風操士

@emma

風操士


1. 光る海


 南の圏域の静かな海の底に、人知れず光る海藻の森があった。ある新月の夜になると、真珠のような輝きが海面を陽炎のように照らし、まさか妖精でも現れはしまいかと、もうそこに何十年も通っている老人でさえ、いつも心が騒ぐのだ。

 彼は、揺れる舟の上から錨を打つと、海の中に飛び込んだ。黒く痩せた体は、ずんずんと海の底に沈み、間もなく海藻へとたどり着いた。もうだいぶ弱まってしまったとはいえ、一帯は真夏の海のようにまだまだ光に満ち、魚たちの青みを帯びた銀色の反射が、漆黒の天から降り注いでいる。魚たちは、海面にわずかな光をも漏らすまいと申し合わせているかのように、濃い群れをなし、銀河のようにいたるところで渦を巻いている。

 もうあと何回来られるのか…。束の間の海の底で何より先に思い浮かべることはいつも、老いてしまった自分と、守るべき一族の行く末だった。彼は、目の前に揺らめく一本の海藻の根本に素早くナイフを入れ、舟へと持ち上がった。獲物は、舟の前半分を覆うようにずっしりと横たえられた。

 風は、自分の暮らす地に向かって、およそまっすぐに吹いている。進路を定めて帆をいっぱいに張れば、舟は真夜中の光の点となって、静かに、しかし力強く速度を上げていってくれるだろう。舞い上がった波しぶきが、海藻の光を含みながら強く後方に吹き飛んでいくに違いない。いつにない快調な航海――。しかし、それは、彼にとって不安と期待を誘うものでもあった。


 ずっと昔のことだ。彼は、いつものように漁をしていた。天気は穏やかで、凪いだ海は夕日を鏡のように映していた。獲物は、銛で突いた魚が数えるほどで、この日はいくら頑張ってみてもほとんど魚の姿を見つけることができなかった。

 彼は、美しく映える夕日に魅入りながら、少しずつ帰る用意を始めた。獲物の入った箱を紐で固定し、帆を張り、錨をあげるくらいのものだが、こんな風のない日に帆を張ったところで何の役に立つのか、と半ば苦笑いしながら、帆柱の上部で手を動かしていた。

 そのとき沈んだ夕日の残光の中に、黒い影が見えた。

 珍しいな、と思いながら、彼はオールを入れてそちらの方に向かってみることにした。舟であれば魚を少し分けてもらえたらありがたい。そんな期待もなくはなかったが、実のところこの辺りを漂う舟など見たこともなかったので、漂流物だろうという興味の方が大きかった。

 少しずつ影は大きくなってくる。明らかに舟だ。しかも人が乗っているらしい。さらに進んでみると、舟の人は立ったまま何か、腕を上下に動かしているような様子がうかがえた。網を打っているわけでもなさそうだ。すでに相手も気付いているはずだろうが、こちらを気にすることもなく、ゆっくりしたまるで踊りのような動きを続けている。もう一分もあれば合流するといった辺りで、相手の邪魔になってもまずいと思い、舟を留めて動きを見守るような格好になった。

 さて、どうしたものか。待つか、進むか、それとも声をかけてみるか。そうこう考えているうちに、涼しい風が少しずつ舟を揺らし始めた。彼が姿勢を安定させようと足元に気を取られているうちに、なにやら世界が真っ暗な闇に包まれていくではないか。周囲を見渡し、その異様さに寒気が走った。まるで大きな筒の中に入ってしまったかのように、頭上の天は、夕焼けの残光の空が丸く残り、周囲の景観はすべて濃い霧のようなもので遮られているのだ。

 舟がおかしな動きをしている。ゆっくりだが、彼の漁師としての勘に間違いはない。帆は畳んだままで、わずかなうねりしかない。錨は上げたままだったが、風に従うように、あるいは何かの意志に誘導されているかのような一定した動きは、今までに経験したことのない不自然さであり、彼の不安を助長するものだったのである。

 舟上の人はまだ立っている。こういうときにはじっとしておいた方がいい…。そう気を取り直そうとしていると、どうやら自分の舟は、相手の舟を中心に円を描くように回っている。しかも少しずつ、動きが速まっている。それに対して、相手の舟はおそらく静止したままだった。

 夢であるはずもないが…。

 帆柱につかまり、寒気のように体内に浸み込んでくる恐怖を抑え込んだ。腕の感覚があまりない。すると今度は、上空から風が吹きおろしてきた。風は、漁師の舟をぐわんと揺らしながら相手の舟の方へと向かい、次の瞬間、前方に大きな光の穴が開いた。そして、漁師には、その先に見える海が遠くまで二つに割れ、割れ目から海底の岩さえも現れたように見えた。

 どのくらい続いただろうか。ほんのわずかな時間だったはずだ。光の大穴からは、先ほどまでの夕焼けが、暗闇をもたらしていた筒の壁に届き、壁全体がその光に溶かされるように瞬く間に薄まっていった。

 「すみません、少し舟が揺れてしまいましたか?」

 にこやかに近寄ってきた相手を前に、漁師は目の前で起きたことが現実であるのかどうか、まだ確信が持てずにいる。そもそも相手は、オールも帆もなしに、舟の上に立ったままこちらに近づいてくるではないか。光が戻ったとはいえ、用心にこしたことはない。

 黙っている漁師に、相手は「大丈夫かと思ったのですが…」と続けた。もう、顔も見える。まだ若い男のようだ。

 「まあ、少しは…」

 漁師の手はなおさら震えていた。

 「すみません、少し風がずれてしまったのかもしれません。自分たちのいるところには何も影響を与えずに、風だけを起こそうと思ったのですが、まだまだ、ですね。どうしても風は見えないので」

そう笑って、「お詫びにいいところにお連れします」と言った。

 「いいところ?」

 漁師は、網に捕えられた魚のように、状況も理解できず、どうにか口を開いた。

 「はい。魚がたくさん捕れるところです。ただ、これからの時間じゃなければだめなんですが…」

 風のないところで、帆もない舟の上に立ったまま近づいてきた男に、海の真ん中で逆らうことなどできるはずもない。もはや夕闇が迫り、自分が頷いたことが相手に伝わったのかどうか知る由もなかったが、若い男は、漁師の舟を先導するように先に立ち、漁師は帆柱につかまったまま、何もしなくてもその後について行くことができた。

 

 実際のところ、そんなこんなもあいまいな記憶であって、どこまで実際のことだったのか確かな自信があるわけでもない。ただ、しばらくすると岩礁が現れ、二艘はその反対側に移動し、上半分が覗いている洞穴の入口から滑るように入っていったことだけは、自分が今、同じ場所にいるのだから間違いあるはずがない。

そして今と同じように、そのときも目を奪われた。

 海が光に満ちている。光は洞窟中に広がり、岩をよけながら蛇行して進む舟から海を覗くと、透明な青の底から光が溢れだしているのがわかる。

 「まさか…」

 漁師は言葉にならない言葉を口にし、じっと海中を見入った。

 「すごいものでしょう。いろんな魚が集まっています。ひと網で、あなたの木箱に入りきれないほどの魚が捕れるはずです」

 「ここは?」

 相手は、漁師の心をくみ取るように頷き、

 「ここは、一年に一度、この日の夜だけに開かれる海です。地球の反対側がちょうど新月のいっときだけ、岩礁の扉が開きます。さあどうぞ、好きなだけ漁をしてください。今日だけは、それが許されます」と、漁師の強張った体を解きほぐすように、おだやかな口調で続けた。

 漁師は言われるままに、いつもとはまるで違う硬い動きで網を投げた。とたんに魚の力が網を握る手に伝わり、一度それを引き上げただけで、舟が傾くほどの獲物が入った。大小さまざまな、美しい色をした魚が床に跳ねるのを見ていたら、いつもの漁師の血が蘇ってきたようだ。傷をつけないように、手際よく魚の大きさを揃えながら箱に詰め込んで、箱がいっぱいになったら、残った魚をすばやく開いて天日干し用の網に乗せていった。

 その手さばきをしばらく見ながら、相手はまた話し始めた。

 「この場所は、遠い北の圏域の町と地下の洞窟でつながっています。そのせいで光るんです、海藻が…。光る海藻は、こうして魚の群れもたくさん呼びますが、それともう一つ、いろんな病気を直す薬にもなります。ここにしか生えていませんので、知る人はほんのわずかですが…」

漁師は、大量の獲物を積んで洞穴を出た。「すぐに帆をいっぱいに広げてください」。相手の言葉通りにすると、風をたっぷりと含んだ帆は、グッと舟を引っ張り、そのまま何をすることもなく、いつもの岸へとあっという間に送り届けられた。

 魚を家に持ち帰り、仲間に配るついでに、少しだけ網に付いていた海藻を近所の病弱の娘に与えてみた。しばらくして娘はずいぶん元気になったと聞いた。

 

 それから彼は毎年ここを訪れるようになった。とくに今日は、あの時のように順調な航海だ。まさか他人にまで分け与えることになるとは思いもしなかったが、自分の町を取り戻すために、どうしても海藻がほしいと言う、そのために仲間一人と自分は来たという、若い女が舟の上に乗っている。女は、サイタの風操士だという。

 あの時と同じように、女は手を掲げ、間違いなく風を操っている。空には大きな雲の渦が現れ、渦の中心が常にこちらを睨みつけているようでもある。

もしかしたら、この女の力で自分の部落を救うことができるかもしれない…。そんな期待も少し湧いてくる。波が細かくざわめく岸の近くまで来ると、彼女は海を撫でつけるようにさっと手を伸ばし、鏡のようになった航路の上をオールも帆もなく進めた。まるで、光る海と最初に出会った時と同じように。



2. ホクイの一角で


 ホクイという町の一角にある古い作業場の中に、長さも太さも大男の背ほどもある大きな流木が横たえてある。


 「遠くの町からでも来たのかね、あの海を渡ってくるのは大変だったろうに」


 正一郎ヨコタは、その流木の胴の部分を、猫背から垂れ下がった腕で触れてみた。

 「いい肌だ。しばらくぶりにみる一級品だ。色白で密度も申し分ない、大変な美人さんだわい」

 そう声をかけると、近くの工具箱からノミを取り出し、幹の傍に最初の刃を入れてみた。樹皮は長い航海によるものだろう、すみずみまで剥ぎ取られ、かつてはそこにあったことを思わせるこげ茶のシミのようなものが樹体のところどころに残されているだけで、あとはつややかな白い木肌だけが露出していた。


 コツコツ、スゥー。

 表面を均すように、優しいリズムが繰り返される。次第にノミは、四方に動く生き物のように必要な凹凸に入り込み、さまざまな角度から歳月の跡を削り取っていく。それらにはやがてゆらぎのない鏡面のような輝きが現れてきた。

 「やはりきておるぞ。いいぞぉ、いいやつらが入ってくれとるわい」

 さらに削り進める。外回りをひとしきり終えると、今度は中身をくり抜くようにコツコツと音を立てながら、片手に持ったハンマーでリズミカルにノミを叩き始めた。汗が木肌に滴り落ちて下の方へと流れていく。木くずは大木の周りに積りはするものの、体には一かけらの付着もみられない。まるで蝋のように、流木の細胞は水に対するはっきりとした拒否反応を示すかのようでもあった。


 作業場には、いつの間にか西日が入り、手元が怪しくなってくると正一郎は裸電球のスイッチをひねっただけで、その前後も休むことなくノミを入れ続けた。

同じノミだけを使い、何を話すこともなく、電球を灯すことさえ忘れそうになるほど集中して。

 電球の周りを、何匹かの虫が大きな羽音を立てて飛び回りはじめ、ときどきコツンと音を立ててよろよろと空中を漂い、すぐにまた力強く電球に向かっていく。その様子を眺めると、正一郎は「あと四時間だな」とつぶやいた。

巨大な流木の、くり抜かれた中に頭を突っ込むようにして、何かに取りつかれたように一念に作業を続ける。電球の光は流木の中へはわずかにしか届いていないはずだったが、動きが止まることはなかった。シャカ、シャカ、コツ、コツ、シャカ、シャカ、コツ、コツ…。

 「よし」

 やがて、ゴロという音とともに、低いしわがれた声が、もはや筒となった流木の中で短く反響した。彼は体をねじるようにして体を起こし、壁に立てかけてあったロープを筒のくり抜いた側にひっかけ、ロープの反対側は天井に吊り下げてあるウインチにかけ、ガラガラと鎖を回しながら流木を少しずつ立てていった。

 「いいな」


 ほぼ時を同じくして、一人の大男がドアを開けて入ってきた。黒く長い髪を後ろに束ねた東の圏域人のような若い男は、「やあ、来ましたよ」と変わったイントネーションで正一郎に声をかけた。

 「どうですかな、下駄の具合は?チヤン」

 正一郎が流木に座ったまま、大男を見下ろすようにして言うと、

 「相変わらず調子がいい。真面目な話これ、もっとたくさん作ってはもらえないですかね?」と半ば真顔でこたえた。

 「そういわれてもな。わし一人の力じゃ、いくつも作るのは無理だわい。ただ二‐三足ならこの木の余ったあたりで作ることができるな。もっといいのができそうだが、それでどうだね?」

 「そんなんじゃ商売にならないけど、ま、俺の分だけでもこいつはいくつあってもいい。頼みますよ」

 「約束するわい。その代り今日は少しばかり頼まれごとをしてほしいのだが」と正一郎はすばやく梯子に足をかけて流木から降りると、滑らかな木肌を掌でさすりながら「これをある人に届けてほしい」と続けた。

 「なるほどそれでトラックか…」

 「この大きな臼の中にもう一つ大事なものが入っておる。臼は、すぐ近くの豊風神社まで、中の彫り物は、西野病院にサクラダという医者がおるから、彼のところに持って行ってほしい」

 「臼の中の大事なものっていうのは見てもいいのか?」

 「かなりいい出来だと思うわい。中をのぞいてごらんなさい」

 チヤンは梯子に足をかけ、大きな臼のように見える流木に顔を突っ込むようにして、「これか?」と声を反響させた。上半身を筒の中に突っ込み、その中にある物を手で抱えるために踏ん張るような声を出し、またゴロと音をたてて静かになった。

 「重いでしょう。こいつは最低でも十年は北圏域の海で漂流し続けたものだから、いい微生物だってたくさん宿ってますわい」

 大男が額の汗を腕で拭いながら、正一郎の言葉を気にも留めないふうに「しかし重いな。車に運ぶのにクレーンみたいなものがいるな」と言った。

 「いや、大丈夫」と、今度は正一郎が掘られた穴に入り、ノミの音を何度か響かせたかと思うと、それを軽々と取り出して男に渡した。

 「軽いな。さっきとずいぶん違う。それになんだ、この光っているような感じは?」

 「印を入れたので、淡い光を含んだんです。こっちも同じ。あなたと二人がかりなら運べますわい」

 大男は軽くうなずき、“中身”の彫り物を自分の乗ってきた車のところまで持っていった。古い麻布に包まれたそれを助手席に置き、作業場に戻って巨大な筒のような彫り物を正一郎と二人でトラックの荷台へと運んだ。

 「大事に。この臼は、最後の『真印しんいん』を宿したものですから、大事に…」

 チヤンは何のことかわからないまま、正一郎と二人で座席に並び、狭い路地の続く下町にエンジン音を響かせて車を走らせていった。


 鳥居の前に着いて、二人が臼を支えて三段の石段を上ったところで、作務衣姿の男が神殿の社務所の辺りから小走りにやって来るのが見えた。

 「ご苦労様です」

 男は声をかけながら手を差し伸べ、正一郎は「本殿の中に」と促すように言った。神殿に明かりが灯され、浮かび上がった大きな神鏡の下へ三人は滑るように移動した。臼は正一郎の声に従って鏡の裏側にゆっくりとおろされた。置かれてみると、流木製の臼は昔からそこにあったかのように磨きこまれた床の色と調和し、床全体もうっすらと光を放っている。

 「なんか光っているぞ。何が起きている?」と驚くチヤンに、正一郎は臼の表面を眺めて「まあまずはこんなもんですわい」と答えた。猫背がくるっと向き直って一方の男に軽く頷くと、「チヤンさん、こちらは神主の刀場かたなばさんです」と紹介し、二人が挨拶を交わす間もなく「さあ次は西野病院に行ってもらいましょうか」と促した。

 暗い車中では、チヤンは何か言いたそうに麻布を抱える正一郎の方をちらちらとうかがっている。そんな大男の目線をかわすように「刀場さんはもうあそこで三十年以上も神主をされていて、どうやら神の声が本当に聞こえていると私には思えてならないんですよ」と話し始めた。


 「そんな人、本当にいるんですかね」とチヤンはハンドルを握りながら静かに言った。

 「普通の人には分からないことが世の中には多いってことですわい。知ってますかな、どこだったかずっと西の圏域では四次元空間の研究に莫大な金と人を投入しているとかいう話。そんな風に、知らなかったことを知る人が少し増えてくると、その上の方にいる人はもっと知りたいという関心が強くなって、だんだん実態がわかってくると、それを利用して周囲を出し抜こうと考える人間が出てくる。そんな人がどんどん出てくるとそれがいつの間にか常識になって、そのうち常識という舞台で目立つ人が出てくる。四次元空間にもそんなストーリーが始まったのかもしれませんな」


 トラックは暗い道を右へ左へと曲がりながら元来た道を戻り、さっきの作業場の近くまで来たところで正一郎は、「わしはここでおろしてもらえますかな」と言った。

 川沿いの街灯の中に消えていく正一郎の姿をチヤンはトラックの中で見送ると、進路を西野方面にとった。


 「いやあ来ましたか。ヨコタさんから」

 「ええ、これって言われました」とチヤンは、片手で抱えている丸い荷物を包みのまま差し出した。

 「微生物がたくさん入っているとか、何とか」

 「ありがとうございます。ええと、お名前をお聞きしてもよろしいですか?ヨコタさんとはどのようなご縁で?」

 「ああ、チヤンです。たまに下駄を作ってもらってます。彼のは不思議とどんな靴より疲れない」と言いながら男は、今さっき街灯に消えていった正一郎の姿を思い出し、片足を出して足元を指差した。「ただね、いっぱいは作ってくれない。作ったら売れると思うんだが」

 「商売でもなさってるんですか?」

 「ええ、まあ。貿易関係であっちこっちの圏域や町を行ったり来たり」

 男は、「ほう、面白そうですね。私はご覧のとおりの町医者ですから、世界中を飛び回れる仕事なんて聞くとそれだけでわくわくしてしまう」と白い無機質な天井を見上げた。

 「先生は何で、ヨコタと?」

 「彼は私の患者です。まあ今はどっちがみてもらっているかわからないようなところがありますが」

 「先生もわけありってわけですか。あの人、もう歳なのに俺より情報を持ってる。あり得ない話だ」

 「確かに、ですね。イウト首長も彼にだけは一目置いているようですよ。この間は、風操士を新しく雇うって話を相談しに彼のところを訪ねたそうです」

 「風操士?」

 「もっと技術の高い人を雇って、この町を裕福にと考えているらしいですよ」

 「そんなことを、ヨコタに?」

 サクラダは、かすかな笑みでうなずいた。

 「ところでそのヨコタの掘った物がどう世界を変えるってんですか?わざわざこ のオレを使いにするくらいだから、どんなものかとずっと考えてたんですが」と麻の布の方に目をやり、サクラダはそれを大事そうにさすりながら、「そう、これはですね、なんでもヨコタさんが言うには、『門』だっていうことです」とこたえた。

 「ゲート?」

 「ええ。あなたには話してもいいんでしょうね。ヨコタさんの作業場には、これが入っていた臼のようなものがあったでしょう。あれも関係してるようですが」

 「あのデカイやつか。ちょっと想像できないと思うが、さっき神社に持っていったら、床全部がなんだか光りだした。暗い部屋の床から陽炎のような光がぼんやり浮き上がってきていた」

 「そうですか…、不思議なことです」

 「それにしたって、ゲートっていうのは、いったい何の門なんだ?」

  「どうも、この一帯を守る門だそうですよ。正一郎さんは、これからホクイは大きく変わるだろうと言っています。最初のうちはそれでもいいですが、だんだんおかしなことになってくるらしい。その時のためだと。大切な球だから預かってと言われて引き受けたんです。私も今のところは何のことかさっぱりわからないんですけどね。でもヨコタさんの言うことですし、信じてもいいような気がしています」

 笑うサクラダを制するように、チヤンは「しかし、わざわざ俺を呼び出して運ばせる必要なんてあったのかな?」とまだ腑に落ちていない表情を見せた。

 「私の受け取った印象では、ホクイの町が劇的に変わるというのは、あまりいい意味ではなさそうですね。そのときあなたには力になってもらいたいと考えているのかもしれませんね」


 「なんだかさっきより軽くなった気がするな」とチヤンは木球を手に取りながらサクラダに言った。「あのイウトっていう奴は気に入らないが、ヨコタの力があれば悪いことも防げるだろうに。ちがうかね?」

 「あるいはそうかもしれませんね」

 「イウトは、この町をどうしたいんだね?」

 「私も首長に直接聞いたわけではないんですが、この町全体で人を呼び込めるようなことを考えているようですよ。古い家などは壊してしまって、統一感のある街並みにビルとかホテルとかを建てて、大きな商店街とか、ヨットハーバーとか。あと、町を流れる境川から運河を町のあちこちに伸ばして、舟で遊んだり、移動できたり、とか」

 「そんなの、他の圏域から見たら特別すごいって感じには思えないがな。今からそんなことをやって、この圏域に人が来るのかね」

 「この町中、この圏域全体にも影響を与えるほどの規模感らしいですから、ちょっとスケールが違うのかもしれませんね。でも、新しく風操士を雇ってみたって、そんなこと本当にできるのかと私も思います」



3.空と風の町


 列車は、海上に浮かぶ橋を渡っていた。小さな島々を抜け、時折、汽笛を鳴らして丘を力強く駆け上がる。次の駅はホクイだ。

菜多里なたりレイジは、ホクイにあるはずの「木芸品」を求めてこの地にやってきた。さまざまな木工品を想像するだけで心が躍る。なんといっても、世界中の人々が「素晴らしい!」と口にするものがそこにはあるのだから。


 小さい頃に家族と過ごしたサイタの家には、注がれた飲み物が美味しくなる不思議なコップがあった。誰もが使いたがったが、一つしかないので、家族六人が順番に使うことになっていて、ただ、自分以外の家族が使ったすぐ後に注ぐと、かえっておいしくない。だから一家は、一日一人と使う人を決めていた。そうすると、朝はいつも通りの味がする水や果汁が、昼、夜へと使っていくにつれどんどんおいしくなっていくではないか。誰もがそのコップを使うときは、「不思議だね」と言った。

 「おばあちゃん、どうやったらこんなコップが作れるの?」

菜多里は、そんなことを祖母に聞いたことがある。

 「そうだねえ、ホクイという町で作られた特別な物なんだよ、それ以外にはわからんけど。お前の父さんが風をつくる扇子と同じような木で作ったんだっていうよ」

 そんな思い出とともに、車窓を流れる海や島々、そして不器用に連なって飛ぶペリカンの群れに目を細めた。


 「もう十年以上も前のこと…。みんな変わりないかしら…」


 入り組んだ地形を縫うようにして列車は走り、機関が大きなうなり声を上げながら、まるで登山列車のように急斜面を力強く登っていくと、空飛ぶ列車のようにわずかな尾根を伝うように走った。絶壁のはるか下方でトビのような鳥が舞っている。さすがに怖さも感じるが、それよりもその圧倒的な景観に心を奪われた。

列車は急降下を始める。するとまた海の上に出た。岸壁から岸壁へ、海の上にかけられた吊り橋の上を渡っているかと思えば、今度は、海の向こうに見える小島とをつないだ架橋の上をすべるように走り、万華鏡のように光と色彩の変化を楽しむことができた。彼女も景色が変わるたび、つい子供のように窓辺に身を乗り出してしまう。

 さっきのペリカンなのだろうか、一列になって、まるでマラソンをしている人間が外側から列車の乗客の顔ぶれを楽しんでいるように、不安定なアップダウン飛行を繰り返して一緒についてくる。水面には飛魚や亀の姿を見ることもあった。列車は海の動物たちを伴うようにして楽しい走りを続け、陸側に向かう長いトンネルを抜けると、目的のホクイの駅へと到着した。

 

 海に続く大きな川の直ぐ横に建てられた駅の屋根には、大きな下駄の彫り物が乗せられていて、鼻緒から、これも彫り物の人間がぶら下がっている。

 「まあ、楽しい」

 それにしても、ホクイは列車の終着駅ではない。線路は駅横の川を越えて向こう岸へとどこまでもまっすぐにかすれて見えなくなるまで伸びている。ここに来るまではあれほど起伏に富んだコースだったのが、まるで別人がここから先の景観を担当しているのではないかと思わずにはいられないほど、寂しげな永遠を感じさせる直線が、川から先には続いている。


 どこからか音楽が聞こえている。打楽器が奏でる、踊りたくなるようなリズム。寂寥感から引き離されるように駅前広場に目を移すと、魚や肉、米、カラフルな布や絨毯、下駄、雑貨まで、いろんな商店が元気な呼び声とともに広がっていることを改めて楽しむことができた。音楽は、何人かの芸人がボールや棒を使った技を披露するために始まったのだ。

 「素敵なところ、木芸品もあるのかしら…」と、うきうきしながら見て回っているところに、「おじょうさん、船に乗るのかい?」と男が声をかけてきた。

 「いえ、ホクイに入りたいのですが…それと木芸品も」

 「じゃあ、船だよ。あっちの船に乗るんだ。料金は100ビアね、それからパスも見せてもらいますよ。木芸品は、中じゃないと本物は手に入らないから、それでも誰でもがすぐに買えるような代物じゃないがね」

 菜多里がパスを差し出すと、係人は驚いたように「へぇ、トラミかい?最近多いんだよねぇ、風操士で有名な町から来る連中、何か関係あるんですかい?」とパスとチケットを渡した。

 「いえ、特には、何もわかりませんが…」

 「そうかい。いや、もしかしてあんたも風操士かと思ってね。でもそんな若さじゃ難しいか?」

 菜多里には、男の言っていることを知る由もなかったが、好奇心に目を光らせた。川下から吹いてくる潮の香りを含んだやわらかな風が、ほほ笑む彼女の長い髪を揺らせると、男は目を見張った。そして照れたように少し目線をそらして言った。

 「楽しんでくださいな」


 桟橋から船にかけられた木の板は、まるで人の歩行をもてあそぶように一歩進むごとにたわみ、それに他人の足踏みと船そのものの揺れが重なって、人によっては恐怖さえ感じさせるものだろうと思えた。彼女は前を歩く商人風の男に続いて自分の足元を確かめながら、どうにか船へと移った。菜多里が乗った船には、見渡した感じで三十人ほどは乗船しているだろうか。皆が席に着くと、チケットを売っていたさっきの男が「では船長、お願いします!」とせかすようにして出発させた。

 この船に乗って町に入るという。さっきの渡し板と同じように、船も心許ない。かろうじてエンジンは付いているものの、いつ浸水してきてもおかしくないようなおんぼろ船に間違いない。わけが分からず舟に乗ってしまったが、揺られていくうちに、町に入るためには船でゲートをくぐる必要があるのだと知った。ゲートから続く国境界の壁は他の町に比べ比較的背の高い作りで、乗客の話題は「船で町に入ることの珍しさ」から「壁」と「その内側」へと移り、それらはエンジン音にまぎれて菜多里の耳にも届いてくる。


 「それにしてもすごい壁だよなあ」

 「いろいろ有名だから」

 「ここの食い物はすごくうまいって噂だから、あまり食い意地の張った奴を入れないための仕掛けなんじゃないか」

 「俺はコップ、一つでいいからほしいなあ」

 「あ、それ有名なんですってね」

 「まず外では買えないらしいですよ」


 そんな話を聞くだけで想像力が刺激され、心がざわめいて抑えようもない。

 船はしばらくして川の中央部に作られた大きなゲートをくぐっていった。ゲートの上部を見上げてみると、太い梁と梁の間に据えられた木の格子の上に大きな球のような丸い明りを見ることができた。それよりも目を奪われたのはゲートの向こう側に広がる景色だ。まるでそこに映画の舞台が用意されているかのように、美しい街並みと自然の景観が広がっている。

 こんなに素敵なところがあるなんて…。眼前には、昔から大切に守られてきたのだろう、木と石で造られた建物が並び、透明すぎるほどの空気の先には、緑の丘陵の広がりが見える。それは街並みの向こうのどこからか、ちょうどいいあたりから遠くの山並に向かってせり上がっている。

 山並みは岩肌を見せているらしくところどころするどく突き上がり、なかでも高くそびえる峰の肌は、白い輝きを放っている。山々から丘陵へ、幾筋もの光が伸び、すぐそばの運河にまで光が満ち、まるでそこにも空があるかのように青い輝きをたたえていた。

 「この川も、あの向こうから流れてきているんですか?」

 渡し場に着いたところで菜多里は船長に聞いてみた。

 「ええ、そうですよ。このホクイには運河がたくさんあって、木芸品が有名だが、私から言わせれば街並みも空も水も、そして風もすばらしい。いいところですからごゆっくり」

 船長の言う通り、いい風が吹いている。遠く海のかなたから吹いてくるゆっくりとした大きな風だ。彼女には幼い頃から風の良し悪しが良くわかる。風がもたらす適度な湿度は植物を活き活きと育む。家々の屋根をはるかに超える大きな街路樹が育っているのを見て、そんなことを思った。港からは石畳が広がり、その上には石と木で造られた建物が並んでいて、どの建物も白いクリーム色の外壁に木の装飾が施され、六角形や八角形様に壁の一部を突き出して部屋ごとベイウィンドウにしている家が多い。

 広場を囲むように並ぶ家々を歩きながら眺めてみると、ベイウィンドウに飾られた人形や雑貨、照明、自転車などはどれも魅力的なデザインで、ときどき吊り下げてあるタグに目を凝らしてみると、ほとんどがこの国内で作られているらしい。

 「木芸品はないのかしら?」と呟きながら菜多里はこの町に惹かれていくのを感じていた。

 彼女が泊まるホテルも広場の一角にあった。他の家々と同じように白い漆喰の壁に焦げ茶色の梁が渡され、入口の上部には角をはやした馬のような生き物の彫り物が、突き出た梁の一部を使って彫り上げてあった。その彫り物をしばらく見ていると、本当に生きているようにさえ思えてくる。菜多里は自分の真上に来るまで目で追っていたが、相手もずっと同じように目線をずらさずに追ってくるようだった。

 

「レイジ様、ようこそいらっしゃいました」

予約表を差し出した菜多里に若い女は丁寧に、鉄でできた重く大きな鍵を差し出した。

 「ご予約のお部屋ではお狭いので、やや広いお部屋の方をご用意させていただきました」

 「え、ありがとうございます!」

すると、女はやや身を乗り出すように話しかけてきた。

 「お客様は、風操士をされていらっしゃるんですか?」

菜多里はやや驚いたが、「いえ、まあ。でもなぜそんなことをお聞きになるんですか?」と逆に聞いてみた。

 女は興味深そうに、「今度、選抜試験があるんですが、ご存じなくいらっしゃったのですか?」と教えてくれた。菜多里は町に入る前に男が話していたことだろうと予想がついた。

 「選抜って、なんですか?」

 「本当にご存じありませんか?この町で新しい風操士さんを選ぶことになったんです。あ、申し訳ございません、お客様ももしかしてそれに出られる方かと思いまして、つい」

 「いえ、なんだか面白そうな話ですね」。女が身を引いていくのとは対照的に、今度は菜多里がカウンターにやや身を乗り出すような格好になった。

 「何が行われるのか教えていただけませんか?」


 女の話では、ホクイ町で新しい風操士を一人決めるために世界中から候補者を募集しているという。風操士は通常、首長の施策の重要な実行役として、技術や相性を鑑みて首長自らが選ぶことが多いのだが、そうではなく世界中から腕利きを集めて競わせ、純粋にその腕の優劣によって決めるというのだ。ちょうどそのタイミングに居合わせたのも、ちょっとした運命かもしれない、と思えた。

 「私もやってみようかしら」

 数日滞在しているうちに、本気でそんなことを思うようになっていった。心地よい風がこの土地にはいつも吹いている。自分が住んできた町よりも、もしかしたらもっと穏かな表情の人々を知り、一日一日滞在日を伸ばしていくうちにここに暮らしたいとの想いが強まっていくのを感じていた。


 「聞くだけでも…」。いつしか彼女は役場に足を運んでいた。歴史を感じさせる石造りの建物の中の、ひんやりとして紙のにおいが混ざった空気の中には、十人くらいが働いていた。居心地が悪そうにたたずむ菜多里に、入口から近い役人が声をかけてきた。

 「あの、ご用件は?」

 「あ、すみません、風操士の募集があるということを聞いたのですが、こちらで詳しくお話を聞くことができますか?」

 「あ、その件ですか。それでしたら私でも大丈夫ですよ。おたくさまが応募されるのですか?」

 「はい」

 「ほう、わかりました。少しお待ちください」

 男は忙しそうだったが、菜多里を奥の部屋に案内し、しばらくして書類を持って別の男と一緒にテーブルの向かいの椅子に座った。

 「応募の締め切りは明日までなのでぎりぎりでした。一か月後には実技試験に入りますから、早くこの街に慣れておくことをお薦めします」と、書類をテーブルに広げ始め、試験日やルールについて詳しく説明し始めた。

 「失礼ですが、おたくさまは風操士の経験をお持ちですよね。いえ、念のためですが」

 「大丈夫です。トラミで結構仕事をしてきましたので」とパスポートを二人の目の届く位置に置き、一人が手に取って菜多里と見比べた。

 「十六歳で、トラミで。あそこもなかなか風操士になることができないと聞いていますから、結構経験を積まれたわけですね。そんなに若くして風操士をされているなんてすごいことです。ご健闘をお祈りします」

 もう一人の男も話を聞きながら、改めて菜多里を見た。

 「ありがとうございます。トラミではすごい技術のある方々にいろいろと教えていただくことができましたので」と自信を見せた。

 「ぜひ腕前を拝見させてください。楽しみにさせていただきます」

 「今回の試験には何人くらい参加されるんですか?」

 「六十人くらいです。みなさんすごい腕利きのようですから私個人的には本当に楽しみです。採用方法は首長の一存で決まったのですが、最初は皆うまくいくのか不安だったのですが、本当に面白いことになってきました」

 「じゃあ私も絶対に気を抜けませんね」

 「ぜひ頑張ってください」

 担当者の測り知れない真意を受け流すようにして菜多里は部屋を出た。


 菜多里が、ホテルの部屋を変えようと思ったのは、もっともっとこの町のことを知りたくなったからだ。なかでもこの町に暮らす風操士との距離感が近いところとして、松実と呼ばれる一角が長居をするにはうってつけだと思えた。

 街の匂い、音、色…。どれも風操士の力がうまく機能しているようで、暮らす人々の笑顔や人情もそれによって大きく育まれているに違いなかった。

 「ここの風操士さんはどんな方々なのかしら。この町は木芸だけじゃない。家具も、パンもミルクも、人々も、みんなみんな、こんなに素敵だなんて、きっとすごく腕の立つ人たちね。早く会ってみたいわ」

 毎日毎日、散歩しながらそのことを思わずにはいられなかった。街を抜けると丘があって、その向こうは山まで続いているようだ。

 「松実のみんなは仲良くやってるよ。風操士の力もあるんだろうけど、ここはどちらかといったら職人さんたちの力の方が大きいかな」

 宿の近くのパン屋のおかみさんはとても気さくな人だ。一つ聞くと十も教えてくれるので、聞いてもいないことまで知ることができて、それがまたとても楽しくずいぶんと聞き込んでしまうこともあった。

 「見ての通り風車も多いよ。三軒に一軒はあるよ。よく働いてくれる風車ばかりでさ、電気も食べ物もほとんど全部が地元で賄えるし、しかも食べ物は美味いでしょ。パンもミルクも野菜も。そりゃそうさ、最高の風で育ててるんだからね。私はね、世界で最高だって思うね、ホクイの風は」

 おかみさんの言うこともあながち嘘ではないと思えるほど、本当にいい風が吹いている。木造の平屋が多いこの松実では、木芸と思わせる職人が数多く働いているのを見かけることができた。

 そういえば、木芸品のことをおかみさんからまだ聞いていなかった。それにもう何日も滞在しているのに、まだ木芸品を見たこともなかった。

 「明日は聞いてみよう」


 松実のような、木で家も何もかもが造られている「木の街」があるかと思えば、駅から続く「石造りの街」もある。でも、それらだけではなく、大小さまざまな運河が特に多く流れている地域を彼女は「水の街」と名付けた。

 「ここは『山の街』かな?」

 市街から山へと続く丘の入口一帯は、広い果樹園が広がっている。その中には小さな集落が点在していて、その辺りを彼女はそう呼ぶことにした。

 「でもこの国すべてなら、空と風の街だわ」

 街中に枝分かれしている川や水路が、空を映し出し、ときには空に包まれているような感覚にさえなる。この町の風は間違いなく、どんな天候のときでも彼女が扱いきれない魔物のように暴れることはない。

 菜多里が滞在する木の街でもたまに「方向翼」を見ることはあるので、確かに風操士もいるはずなのだが、こちらもまだ姿を見ることはできなかった。白砂の混ざった土の細道は、水路とあちこちで交錯しながら通り、その合間に、あけっぴろげの家々と笑顔、職人らの大声や笑い声と絶えず出会うことができる。

 この街のどこに、ホクイを動かす力が隠されているのか。風を中心に一つの共同作業体となって、町にあるパンやミルク、家具、明り、衣類にいたるまで、この町を支える仕組みがあるはずだが、それらはまだよく見えてこない。トラミでは、優秀な風操士が目立って働き、各家々がその日作業する指示を受け取り、皆がその日の仕事を回していることがはっきりとわかった。風操士は、全体が機能しているかどうか確認しながら風の調整をしているので、よく見かけるはずなのだが…。あるいは、風操士に合えばこの町の仕組みをもっと知ることができるかとも思ったが、なかなかそれもかなわない。風操士も木芸品もどうすれば出会えるのかしら…。


 菜多里は、よく山の街を抜けた丘へと足を運んだ。

 「あの山かい。ああ、要山だよ。あの山には丘の向こうから登山道が続いていてね、ここにいるうちに一度は登ったらいいよ。けっこう危ないところもあるけど、山頂からの景色はそれはもうすごいんだから。私も若いころに一度行ったんだけどさ、少し下にはとってもきれいな塩湖が広がっていて、それはもうこの世の景色とは思えないくらいさ。でも、なんだか吸い込まれそうで怖い感じもするんだけどね。それでさ、昔は夜になると光ることがあるっていう不思議な噂もあってね、神様がそこに住んでるって信じてる人もいるくらいさ」

 元気のいい声、大きな笑顔でいつも話しかけてくれるおかみさんのことを思い出しながら、何度目かの丘に向かった日のこと。晴れ渡った空の気持ちよさに誘われるように、今日がいいかも…と考えた。もしかしたらとパンをいつもより多めに買い込んでいたので、心配はないように思えた。一人でこんなに食えるのかい、なんておかみには言われても、山に登るかもしれないとは言わなかった。

 「やっぱり今日ね。今からなら夕方までには帰ってこられるはず」とやや不安な気持ちを押し切るようにして登山道までまずは足を運んだ。登山口は背の高い広葉樹に囲まれた小さい広場で、小屋が一軒建っていてそこに向かった。小窓から中を覗き込んでみたが人は誰もいないようだ。目の前に置いてある登山者名簿に自分の名前を書き、今日の日付で書いてある登山者の名前も見てみると太観伊たかいクワア、甦也そやエンジ、正一郎ヨコタと三人の名前があり、名簿に書いてある時間を見る限り一緒に上っているらしい。

 「暗い時間から入る人がいるんだ…」

 同じ目的地に人がいるはずと思うと、背中を押されるようでもあった。彼女は小屋から続く登山道へと歩を進め、すぐに広葉樹の深い森に囲まれていった。ひんやりとした空気の薄暗い森の中を歩くのは怖いものだが、傾斜は比較的なだらかで足場にはときどき木の板が渡されてもいたので肉体的にはそれほど苦しくはない。ただ空気の流れの連続性が断ち切られた森の中にいるということの方が、風の流れを操ることを職業としてきた菜多里にとっては不安だった。ときどき木々を見上げ、揺れる葉の間から日の光が漏れてくるのを確かめるようにして前へと進み続けた。両手を回してもまったく足りない太い幹の木々があちらこちらに不自然なほどまっすぐに立っていた。


 一時間も歩くと身体に風を感じはじめ、周囲の木々の背丈も頭のすぐ上ほどに低くなってきていた。丘から街へとつながる川の源流なのだろう、ときどき現れる小川で足を止め、腕や額、首の汗を流し、喉を潤しながら前へ進んで行く。足場はいつの間にか不安定な土となり、ちょうど足首をひねりやすい具合にゴロ石が転がっていて、ますます歩き難くなっている。

 日差しはまだ南東のあたりだ。登山用の装備をしていないのを悩ましいと思いつつ、パン屋のおかみの話ではあと三時間も歩けば山頂に到着できるはずだから問題ない。一方でゴロ石は次第に角を増し、足首を容赦なく痛めつけはじめていた。石の少ないところでは雪解け水で滑った地面が足をとらえ疲れを倍増させる。

さらに一時間ほども進んだところで視界が開けた。すでに靴には泥がひどくこびりつき、下着は汗で体に張り付いている。強い日差しが顔を焼き始めた。菜多里はまとめていた髪をおろし、顔面を日差しから守るようにうつむき加減になりながら、もくもくと歩き続けた。こぶし大のゴロ石は避け、なるべく大きな岩の上を選んで歩を進め、それでも何度も足首をひねったり足を滑らしたりして転び、尻から背中にかけても泥水が染み込んでいる。


 「甘く見ていたかも知れないわね」と久しぶりに意識して声を出したときにはすでに登山口から数時間が過ぎていた。おかしいと思ったのは自分の前に山に入っているはずの三人とまだすれ違わないことだ。時間的には自分よりずいぶん前に入山しているのだから山頂から折り返してきた彼らと会ってもいいはずだ。登山道は他にはないのだから…。不安は疲れとあいまって増幅されていくようだった。

 だんだんに傾斜はきつくなり、菜多里を悩ませ続けたゴロ石はなくなり地面は土から岩肌へと変わってきていた。遠くから見えていた、より高く突き出た岩肌の部分に入ってきたのだろう。あとどのくらいかかるのか、一時間か二時間か。途中の沢で汲んだ水筒の水が重しのように感じてくる。このまま引き返すのも手だったが、それではあまりにも無駄な時間を過ごしたように思えてしまう。とはいえ山頂で夜を超す装備はない。かりにあと一時間で山頂から今の場所まで戻ってこられたとして、日が傾いてしまったらあの深い森を抜けることはまずむりだろう。

