に現れた黒と赤の煙の幻影ビジョンは球の中心に向かってゆっくりと吸い込まれるかのような動きで消えて行く。その様を凝視し続けながら、私は自分の息遣いが荒くなり、顔から大粒の汗が噴き出るのを自覚していた。ついに、先ほどまで水晶玉の内を完全に覆っていた黒い煙の最後の一筋がふっと中心部に消え、また元の透明な水晶玉に戻ってもなお、見開いた眼をそこから外すことがなかった。室内をたゆたう香煙の甘ったるい香りが鼻の辺りをくすぐる。

 今目の当たりにしたのは半端な凶兆ではない――大凶兆だ。黒煙は明らかに迫る不穏な災厄であり、後に生じた赤は――壊滅だ。遅れて生じた赤い煙は、先に現れた黒煙を徐々に圧倒して広がっていき、ついに水晶玉の内の3割を占めるに至った。途中で緊急性を察知したのと堪え切れなさから中断したが、そうでなければ恐らく半分以上まであの不気味な‘血煙けつえん’――トーイス流の占術でのこの予兆の呼び名だ――が水晶玉の内部を覆うに至っただろう。今まで宮廷内の使命で失せもの探しや捜し人などの小さな事件ばかり扱っていた私にとって、このような、特に戦時での災厄と壊滅を示す黒煙と血煙の予兆はトーイス流の占いの教本中でしか見られないものだった。無論普段の修行内でこれらを水晶玉に見出すはずもなく、いずれは祖父ゼービの跡を襲って――いかな伝説の占い師といえど、祖父がいつまでも生き永らえるはずはないと承知してはいても、私のように持って生まれた血の特別さ以外には何一つ才能など無い人間があれほど偉大な人物の跡を継ぐなど、私には大それたという想い以外抱けなかったが――国を背負う占い師として立ち、戦争にも従事するうち有事に出くわしてこのような占いの結果を見ることも覚悟はしていたが、まさか祖父に命じられてのこの初従軍で目にすることになろうとは。


 私は再び大きく喘ぎ――甘ったるい香煙を口から喉の奥に思いきり吸いこんでしまい、むせてしまった。咳き込むうち、今しがたの破滅の予兆の黒と赤が頭をよぎり、そのはっきりした不穏さに頭がふらつく気分の悪さを覚え、今度は思わず吐きそうになった。必死に口に手を当て、戻しそうになるのを堪えるが、胃液が食道を逆流し、強い酸の刺激が喉と口腔内を侵すのを感じた。閉じ合わせた唇の間から、手で口を押さえた隙間を通って少量の胃液が漏れ出で、一滴の滴となって、口元から尾を引いて垂れ下がりながら、座しているクッションと下に敷いた絨毯の間に落ちた。私はそれを見やりながら、口中に残った酸をごくりと飲み下し、手首と袖の辺りでごしごしと汚れた口元を拭った。普段なら当然気に掛けるところだが、今は部屋の調度や服――袖――に付いた汚れなどどうでもよかった。慌てて立ち上がると、左側の壁際の棚の上に置いてある陶製の水差しから、すぐ脇のこれも陶器のコップに水を注ぎ、ぐいっと口に含み、しばしその水の塊を口の中でゆっくりと隅々まで動かした後、ごくりと飲み込んだ。


 戻した胃液の酸の刺激と臭いを水で清めると、水差しの横に置いてある、細長い柄の先に小さな杯がついた蝋燭消しを手に取り、室内の他の灯りはそのままに、祭壇上の二本の蝋燭にその杯を被せて火を消した――儀式が終わったからというのもあるが、主に、木製の祭壇の、蝋燭や香を置くための張り出した台と祭壇本体の距離が少し近いため、万が一の火事を恐れてのことだ――。その際、今しがた私に下った神託を受け取る力を授けてくれたモノテーとトーイスの二神の像が、先の災厄の予兆を受けた私の目に太古よりの運命の使者としての姿を一層重々しく現していた。果たして二人の視線が絡み合う箇所に彼らはどのような運命を見ているのか――


 蝋燭の灯が消え、薄暗くなった祭壇下から、翳を増し、一層物々しくなった二人の像を一瞬眺めた後、私は早く飛び出て注進に向かうべく、身を翻してまだ部屋の内から駆け出した。

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窮国の占い師 猫大好き @nekodaisukimyaw

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