 両脚はもはや別の荷物のように重く、そこに強い意志を送り込まないと動こうしてくれなかった。傾斜はさらにきつくときに九十度もあるように思える場所さえ現れてくるなかを一歩一歩岩をよじ登るようにして進むしか考えることができなくなっていた。ときどき体が飛ばされそうなほどの勢いで吹いてくる風は、かえって気持ちよかった。菜多里にとって風は怖いものではなかった。


 「お~い、大丈夫ですかぁ」

 しばらくして遠くから声が聞こえてきた。きっと先に入った登山者に違いないと思い、その声に対し菜多里は大声で「はい!」とこたえた。

 「もうすぐ頂上だよ、頑張ってくださいよぉ」とさらに大声が呼びかけてくる。よく見ると、遠くの岩の上に人が立っているのが見えた。

 助かった、と思いながら「はい」と声を振り絞った。「あそこが頂上ね」と気持ちを手足に送り込むようにしてついに登りきった。

 「あなた一人で来たんですか?」と年配の男がすぐに話しかけてきた。

 「はい、でも本当に途中でどうしようかと思うくらいきつくて」

 「それはそうでしょう。高さはそれほどはないですけど、やはりそれなりの装備は必要ですわい」と男は笑いながら「わしらは未明からこの山に入っとるんですよ。印を付けた木を見て回ったりして、ついでに山頂にお参りに来ていたんですよ」と続け、岩に腰をおろし菜多里もそれに続いた。

 「木にイン、ですか?」

 「はい、この土地で必要ないろんなものを作らせてもらうための木ですわい。それをこの森から毎年少しずついただいております」と笑い、「私はヨコタと言います」と顔を上げた。

 「あ、レイジと申します」

 「レイジさん、不思議と聞いたことがあるような名ですな。で、また何のために一人でこんなところに?」

 「はい。風操士の試験を受けようと思いまして」 

 三人は驚いた顔をして菜多里を見た。ただ正一郎には、二人の男とは違う反応が、電気のように背筋を走った。間もなく開催される風操士の選考会でどんな連中が参加するのかはおおよそ把握できていたし、実際に多くの参加者と会ってもいる。しかし、目の前の女はそれまでとは違う、何かがある。泥と汗にまみれ、疲れ切った姿のまだ成人もしていない女から発せられる違和感は、どことなく懐かしくもあり、それでいて不気味な感覚でもあった。

 「そう、そうでしたか。それにしても今度の試験は大変ですぞ。大きな風車をたくさん回さなければならないから、仕掛けも大掛かりなものを持ってきている人が多い。あんたみたいにか弱そうな女の人の力じゃ、ちょっとやり切れないんじゃないですかの?」

 菜多里は冷えてきた体を両手でかばうようにしながら、「はい、それで来たんです、ここまで」と言い、自分の方を向いている男らに「この上空を流れる大きな風を少しずらしておこうと思いまして」と続けた。

 「風を、ずらす、と?」

 「大丈夫です。私が試験を受ける日の、ほんの三時間だけのことですから、この町の今までの生活に支障をきたすことにはなりませんから」

 三人はますますあっけにとられている。

 「しかし、いったいどうやって?大きな風を操作するような道具は何も持っておられないようですが」

 すると彼女は、「これでやるんです」と嬉しそうにリュックの中の扇子を一つ取り出し、正一郎らにかざして見せた。正一郎は目を見開いた。

 「素晴らしい扇子だが、良く見せてくれんですか?」と手に取ってみた。

「これをどこで?」

 「私の実家に伝わるものです」

 正一郎はさらに目を丸くして菜多里を見た。

 「じゃあ、あんたはもしかしてサイタの…」と言葉にならない言葉が口をついた。

菜多里は少し戸惑ったが、わずかに微笑んで、「私はトラミという町から休暇を利用して来ているだけです」と扇子をかざした。


 彼女はぽかんとして聞いている男らを一瞥して遠くの方へ目を移しながら、「それにしても本当に綺麗な景色。遠くから山頂のあたりの岩肌が光って見えたのは、あの塩湖の輝きを映しているからかしら。ほんと、パン屋のおかみさんが自慢するのも無理はないですね」と、にこりと笑って立ち上がり、大きく深呼吸をした。

 そして少しの間、何かに耳を傾けるようにして目を閉じた。

 「すみません、時間があまりなくて」

 腕を真上に伸ばして扇子を空にかざし、扇子だけを北の方に向けて仰ぎ始めた。正一郎らは彼女の様子をただ眺め、そして扇子が仰ぐ方角を眺めている。一分くらい続いただろうか、今度は扇子の向く方角が北から西の太陽の方向に変わり、また同じくらいの時間、同様に扇子は動いた。静かな時間が流れ、正一郎らはスゥッと風が頬を伝わるのを感じた。

 「いい風が吹きましたな」

 落ち着きを取り戻した正一郎が言うと、菜多里もゆっくり頷き「はい」とこたえた。



4. 試験


 菜多里が要山で正一郎らと出会った翌々日、彼女は役場に足を運んだ。山での疲れは足首にねんざの痛みが残っているくらい。愛想の良い担当者が試験の最終説明をしてくれた。試験は一週間後。改めて会場を見ながら説明してくれるらしいので、そのためのバスに乗り込んだ。境川沿いの芝に覆われた広い河川敷で、「あそこのエリアから、川の対岸に並んでいる風車、あれがそうです。前にも説明させていただいた通り、ぜんぶで十機ありまして、それらのうち自分の選んだ風車一機をどれだけ力強く回せるかで、応募者同士が競う形になります。エリア内から風車までの距離はおよそ二百メートルほどになります」と、どこか誇らしげに説明してくれた。

 会場はすでに立ち入り禁止の縄が貼られ、その中に入ることを許された応募者なのだろう、何人かが場所の吟味や道具の手入れをしているようだ。

菜多里は周囲を見まわし、他の応募者の風体や持ちこんでいる道具から、相当な腕利きが集まっていることを悟った。未熟な風操士はかなり大掛かりな道具を使いがちだが、この応募者の中にはあまりそういった人間が見当たらない。年恰好も五十歳を過ぎたと思われる人達が多く、実際、このくらいの年齢にならないと風を操る感は熟成されてこない。例外を除いて。

 恐らくは他の地域でも活躍し、引退したか、菜多里のようによほどこの土地が気に入ったかで、いずれも新しい生活の場をこの地に求めたに違いない、と彼女はライバル達を観察しながら想像した。

 その相手となる参加者たちも彼女のことをジロジロと眺めている。彼女が応募者の中ではおそらく若く、女であったためだ。力仕事が伴うことの多い風操士に女性は珍しく、しかも彼女は若く、東南圏域の女性特有の艶やかな褐色の美貌をまとっている。


 そして、試験日がやってきた。主催者である町の役人らしい担当者が立ち台に上り声を上げた。晩夏の太陽がジリジリと照りつけ始めている。

彼は試験のルールに加え、期間中、自分が競技を始めようと思った十五分前には試験官のいるテントに出向き、その旨を伝えよと指示していた。テントは競技者がいる側の河川敷から土手を少し登った中腹にある。

 試験に与えられる日数は丸二日間。この間のどの時間を選ぶのも、人力であればどんな道具を使うのも、そしてどの風車を選ぶのも自由だった。応募者は好きな時間にこの河川敷に来て、自分の道具で風を操り、一つの風車を回せばいい。ただ、一度行動を起こせば、その時点から二時間という制限が発生し、この時間内での回転数を競うということになる。複数の応募者が同時に行動を起こし、彼らの作業が互いの風車の回転に影響し合っても、あくまで自分の選んだ風車の動きだけが評価の対象とされた。

 説明がほぼ一段落したあたりのところで周囲からざわめきが起きた。

 「しかしまあ、ずいぶんと大掛かりな試験をやるもんだ」

 「やっぱりここに持ってきた道具だけじゃ足りねえかなあ」などと、改めて文句半分に不安を言葉にする者もいれば、「あんたはどこで仕事してたんだい」などとあいさつ代わりに力量を探る輩もいた。

 早くも勝ち誇ったようににやけた若手や、それとは対照的に肩を落とす老輩の姿もあった。

 菜多里は、精神を集中させていた。応募者達の視線や雑音から逃れるため集団から少し離れた川の近くまで歩き、そこで目を閉じ首をかしげたままじっとしていた。少し経ってひとさし指を自分の鼻の前でクルクルと回し、右腕をそっと天に掲げた。彼女の道具といえば、細い棒のように折りたためる扇子一つくらいなものだ。遠目で見ているライバルらを気にすることなく頭上で扇子を開き自分の顔に向けてパタパタと風を当ててみる。

 「大丈夫のようね」


 「それでは!」とまた全員の注意を引く試験担当者の大声が響き渡った。

「試験は今から三十分後の正午をスタートとします。それから二日間が期限です。試験官は二十四時間いつでもテントに待機していますので、自分の好きなときに来てください。何か質問はありますか?」


 まだざわめきが途切れずにいるところで、一人が「しつも~ん」と叫ぶように手を上げた。さっき目に入った自信たっぷりににやけていた若者だった。担当者は大きく一つ頷いて「どうぞ」と促した。

 「何人かが同じ風車を同じ時間に選んだらどうなるんですか?」

 何人かが彼の顔を見た。担当者はいかにもという表情で質問に即座に答えた。

 「前に説明はさせていただきましたが、念のため、その場合は誰かが時間をずらすことになります。ただし、時間をずらした方の応募者には、ハンディとしてプラス五十回転が与えられます。同じ人間が仮に何度か時間をずらすケースがあれば、二回目以降、さらに十回転ずつ加算されていきます。これも作戦といえますから、皆さんは良く考えて試験に挑んでください」

 「あの風車だと、条件が良いときで一時間三百回転がせいぜいか。譲るのも悪くないな」

 誰かがそんなことを言った。菜多里は沈黙のまま離れたところで一人、扇子をポケットにしまい、宿に戻り始めた。そのときにはすでに彼女は、応募者全員が試験をし終わった最後の最後に、自分が試験を受けることを決めていた。

 川沿いにある古い木造の民宿の二階に戻ると、カバンの中から目覚まし時計を取り出し、時間を見た。

 「あさっての十二時まで四十七時間と五十二分。あと三時間は余裕があるわね」

 目覚ましを三時間後にセットして布団を取り出し横になってみると、外で子供たちが川遊びをしている声が、水のはじける音と一緒に少しだけ開いている窓の外から聞こえている。菜多里は窓のわずかな隙間から差し込む太陽の眩しさを避けるように横向きに寝返りをうち、気持ちよい歓声とともにまどろんでいった。

 

 ジリリン…。目覚まし時計の鐘の音がまだ明るい部屋に鳴り響く。こんな気持ちの良い微睡みは久しぶりだ。すがすがしい気分で、先ほどの扇子と時計を持って軽い足取りで川岸へと向かった。岸のぎりぎりに立ち、扇子を取り出し時計を見る。秒針をきっちり目で追い、「ゴー、ヨン、サン、ニー、イチ」と読み上げ、そして 「ゼロ」のタイミングで、試験場とは反対側の上流の方に向かって扇子を三回、パタ、パタ、パタ、とゆっくり同じ大きさに扇いだ。数分後、また同じようにして今度は対岸の方に向けて七回、やや早めに扇いだ。

 「よしっと」

 意識が通常に戻ると、子供らはまだ川岸で遊んでいることを知った。大きなザルでお兄さんが妹に魚をとってやっているようだ。

 「どう?何がとれるの?」

 菜多里は二人に近づいて笑顔で話しかけた。

 「ボラとサヨリだよ。お兄ちゃんが上手なの」

 女の子が嬉しそうに顔を目一杯に上げて、菜多里に向かって大きな目をクリクリ輝かせながら答えた。

 「ほらっ」と次にバケツを掲げて見せ、その中には銀色の魚が数匹、元気良く泳いでいる。

 「ほんとだ、すごいわねえ。それどうするの?」

 「食うんだよ。母ちゃんに料理してもらうんだ」

 よく見てみると二人ともやせて、着ている服は川遊びで汚れていることを差し引いても、かなりボロであることが分かる。

 「おねえちゃん、それ食べたことないんだけど、おいしいの?」

 「うん。母ちゃんのご飯は何でもみんな、ほんとにおいしいの」

嬉しそうに女の子が言った。

 「へえ、そんなに美味しいんだったら、お姉ちゃんも食べてみたいな」

 「いいよ。母ちゃんに頼んであげる」

 女の子がそう言ったところで、男の子が「こら!」と叱りつけた。

 「だって、かあちゃんのご飯、この人が食べたいって言うから」

 女の子はしょぼんとなってしまった。その姿が菜多里にはとても愛おしく映った。

 「いいのよ。あなたたち、きっとまた会えるから、そしたら今度はお友達になりましょうね」

菜多里はそう言って思い出したように付け加えた。

 「そうそう、あさっては急にお天気が悪くなるから、お昼ごろは川に出ない方がいいわ。きっとよ」

 子供らの呆気にとられたような顔を残して、彼女は宿の方に戻っていった。

 何もせず一日が過ぎ、二日目がやってきた。目を覚ますと一番に窓辺に行き、空の様子を確かめてみる。海に近い河川敷では、もう何人かが試験を終えているはずだ。しかし、彼女は一度も現場に足を運ぶことはなかった。本を読んだり、宿の裏手にある針葉樹の多い庭を眺めたり、町の街中を散歩したりして過ごしていた。綺麗に並んだ川沿いのレンガ造りの家々やその庭、そこに住む人々の表情に心が和んだ。

 川沿いの通りをずっと上流側に、松実の町並みが現れる。そこは人が二人やっとすれ違えるくらいの狭い路地が入り組み、住民の笑い声やどなり声があちこちから聞こえてくる。

 路地のところどころにわずかな空地があり、そこでは近所の家々の洗濯物が干してあったり、子供が二-三人土の上にしゃがんで遊んだりしていた。川で魚をとっていた子供らもそうだが、たとえ裕福ではなくても何かものすごく温かく、豊かな心がこの場所には通っている。

 どなり声の主は、職人たちのようだ。がら空きになった窓やドアからは、絵を描く人や、箱のようなものを組み立てている人、木彫り職人のような人が、それぞれの家の一角にある作業場で明るく仕事をしている姿を見ることができた。


 「みんなには申し訳ないけど、やはり私がこの土地の新しい風操士にならせていただくわ」

 試験終了三時間前。彼女は子供たちが川で魚捕りをしていないことを確認して、試験場の河川敷へと向かった。


 この二日間、まあまあ風があったのは、昨日の午後だった。おそらくそのときに多くの参加者が試験を受けたに違いない。菜多里が試験終了のぴったり二時間十五分前に受付のテントに行ってみると、残る試験者は彼女を含め二人だけとなっていた。試験初日に大きな声で質問していた若い男の姿が目に入った。

 「今、トップは何回転ですか?」。その男が試験官に向かってにやついて聞いるのが菜多里の耳にも入った。

 「ああ、六百七十三回ですよ。ふつうの風ではとても出せない記録です。あの風操士さんは、風をより強くするような見たことのない技術を使って、本当にすごかった。本人の身のこなしなかもちょっと驚かされましたよ。今日の天気じゃこの記録を破るのはどうなんでしょうか?」。いかにも勝負は決まったといいたそうな表情で試験官が答えた。

 「いえいえ。僕には六十回分のハンディがあるんですよ。この天気ならひっくり返せますよ」

 にやつき男が、余裕のある表情を浮かべて見せた。男に続いて、菜多里も受付の試験官に向かった。

 「何号にしますか?」

 「え?」

 「風車の番号ですよ。一番左が一号機で、一番右が十号機。お忘れですか?」と試験官は愛想よく言った。

 「ああ、そうでした。じゃあ、十号機をお願いします」

 すると試験官は困った表情を浮かべ「すいません。十号機は先ほどの方が選んでしまったのですが」と言った。

 「え、でも私、右の端がいいんです。でないと…」。菜多里の顔にさっきまでの余裕の表情が消えている。

 「弱ったなあ」

試験官の腕組みを横目に「別に変えてあげてもいいですよ。僕は一号機にしますから」と、同じ時間に試験を受けることになった男が二人の間に割り込んできた。

 菜多里も試験官も同時に男の方に目を向け、驚いたようにニヤついた顔を見た。

 「でも条件があるなあ。あなたの二十回分を僕の方にいただけませんか?」

男の言葉に二人はあっけにとられてしまった。

 「いかがです?」と男は追い打ちをかけるように言う。

 試験官は少し考えるようにして、「十回加える分にはルールに反するということはないのですが」と言い、困ったように菜多里の表情を伺った。

 彼女は試験官の言葉に対しにっこりと笑顔を向けると、「それで結構です。十回分は彼に加えられたうえで、回転数の合計がもし彼よりも八十一回以上多くなったら私の勝ちということで良いんじゃないですか?」

 「でもそれではルール上は違反でして」と言う試験官に対し菜多里は、

 「ですからもし私の合計数が彼プラス十回以下だったら私が辞退します。それならルールとは関係ありませんから大丈夫ですよね」

 「なるほど」と試験官は頷き、男の方を向いた。

 「いいでしょう。十号機をお譲りしましょう。まあ、これで僕のハンディは実質八十回分になったわけだし、他の参加者に対しても七十回分あるわけだから、かなり有利になることに違いはないからね」

 「それでは試験を始めてください。もう、時間ぎりぎりです」

 試験官が二人を急き立てるようにして声を発した。テントの中に座っていたもう一人の役人らしい人間に軽く目配せをし、四人は川向こうに風車が並ぶ広い河川敷へと出た。テントで対応してくれた試験官が心配そうに菜多里についた。もう一人の男が、リヤカー一杯の道具を運んでいるのに比べ、菜多里は左手に扇子を一つと薪をバケツ二杯分、それとキャリーに乗せた小さな風筒を持ってきているだけである。

 「それでは始めていただきたいのですが、道具はそれだけですか?」

 試験官が言った。

 「そうです。あ、あとはこれ」

 と彼の方に向けてマッチ箱を一つかざしてカサカサいわせた。よく見ると試験官は目元に子供の頃のあどけなさを残した人の良さそうな顔をしている。

 「もう、準備はほとんど終わっているんです」

 菜多里の言葉に、彼は何かを言いかけようとしたが、目の前の屈託のない表情に言葉を失ってしまったようだ。「では今から二時間でお願いします」と、手にしていた折り畳み椅子を持って彼女の背後十メートルほどのところまで行って座り、採点表を膝の上にのせた。遠くの土手では、すでに試験を終えた風操士や町の人々がぱらぱらとこちらを見ている様子がうかがえた。

 菜多里は、周囲を一瞥してすぐにポケットから時計を取り出し、時間を秒針まで確認した。時計は十時七分四十五秒になる。

 「あと五分四十秒…」。空気のかすかな旋回を感じながらなおも時計に集中した。風車はまだ一回転もしていない。


 一方、二百メートル以上も川下の一号機の方では、男がリヤカーで運んできた道具を組み立てている。試験官が十号機の風車の回る気配のないことを確認しながら男を見やると、どうやら人力で回せる大きな風車と「方向翼ほうこうよく」を使うようだった。

方向翼はよく風操士が使う楕円の厚みを持った板状の道具で、大きなものになると長さが二十メートルにも達する。普通はそれをいくつか立てて、風操士の指示によって操作しながらビル風のように風を必要な所に集めたりするのに使う。


 菜多里の時計が残り一分というところで、男の方も道具の組立が終わったようだ。彼女が一瞬、そちらの方に目を向けると方向翼とは少し形が違うように映った。

 「なにかしら?」

 男の道具をどこかで見たような気がしたが、彼女は迫る時間に集中する必要があった。

五、四、三、二、一。

 「くるわ」

 彼女は、ふっと上空を見上げた。その瞬間、ひとかたまりの風がすっと彼女の体を通りすぎた。

 「大丈夫、何も心配することはないわ」

 そして今度は時間を見ながら正確に薪に火を着けた。薪には燃料が染みていて、扇子の風に煽られながらオレンジ色に青色を交ぜた炎が頭上高く舞い上がった。

 五、四、三、二、一。川の水面の一部がざわつき始めた。

 今度はさっきより強い風が塊のようになって菜多里の背後から吹きつけてきた。その風は、そのまま風車へとまっすぐに向かい、ぐんっと十号機だけを回転させ始めた。風車の回転を確認すると、次は燃え上がる炎の傍に膝を抱えて座り、回転の速さを確認した。風車は一分間にほぼ六回転している。それに比べ隣の九号機はピクリとも動かないので、試験官は不思議そうに身を乗り出してその様子を眺めている。

 試験終了までの残り時間は一時間と約三十分。かりに今のペースでいけば菜多里はこれまでの最高記録といい勝負ができるだろう。そしてさらに一時間が過ぎても状況は変わらなかった。十号機の回転は目測では四百回前後は回っているに違いない。



5. 圧筒


 スッ。残り時間が三十分を切ったとき、かすかな風が菜多里の頬をかすめた。

 「えっ」

 菜多里は立ち上がり、周囲を見渡して一号機の方で例の男が操作している道具に目を止めた。

 「あれだわ」

 菜多里は自分の後方に座っている試験官のところまであわてて走り、一号機がいま何回転しているか尋ねた。試験官は困ったように首を振り、それでも三百回転以上は回っていそうだと答えてくれた。彼女は、今まで自分の回転数を数えることばかりに気を取られて一号機の男が何をしているかなどと全く気に止めなかった。男が浮かばせているのは方向翼などではなかったのだ。

 「あれは、そう。あれはアツ、まさか『圧筒あっとう』…。前に聞いたことがある。でも、あんな物を使いこなせる人がいるなんて」

 圧筒と呼ぶその道具は、片端が密封してある長い筒を縦にぶら下げ、筒の壁にある換気扇を常に外側に空気が出るように回してやることで、上の筒口から入った空気を真横に出すという九〇度の空気の流れを作り出す道具だった。これを二つ、離れた距離で必要に応じて移動させながら使うことで、一定の範囲内における空気の対流を自在に生み出せるとされた。単に風の方向を変える方向翼とは違い、それを扱うにはかなり高い技術が必要と言われ、風の強さがときに危険を及ぼすことから、ある時期にこの技術は風操士の世界で禁止され、それを扱える人間ももう存在しないと言われていた。


 「あんな道具を使える人間がいるはずは…」

 彼女の心配は的中した。彼女が操っている風がずれて、隣の九号機がはっきりと回り始めたのである。その分、十号機の回転速度は落ちていった。圧筒が言われるように機能した場合、一部の気圧を変化させる働きが方向翼など他の道具に比べ大きく優れているはずで、その力が十号機へ向かう風にまで影響を与え始めたのだ。残り時間はもう二十分程度でしかない。もしかしたら彼女が負けているかもしれない。菜多里は意を決し上着の袖から扇子を取り出すと、頭上に掲げ、ひらひらと舞う花弁のように下方へと揺らめかせて、目の辺りまで来たところで十号機の方に向かってそれを扇いだ。大きく一回、二回と続けて、さらに炎が天に向かうよう、火に向かっても何度か扇いだ。

 すると、あやしい風とともに上空には黒雲がわいてきたではないか。すぐに轟音を伴わせる風が吹き始め、六号機から十号機までの風車は前後に揺れるようにきしみ音を立てながら急回転しだしたのである。一方で、一号機の方に向かうほどに回転の勢いは弱まっている。何が起きたのかと立ち上がり、菜多里と風車と風の様子をきょろきょろと交互に眺め回す試験官をよそに、菜多里は右手をまっすぐに繰り出したまま、手の先に握っている扇子をゆらゆらと揺らめかせていた。

 試験官にとって一連の出来事は魔法使いの仕事のようにさえ思える光景だった。それから試験終了までのわずか十二-十三分の間に、十号機は羽の風切音や軸のすれ合う音が川のこちら側まで音が聞こえるほどの勢いで回転し、そのまま制限時間が訪れた。

 試験官は時間が過ぎた後も呆然とした様子で立ったままだ。菜多里は両手をぶら下げた状態で、やはり風車の方を見るようにして立っている。風はどこかに行ってしまっていた。一号機の方面では、地面に落下してしまった圧筒を前に、こちらを向いている男の姿がうかがえた。土手の人々も菜多里の方を見ていた。


 「終わりました?」

 真後ろを振り向きざま、菜多里は元の優しい表情に戻って、まだ呆然としている試験官に声をかけた。彼女には余裕で勝利したはずよ、と言わんばかりの表情が浮かんでいた。

 「ああ、はい」

 試験官は、首にぶら下げていた時計を覗き込むと彼女に目を移し、「では、ええ、目視では回転数が確認できなかったので、正確な数を見てきますので少し待っていて下さい。それにしてもあんなに早く風車が回るのを見るのは、先にも後にも今回だけになりそうですね。風車ごと空に飛んで行ってしまうのではないかと思いましたよ」と声を途切れさせながら、どことなくおぼつかない足取りでエンジン付きの三輪車に乗り込んで対岸に通じる上流の橋の方に向かっていった。

 菜多里は、もう一度、対戦相手となった男の方を見た。遠くに小さく見えるその男は、芝地の河川敷に立って、もう一人の試験官と向かい合い何かを話しているようだった。彼女はそんな様子を伺いながらテントまで歩き、テーブルにこぼれたコーヒーの後をハンカチでを拭き取ると、笑みを浮かべ「ごめんなさい」とぽつり呟いた。


 そして翌月には、彼女の住むトラミ町の自宅に、「風操士」の採用通知が届いた。


 菜多里が試験に通った噂は、瞬く間にホクイ中に広がった。

 「女流風操士だってさ、しかもまだ若くてすごく美人さんで、それよりも何よりも見かけによらず相当な腕利きらしいぜ」「西の圏域にあるトラミの出身なんだってね」「でもサイタの連中みたいに魔法使いのように風を自在に操るらしいんよ」 「この町の新しい名物になりそうだね」


 それらは正一郎の耳にも入って来ていた。

 「彼女がの、やはりやりおったか」

 ノミを手に椅子の足を削りながら、彼は暗い作業場で複雑な心境でいた。

 「先生、彼女やりましたね。それにしてもすごいことだ、二位以下を大差で引き離したようですよ」

 嬉しそうに作業場に駆け込んできたのは、正一郎と同じく要山で菜多里と会った甦也エンジだ。

 「どんな技を使ったのかな、なんか前に見たときは女神のように見えたけど、また不思議なことをやって見せたんですかね?」

 にこやかに話すエンジに正一郎は「まあそういうことだろう。それよりも、本当にすごい風操士が来てしまったことの方が心配だわい」と答えた。

 「どういうことですか?」

 作業場の丸椅子に座りながら話す甦也に彼はやや考え込むようにして、「豊風神社に納めたあれ、覚えておるか?」と聞いた。

 「ええ、もちろんです。あれは神社の守り神になる門と先生は教えてくださいましたが…」


 「あれだけでは足りなくなるかもしれんの」

 「と、言いますと?」

 首をかしげるエンジに正一郎は「この町はもう壊れ始めておる…。あの守り神は大地から海に流れ込んだ生命をたくさん宿しておって、豊風神社だけじゃなくてこの町全体を悪い病気から守ってくれておるんじゃが、今後ホクイに吹いてくる風は、わしが想像できる範囲を超えたものになりそうな気がしての」

 椅子に削りを入れながらつぶやくように話す正一郎の真意を測りかね、エンジはきれいな楕円の形が創出されていく様子をぼんやり眺めていた。

 「あ、そうそう。彼女が山の上で話していたことややっていたこと、あれはわしがいいと言うまで誰にも話しちゃだめだぞ」



6. トラミ


 「ホクイに行くんですか?」

 トラミ町の役人は驚いたように聞いてきた。

 「私も以前、視察で行ったことはありますが、よく風操士の枠に入れましたね。失礼ですが、あそこは住むのさえ難しいところですから、それこそ風操士になるなんていうのは、よほどの技術を持ってないと、とてもじゃないけどなれないと思ってました」

 菜多里はこのトラミに住むようになってからは、他の風操士と共に働き、若輩がよく任される風車に風を送る仕事を四年ほど受け持ってきた。彼女がサイタ出身であるということが一般に知らされることはなかったから、窓口の役人は丸メガネの奥にある小さな目を丸くして驚いたのである。

 役人にとって彼女は、特に難しい技術を必要とするような仕事を任されることもなく、主に方向翼を使って町の大きなメーン風車にもう一人の風操士と一緒に安定的な風を送る、町の発電を担う新米風操士に映っていたに過ぎない。

 ただ、彼女が仕事を始めてから四年ほどすると、風を絶やすことがないという実績が評価されて、一つ上の技を操る擾乱を受け持たされていた。この仕事は、方向翼が町にもたらす大きな風を一部分“抜き取って”小さな風に変えて必要な場所に送ることを求められる。風操士は、主に「風筒ふうとう」という筒状の、二ヵ所の入口から入った風を合流させて強い風をつくる道具を用いた。風筒を使って起こす風は「日用風」と呼ばれた。町に十カ所ある操作台から、井戸水を上げるための風車を回したり、港では動きの怪しい船などがうまく着岸するため「誘導風」を送るのが仕事だ。港には誘導風とは別に「護衛風」といって大きな風を煙突のような筒の上部から取り入れ、しばらく空気を圧縮してから強い風を海側に送り出し、海賊を撃退する担当の熟練風操士もいた。


 そうした仲間たちと一緒にいて、菜多里は細かい風の制御にも少しずつ関心を持つようになっていった。特に擾乱の仕事を受け持ってからは、小さい丁寧な風がどれほど人の役に立つかを知り、その技術を自分の能力として取り入れていきたいとの思いを強めていった。道具の使い方はわかったが、そうではなく自分の風を読み操る力の中に加えていきたいと思った。

 「私の力では、大きな風を部分的に取り込んだり、少しずらしてみせたりすることはできる。でも、とても小さな風も操れるようになれば今までとは違う形でもっと人の役に立てる」

 菜多里が風筒に手を掛け日用風を送る先に暮らす人々の笑顔を見るたびに、自分自身の次へのアクションを考えずにはいられなかった。そして何より彼女をそう思わせたのは父母の懐かしい言葉だ。

 「私たちサイタの風操士は、どんな風だって操ることができるんだよ。ただそのためにはいろんなことを学ばなければならない。私や菜多里でもできないすごい風操技術を持っている人もいるんだよ」

 その言葉を忘れることができず、菜多里は休みを使ってはいろいろな圏域の町々を旅するようになった。故郷のサイタが崩壊して、別れて暮らさなければならなくなった父母の住む圏域の町を訪れることもある。山々に囲まれた良い町だった。そこで父母は町の風操士の補佐役として風を操るアドバイスや道具の手入れ、操作補助の仕事を与えられていた。世界中には、サイタに同情的な町が多く、故郷を追われたサイタ人を温かく迎えてくれるところも少なくなかった。


 「私もホクイという町に行ってみたいな」

 「どうしてだい?」

 「だって、こんなにミルクを美味しくしてくれるコップが作れるなんて。そこに住む人々は、きっとお皿もお箸もこのコップのようになっていて、なんでも美味しく食べているに決まっているもの」

 うらやましそうに話す幼い菜多里に、父は笑ってこうこたえた。

 「とてもきれいなところだよ。いい風が吹いていて、木を彫る職人さんがたくさん働いていたよ。大きな川があってね、訪れた時にたまたま川で遊んでいた子供がおぼれそうになっていたのを助けたんだ。このコップはその時のお礼なんだよ。その家にも一つしかないとても大切な物だと言っていた」

 「ふーん」

 そんな、幼い自分にはいまひとつ理解できなかった記憶が、今でも残っている。優しく威厳のある父母の笑顔を思い出す。

 トラミはとてもいい国だ。しかし、何か今まで知ることのなかったものがあのホクイにはあるような気がする。木芸、風操士、職人さん、そしてサイタとの関係…。



7. 重い祝杯


 季節は春に変わり、風操士の仕事の引き継ぎや他の町に移転するための手続きにずいぶん手間取られたが、菜多里は、どうにかあの、海と山と空の列車に乗ることができた。

 あいにくの霧雨は、初めて訪れた時とは打って変わって、景色を憂鬱に映し出している。町に入る舟を降りると、かすんだ広場に歓迎の横断幕が飾られているのが目に入った。今日は市場もないようだ。そこには行政の関係者や、見物人らしき住民がたくさん集まっていて、すぐに鼓笛隊による音楽が始まった。何事かと舟に同乗していた観光客らや広場を歩いていた住民も集まってくると、形式を思わせる式典は、だんだんと賑やかな雰囲気へと変わっていった。

 「菜多里レイジさん、ようこそ我がホクイの風操士に。我々住民すべてがあなたを心待ちにしておりました。私は首長のイウトです。わが町はこれからの飛躍のため、新しい力を求めてきました。そして偉大なる力を得られたことを確信しています。今後のご活躍を期待しております」

 群集から抜け出るようにして挨拶したのは、ニシジイウトだ。菜多里はその場で握手し、ホクイの免許状を授与された。彼女にとっても決して悪い気分ではなかったが、ニシジの表情や雰囲気を好きになることはできそうもなかった。

 「こちらこそよろしくお願いします。試験の日は運も味方してくれました。ご期待に応えられるかどうかわかりませんが、頑張ります!」


 菜多里は広場から、特別に用意された馬車に乗せられ、石畳のメーン通りを抜けてホテルのパーティー会場へと招かれ、さらに歓迎式典は続いた。自分がこれほど歓迎されるのは意外だったが、豪華な装飾と料理を前に、時間とともに宴に溶け込んでいった。

 次々に挨拶に来る町の幹部や有識者たち。わずらわしいと思いながらも、逃げるわけにもいかない。彼らは必ず菜多里の出身を聞き、風操士としての修業の方法を聞いた。皆、トラミと聞くと意外な顔をして、擾乱担当を任せられるまでになっていたという話のあたりでちょっとわかったような顔に戻る。

ただ一人だけ、やや不可解な表情で話しかけてきた。

 「私はちょうどあの最終日の試験の日にあなたの技術を見ることができて光栄でした。あれは普通の技術でないですよね。少し風操士に関する知識があればわかります。いったいどうやったのか教えていただけませんか?」

男は何かを知っていそうな鈍光を目の奥に宿している。

 「あれは本当にたまたま運が良かった部分もありますので」

 「なるほど、そうかもしれませんね。でも、もともと道具が少ないというのもなんだか気になりましてね」

 「どんなところが、ですか?」

 「レイジさんもご存じとは思いますが、以前、サイタという町があったのですが、もしかしたらそこで昔、使われていた風操士のやり方のようにも思えまして」

瞬間、菜多里の顔にしびれが走った。自分の出身がもはやばれているとは思いたくはなかった。もしサイタの風操士であることが知られてしまうと、かつての事件のときのように、どのような輩が近づいてくるかも知れない。あの試験のときにカモフラージュとして風筒を置いておいてよかったと、彼女はこのとき心底思った。

 「どうかしましたか?」と男はやや上目使いに顔を覗き込んできた。

 「あ、いえ。なんでもないんです。たださすがだなと思いまして」

 「は、といいますと?」

 「私があの試験の日に使った技術は確かにサイタというところの技術を一部に使っているようなんです。確実にどうか、と言われると自信がないのですが、トラミにいた風操士の先輩が教えてくれたんですよ」

 「そうなんですね、どうりでそう思えたわけだ。トラミにはサイタ出身の方がおられたんですね。ぜひお会いしてみたいものだ」

 「いえ、その方も昔、サイタの方がトラミに教えに来ているときに、特別な技を教えてもらったとかおっしゃってましたが」

 菜多里はとっさに嘘をついた。その話題から早く離れたかった。

 だが男は話し続けた。「それにしても試験のとき一緒にされていた男の方もすごい技術でしたね。見ていてほれぼれしたほどです」

 そういえば、あのときの男の技術はどこから得たものだろう。おそらく圧筒を使っていた。圧筒はサイタに住んでいた頃、父親に写真で見せてもらったことがある。空気の流れを自在に作り出す柔軟性はサイタの技術に近い。問題はそれを使い、本来は風筒でやるべきはずの護衛風と組み合わせることで、護衛風の力を何倍にも強化できるとされ、サイタでは過去にその風を創り出す技術者も実在していたらしい。しかし理由は知らされていなかったが、それはある時点で“封印”されたはずだった。

 「私は自分の風車をまわすのに精一杯で、よくわかりませんでしたが」

 「そうですか。すごいテクニックで空気の圧力を操作しているようでした。あれがどれほどすごい技なのか、ぜひあなたの意見も聞きたいと思ったのですが、残念です。あ、私は、カボタナベと申します。イウト首長の補佐役をしています。これからどうぞよろしくお願いします」

 「こちらこそ、よろしくお願いいたします…」

 その後の菜多里はすっきりしない気分のまま何人もと曖昧なやり取りをし、ようやく解放された頃には、夜もふけていた。ホテルのリビングのテーブルには赤い薔薇の花束が生けてあった。彼女はそれを一本抜いて香りを嗅いだ後、目の前あたりで花冠をクルクルと回転させてみた。

 「私は世界最強の風操士。さあ、どなたでもかかっていらっしゃい」

 そう胸を張り、えへと笑った。



8. 陰謀の片鱗


 翌日の朝、菜多里はホテルから歩いてすぐの役所で、風操士として働くための手続きを済ませた。

 「ようこそ!」

 「ぜひよろしくお願いします!」

 昨日の疲れは残っていたものの、何人も目を輝かせた職員から握手を求められると自然に元気も沸いてくる。案内されるままに自分の執務室へと向かい、背もたれの高い皮の椅子に腰を下ろしてみた。昼食までには机の上に置いてある資料を読んでおくようにとのことだった。

 目の前にある、一冊のファイルに閉じ込められている資料は、ずいぶん厚いもので、最後の頁をめくってみると三百ページほどあった。表紙には「風操士の職務とホクイ町における生活の心得」と書かれ、全部で十章ある。

最初は「風操士の職務」である。読んでみると、この町には風操士が三人配置されると書いてある。「ずいぶん少ないのね」と思って読み進めると、各風操士におよそ二十人ずつの助手が付くらしい。助手は、風操士の送り迎えから道具の手入れ、実際に風を操る際の補助、食事の支度と、私生活の一部にまで入り込んで風操士を助けるということであった。

 「大変なところ。ここでは風操士がとても偉い人みたい」

 もちろん風操士であることは、他の町も同じように特別な立場ではあったが、菜多里にとってはかなり窮屈な縛りがこの土地にはあるように思えた。続きが気になったので次に「生活の心得」の部分を先に開いてみると、またすぐに目が留まった。

 「人口は約二万五千人で五十年間ほぼ変化しておらず、一単位五人以上の定数条件が満たされている家族構成員に限り住民として認める」という。産業は主に農林や木芸、建築、観光が中心で、世襲によりそれらの産業を維持することを義務化し、職業を変えたり、他国へ転出や転入したりするためにはかなり厳しい審査がある、という。もちろん住宅の建て替えや景観に少しでも影響する行為は禁じられているらしく、すべてにおいて首長の許可を要した。

 「これじゃあ首長が王様みたい。サイタもトラミもこんなに厳しい感じじゃなかったわ。外の町に出ることだって大変そうだし、私は一人だけど住民にはなれないのかしら」などと呟きながら、だんだん気分が沈んで憂鬱になってくるのを感じ、窓辺に立った。


 昼食は前日に顔を合わせた区の幹部らと共にした。昼食後、町を案内する馬車の車上の人になると、やはりこの町は他に比べても特別に良い雰囲気を持っているように感じる。石畳の中央広場から五つの方角に向かって伸びる道路は、要山をはじめとする山並みへと続く緑の丘陵地へと続いていたり、町の入口となるゲートへと真南に伸びる町のシンボル通りとなっていたり、さらに木造の平屋の並ぶ旧市街や、あるいはこれから人々が住むであろう広大な空き地へとつながっている。それぞれの通りには、その通りとわかる象徴的な植樹がなされ、大きいものでは数十メートルにも及ぶ高い樹木がまるで壁のように、通りのはるか向こうまで連なり、春の風に揺れていた。


 「そういえばこちらの町は境界壁が他の町よりずいぶん高いですね」と、馬車の上で菜多里は案内役に聞いた。

 「ああ、はい、よく言われます。昔、北の圏域にあるタイトの連中がよくこの町に攻めてきたらしいんでして。統合しようとか何とかで。どうせホクイの木芸技術をタイトの武装に利用しようとしたに決まっております。でもホクイの木芸は、昔のサイタとのみ風操利用の約束をしてましたから、そんなことは難しいに決まってましたんで。今はだいぶ違ってきているようですが。これからそれらの歴史がわかる場所にもお連れしまして、ホクイの力をお見せできるところにも案内させていただきますんで」

 「そう、ですか。やはり戦争が」と言って口をつぐみ、思い出したように「皆さんはあまり町の外には行かれないのですか?」と話題を変えた

 案内役は笑顔を向け「あなた様のように特別な身分の方々を除いてはあまり出ませんでして。その必要がないとでも申せばいいのでしょうか、この町より良いところってあまりないでしょうから」とどこか遠いところから聞こえてくる声のような答えが返ってきた。

 「そんなに良いところなんですね?」

 「はい。住んでいくうちにだんだんとわかっていただけたら私も嬉しいです。私には特別な技量も能力もないんでして、生まれた時からずっとホクイに住んでいますが、ここならどこよりも安心して暮らせますんで。外部の世界にも興味はあるんですけれども、怖いので無理に出たいとはやはり思いませんですね」 

 菜多里には彼の言っていることが何か不自然に思えた。あの堅苦しい『心得』に縛り付けられているような、そんな何か。

 トラミともサイタとも違う、何か。とても良い街だけどどこかで決定的に違う。風操士も今までよりずっと偉いように思えるし…。

 もともと圏域と町からなるこの世界は、ゆるやかな鎖国性とともに成り立っている。それによって独自の文化が育まれやすく、どの国も町並み、建物、食事、芸術、伝統的な文化などいずれも多様性に富んでいた。菜多里にとって、休みの度に色々な圏域の町を訪れて、それらを見て歩くことは楽しく、学ぶことも多いと喜ぶべきことだったし、少なくともトラミではそう思う人間は少なくなかった。ところがこのホクイにはそう思う人はあまりいないのかもしれない。

 

 馬車は街のシンボル通りを過ぎ、首長の肝入りで最近建てられたという歴史博物館で止まった。町で最も高い建物らしく、広い空地のど真ん中にそびえている。次第に周辺にもさまざまな建物が建設される予定なのだという。

 「こちらをご案内します」と案内役の男は道路に降り、菜多里の座る側のドアを開けた。建物の中は白で統一され、一階の広いフロアには街の模型があった。まだ用意が完全ではないのか、壁際のディスプレイのところどころに空きが見られ、がらんとした広い空間にポツンと自分が置かれたような感覚がする。自然、足はフロアの真ん中にある模型へと向かった。

 「これがホクイの未来像でして」

振り向く菜多里に男は「今までの歴史はこの建物にすべて凝縮して、全く新しい街を創っていくというのがイウト首長さまのお考えでして、今までのどの町にもない世界をこの場所に築いていかれるとおっしゃっていますんで」


 「そんな、そういうことは私は聞いていませんでしたが、本当なのですか?」

 「まだ構想段階だそうでして。反対する方も多いので。ただ、この建物を建てることで一歩前進したと首長さまはおっしゃっていますんで。まだ上の階はガラガラですが、二階には現在のホクイの姿を、その上には中世や古代の姿を、さらに伝統芸能や特産品など世界に誇れるさまざまな資産を展示していくことになるそうでして。私もそんな話を聞いているうちにワクワクしてきましたし、反対されている方々も含めて多くの人々が私と同じような嬉しい気持ちになっていくのではないかと思うんです。レイジ様はいかがですか?レイジ様のような風操士の方々の役割がこれからとても大切になっていくとも聞いていますんですが…」

 「よくわかりません。だってこれって皆さんが大好きなものまで変えてしまうような話に聞こえますし、どこにもない町って、そうなるといろんな外の圏域の人たちも見に来たくなるんじゃないんですか?そうしたら、今まで守ってきた厳しい制度とかそういうのだってどうなってしまうのかしら?」

男は笑みを浮かべた。

 「大丈夫です。ここの警察や軍事力はおそらく世界有数でして、町の治安も厳しい制度も今まで通り守られていくはずです。それに、まだまだ強化するためにタイトとも提携していく予定らしいんです」

 「タイト、と?」

 「はい、今はとても友好な関係でして。あそこはさまざまな風の研究をされていて、もはや軍事力では世界に並ぶところはないと言われるほどになっていまして、それらの技術をホクイにも導入して中と外をきっちり守るということになろうかと」

 案内役は嬉しそうに「そうそう、ホクイが安全な理由はこの後お見せするところでもっとご理解できると思うんです」と続けた。

 馬車は、次の目的地という治安施設なるところへと向かった。中央の広場からは北西方面に向かい、菜多里が高い壁が迫ってくるのを眺めていると、馬車は壁の目の前で止まった。そこには壁と一体となった石造りの長屋が遥か向こうまで続いている。

 「こちらが町の治安施設でして。この壁に沿って五十キロ以上にわたって続いてまして、中には兵士が常駐して、護衛風の口を外に向けていますんでして。護衛風もタイトの技術でより強力になったんです」

 確かに長屋の屋根には煙突のような筒がずっと向こうまで並んでいた。空気の取り入れ口に違いなかった。

 「ここの壁の向こうは何なんですか?」

 「はい、森とか山とか人が住んでいないところでして、悪者が侵入してきやすい場所なんです。この施設は南側は町に入るための川ゲートのところまで続いていまして、それ以外の壁周辺は大きな平原や崖がほとんどですから。それらのエリアは護衛風じゃなくしてもっと大きな風で守るってことになっているんです」

 「もっと大きな風?」

 「はい、護衛風よりももっと強くて大きな風でして。私は良く知りませんが、これもタイトがずっと研究してきた強力なやつってことです」

 「それって」と言いかけて、菜多里は言葉を飲み込んだ。まさか破壊風を生み出せるはずはない、と自分に言い聞かせた。この町にはやはり何かがある、そのようにしか思えない。タイトとの関係、そして自分の故郷で起きた事件。きっと何かがある…。

 馬車は最後に、菜多里が試験のときに何度も訪れた松実に向かった。中央の広場をいったん経由し、今度は北東に向かう通りを進み、途中で路地に入っていく。入るとすぐに木の香りが体を包んでくれる場所だ。馬車が一台ぎりぎり通り抜けられる路地のところどころの小広場で子供らの遊ぶ声や、大人たちが談笑している声が聞こえてくる。ときどき木材が積まれたところがあり、その向こうのドアの中では何人かが木材を削ったりしている作業の様子が見て取れた。開け放たれた小広場を囲む家々の縁側は、菜多里にとってホクイを好きになる一番のきっかけになったところでもある。

 そして一軒の家の前で止まり、案内人はその家のものと思われる門扉をたたいた。少しして扉の向こうのガラガラと玄関扉の開く音がして、足音が近づき、門扉が開いた。

 菜多里は相手の顔を見てはっとした。

 「もしやあの要山でのときの…」

 「はい。よくいらっしゃいました。ヨコタです」



9.木芸の力


 ホクイの特産品は、古くから独特の木芸品であり、正一郎はその文化を発展させてきたリーダーである。彼は、木の生命との共生という考えを、あらゆる作品に込め、人々を魅了し、観光客を呼び、ここで修業させてほしいとやってくる人間を次々と生んできた。

 この辺りは、かつて流木の町で、岸に流れ着いた大小さまざまな形、色、艶をした流木を、このエリアの職人達が自ら拾い集め加工していた。小さな流木は飾り物の鳥や兎、小さな女の子が遊ぶかわいらしい人形になったり、けん玉やコマになって、男の子たちを夢中にさせた。

 ここで作られたものたちはすべて何らかの不思議さを宿していた。回りながら淡い光を帯びるコマ、ボールが当たるときに金管のような音を立てるけん玉、人形は、日によってわずかに表情を変えるように見え、遠方から聞きつけて買いにくる人も少なくなかった。

 正一郎が自分で作るものといえば、普段は大掛かりなもので、椅子やテーブルをはじめ、太い幹を組み合わせて神社の鳥居や、大きな門などの建造物まで造作することも少なくなかった。そして、それらもやはり普通では考えられないようなことが頻繁に起こるのだった。

 ここで作られるものが、まるで心を通わせているかのように、それらの持ち主に対して心地よく変化し、たとえ見た目ではわからない場合でも、椅子の座り心地が主人の年齢に合わせて少しずつ変わっていくような感覚を、人々は感じていた。

 そうした独特の技術に、さまざまな人々が集い、ひと時は一つの文化町として賑わいをみせ、この町の名物として知られるまでになっていた。


 首長のニシジも、木芸品に関する人々の交流については奨励し、他と違って高い自由度を持たせていたため、ホクイの中でも特異的な文化が芽生え、すべてが木のまち、すべての戸が開かれたまち、住民そしてそこを訪れる人々の心が開かれたまちとして、いつも笑顔と笑い声の絶えない場所だった。ただ、ニシジが首長になってからは、エリアは限定され、他とは区別される木の囲いがきっちりと四方にめぐらされていた。


 菜多里らが訪れた正一郎の家には、他の家と同じように外壁がなく、ただ敷地と道路との境に重々しい門扉が一つ設えてある。横からいくらでも入れそうなものだが、案内人がそこを叩いて正一郎を呼び出したところを見ると、おそらくそうするのがしきたりなのだろう。


 「菜多里レイジさんをお連れしましたんですが、もうお二人はご存知でした か?」

 「ええ、以前私が要山に登った時に、ちょうど山頂あたりでお会いしたんです」

 「へえ、そんなところで?そうでしたか、とすると要山にもう登られたんですか?あそこは神の住む山なんでして、こちらのヨコタさんも神の木の技を持っていらっしゃる。あの山からとってきた木で、ヨコタさんが作るものすべてがとてもとても素晴らしいものなんでして」

 「もしかして、あの有名な木芸品のことですか?」

 案内人は正一郎の方を見ると、「いえいえ、私が作るものはどれもみな実用品ですわい」と笑いながら「まあ、中に入ってお茶でもどうぞ」と二人を中に促した。


 開かれた門扉を通り、植木が少しばかり植わっているだけの庭を抜けて玄関から家の中に入る。そこが一応玄関だ、というのがふさわしいように思える作りで、入るとずっと奥の突き当りに壁は見えるが、左右にはほとんど壁がなく、縁側を経て外に開かれている。縁側が廊下となって家の中の四方を縁取るように渡され、その廊下に囲まれるようにして広場のように大きな広間があった。広間の向こうには、障子戸に囲まれた小部屋があるようだった。正一郎は突き当りの炊事場からお茶を入れ、広間の真ん中に置かれた小さな座卓に置いた。

 「まあ、とにかくようこそいらっしゃいました。レイジさんとおっしゃいましたな?」

 「はい。菜多里レイジと申します。菜多里で結構です」

 「はあ、では菜多里さん。あなたがここに来られたのは、首長のニシジさんの手配によるものなのだが、簡単に言えば出不精の私をあなたに紹介させようということではあるのですわい。そこには大きい目的があっての、それは、あなたと私とで町のためになる何か新しいことを考えてもらいたいということなんですわい」

 「何か、新しいこと?なんですか、それは?」

 「いくらなんでもそれでは意味不明ですかな」

正一郎は笑って「私は木芸職人。あなたは風操士。その私たちに首長が求めていることは、風を使って生活が今よりも便利になったり、世界から人々が沢山訪れるようになったりすることのようですな」

 「ではやっぱり」。菜多里は話の中身よりも、目の前にいる男が木芸職人であるということの方にばかり気持ちが向いてしまい、思わず舞い上がってしまった。

 「これ、菜多里さん。話を聞いておりますかな?」

 「あ、すみません」。彼女は我に返って、深呼吸をしてから言葉を選ぶように言った。

 「今のままじゃだめなんですか?何か、風操士の心得とかいう冊子を読ませていただいた感じでは、あまり外部との交流を好んではいないような感じでもありますし…」

 正一郎も少し考えて言った。

 「そうそうあの護衛風の壁はご覧になりましたかな?今のところあれと高い壁で町を守っておるようじゃが、軍事力をもっと強くしたいようですわい。金と風操士とここの木芸職人の力で。詳しくはわからんが、あまり聞きたくもないので、わしはなるべく彼とは合わないようにもしてましてな」

 冗談なのか本音なのか測りかねている菜多里を察して彼は「簡単に言えば、あなたと私の技術をいろんな町の利益のためにうまく活用したいのです」と眉間に皺を寄せた。彼は少し間を置き、男に向かって二人だけで話をしたいから門扉の向こうで待っていてほしいと頼んだ。すると男はおとなしく引きあげていった。


 「あの男に聞かれるといろいろまずいこともあるのでな。ここから先は内緒話だ、いいかね」

 菜多里は頷いた。

 「今までニシジからは、うちの木芸品をたくさん作って世界中に売っていきたいから手を貸せ、という話だったのだが、わしが反対するもんだからどうも何か考え方を変えよったようでの。風操士を使ってたくさんの観光客を呼ぶようなことで金儲けをしようとしておる」

 「私に関係があるのですね?」

 「わしにもある。さっき言ったが、人を呼ぶ方法として町、いやこのホクイ全域を全部造りかえるようなことを言いだしておる。しかも、途方もなく大規模に。もうわしには今までのような木芸品を作らなくてもいいから、その代り人々が来て遊んで楽しめる世界創りを手伝ってほしいのだそうだ。それをするなら松実を今のままにしておいてやるという話での。今度新しい、世界最強の風操士を雇うから、一緒に考えるのがわしの当面の役目だなどと脅しめいて言いおったわい」

 「でも、なぜヨコタさんと私なのですか?」

 「ふむ。この町では昔から、風操士と木芸職人が組んで大きな仕事を進めてきておる。風の流れる位置と木の育ち具合にも大きな関係があってな。それに、風操士の道具も、町づくりそのものも風との関係が大きいもんだから、いつもセットなんですわい」

 「そうですか…。でもどうやってそんなことを?私がここで働くにしても、今までと同じような仕事をするのとばかり思っていましたが、新しいことを考えるなんて」

 正一郎はさらに声を落として「あのニシジのやることにはすべて裏があると考えて違いない。あんたが受けた風操士の試験、あれだってわざわざなんであんな大掛かりな仕掛けにしたのかってな、ほんの一部の人間には知らされているが、それはサイタだ。サイタの風操士を探そうとやったことだわい。今や世界中に散らばっているサイタの風操士の耳にも届けば、誰かしら来るんじゃないのかっていう魂胆ですわい」

 「集めてどうするんですか?」

 「おそらくは護衛風を超える風を作ろうともくろんでいるようですわい。わしの読みでは、タイトの破壊風の技術はまだ完成しておらんのだろう。あの試験の内容をみてもそうに違いないわい」

 黙って聞く菜多里の手に自分の手を重ねて正一郎は続けた。

 「大丈夫、あんたがサイタ出身であることはまだこの町の誰にもわかっておらんよ。あの山で会った我々三人以外にはの。あの連中のことは安心してくれていい。でだ、わしが考えるに、サイタの風操士を見つけ出してタイトに送り込もうと目論んでいたじゃないかな。俗にいう破壊風、その圧倒的な破壊力を作り出そうと思っているようですわい」

 「私はトラミの出身ですし、何のことか…」

 正一郎は笑って、ぎこちなくとぼけてみせている菜多里の目をまっすぐに見た。

 「だから大丈夫、安心してください。要山で見させてもらったあんたの技は、サイタの人間以外にできる者はいやしませんわい」

黙っている新しい風操士に「それにあの扇子ですがね、あれはわしの親父のものとほとんど同じなんですよ」


 菜多里は身体が石になったように身動き一つできなかった。意味が分からなかった。何かを言葉にしようと思うが口さえも動かすことができず、ただ心臓の鼓動だけが大きく身体全体に響いてくる。

 「もちろんおわかりでしょうが、あの扇子は特別でしてな、いろんな技ができるんです、と言えば、わしが本当のことを知っていると理解してもらえますかな。元々、サイタの五人の風操士が持っていたもので、その一つを、わしの親父も持っていた。ただ、親父は本当の風操士にはなれんでしたが…。わしは小さい頃に見せてもらっただけですが、よく話には聞いておりました。すごい風が作り出せるんだと。彼はわしをホクイに置いて、どこかに行ってしまってそれきりですがの」

 確かに、ヨコタの家のの方には、護衛風用の大筒や、日用風の小筒などの風筒の仲間や、風車の羽の一部か、方向翼か、そんなものが置いてある。そのなかに気になる道具があった。聞くと、やはり圧筒だった。

 「ただ使い方が難しいんで、ほんの一部の人間だけしか使うことを許されなかったらしいですが。間違って使うと大変なことが起こりかねないのでの」


 菜多里はこめかみに指をあてた。

 「大変なことというのは地球をぐるぐる回っている大風を狂わせてしまうということですわい。大きな圧筒をいくつか使うとそんなこともできてしまうらしいんですわい。しかし、そんなことをいつもやっていたらどうなるかわかりますな」

 「季節がめちゃくちゃ。雨も雪も日照りもぜんぶ大変なことになります」

 「それだけではない。風が偏れば、低気圧もあちこちに生まれて、もっと偏ればものすごい破壊風にだってなる。大風を利用した破壊風なら町の一つや二つ簡単に吹き飛ばすことができよう」

 そこまで言って正一郎は、菜多里の手にある扇子を見た。

 「この扇子とも関係が?」

 「その扇子は、ご存じのとおり風を操る力を持っておる。それは、サンサと呼ばれる場所の木を使っておって、それによって風を風操士の思いのままに送り出すことができる。遠くまで届けたり、近くの木だけを揺らせたり。ただし操るのは圧筒より難しい。扇子と心を通わせる、おそらく生まれ持った才能が必要での。扇子を振ったとき、扇の軌跡に周囲と違う何かが見えんかの?それは別の世界とつながった風の通り道なんですわい。そんなことは普通の風操士がいくら練習したってできっこないからの」

 笑う正一郎とは対照的に、菜多里は神経の一本一本を逆なでされたようなしびれが全身に走るようだった。

 「圧筒は、小さいものなら言ってみれば誰でも作れるし、操作技術は書に写すことができる。じゃがこの扇子はそうはいかん。わしの親父以外のサイタの四人の風操士たちが、『圧筒は危険だからこんりんざい使わないでほしい。その代りにこの扇子によって、それ以上の力を維持する。通常の道具を使った風操技術の発展にも役に立てる』とサイタの他の風操士たちを説得したということですわい。その後、サイタの風操は、ホクイの木芸の道具を通して、世界一使いやすい風として人々を豊かにしていった。サイタの風を操る技術とホクイの木芸が一体となって、世界でも稀な、豊かな恵みをもたらす風操文化が花開いたんですわい」


 正一郎は続けた。

 「ただそこまでは、表面的な話でもある。だいたい合ってはいるが、うわさ話の範囲も多い」

 そう言ってやや声をおとし、ここからはすべて本当の話だが、と切り出した。

 「サイタでは、実は、それよりももっと昔から、ほんの一握りの人間が扇子のことを知っておりましての。それはこの地に大風を創り出すためだけに、ひっそりと伝えられてきた風操技術だったのです。オリンという大風を操る風操士がうまく調整してくれていた…」

 「だがそんなときですわい、サイタの事件が起きたのは。サイタに吹く大風が変わり始めた…。おそらくですが、わしの親父が、圧筒に扇子を使ってサンサの風を送ることを知り、狂った風を世界に送りはじめた。このままではまずいということはオリンにもはっきりとわかった。世界中の空気の乱れが次第に強くなっておって、数年もしたらサイタに吹く大風を安定させることはできなくなるかもしれない。わしはそのオリンに教えられて、扇子を何本か作りました。サンサという所に行って、本当に不思議な風を起こせる本物を。それらを組み合わせれば、一つの圏域など軽く吹き飛ばしてしまえるほどの破壊風さえつかさどることができるという話でした。そのうちの一本をあなたがお持ちだった。いくら風操士としてどこか別の町でサイタの技術を教えてもらおうと、あの扇子までを渡されるということはまず考えられませんのでな」


 正一郎の話を聞いているうちに、菜多里の気持ちは落ち着いてきた。

 「ヨコタさん」

 「正一郎でいいですわい。仲間の間ではそう呼ばれております」

 「正一郎さん、今まで本当のことを打ち明けなかったことをお許しください。確かに私はサイタの風操士です。でももうサイタを出てからだいぶ時間が経ってしまって、あの山では油断して、まさかあんな場所で会う方々に風操士の世界がわかるわけがないなんて勝手に思ったりもして技を堂々とひけらかしてしまって。でも、奇跡といいますか、それがサイタの五人の風操士の扇子を作ったあなたの前で、だったということなんですね。なんて言ったらよいか」

 「山が呼んでくれたのですな」

 「山が、ですか?」

 正一郎はゆっくり頷き、それで、と話題を変えた。

 「今の首長は、タイトと連携して、強い町を目指しております。それには金が必要で、このホクイを利用しようとしておる。町を丸ごと変えるなんていうバカなことも私利私欲のためでしかない。博物館なる施設は見てこられたかな?」

 「はい。何か、大きな町の模型が置いてありました」

 「あれは単なる見せかけに過ぎん。しかも市民をある程度丸め込むための、の。実際にはもっともっと大規模なもののようにわしには思える。それに軍や警察を強化するのは、実際には治安を維持するといった話より、町内に現れであろう反乱分子を抑え込むためのものに違いない。ひょっとしたらこのわしを含めてかもしれんが」

 「そんな」

 「まあそれでだ。わしもそれなりに対処をしてきてはおったのだが、どうもそれだけでは済まないようでな。風操士のあんたが来たでの。要山で、わしも真ん前でサイタの技を見せつけられて、これはいかんと。あんたを敵に回すより、さっさと味方につけようと、そんなふうに思っているのですわい」

 「すみません、まだおっしゃっていることが良くわからないのですが…」

 「二人でニシジという奴をやっつけんか?という話ですわい。あなたはホクイの期待のホープで、わしは昔からホクイに仕える変わった木彫りの職人。まだあのニシジらには信頼されているうちに、いろいろとこっちから仕掛けを打っていきたいのですわい。まあすぐとは言わん、これからここで暮らしていくなかで、考えてみてください」

 正一郎はゆっくりと椅子から立ち上がり、外で待っていた案内人の男を呼んで「お帰りだよ」と告げ、菜多里は促されるように限界に向かった。そして玄関を出る間際、思い出したように正一郎を振り返った。

 「あの河川敷で私がやったことは、問題でしたでしょうか?」

正一郎は少し間を置いて首を一回大きく横に振り、「ヒヤッとはしたがの。あそこで、火を起こしてくれたので、気づいたものはおらんでしょう」と笑いながら菜多里に手紙のようなものを一通手渡した。



10.ホブネ


 正一郎の手紙に書いてあったのは、舟の設計図だった。長さ三メートル、幅二メートル、中央部にマストが立っている、平たく小さなヨットのように見えた。最初の一枚には全体像が、二枚目には上、下、左右、前後から見た図が詳細に記されていた。そして三枚目には、次のような一文が書いてあるだけだった。


 「帆舟」  ホブネ  


 「南の圏域で見た、舟のようにも見えるけど…。小さな舟を風操士がうまく誘導してあげていて、ああいうことなら私にもできるけど…」

 彼女は、このことを首長のニシジに話してみようと思った。まだ言われていない自分の役割を、正一郎と考えるのは、おそらく悪いことではない。それに、最初のうちは何を言っても許されるのではないか。数日後の昼食時、その機会があった。

 「いずれあなたには護衛風に風を送っていただくことも考えていますが、まあとりあえずはいいでしょう。何か困ったことがあったら直接私に言っていただいて結構ですから」


 菜多里はしばらく正一郎の家に通うようになった。桜並木のある境川沿いを歩くのは気持ちのいいもので、そこから続く木の香りのする路地も自分を温かく迎えてくれているように感じた。路地ではときどき人に会うと挨拶をされ、いつしか自分からも声をかけるようになっていくと、ちょっとした立ち話が十分、十五分と長引くようなこともあり、それが一つの楽しみにもなっていった。


 正一郎との打合せはいつも作業場で行われる。その日も彼は作業場の大きなテーブルの上にある道具や木片を片付けて大きな紙を広げ、菜多里が手紙で渡された図面の説明から始まった。

 「いいですかな、これは『ホブネ』といって、サンサという町に伝わる小さな舟です。見ての通り平べったい形をしておって、うまく帆を操らないとなかなかまっすぐに進んでくれないのですが、その分小回りもきくし、上手い人になるともう縦横無人に水の上を走り回れて、何とも楽しい乗り物になる。これでちょっと面白い仕掛けをしようかと思っておるんです」


 「ヨットでしたら、レースとか。私もトラミの町で見たことがあります」

 「そうですな。ただ、それじゃあ真似事だし、新しことをしたいと考えている首長さんも喜ばんでしょう。この舟はですね、そんなに早くはないんですけど細かく移動できるところがミソでしてな、一定の風を安定して吹かせることさえできれば皆さん操作の腕が上がっていって、それだけでも楽しいですが、そのうち障害を避けながら競争したり、大きな波に向かって飛んでみたりいろんなことがこれ一つで楽しめるので、人気が出れば境川を少しずつ広く使っていけるようになるかとも思うんですわい」

 目の前の老人が活き活きと輝いている。正一郎のやることは、彼の言うことを信じれば、ニシジの路線を後押しするようには見えて実はそれを防ぐための一手になるはずなのだ。今は正一郎が描く楽しい世界観を信じてみたいと思えた。


 正一郎は毎日、どこからか流木を見つけてきてはノミを入れていた。ホブネの部品を作るのだという。

 「山の木だけではどうしても足りんので」と言って、大きな流木を仲間たちと作業場に担ぎ入れては、朝から晩までノミを入れた。作業場の片隅には、削り終わった板や舵のような部品が山のように積まれていたが、組み立てられた部分は一つもない。

 「これが“正術”の、恐ろしいほどのすごさなんですよ」

 どこからか現れた、エンジがそんなことを教えてくれた。



11.当印


 正一郎が住むホクイの松実地区には、彼と同じように木芸細工や大工など木を扱う職人が数多く住む。ここで作られる物はすべて木組みであり、鉄の釘などは一切使われない。家などの大掛かりなもの以外は一つの仕事に一本の木だけが用いられ、他の木材を混ぜることもない。それらは正一郎の名前を取って「正術」と呼ばれ、この地区の木芸職人はみな正術を学び、使うことを仕事としていた。もっとも、正一郎の仕事を一度見てしまうと、自分の技術にこだわる職人でも、彼の術を学びたいと思わずにはいられなかった。


 いつも新月の夜になると、正一郎は職人を何人も連れて、要山の裾野に広がる森の中へと入る。皆、枝葉をかき分けるようにしながら彼の後に一列になって続き、松明に照らされた木々の葉が幾重にも重なって、わずかな揺らぎとともに光を反射している。足元は柔らかく、斜面でなくても歩くのは容易ではない。途中、正一郎は足を止め、一本の木に向かって深く一礼し、「木の神、地の神、風の神に感謝」と祈り、そして自分の膝の位置あたりの木肌にノミを入れる。

 何時間もかけて、二十本ほどの木々になされたのは「当印とういん」である。若い者たちは、ノミが入れられた木々にロープを回しながらノミの入れられた箇所を覗き、確実な当印が行われていることに敬意を表する。

 「また立派な木を使わせてもらえるな」

 若い誰かがそんなことをつぶやくと一連の正術の仕事が始まる。正確な「当印」によって、木は、木としての成長を止め、新たな特性を宿すという。後で若手が印を当てられた位置から切り倒し、松見地区の木材置き場まで運び込む。木材の乾燥は女たちの仕事だ。二十人以上の女衆が日の当たる広場や乾燥室へと運び、物によっては一ヵ月以上かけて乾燥にあたる。乾燥用の火を絶やさぬよう交代で番をし、室内の温度と湿度を維持するための番も一時の休みもなく交代で行う。

 男たちはその間に、道具を磨き込んだり、正一郎が書いた設計図に目を通したりする。机や椅子、椀や皿、下駄などの日用品から、神輿などの神具、子供の玩具、そしてこの町のあちこちに設置してある風車やそこから粉挽き石臼などに動力を伝える仕掛け、風操士が使う特殊な道具などは正一郎らの力がなければ成り立たなかった。

 設計図は正一郎がひく。そこには驚くべき精緻さで、何番目に伐採した木を使うかや、部材の長さや太さ、またどの木のどの部位から取るか、取った部位のどの角度から切り込むかまでが記され、毎年端材がほとんど出ないことも、この町で働く職人たちをうならせるのだ。

 そして何より、出来上がる物が違った。艶、手触り、使い具合どれをとっても使う者を魅了し、長く使うほどに魅力が増すと感じさせるものだった。卓越した技術は、毎年、遠くの圏域から買いにくる人を絶えさせることがなかった。

ニシジは、他の圏域との友好の証に正一郎の作品を使い、できれば量産して輸出できないものかと考えていた。しかしそのためには、正一郎の考え方を変える必要があった。

 「この松実地区が生んだ分業と技術研鑽の姿を守らないと、良いものは生まれませんわい。それに、職人たちが作ってきたこの路地の町の温もりも、わしにとっては大事なものですしな」



12.初仕事


「さあて、明日は山だな!」


 正一郎の力強い一言が作業場に響いたのは、作業が始まってひと月も経ってころだ。すでに作業場の四隅には舟の部品が山になって積まれ、作業する足元まですそ野が迫っている。

 「明日は、夕方にここを出て、零時に『印』のされた気を二本いただく。今日は皆さん方、家に帰ってゆっくり休んで下され」


 翌日の昼過ぎに菜多里が正一郎のところに向かってみると、大勢の人々が集まっているのに驚いた。広い庭や近くの広場、路地に至るまで一帯を人が埋め尽くすような様相に、正一郎の影響力を知るような思いがした。

 「いったいどのくらい集まっているんですか?」

 「さあね、まあここだけで千人はいるだろうね。あんた、あの、新しい風操士さんかい?初めてなら驚くのも無理ないか。よく見ておくんだよお、今日は切り出しだから町の皆が力を合わせるんだ。ここの力ってのは本当にすごいから」

 群衆の間をかき分けるようにして、菜多里は作業場へとたどり着いた。中には、正一郎をはじめ要山で会った太観伊クワアや甦也エンジらの顔もあった。

 「おお、着きましたかね」

 「はい、すごい人で、驚いてしまいました」

 「ハハハ、かもしれんの。まあこっちに来て座ってお茶でも飲みなされ。あと一時間ほどで出発しますが、その前にあなたには着替えてもらったり、いろいろしてもらうことがあるのでな。あんたの初仕事ですわい」


 正一郎の家の奥にある障子の間に案内され、菜多里はそこに畳んである白装束をまとった。作業場に戻ると、正一郎らも同じ装束を身にまとっている。山から木をいただくときの正式な衣装なのだという。十名が白、二十名が黒の装束で作業場を出た。外にいた人々は、その姿を前にして静粛となり、彼らの歩みにまるで糸がひかれるように二列になって続いた。


 松明を持つ人々の無言の歩みが一定の速度で山へと続いていく。正一郎を先頭に、クワアやエンジらが二列に続いて、白装束の最後を菜多里が歩く。そこからずっと二列が光の軌跡となって伸びていく。列の先頭は丘を越え、山道へと入っていった。菜多里が後ろを振り向くと、人々の持った松明が自分たちのたどってきた道を照らし、暗闇の中で長く伸びた明かりは正一郎の家の一帯まで続き、まるで光の川が光の湖へ流れ込むかのような光景が広がっているのが見えた。

 過去に一度来たことのある山道は歩きやすく、松明は以前とは違う景色を彼女に映し出してくれていた。途中から一列になって歩かなければならない細い道へと入る。急な傾斜は、初めて要山を登ったときの大変さを思い出させたが、あのときとは違って皆に背中を押されているような感覚で足は自然に前へ前へと進んだ。

 しばらくすると正一郎が立ち止り、山道の左側の藪を探っている。そして「ここです」とつぶやき、自分からその中に入っていった。クワアらが続き菜多里そして黒装束の者たちも入ると、残りの人々は山道で待つ形をとった。

 道なき道をずんずんと進む一行は、十分ほどして立ち止った。正一郎が松明を掲げ、目の前にある大木の上部をかざす。

 「これはすごい」と静寂を破るようにクワアが声を発した。白装束は大木の周囲を囲むように移動し、幹に寄り添い手をまわしていくと五人がかりでようやく幹一周に届いた。

 「高さは三〇メートルはありますかな。先日、当印を入れさせていただきに来ました」と正一郎がつぶやく。

 白装束は無言のまま手をまわしていた位置に縄を回し、正一郎の動作に従うように手を合わせ、それに菜多里も黒装束も続いた。正一郎は手を合わせたまま低い声でしばらく何かを唱えるようにして、それからクワアに向かって頷いた。クワアもうなずき返し、「ではこれから御木をいただきます」と全員に向けて声を発した。

縄を回した位置に正一郎がノミを入れ始める。最初に小さく三回、続いて大きく三回。小気味よく素早い手さばきでその動作を全部で二十回、幹の周囲を移動しながらこなしていった。

 正一郎が幹から離れると、今度は白装束がノミの打たれた位置に斧を入れていく。四人が東西南北の位置から取り囲み、一定のリズムで少しずつ掘り進めていく様子は、古の打楽器をたたくようでもあった。ある程度進んでいくと別の白装束の四人と交代し、そうしている間に黒装束はこの大木に上り枝を落としたり、大木が倒れると思われる辺りの雑木などを払ったりし始めた。二時間も経つと大木はほとんど中心の太い芯だけで支えられている形となった。枝はすっかり取り払われ、大きな枝はすでに黒装束らが現地から運び出していた。


 「さあ、お願いします、菜多里さん。向こうのきれいに整地された側に、あなたの風の力でこの御木をそっと倒してあげてください」


 正一郎の声に菜多里は腕を上げ扇子を広げた。すぐに空気が動き始め、やがて風になった。正一郎は大きくうなずき、現地に残ることを許されたわずかな白装束らは目を見張った。まるで御木をそっと包み込むような風の動きが目に見えるようで、全員の視線は自然に風を追い、幹に届き、幹は眠るように横たわった。

 白装束の一人が最初に通ってきた道へと走り、大勢の男衆を連れてやってきたかと思うと、大木に縄をかけて引っ張り始めた。

 「ヒケ、ヒケ、ヒケ!」と威勢の良い掛け声が暗い山の中に響き渡る。

 「これを下まで引っ張っていくんですか?」と菜多里は正一郎に聞くと、彼はうっすら表情を崩した。

「いつもの山道に出たら担いでおろすんですわい。はじめの二本だけはそうするんです。そのために道々に人が来ておる。松明がずらっと続いておると、今担いでいる大木のところだけ暗くなるから、皆がどこを移動しているかがわかる。さあ、今日はもう一本いただきに行きますぞ!」

 いつの間にか白装束と黒装束が元の場所に集まっていた。


 翌朝は早くから正一郎の家に向かってみると、運び込まれた二本の大木が空き地にきれいに並べられ、何人かの男がそこで皮をはいでいた。この町のおそらく全員があれだけ大変な作業をしたにもかかわらず、周辺にはたくさんの人の笑顔が集い、道具の手入れや炊き出し、リヤカーを忙そうに引く老若男女の姿があった。

 正一郎は仲間らとすでに作業場に入り、これまで作ってきた部品を部位ごとにより分ける作業をしていた。それらを見ると、喫水部にあたる大きな板だけが不足しているようで、菜多里にも昨日の大木が加工されてそこに組み込まれるのだろうということは予想がついた。

 「皮はぎが終わったよ」と誰かが作業場に言いに来て、正一郎が立ちあがった。

 「菜多里さん、来ていたんですか?」

 「あ、はい。なんか気になってしまいまして」

 「疲れておりませんか?でもまあ一緒にいらっしゃい。これからここにはまる板をこしらえに行きますぞ」

 何人かが正一郎に続いて作業場を後にし、先ほどの広場に向かった。

 「すごい、ですね。先ほどもちらっとお見かけはしたのですが、ほとんどシートがかけられていたので良くわからなかったので、ほんとうにきれい」

 目の前にある皮を取り除かれた大木は、何かで磨きこまれた後のようにほとんど真っ白な肌を朝日に輝かせていた。

 「そうでしょう。これからこれで板を作っていきます。すべてホブネに使えば百艘分くらいは取れるでしょうな」

 「そんなに」

 「はい」

 あらためて見ると、丸太は完全な直線かと思われるほどまっすぐに伸び、その両端が垂直に切り落とされ、加工された後の木材のようにさえ思える。そのあちらこちらに正一郎が墨を入れ、線などと共に何かの印らしき文字を書き入れていった。昨夜の白装束も黒装束も今日は正一郎と同じ作業着を着て、印が入ったところからノミやノコギリを入れ始めた。


 作業は夕方まで続いた。大木は男らによって見事に切り分けられ、それらがカンナで磨きこまれていった。目を見張るのは、誰も寸法を測ることなく正一郎が入れた墨にのみ従って刃を入れている様子だ。純粋な魂に従うように男らは一心不乱にノコギリやノミを入れ、次々に切り終えた材料を積み上げていく。大きさはどれも違っているように見えたが、そのことに関しても、それでいいのだと言わんばかりに胸を張り、気高さを感じさせる汗を流した。

 夕日の明るさが消えた頃、作業者たちはようやく手を止めた。幹はすべて白い板に変わり、端材はカンナによって削られた薄皮をのぞいてほとんど出ていなかった。その薄皮にしても、弁当の包みや、織り込んでザルのような器にするらしい。削られた皮からは油を搾り、残りのわずかな粕は、まきに混ぜで家庭の暖を取るために使われるのだという。

 端材もほとんど残っていない。それにしても不揃いの板が多いのは気になった。それらを使って舟を作ることなんてできっこないと菜多里には思えたが、その後彼女は正一郎がなぜ職人らや町の人々に支持されているのかの一端を知ることになる。


 翌日になった。前日と同じように朝早く作業場に向かってみると、昨日の板が広場を覆うように並べられていた。板の大きさはやはりばらばらで、それらが様々な角度を向いて硬土の地べたに直接置かれている。また板の上には大小さまざまな石が乗せられていた。陽光はすでに差しはじめ、広場の二方では大きな扇風機が重いモーター音と風切音をたてて回っていた。

 正一郎が菜多里の方に歩いてきた。

 「今日から十日かけてこの板を乾かすんです。するとちょっとずつ曲がってきて、ちょうどよい具合になってくれるんですわい」

 「木が、ですか、曲がるのですか?」

 「はい。中の水分が飛んで、曲がってくれるんですわい。あの石の重みでそれぞれの板がちょうどよく。まあ十日経ったら来てみるといいです」

 十日後には正一郎の言う通り確かにやんわりと曲がっている板の姿があった。「確かにずいぶん曲がってきてるわ」と作業場へ向かい、中に入ると形の違う板が何枚か床の上に並べられているのを目にすることができた。菜多里は黙って傍らに立ち、正一郎らの作業を見守ることにした。

 数えてみると十枚ほどの板が床に置かれている。いずれもすでに湾曲していて、石は乗っていなかった。そこに正一郎が歩み出て松明のようなもので火をかざす。サッサッサとあるところには短く、またある個所にはじっくりと熱を加えていく。

 まるで大木を切り出した時の儀式の延長であるかのように、正一郎の洗練された動きは美しく、炎が生み出す光と影の中で動作が一つひとつ加えられていくたびにさらに心を奪われた。火のあてられた部分がまるで生き物のように大きく湾曲していく。そしてひとしきり火をまわし終えたときには、船体としての姿をはっきりと見て取ることができた。

 正一郎はさらに船体を構成する火入れしたばかりの板を隙間が無いようにつなぎ合わせ、作業場の四隅に積まれた部品を組み付けていく。一つひとつがジグソーパズルのパーツのようにぴったりと、そこにはめ込まれることを待っていたかのようにつなぎ合わされ、あっという間に設計図にあったあの舟が組みあがっていくことに、菜多里はただ時間を忘れて見とれていた。

 

 「いいぞ」

 正一郎の声とともに彼女は時間を考えてみたが、ほとんど数十分の出来事だ。

 「皆の衆、どれもぴったりできたようです。これで一日もすれば、どの部品もなじんでくるから水漏れもしないでしょう。あとはマストを立てて帆を張って風に合わせて走らせてみればできあがりということで、あと三日ほどで仕上げたいと思いますんで、お願いしますよ」

 

 舟が出来あがっていく間に、それらを浮かべて走らせる水域の調整を菜多里は役所と進めていくことになった。すでに正一郎とのプロジェクトは首長であるニシジが了承していたので、作業はすんなりとはかどり、境川の一角、長さ一キロメートル、幅三〇〇メートルほどの水域に対して使用許可が下りた。

ホブネは、独特の平たい形はしているものの、いわゆる小型のヨットであることに間違いない。

 正一郎が考えだしたのは、本体の大きさそのものが一人から三人が乗れる程度と小型で、帆は手の力をほとんど使うことなく操作できる。あとは生活水路としての区間と、「ホブネ」を扱える区間を分ければいい。もともと境川は広大なのである。彼女にしてみても、もっと利用しない手はないように思えた。しかも、町の景観とマッチする新しい仕事も作り出せることになる。

 そして、要山で木を伐り出した、あのすばらしい仕事は、まぎれもなく真実であり、正一郎の真意がどこにあるにせよ、このホブネの事業はホクイという町にとって正しい方向であるのではないかと思えた。

 ニシジは、新しい仕事を創り出して、将来は舟の輸出も視野に入れ、町をいっそう豊かにすると言い、議会をすんなり通した。ありがたい。どことなく感じていた、ホクイに暮らす気さくで人懐っこい人々の奥に潜む、心の広がりや豊かさが何かに縛り付けられているような重たさ、実際に住んでみないとわからない息苦しさのようなものに、このホブネで小さな風穴が開けられるのかもしれない。

 要山の銀白と、そこから広がり続く緑とのまぶしさのなかで、作業は進んでいく。舟の操舵人のほかにも、舟を浮かべた後の細かな調整のための技術を持った舟大工や、舟に飾り付けをする木彫り職人、舟着き場や見学者用の席などを造作する大工なども選びだし、作業は進められた。ニシジの号令もあって、役場も協力的だ。


 全ての準備が整った頃には秋が訪れていた。風は菜多里が操る。彼女は正確に風を読み、海側からずっと川の上を通って吹き上がってくる大きな風を安定化させることと、あらかじめ決められたエリアで小さな擾乱を起こす役割を受け持った。

「無事故で無休。これが軌道に乗れば、人気が出るのは間違いない。人々の生活や心だってもっと開放されるはず」と正一郎が言っていたことを思い出していた。もしうまくいかなかったら…、もしそれで自分も解雇されてしまうようなことになってしまったら…、タイトのことを知り得るチャンスまで逃してしまう。タイトは、サイタに生まれ育った自分にとってはある意味特別な場所であり、菜多里にとって、今ホクイから離れたくない理由としては、むしろそちらの方が大きかった。



13.ホブネが動く!


 赤や黄色に色づいたホクイの山々の紅葉が川面に映えるなか、「ホブネ」事業は大きく動き出した。

 まずは正一郎が乗り、菜多里が風を操った。舟はまるで氷の上を滑るように桟橋を少しずつ離れていく。川下から吹き上げてくる大きな風を帆がはらむ。意志を宿したかのようにグッと力を入れて動き出す。帆の下端に付いた帆桁を手で動かしてみると、舟はいろんな角度に移動してくれる。そのたびに舟体を確認して不具合や異常がないかを確認し、気になるところはノートにメモしていった。それにしても菜多里の操る風はなんと安定的で気持ちが良いのだろうと、正一郎は感じずにはいられなかった。

 擾乱エリアに差し掛かると今度は突然帆の反対側に風をはらんだり、帆桁が今までとは違う方向に行きたがったりして、かなり緊張を強いられる。それでも舟が大きく傾くことはなく、どんなに舟の操作がまずくても転覆はないだろうということも知れた。正一郎は年甲斐もなく帆桁をさまざまな角度に動かしながら舟の操作をずいぶんと長い時間楽しみ、自分の仲間たちにも薦めた。


 遠巻きに見ている近所の住民らはいたものの、厳しい規律に慣らされてきた人々にいきなり未知の自由な楽しさを感じろと言っても無理な注文だろうと菜多里には思えた。同じような思いがあったのだろう、正一郎のこれまで見たこともない積極さには住民と「ホブネ」との距離感を少しでも縮めようとの気持ちが感じ取れた。

 十日が経ち、舟や風のとり方に多少の調整も終え、初心者が操っても少なくとも転覆はなく、誤って岸に乗揚げられたとしても救助できる体制などもしっかり作られた。「川には入るなと」うるさく言われて、「ヨットなどとんでもない」と思い込まされていた人々も、特に若い連中などはこの間に何度も通うようになり、「乗らせてほしい」という声もいつしか増えていった。


 桟橋から一歩、ホブネの中へと足を踏み入れる。意外にほとんど揺れることなく体重を支えてくれるしっかりした舟体は人々を安心させた。ティラーと帆桁を手にすることを教えられると、船長としての気分は高まっていく。ゆらゆらと桟橋を離れ、一気に風をはらむ。風は自由までももたらせてくれるのだと感じる瞬間だった。どことなく方向を変える船首は、操作する人間の意志によって帆桁に力を加えたり、かじ取りの具合を変えればいろいろと変化し、操作という楽しみを教えてくれた。それは同時に、人々に自分の意志が自由とつながりうるものであることを示した。

 擾乱エリアに入ったホブネは翻弄され、誰もが思い思いに風の力に挑んでみる。歓喜、協調、緊張、自信、興奮、そんなものたちが歓声のなかから伝わってくる。自由と翻弄を楽しむ従来にない感覚は、次第に人々の心の呪縛を解き放つ作用があるようだ。月日とともにかつてない性格の楽しみとして知れ渡り、ホブネに乗りたい人々が列をなし、見物人も増えていった。

 当初から通い続け、ずっと腕を磨いてきた連中は、ホブネを自在に乗りこなし、大風のエリアでわざと大きく傾けてみたり、擾乱エリアでスピンのようなことをして見物人までも楽しませていた。


 「ずいぶんと人が増えたもんですな。すごいことをやってる人もいるんで驚きましたわい」

 風の操作台にいる菜多里のもとに久しぶりに訪れた正一郎が声をかけてきた。

 「はい、本当に。心配していたような事故もなくうまくまわせているのでホッとしています。できましたら残っている材料であと五十艘くらい増やしても良いのかと、もしお願いできるのでしたらしたいと思っていたところでした。この混雑では長く待たなくてはいけなくて、皆さんに申し訳なくて」

 「ふむ、確かにそうですな。予定より早くはありましたが、やってみますわい。どうせならもっと面白いホブネを。菜多里さん、あなたの意見も聞かせていただきたいので、今度暇があったらうちに寄ってください」

 正一郎は、少しの間ホブネで遊ぶ人々の様子をながめ、菜多里のそばを離れていった。もっと面白いホブネとは…。彼女は正一郎の背中に思考を巡らせながらまた風に向かった。


 菜多里は、当初から休むことを忘れ仕事に没頭していた。風操士として、時には大人が数十人ほどもかからなければ動かないような帆を操作し、風の角度や強弱を調整することもある。こういう時には、風は帆を起点に風下へ楕円形を描く形で全体の流れとは異質の動きをとる。そしてまたその風を本来の大きな流れのなかに合流させてゆく。擾乱エリアでは、川の両岸と中洲に設置したいくつかの方向翼を操作することで渦のような風流を創り出していた。

 彼女は風を正確に読み、扇子を使わなくてもその日ホブネに乗る人たちの楽しみを完璧な形で与える。そして少しずつ、人々の心を解き放っていった。いつも柔らかく正確な風を送り続けることができたのは、正一郎の風操の道具の恩恵も大きかった。彼の作る道具は軽くて扱いやすく、そしていつも柔らかい風を送り出してくれる。今まで見てきたどの職人が作る道具とも違って、形や艶も独特で、しかしどの職人が作る道具よりも気持ち良い風が遅れるのだった。


 ホブネは風をはらみながら、人々を水の上に広がる広大な空間と空の中に吸い込ませていく。テルテールの動きにのって心は躍り、風が全身を包み込んで一体化する感覚は、その先へと広がる想像力をかきたて誰をも夢中にさせた。皆、街の向こうに広がる丘陵の優しさを感じ、生き生きとした風に五感が反応した。高い壁の中に暮らす人々には味わうことのできなかった世界が、水の上に広がっていたのだ。

 ホブネを操縦する手も、雄々しく要山と、遙か遠方から蛇行する川々の輝きとに、自然と汗が引け、力が抜けていくようだった。川は南に向かい、両岸を覆うレンガと煙突で形どられた家々の向こうには、町制の象徴である高い壁が見えた。さらにその先は海である。ホブネに乗れば、誰もがその真っ青な海を感じ取ることができるのだった。


 正一郎の読み通り、事業は音を立てて進みだした。同じ圏域の町々からさらに圏域外へ、うわさは伝わり、たくさんの人々が外の圏域からもホブネを楽しみに訪れるようになっていった。


 ホクイの各地から広葉樹が集められているこの土地に、赤と黄色の深みのあるコントラストが鮮やかさを増してきたある日、いつものように風の操作台に立っていた菜多里に、ニシジから呼び出しがあった。彼からの呼び出しはいつもあまり良い話ではない。一度はなぜ扇子を使わないのかという話だったし、次は、正一郎を町の重要職から外すという話だった。

 「なぜですか?ヨコタさんがいたからこそあの道具が作られて、安全で楽しいレジャーとして今までやってこられたんです。ヨコタさんがいなくなってしまったらいろんな修理だってできなくなってしまいます」と、このときの菜多里は今までになく強く反対した。

 「まあ彼の木芸職人としての腕の良さは私が誰よりも知っているつもりですが、彼も高齢ですし、これからホブネを事業として発展させていくには肉体的にかなり大変だと思いまして。その代り腕の良い職人をたくさんこのホクイに招き入れることになりましたから大丈夫です。ようやく工場も完成ましたので、稼働した後はホブネだけじゃなく、その技術を使ったいろいろなヨットを他の町に輸出しようと思います。量産できたらうまく風に乗るかどうか試さなければなりませんので、そのときはぜひあなたに協力していただきたいと思っています」

 菜多里には工場のことなど知らされていなかった。自分に関係のあることについていつの間にそんなところまで話を進めていたのかと思うと、ニシジに対する不信の念を強めずにはいられなかった。

 「そんな工場なんて話は聞いておりませんでしたが…」

 「ホブネに乗ったままでの方向翼のかじ取りはいろいろ勉強になりましたよ。あれほど安定した風を常に作り続けることなんて普通にはできないことですからね。ただ最近は、あなたの助手もずいぶんと腕を上げてきたところを見ますと、あなたでなくてもやれそうですし、であればそろそろ輸出も考えたいと思えましてね。実際、この事業を真似したがる町は多いんですよ。よくよく考えれば木材はこの町にたっぷりあるわけですし、外の圏域に輸出できないわけがない。そんなことでもうだいぶ前から話が持ち上がっていましてね。あなたに言わなかったのは、まあ、今の仕事に集中していただきたいと思ってのことですので許してください」

 菜多里は次の言葉が思いつかず、気付くと「ヨコタさんはどう思われているんですか?」と口に出していた。

 「ああ、彼には私から引退と、今よりもっといいところに住んでほしいと引っ越しをお願いしてまして、しばらく考えたいと旅行に出かけられたようですよ。どこに行っていつ戻ってくるのかはわかりませんが、でもそろそろ帰ってくる頃とは思いますがね。何しろそろそろ返事をいただく約束の期限ですから」となかば吐き捨てるように言い、話を続けた。

 「ところで菜多里さん、あなたには三日後から新しい仕事に就いてもらいます」

 「そんなに早く、ですか?」

 「すみませんね、突然で。ただ善は急げといいますか、あなたには本来の仕事になるべく早く着いてもらいたいということもありますし。その前に、あの新型のホブネは人気があるので、あれの検査を中心にやってもらいますよ」

 「わかりました」とその場ではこたえるしかなかった。新型ホブネは、正一郎の設計により初期型よりも船体がずっと細く、浅く作られ、その分スピードが出るので、速さを競ったり、擾乱エリアでの波を使って大きくジャンプしたり、技術さえあればさまざまな楽しみ方ができた。そうした数々の技は正一郎が作ったホブネの解説書にも書いてあり、かつて菜多里は、正一郎がそのような遊び方まで知っていることを不思議に思っていた。

 三日目の朝、彼女は日の出とともに出勤した。役所まで行ってみると、すぐに馬車の中に案内され別の場所へと移動した。しばらくして壁の前に着いて大きな門が開けられ、入るとそこは川岸の上だった。すぐ先にある水面には新しいホブネがすでに二十艘ほど浮かべられている。正一郎がいない少しばかりの間に作ったのだろうか、その真新しいホブネが整然と並ぶさまは、ニシジの強い影響力を知るようでもあり、彼に対する畏怖の念のようなものさえ覚えた。


 「おはようございます」と菜多里に近づいてきたのは、彼女がホクイに来てすぐに開かれた歓迎会であれこれと聞いてきたタナベだ。

 「朝早くからすみません。首長の命令で、今日からもう輸出を始めたいということでしたので、無理を聞いていただきました」と笑ってみせて新しいホブネを指差し「あれをご覧いただきましたか、どうです、素晴らしいものでしょう。首長の肝いりで腕の良い職人さんたちを世界中から集めて作らせたんですよ。ヨコタさんの設計図を習って全く同じようにできました。あとは風を今までのように送ることができればまず間違いなく機能するはずですので、ここはぜひあなたのお力をお願いします」

 「あ、はい」


 菜多里は力なく声を出し、タナベに促されながら川沿いの持ち場に立った。そこはいつも賑わうホブネの場所からはずいぶん上流にあたり、普段は立ち入りが禁止されている。川を挟んで両岸を大きく壁で囲い、その中に工場らしき建物や宿舎のような建物もあり、ニシジが考えるプロジェクトを進めるための拠点となっていることを知った。

 「では、行きますのでよろしくお願いします」

 タナベの号令によって、菜多里の足元近くに係留されていた新しいホブネが一艘ずつ放たれていく。どこから集められたのか、それぞれのホブネには老若男女が人形のように一人ずつ乗り込んでいる。彼女はその場に設置されていたいつもと同じ形の方向翼を使い、川下から吹いてくる大風を安定させた。しばらくして風が安定し続けることを知ると、方向翼を固定させ、擾乱を起こすところへと移動し、ここでもいつもと同じように風筒を操作した。方向翼のときから彼女の周りには何人かが取り巻いてその様子をずっと見ている。風操作の技術を習得するためであろう。

 「あの方々は」とタナベに尋ねると、「風操士の技術者です」という答えが返ってきた。

 「ホブネを輸出するには、風を操作する技術も一緒にした方が安全ですからね。あの連中には徹底して勉強してもらいます。もちろん講師は菜多里さんになりますので」

 「それって…」と言いかけてやめた。サイタが営んでいた事業のような話に聞こえた。誰の知恵かは知らないが、見よう見まねで、ホブネにふさわしい大風や擾乱をいつも安定的に繰り出すことはできないだろう。いくら道具が良くても風は生き物であり、常に細かな配慮が必要とされる。金のためにそうした仕組みがどこかで考えられたのだ。今さらになってそれらに組み込まれ、おそらく次には破壊風の協力までさせられる自分がいると思うと、むなしさに体が支配されていくようだった。

 このとき本当に「やめたい」と思った。



14.ニシジの陰謀


 そして、さらに三日後のことだ。菜多里は役所の一室で風の操作技術を他の風操士に教えていると、再度ニシジから呼び出しがあった。

 「ずいぶん待たせてもらいましたよ」というニシジの露骨に不機嫌な雰囲気にのまれるように、菜多里は緊張気味に「すみません、講習の途中だったもので」と返した。

 「まあいいでしょう。ちょうど時間の都合もついたので良しとしましょう。あとにはあまり伸ばしたくない話ですし」

 彼は背もたれが肩ほどもある革の重厚な椅子に腰を掛けながら、この一帯で使われている言葉ではない文字が綴ってある雑誌をみていた。そして菜多里に体を向き直しながら、彼のデスクの前に置いてあるソファーを勧めた。自分は両手で頬杖をつき、肉でぱんぱんに張り詰めた顔でにやりとやった。その、彼のいびつな頭の形の下に現れる表情は、右上がりにゆがんだ口元と、逆に左側だけがひどくたるんだ顎下の肉をさらに目立たせていた。菜多里の腕に鳥肌がたった。

 「レイジさん。もう知っていると思うが、あなたをスカウトしたいという連中が日を追うごとに増えている。新しい事業の方も順調だ。おかげで、この町はかつてないほどの賑わいと潤いをみせ始めている。本当に、あなたには感謝していますよ」


 首長の突然の言葉は気味の悪いもので彼女をなおさら不快にさせたが、気持ちを飲み込んで「首長さまこそ私のわがままをお許しくださいまして、本当に感謝しております」と流した。

 「私は、ここの首長をして七年になります。なかでもここ最近は、全く違う時間を送らせてもらっている。町全体が豊かになろうとしている。多くの人間があなたのおかげだと言うし、私もその通りだと思ってる。ただ最近は問題も増えてましてね」

 菜多里は気分が悪くなる一方だった。彼女のホブネの事業に反対する人間からの、手紙や電話による嫌がらせは菜多里のもとにも届き、この一年くらい後を絶たない。時には、川を利用する既得権をもっていた住人の家族からの悲痛な嘆願書めいた手紙が届くこともあった。しかし、誰も身元を明かすことはない。ニシジはおそらくそのことを言っているのだと思った。

 

 「私のやってきたことが、この町の方針と違いましたのでしょうか?」

 「んー、そうとも言えんのですが、心地よく思っていない人間は多い。特に上位階級の連中に多くいるんですよ。レイジさん、あなたの風を操る技術や考えを否定したくはないのだが、あなたがたのやってきたことは、保守的なこの町には刺激が強すぎたようだ。この町の人間が、自由気分に浮かれて壁の外をかなり意識するようになった。それもあの新しいタイプのホブネによって。我々がこれまでよかれと思って築いてきた町の運営システムそのものが狂い出していると考える人間が増えてきたんですよ」

 「でも正一郎さん、いえヨコタさんの設計したホブネは首長様もご覧になって、お褒めいただいて」

 「もちろん素晴らしいできですよ。見た目も美しいし、見て楽しく乗って楽しい魅力がある。正直、最初のうちはこんなふうになるとは思ってもみなかった。それでというわけでもないのですが、今後、我が町では最初のホブネタイプをベースに、少し趣向を変えて水域を町全体に広げて進めたいと思うんですよ」

 黙っている菜多里にニシジは続けた。

 「あの新しいタイプは輸出に回して、最初のタイプでもっと楽しい演出をしてあげようと思ってましてね。簡単に言えば遊園地のようなね。あのホブネには自分で操れる楽しさがあるから、その部分は最大限に活かして、擾乱エリアもそうだが、それ以外にも森の中や急流などいろんなコースをめぐってもらう。きっと、人気も出ると思うんですよ」

 「それって、また圏域の外から多くの人がいらっしゃって首長様のおっしゃった外部の刺激が強くなるようにも思うのですが」

 「まあそうですね。これを進めることは一大開発行為になりますし、町外からもたくさん人を集めることになります。今までのやり方とは百八十度異なる。ただ私はそれはそれでいいと思うようになりましてね。私はですね菜多里さん、ここの住民に我が町の政策が変だ、と思われることが一番厄介だと思っているんですよ。ようするに外部との接触が増えるなかで外の方が魅力があってとか、ホクイはよそと比べて貧しい人間が多いとか、そういう噂が広まってこの町から出たいとか、政府に反抗しようとか、そんな分子が増えてしまうことが危険だと感じるんですよ。ヨコタさんはもしかしたらホブネを使って住民をそう仕向けようとしたのかもしれない。しかしそれならそれでこちらにも策がある。観光客が増えたのは非常に助かるところでして、いろいろ考えて出した結論がですね、よその町から羨ましがられるほど魅力ある町を作るということなんですよ。そうすれば住んでいる人間も誇りがもてて、町運営にも協力的になるでしょう、違いますかね。まあそれで政府も必要人数を維持して安泰、住民も満足ということになるという話です」

 「あの模型のような、あんなふうにされていくのですか?」

 「はっはっは、覚えてましたか。そのとおりです。もちろんあのまま同じようになるわけではないですがね、それにしてもあなたとヨコタさんのおかげで随分早く計画が実現することになったわけですから、これには感謝しないわけにはいかないですかね」

 ニシジの顔がいつもより歪んで見えたので、その視線を避けるようにして、「私はあのときはまだ町のことがよくわからなかったのでなんとなくしか考えられませんでしたが、もしあのように事業を進めるとしたら今までとはまったく違う町になってしまうのでは?」とまで言ったところで頭を上げ、「ここに住む皆さんは今の町をとても気に入っていて、それが町の魅力でもあると思います。あの模型では町も人々の気持ちも何もかもが変わってしまうような気がします。それはもう別の町というか、もう今まで皆が大切にしてきたものと相容れないような世界になってしまうように思うのですが…」。そう話すうちに正一郎のことも思い出した。

 「そういえばヨコタさんは、まだお戻りにはなっていないんでしょうか?」

 ニシジのゆがんだ面がまた目に入った。

「ああ、彼は戻ってきましたよ。引っ越しを拒んでるので困ってます。あんな場所のどこがいいのか、私にはさっぱりわからん」

 「ヨコタさんの住まわれているあの場所も変える計画なのですか?」

 「もちろんですよ、あそこの辺りは観光客らの監視もしやすいし、小さな運河が多いのでこれからのまちづくりでちょっと面白い仕掛けができる場所ですからね。無理やり移転させてしまってもいいんですが、彼にはずいぶん信奉者がいるようですから、あまり露骨にやるとやっかいそうだ。ああ、菜多里さん、あなたヨコタさんと親しいのでしたら説得してもらえませんかね」

 菜多里のなかに強い怒りが込み上げてきた。それを察したのか、ニシジは表情を和らげてみせた。

 「冗談はさておき。それよりもさっきの、町がおかしくなってきている話ですがね。特に若い者の考えが外へ外へと向き始めている。私としては何としてもその流れを食い止めなければならない」

 「それは私もいろいろとお手紙を頂き、承知しております。でも」

 ニシジは椅子に座ったまま背を向け外の景色を眺め、「そこでなんですが」とまた菜多里の方に向きなおした。

 「あなたには、もっともっと私の側についてもらいたいと思っているんです。ヨコタさんの話は置いておいて、これから私がやることすべてに対して協力的になってほしい。そのうえで、あなたに反感を持つ人間は私が説得していきますから。あなたの身の安全を考えてのことです。いかがですか?」

 目の前には、あの、いくら代償を払われても我慢できないニジシの表情が浮き出ている。身の安全などというのはおそらくとってつけた理由だろう。どんな裏があるのか、このときの菜多里にはいろんなことがいっぺんに思い浮かんで整理することもできず、口だけが勝手に「お断りします」と静かに応えていた。ひとつだけ確かなことは、この社会において首長の力に逆らうことは何よりも難しいということだった。


 「そうですか、では仕方がない。あなたには今の仕事を辞めて、ここから出て行ってもらうしかありませんな。三日以内にここから出ていく用意をしてください」


 菜多里は、ニシジの顔から視線をそらせたまま真っ青な長いスカートを揺らせて、ゆっくりと彼の部屋を後にした。

 決められたストーリー…。菜多里はここ数カ月のニシジの挙動を考えながら、そんなふうに思った。そしてこの町の制度では、移住がどれほど難しいことかということも考えていた。

 彼女は、自分の事業が成功してから特別にニシジに与えられていた家のなかで、二日間をほとんどベットに横たわったまま何もせずに過ごした。ときどき近所の子供が遊びにきたが、いつもの菜多里のように一緒にゲームをしたり、手品を見せたりするようなこともなかった。

 菜多里が町を出る三日目から、町の様子が変わり始めた。朝から大型トラックが大量の土砂と排気ガスを連れて菜多里の家の辺りにも次から次へと入ってくる。境川でも埋め立て用のテトラポットを筏に乗せて引く船が間断なく往来し始めた。


 「始まってしまった…」

 菜多里はなにかできることはないかと電話に手を伸ばしかけたが、思いとどまった。もう遅い。

 菜多里が持つ風操士としての拒否権がなくなれば、ニシジにとっての問題は一つ解消する。首長の特権で無理に辞めさせたように映ると、次の選挙に影響が出るとも限らない。

 ずっと開発の糸口を探していたニシジにとって、ホブネは渡りに船だ。町を変えることには強く反対していた正一郎や菜多里が邪魔であることは予想がついた。電話機に手を置いたまま、菜多里の長い指が少し震えていた。


 あれこれ思いを巡らせている間に、日は傾いていった。彼女の荷物は部屋の片隅に置いてあるボストンバック一つにすっぽり納まっていた。古い洋館を思わせる窓に手をかけると、夕日に染まった雲が川面に映り、紫色に揺らめいているのが見えた。


 「今年の紅葉ももう終わりね」

 そう思いながら電燈の灯された玄関に向かい、菜多里は、目の前の川岸の船着き場に降りた。ニシジに言われた通り、そこには汽船が待っていた。菜多里はうつむいたまま静かに汽船に身を投じた。船の上で待っていた男が、「こちらです」と菜多里を船室に案内し、自分は操縦席へと向かっていった。そして、重苦しい汽笛を一度吹き上げ、川を下り始めた。すでに町は静まり返っている。途中、菜多里の乗る船はもう一度汽笛を鳴らし、速度を落とした。船窓の外に目をやると反対側から船がやってきたようだ。その船も汽笛を一度、鳴らした。

 

 船室の菜多里はただぼんやりと近づいてくる船を見ていた。次第に前方の船が近づき、菜多里の乗る船と交差し始める。流れてくる窓には、菜多里の船室とはまるで対照的な明るい船室が映し出された。ちょうど船窓どうしが重なるあたりで、彼女は思わず息を呑んだ。そこには予想もしなかった、ニシジのあの表情があったのだ。そして、その向かい側には髪の長い若い男が、楽しげに話をしている横顔がある。菜多里の目は、すれ違った後もその船をしばらく追いつづけていた。


 「新しい風操士を連れて来た」

 くやしさよりもむしろ驚きだった。若い男の顔には見覚えがある。そう、最初に受けた風操士採用の試験で、大声で質問をしていたあの男に間違いなかった。

 「圧筒を使って風を操っていた男だわ」

意味もなく笑ってみたが、自然と涙が頬を流れ始めた。船はしばらくして穏やかな波の音とともに海に入った。オレンジ色の月に追われながら船は北へ進路を取った。



15.サンサ


 暗く揺れる船室の中で、眠ることはできそうもない。窓辺の椅子に座りただ外を眺めていた。二度ほど燃料や食料を補給するために小さな港に寄港したが、船室から出ることを禁じられていた菜多里の目に入る景色は、倉庫のようなレンガ造りの赤茶の建物が並ぶ様子や、船に荷を積み込む男たちの暗い寡黙な表情だけ。寂しそう。港ではそんな気持ちしか浮かんでこなかった。

 遠目に見える男たちの、黙々と立ち働く重々しい影が闇へ吸い込まれるように消えていくと、船はまた暗い海を進んだ。何も見えない船窓に、彼女はときおり自分の顔を眺め、そしてまた視線を遠くへと移す。そんなことを繰り返しながら、これから訪れる不安と、船着場で働いていた男たちの幻影のような姿を交互に感じていた。暗い海で次第に大きくなるうねりは、このまま朝が訪れることを阻んでいるようでもある。見知らぬ所へ連れ去られようとしていることは自分をいつもよりも気弱にしているようだった。


 どれだけ時が経ったのだろう。暗さの中に時々流れる遠い家の灯りをこの海は与えてくれるだけだ。単調なエンジン音と単調なうねり、そして単調な船室の風景が菜多里を包み続けた。

 船室のドアをノックする小さな音がしている。不思議に酔いはない。船に同乗している男が食事を届けにきたのだ。菜多里にとってはそれさえも、無変化を作り出す一つの工程に思え、無言のまま湯気を立てるス-プとくるみパンの乗ったお盆を受け取った。食事が届いたということはもうそろそろ朝なのだろうか…。

 「それとも、これからが夜なのかしら?」

 ぽつり、つぶやいた。もうだいぶ時間がたった。朝が訪れてもよいと思えるのだが、夜が明ける気配は海のどこにも見えない。揺れと暗さ、何一つ変わることのない部屋の内装に菜多里の時間の感覚は麻痺し、空腹感もない。それでも温かいス-プの匂いにさそわれて一口湿らせてみた。熱いス-プが喉を通るとき、彼女はようやく「温かい世界」のことを脳裏によみがえらせることができた。

 また少し元気が出た。そう、どこへ行こうと私が変わるわけじゃない。きっと大丈夫と心のなかでつぶやいた。どこまでも暗い海は未知の何か自分の知らない世界へのプロローグを予感感させるものでもあった。

 海のうねりはさらに大きくなっている。船が灯す灯の明かりの近くに、チラチラと雪が舞っているのがわかった。風はゴウゴウという吹雪を誘い、船は前でもなく後でもなく強く揺さぶられるようになった。大きな波がひっきりなしに船腹にぶつかっては砕け、水しぶきを舞い散らせている音が菜多里のいる船室に生々しく伝わってきた。


 「陽が差さないのはこの天候のせいね」

 風を読むことの出来る菜多里でも、密閉された船室の中では、突然襲ってくる前後左右そして上下の揺さぶりには、ただ身を預けるしかない。まるで船の内装と一体物であるかのように木目のそろっているテーブルの縁につかまり、酔わないようにとなるべく窓の外を見ようと心掛けた。

 しかし容赦のない揺れは、彼女が窓際にとどまることをすら許さなかった。下から突き上げられるような揺れとともに、体も頭も上下に揺さぶられ、そのまま床の上に投げ出された。このとき船室のさまざまなものが目に飛び込んできた。壁際に置いてあるベッドは、皺ひとつない真っ白いシーツの上には毛布が二枚、いまだずれひとつなく四つに畳んで乗せてある。ベッドとは反対側の壁際には、さきほどまで自分がしがみついていた黒っぽい木で作られた動かすことのできない小さなテーブルと丸椅子が据え付けてあり、椅子に座ることでちょうどよく船窓から外を見ることができた。なんとなしに四つん這いになって近づいて見るかぎりでは、テーブルと椅子にはどこにも継ぎ目がないようだった。

 そんなことが気になり、さらに目を凝らしていると落書きや傷跡といったものも見つけることができないことに気づいた。船室が年代物であるように見えるとはいえ、自分の前に誰かが確かにこの船室を使ったという確信がもてるような跡もまるで見当たらないのだ。

 あるいは念入りに磨きこまれているせいかもしれなかったが、そんなことに気を取られていると、激しい揺れが意識をどこかに飛ばしてしまう。再びベッドの辺りに目がいった。荷物の入ったバッグは揺れに合わせるようにあちこちに移動している。しかし、もともとこの船室にあった、時計、絵画の額、テーブルなどすべてが元のままの状態をきれいに保ち、相変わらずシーツや毛布も例外ではなかった。

 もはや、ベッドに横たわるしか手がないのかもしれなかった。ベッドは酔うと思い避けて避けていたが、整然としたシーツと毛布はまるでそこだけが安全地帯であるかのように誘っているようにも映った。

 ゆすぶられる思考とともにどうにか立ち上がり、丸椅子から壁伝いにベッドにたどり着いてシーツの上にうつ伏せに倒れた。柔らかい枕の中に顔を埋めてみると、すべての揺れから解放されたような心地よい、まるで水の中に放り込まれたように、ベッドは身体を包み込み、彼女はすぐに意識を失っていった。船はそのことを知ってか知らずか暗く荒れた海の中を北へと速度を上げた。


 菜多里が目を覚ました時、船は三度目の寄港地に錨を降ろすところだった。外は晴れてはいなかったが、明るくはなっている。そこがこの船の最後の寄港地で、新しい生活を始めなくてはならない土地であった。

 食事を運んできてくれた男が彼女の船室のドアをノックした。「もうすぐ目的地に到着します。そろそろ船を降りる準備をしてください。迎えの者が来ます」


 「ありがとう」

 そう言って菜多里は小さなボストンバックを手に取った。今さらながらに荷物が少ないことを認識した。着なれた洋服と洗面用具、少しのアクセサリーが入っているくらいで、ホクイのことを思い出してしまいそうなものは、前の家にすべて残してきた。

 ドアの外は薄暗く、寒かった。横風を含む雪は、菜多里の頬を容赦なく叩いてくる。自分の意思とは全く無関係な場所。ニシジに言われるままに船に乗り込んだが、その行方はどこなのか。不安をぬぐうことができないまま、船の渡し板を伝いその向こうの土地に足を踏み入れた。高く空の上から鳥の鳴く声が聞こえてきたようだった。

 「こんな雪空を舞う鳥が」と空を見上げてみたが、薄暗く吹雪く雪空には何も見ることはできない。

「あの鳥は、鷹の一種です。この町の人はサンサと呼んでいます」

 いつの間にやって来ていたのか、気付くと老人が傍に立ち、姿の見えない鳥のことを教えてくれた。

「サンサ?」

菜多里の言葉に、老人は顔の皺をやや深めながら「昔からの言い伝えです」とつぶやくように言い、ついてくるようにと促した。

こげ茶色の毛皮に身を包み、猫背でのっそり歩く老人の後ろ姿は、ほとんど熊に近い雰囲気がある。ただそんな姿がかえって安心できる人のようにも思えた。港の辺りは昔のままの漁村といった風景だ。平屋で鋭角な屋根が多いのは風雪に耐えるための知恵なのかもしれない。ホクイで、正一郎が住んでいた下町のように、タイムスリップして大きく時代を逆上ったような風情でもある。前を歩く老人の後ろ姿は、周囲に連なる土造らしい古びた家屋に溶け込んでいるように見えた。

黙って老人の後をついて行った。しばらく歩き、薄く降り積もった地面の雪を踏みしめる足の冷えが腰のあたりまで凍みてきたころ、彼は一軒の家の前で立ち止まった。読めない字で書かれた木札がぶら下がっているだけの古びた木のドアがあった。そこをゆっくり押し開け、吸い込まれるようにその中に入っていった。彼女は慌てて老人の後を追った。

 薄暗い店の中は、長いカウンターとその背後にいくつかの丸テ-ブルが置かれただけの簡素なもので、埃っぽい色のテーブルには先ほど乗ってきた船のベッドカバーと同じように白いクロスがのせられている。老人は菜多里をカウンターの席から手招きし、菜多里はその隣に腰をかけた。

 「ようこそいらっしゃいました」

 老人は菜多里に、先ほどよりもさらに表情を和らげるようにしてそう語りかけてきた。カウンターの奥の棚には、赤いラベルの貼ってある飲みかけのウィスキーがまばらに並んでいる。長い黒髪を後ろで束ねた背の高いバーテンが、そのなかの一本を取り出すと、二つのショットグラスに注ぎ始めた。老人は酒を注ぐ彼の手さばきを眺めながら言葉を続けた。

 「この町を知る人はあまりいません。あなたが前にいた町でも、数えるほどもいない。そしてこの町の存在を知っていても、この町を訪れることができる人は、もっと少ない。ほんのひと握りの人しかこの町に足を踏み入れることは出来ないのです。あなたは、そのほんのひと握りの一人です」

 菜多里は老人が言った言葉の意味を考えてみたが、よくわからなかった。

 「地図に載っていないところなのですか?」

 「もちろん載っていません。冷たい海に囲まれた小さな島の集まる北の圏域です。かつて来たことのある人だけが、自分の町に戻った時にここに来るべき人間を選びます。その必要がないときはもちろん選ぶ必要もない。ですからあなたは必要だと選ばれた人間だということです」

 そんなはずはない。ニシジのいわば陰謀で追いやられたに違いないのだ。しかし老人の物言いは、菜多里がこの場所に選ばれてきたふうに聞こえる。

 「ようこそ、サンサへ」

 菜多里も老人につられてグラスを持ち上げ、相手のグラスに重ねた。彼女はウィスキーを口にしてみて、あれだけ船に揺られたはずなのに、身体のどこにも異常がないことに気付いた。むしろ以前よりも元気になっている感覚さえある。

 「ところで、正一郎さんは元気ですか?」

 えっ、菜多里は驚いて老人を見た。

「正一郎さんって、あのヨコタさんのことですか?」

 老人は笑って頷いた。この目の前の男が正一郎を知っている。そうなのか、本当にそのことを信じていいのだろうか。半信半疑の思いで老人を見つめる菜多里の心に、いつも自宅の縁側に座って通りを眺めている木彫り職人の姿が浮かんだ。

 「お元気だと思います。最後にお話したのはちょっと前ですが」

 「彼もこの間までこの町にいたんですよ」

 「え、いったい、いったいここは何処なのですか」

 老人は、また少し笑ったような表情をみせてから、

 「サンサという町です。あなたのいた町からは、そう、ずっと北にあります」とゆっくり答えた。

 「それでは、さっきの鳥の名前といっしょ」

 「あなたはきっと、港からこの店まで歩いてくる間に、陽の差さないこの町を暗くて寂しい所だとお感じになられたでしょう。この暗闇は、この季節は一日のほとんどを占めています。あと三カ月はこんな日が続きます。それまで人々は、この店に来る以外はめったに外に出ません。あなたにはこの店の二階にある部屋を用意してあります。古いけれども居心地のいい部屋ですよ。その部屋でゆっくり休んでください。太陽が元気な姿を見せる頃までには、この町のこともゆっくりわかってくるでしょう」

 老人はゆっくりとグラスを傾け、それが空になったところで目の前のバーテンに何か耳打ちをした。そして彼女にちらりと目配せをした後で、右肩が少し傾いた猫背の後姿を左右に揺らしながら外に出ていってしまった。菜多里はしばらくの間、グラスを眺めていた。何をどう理解していいのか、よくわからなかった。この町で暮らす自分の姿もイメ-ジできない。もう一度、老人と出会った港からの出来事を思い返そうとしていると、急に眠気が襲ってきた。

 今まで感じたことがないほどの強い睡魔だった。こんなに強い力で眠りに引き込まれそうな自分を今まで意識したことはない。そしてすぐに深い眠りへと吸い込まれていった。



16.夢?


 強い風の音が聞こえた。風が舞い上がる度に人々があげる歓声が聞こえる。風の匂い、川の輝き、そして大好きな町並み。菜多里はいつの間にか、もとの町の川辺に立っている。見慣れた風景がそこにはあった。菜多里は川を上っている。正一郎の考案したホブネが、あちこちで風を捕らえ、人々を乗せて空へと舞い上がる。

 「なんて危ないの」

菜多里はそう思うと風を読んでみた。風が目茶苦茶に吹いている。誰も気付かないのだろうか。風操士は?

すると突然、菜多里の背後で聞き覚えのある声がした。振り向くと、首長のニシジが太った体をゆさゆさと二本の足で運んで来る。

 「ニシジさん、こんな状態で舟を出しては危ないです。早く止めさせてください」

 「なにを言っているんですか。今まで無事故で、けが人もなし。第一、絶対安全だと言ったのはあなたじゃないか。今の風操士だって立派なもんですよ。まあそれというもの菜多里さん、あなたのおかげですよ」

 ニシジは脂ぎった顔を近づけながら、いんぎんに言った。

 「いえニシジさん、今の状態は本当に危険なんです。あの風操士は、風のことを何も分かっていないように見えます。もし万が一事故にでもなったら取り返しがつかない」

 「大丈夫、心配には及びませんよ。こう見えても私は風操士を見る目くらいは養ってきたつもりですから。私の目には狂いはありませんよ。そうじゃあ、ありませんか、菜多里さん」

 ニシジはいつものように一方通行のまま話を打ち切り、「この町に戻るんなら、そう言ってくれれば私が宿を用意したのに。まだ宿が決まっていないんでしたら、私がホテルを用意しますよ」と言うと、彼は側に控えている女に指示を出し、菜多里の方を向いて言葉を続けた。

 「この町もあなたが出ていってから随分変わりました。素晴らしい発展を遂げているんですよ。きっと気に入ってもらえると思います。この発展のきっかけを作ってくれたのがあのホブネです。まあ、二、三日ゆっくりして、この町を眺めていってください。私は、次の予定があるのでもう失礼するが、秘書にあなたをホテルまで送らせましょう」

 彼はひとしきり言いおえると、さっさと黒塗りのリムジンに乗り込み去っていった。後には菜多里と、背が高く縁無しの眼鏡を欠けたさっきの女だけが残された。彼女は無愛想に菜多里を先ほど呼び寄せたタクシーに招くと、ホテルの名前を運転手に告げ、すぐさま車は音もなく発車した。静かな社内では途中、二人とも一言も言葉を発しなかった。菜多里もあえて自分から話しかける気にならず、窓の外を流れる赤い色の花をつけた街路樹の並木を眺めていた。

ホテルの入口には支配人が待っていた。秘書は菜多里を事務的に紹介し、菜多里に笑みをまじえて軽く会釈すると、きびすをかえして足早に去って行った。ホテルはメタセコイヤの並木沿いに建っていた。また出来たばかりなのだろう。建物もロビ-も何もかもが新しい。欧調の化粧石が四面に張り巡らされた高級な造りのホテルのようだが、どこか品がない点で一流ホテルとしての風格を欠いていると感じた。

 彼女は、最上階のスウィ-トに通された。高価そうな手作り調家具の並んだ広いリビングと、革張りのスツ-ルが置かれたミニバ-、キングサイズの天蓋付きのベッドルーム、それに独立したレストル-ムと総大理石のバスル-ム。それらは菜多里がいままでに見たこともないほど豪華に彩られた部屋だったが、飾られるほどにむなしいものに映った。リビングからの窓は一面ガラスになっていて、眼下には町が一望できる。正一郎が住んでいた辺りの家々がいくつも取り壊されて、その後にビルが建ちはじめているのも見え、思わずため息をついた。

しばらくして丁寧なノックの音があり、出ると、金モ-ルの付いた制服のホテルマンが、フルーツバスケットと紅茶の乗った台車の前に立っている。

 「総支配人からです」

 彼は、リビングの真ん中に置かれたガラスのテ-ブルに注意深くフル-ツバスケットとティーカップ、ポット、プチフールの乗った銀の盆を置き、まだ未熟な微笑をつくった。対して菜多里は自然な笑顔で紅茶を注ぐホテルマンに訊ねた。

 「このホテルはいつオ-プンしたのですか?」

 彼はこちらを見て先ほどの笑顔をまたつくると、「去年の4月でございます。お客様は以前、この町に住んでいらっしゃった有名な方だと首長様から伺いました。必要なものがございましたらどうぞ何なりとお申しつけください。ゆっくりと寛いでいただければわたくしも嬉しいです」

 菜多里は今度は曖昧に微笑んで、テーブルの脇のソファに腰を下ろした。ホテルマンが少しぎこちない足取りで部屋から出ていくのを見届け、紅茶を飲み、少しずつ暮れてゆく町並を眺めてみた。

 次の日は少し早起きしてメタセコイヤの並木道を散歩した。懐かしい、天高く背を伸ばした木々が優しく迎えてくれているようだった。この木々には自分の住んでいた町を思い出させてくれる温かさがあった。

 「お久しぶりね」

 菜多里は立ち止まると、朝日を受けて深呼吸している生き生きとしたメタセコイヤの幹にそっと手を触れた。風を読む彼女には、木々や草花たちの気持ちさえもわかるような気がすることがある。風が自然の声や心を運ぶのだと信じていた。さらっとした風が木々の薄緑色の葉を揺らせた。

 「この辺の家もなくなってしまったのね。川のレンガととても良く合っていたのに。でもあなたたちは残ってくれた。ほんとによかった」

 建てられて百年以上も経っているとされる古いレンガ作りの家々はすっかり取り壊されて、新たに建てられた家々は、見た目は整然としてきれいだが、どこか無機質なものに感じた。菜多里にはつい先日まで住んでいた町が、自分からどんどん離れていくことを信じたくなかった。気のせいかもしれないが、街を歩く人にも精気が感じ取れない。どれもこれも見た目はとても綺麗で華やかな変化をし始めているが、どこか調和していない。菜多里は昨日の狂った風の原因を、風操士の腕以外の面でも理解できるような気がした。


 このままでは、取り返しのつかないことが起こるかもしれない…。

 そう心でつぶやきながら、ハッとした。同じことを以前も思っていた。自分は確か、サンサという町に連れて行かれたのではなかったか。不可解なことが起きている。彼女は何日か前にずいぶん揺れる船に乗せられ、別の町で老人と会った。そして話をした。老人はここはずっと北にあるところだと。たしか、サンサ、という名前。それなのになぜ、突然、こんなに変わりきったニシジのいるホクイの町に戻ってきているのだろう。あの町はなんだったのだろう。夢?そうだとしたら今いるこの町、この町の変わりようも夢に違いないはずではないのか…。

 しかしそう思うには何もかもがリアルすぎる。サンサにしても、今いるホクイにしても、空気のにおいや手の感触、目で見る世界、疲れ、眠気、時間の感じ方、どれをとっても生身の体と夢の中にいる体とは違いがあるように思える。

 釈然としないまま、彼女は境川の水面に移る自分の姿を眺めた。やはり自分ははっきりとここにいる。でも、あのサンサという町にも、今と負けないぐらいはっきりとした居心地と実感があった。二つの世界を瞬時に行き来したのだろうか。そんなことが出来るのだろうか。かりにそうだとしても、二つの世界を瞬時に行き来しているということを認知している自分はなんなのか。そして、あのサンサという町、老人、バーでの出来事は、自分の存在といったい何の関連があるというのだろう。どれだけ考えてもわからなかった。

 ホテルのフロントでキ-を受け取りながら、自分は絶対に頭がおかしくなったのではないと言い聞かせ、不思議そうな顔を向けるホテルマンに、ホクイに戻って以来ずっと頭から離れなかった疑問を聞いてみた。

 

 「そうです。このホテルのオ-ナ-は首長様です。このホテルが完成したのも、この町がこんなに発展したのも、すべて首長様のおかげなんです」

 「首長様って、あのニシジさんのこと」

 「はい、ご存じですか。すばらしい方です。お客様もこの町に来てヨットのような物をご覧になったかと思いますが、あのアイデアを首長様は思い付かれて、ビジネスになさりました。あれはホブネといいましてとても楽しい乗り物なんですよ。風を自在に操ることができる優秀な風操士が風をコントロールして安全を保っていまして、その風操士をスカウトして連れてきたのも首長様ご自身です」

 「風操士が?」

 「はい、今や風操士は生活を守る仕事だけではなくて、人々を楽しませる仕事までやっていて、その人数もホクイでは増えているんです。風操士がたくさんいて、活躍できるところがある町というのも、私には魅力だと思います」

 菜多里は黙って聞ききながら、笑顔で次の言葉を待った。

 「首長様はどの圏域よりもすごい観光地をこの町に造ろうと計画されていて、そのためにこのホテルを建てられました。ここにはプールやカジノや有名レストランなど、何でも揃っています。それをこのホクイがまだ田舎でそんな話を誰も信じなかった頃に造られた。本当にすごい方です。ここに住む若い人達も、以前の仕事に比べてずっと良い収入になるので、仕事を変えてここのような施設で働き始めているんですよ。それからはみな首長様のやることを信じるようになって町づくりもどんどん進んでいます。なかでもこのホテルは一番人気なんですよ」

 ホテルマンは、自分の町が発展していくことが嬉しくてしょうがないのか、さらに言葉を続けた。

 「首長様は、まだまだこの町に人を集められるとおっしゃってます。このようなホテルが、あと1年くらいでさらに何軒か建つんです。首長様のおかげで町はどんどん大きくなっていきます。きっとお客様がこの次にこの町にいらっしゃる時は、もっとすごい別の町のようになっていると思いますよ」

ホテルマンは、誇らしげに微笑むと、菜多里にキ-を差し出した。


 「ありがとう」

 彼女が部屋に戻ると、今度は新しいフル-ツバスケットとチョコレ-トボンボンが届けられていた。フルーツバスケットには、「楽しんでいただけましたでしょうか?」とタイプ打ちされたニシジからのメッセ-ジが付いていた。菜多里はそのカ-ドをゴミ箱に捨て、ぶどうを一房片手に持って窓辺のチェアに座った。ホテルマンの口ぶりからしてニシジの影響力は彼女がこの町を出た頃よりもずいぶん強くなっているように感じる。自分がいたころは、まだニシジに反論するものやニシジに意見するものが少なからずいたのに。それがいまや町全体がニシジ一色に染まろうとしているようにさえ思える。あの若いホテルマンが熱を帯びてニシジをほめあげる様子は、新興宗教の信者の話を聞いているような気さえしてくる。

 ひとりの人間がこれほど力を持ち、町の人の心を支配し始めていることに恐ろしさを感じた。この流れをくい止めた方がいいのではないだろうか、という思いもまた彼女の中には生まれていった。自分の好きだった町が消滅してしまう。それだけではない。何か不吉なものを招きよせているようで、でもそれは何なのか。ぶどうを一粒口に運びながら考えを巡らせていると、ふと、サンサで会った老人の言葉にいきあたった。

 「そうだ、たしか正一郎さんのことを話していたわ。サンサ、あの記憶が何のことなのかわからないけど、もし長老の話が本当なら、正一郎さんは今の私のことについて何か知っているのかも知れない」

 正一郎は、菜多里がこの町に住んでいたころから、がんこな木彫り職人として有名だった初老の男だ。最初に会ったのは要山の山頂だった。それからホブネづくりを共にし、ホクイにいる間は最も信頼できる人間と思うようになっていった。サンサという場所の記憶がどうあれ、老人の言うことが本当で、正一郎があの町を訪れたことがあるというのなら、何か話が聞けるかもしれない。菜多里の心ははやった。

 町の景観が大きく変わっている。正一郎の家が前と同じ場所にあったとしても、よく分からない。そういえば自分の視界が少しぼやけてよく見えない感じもする。町の変化が大きすぎてそう感じるのだろうか。それでもなんとなくではあったが、ビルの谷間をすり抜けて路地に入ると、木の柵の仕切りの向こう側に昔の木造の家が並ぶ懐かしい小町の風景が現れた。正一郎の家は確かにそこにあった。彼の家の門扉はそれをひと目見れば例外なくそう思うだろう。ずっしりと重厚な門扉の作りが正一郎の家であることの証拠だった。家を巡らす塀のようなものは見当たらず、まるで扉の付いた鳥居であるかのように、その門扉が家の玄関前にたたずんでいる。昔からこのあたりの家々のほとんどは、塀がなく、ゆるやかに家々がつながる独特の共同体がある。菜多里はそれが好きで、仕事のとき以外でもよく通って愛想の良い人たちとの会話を楽しんだものだ。菜多里はホクイを追われる前、正一郎が旅行から戻ってきているとニシジに聞いていたのに、彼に会うことなく船に乗ってしまったことを少し悔やんだ。ニシジは自分との最後の話で、正一郎のエリアは開発しにくいなどと話していたが、正一郎は今も頑張って町を守っているのだろうか。しかしなぜこれほど自分がホクイを離れてからの時間が経っているのだろう。サンサに行っていたことを含めて考えてみても、今のホクイの変化はは考えにくい。サンサでの時間はほんのわずかだったはずだ。しかし、今の菜多里はそのことを深く考える気にはなれなかった。まずは正一郎に会ってからだ。

 「ヨコタさんはいらっしゃいますか?」

 菜多里は門扉の前に立つと、声をかけた。門扉を避けて玄関前で声をかけることもできたが、ここで声をかけなければならない気がした。厚い空気の壁がそこを起点に取り囲んでいるのではないかと思えるほど、家の中の気配を感じることは全くできない。家の周囲の庭と呼べるような場所にも人の気配はないようだ。少し時間をおいてから彼女はもう一度、重そうな扉の向こうに声をかけてみた。しばらくして奥で誰かが動く物音が聞こえてきた。ぞうりを引きずる足音が門扉に近づき、止まったかと思うとガチャっと鍵を開ける音がして、扉はスルリと開いた。

 「来ると思っとりましたよ。思っとったよりずいぶん遅かったですな」

 正一郎だった。彼は、菜多里が知っているよりもかなり歳をとっていた。深い皺やシミが刻まれた顔。ミイラのようにしなびた腕の皮膚。菜多里は門扉の向こうから現れた正一郎の見た目に一瞬ぎょっとたが、それでもかろうじて突然訪問した非礼を詫びた。

 「まあ、どうぞ」

 正一郎はほとんど雨戸を閉めきっている家に菜多里を招き入れ、木屑が辺りに散らばっている部屋の中央に置いてあるテーブルの前に彼女を座らせると、自分もその向かいに腰を降ろした。

 「驚いていらっしゃるでしょう?この町の変わり様に。わしの姿にも、かな?」

 「え、ええ…」

 「あなたは今こう思っているはずだ。なぜ私が来るとわかったのかと」

彼女は頷いた。雨戸の外から遅いセミの鳴き声がした。

 「ここだけですね。以前と変わらないのは」

そう言いながら自分の心がホクイにもどってきてからようやく少し和らいでいることを感じた。

 「ここは治外法権なんですわ」

 正一郎の言葉が本当なのかどうかは定かでないものの、彼が治外法権であることを守ろうとしている意志ははっきりと伝わってきた。

 「菜多里さん、あんたが行った所には、わしもこの間までいたんですわ。それから何十年か前にも。ほら、毛皮を着た老人がおるでしょう。あの長老はわしたいた何十年も前の昔から老人だった。今も老人でしょう。いったいぜんたい何歳なのか。ただ、あの老人はとにかく歳をものすごく取っていて、特別な人であることは間違いないですわい」

 「そう、ですか。ではサンサというあの町は本当にあるんですね。夢で見たわけではないんですね」

 菜多里は自分の正気を確かめられたことにほっとしたものの、正一郎の言う、そして自分も経験したあの世界のことについてわけがわからず、その存在をまだ信じる気にはなれなかった。

 「正一郎さん、でも、あの町のことが夢ではなかったとして、何の意味があって、いったい何をしに行ったのですか?」

 正一郎はくつくつと笑いだし、それから相手を諭すように口を開いた。

 「まあ、どちらかと言えばあの長老に呼ばれたということですわい。あなたも同じかもしれんの」

 「でも、私は呼ばれたわけではないんです。ニシジ…さんにこの町を追い出されて、知らない間に連れていかれたのですから」

 「見た目にはそうかも知れん。しかし、本当はどうだったのか、それはあんたにもそのうち分かるときが来ますよ。あんたはこのホクイの町に必要な人だってことですわ。まあ、そのうちわかりますわい」

 正一郎は、壁際の作業台の上に置いてある古い魔法瓶を取り上げると、急須にお湯を注ぎ、お茶を入れてくれた。それから道具箱の中からのみと薪を一つずつ取り出し、何かを手際よく彫り始めた。ほんの少しの間にそれが鳥と分かった。正一郎はあざやかな手つきで最後の羽の部分を彫りあげると、「あの町に飛んでいる鳥ですわい」と菜多里に手渡した。

 「…サンサ」

 「そう」

 老人はまたうれしそうに笑うと、そのままぼんやりと消えていった。細胞の粒子が少しずつ空気に溶け混んでいくかのように、目の前にいる正一郎は徐々に消えていった。それは菜多里が不思議な出来事を実感した最初の経験であった。気がつくと菜多里は古いベッドに横たわっていた。



17.彫刻


 「目が覚めましたか?」

ベットの横に、あの老人が立っていた。菜多里はハッとして体を起こした。

 「まさか」

 夢にしては生々しい記憶だ。

 老人は、菜多里がぼんやりとした表情で、しかし必死に考え込んでいる様子を見て、「あなたは、前にいた町の夢を見たのでしょう」と話しかけた。

 「そうかもしれません。でもあれは夢なんかじゃ」

 彼女は老人を見上げた。彼は菜多里が寝ているベッドの脇に置かれた年代物の椅子に腰をおろし、壁際にいたバーテンに店に戻るように言った。若い彼は黙って頷き、するりと背を向けて部屋を出ていった。

 老人は目じりにたっぷり皺を寄せて菜多里に向き合い、それから窓の外で枝を大きく広げている一本の広葉樹を指さした。

 「ご覧なさい、あの巨木のずっと向こうにあなたの住んでいた町があります。そこまで行くにはずいぶんな距離がある。ですが、あなたがこれから住むことになるこの部屋は、その町に通じています。あの正一郎さんも、この部屋に住んで、あの町とこの町を行ったり来たりしていました」

 彼女は黙ったまま、広葉樹の方向を眺めた。

 「菜多里さん、あなたが見た世界は、あなたが住んでいた町ですね」

 彼女は頷いた。

 「それは、夢のようで夢ではありません。あなたがこの部屋で眠るということは、あの町と会話するということなのです。あなたが望めば、いつでもあの町に入り込むことができる。ときには人の中にさえ。正一郎さんの近くに丸い木の置物があったのに気付きましたか?それがあなたの脳波を伝えるアンテナの役目をしています」

 「会話、自分の町と?いったいどうして?」

 「その理由は人によって違います。ただあなたがこの町にこられたのも、あなたにはあなただけのある特別な使命があるからです」

 老人は、そこまで言いおえたところで、手に持っていた紙袋を開き、中の物を菜多里の目の前にかざした。彼の手には、菜多里が夢のなかで見た、鳥の彫り物があった。

 「その鳥はあの時の」

 「そうです。正一郎さんが掘った物です」

 「でも、どうしてここに?一体どういうことなのでしょう。」

 「あなたの脳波はホクイへと戻り、正一郎さんと実際に会話をしてきたのです」

 そう言うと、老人は鳥の彫り物をベット脇に置かれた木製の丸テーブルのちょうど真ん中に置いて、頭部をゆっくりと撫で始めた。菜多里は言葉もなく、じっと老人の手の動きを見ていた。

 しわがれた手が十回ほども円を描いた時である。急に木彫りの鳥が老人の手の中で翼をゆっくりと広げ、やがて本物の鳥になった。するどいくちばしに目を光らせ、大きく広げた焦げ茶色の強そうな羽に、一本一本空気を含ませたのを確認すると、鳥は老人の腕に飛び上がった。

 「これが、サンサです」

 彼は、鳥の背をやわらかく撫でながら、自分の目の位置までかざした。

 「さわってごらんなさい。見た目は獰猛に見えるが、危険はありません」

 彼女は老人の言葉に従い、ゆっくりと手を差し伸べると、鳥の頬を撫でてみた。柔らかかった。鳥は嫌がる様子もなく、菜多里の目をじっと見たまま動くこともない。

 「とても美しいですね」

 「一度、空に舞い上がれば肉食の獰猛な鳥です。人を襲うことはありませんが、なつくこともない」

 老人はそう言うと、夕暮れの窓を開けた。紅色に染まった空に向けてサンサは放たれ、二人は空の彼方に飛んで行く姿をしばらく見送った。

 「あなたと正一郎さんが話したこと、そしてそれを私が知っているということを正一郎さんはあなたに伝えたいと、少し前にここに来たときにこれを私に預けていったんです。正一郎さんは、この町の空に自分の彫ったサンサを舞わせたいと思った。菜多里さん、あなたに、この町のことを知ってもらうためにです」

言葉がなかった。いま起きたことがたとえ本当のことだとしても、それを理解するには長い時間が必要だと思った。

 「あせることは何もありません。時間はある程度はあります。ゆっくりこの町に馴れてください」

 「ひとつ…、わからないことがあります」

 頷く老人に菜多里は続けた。

 「脳波、というもので私が見てきたホクイは、私があの町を去ってからまるで何年も経っていたようでした。それはどうしてなのですか?」

 「そうでしたか、であるとすると何か脳波の焦点のようなものがずれたのかもしれません。それでちょっとした未来が含まれたように見えてしまったのかもしれません」

 老人は、ドアに向かって杖をつき始めた。彼女はトン、トンという確信に裏打ちされたような杖の音にあわせ左右に揺れる後姿をぼんやりながめ、かろうじて声を出した。

 「あなたは、いったい?」

 老人は、ゆっくり歩きながら振り向きもせずに、

 「私は、この町で一番の長老です。皆も長老と呼びます。あなたもそう呼んでください」とだけ言い、部屋を出て行った。ドアは音もなく閉まった。

 「長老…。名無しの長老さん」

 そうつぶやきながら、数日振りにようやく自分の頭が働き始めたように感じていた。まだ、この町のことも、自分がここに来た意味もわからなかったが、老人の言葉は、不思議に本当のこととして受け取ることができるように菜多里の身体を包んだ。人は、すべての理由をわかった上で生きているものではない。菜多里は、いつも自分の持つ力に対して思うように、このサンサで起こることに対しても、ただ受け止めて、素直に感じ体験しようと思った。

 部屋に用意されていた白と青で折り込まれたチェックのひざ掛けを肩にはおり、夕闇にすっかり色を濃くした川を見に階段を降りた。外気は刺すように冷たかったが、かえってそれが心地良く感じられた。

 「サンサ」

 空を見上げると、はるか頭上高くを舞う鳥の影が見えたようだった。さっきの鳥かもしれない。正一郎さんが自分のために彫りあげたサンサ。自分を見つめる長老の優しい眼差し。しばらくぶりに心が温かく広がっていくようだった。

 「何かに引き寄せられて私はこの町にいる」

 薄暗い町を少しの時間歩きまわりながらそんなことを考え、かすかにただよってくる食卓の匂いに包まれる。こ の町での夕食を終えた人々は、それぞれの町に帰っていくのだろうか。そして彼女も、二階に自分の部屋があるバーの方角に向かって歩きだした。暗い町に流れる風は優しいものだった。



18.バー


 菜多里レイジは、部屋への外壁に備えつけられた階段を登りかけ、足を止めた。あの黒髪のバーテンに会ってみたい気がした。彼は長老のことを少しは知っているに違いなく、それに外を歩いたせいで、菜多里の体は冷え、そういえば空腹感もある。

 「お酒でも飲もうかしら」

 常識では理解できない今を、彼女の頭は消化できずにいる。あるいは彼と話せば少しは状況を整理させてくれるかもしれない。遠慮がちにバーの扉を開けてみると、彼はすぐに気付き、身振りでカウンターの席を示した。大半の客が自分の家に戻ったのだろう。奥のテ-ブルに二人連れの男がいるだけだった。店の中には丁寧に磨き込まれた古い調度品が意外に多いことに気付いた。

席に座ると彼はすぐに話しかけてきた。

 「旅の疲れは和らぎましたか?」

 「ええ、少し。でもまだ頭の中が混乱しているようで」と言って、店の中を見渡した。

 「まだ時間が早いのに、随分お客様がお帰りになったんですね」

 「ええ、この季節はいつもこうなんです。でも店はまだやってますから、何になさいますか?」

 「あの、何か温まる飲み物はありますか?外を歩いたら、すっかり体が冷えてしまって」

 「クラムチャウダ-かミネストロ-ネのスープなどは?お酒ならバーボンがありますよ」

 「じゃあ、クラムチャウダ-を、あ、でもお酒もいただこうかしら」

 バーテンは軽く微笑み、背後に備えてある大きなガス台に小さな火を入れ、小さな黒い鉄製の鍋をのせた。

 「この季節はいつもこんなにお客様が少ないなんて、それでやっていけるんすか?」

 なんとなしに口に出た言葉に、バーテンは微笑んだ。

 「もうこの店は何十年も、こうやってやっているそうですよ」

 「そうなんですか?」

 あるいはこのさびれた町でなら、何とかやっていけるものなのだろうか?一体、この町の人達の普段の生活はどのようなものなのだろう。自分の町と交信するために一日中寝ているなんてはずもないし…。そんなこんなを考えているうちに、バーテンが言った。

 「そうなんです、私もそれほど長い間ここにいるわけではないので」

 彼はバーボンを置いて、言った。

 菜多里は、表情を変えずに、黙ったままス-プを眺めている。彼は、菜多里の無表情に少し戸惑いつつも、カウンターの奥からくるみパンをバスケットに入れて持ってきて、彼女の前に置いた。

 「この町は別にお金は必要ないんです。でも、働かなくてもいいということではないんですよ。町の住人はみんな、何らかの仕事はしています。ただみんな物々交換なんです。例えば、ここで一杯の酒を飲んだ人がパン屋さんだとしたら、飲んだ分のパンと交換できるというわけです。そうやって、この町ではみんなが作るものをみんなで共有しているんです」

 「それじゃあ、このくるみパンも、そうやって手に入れたものなの、ですか?」

 「そうです。なかなか美味しいでしょう」

 「なんか不思議な話ですね」

 「そうですね。でも、不思議なことに、うまく生活が成り立つんです。この町には、バ-も、パン屋も、洋服店も、電気屋も、みんな一軒ずつあって、それでうまくいっているんです。私もこの町に来た時のことを思えば、確かにそのことがとても不思議にみえました。でも、実際にこの町の価値の中で暮らしてみると、そうとも言えない…。今の生活に慣れてしまえば、それまでの生活の方が不自然だと思えるようにもなりました」

 「こんなことを話して、来たばかりのあなたに受け取っていただけるかどうか心配ですが、長老が言うには、人が物を創りだすエネルギーは、一定の時間で測ってみると、どれもみんな同じなんだということです。パンを作る人も、椅子を作る人も、一生懸命気持ちをこめて作って、それをお互いが納得したうえで等しく交換するだけ。ほら、長老が物を創り出すことができるのはご存知ですよね。その彼がそんなふうに言っていて、うまく説明できませんが、お金はなくてもなんだか十分にみなさん生活をしていくことができているんです。それに、そろそろパンが足りないなと思うと、ちゃんとパン屋さんが飲みにやってくるんですよ」

 「そんなことって…」

 菜多里には、そのような世界は一朝一夕に信じられるものではなかった。本当に本当にそんなことが出来るのだろうか。本当に。でも、儲かるためなら人々の気持ちや大事にしている物まで平気で犠牲にするような世界が決してよいものだとは思えない。

 「でも、家とか。そういうものはどうなるんですか?」

 「そういう物は、この町では、長老が皆に不自由無い程度に用意してくれるんですよ。あなたにもあの部屋が用意されていたでしょう。しばらく住んでみれば分かると思いますが、きっとあの部屋は、あなたのお気に召すはずです。そんな風にみんないつの間にか用意されているんです。いつの間にか」

 「そうですか…」

彼が言っていることの真偽など今はどうでもいいように思えた。うなだれ気味にバーボンとスープを飲んだ後で、今はそんなことよりもるよりも知るべきことがある、と菜多里は顔を上げた。

 「あの長老さんは、一体誰なのですか?この町で一番古くからいる人だということは聞いたのですが」

 彼は、菜多里から視線を外すと、少し上目遣いに考える様子を見せて、そしてゆっくりと話し始めた。

 「古いといいますか、ずっといる人であることは間違いないようなのですが、何者かというのがはっきりわかる人は、私も含めていないと思います。この町で一番古くて不思議な力がある。普通の人間には信じられない、超能力のようなものかもしれません。遠くの町から人を選んでここに呼び、その人が元々住んでいた町と会話をさせるなんて普通じゃないですよ。逆立ちしたってできっこない。そこまでは、長老についてここにいる人なら誰でも知っていることです。あ、会話ができるようにしたというのは、わりと最近のことのようですが。ヨコタさんという方の力が大きいとのことでした。でも、それ以上のことは誰も知りません」

 バーテンは冗談めいた真顔になり、「あっ、そうそう、歳の方も人間技ではないほどとっているようですよ。なんでも三代にわたってこの町に来ているという人がいて、父親が来た時もおじいさんが来た時もあの長老がいたそうです。もうゆうに百歳は超えているってことなんでしょうね」と笑った。

 話を聞いているうちに、あの長老が自分がいま経験している不思議の始まりではないかと思えてきた。長老に疑いようのない安心感と親近感を抱いてしまうのは、すべて長老の筋書きなのかもしれない。


 「ところで、私、まだ名前を言ってなかったですね」

 「菜多里レイジさんでしょう。この町に来ることは長老から聞いていましたから。僕はサンと呼んでください。舞久留まいくるサンと言います」

 「サンさんはどちらからこの町にいらしたんですか?」

 「ずっと西の、ドナイという所です」

 「聞いたことないわ。どんなところなの?」

 「牧歌に歌われるような綺麗な町です。酪農が中心で、沢山の牧場があって、のんびり草を食む牛を追って毛足の長い番犬が走り回っているところです。でも、ある日、二人の企業家だという連中がやって来てから、おかしくなり始めました。ドナイには、鉱石が豊富にあるために、目の前の利益に目が眩んだ町長らが彼らに採掘権を売ったのです。沢山の牧場がつぶされました。かわりに仕事や物が増え、町は確かに以前より豊かになったように見えました。でも」

 「でも、どうしたんですか?」

 菜多里にも興味がある話だった。

 「多くの人が死にました…」

 サンは続けた。

 「それも原因不明の病気で。誰も経験したことのない病気で、医者もお手上げでした。次々に人が死にました。やがて、それが地下にわいた寄生虫によるものらしいことがわかってきました。死体を解剖した医師が、寄生虫に住むものと同じウイルスを見つけたんです。あきらかに連中が来るまではそんなウイルスで死ぬ人はひとりもいませんでした。そのウイルスに感染すると体が腫れあがるのですが、そんなこと町の誰に聞いても今までなかったと言っています。きっと連中がこの町に持ち込んだんです。自分たちの体と一緒に」

 バーテンはくやしさを噛み締めるように続けた。

 「今、あなたの町はどうなっているんですか?」

 「毎日が採掘者たちとの戦いです。病気になる人間とならない人間がいるから、こちら側としても責任の追及がなかなか難しいのと、病気の予防方法もいまだに見つかっていないので、デモを起こすくらいが今のところ精一杯といったところです。連中は未だに元気な人間を町の内外から連れてきては穴を掘らせています。金で彼らを盲目にさせてしまっているんです」

 「サンさんたちは、以前のドナイを取り戻そうとしているのですね?」

「町の青年団などと結束して武力行使に出てでも、行政側の態度を改めていくつもりです」

 ふと、菜多里もニシジのことが気になった。腕時計を見るともう日付が変わろうとしていたが眠気はまったくやってこない。ホクイに向かった時のあの眠りのせいか、あるいは寒い町を歩いてきたからかもしれない。

 「あの寄生虫はなかなか発見できないそうですし、人の出入りが増えるほど感染が拡大することが怖いです」

 サンは菜多里を見ていた。菜多里もサンを見上げた。サンの瞳の奥に、強い意志が見えたような気がした。サンはそこで空になったス-プ皿を下げ、店の奥にいた別の二人連れの方に歩いていった。菜多里にはス-プの代わりにサンにあげられるものが何もなかったので、自分が使っている厚手の手袋を外してカウンターに置くと、二階の自分の部屋に戻った。

 部屋は、温かい暖房が入っていて心地よかった。ベッドに腰を降ろし、ぼんやり考えをめぐらせた。そういえば、この町に来てから時間の感覚がほとんど無くなっている。あの町は今頃寝静まっているのだろうか?

 そんなことを考えているうちに、もう一度自分の町に戻りたくなった。彼女はベッドに横たわり静かに目を閉じてみた。



19.脳波の世界


 強い光が目の中に飛び込み、あの町の喧騒の真っ只中に立っていた。彼女はまぶしそうに辺りを見回した。そこはあのホテルの立っているメタセコイヤの並木道だ。

 自分のいる歩道側にも、広い車道を挟んだ向こう側にも、前に訪れた時以上にビルが横たわり、昔の町並みは見る影もない。今日は平日なのだろう、仕事着をまとった人たちがどこかうつろな眼差しでせかせかと歩いていく姿が、立ち並ぶビルの中に消えていった。この町の人々はかつての町とはまるで違う景観の中に住み、仕事しているのだ。

 でもこれが本当は、遠くサンサにいる私の脳波によって見ている景色ということなのだろうか。今回の“訪問”では今までの話を理解しながら思考することができるまでにはなっている。そう意識してみると、視界の両脇がかすんで見えるようだ。かすんでいる方に目線だけを移してもやはりはっきり見ることができず、顔をそちら側に向けてみると、おぼろげな景色が点在し、視界の両端はやはりぼやけてしまう。常にカメラのファインダーをのぞいているように、まっすぐの方向しか見えていない自分がいた。しかもよく見えている正面側でもところどころにピントのぼけた景色が混ざっている。いやそうではなかった。よく見えているのは正面側のいくつかの景色だけだ。

 それだけを見ていれば違和感はないが、景色全体を見ようとするとほとんどのものが実は見えていないのだ。

 見えている箇所を数えてみると十ヵ所ほどある。その景色を頼りに移動してみると、消えていくものと、新たに現れてくるものがあるのがわかる。見えている箇所は場所によって数も変化しているようだ。今、自分は、ずっと北のサンサという町に眠り、脳波だけがホクイを訪れていることを自覚せよと、正面だけのまばらな景色が教えてくれているようでもあった。

 これが脳波の景色、なの。見えているものとそうでないものがどうしてあるのかしら…。

 そんな疑問とともに歩いていると、またビルの中に吸い込まれていくスーツ姿がはっきりと正面景色に現れてきた。

 「あんなにせかせか歩いていたら…、笑顔になる暇もないわ」

たとえどこに脳波が届いているとしても、目の前の景色をにわかに信じる気持ちにはなれない。緑と建物が心地よく調和していた町はビルのそれへと代わり、町の生命をつなぐような存在だった境川も、今ではコンクリートで覆われた護岸によって、ずいぶん遠くに感じられる。それでもビルの谷間から霞んで見える遠くの山並みは、確かに昔のそれなのである。

 うだうだと考えてもしかたがない。いったん事実を受け入れることにして、はっきりと目に見える数ヵ所の景色を頼りに歩を早めた。正一郎のところに行こう。自分がサンサにいる間に、ニシジの構想がものすごい勢いで現実化してしまう。その恐ろしさが正一郎の家に向かう足取りを急がせた。一歩一歩進むごとに見えてくる景色が増えた。箇所が増え、明らかに視界が広がっていく。次第に走ることが可能になり、確信を持って大通りからビルの隙間を入り、正一郎のエリアに身を投じた。

 「ヨコタさん、正一郎さん、いますか!」

 玄関前の門扉のドアを叩きながら、大声で何度も呼んだ。植え込みや芝などが良く手入れされている玄関の周辺を見るかぎり、正一郎はそこにまだ住んでいるはずだった。しかし、いくら待っても返事がない。心配になって庭の方へ回り、縁側から体を乗り出して家の中の様子を覗いてみた。

 奥の間には、布団にくるまった正一郎がこちら側を見て、手を差し伸べたまま横たわっている。体を起こすことすら困難ならしい。彼女は、縁側から部屋に通じる木枠のガラス窓を開け、正一郎が寝ている部屋の中に入った。

 「正一郎さん、私です。菜多里です。具合が悪いのですか?」

 そう言って、彼の皺だらけの顔を覗き込んだ。正一郎は少し笑みを浮かべていた。

 「情けない。あんたと分かれば何としても迎えに出たですが、どうにもこうにも体が動かんのですわい。すまん」

 そういう正一郎の声はまだしっかりとしており、少しほっとした。

 「具合が悪いのですか?」

 「ああ、大丈夫。歳のせいですよ。それより今こちらに来たのですか?」

 「はい」

 「やはり時間が狂っておるの…。それにしても驚いたことでしょう。あっという間に町が変わっていくのでな。ニシジの作った巨大な夢の街とやらが始まって、さらにこの町に流れ込む人の数が増えた。ニシジの作った街が巨大な金を生み出し、今までの町を変えるための原資になってグルグル回り始めているんですわい。すべては奴の思う通りに事が進んでおる」

 それを聞いて菜多里は、つかれるようにサンの話を思い出した。

 「サンサで聞いてきたお話で、正一郎さんに伝えたいことあるんです」

 正一郎は骨のきしむ音が聞こえてきそうなぎこちなさで布団から起き上がり、軽く頷いた。

 「今、ドナイという西の圏域の町で、寄生虫が原因と思われる死亡事故が相次いでいるようです。ニシジさんのやっていることを早くやめさせて、ホクイも外部からこの町に流れ込む人の流れを止めないと」

 「どういうことかの?」

 「その病気は、寄生虫が原因らしくて、炭鉱夫に感染者が多いということはわかっているんですが、かといって同じ環境にあっても感染する人としない人がいるようです。それも体力や年齢といった抵抗力というか、そういうものの差にでもないようなんです。こんなに圏域外からもいろいろな人が行き来していたらきっとここでも」

 菜多里はそこで一度大きく息を吸い込んだ。

 「貧しい町から豊かな町ヘと、人が動いています。ということは、まだほとんど解明されていない寄生虫のウイルスを持った人がいろんな圏域の町に流入しているのではないでしょうか?伝染病という話もあるし。このホクイにも、ドナイのような町から病原菌を持った人が流れ込んできていてもおかしくはないと思うのですが」

 「なるほどの。ほっておくと全ての圏域が全滅してしまう危険もあるというわけですな。長老は、何か言ってませんでしたかの?」

菜多里が首を横に振ったのを見て、正一郎は布団をまとったまま腕組みをして考え込んでしまった。沈黙のまま、宙を睨んだ正一郎の脳に、しばらくして声のようなものが届いた。


 だめだ、今、その風をホクイで使うのはまずい。ホクイが死の町になってしまう。寄生虫は思い通りにはならない――。

 「正一郎さん、どうかされましたか?」

 「ん…、いや、なんでもない。なんだか、脳波が錯綜しておるわい」

 「とりあえず、その寄生虫についてもっと知りたいですな。あんたはまたサンサに戻って、また何かあったら教えてもらえんか?」

 「わかりました」

 「どうしたんじゃ?」

 「いえ、あの、どうやってあの町に戻ればいいかと思って。それにこの時代は私が住んでいた時代よりもずいぶん先のようなんですが。またこの時点に戻ってくることもできるのかどうかわかりません」

 「おお、そうか、それでか」

 正一郎は軽く笑った。言葉を続けようとしたらひどく咳き込んで、苦しそうに奥の部屋を指さした。

 「今はわしの脳波を使っておるので、そのままでも戻れますわい。ただ、人に完全に乗り移ったときは、奥の部屋に木で作った手毬ほどの玉に額を付けて目を閉じてみるといい。そうすればサンサに戻れるわい。そう、あんたは来る時代がずれたのかね。何年になるかの、あんたがニシジに追いやられてから」

 「いえ、それがよくわからないのです」

 「たしか十年くらいは経っておるな。わしの削り方がずれてしまったか。あれはほんの少しのノミ具合で不機嫌になってしまうからの。それでか、さっき変な声がしたのは。んん、それにしてもずいぶんずれてしまったものだわい。わしの失敗じゃ。何とかせんと」

 彼は、そのまま横になって目をつぶってしまった。菜多里は、正一郎の、自分に気を使ってくれている言葉が少しうれしかった。

 「でもその前に、その『街』という所に行ってみたいのですが…」

 「ああ?」と彼は首を傾げた。

 「ですからその、遊びとか夢とかという『街』のことです」

 「ああ、それはこの町そのもののことですわい」

 「えっ」

 「今はこの町全体が周りからはそう呼ばれておる。ただホブネがある一番の賑わいは町の真ん中辺りにあるんで行ってみるがよかろう」

 「わかりました」

 「ああ菜多里さん、あんたが見ているのは実際のホクイより十年も先の事だとすると、あんたの目には、あまりここの世界が見えてないんじゃないかね」

 「はい、そういえば視界の隅の方はぼやけてしまっていて、正面は見えるのですが、見えているものはまばらなんです」

 それを聞いて正一郎は納得したように笑った。


 「なるほどの。であればあんたが見ているのは、おそらくわしとニシジの脳の中の像だわい。わしらが考えていることがあんたの頭に映像になって出てきておる。ニシジの頭の中にある将来ほぼ現実になるホクイの世界を見ることができていると思いますわい」

 そう言われても菜多里には釈然としない部分もあった。もし正一郎の言う通りなら、将来にいるはずの正一郎と「将来こうなる」などと“話”をしている今とはいったい何なのだろう。自分の脳波はいったいどの時代にピントを合わせているのかが理解できずにいた。それを知ってか知らずか、「菜多里さん、脳波っていうやつは複雑でな。今と未来がつながったり、どこからともなく声のようなものが聞こえてきたりするんですわい」と付け加えた。

 「それからニシジはどこにでも現れてくる。あいつの脳波はいつでもあんたには拾えるようにしてあるからの。以前来た時も現れなかったかね」

 「そういえば、突然、といった感じで目の前に現れました」

 「じゃろう。あいつとあんたの脳波は呼応するようになっておる。アンテナにそうなるように細工をしておいたんじゃが、こちらはうまくいったようだわい」

 「アンテナ、ですか?」

 「あの玉のことじゃよ。サンサの木に「呼印こいん」を施したあれで脳波のやり取りができる。たださっきも言ったように脳波というのはずいぶんと繊細で複雑なようで、扱いきれん部分がある。ニシジがあんたと呼応した脳波は、本人が起きている間は気づかないが、記憶として脳の奥の方には残っているから、寝ているあいだにどこかで現れることがあるんですわい。ですから、しょっちゅうそんな夢ばかり見ていると、そのうち何か感じ取られてしまうこともあるかもしれんでな。自分からは意識的に関わることはあまりしない方がいい」

 「そんなことって、できるのですか?私には脳波なんてどうしたらいいのかわかりませんし…」

 「まあ自分からあまり考えないことですわい。それだけでいい。とにかくニシジは自分の構想に反対する者を徹底的に排除しようとしていて、この間、あんたが町に”戻って”きたことがさっそく夢に出てきたらしく、夢を見たに過ぎないはずなのじゃが、随分気にしていろいろ調べていたようなんですわ。あいつは勘が鋭い。何もわかるわけはないはずじゃが、脳波が呼応したことに、あるいは何か予感めいたものを感じたのかもしれないとわしは考えておる。とにかく気をつけておくに越したことはないですわい」

 「今、私はここにいないのですか?本当の私の体は」

 菜多里の問いに、正一郎はうなずいた。

 「いません。何もかも本当のように感じるのは、あんたの脳の働きがそうさせておるんです。ちょうど何か触ったような実感のある夢のようなもんですかな」

 「わしはこんな老いぼれだし、直接手を下すことはしないが、若い連中の中には危険分子と見なされて長期間幽閉されたり町外に追放にされたりした者もおる。サンサのことは逆立ちしたって分かりっこないが、とにかくニシジ、あいつがあなたを意識するようなことは避けておいた方が無難ですわい。今やあいつの力は凄まじい。警察でもなんでも仕切っていて、わしが死ねば、この家もこの一帯も、一気に取り壊されてしまう。やつらは、わしがホクイの内外に強い人脈があるのを知っていて、下手に手を出して何かしらの反乱が起こることを警戒しているんですわい。だからじわじわ圧力を掛けながら、自然な形で死ぬ日を今か今かと待っておる。わしの仲間には、行方不明になった同士が何人もおる。菜多里さん、とにかく脳波は複雑なんでな、いつ何が起こるかわからんのでくれぐれも気をつけてな」

 彼女は、正一郎の家を”出た”。彼に言われたとおり脳波の世界であることを意識してみると、もはや歩く必要はなく、視界に入る箇所を意識するだけでその場所に移動できた。そして正一郎に指示された場所まで行くと、そこは町の外であることに気付いた。

 「ここは町に入るための船着場のはず」とつぶやきながら賑やかな景色を眺めてみる。菜多里が最初にこの町を訪れたとき、小さな木彫り細工が目を引く木造の駅舎と、食料品や雑貨などを売る商店が元気に営んでいて、広場の芸人の音楽がそれによく合っていた。ところがその場所には、”今”、真っ白な駅舎と真っ白い石畳が広がっている。石畳の両側には、木芸細工や木芸道具、さらには木材などを売る店が並んでいた。しかし、本物の木芸品を置いてないことはすぐに知れた。

 門の周囲は以前どおり町を示す大きな壁がそびえ、昔通り渡し船に乗ってゲートから入ることだけは変わっていないようだった。ただ、渡し船は以前と比べると非常に大きくカラフルなものに変わっていたが…。

 正一郎の言っていた、この町すべてが遊園地という意味が少し理解できるような気がした。乗り場には様々な人種の人々が集まっていた。若い人がほとんどだ。

 「遠くの圏域から沢山の人が来ている…」とまた不安がよぎったが、今の自分に何かができるわけでもない。列に従って、視界にはっきりと映し出されていた舟に乗り込み、出発を待った。舟は立っている人がいるほど満席で、彼女も何とか吊り革のひとつを確保すると、人の頭の間から窓の外の町並みを眺めた。

 「こんな小さい子供まで来ているなんて…」

 さきほど列に並んだときから始まった緊張が続いている。舟は町の入口に到着し、検問らしきものを受け、そこで乗客全員から料金を受け取り、町の中へと入った。あとは誰がどこで降りようが自由であるらしかった。ときどき停まる舟から、何人かが降り、そして何人かが乗ってきた。船は運河の上をゆっくりと、楽しい音楽と共に進み、ビルの間を抜け、広い牧草地のようなエリアを上り、そして上流域のホブネエリアへと向かっていくらしい。ずいぶんと運河が整備されている。運河から見える景色は町をさらに違う世界にしているようだったが、菜多里は昔この辺りに何があったかを考えながら、人と建物の流れを眺めていた。

 途中、大きな川に出た。

 「境川…」と、思ったが、確信を持てるだけのものが見つけられない。街路樹の枝振りは、あの見事だった桜並木の中の数本であるように思える。

 「あの、すいません。運転手さん、この川は境川です、か?」

 運転手は自分が尋ねられていることに気付かないようだったが、そのうち「ああ、境川ですよ」と教えてくれた。

 「有名な、あの境川、ですか?」

 「そうそう、ずいぶんきれいに整備されましたが、昔は昔で風情のある美しい川だったんですよ。桜並木やメタセコイヤが見事でね。町の自慢でしたよ。まあ今は少ししか並木も残っていなくて、川幅もずいぶん狭くなったんで寂しい感じに見えなくもないですがね。お客さんは前にこの町に来たことがあるんですか?」と、嬉しそうに話してくれた。

 「ええ、前に。でも、すっかり変わってしまってここがどの辺なのかぜんぜん分からないんです」

 「この辺りは昔の西栄ですよ。ほら、あそこに交番があるでしょう。あの交番の辺りしか昔の建物は残ってないんですがね」

それを聞いてまた驚いた。西栄といえば、以前、彼女自身が住んでいた地区なのである。

 レンガ造りが多かった大きな家々の並ぶ風景は跡形もなくなっていた。

 「お客さんは、いつごろまでこの町にいらしたんですか?」

 「随分前のような気がするけれど…、十年とか…」とサンサに向かった日のことを思い出しながら言った。

 「そうですか、この町が発展を始めて、もう五年以上は経ちますから、ちょうど変わる前に出られたんですね」

 それにしても何もかもが変わりすぎている。自分は未来のホクイに“いる”。視界の聞かない迷路の中をさまよう感覚と共に。なぜこの運転手は自分と会話しているのだろう。誰かの脳を借りているのだろうか。それにしても、今自分が見ている状況がほぼ実現されていくのであれば、寄生虫の問題はひとまず落ち着いているのだろうか。目の前のすべての状況が次の疑問につながっていくようで、もはや何をよりどころにしたらいいのかさえ疑わしく思える。ただ疑問を解決してくれる手がかりとして、ホクイに“いる”自分にとって、正一郎だけは信じられる存在に思えた。一刻も早くサンサに戻って、寄生虫についての情報を集めた方がいいのではないか。でも、正一郎が生きているうちに、またここに戻ることは本当にできるのか。いや、それなら時間を戻せばいいのか。幾重もの疑問が混乱を深めさせた。

 ゆっくり落ち着いて、落ち着いて、じっくり落ち着いて考えるの。揺れる舟の中で、彼女は自分に言い聞かせた。きっと大丈夫。答えはきっと見つかる。

 そのうちに、船は最も賑わっている辺りに到着したようだった。乗客たちの多くが、賑やかにステップを降り、その入場口に向かった。菜多里も人の流れに乗ってゲ-トをくぐった。周囲には人間がごったがえし、光と、色とりどりの服が交差する景色が、渾然一体となって不思議なほどにみごとな色合いを浮き上がらせている。それは視覚ばかりでなく、この場所を満たしている様々な音も同じであった。

 周囲を見渡してみると、町の案内板を見つけることができた。いくつもの施設が、テーマ別に分散しているようで、その案内板の中から自分の目的とするホブネを見つけ出すのにずいぶん時間がかかった。

 一時間も歩いただろうか。やっと、目指す乗り物の入口が見えてきた。すごい行列で、どうやら長い時間待つらしい。賑やかな学生や恋人同士、子どもづれがほとんどだったが、しばらく“眺めている”と、どうやら一人で並んでいる三十歳ほどの女と目が合った。こちらが笑いかけると、相手も笑いかけてくる。そのときだ。

グワンと、“意識”を揺さぶる力によって“菜多里”は一気に、そして、飲み込まれるように彼女の中に吸い込まれた。

 ううっ。そこには、すべての視界が開けた自分がいた。両手を眺めてみる。すると、自分のものではないが、確かに自分の肉体の一部として動いている。乗り移った…。けだるさを伴ってはいたものの、今までとは違う、人としての研ぎ澄まされた五感が備わっている。その女の肉体を、いや感覚、意識すべてを自分は今、支配している。本当に乗り移ったのだ。



20.挑戦状


 「あのおねえさん、こわい」

 そんな子どもの言葉や、怪訝な目で自分を眺める若い観光者の視線はほとんど気にならなくなってきた。あまりにも遅い歩みでも、ついに菜多里の順番はきた。隣には、十二―三歳くらいの男子が乗り込むことになった。どうやら三人乗りで、菜多里らが考案したオリジナルよりやや幅広に、全体的に大きくなっている。

 これが新しいと言っていた安全なやつね…。

 二人は真ん中の席を空けて、両端に座った。少年の横顔をちらりと横目で覗いてみると、彼もこちらをちらちらと気にしているようだった。色白のハンサムな少年だった。やわらかくウエイブした金髪が青い瞳によく似合い、瞳はどこか沈んでいるようでもあった。菜多里は話しかけようかと迷ったが、自分の席が揺れて動き始めたので、勢い前を向いた。

 確かにホブネだった。それは、ゆらゆらと暗い川を下流へと流されていく。少年は相変わらず沈んだような目で、頭をうなだれたようにしながらやや前を見つめている。

 「あなた、この乗り物は初めて?」

 菜多里は思い切って少年に声をかけた。彼はちらりとこちらに視線を投げると、そっけなく「いいえ」と答えた。

 「じゃあ、これがどんなふうになるのか知ってるんだ?」

 「ええ」

 「わたし、こんな遊園地みたいなところ初めてで、この乗り物のことも何も知らないの。どうなるか教えてくれる?」

 少年は、うっとうしそうに菜多里を見た。

 「そのわりには、随分気合を入れて並んでいたように見えたけど。おねえさん、並んでいる間、目がぎらぎらしてたよ」

 少年の言葉に、菜多里は少し赤くなった。彼は言いすぎたと思ったのか、少し口調を改めると続けた。

 「みんなはスリル満点で怖いっていうけど、ぼくは全然。この地下で舟が急流に乗っているように蛇行した後に水面に飛びだし、後はヨットレース。ほら、ここから帆が出てくる」と、真ん中の席の少し前側にある蓋をされた所を指さした。

 「それって、怖くないの?」

 「ええ、まあ」

 少年は、菜多里の方を伺うようにしてすぐに顔を前に戻した。 

 「飛び出してから、どうなると思います?」

 「さあ、どうなるのかしら?」

 「風を操る人がいて、この舟はその風に乗る。そしてレースが始まる。負ければ悔しいから、また乗るっていう感じかな」

 「ふうん、ちょっと面白そうじゃない?」

 彼女は、レースの要素が自分のホブネのときも人気があったことを思い出していた。

 「何が面白いもんか」

 「どうして、面白そうじゃない?」

 少年は、膝に乗せた手でこぶしをつくり、それをながめながら、「たった、こんなもののためにボクは家を奪われたんだ。こんな場所なんて無くなってしまえばいい」と、力を込めた。その声は、この地下を装った洞窟中に響き渡るほどだった。見ると、暗がりの中で少年の表情は崩れ、怒りをあらわにした素顔がむき出されている。

 「ねえ、本当のことを言うと私もずいぶん前にこの地区を追い出されたの。今にして思えばこの街を作るためだったのね。私の家は西栄の桜並木沿いにあったのよ」

 「えっ」

 少年は、菜多里の方を向いた。

 「あなたも、私と同じ思いなのね。この街を面白くなく思ってる。ちょっと私に考えがあるんだけど、手伝わない?ここの人たちを困らせてやるの」

 菜多里は少年に片目をつむってみせた。

 少年はぽかんとした顔で菜多里を見ていたが、すぐに「オーケー」と応じた。

 二人の順番が近づいてくる。ホブネは流れに乗って地下の一番下まで降りきったところで、今度は前方が上に向けて傾き、舟は上り始めた。登っていく傾斜が直角に近いほどきつく思えた。舟はガリガリと音をたてながらゆっくりと上方へ進み、次第に加速度を増した。暗闇の中では、その速度はまるで、大砲に込められて打ち上げられるほどにも感じた。

 次に、外に出た。五メートルか一〇メートルか、とにかく相当吹き飛ばされたような感覚で、ズンっと抵抗を感じると大きな池の上に落ちた。船の進行方向には、桟橋が、ちょうど船の向きと直角になるように横たわっている。そこがゴールのようだった。帆はすでに開いていた。両側には他の客も三組見える。どうやら同じタイミングで別の穴から落ちてきたらしい。それらの組との競争ということのようだ。皆が、ゴール目指して帆を操り始めた。

 菜多里の頭には懐かしい楽しさが満たされていく感じがした。風は後ろの方向から方物線を描くように吹いて小舟を桟橋の方に運んでいる。右手奥の方からやや乱気流が紛れ込んでいる。この風を菜多里が操るとしたら。

 「ねえ君、ちょっと派手目にいくわよ。しっかり舟につかまっててね」

 菜多里がそう言うと、「オーケー」と少年も小さな声で、しかし親指を立てて反応した。

 「それでは」

 横からの乱気流がみるみる強くなっていく。少年は何が起こるのかとじっと彼女の様子を見つめている。

 彼女はただ、空を見ながら、手で空気を小さく扇いでいた。だが、競争相手は悲鳴を上げ始めている。舟が目茶苦茶に進み出して、目的地とはぜんぜん違う岸に乗り上げたり、転覆したりしていた。

 「何をしたんですか?」

 呆気に取られていた少年は、どうにか口を開いた。

 「ふふっ、いたずらをね。これでここの風操士はクビね」と笑った。

 「どう?気持ちいいでしょう」

 「ええ、でもどうして…」

 「私は昔、この町で風操士をしていたの。こんな施設のためにじゃなく、この町の人々のためにね」

 少年の表情が変わった。

 「もしかしてあなたは、レイジさん、ですか?」

 今度は菜多里が驚いた。

 「ええ、よくご存じね」

 「すごい、やっぱりそうですか。よく父や母が話してくれました。今はふたりとももうこの世には居ませんが」

 「そう、あなたも、あのニシジに…」

 「そうです。僕も含めて家族全員がそうです」

 「じゃあ、私たちであいつをやっつけましょうよ。この風がニシジへの挑戦状よ。反撃するのは今からでも決して遅くはないわ」

 菜多里はそう言ってさらに風の力を強めた。

 「オーケー。ボス」

 少年は、やっと白い歯を見せて笑った。

 「見て」

 菜多里は辺りを指さした。見ると、大変な騒ぎになっているようだ。二人の後から飛び出してきた舟は全てが、バラバラの方向に向かって進んでおり、岸では係員たちがおろおろと走り回っている。

 「きっと、大変な騒ぎになるわよ。ふふっ。ところであなた、お名前は?」

 「亜来良あきらです。ほく以外にも、ニシジに抵抗しようとしている味方がたくさんいます。レイジさんのような人が加わってくれたら百人力です」

 二人は、菜多里が操る風に乗って誰にも気付かれないように外れの川岸まで移動すると、お互いの連絡先を交換し再会を約束しあった。亜来良は、菜多里が正一郎の家に身を寄せていることを知ると、ますます菜多里への信頼を強めたようだった。

 彼女が正一郎の家に戻ると、テレビはホブネの事故の話題で持ちきりだった。

 正一郎は、その姿を見て、「お前さんがやったんかい」と嬉しそうに言った。

 「はい。あれ、驚かれないんですか?」

 「何がじゃ?その格好のことか?」

 「私、乗り移ったようで」

 「んん、それでいい。予定通りだわい」

 菜多里に、その意味を知りたいと思うほどの気力は残っていなかった。

 「でもまだこれは序の口です。今日、亜来良という少年に会いました。正一郎さんをご存知のようでした。もしかすると訪ねてくるかもしれません。私はとりあえず、サンサに戻ってもっと情報を集めてきますから、もし彼が訪ねてきたら、彼と連絡をとっておいてください。戻ったら正一郎さんの本当の力をかしてください」

菜多里である女はそう言うなり、ベットの置いてある部屋へ向かった。

 正一郎は「やれやれ」と顔をしかめたが、何か愉快な気分になり、天井を見上げて久しぶりに大声で笑った。



21.ライカ


 奥の部屋にあるベッドの縁には、木々やリスや山や湖などが隙間なく装飾され、おそらく正一郎の仕事によるものだろうと思えた。その上には、シルクのシーツが敷かれている。彼女はさっそくその中に体を埋め、目を閉じた。

 暗い闇を意識した。光の粒が轟々と音をたてながら後ろへと流れていく。裸の自分がそこに漂い、闇の中の閃光が自由の全くきかない体の中を突き抜けていた。向こうからさらに暗い闇が迫ってくるのがわかった。逃げなくては、あそこに入ってしまってはいけない。そう喘ぎながらも、意志とは無関係に体はただ闇に身を任せることしかできない。暗い闇がみるみる迫ってくる。いずれ自分の身がそれに覆い尽くされてしまう。扇子、を探そうとしたが無駄だった。もうだめ、体が二つに引き裂かれてしまいそう。風、風がどこからか吹いてくる。この風を操ることができれば。でもだめ、操ろうと思うほど頭が痛む。ああ、目が飛び出してしまいそう。自分の力ではどうしようもない力が私を襲い、奪う。

 そこは、バーの二階にある、縁に装飾のないベッドだった。頭がひどく痛んだ。

 「戻った…のね」

 周囲が暗闇に包まれ、夢から抜け出せていない自分がいるようだ。気だるさ、胸や腹、手足までも何かに押さえつけられているように重い。平衡感覚、時間の感覚、何もかも健全に機能していない。

 手を眺め、そこにはまぎれもない自分がいた。だるさとともに痛みまである上半身をひねりながら起こし、電燈を付けた。枕元には木の球が置いてあった。見ているとまるで、さっきまでそれが自分の頭であったような幻覚が重なってくる。それからドアを開け、階下のバーへと重い足を運んだ。外の壁に付けられた螺旋階段は、手すりにしっかりつかまらなければ一歩も前に進めない。

 自分の足が地面に完全に着地したことを確認して、顔を上げた。バーのドアには「ライカ」と、菜多里にも分かる文字で店の名前が刻み込まれている。文字はドアの様子に比べるとだいぶ新しいようだ。彼女は左右に首を振り、ドアを開けた。

 「こんにちは」

 ドアに鍵はかかっていない。中はテーブルもカウンター席も客で埋まっていた。客達は彼女の方を振り向くこともなく、誰もが静かに佇んでいる。彼女は重い空気をかき分けるようにして一歩二歩と足元を確かめながらカウンターの中で黙々とカクテルを作っているサンの前に立った。

 彼は申しわけなさそうに会釈をよこした。

 「すいません、席がなくて」

 「いいの。バーボンのお湯割りをお願いします」

 彼は、濃いめの洋酒をカウンターテーブルの上にコトンと置いた。それきり、暗い部屋の中はまた静かになった。

 菜多里はグラスを眺めながら、「今は何時なのですか?」と聞いた。

 「午後八時過ぎです」

 「そうですか…」

 このバーの書き入れ時のようだ。

 「今日はあの老人は来ていないのかしら」

 「ええ、長老はまだのようですね。でもたまにしか来ませんから、今日来るかどうかは分かりません」

 「そう」

 菜多里は、別にそのことを気に止めるでもなく、カウンターの隅に肘をつき、グラスを少し傾けた。

 「今、“お帰り”ですか?」

 「はい」

 「それはお疲れではないですか?」

 彼はどこか遠くの方に笑いかけるように話した。

 「私の行ったところが随分時間が経ってしまっていて、それでなんとなく急がなくちゃならないように思えて」

 「菜多里さん、とお呼びしてもいいでしょうか?時間が経ってしまっているって、どういうことですか?」

 「何年か、そう、私がホクイを離れてこの町に来てから十年も先のホクイに行ってしまったようなんです」

 「え、本当に?」とサンは身を乗り出した。

 「ええ、本当だと思います。向こうの町にいる正一郎ヨコタさん、このサンサともつながりのある人ですが、彼がそう言っていましたし」

 話し声が店内に響いたのだろう、どの客もがこちらを見ていることに気付いた。

 「十年後のホクイだって、どうなってたかね、寄生虫で死人がいっぱい出てるってことはなかったかね」と誰かが言った。

 菜多里は相手の方を振り向き、「いいえ、その様子はあまりなくて、町がどんどん開発されてすごく変わってしまって、人の往来も以前とは考えられないほど多くなっているのですが、そのような噂は聞こえてきませんでした。そのヨコタさんも病気のことについては知りませんでしたし」

 「んん、そうかね」

 そしてまた店は静かになった。口を開いたのはサンだった。

 「十年も経ってホクイに届いている気配がないとすると、伝染病としては世界的なものにならずに終息したのでしょうか?そうであればありがたいことですが…」

 「いや違うだろうよ」と誰かが言った。

 「うちの町は、今や人口の一割が減ってしまったが、そうなったのは最近の一年くらいで、それまでは長い間、毎年せいぜい十人ほどが感染による死と報告されていた程度なんだよ。それがある日突然増えたって感じで襲ってきた。だからあんたのところもそのうち来るんじゃないかな。まあ、十年後にいい特効薬が見つかっていたら別なんだろうが」

 「あの」とサンが口をはさんだ。

 「あの、さきほど菜多里さんのおっしゃられていた、そのヨコタさんが、風操士について何か話していませんでしたか?」

 「と言いますと?」

 「うまく説明できないのですが、彼がこの町に来ていたことは、実は私も知っていました。ここの木を使って球のようなものを作っていかれたんです。長老が言っていました。彼は、ずいぶん前にもここに来て、このサンサの木でいくつかの扇子を作ったと。それは特別なもので、特別な風操士によってさまざまな風を作り出すことができるということでした」

 「これのことですね」と菜多里は内ポッケからそれを差し出して見せた。

 「すごい、あなたがお持ちでしたか!」

店の誰もが身を乗り出すようにして扇子に目を向けた。彼女もテーブル席の方にそれをかざした。

 「そうでしたか、あなたはホクイではなく、サイタの風操士でしたか。しかもレイジ家の」

 「うちのことをご存じなんですか?」

 「はい、ここにいる人たちは皆知っていると思います。レイジ家やヨコタ家のことでしたら。何せサンサに長期間いらした人ですし、ここの木を使うことを許された人たちですから。直接お会いしていなくても、長老からいろいろ教えていただく話の一つです」

 菜多里は不思議そうにサンの言葉を伺っていた。

 「そしてまたレイジ家の人が来るということは、いったい?」

 「戦争かね」と誰かが言うと、

 「何か寄生虫の話と関係があるじゃないかしら」とカウンターに近いテーブル席に座っていた中年の女が続けた。

 菜多里は再び店の中の様子を見渡した。

 「みんな情報を待っているんです」

 「それは分かるけど。私やヨコタさんがいることが、戦争や寄生虫に関係するのですか?」

 「いえいえ、そうとは言えませんが、風操士はやはり戦争と関係してきた歴史がありますから、関連付けて考えるのも無理はないかもしれません。レイジ家はかつて、力のある風操士と協力して、戦争に発展しかねない武器を封印し、世界の戦争を抑止するための力を与えました。ヨコタ家は、逆に、その破壊的力を広めようと考えたのですが、正一郎さんの時代にはサンサと協力して世界を守ろうとした」

 「圧筒の話かしら?」

 「そのこともあります。圧筒を使って強力な破壊風に変える技術が、もしタイトに伝わりでもしていたら、間違いなく戦争が引き起こされていました」

サンが言うと、テーブル席の奥の方で席を立った一人が二人の方に近づいてきた。サンはその若い男に席を促した。

 「私はタイトから来たジセムと申します。さっきからあなたたちの話を聞かせてもらっていました。タイトの話を少しさせてもらってもいいですか?」とテーブル席の向こうにも聞こえるように椅子を斜め後ろに向けた。

 「タイトが好戦的で、北の圏域で領地を広げているのはご存知の通りです。あの町は、十年も前に、新しい力を求めてさまざまな研究を始めました。最大の目的は大風に影響を与えるほどの圧筒の開発で、そのためにサイタの技術者をたくさん連れてきました。聞いた話ですが、彼らは奴隷のように扱われていたようです。大風を操りながら、とんでもない威力の圧筒のような設備を作るために、それまでサイタで見てきたこと、知っていることを全部言わされ、逆らう人には拷問のようなことまでしていたようです。世界に知られないよう、わざと手紙を何通か家族宛てにも出させて時間を稼ぎながら、圧筒と言いますか、もうそんな言葉では表現できないほど山のように大きく不気味な設備を造り上げていきました」

 「サイタはそれでなくなったようなもの…」と菜多里が口をはさんだ。

 「ええ、今ここにいる人はみんな、そのことも、二十人のサイタの風操士のことも知っています。サイタだけではなくて世界中の大風が狂い始めて、今までの生活が成り立たなくなってしまった人々も大勢います。各地の風操士はなんとか自分の町の安定を取り戻そうと頑張ってもいますが」

 「でもどうして大風なんですか?」と菜多里が聞いた。

 「他の町を混乱させるのが目的でしょう。大風をうまく操れれば、どうも破壊風を作る道具としてその巨大圧筒を利用することができるようなんです。もちろん大風に影響を与えるほどの設備ですから、もし破壊風として利用されたら、小さな町など一発で吹き飛ばされてしまうでしょう。へたをしたら一つの圏域が壊滅的な被害を受けることにもなりかねません」

 「だから戦争になると。それにレイジ家や正一郎さんと何の関係が?」と菜多里が言った。

 「かもしれないということです。もし本当にタイトがそんな行動に出たら、戦争は避けられないかもしれない。サイタで封印されたという破壊風の技術を解けと、それを知るごく一部の人から声が出ているほどです。もしそんなことにでもなったら、ヨコタさんの技術が必要になるでしょう。そしてあなたたちサイタの風操士も…」

 「そういう意味では、タイトと全面的に戦争という話でもないのかもしれませんね」と言ったのはサンだった。

 「サイタの破壊風は封印されても、その技術を見てきた人たちの情報から破壊風に近い風を作り出すことが可能だと考えても不思議はありません。しかし、タイトに対抗する方法がサイタの破壊風なら、このサンサに来るべき人々も今とは違ったのではないかと思うんですよ。もっと政治的というか、いずれにしてしてもそんな破壊風どうしがぶつかり合ったら、その辺り一帯は何も無くなってしまうでしょうし、今ここに来ている人々は、私も含めてですが、例の病気の問題を多く抱えている方がほとんどのようですし」


 サンの言っている通りなのかもしれない。とにかく自分と関わりのあることが起きていることは間違いなさそうだ。“現時点”の正一郎は何を考えているのだろうか。彼女の脳波が向かった時代の彼の容体を考えると気持ちが焦ってもくる。

 「そう、サンさん、あなたに話があって来たの」

 「ええ」

 彼は少し苦笑いを浮かべると、「何でもどうぞ」と受けた。

 「あの、あなたの町で流行している病気のことなんだけど、かなり他の町にも広まっているの?」

 「ええ」

 彼は少し考えるように菜多里の顔を見上げ、

 「かなり危険な状況にあると言ってよさそうです」と言った。


 「前にも言ったかと思いますが、あの病気は成虫が人間の体に取りつくと、そこで卵がかえり幼虫が大きくなった頃に毒素を吐くのが原因のようです。成虫でも肉眼ではほぼ確認できないほどの大きさのようですから、注意すると言ってもなかなか難しいですし。しかも数匹では発病する可能性が少ないという見方もあるようですから、大変な勢いで世界中に広まることもないんでしょうが、一年とか数カ月間は発病しないキャリアが何人もいて、ある日突然のように発病しはじめ、どんどん周辺にも広がっていく。近くで一人発見されたら、その時は周辺に住む複数の人間がすでにキャリアだと思って間違いありません。私の町も、これからどれだけ被害が広がるか」

 「長老さんは、何と言っているんですか?」

 「今言った話より先はまだ何もお答えしてくださっていません」

 二人は、店のなかにいる客と同じように、そのまま黙りこんでしまった。菜多里は時間が過ぎていくのを見守りながら、グラスの氷を鳴らして待った。二杯目の水割りが空くころ、ようやく長老がやってきた。サンは、菜多里の方に向かって歩いてくる老いた男に付き添い、彼が目的の席にたどり着くのを注意深く見守った。カウンターの向かって一番左角の席がそれだった。すぐ脇に通用口があり、サンがそこから飲み物や食べ物を運ぶために行き来する。老人は何十年も、もしかしたら百年以上も、その席と決めているのかもしれなかった。

 長老の指定席に座っていた客はいつのまにか移動しており、そこに彼はゆっくりと腰を掛けた。誰もが一言も口を聞かずに彼を見ていた。長老も黙ったまま、サンが用意した洋酒を、猫背のままじっと見ている。沈黙が続いた。太く黒い時計の針は、夜の九時を回りかけている。


 「サン」

 長老は言った。

 「今日は一段と冷える」

 「はい。冷えますね」

 「皆おそろいですか?」

 「はい」

 「今日は新しい話を持ってきました」

 菜多里も、そのほかの客も、じっと長老の言葉に耳を傾けている。

 「あの虫のことだが、あれは別に悪いものではない。昔から山の中に住んでいて植物と共存していた。成虫は土の匂いが分かるらしい。モグラとか野ネズミとか昆虫もそうだが、土の中を生活の場所にしている動物を選んで卵を産みつける。幼虫が育つと宿主の体を飛び出して土の中で蛹になり、成虫も土の中で暮らし続ける。卵を生むころになると土の中を活発に移動して、何らかの動物に寄生する」


 「人間も土を掘り返し始めた…」

 菜多里は思わず口を挟んだ。

 「うむ」

 老人が菜多里をちらりと覗く。「人間もモグラなんかと同じ仲間にみられた。ただそういった動物と人間の違うところは、地下の生活の長さと関連がありそうです」

 「どういうことですか?」

 今度は少し白髪のまじった別の客が聞いてきた。

 「そこから先は、まだ分かりません。ただ地下の中で暮らし続ける人間はいないでしょう」

 そういうと老人は、特注らしい洋酒を飲み干し、席を発った。サンはすぐに彼に付き添って外まで送り、客もお互い目で合図をするようにして次々に席から離れた。


 「みなさんはこれからどうするんですか?」

 菜多里はサンに聞いた。

 「そうですね、まだ何もすることはないと思います。何人かは、今の話を元の町に伝えに帰るのだとは思います。木球の数は限られていますが、いつか今の話をもとに、どこかの町で何かいい情報が集められるかもしれません。そこで得られた新しい情報がまたここにもたらされるはずです。そう、先ほど外で長老があなたには伝えておいてくれと言っていたのですが、サイタの風操士を何名かここに呼んだそうです」

 菜多里は驚いて一瞬言葉を失った。

 「おそらくは世界に散らばった二十名の風操士でしょう。例の、とおっしゃってもいましたので」

 「そう、ですか。何か、私にできることって?」

 「今は休んだ方がいいと思います。ホクイには戻らず」


 疲れていることは自分でもよくわかった。体が重く、ベッドに座るのがやっとだ。暗い部屋のテーブルの上には、木球が置かれていた。あんなものが私を未来のホクイへと運んでいく。今では本当のことだと思えるようになっていても、納得できているわけではない。正一郎は本当にあれほど衰弱してしまうのだろうか。そういえば、クワア、エンジら正一郎の連れたちはどこに行ってしまったのだろう。何かが劇的に変わってしまっている。たとえ仕方がないことだとしても、えっ、もしかしたら正一郎があの病気にかかっていたとしたら。もしそうだとしたら伝えなければ。今サンサに帰って来たばかりで、また行くことができるのだろうか。

 秒針の音が部屋を満たしている。正一郎はたしか、ホクイに行く“時”を調整してくれると話していたはずだ。しかし、今まで経験したこともない疲れを伴う移動に耐えられるのだろうか。脳波だけなら、なぜ全身の筋肉が傷めつけられているのだろう。筋肉が一気に収縮し、引き裂かれるような感覚は何なのだろう。正一郎の身にも同じようなことが起きているとしたら…、彼の命を危険にさらすことになるかもしれない。

 次の行動が見当たらないまま、彼女はベッドに横になり、目を閉じた。


 「菜多里さん、起きんかの」

 遠い意識のかなたからおぼろげに声が聞こえてくる。声の主は正一郎のはずだ。いけない、間違ってあの球に触れてしまったのかしら。あの闇が近づいてくる。その中には、布団に病身を伏せている正一郎の姿が見える。前に見た時よりも顔色が悪くなっているようだ。

 「やはり、あの病気は世界中に広がる危険があるようです」

 訴えかける菜多里の声に、正一郎はもはや言葉を返す力も無くなったように黙っている。そして渦の中に巻き込まれていく枯葉のように闇の中へと消えて行った。彼女はしばらくして目を覚ました。

部屋は、サンサのものだった。前にホクイに“行った”後の疲労感はなく、むしろ体はずいぶん軽くなっている。テーブルに目を移すと、木の球は同じ場所に置かれていた。

 「行ってみよう、もう一度」

 どこに着こうと、正一郎の体力をそれが蝕んでしまう物だとしても、彼に会わなければならない。会えるチャンスはこれから何度あるのかもわからないが、体力の回復は、自分の行動を容認するもののように思えた。彼女は額を木球に付けてみた。


 そして、すぐに変化は起きた。

「おう、来たかの。ちょうど一服しようと思っとったところですわ」

場所は、ホクイの正一郎の家の作業場だった。

 「あの、この時代は?」とすぐに菜多里は目の前で丸椅子に腰を掛けている彼に話かけた。

 「ここは、“十年前”ですわい」

 「と言うことは、戻ったのですか?」

 嬉しそうな菜多里の顔を前に、正一郎はキセルに火を点け、優しい目を向けた。

 「そう、あんたが十年後のこちらに“戻って”きたと聞いて、少しアンテナをいじってみた。どうやらうまくいったようですな」

 「本当にそんなことができるんですね。えっ、でも、十年後のことを今の正一郎さんが知っているんですか?」

 「はは、確かに。今のあんたの頭の中にあるじゃろ、その時の記憶が。それをちょっと拝借したんで、今と十年後の区別ができておるんですよ。十年後のわしがアンテナを少しいじって、あの時にはいかないようにしてみたんですわい。向こうが行き止まりなら、こっちに来ないかと思ってな。もともと“こちら“に来るはずの設計だから、うまく流れて来てくれたわい」


 そんなことって、と言いかけて彼女は言葉を飲み込んだ。

 「本当に良かったです、だって、あなたは十年後は」

 言葉を詰まらせる菜多里に、正一郎は、

 「それも分かっておる。体の具合がすぐれないのじゃろう。それも何とかせねばならんかの」

 明るくふるまう作業着姿の相手を見ていると、頭の奥の重しがスルッと抜き取られたように気分が軽くなった。彼女は、一呼吸おいて話し始めた。

 「その、私が戻ってからのサンサのことなんですが。今いる人たちが集まって、例の病気のことを相談していたんです。今のところは、この町からずっと北西になるのだと思いますが、そこで病人が日に日に増えています。ただ、その町からずっと離れた所でも、同じ病気の人が出たようなんです。それで、サンサでは夜中に人が集まって相談していました」


 「あのバーに集まって、かの?」

 正一郎は、また笑みを浮かべて言った。

 「はい」

 「それでなんて?」

 「話はほとんどしなかったので、いま言ったことがほとんど全てなのですが、あとは、あの長老さんがちょっと変わったことを言っていました」

天井に向かう煙の行方を追う正一郎に向かい、彼女は続けた。

 「なんでも、寄生虫がもともと寄生していたのはモグラとかネズミとか、地下に住んでいる動物なんだそうです。そういう地下でずっと生活している動物では発病しないとも。人間は、地下に多くの資源や宝石を求めているうちに地下に居る時間が長くなり、それが病気に関係するように私には聞こえました」

虫が部屋の裸電球に何度もぶつかっている。カチッ、カチッと音を立てて、床に落ちそうになってはまた電球に向かってフラフラと突進していく。風がさっと抜け、夕暮れが近づいていた。虫は決して諦めずに、何度も何度も電球に向かっていく。正一郎は口を開いた。

 「知り合いの医者がおる。奴の専門はそういう細菌とかの関係じゃから、今のようなことに詳しいはずじゃよ。奴もアンテナを使えるようにしておくから、行って相談してみるとよい。わしの知り合いだと知れば良くしてくれるわい」と、何かを考えるように言った。

 「もちろんニシジにはバレんようにの。いいの。さっそく、いま言った通りにしてその病院に行って来るがよい。奴の名前はサクラダと言いますわい」

 「ありがとうございます」

 その病院に向かう視野が広い。そのことは正一郎のエリアを抜けるとなおはっきりした。あちこち分散してしか映らなかった景色は、ある程度くっきりと面で入ってくる。そこには菜多里が暮らしていた頃の景色がまた残っていた。

 病院は、「ホブネ」エリアにもそう遠くはないところにあった。彼女はニシジを警戒してホブネの辺りは避け、遠回りして向かった。彼女が以前働いていた場所には、別の風操士がいるのだろう。

 菜多里は病院に入り、受付に座っている女を確認した。その先、どうすればサクラダに会えるのかがわからない。女に聞いてみてもいいのだろうか、と思い話しかけてみたが、自分に気付く気配はなかった。受付から周囲を見渡すと、視界が開けている通路は一ヵ所だけだ。その方面に進んでみることにして、汚れの染みついた壁の行き当りのドアを開けた。そこは中庭の渡り廊下で、向こう側の棟に続いている。左側の下りの傾斜の先には、小さな花壇越しに川が見えた。菜多里は渡り廊下をそれ、土手を小走りに下り、川岸まで行って、そこに敷き詰めてある小石を見つめた。川石のようだったが、どれもこれも光を照り返すほどの輝きは失せ、黒く煤けている。向こうの小石もその向こうの小石もすべてが同じようだ。まるでサンサとこの町を行き来するときの闇のように暗く、重々しい小石の広がりは、まだまだどこまでも続いている。彼女は闇に嗅覚を奪われた獣のように、ただ光を求めて歩いた。いつの間にか明るい光に彩られた何かの施設に出くわしたようだ。ホブネを使った、あの施設とは違う。

 水場が桟橋で覆われ、象やキリンなどの動物の形をした乗り物が、人を乗せてクルクル回る遊具が置かれていた。周囲には動物の着ぐるみを来た人が、賑やかな音楽に合わせ踊っている。

 遊園地のようだ。時計台を見上げると、もう夜になろうとしている。彼女は急いで病院に戻り、渡り廊下の向こうの棟の扉を開いた。



22.サクラダ


 これに座って待っていてくださいと声が聞こえてきそうなほど、ドアの脇の二つのくぼみを残した緑色のビニール張りの長椅子がはっきりと映し出されている。

 菜多里は黙って視界に従った。当直用らしい部屋と廊下をつなぐ小窓の上には、丸い大きな針時計がかけられ、時間という現実が逆に不毛なものであると訴えるように時を刻む音を立てている。ぼんやりとサンサのことを考えてみる。するとスリッパが階段を降りてくる音が、秒針の安定したリズムを乱した。


 「サクラダさん、ですか?」

 目の前に来たまだ三十代半ばに見える若い白衣を着た男に、彼女は静かに話かけてみた。しかし返事はない。男はソファの一つのくぼみに腰を掛け、視線は空を切ったままだ。

 「サクラダ先生ですね?」ともう一度声をかけてみる。

男は、答える代りに「本当に聞こえる、不思議なものだ。すみません、私の横のソファのくぼみに座っていただけませんか」と手招きする。向かい側に立つ菜多里の腹部あたりに声をかけているところを見ると自分の姿は認識されていないらしい。菜多里は声にしたがってソファに注意深く座ってみる。

 「どうも初めての経験なもので慣れなくて。正一郎さんから先ほど連絡が入りましてね。木球を傍に置いて目をつぶってくれって。それであなたと会えるからと。半信半疑でやってみたら、見えるんです、目をつぶっているにも関わらず、ドアとかこのソファとか、一部だけが明るく。そして視界に従って来てみたらここであなたの声がしたので、正一郎さんに言われた通りに座ってみた。あなたとチューニングを合わせられるというのでね。でも本当にこんなことがあるというのはまだ信じられないですが…」

 「木球が先生のところにもあるんですか?」

 「ええ、我々の仲間に正一郎さんが渡しているんです。でもまさかこんなことに使うとは思わなかった。だって彼は、これを門とか、悪い空気を浄化するものとか言ってましたから」


 時計のリズムが耳に戻ってきたころ、サクラダは「私の部屋に来てください」と立ち上がった。

 サクラダは自分が前になって先ほど降りてきた階段を戻っていく。二階まで上り、薄暗い廊下を突き当たりまで歩く。廊下を歩いていると、昔通った学校の木造校舎を思い起こさせた。

 「ここが私の研究室です」

 サクラダは、廊下の突き当たり左側にあるドアの前に立ち、重そうな鍵をそのドアに差し込んでガチャリと一気に右方向に回し、木製のドアをきしみ音とともに開けた。本人は深い水の底に向かって泳いでいく魚のように姿を消し、代わりにドアの向こうからまた少し様子の違うサクラダが現れた。


 「さあ、どうぞ。文献やら書類やらが散らかっていてかなりむさ苦しいところですが」

と、研究室と呼ばれる部屋の隅に置いてあったパイプ製の椅子を差し出し、たたずむ菜多里に、彼は「今の私は本物ですよ」と笑顔を向ける。

 そうか、何か違うと感じたのは透明さだと気付いた。

 「正一郎さんから教えてもらった方法を使って見ています。今はあなたの脳波に、私の脳の中にも来ていただいたはずです。あなたは私を“見て”、その見ているあなたの“意識”を私も自分の中で共有させていただいているんです。なんだか自分が二人いるようです」

 どこまでが脳波でどこからがリアルなのか、菜多里にとってはどちらでもよかった。そこは正一郎のやり方に任せておいて構わないだろう。

 笑顔を向けるサクラダは、コンピューターやコピー機などに取り囲まれている椅子に腰をかけ、背もたれにもたれながら、改めて菜多里の顔を見た。


 「正一郎さんにはいろいろとお世話になってましてね。昔から。あの人と付き合っていると、どうも普通の感覚では理解できないことに出くわす。今のこのこともそうですし、将来の話が出てきたり、変な鳥が出てきたりとか…。ただ、そこにはおそらく矛盾は見あたらない。だからついひき込まれてしまう。そこが魅力とでも言うんでしょうか」

 「正一郎さんとは、どういうお付き合いなのですか?」と菜多里が聞いた。

 「知り合ったのは町の酒場です。正一郎さんは、私が一人で飲んでいたカウンターの隣に腰掛けていて、まあよくある話ですが、彼の方から声をかけてきたんです。それから、かれこれもう十年近くになるでしょうか。ただ、最近は表向きに付き合いは全くないことになっていますが…」

 彼は菜多里の方に少し体を傾けると、声を落として続けた。

 「ここだけの話ですが、彼と私は、ある意味で同志なんです。この町の崩壊を食い止めるためのね。私は、以前から今の首長のニシジを許せないと思ってました。ホクイの見た目がきれいになっていく一方で、確実に何かが壊れていっている。正一郎さんはこの町の変化のことを崩壊と言っています。そして正一郎さんは、それを解決する方法があると言っています。そこから先は不思議な話ですが…。しかし、まあ信じてみようと思わせる何か不思議なことが実際に起きたりして、現実主義の私としたことがここまではまっているという感じですか」

と、自分に呆れた様子で後頭部を掻いてみせながら立ち上がると、研究室の隅の小さい冷蔵庫から冷えた缶ジュ-スを持ってきて胃に流し込んだ。その感覚は脳波を逆流して菜多里にも伝わってきた。

 「不思議ですね。正一郎さんの紹介とはいえ、初めからこんなことを話してしまうなんて。まあ今は脳波がつながって一心同体ですが」

 「別の町というのは、サンサという名前ではありませんでしたか?」

 サクラダが一瞬驚いた顔をしたが、「そうです。正一郎さんから、もう話を聞いているんですね」と、淡白にこたえてみせた。

 「そうではないのです。私が今、その町にいるのです」

 彼は目を見開き、ポカンと口を半開きにしたまま、空を見つめた。

 「また、冗談を」

 「正一郎さんのおっしゃっていたことは、全部本当のことです。サンサという町があって、そこに問題を解決できる鍵が、おそらくあると思います。今は、私が、その町に行っています。私は今、すぐにでもそこへ戻ることができます。

私も始めは何がなんだかさっぱり理解できませんでした。しかし、今は、この町とサンサの町を行き来して、それが本当に現実に起きていることだと信じる気になっています。今この状況も含めて」

 じっと腕組みしたままの相手の表情を上目遣いに見上げると、彼女はさらに話を続けた。

 「私が今日この病院に来たのは、この町のためだということは、察していただけると思います」

 「だいたいのことは正一郎さんから聞いていますから」

 「先生、いま世界中で寄生虫が原因と思われる病気が広がり始めているんです」

 サクラダはさらに顔を上げた。

 「いいでしょう。あなたを信用して、どんな病気か教えていただけますか」と、腕組みを解いた。

 菜多里はひとつ頷き、「初めてその病気が確認されたのは、ここからずっと北西の方にある、ドナイという地域です。サンサにはそこの青年が来ています。寄生虫が原因だとは分かっているようなのですが、その地域では治療法が発見されていないようです…」

 菜多里はサクラダに病気の発端から病状の詳細、分布状況などの知りうる限りの情報を説明していった。若い医者は、彼女の話が終わるまで一度も口を開くことなく、再び腕組みをした姿でずっと聞き役に回っていた。

 話が終ってもしばらく沈黙が続いた。両者とも黙ったまま床を見ている。窓から差し込んできた西日が、入口のドアを赤い色で照らし始め、遠くから聞こえるビルの建築工事の音も少し勢いを弱めている。夕刻が近づいていた。


 「いかがでしょうか?」と菜多里は沈黙を破った。

 「今、ずっとその寄生虫のことを考えていました。病気が起こる環境や病状、感染の広がる速度。どれを取ってみても、珍しいケースに思えます。そんなことが本当にあるのでしょうか。だったら怖い話だ」と、自分の座っている椅子を一八〇度回転させ、机に向き直った。

 「ちょっと、これを見てください」

 彼は、目の前にある大きなワークステーションの電源を入れ、何かのネットワークに接続すると、過去の病歴リストを引っ張りだした。そして、項目を四つほど入力して検索し、抽出された病歴を画面上に呼び出した。

 「似たようなケースを引っ張りだしてみました。まずこの人。二十八歳の白人の男性で、この町の出身のようです。彼は、原因不明の病気で、発病から三日で死亡しました。ここから二〇〇キロほど南にある孤島に町からの特命で視察に出かけた時に、何かの生物と接触したのが原因と思われます。ここを見てください」と、画面の書類に添付されている写真を拡大し、そこに映し出された首の付け根を指さした。

 「大きく、真っ赤に腫れ上がっているでしょう。彼が死ぬ前日の写真です。死亡した日は、この二倍位の大きさになっていたと報告されています。死んですぐ、この腫れは引きましたが、膿の中を調べてみると何かの微生物らしきものがいくつか残っていたようです。ものすごく小さいですね、ここに書いてあるように一つひとつは百分の一ミリもない」

 次に、彼が開いたケースは白人の若い女性だった。

 「彼女は当時十九歳。北の圏域にある町の出身です。彼女は、島ではなく、赤道直下の熱帯雨林のジャングルに行った時に病気にかかったようです。現地にはまともな医療設備もなく、発病してやはり三日ほどで命を落としたそうです。彼女は、太股の」

 と言って画面の写真を指さし、

 「ほらここ、ここを何らかの生き物に刺されたとみられています。先程見せた男性と同じでひどい腫れでしょう。直径で約二〇センチほどですね。膿んだ部分の奥行きは四センチにも達していたそうです」

 菜多里は、急に寄生虫の存在が現実のものとして迫ってくるのを感じ、ごくりと唾を飲みこむ感覚を持った。

 「この二人、私の言った病気なのですか?」

 「わかりません。二人とも原因が明らかになっていませんし、あなたの言っている病気も、今ある情報だけで判断するのはかなり困難です。だが、共通している部分は多いと思われる」と言いながら、今度は別の画面を開いて何か指示すると、紙が印刷されて出てきた。

 サクラダは資料をテーブルの上にのせ、続けた。

 「これを見てください。二人の行った場所の地図と、現地の航空写真です。二人は何をしに行ったか。目的の違いはあるが、男性の方は海に孤立したスイラという島での地下資源の調査、女性の方は発掘です。彼女は大学の論文を作成するために、資源採掘が行われている森の中に入っていったんだそうです。かわいそうに」

 「この二人が感染した二ヶ所とも、あまり文明の開けた土地ではありませんが、結構昔から、人が入っていたことは確かです。何故、この今になって浮上してきたのか。寄生虫自体が、地底とかに生息していたとしても、でもどうして今なのか…」

 「世界中に病原が存在しているということも考えられるのですか?」

 菜多里はサクラダの目を見つめ、サクラダはその視線を感じた。

 「わかりません。何か今そんなことが、この寄生虫の話をきいてふと頭に浮かんだんです。もしかしたらそんなことがあるのかもしれないと。でもこの島にだけ生息しているということだって考えられます」

 サクラダはそこで言葉を切ると、ぐっとジュ-スを飲み干して、空の器を机の上に置いた。

 「これもあくまでも私の推測ですが、その寄生虫は今まで接触した人間には害を及ぼさず、何故か、長い時代を経てから、人間に害のある形で取りついた。もしかすると現代の人間自体に何か決定的な変化があって、その寄生虫の力に抵抗できなくなったとか」

 サクラダはそれから黙って考え込んだ。菜多里はサクラダの言葉を待った。

 「本当なのかどうか、まったく確証はありません。でも、そんな気がするということです」

 菜多里は頷いた。

 「そうかもしれませんね。今伺ったお話、サンサに戻って、皆に伝えてみます。もしかすると、長老の頭の中で、どれかに結びつくかもしれませんし。それから他にも世界で似たような報告があるんでしょうか?」

 「私の知りうる限りで具体的な報告があったのはこの二件ですが、実態はわかりません。それを担当した医師や医療機関によって、判断も管理の仕方も違いますし。この二件のように詳細に真実を残しているものの方が少ないでしょう。私の方でも、もう少し、医者仲間から情報を集めてみます。もしかすると、もうこの町でも死亡者が出ているのかもしれませんし」

 くすんだ色の壁に懸けられている針時計が、オルゴール音で夜の八時を知らせた。

 菜多里は我に返ったように「ありがとうございました」とサクラダに“一礼”し、急ぎ”立ち上がった”。

 「私はあの町に戻ります。そして、今のサクラダさんのお話を伝えてみます。そして、また報告しに伺います」

 「もう私たちは同志ですよね?」

 サクラダはそう言って空に大きな笑顔を向けた。

 「ありがとうございます」

 サクラダの頭の中から脳が引きちぎられるような感覚とともに、菜多里のイメージも消えてなくなった。



23.脳波


 丘から見ると大きな湖の上に取り残された小舟のように、小さな町は静まりかえっている。菜多里は、正一郎の家に向かった。脳波がくつろいでいるなどということがあるのだろうか。サンサに行ってから、二つの地域を行き来し、急かされるように動かざるを得なかった自分が、サクラダから“抜け出た”今だけは、さわやかで開放的な感覚だ。もしかすると彼の脳波が自分のそれに作用したのかもしれない。そんなことがあるのだろうか?

 そんなことを明るく感じながら、夜の川岸を”歩く”ことは楽しかった。心地よい作用によるものなのだろうか、心のようなものが菜多里をエスコートしてくれているように、コンクリートタイル畳の上をゆっくり導かれて進むことができた。

 しばらくすると、正一郎の住む町並みが現れ、すぐに門扉の前に立ち止まった。

 サンサから戻ったら、また連絡をいただけますか。私も出来る限りの情報を集めておきますから。長老さんによろしくという声、笑顔でうなずき、再会を約束して、玄関へと向かって行く自分。くつろいだ気分はサクラダも同じだろうか。正一郎の家の近くは、サンサにも、ホクイにもない温もりのような空気を携えている。脳波だけでこんな感覚が得られることなどあるのだろうか。あるいは肉体からでは決して得られることのない感覚なのだろうか。門から玄関に向かう。菜多里の充足感は、もしかりに不穏な波長が紛れ込んでいたとしても、油断するのに十分な陶酔を与えていた。

 正一郎の家の玄関から奥の客間に移り、ベッド傍の木球に目をやる。耳鳴りと共に意識が遠のく感覚は、もう安心感にさえ近い。そのあと必ず訪れるはずの闇の世界は、とにかく気にしないように努めればいい。そうすれば無事にサンサに戻れるはずだ。今の記憶とともに。そして…。


 サイドテーブルにうつ伏せた頭を持ち上げようとしたらひどく傷んだ。キルティングのベッドカバーで、自分の覚醒した場所があのバーの二階の部屋だとわかった。ひとまず安心だ。部屋は薄暗く、それでも時計は午前九時を差している。頭をゆすりながらカ-テンを開けてみると、眼を差すような強い光が辺り一面に照らしつけていることに目を見張った。窓の下には、朝の太陽に照らされたレンガ作りの町並みの一角がはっきりと描きだされている。

 こんなにきれいな所だったんだ。薄いカ-ディガンをはおり、螺旋階段を降りて外の土を踏む。深呼吸をすると、透き通った空気が肺の中へとどんどん染み込んでいくようだ。一日で咲いたのだろうか?白く小さい花々に覆われた土手は、川岸をいっそう眩しく映している。彼女の足はブランコのように軽く、途中で何色にも色を変えて流れる川の水を掌にすくい、草の上に腰をおろしてみた。足の長い金色をした鳥が二羽、対岸を歩いている。川の水は氷ほどに冷たかったが、草の上では、心地よい朝の太陽の温もりが皮膚の細胞の間を抜けて染み込んでくる。疲れは以前ほど感じてはいない。慣れのせいか、時代が正しかったせいか、サクラダのおかげか。太陽と空気をたくさん吸収しながら、子供の時、母親に寄り添ったような幸せを、ほんの少しでいいから感じていたいと思った。

 「この川は、あの山に積もる雪が溶けて、ここまで流れ込んでいるんです」

長老だった。太陽の下で見ると、いつもよりも若く見える。彼はそばに腰を下ろし、真っ直ぐに川を見つめたまま、「きれいな水でしょう」と小石を一つ、川に向かって放った。川の流れが急なために、波紋はすぐに流れに混ざって消えた。

 「そうですね」と、菜多里は小石が落ちた辺りをずっと眺めながら言った。

 「どうでしたね、あの町では。何か変わりはありましたかね?」

 「あなたは何でもご存知なのではないのですか?」

 「自分たちのことは、自分たちで解決するしかないのです。ヨコタさんもそうしてきました。わたしは、あなたたちのやっている事に、ほんの少しの助けしかできません」

 「そうですか…」

 菜多里は、消えてしまった波紋を惜しむかのようにまだ目をとどめている。

 「『真印』と呼ばれる印のことをご存知ですか?」

 菜多里は黙ったまま首を横に振った。

 「その印が刻まれたものがこの世界に四つあります。どれも、このサンサのことを知るホクイの職人が刻んだものです。一つは、ヨコタさんによるもので、今もホクイにあります。ホクイの風をこれ以上おかしくしたくないと、四つ目となる真印の付いた臼を作りました」

彼女は顔を上げて長老を見ている。

 「真印は、あなたが持つ扇子と同じようにサンサとつながり、水や空気が通じている。この水もそう。かつて、ホクイの空気に大きな変化が起きたとき、真印の付いた臼が要山から持ち去られました。しかし、以前と同じように、彼らの木芸を満足させる木は育ち続けた。そこまでは良かった。ところが、ホクイに新しい風操士を迎えることで、要山に以前のような風が吹かなくなると悟り、それを掘ったのです。本当はもう、真印を与えたくはなかった」

 「あなたが与える、のですか?」

 「大風を守るためにそうしていました。ところが圧筒というものは、その真印の風と強く反応してしまう。そのときにとても危険なことが起こってしまった。ただ、ヨコタさんはそのことを全部承知して、新しい真印がほしいと言ってきた。私は彼を信用しています」

 話はそこで終わった。

 しばらく川底を探っているような横顔をときどきのぞきながら、彼女は病院でのことを話し始めた。長老は、川面を見つめながら菜多里の話をじっと最後まで聞いていた。

 「わかりました。今夜は、サンのところに行くことにしましょう。あなたもいらっしゃい」

 菜多里はしばらく同じ場所で川の流れを眺めていたが、自分の部屋で少し休んだ。横になってしまうと、またあの町に戻ってしまうかもしれないとも思いながらも、すぐに眠りに落ちた。それは彼女の身体と心に澱のようにたまっていた疲れを少しずつ溶かし出し、浄化していってくれるような眠りだった。

 

 夢を見た。正一郎が、家の玄関から門に向かってずんずん歩いてくる。両手を門扉にかけ、外側の道に向けて勢いよく開け放つ。すると庭の方々から光がたくさん溢れ、開かれた門扉を通り抜け、町に広がり、空からも降り注ぐ。天を仰ぐ人々、光の粒でうっすらと化粧された平屋の屋根、小さな広場。広場では、光の渦が巻き、中に何かがいる。白く大きな犬だった。犬は光の向こうでじっとこちらを見て動かない。菜多里はそこに近づいていく。「こんにちは」と小さな声で手を差し出す。それでも相手は動かずにじっと見ているままだ。彼女はさらに近き、光の中に手を差し入れる。光の流れは、手を大きく迂回して大きな隙間を作り、犬の姿をはっきりと映し出す。無表情な瞳のまま地面に座り、ただこちらを見ている、犬。「どうしたの?大丈夫よ」。彼女がかける声は、相手に届いていないのだろうか。少し間をおいて、犬は無表情のまま立ち上がり、シッポを向けて、光に縁どられた、小さな門扉の中に入っていく。「どこに行くの?」と声をかけるが、やはり一度も振り返らない。そんな夢だ。

 

 階下の柱時計の針が、六時を示す音がかすかに聞こえてきた。眠りもだいぶ浅くなってきているようだ。一階のバーがオ-プンし、ざわめきも一緒に彼女の部屋に届いてきていることを知り、サンサにいることを悟った。もう行かなきゃ。


 「みなさん、もうお揃いですよ」

 カウンターに座った菜多里に、バーボンの水割りを差し出しながら、舞久留サンが声をかけた。

 「なんでも今日は、菜多里さんが町からもって帰ってきたことに関係する話を、長老からされるようですよ。長老が時間を指定して人を集めるなんて、なかなかないことだそうですし、どんな報告があるのか」

 「今朝の今で、どうやって皆を呼んだのかしら」

 菜多里は不思議そうにサンにたずねた。

 「あれですよ、あれ」

 サンはそう言うと、天井の梁の方を指さした。

 なるほど、天井を見上げると、小さな天窓に鳩のような鳥が一羽とまっている。その鳥は、形は鳩に違いないのだが、全身の毛並みが銀色に輝いていた。

 「サンサ?」

 「いえ、あれでも立派な伝書鳩です。長老がペンキで銀色にしました」

 「えっ?」


 ちょうどドアが開いて長老が現れた。皆が振り向き、彼が歩いてくるのを見守っている。ただ一人、サンだけは、すぐに彼の椅子を用意するために動いた。

 「あの、すみません」

 最初に口火をきったのは、長老ではなく菜多里だった。

 「今日は、大切な話があるとお聞きしましたが、その前にお尋ねしたいことがあります」

 「ほう、なんでしょう」

 長老は落ち着いて対処した。

 「あの鳩、なんですが」と、天窓に渡された梁にとまる鳩を指さした。

 「ふむ」

 「あの鳩に色を塗られたなんて、なぜ、そんなひどいことをするのですか?鳩がかわいそうじゃないですか」

 「ふむ」

 長老は座ったまま顎に指を当てて考える仕種をみせたが、「そうでもなですぞ、鳩は喜んでいる。ようく見てごらんなさい、ほれ」と穏やかに言った。彼の言葉に従って、上方の鳩を見上げたが、とてもそうは思えない。

 「喜んでいるものですか」と声を強めた。

長老は、困ったように「では」と、手を自分の顔の前でパンパンと二回たたいた。次の瞬間、鳩はパッと飛び上がり、そのまま急降下で老人のかざした腕にとまった。

 「よう見てみなさい。美しいもんでしょう」

 長老が言うように、鳩はこの世の生き物とは思えないほどに光り輝いている。

 「ペンキと言っても、普通のペンキではない。本物の銀を混ぜて特別にこしらえました。だからこれほどまでに美しい」

 「そんな話では…」

 「うむ。確かに。これはもともとは石英で作られたものなのです。あなたの知っている正一郎さんが木で物を創るように、昔、石に細工をする名人がいまして。ロックハンマーや、やすりなんかを使って、丁寧に丁寧に時間をかけてじっくり彫って磨き上げた品なのです。それに私が色をつけて命を吹き込んでみた。美しいものをより美しく見せたいと思いましてね。もし癇に触るようでしたら許してください」

そこで、いあわせた客たちから、ついにはち切れたとばかりに笑いが襲ってきた。菜多里は、その中で黙っている。

 「お姉さんは、威勢がいいねえ」

 誰かがそう言った。

 「この町ではおかしなことばかりだ。俺たちがここで顔を突き合わせていることも含めてな。そうだろう。外に出れば、変な格好をした鳥があちこち飛んでいるし、 その辺りを走っている動物だって変なもんが多い。そんな事を真面目に考えていたら、頭がおかしくなっちまうんで、ここにいる俺たちくらいはせめてものの見え方を同じにしておこうってことで、言ってみれば洗礼みたいなもんさ」

 確かにそうだった。変わっていることが幾つもあった。

 「まあ、固定観念を捨てる努力はこれからすればいい。この話はそのくらいにして、本題に入りましょう。みなには、つらい知らせと言えそうですが…」

と、老人は切りだした。

 「例の病気のことです。予想していたとおり、かなりの勢いで世界中に広まりつつあるようです。病原地はおそらくここ」と言って、片手に持っていた地図をテーブルの上に開いて、指でその場所を指した。

 「ここは、この町と同じ。世界中のどこからも隔離された所にある。昔は船を使うしか行く方法がなかったですし、文明がある陸地の一番近い岸からでも、到着するのに通常の時間で五日以上はかかっていたでしょう。まずは、人の交流がなかった。ですが、知っての通り今は、飛行機で二日もあれば世界中どこにでも移動することができる」

 「ふむ」と、誰かが言った。

 「それでです」

 長老は今度は赤い鉛筆で地図の上に小さな円を、いくつか描きだした。

 「今、丸で囲った所が伝染していると思われる地域です」

 それを見ると、ざっと二十カ所はある。

 「こんなに」

 菜多里が口を開いた。

 「こんなに広まっているのですか?」

 「そう。少なくともこれだけある。私の知っている限りの情報で、だから実際にはもっとあると思っていいし、これからも広がると思います」


誰もが息を呑んで、焦げ茶色のテーブルの上に広げられた地図を見守っている。

 「止める方法は?」と、誰かが言った。

 「ありません。今のところは。だから、これから誰かに発生源と思われる場所に行ってもらいたいのです。現地では、昔からその寄生虫と共存している、地下で暮らす人間がいます。つい最近まで、自分たちの土地を離れずに、その土地だけで暮らしてきたのですが、そこに地上に住む人間の手が入った。土地を掘り起こして、宝石類や地下資源を捜し出す連中です。彼らにとって、原住民は、地下で土を掘り出すという仕事にちょうど良かった。奴隷のように、金や石炭を掘り出させた。侵入者は、代償として命を払わされたのですが」

 「原住民には欲がない。しかし、なかには、侵入者の行動に刺激を受けて、外に出ようとする若い連中がいます。そんな連中の多くも、しばらく地上で過ごすとほとんどが死んでしまうようです。地中生活を出てから親や友人などに知らせを送った者は知る限り一人もいないし、戻ってきた者もいない。だから最近になっても、ただの土地にまつわる噂だと思って、未知の死を選ぶ連中が後を絶ちません」

 「だから、現地に行って、地元の人々にそのことを知らせてくる、ということですか?」

 「それも一つにあるのかもしれません。私もこの民族とは直接話したことがないので、ただ病気のことは、どうも彼らには知られている話でもあるようなのです。地中暮らしを続ければ安全だと彼らは思っていて、地上は危ないから出てはいけないというようなことを信じているようなのです。しかし一方で、出て行った人間のなかには発病しなかった者もいるように聞きます。そのヒントがほしいのです」

 「ですが…」と顔を上げた菜多里を長老は遮った。

 「手掛かりは、きっとあるはずです。難しいことですし、危険も大きい。それに時間もありません。ここの時間で、三日間が限度でしょう。だから、これから希望者を募ります。自分が、と思う人は手を上げてほしい」

 誰もがお互いの顔を伺うように黙っている。それぞれ自分たちの町で大変な問題を抱えているのだ。そのことは誰もが理解していた。


 「私が行きます」


 沈黙を破ったのはカウンターの中にいるサンだった。

 「私はまだ若いですし、みなさんのように自分たちの町の中核というわけでもないので、私の代役は、私の出身であるドナイでは誰かが勤めてくれます」

 「ふむ、わかった。ではサン。君には行ってもらうことにする」

 「ありがとうございます」

 残りのメンバーは、また頭を垂れた。

 「ほかには、いませんか?」

 長老は、顔を後ろまで回しメンバーの様子を確認してみたが、参加希望者は現れない。

 「あの、私も行ってよろしいでしょうか?」

菜多里だった。

「とりあえず町に戻っても具体的な対策はまだ見つかってませんし」

 「気持ちはわかりますが、女の足ではきついところですよ」

 「そうかもしれません。彼の邪魔になるだけかもしれませんが、私も何か役に立ちたいのです」

 老人は、少し考えていたが、「わかりました。無理だと思ったら戻ってきなさい」と認めた。

 「後はいませんね?」

 彼は、他の人間が沈黙したままであることを確認すると、「では出発はこれからすぐにします。私の家に来てください」と立ち上がった。


 長老の家にたどり着くためには、小さな舟に乗る必要があった。三人がやっと乗れる程度の木製の舟で、三人が乗ると、舟は静かな水面に大きく沈み込んだ。

 キッ、キッと、オールと舟のきしむ音が響く。周囲は何も見えない。最初にここに連れてこられたときのように、ただ漠然と暗い世界をゆらゆらとあてもなく進んでいるようでさえある。

 「さあ、着いた」

 長老が言うのとほぼ同時に、舟は川底を引きずった。目はだいぶ暗闇に慣れていたが、舟を降りようとする菜多里の足元はあやしかった。

 「ここは?」

 菜多里が長老に言った。サンも彼の方を見ていた。

 「ここは、ちょうどこの沼の中州になっていて、私はここに住んでいます」と説明してくれた。

 「あれが私の家です」

 目を凝らして長老の指差した方角を見てみると、木々の間に、家らしき黒い影がうっすら強調されている。

 「では行きましょう」

 三人は、長老の家に向かって歩き出した。途中、人の通る道らしいものがあるわけでもなく、足元を確認しながらそこに近づいていった。確かに家はあった。というよりも物置小屋に近い。建てられてから相当年月が経っていることは間違いない。サンは、目をぎょろぎょろさせて長老宅の風体を眺めていたようだったが、長老がドアを開けて中に入っていくのに気付いて、菜多里と同じく小走りに後を追いかけた。


 中に入ると、長老はすぐにランプに火をつけた。狭い室内は小綺麗に片付けられており、ほのかな火の明かりに清潔さが浮かんでいた。テーブルや折り畳み式の机、石造りの暖炉など、一見する限りではどこの家とも変わりはない。だが、菜多里たち二人が招かれた地下は、それらとは大きく異なっていた。床の扉を持ち上げるようにして開くと直角に縄梯子が据え付けられている。

 「これをつたって行ってください」

 二人は目を見合わせた。穴を覗き込み、息をのむ。雲の中のような真っ白にかすんだ明るい空間が広がる下方へと梯子は続き、先を確認することはできない。境界も分からず、どこまでも続く広い空間にさえ思える。

 「さあ。この部屋は、これからあなたたち二人が行くべき所に通じています。あなたたちが中に入ったら、私は扉を閉めて、この居間で待っています。忘れないで下さい。三日間。それを過ぎるとまずいことになります」と長老は言葉を止めた。

「どうなるのですか?」

 二人は、彼の顔をじっと見つめた。

 「それを過ぎると、もうここには戻って来られなくなるでしょう」

 「え?」と菜多里には強い緊張が走った。長老は頷いた。

 「この扉は、私たちが住むところとは別の空間への入口です。私たちが住む世界とはつながってはいるが、正確にここと、行先の場所や時間をつなぎ合わせておくには大変なエネルギーがいります。この梯子はその目印になります。空間に重力はありませんが、これがないと、今私たちがいる場所と目的の場所や時間とを結び付けておけないのです」


 この先には境界も何もない空間が広がっている。そしてこの梯子をたどって行けば、全く別の場所にたどり着けるという。菜多里は内ポケットにきっちりしまっている自分の扇子に手を当てた。この扇子から送り出される風は、不思議な力を持っている。扇子を扇いだとき、いつも軌跡を追うようにして何かが見えた。それは明らかに周囲の景色とは違う空間のようなものだった。なぜそのようなものが現れるのか、かつて正一郎に言われたことがあった。別の次元を通じ風を送っているのだと。


 そしてここはサンサだ。


 「私、そのエネルギーを感じたことがあります。とてつもない感じの。このドアの向こうに広がっているような、考えてみるととても怖いほどの力があるような気がします」

 長老は静かに頷いた。

 「空間も時間も、脳波も肉体も支配する力です。サンサはその力によって存在しています」

 「それで」と、サンが言いかけて、次に来る言葉を見つけられないでいるなかで、

 「ここは、普通の人が来ようと思っても来られるところではありません。ここから先は普通の世界への入口です。ただこれから行く場所は普通の世界といっても普通ではありませんが」と長老は冗談めかした。

 「サンサの三日間って」と菜多里は考えるようにして言った。

 「サンサでの一日は、この先の場所では十日ほどだと思ってください」

 「私たちは、世界に流れる次元の隙間をすり抜けながらある一つの目的に沿って行動している。文化や人種や宗教の違う世界のなかで、ある目的を実現させるための行動に一貫性と連鎖性を持たせるためには、時の矛盾も、ときには必要になる。それにはとてつもないエネルギーが必要です」

長老は続けた。

 「いいですか、できればむこうで二十日間を目安に戻ってきていただきたい。それを越えたら、どうなってしまうか…。くれぐれも気を付けて行動してください」


 長老は、そうして部屋から出ていった。



24.穴の世界


 「ちょ、ちょっと見てください」

 サンが、穴の向こうを眺めながら菜多里に外を見るようにと促した。

 「すごいわ。なんだか気味が悪いくらい」

 「ここからどうすればいいんでしょう」

 「そうね、とにかくこの梯子を伝ってみましょう。そうすれば長老さんの言うように、“向こう”に行けるはずですし」

 二人は、恐る恐る順番に梯子に脚を落とした。体半分がまだこちらにあるとき、足の裏が梯子のどこかにかかったようだ。縄はかなりしっかりしていて、体重がかかった状態でもほとんど歪むことはない。そして少しずつ穴へと入っていくたびに、体は軽くなっていく。

 「なんて言えばいいんでしょう」

 サンが嬉しそうに言った。二人は梯子を握った状態ですっかり浮いていた。それは、菜多里にとってどこか夢で感じた感覚に似ていた。確か真っ暗な闇の世界で、そう、周囲には光が流れ、漂う自分が二つに引き裂かれてしまうような苦しい夢だった。それは宇宙の底のない穴に吸い込まれ続けている光とともに、自分も同じように飲み込まれてしまう怖さだ。

 今の自分の周りには闇ではなく光が満ちている。光を含んだ細かい霧の粒子一つひとつが、今いる空間全体を構成し、体をも包み込んでいるようだ。サンを見上げると、光の衣をまとい宙に浮く若者の姿があった。

 二人は、少しずつ下方へと落ちていく。その先には、おそらく長老の言うように地下に暮らす人々の世界があるのだろう。いつまでたっても光の霧は晴れない。少しずつ落ちていく二人。次第に菜多里は上下双方から引っ張られるような力によって痛みを感じ始めた。

 「サ、サンさん、あなたの体も引っ張られていて?」

 悲痛な声だった。

 「ええ、ずいぶん痛くなってきています。何なんでしょう、この感覚は?」

 菜多里には答えることができなかった。みるみる、体が引きちぎられそうなほどの痛みが増し、意識が遠のくようだ。ただ手の中を滑り続ける梯子の感覚だけは忘れないようにと思った。しかし、その努力も時間の問題だった。


 気付くと、二人のずっと前方には、ゴツゴツした岩肌を剥き出しにして、百メートル以上もありそうな落差でほとんど垂直に延びた絶壁が見えていた。手前に赤茶色によどんだ大きな川がゆったりと横たわり、その向こう側に切り立つ灰色の絶壁のちょうど中央部下に、人間なら立って歩けそうな大穴が口を開けている。

 光の加減で微妙にうかがえる穴の中は大小さまざまな突起があるようで、鍾乳洞かと想像しているうちに、サンサで脳波をやり取りしていたときの疲労と、掌が擦れた痛みを覚えた。掌全体が擦り傷になっていて血がにじんでいる。傷の原因は間違いなく梯子のはずだ。しかし、あの梯子を握っていたときの感覚は確かにあったとは思うのだが、本当に梯子に実態があったのかと振り返ると自信がない。それにしても、掌のかすり傷以外に外傷が見当たらないのも不自然ではある。ぼんやり座っているサンの方を見て、長老の世界の、実態とそうでない世界との区別しにくさを考え、我に返った。


 「どれだけあったんでしょうね?」

 「きっと、天と地ほどもあったのよ」

 菜多里は空を仰ぎ、また絶壁を見やった。

 「あれが、そうかしら?」

 「おそらくそうでしょう」

 「とにかく、行ってみましょうか?」

 「ええ」

 

 岩の足場を川の方へ向かって進み、しばらくして前方への進路が断たれた。ほとんど垂直に落ち込む岩壁があった。川が両岸を削り取った場所のようだ。少し考えて二人は岩壁を直接下りようと決めた。川岸は何十メートルも下で、そこにたどり着くためには下りるしかないのだ。


 足元を確認しながら少しずつ下りていく。肉体的にはつらかったが、危険はあまり感じない。ところどころに人工的と思える足場が設けられているのだ。それでも菜多里の手の感覚は次第になくなり、震えだしている。照りつける太陽の日差しが重く、汗が目に流れ込んでくる。何も考えられない。実際に人間が生きる世界の生ものの感覚が、これほどまでに過酷なものだということが、ただ単純な降りるための一つひとつの動作を続けていく中で、迫ってくるようだった。


 ガサリと音を立てて、足が地面に届いた。体中の筋肉が強ばって、立つことすらできない。それでも「着いたわ」と、すぐ上にいたサンに声をかけ、地面に倒れ込んだ。

 「やっとですね」

 サンは笑顔だったが、彼も、手の平に血をにじませて、枯れた木枝と土砂の地べたにドサッと座り込んだ。相変わらず激しい日差しが照りつけていたが、しばらくそのことに気が付かないほど疲れていた。息が落ち着いてくると、菜多里は腕や足の日に当たっていた部分の、焼けた痛みに気付いた。

 周囲には、風がどこからともなく吹いてくる音が聞こえるだけで、風音がやむと太陽のジリジリという重い音が聞こえてくるようだった。


 「こんな土地では、動物は生きられないんだわ。だからみんな、地下に住んでいるのよ」と、菜多里は吐き捨てるように言った。

 「でも、川があるじゃないですか。水があれば、なんとかなるんじゃないですか?」

 「きっと飲めない水なのよ」

 菜多里の言った通り、その水でまともな生命が育つことは不可能に思えた。二人が崖の上から河まで降り、水を手にすくってみて分かった。

 「少し酸っぱい匂いがするわ。飲んだりしたら胃が溶けてしまいそう。ほら、この川の周りだってつるつるで変な色になっているし。きっと岩が溶けたのよ」

 「なるほど」

 「とにかく穴の中にいってみましょう」と、元気を出してみせた。

 「でも、どうやってこの川を越えるんですか?それによく考えてみると変じゃありませんか?地下の人たちに会いに行くというのに、あんな高いところの穴から入るなんて」

 サンの疑問を、菜多里は「大丈夫よ。水の中に入っても、飲まなければきっと問題はないわ。あなた、泳げるんでしょう」と流した。議論していても時間を無駄にするだけだということはサンにもわかる。二人は、淀んだ酸性の川を泳いで渡った。流れは急ではなかったが、川幅があったため、かなり下流に流されてしまった。それでもなんとか対岸に着き、二人とも仰向けに横たわった。太陽が夕日になりかけている。泊まる場所も食べるものもないなかで、呆然としばらく時を過ごしているうちに眠ってしまい、目が覚めた時には次は夜になっていた。

 「菜多里さん、菜多里さん、起きてください」

 小声で呼ぶサンの言葉に、彼女はハッと目を覚ました。

 「そのまま、動かないでください。何かがこちらに近づいてきます」

 サンも菜多里の側で、横になっていた。二人は武器になるようなものを全く持ち合わせていなかったので、思わず近くにあった石を、横になったままの状態で握った。近づいてくるのは、どうやら人間のようだ。

 一人ではない。すぐ近くまで来て、かすかな月明かりの下でじっとこちらを見ている様子で、次第に聞いたことのない言葉が耳に届いた。暗闇のなかで菜多里はときどき薄目を開け、その様子を探っていたが、なかなからちが明きそうにない。しびれを切らして、ついに起き上がる決心をした。それに気付いて、サンも慌てて起き上がった。

 突然の動きに、彼らの方が驚いたらしく、二人が動きだしたのを見て、飛び上がって走り去っていった。

 「まずいわ。後を追わなければ」

 菜多里は、言った端から立ち上がろうとしたが、身体がいうことを聞かない。

 「今日は無理ですよ。ぼくだって身体中痛くて、どうしようもない。しばらく様子をみましょう」

 「そんな簡単に言うけど、敵と勘違いされたままで襲ってきたらどうするの?私たちは何も持ってないのよ。呼び止めて相手を安心させて、食事とベッドを分けてもらった方がどんなにいいか」

 「けど、今追いかけていったら、感情をさらに逆撫でする可能性だってありますよ。今は、僕らは身体が動かない。人が居ただけでも安心したじゃないですか。明日でも遅くはありませんよ」

 「そうかしら」

 菜多里は、サンがなぜそんなに落ち着いていられるのかわからない。

 「やっぱり私はこんな所で不安になりながら眠るのはいやです。一人でも行きます」と、どうにか立ち上がって歩きだした。

 「やれやれ」

 その姿を見て、サンも仕方なく後を追うことになった。

 菜多里が先頭に立ち、窓から見えた洞穴の方向に向かっていく。足元は大きな丸い石が転がっており、しかも暗闇のなかで歩きにくい。

 さっきいた人達は、平らな地面を走るように動いていたのに。などと考えながら、菜多里は疲れ切った身体に鞭打った。サンも少し間を置いてついて来ていたが表情はよく見えない。十五分も歩いただろうか、随分流されたのね、と思いながら菜多里は、ようやく洞穴が真上に見える地点までたどり着いた。そこで身を潜めてサンを待った。

 「あれがそうよ」

 「そのようですね」

 サンが上を見上げたまま頷いた。

 「でも、あそこまでどうやって行けばいいかしら?」

 彼女の言葉に、「考える必要もないようですよ」とサンは、今来た方向を振り向いて、直立不動の姿勢を取った。

 「どうしたの?」

 「あれ、が見えませんか?」

 「あれって?」

と、菜多里が目を凝らすと、さっきの連中らしき人間が、四人ほどで二人を見ている。明るい月明かりの下で、彼らは男のように見えるが、ほっかぶりの上着から続く裾は短いスカートのようでもある。わずかに覗かせている皮膚は、月がもたらす淡白さを差し引いても雪のように白く、暗闇のなかに光を放っているようにさえ見える。その四人が、こちらに近づいて来る。逃げられる距離ではない。二人は覚悟を決めた。


 「こんにちは」

 すぐそこまでやって来た彼らに向かって笑顔を作れる菜多里に、サンは感心した。

だが、彼らからの応答はない。

 「私たちは、あなたたちの敵ではありません。この辺りで地下に住む人達を探しているだけなのです。ご存じないですか?」と、今度は丁寧に付け足した。

 「彼らを探してどうする」

 言葉は通じるようだ。連中の一人が、ようやく口をきいた。

 「やっぱりご存じなのですね?」

 サンが嬉しそうに割り込んだ。が、睨まれてすぐに声を引っ込めた。

 「知っているなら、教えていただきたいのです。私たちは、いま地上で起きている、ある寄生虫が原因の病気で、人々が死んでいくのを防ぎたいのです。その手掛かりを、と思いましてここにやってきました」

 彼らは、言葉の通じた男を中心にして、知らない言葉で話し始めたが、しばらくして二人の方に向き直ると、さきほどの男が、「ついてこい」と言った。静かな表情で、二人に背中を向けて川下の方に歩き始めた。

 「助かったようですね」

 とは思ったものの、菜多里には不安も残った。洞穴から一歩一歩離れていく。それに、川を対岸に渡るために、途中で筏に乗せられたのだ。

 「どこに行くのでしょうか?」

 しかし、彼らの一人が、「行けばわかる」と言っただけで、何ひとつ教えてくれない。すでに体力を消耗している二人にとって、その道のりは肉体的にも精神的にも苦痛を増幅させるものとなっている。とはいえ今さら逆らって逃げることもできないだろう。ただひたすらに彼らについて行くしかないことに、期待感と、なぜか不毛感が入り混じる。

 もうどれくらい歩いただろうか。足元が悪い中で長い時間歩いていると膝が痛くて歩くことさえままならなってくる。足を引きずるようにして後をついてくるサンの様子を菜多里はいたわるようにうかがってみた。

サンは疲労顔に微笑を浮かべた。

 「崖を降りるときに捻挫した足首がおかしくなっちゃってるみたいで」

 「大丈夫なの?」

 「こうやって体を支えているのがもう精一杯です」

 それでも一歩二歩と前に足を進めるサンの健気さを思うと、菜多里もそれ以上進む気にはなれなかった。

 「私たち、もうこれ以上進むことができません」

 雑草が膝上ほど生い茂る草地で、菜多里は前を行く男たちに声を振り絞った。一人が振り向き、言った。

 「あの木だ。あの木まで歩け」と一人が前方を指差した。

草っ原の向こうの白み始めた空を背景に、大木が一本、浮かんでいた。二人はわずかな希望に立ち上がった。

 

 「ここまで登れるか?」

 低い通る声で誰かが言った。

 「おそらく」と、サンがこたえた。

 すると大木の上から一筋のロープが投げられ、それをつたって登って来いということのようだった。二人はロープを握りしめながら一歩、また一歩と上方へ向けて体を運んだ。体力の限界はとっくに過ぎているはずだったが、意外に苦痛を感じることなく手も足も動く。ぼんやりと無意識に登り始め、気付かないうちに必要な位置までたどり着いていたという具合だった。

 「さあ、この中に入れ。村長が待っている」

 大木の上部は、小さな踊り場になっており、その隅に人間一人が入っていけるくらいの縦穴が一つ開いている。上から覗いてみたところで、中には闇がぎっしりと詰まっている。

 「どうやって降りていけばいいのですか?」と菜多里が聞いた。

 「壁つたいに階段がついているだろう。それを使って降りればいい」と、一人が無表情にこたえた。思えば、今日は降りたり泳いだり、昇ったりと忙しい日だ。まだ一日も経っていないはずだが、菜多里にとっては数日分くらいの出来事が一挙にやってきたように思える。それにしてもここまで来たのだから、このまま突き進むしかないのだろうと穴の中に向けてよく目を凝らした。

 壁には、つま先がやっとかけられるくらいの溝が彫ってあり、男の言ったように下まで続いているようだ。まず、サンが恐る恐る足から穴に体を滑り込ませ、菜多里も続いた。あらためて手に痛みを感じ、この地に降りるまでの苦しみが脳裏をかすめた。

 「これはどのくらいつづくんでしょう?」

 と、サンが不安げに言った。菜多里は、ギリギリまで身をよじり、下にいるはずのサンを覗き込もうとしたが、暗闇で姿が見えない。声だけが響いてくる。

 捻挫している足は大丈夫なのだろうか?とも思いながら、「あまり、そのことは考えないようにしましょう」とだけこたえた。

 二人は不安のなか、足場を確かめながら一歩一歩、下って行った。途中、何かの生き物が羽音をたてて耳元をかすめた。光はすでに全く入らず、コウモリ?と思っても確認することができない。足場も次第に湿度を増し、ぬるぬると滑りやすくなっていた。暗闇の世界に不安は募り、パニックに陥っても不思議はない、と菜多里は思った。

 途中、「あっ」というサンの声が聞こえたかと思うと、少し間をおいて、「菜多里さん、底に着きました」との声が、周囲の壁に反響しながら彼女の耳に届いた。

 「何もみえないのだけれど、もう一度声を上げてみて」

 菜多里は、自分がどの辺りに達しているかを知ろうとして、サンに必死の思いで声をかけた。

 「待って下さい。今ライターを点けますから。その光で私の位置を確認して下さい」

 火は、周囲に吸収されてしまいそうなほど弱々しいものだった。あるいは闇の力が強すぎるのか。菜多里が覗き込むと、かすかに浮かぶ灯にもう底まで近いことが分かった。サンの方からも上方の壁に吸いついているような菜多里の姿が確認できた。

 菜多里の身体で、この行程は気が遠くなるほどきついに違いない。だが、彼女は何も言わず着実に降りてくる。尊敬に値すべき精神力とサンは感じた。そのうちに、菜多里もサンの位置まで来た。

 「どうします、動けますか?」とサン。

 「ええ、何とか大丈夫よ。ここまで来たらもう、何をやっても同じことよ。それよりあなたの足の方は大丈夫なの?」と、菜多里。

 「わかりません、だいぶ腫れてきているようですが、先ほどのような痛みはなぜか無くなっていて。どちらにしたって行くしかないようですから」


 菜多里は頷き、すぐさま周囲の壁を手で探り始めた。

 「どこにも続いていないようだけど」

 サンも横穴がないかと必死に探した。ライターも使い、何度探ってみても、どうしてもそれはみつからなかった。ついに地面を壁沿いに掘ってみたが、それもすぐに気持ちが折れた。ライターに照らされた地面からは、人間のものとみて間違いない白骨が次々に出てくるのだ。

 二人はしばらく沈黙した。

 「だまされたのでしょうか?」

 菜多里は言い、サンと顔を見合わせた。

 「行けば分かると、あのうちの誰かが言った事は、こういう意味だったのかもしれませんね。われわれ二人に死ねと」

 「もう疲れました菜多里さん。私は少し眠ります」

 彼が背を壁に持たれかけて身を縮めるのを見て、菜多里もそうすることにした。穴の中は、異臭もなく我慢できるものだった。


 どのくらい眠ったのかは、検討もつかない。しかし、極度の筋肉痛をのぞいて、身体が生き返っていたことは確かだった。


 「あのコウモリみたいな生き物、おかしいと思わない?」

 菜多里が火をかざしながら言った。

 「何が、ですか?」

 「私たちがここに入ってきたときに、あんなにいたかしら。降りるのに集中していたので気にもならなかったけれど」

 「そういえばずいぶん騒がしいかもしれませんね」

 「それにだって、やっぱり外と出入りしているわけでしょうし、なんかあんなに騒いでるなんて、外で何か変わったことが起きているのを感じているからじゃないかしら」

 「でも入口は塞がれているんですよ。別に暗い穴の中でも行動する時は行動する生き物なんじゃないですか?」

 「違うわ。もしこの穴が私たちの知っているだけの大きさなら、あの生き物は私たちを見て、とっくに狂って騒いでいるでしょうし、きっとどこかに別の抜け穴があるのよ」

 「そうでしょうか?」

 サンは腕組みをして、まだ納得ができない様子だった。

 「しかし、どこに?」と言って、彼は暗さでよく見えない菜多里の顔をうかがった。

 「ここまで降りてくる途中に、すきま風が吹きつけるところがあったと思うわ。間違いないと思う」と菜多里は言った。

 彼は腕組みの姿勢を変えないでいたが、

 「わかりました。そこまで行って、抜け穴らしきものがあるかどうか探してきてみます。菜多里さんは、ここで待っていて下さい」

 と、壁にへばりついた。

 「気をつけて下さい」

 不気味な鳴き声が穴の中に反響して、怪物と同居しているような感覚がよぎる。光はまったくない。彼が、捻挫した足の痛みに耐えながら登っていることを思うと忍びなかった。


 「菜多里さん、菜多里さん、聞こえますか?」

 と、しばらくして不気味な鳴き声の間を突き抜けるようにサンの声が響いてきた。かなり上の方にいるらしい。

 「聞こえます」

 「だいぶ登りましたが穴らしきものは見つかりません。手が痛くて片手では長い間支えられないので、壁の造りもいまいち探ることができない。とりあえず上まで行って、入ってきた所が開いてないかどうか確かめてきます」

 と、言ったようだが。ただ反響と生き物の雑音の激しさに、はっきりとは聞き取れない。

 「気をつけて」


 彼の声を最後に聞いてからもう何時間も経ったような気がする。彼女は、穴の底の、軋む白骨の上で、きっとやって来るはずの時間をひたすら待った。しかし、彼からの連絡はそれからどれだけ待ってもなかった。

 サンのたどった行程を自分もたどってみようと決意するまでには、さらに時間を必要とした。実際の長さはどうあれ、彼女にとっては長く不安な時間に見切りをつけ、ぬめる壁に手をかけ、そして一歩ずつ上に向かって登り始めた。手足に力が入らない。しかし、もはや躊躇は許されない。生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされているのだと自分に鞭を打ち、不器用に足元を探りながら、まるで日照りの中で進路を見失った蛞蝓なめくじのように不確実に登っていく。

 どれほど進んだのだろう。手足はけいれんし、感覚が無い。生き物が頻繁に顔や体をかすめ飛ぶので、それが一つの気つけ薬になって意識だけはしっかりしていた。そして、ある突起に手をかけたときだ。突然、その生き物はハイエナのようにわめきたてながら彼女に襲いかかってきた。体をかすめて飛んでいるだけだった生き物は、その瞬間から彼女の体に無差別に牙をむいた。手や足、背中から顔と、露出されている部分は格好の標的となり、彼女は一瞬のうちに血まみれにされた。  はっきりと痛かった。それでも手と足には、階段の機能を持つ突起部から放さないよう、全神経を集中させた。

 「あー、もうだめ。やっぱりだまされたんだわ」

 彼女は、今さらながらに、川辺で出会った男達を恨んだが、すでに遅い。自分が今できることは、体が食い千切られていることを知りながらも、目の前にある壁にしがみ続けることだけだ。


 幻聴?

 そんなようなものが聞こえてきたように思えた。しかし、次の瞬間、「菜多里さん」とはっきりした声が、ギャーという甲高い獣の声の合間を縫って聞こえてくる。

 「サン?サンさんなの?どこ、どこにいるの?もうだめ、助けて」

 菜多里は、痛みと疲労と麻痺によって機能しなくなった体を壁に何とか張りつけたまま、精一杯の力でそう言った。

 「ここです。後ろです。後ろを見てください」

 「そんなことをしたら落ちてしまうわ」

 「そうしていても、どっちみち落ちるんです。白骨にされてもいいんですか?いちかばちかです」

 サンにそう言われ、菜多里は後ろを向いた。それを、待っていたとばかりに生き物が顔に向かって襲ってきたため、彼女は動転して片足を滑らせた。

 「落ちるわ、今度こそ落ちる!」と叫びながら、彼女の手足は自然に元のあった場所に戻ろうともがき、滑った足が二-三回壁をこすったところで、なんとか体勢を立て直すことができた。


 今度はゆっくりと後ろを振り向くそこに。サンの姿がなんとなくわかった。

 「そこはどうなっているの?どうやって行けばいいの?もうすぐ落ちるわ」と菜 多里は声を振り絞った。

 「その場所から、壁伝いに溝が続いているんです。足を横に出してみて下さい。引っ掛かりがありますから。急いで。手も上に伸ばすとつかめるところがあります」

 「でも動けません」

 「頑張ってください。やるしかないんです」

 サンの言葉は理解できても、体がいうことをきかない。膝は震え、手の力ももはや無くなって精神力だけが体を支えていた。

体がガクガクと震え、気力だけでしがみついている。少しでも油断すれば、もう終わりに違いない。声は確かにする。そこにサンがいて、自分もサンのところに行くことができればきっと助かるはずだ。地獄につるされた頼りない糸をつかむには、いったいどうしたらいいのだろう。

 「菜多里さん、早く。ここまでくれば安全です」

頭ではもう何も考えることができない。目もかすんでくる。ああ、もうだめ。手が離れる。群がる羽の奥に、サンの顔が見えたような気がした。しかし、それも遠ざかっていく。でも、気分がいい。手を放すだけで、こんなに楽になれるなんて。よかった…、サン、ごめんなさい…。彼女の手は壁から離れた。彼女には自分が万歳状態で背中から落ちていくのが理解できた。


 そのとき、だ。

 風が吹いた。


 彼女の中から吹き出すように、渦巻く激しい風が彼女の体を浮かせ、そして、轟音と共に荒れ狂う生き物をすべて巻き上げ、そのまま固く閉ざされていた上部の蓋をも吹き飛ばした。

横穴にいる目を覆っていたサンが、指の間から見たものは、まさに目の前に揺らいでいる菜多里の姿だった。いまだ風は収まらない。サンは体を倒したまま、宙に浮かぶ菜多里に手を伸ばした。

 もう少し…。横穴から伸ばした手は、吹き上げてくる瓦礫でめった打ちにされる。それでも瓦礫の弾丸が収まってくると、横穴から体を半分以上乗り出し、ちょうど目の前を漂う彼女の手首をギリギリでつかみ、自分のいる所まで引き寄せた。

 菜多里は気を失い、正気がない。暴風はみるみる収まり、周囲を静けさが覆い始めた。しかし、彼女の周囲だけは、まるで命を守るように、生温かくしびれを伴うような風が包んでいる。もう、あの生き物もやって来ないようだった。

 サンは、彼女の意識がもどるのを待ちながら、自分の服を裂いて彼女の傷口に巻いてやった。


 えっ?滴り落ちてくる水滴に我に返ったサンは、周囲を仰ぎ、目を見張った。いたるところで、光苔らしい植物が、壁に付着した状態でぼんやりと薄い青緑色の光を放っている。暗闇にすっかり慣れた彼の目には、その光は眩しいほどでさえある。薄青の光を含みながら、水滴が落ち、遠くには水の流れる音がしている。

 「すごい」

 

 「う、うん」

 菜多里が目を覚ましたようだ。

 「気付かれましたか。何とか助かりましたよ」とサンは笑顔になった。

 「ありがとう。でもこの体、不細工ね」

 彼女も体のいたるところに布の切端をまかれた自分を見て笑ってみせた。

 「出血は止まっているようですが、動けますか?」

 「ええ、大丈夫だと思うわ」

 そう言って体を起こすと、上着の縁を指でつまんでバサバサと埃を払った。その後、二人は、お互いの顔を見合わせ笑った。その声は、しばらく洞穴の奥へと続いた。

 「行ってみましょう。この先には何かがあるようです。菜多里さんがあの縦穴を登ってくる前に、ちょっと調べてみたんですが、地面に人が通った痕跡が残っていました。この奥に誰かがいるんだと思います。それと」と言ってサンは横穴の奥を指差した。

 菜多里は、その方向をのぞき込んだ。ひんやりと肌寒い、澄んだ空気を通して、天井と地面から所々に突き出た突起物とそれを支える壁が、薄青色に光を放っている。

 「え、これは?」

 「私も火を消して気づいたんですが、苔じゃないかと思います」

 菜多里は、サンの言葉もそっちのけに、その美しい景色に魅せられている。

 「こんなに美しいところですもの。この先にもきっといい所があるはずだわ」

 二人は、血にまみれたよろよろの足を引きずり始めた。

 「菜多里さん、これを持って」

 どこから拾ってきたのか、杖にするのに丁度よい具合の木の枝を彼女に差し出した。

 「ありがとう」

 杖を持ったことでいくぶん歩きやすくなった。光苔の、淡くひんやりした光に包まれながら、二人はおうとつが激しく、しかも滑りやすい足場を確かめながら、ゆっくりと前方の暗闇へと足を運んでいく。奥へ進めば進むほど苔の密度は濃くなり、光も増していく。ライターは必要なかった。次第に光の洞穴となり、あたかも遠い銀河星雲の中を漂うかのような静かさとともに二人を映し出し、そして光は先へ先へと二人を誘導しているようでもあった。


 「こんなにきれいな所、私、見たことない」

菜多里は景色にどんどん心を奪われていくようだった。それを後ろから歩いていたサンが遮るように、

 「ちょっと、止まってください」と声を殺して言った。

 「なに?」

 「手前の地面を見てください」

 「ほら、そこから先、人の足跡らしきものが続いている」

 確かに、人間の足跡が黒く浮かんで見える。

 「この足跡の上を踏んで歩きましょうか?」と、菜多里は言った。

 「そうですね、念のため」

 歩くたびに全身に痛みを感じながら、少し幅のある足跡の上を緊張しながら踏みしめた。先を行く菜多里に、サンもゆっくりと続いた。そして、二人はまた目を奪われた。

 

 そこは、天井から地面まで二〇―三〇メートルはあるのではないかと思えるほどの大きな空洞だった。横幅も同じくらいはありそうだ。その広大な壁すべてに、あの光苔の光が満ち、しかも蛍のような光を放つ昆虫が、いたるところを舞っている。奥の方には小川が見え、さながら宝石の流れを作りだしている。二人は、体の疲れや痛みを忘れ、ひたすらに圧倒された。

 ここは本当に地下の世界?菜多里は口にはせずに、そう思った。サンは空間の中に二―三歩足を踏み入れたところで腰をおろしたたずんでいる。菜多里はその脇に座り、彼にもたれ掛かった。サンは、菜多里の体温を感じながら目の前に広がる景色を眺めた。光の抱擁に包まれながら、いつの間にかこの洞穴に入って二度目の眠りが訪れた。


 一筋の光が差し込んでいる。光は川底まで通り抜け、水の揺れを伝えている。菜多里が立ち上がり、光のあたっている所の水を手にすくい、顔にあてた。泥や埃にまみれていた顔が見違えるように生き返った。サンはその様子を、座ったまま眺めている。

 「あなたもいかが?気持ちが良くて生き返るわよ」

 彼女はサンに振り向き、言った。

 「ええ」

 彼は、菜多里のすぐ側まで行くと、両手一杯に水をすくい、頭からかぶった。

 「ほんとですね。気持ちいいや」

 彼は何度も何度も水をかぶり、しまいに洋服を脱ぐと川の水の中に押し込んで洗い始めた。

 「菜多里さんもその洋服、洗った方がいいと思いますけど」

 「そうね、じゃああなたは向こうを向いていて」

 川で洗濯を終えた二人は、まるで別人のようにきれいな格好となって光の洞穴に映し出された。


 「これからどうしましょうか?」

 サンが聞いた。

 「どうするって言われても」

 「このまま奥まで行ってみるか、それともあの光の差し込んでいる所に行く方法を考えて、地上に出てみるか。菜多里さん、あの時の風、あれを起こせれば、すぐにあの天井にも行けると思うんですが…」

 「なんのこと?」

 「意識を失っていたんですね。菜多里さんがあの壁から落ちた瞬間に、急に突風が吹いてあなたは浮き上がってきたんです。それも風操士の力なんですよね?」

 「ほんと?」と言って、菜多里は考えたが、思い出すことができない。

 「私、そんな力は持っていません。それに、先に進むしかないと思います」

 「でも」とサンは光の届く方向を見上げ、「これは罠かもしれない。食べ物もないですし、これじゃ飢え死にするかもしれませんよ」と語気を強めた。

 「この先にあるものにかけたいの」


 菜多里の考えが間違っていると言い切れないサンには、ついていく以外に方法がなかった。光の空洞は、未知の怖さをのぞけば、全神経が反響するほどの美しさを与えてくれている。光が支配する地下の世界に何があるのか、サンにも興味がなかったわけではない。

 もはや菜多里は先を歩いている。その少し後を歩きながら、そんなことを思った。

 「サンさん!」

 菜多里が途中で振り向いた。先を見ると、次の洞穴への入口だと訴えかけてくるような圧力のある暗闇が満ち、奥からははっきりとした風が流れてくる。菜多里は自然に自分の指を真上に差し上げた。

 「何をしているんです?」

 サンが不思議そうに聞いた。

 「風のご機嫌を伺っているの」

 「と、いいますと?」

 「風にも、いろいろな風があるのよ。つむじ風からそよ風まで、知っているでしょ。その風の機嫌を知るだけでも、これから行く先の参考になると思って」

 「そんな事ができるんですか?」とサンは、不思議がった。

 「私は、これでもサイタの風操士よ。ちょっと神がかりだけど、サンサにいるあなたにはわかるわね。さっき、あなたが言った突風というのはわからないけど、私は風とはずっと昔っからのお友達。風のご機嫌くらいはすぐにわかっちゃうのよ」と言ってにっこりした。

それから下を向いて目を閉じてから、顔をサンに向けた。

 「大丈夫、心配ないわ。この風なら安心よ。私たちに早く来いと言っているくらい」

 不思議がっているサンをよそに、彼女は自信を持って洞穴の中に突き進んだ。

 「ちょっと、菜多里さん。ほんとに大丈夫なんでしょうね」と言いながら、サンも後を追った。


 洞穴の中は、それまでの明るさとはうってかわって真っ暗な闇が続いている。気温も低く、足場はぬめり、次第に二人は、泥水の中に足をめり込ませながら歩かなければならなくなった。

 「さながら地獄に向かっているようですね」とサンが開き直った調子で言う。菜多里も同調して笑ったが、お互いに顔の表情を確認することは難しい。また二人は無言になり、泥に足を突っ込む音と、水をはじく音、息を吐く音だけを響かせて進んだ。水は次第に増え、腿の辺りまできている。足元の泥にもより深く沈みこむようだ。


 「何かしら。足元に何かがいる気がする」

 「何かいますよ。それも相当大きい感じがします。それにここはとても生臭い匂いがする」とサンは声をひそめてライターをつけた。

 「あそこの岩まで行って、様子を見たほうがよさそうですね」

 「そうね」

 二人は、ライターの光に照らされた大きな岩らしきところを目指した。足元はすっかり泥沼にはまって自由がきかず、泳いだほうがはやいと思いながらも必死に歩いた。岩までの十メートルほどが、思うように進まない。そのうちに、足元にいた何かは、はっきりと生き物であることがわかるように背中を現し、二人の足の周りに絡みついてきた。皮膚に触れるたびにゴワゴワとした皮の厚みと、ぬめりの感触の悪さが全身に伝わってくる。

「もう、次は巨大ナマズ?なんなの、これ」

恐怖と困ぱいのあまり叫んでみたものの、状況が好転するわけもない。岩にはもう手が届きそうなのだが、足が前に進まなくなる。そうしている間にも生き物がいつ口を開けて噛みついてくるかわからない。それでもどうにか片足を抜き取り、一歩ずつ歩みを進める。

 

 「さあ、菜多里さん早く。私の手につかまって」

 サンが一足早く岩に取り付き、菜多里に手を差し出した。彼女も、必死に手を伸ばして、岩の根元まで引っ張り出された。

 「ほんと、死ぬかと思いましたよ」

 楽観的な彼も、恐怖に声が震えている。

 「だから、様子をみてもよかったんですよ。菜多里さんの風の判断はほんとに大丈夫なんですか?」

 「大丈夫なはずよ。今まで間違ったことはないわ」

 彼女も声も震えているようだった。

 「しかし、下には化け物がいるし、先に進めないですね」

「何かいい手はないかしら」

息を整えながら考えた。

「もしあの生き物がナマズだったとして、人間を食べるのかしら?」

 「食べるんじゃないんですか。岩を登っている私達を叩き落とそうとしたくらいですから」

 「そうよね。きっとごちそうに見えたのよね」

 と菜多里は周りの景色に目を凝らし、サンを見た。

 「ねえ、あれは何かしら?」

 「あれって?」

 「ほらあそこに周りよりも少し黒っぽくなっている影のような部分がない?ちょっとライターで照らしてみて」

 サンがライターを点け、菜多里が指で指す方向を照らした。洞穴は先まで続いているらしいのだが、先に少しだけ色の濃い円が見える。じっと見ていると、そこで穴が二手に分かれているように思えた。

 「あそこに行ってみましょう。どこに続いているか分からないけれど、風はきっとあそこから吹いてきているようよ」

 「そう、ですか。でも、どうやって」


 彼が見たところ、今二人の居る岩の上から穴のある地点までは五メートル。さらに、その穴にはよじ登る必要があるだろう。餌を待ちわびている化け物に、両足を提供してもたどり着けないのではないか。

 「私がおとりになるから、あなたはその間に向こうまで行ってちょうだい」

 「そ、そんな。無茶ですよ。確実に餌になってしまう。それで私だけ助かったところで嬉しくもなんともない。せっかくここまで二人で来たんですから、この先も二人が生き延びられる方法を考えないとダメです」

 サンの声には今までになく力が入っていた。

 「でも、どうしたら…」

 少しの間があった。

 「じゃあ、私がおとりになります。私の方が足は早いし、逃げきれる可能性も菜多里さんよりは高い。私が化け物の気を引いている間にあの穴まで行ってください」と、サンが真剣な顔をして言った。

 「本当にいいの?そしたらあなたが死ぬかもしれないのよ」

 「死ぬなら死ぬ、生き残るなら生き残る。とにかく全力を尽くすしかありませんよ」と、サンは笑ってみせた。

 「わかったわ。じゃあ、そうしましょう。もし私があの穴までたどり着けたらそのまま行くわ。もし二人とも助かったら、サンサから降りてきた場所で合いましょう。一日待っても来なかったら、一人でも行く。きっと、のんびりしている時間はないでしょうし、あの梯子も消えてしまうわ」

 「わかりました。菜多里さんもご無事で」

 二人はお互いの両手を握り合った。

 「じゃあ、私は行きます。菜多里さんは、私が行ってから頃合いを見計らって行ってください」

 サンはそのまま黙って岩を滑り降りた。ザブンと音がして、目を凝らして見ると、彼は菜多里の向かう方向とは反対方向に歩いて行くのが分かった。

 「サン、気をつけてね」と心で祈り、彼女もサンが落ちたのとは反対側に滑り降りた。落ちた瞬間に、足が泥底に深く食い込んだ。水面は腰の辺りまできており、抜こうにも抜けない。

「ああもう、どうすればいいの!」

 怒りと情けなさで気が狂いそうな叫びを上げた。周りの気配をうかがったが、化け物が近くにいる様子はない。このまま足をじたばたさせても事が進展しないことを本能的に悟ると、次の瞬間には頭から泥の中に飛び込んだ。手をバタバタさせ、その推進力を使って足を引き抜こうとした。これは、立ったままもがいているよりは効果があり、足は徐々に抜け始めた。

 「助かった」

 だが、安心している暇はない。化け物がいつ襲ってくるかも知れない。彼女は犬かき状態で壁に向かった。実際、その方が進んだ。そして壁にたどり着くと立ち上がり、滑った壁に張りつき、ナメクジのように登り始めた。思ったより足場が良く、彼女は少しずつ目的に近づいていく。時々下を探るように覗いたが、化け物はまだこちらには襲ってきてはいないようだ。

 彼女はサンの身を案じた。小さい横穴までたどり着くと、彼を思う気持ちはことさらふくらみ、涙が溢れてくる。それでも彼女は、這うのがやっとの穴に入ると、進み続けた。心配と恐怖と不安が入り混じった心境は、むしろ今の彼女の生命力を絞り出し、盲目のままに突き進める力となっていた。

 しばらくして穴は突き当たり、左右に分かれた。彼女は風の気配から右側へ向かう進路を選び、ここでも這いながら進んだ。時々、上下左右に突き出ている岩に頭や腰をぶつけ、肉体的痛みも加わっていった。ときおりサンのことが脳裏を横切る。無事でありますようにと、何度も祈った。

次第に洞穴が広がり、体の自由がきくところに着いた。足場も乾いてきて歩きやすい。しかもそこから先は、今までのような暗闇ではなかった。

 今までの道のりが左右にうねっていたこともあり、方向感覚は全く機能していない。しかし、周囲に漂う空気は菜多里にとって心地よいもので、気分が落ちつく。とにかく助かったようだ。そう思いながらまた進んだ。何があろうと進むしかない。意識が無くなるまで…。



25.地下の人間


 気付くと、ハンモックの上で毛布にくるまれていた。体を起こそうとすると、そこいら中が痛んだ。それでももがくように起き上がり、部屋の向こうにあった人影に声をかけた。人影は菜多里の声に驚いたように、黙ったままどこかへ逃げ去ってしまった。

 見渡すと、ほんのりと光るランプに照らされた先に、人の生活している部屋がはっきりと映しだされている。部屋は幾つかに分かれているようだ。かなりの大所帯なのだろうか。ハンモックから降りてみようとしたが、身体が痛んでその勇気が出ない。時間も気になったが、とりあえずは、そのまま事態が変わるのを待ってみるしかなさそうだ。

 

 しばらくすると、誰かが穴の一つから菜多里のいる部屋に入ってくる。歩きながら近寄ってくる相手は、大男が一人と、その後ろに女が二人。女は男の背中に隠れるように猫背気味に歩いている。そして男はいきなり話しかけてきた。

 「なぜ、ここへ来た?」

 菜多里の故郷の言葉だった。後ろにいる二人の女は、男の後ろで顔半分をのぞかせている。

 菜多里は間を置きつつも確信を持って「あなたたちに会うために」とこたえた。

 「なぜだ?」と男はまた、無愛想に言う。

 「ある病気の事を調べています」

 「とは?」

 「今、地上で急速に流行しつつある病気です。原因は分かっていません」

 菜多里はここにたどり着く必要があった理由を一部始終、丁寧に説明してやった。力のない声に、はじめのうちは彼らも無表情に聞いていたようだったが、その表情が時々、変わるのを菜多里は見逃さなかった。

 この人達は何かを知っていると、確信した。

 話が一通り終わって、つかのまの沈黙の後、彼女はハンモックから抱き下ろされた。これから悪い事が起こるとは直感的に思えず、彼女は素直に大男の指示に従った。

 「どこに行くのです?」

 「黙ってついてくればいい」

 四人が行き着いた場所は、左右両側の壁に二つのランプが灯された大広間だった。正面に祭壇らしきものが施され、それを背にするように金で彩られた椅子が一つ、置いてある。菜多里はその場にひざまずかされ、三人は左右、ランプの下あたりに並べられている椅子に腰掛けた。

 誰かが来るようだ。そして、祭壇に備えつけられてあったランプが二つ灯されると、正面の穴から、まだ幼顔を残した美しい女が現れた。彼女は金の椅子に座り、菜多里を正面に見下ろす格好となった。

 「最近は、よからぬ連中がこの辺りを徘徊しているのであのような罠をしかけています。許してください」と、若くて美しい彼女は言った。

 「われわれは地上の人間との接触を絶っています。一時期、接触が横行したばかりに、われわれも地上の人間もお互いに不幸な結果を招きました。分かってくださいますね?」

 菜多里は、姿勢を正すと彼女の目を見た。後ろの祭壇に光るランプが眩しくて、はっきりは見えなかったが、美しい目をしていると感じた。

 「あれが、あなたたちの仕掛けた罠だったのなら、彼は、私の連れはどうなったのでしょうか?」

 「生きています」

 祭壇の前に座る女は、はっきりとした口調でそう言った。

 「よかった。でも、なぜここにいないのですか」

 「ちょっと怪我をしました。でも大丈夫です。命に別状はありません」

 「助けてくださるのですね?」

 「それはまだ何ともこたえられません」

 まだ信用されているわけではない…か、と周りに座っている人間の表情を見据えた。

 「あなたたちは、ある病気のことでここに来たと聞きましたが、本当ですか?」

 女が言った。

 「本当です」

 「では、その病気のことについて、もう一度わたくしに説明してはいただけませんか?」

 「信用していただけるのなら、何度でも説明します」

 菜多里は、ハンモックの上で大男に言ったことと同じ話をして聞かせた。

 「そのサンサというところで聞く話によれば、地上はかなり危険な状態と聞いています。早く何とかしなければ取り返しのつかないことになってしまうと思います。このことは信じていただくしかありません」と、懇願するように声を高めた。場は、空気の重みを感じるほど沈んだ雰囲気が漂っている。言うべきことは言った。あとは反応を待つしかない。

 「その原因が本当にここにあると、あなたは思いますか?」

 女が言った。

 「それは分かりません。しかし、何か、解決のためのヒントはあるのではないでしょうか?」

 「…」

 「わかりました」

 女は、周りに座っていた仲間の一人に合図を送ると、一人の男がその場を去り、そして戻って両手で一つの小さな木箱を抱えて戻ってきた。男は女の近くまで行って、その木箱を渡した。

 「これを見てください」

 女は菜多里を手で招き寄せ、蓋を開けて中に入っているものを見せた。

 「これは」

 中には、ゴミか埃のようにしか思えない白い粉のようなものが底に付着している。それだけしかない。

 「そう、おそらくあなたが言っている寄生虫だと思います。私たちは、この地に何十年も前から住んできて、以前はこの虫によって仲間から死者が出たと言い伝えられています。しかし、今はこの生き物が原因で死ぬ者はいない。それは、私たちが過去に学んで生き方を変えてきたからです」

 「本当ですか?それは」と菜多里は、死者が出ないという言葉に希望を持った。

 「地上には、もうほとんど出ることはなくなりました。地下で生活する手段を手に入れたことで、地上に出る必要がなくなったのです。外気に触れることは害であることを私たちが悟った時から、洞穴で生きる術を知り、この生き物が原因で死ぬこともなくなったのです。いまでは交代で見張りに出る位です」

 女の話がとても信じられず、思わず辺りを見渡した。確かにみな健康そうではある。しかし、通常の健康とは太陽の下に暮らしていなければならないという考えを頭から追いやることはできない。

 「食料はどうされているのですか?」

 菜多里が聞く。

 「ここでとれるものもいくつかあります。その他は地上から調達しています。地上にはわれわれの農場があり、さまざまな食料を育てています」

 「地上で農場を営んでいる?」

 「その他に必要なものがあれば、私たちと昔から関係のある人間を通じて取り寄せればいい。それは、物の類から人間まで含めてです」

 「人間、人間が好んでこのような場所にやって来るとは思えませんが…」と菜多里は驚いた。

 「私たちに言わせれば、地上の世界こそ、もはや人間の住むべきところではない」

女はやや微笑んで、意味は理解できるはずだ、と言わんばかりの表情を見せた。確かに、女の言っていることが理解できる部分もある。一瞬ではあるが、ここに住む人達の生き方が正しいよう思えたほどだ。

 「その寄生虫は、あなたたちに寄生することはあるのですか?」と菜多里は女にきいた。

 「あります。ただ皮膚の中に入ったりすることはありません」

 「では、では、なぜ地上の人間には寄生したり、害を及ぼしたりするのでしょう」

 「あの生き物は、ダニなどと同じで通常の生活環境なら皮膚の外に吸いついて、体液を吸いつづけます。払い落とせば済むことです。しかし、いったん太陽の下にさらされると自らの身を守るために皮膚の中に入り込んだりもするようです。そうすると何かの原因で」

 「死に至る」のだと、菜多里は思った。


 「原因はわからないのですか?」

 「わかりません」

 その後、また沈黙が続いた。菜多里もどうしていいか分からなかった。ただ、とても心地良い波長をもった風がこの洞穴に流れ込んでいると感じ、気分は寛いだ。

 「その箱をお借りしてもよろしいですか?」

 女は少し考えるようにして、「申し訳ありませんが、それはできません」と言った。

 「あなたがまだ信用できないこともあります。ただ、この標本をあなたの住んでいる町に持ち帰っていろいろと調べられ、病気の原因が見つかってしまっては困るのです」と続けた。

 「そんな、なぜ?」

 「原因が分かってしまえば、病気を防ぐための研究も進むでしょう。そうなってしまうと、またあいつらがたくさんやってくる」

 「あいつら?」と菜多里がつぶやいた。

 「われわれは地上を捨てた民族です。私たちの先祖は地上に生き、そこでさまざまな不幸を経験してきました。一つの文化を、われわれは捨て、新たな文化を得ました。いまさら地上の人間と接触するつもりはありません」

 女は一瞬伏せた目を戻し、「あいつらはこの土地を奪い、いたるところに穴を掘り、この地にあるたくさんの大切なものを奪い取っていった」と言った。

 菜多里は黙って聞いている。

 「何もかも…。宝石や石炭のようなものが目当てだったようですが、その頃の私たちにとって大事なのは、この地の土でした。特別な栄養分を持った肥沃な土です。それが、この地一体に広がっていて、作物を毎年豊かに実らせていました」

 「しかし、あいつらがここにやってきて、すべてが壊れてしまいました。崖の途中に大きな横穴があったのは気付かれましたか?あそこから風を取り込んで、その先に広がっているたくさんの通路に空気を絶え間なく送ることで、この箱の中にある微生物を育て、良い土に変えていたのです。微生物は土の表層までは上ってきません。日光を嫌いますから。それをあいつらは大きな穴をほって、土を掘り返し、先祖が時間をかけて造ってきた風洞を埋め、微生物とともに生きてきた私たちの大切な環境を奪い取ってしまったのです」

 「あいつらはあの横穴にも目を付けました。あそこから入ると、光の洞穴が無数に枝分かれして広がっています。あなたもあの美しい世界を見たと思いますが、あれは光る苔です。苔は、微生物が分解したものを栄養にしていますから、微生物が無ければ良い作物も育たない。それを削り取り、自分たちの町に持ち帰り、でもすぐに枯れてしまうからまたここにやって来て持ち帰っていく。いつかスイラから苔は消え、豊かさも伝統も消えてしまいました」


 「その微生物が、今世界を苦しめている寄生虫と同じということなのですか?」

女はためらいなく「そのはずです」と答えた。

 「微生物は日光にあたりさえしなければ、何もすることはありません。自分たちに必要な光は自分たち自身で作っていますし、外部から強い光を受けると、光の無いところに逃げようとします。地上で暮らす人の体に入ってしまうと、命にかかわることがあるようです」


 洞穴にあった美しい光の世界を作り出す生き物が地下を肥やし、太陽の下では毒となる。女の確信ある言葉は、信じるべきであると思えた。それにしても、「あいつら」は、この地にそのような危険があることをいつから知っているのだろう。そしてどこまで病原体を広げてしまったのだろう。


 「人から人に感染することはあるんですか?いつから…」と、菜多里はようやく口を開いた。


 「人伝いに感染することもあると聞いています。あなたがさっき言っていたことは、原因がここにあることも含めて間違いないと思います。あいつらがここに来なくなったのはもう十年以上も前になります。突然、死者が増えたことが原因だと思います。同じように私たちの身にもその不幸は訪れましたので」

女は周囲をちらりと見て続けた。

 「ですから、地上の人間にもできるだけこの一帯に近づいてほしくはないのです。あいつらが来なくなってから、ようやく築いた幸せです。私たちがおそらくすべて感染しているからこそ、もう地上は死の世界と自分たちに言い聞かせてきたからこそ生まれた幸せです。あなたももう、外に出たら安全かどうかわからない。ですが、私たちと一緒に暮らせば、この幸せを共にすることができます」

少しの沈黙が訪れた。

 「どうして地下の世界を?」

 「選んだのか、ということですか?さっきも言いましたが、私たちの先祖は、風穴を掘ることに明け暮れた時期がありました。最初は、ある一帯だけの作物が、まるで違う作物のように育っていて、土を調べ、断層を見つけました。断層は一帯に広がるように分かれ、大きい亀裂の奥には光があった。彼らはその美しい光が作物に関係するのではと、光の増やし方を考え、風に反応することを知った。それも特別な風に…」

 そう言ったところで、女は菜多里の顔を見つめ、深く息を吸った。

 「川の両岸にそびえるキャニオンから横穴を掘ることを思いついたといいます。それによってもっと広大な土地に豊作地を広げられないかと考えたのです」

 「掘ってしばらくすると光の世界は広がり、次第に地下に住む人が現れ、その数は増えていきました。私たちは、地上と地下の二つの部落に分かれて住むようになり、地下の人々が洞穴を掘り進めることで畑を肥やし、地上の人々が作物を作る、そんな共同の営みが生まれていきました。しかししばらくして、二つの部落を行き来していた多くの住民が命を失いはじめ、どちらか一方にだけに暮らす人には死者が出ないことを知るようになっていった。いつしか地下と地上の人々の交流は途絶えてしまい…」と女は言葉を止めた。

 長老が、この人々と交流がないと言っていたことを思い出した。ずいぶん長い時間をかけて今のような洞穴の生活がひそかに築かれてきたに違いない。地上の部落はどうなってしまったのだろう。そして「あいつら」はどうなったのだろう?


 「土と農作物の交換だけは続きました。さらに長い期間をかけて、地上からここに来る人間は生き続け、逆に地上に出た人間は生き続けられないこともわかってきました。それと同じように、地下の人間でも夜になら地上に出ても大丈夫だということもわかってきて、二つの部落はまた交流を始めました」

 「その、あいつらと呼ぶ人たちはどうなったのですか?」

 「あいつらは、先祖がとても長い年月をかけて築いた世界をずたずたに壊してしまった。風穴も寸断されてしまいました。この地に死者がたくさん出始めて、それでも少人数のグループでやってくることはありました。しかしその数も減っていきました。おそらく欲しいものがほとんど採りつくされてしまったのか、別の場所を見つけたのか、本当に命に危険がある所だと噂になったのか、そこまでは私たちも知りませんが」

 「部落は…?」

 「地下の人間は、洞穴の末端の方に避難できた人間は助かったのですが、地上の人々は労働を強制させられ、ほとんど生き延びることができなかった。それでもほんのわずかの生き残った仲間と共に、私たちは地上の土壌に洞穴を通し、こうして再び土地を作ってきたのです。もう、昔のようなことがあってはならない。ですから、もうこのまま悪い連中が近づけない場所のままであってほしいのです」


 女の言うように、地上の世界より、この地下の世界の方が心の平穏をもたらしてくれることはあるのかもしれない…。そう思いながらも、「しかし、その箱を持ち帰らないことには、地上の世界が滅びるかもしれないということも分かっていただきたいのです」と菜多里は言った。

 「申し訳ありませんが…」

 「でも」と、菜多里は周りにいる人間に目を移した。誰もが決意と不安を錯綜させたようにこちらを見ている。

 「わかりました。でももし、何か、少しだけでもいいんです、あの病気について私たちにできることがあるとしたら、何でもいいので教えていただけないでしょうか?」

 女も周囲の表情を眺めるようにして、思案するようにこたえた。

 「条件があります」

 菜多里は顔をあげた。女はまっすぐに彼女を見て、そして言った。

 「あなたはサイタの風操士ですね?」

少し間を置き、菜多里は頷いた。

 「やはり。今、あなたが発している風が、私たちには必要です」

 「何のことですか?」

 「あなた自身は気付かないのでしょうか。あなたの体は今、風を衣服のようにまとっています。その風は、まさに特別なもの。光苔に強いエネルギーを与えたのです。あなたが見た光の洞窟は、そのエネルギーによって眩しいほどに輝きました」

 「本当に美しいところでした」

 「いつもはあれほど光ることはありません。今、あなたがまとっている風が影響したようです。それがなければ、あなたはおそらく助けられることはなかったでしょう」

 菜多里は、その風について意識することはなかったが、確かに風は、ある。

 「その力によって、この、私たちのスイラを豊かにしたいのです。光る苔は、強く輝くほど地上の作物を豊かに実らせます。あなたが、一生、ここで暮らすこと、それが条件で、解決する術を知っている人間と会わせます」と、女はきっぱり言った。

 ここに一生暮らす…、それはありえないと菜多里は思った。しかし、他に道があるようにも思えない。

 「もし断れば…どうなりますか?」

 「申し訳ありませんが、この場所を知っている外の人間を生かしておくわけにはいきません」

 しばらくの沈黙を置いて、菜多里は言った。

 「その風は、その特別な風は、昔はどうしてこの地に吹いていたのですか?サイタの風操士がいたのですか?」

 「いえ、そうではないと聞いています。海風の方向が変わったようです」

 「海風…」

 「そうです。同じ海風でも、吹いてくる角度によって苔の輝きは変わります。なぜかはわかりませんが、それは私も実際に感じています。あなたが今まとっているような、命を育む風が以前は吹いていました」

 「命を育む…」

 この地下の世界も地上と同じように風と共に生きている…。自分たち風操士の使命はまさにその命の風を育むこと。それならばどうして場所を選ぶ必要があるだろうか。今までの場所にこだわる理由がどこまであるのだろう。しかし、だからといってここで良いと言えばそれは嘘だ。サンサで三日の期限もある。そうだ、それを超えてはいけない。そうだ、たとえ嘘をついてでも、今は生き続けるしかない。それしかない…。


 「私がここに残り、風操士として仕事をする。それで世界を救う手助けができるのなら仕方がないのかもしれません」

 

 「本当にいいのですね?」と、女は立ち上がった。

 「はい」

 「わかりました。あなたを、今から別の場所に連れて行きます。あそこに立っている男の腕につかまって行ってください」

 女に従い、男のところに歩いていくと、その場で目隠しをされた。

 「悪く思わないでください。この場所のつくりを、外の人間に知られたくはないのです」

 菜多里は、目隠しをされたまま頷いた。


 二人は歩きだした。目隠しは十分すぎるほどしっかりと結ばれていたので、目に食い込む痛みを覚えたが、それを男に訴えることは無意味だと思えた。扉らしきものが重々しく開く音がして、そして後方で閉まる音がした。それが何度か繰り返され、二人は次第に下っていく。階段のような段差を降り、途中で立ち止まると、ギリギリというような音がする。その音がやむと前に進み、そしてまた後方でギリギリと音がする。通路はうねっていて、すでに方向感覚はない。空気はしんとして眠っているようだったが、ほのかな冷たい層がかすめるのは心地よかった。

 「着いた」と、男が言った。

 「目隠しを取っていただけますか?」

 男は、黙って菜多里の目に食い込んだ目隠しを解いた。

 「ここは、どこなのですか?」

 「すぐにわかる」

 女と話していた部屋と、それほど変わらない空間があった。壁にランプが二つ、消えそうな朱色の光を灯している。ほのかな光を受けとめる部屋の石壁には、やはり祭壇らしきものが一つ置いてあり、その前に椅子が一つ据えてあった。

 「ここで待っていろ」

 男が言い、祭壇の後方の右寄りにある穴の中に消えていった。

 「こちらに来い」

 男は今度は菜多里をその穴に呼び寄せた。彼女は、男の言う通りに穴の中に入り、思わぬものを見せられた。

 サン、である。片足がなかった。その脇に、女が一人連れ添っている。

 「サン。あなた、その足どうしたの。大丈夫なの」

 ベットの傍らに走り寄り、悲鳴に近い声を上げた。

 「静かに、菜多里さん」と、サンは自分の指を口もとにあてて彼女をなだめた。男も、黙れ、といわんばかりにこちらを睨んでいた。

 「菜多里さんと別れたあの時、私はあの化け物に襲われました。やっぱりナマズのような生き物だったようですが。足に絡まれ倒されて、目の前にあいつの顔が見えた気がした時には、さすがに死ぬと思いましたよ。その時、この人達が助けてくれたんです。でも、知らないうちに足が片方なくなっていた、というわけです。ナマズが人間の足を食べるなんて、知りませんでしたよ」と、笑ってみせた。が、顔は引きつっている。

 「笑っている場合じゃないわ。その足じゃ、ここから帰ることだって難しい」

 彼は壁際に置かれたベットで、上を向いたまま息をした。

 「菜多里さん、私はこのまま帰れなくてもいいかもしれません」

 「えっ」

 「ここはいい所です。そう思いませんか?」

 「ここに住む人達の考え方は私たちと似ている。断言してもいい。そっくりです。ただ私たちは、このような生き方を知らなかった。だから、地上でもがいている。ここなら、そんなことをする必要がない」

 「…」

 サンの言っていることはわかるようにも思える。しかし、彼の言うことを認めてやるだけの勇気がない。

 「でも、あなた、一日くらいでそんな結論を出すのは早すぎるわ。自分の故郷はどうなるの。みんなで戦ってきたんでしょう?」

 彼は笑った。

 「あの化物と格闘してからもう三日は経ってますよ。それに、私は、町の同志のほんの一員にすぎません。私一人くらい欠けても、何の影響も出ませんし」

 「え、だって、そんなことを言ったって…」

菜多里は、サンの側に立っている若い女に目をうつしながら、自分がハンモックで三日も眠っていたのかと思った。底がないほどに美しく、そして優しそうな瞳が、菜多里を見返すと、自分までその魅力にひきこまれそうになる。サンは、彼女の不思議な魅力に心を動かされたのかもしれない。

 「さあ、行くぞ」

 男が菜多里の腕を取った。

 「目隠しがないのですから、もう腕を握っていただかなくても結構です」

 菜多里は怒ったように、大男に向かって言った。男は意外にもすんなり手を離してくれた。

 「どこへ行くのですか?」

 「ついてくればわかる」

 この男は、同じことしか言えないのだろうか…。通路を抜け、二つほど部屋を過ぎると、次の目的地に着いた。どの部屋もほとんど同じように見えたが、広さと内装が少しずつ違っているので別の場所であるに違いない。この場所にもベッドが一つ置いてあり、一人の老人が横になっていた。

 「連れて参りました」

 男は老人に向かってそう言い、菜多里を彼の所まで歩かせた。優しさからか、悲しみからか、たくさんの皺に刻み込んだ人間の顔が、そこにはあった。



26.スイラの風神


 「こんにちわ」

 声をかけてみてもベットの中にいる老人は黙ったまま皺で笑っているように見える。大男が菜多里に向かい、ここまで来たいきさつを話すようにと進めたので、彼女はさきほど女に言ったことと同じことをまた説明した。

老人は、相変わらず皺で作られた笑顔を微動だにすることはない。大男が老人に聞いたこともない言葉で話し、老人は大男と囁くような声のやり取りを交わした。

 「向こうの部屋に行けと言っている」と、大男は指で方向を示し、二人は老人のいる部屋を抜けて隣の部屋に向かった。その部屋に入るためには、二つの扉を通らなければならず、厚い木板の外側に鉄の格子ががっちりと渡された重厚な扉から、物々しさが伝わってくる。

 「何があるの?」と聞いてみても、「行けばわかる」と、また同じこたえを繰り返すだけで、大男は無表情をつらぬいている。一つ目の扉が締まり、二つ目の扉が開いた。中を見て体が凍りついた。そこにはたくさんの人間のミイラが横たえてあり、壁にもびっしりに埋め込んである。それらの周りを飾るように、金貨や宝石類などが、所狭しと置いてあった。

 「誰のミイラですか?」

 「ここ、スイラの英雄たちだ」と、大男が言った。

 「スイラ…」

「彼はもう何十年もその番人をしている」と老人を見た。

 「それにしてもこんなにすごい数の宝石、いったい…」

 と、菜多里は地面に膝をついて足元に無造作に置いてあるように見えた金貨の一つを手に取った。

 「随分、古いもののようですね」

 「何世紀も前のものだ。われわれの先祖が地上のこの辺り一帯を支配していた時に集めたと言われている」

 「でも、こんなにどうやって?」

 「海賊であったのだ。古くからの」

 男は仁王立ちのまま、そう説明した。

 「海賊…」

 男はうんざりしたように彼女をにらみ、「余計なことを言わせるな」と、ゴツゴツした白い顔で無愛想に菜多里に言ってきた。

 

 「スイラの風神…ですか?」

 大男の口が一瞬半開きのまま動かなくなり、そして「そうだ」とこたえた。

 「やはりそうでしたか…」

 彼女は続けた。

 「私の家族は、東の圏域の大洋に面したサイタと呼ぶ町で生活していました。とても美しいところでした。特に豊かな町ではなかったけれど、いつも吹いている大風の恵みによって風を操る文明を磨いてきました。誰もが仲良く、幸せに暮らしていたんです。ですが、国同士の争いが増えた時期に、タイトという町に生活を奪われました。人が奪われ、技術が奪われ、風が奪われたんです」

 男は立ったまま、沈黙を続けている。

 「私の町の人間は、散り散りになりました。風が狂ってしまった町ではもうそれまでのように生きていくことができなくなってしまったのです。私の家は、代々風操士でしたから、父と母は仲間からの連絡を受けて、うまく私を連れて船に乗り込みました。もちろん小さな船ですが、私たちの技術があれば、すごい速度が出せます。それで逃げ伸び、名前を変えて暮らしてきました。スイラの風神はかつて、サイタの風操士と組むことで、その速度を何よりの武器に世界中に知られた…」

 菜多里はそう言うと、右手を男の前に差し出した。そこには扇子があった。

 「これがわれわれの証です。この扇子は世界中に数えるほどしかありません。当然、持っている人間もわずかです。ただこれを持つ仲間は風を本当に操ることができます。今でこそ、風操士は有名ですが、ほとんどの風操士はわずかな技術を学んだに過ぎません。その技術というのは、私たちの地域で教えられるほんの一部です。それを私たちの地域を攻めた敵の誰かが盗んで広めた…、武力の術にもなりますし…。でも私たちは違う。風の反応を使えば、散り散りになっている仲間同士でも、消息を知り合うことだってできます。もちろん父と母とも」

 「そんな話で本当にサイタの風操士であるのかはわからない。姫は信じたようだが」

 男は黙り、「少しの間、ここで待っていろ」と言って姿を消した。

 大男が次に現れた時は、何十年もこの場所の番をしているという老人も一緒だった。老人は、大男の背中にその身をのせている。

 「彼は、お前の名前を知りたいと言っている」と大男が菜多里に言った。

 「菜多里と言います。ナタリ・レイジ」

 その言葉は、老人の耳にも直接入ったようだった。彼の皺が大きく動き、「ナタリ・レイジ」「レイジ」とゆっくり繰り返し、その後で大男に何かをつぶやいた。

 「おまえの話を聞くと言っている」

 「今、地上で流行している病気を直す手だてを知りたいのですが。あなたは何かご存じだということで、ここまでやって来ました」

 大男が、自分の背中に乗せている老人にその事を通訳している。老人は何度か頷きながら、自分の身を預ける男に言葉を返していた。

 「あんたに箱を渡さないのは、それを地上に持ち帰って調べれば、おそらく原因が分かってしまうからだそうだ。遺伝子の型で生息地までもすぐに見つかってしまう」

 「それなら、地上で見つかった寄生虫をサンプルにすることだってできると思いますが…」

 「未だに、地上で原因がわかっていないのは、地上で人間の皮膚に入ってしまったものは、体内ですっかり消えてしまっているからだそうだ」と、大男は菜多里の疑問に簡単にこたえた。

 「そんな…」

 「じゃあ、あなた方があの木箱に入っていた虫そのものを手に入れない限り病気を直す糸口はつかめないではないですか?」

 「薬がある」

 「薬…、それがここにあるのですか?」

 「いや、ここにはない。海にある」

 「海?」

 「海に、海藻がある。普段見ることはできないが、明日は行くことができると言っている。彼が、その場所へお前を連れて行くと言っている」


 迷っている暇はない。そこに行くしかない。



27.海藻の光


 海に行くには、小舟が使えた。それは、あの「帆舟」にどこか似ていた。川が蛇行しながら海まで続き、帆を張りさえすれば彼女は風を起こすことができる。同行する者のなかにサンはおらず、老人が一人、ポツンと座っているだけだ。大きなうねりもなく、ときに真っ黒なガラスの上を滑っているように進む。岸は常に左手にあるようで、沖合ではないことに安堵した。そして月のない真夜中、目的地に到達した。


 「ここです」

 皺で笑ったまま寝ているように見えた老人が、かすかな声を発した。菜多里は身振り手振りを交えながら自分の言葉を伝えると、笑ったままの浅黒い顔を見せて右手の指を海の沖合に向かって指した。

 あまりにも暗いせいだろうか、星明かりによるものだろうか、その方向にぼんやりと大岩のようなものが浮かんでいるのがわかる。

 「こちらでいいのですね?」

 老人は頷いた。

 「不思議なところ…」

 そんな呟きとともに舟を彼の指を向けた方向に変えると、小さな舟は、木のきしむ音とともに、またすぐに滑り出した。

 大きな岩が迫ってきた頃、老人は菜多里に声をかけた。とまれと言っているのだろう。舟を止めると、老人は今度は沖の方を指で示した。

 「こちらでいいのですね?」

 老人は頷いた。彼が指で示す進路は、大岩の周囲を回るようにして、岩の間を抜け、途中、錨を打った。

 「少し待てば入口が現れる」

 老人はそう言ったようだった。宇宙の中に自分が吸い込まれてしまいそうなほど奥の深い星空が広がっている。流星がたゆまなく降り注ぎ、菜多里は遠い時間のなかを漂う自分を強く感じた。


 「行きましょう」

 彼の声で、我に返った。指をさす大岩の方向には、ぼんやりではあったが、水面との境に光が浮かんでいるように見える。その方向へと舟は向かう。光は、小舟がちょうど入れるほどの洞窟の入口にあった。吸い込まれるようにその中に入り、すぐに彼女は目を奪われた。洞窟が青い光に満ちている。明るい光の中で、澄んだ海の中を色とりどりの魚が泳ぎ、銀色に輝く魚の群れの乱反射によって、光が海面に散りばめられている。これほど美しい景色を今まで見たことがあっただろうか。

 「ここは、いったい…」

 「海藻が光っている」

 「これが…」

 菜多里は言葉が出なかった。

 老人は、岩肌がすぐ近くに迫る浅瀬に錨を投げた。


 「ここにある」と老人は言った。

  「潜れば、海藻はあるのですか?」

 彼は頷き、降ろした錨のロープを手に取り、伝わっていけ、というようなことを言っている。でも…と思ったが、海の中に入って行くよりしかたがなかった。

 海面に体をつけると、肌に海水の心地よい温さが伝わってくる。足は全く底につかないが、海水は体を楽々と水面に浮かせた。舟腹につかまりながらロープの投げ込まれた位置まで進み、そこからロープ伝いに潜ってみた。手を交互に出しながらロープを引っ張っている自分を改めて振り返ると、自分がこの数日間でどれだけたくましくなったかと思う。それがロープをたぐりながら海底に向かって前進する自信にもなっていた。

 あまりの美しさに息をしていないことさえ忘れてしまいそうだ。まるで本当の銀河系を漂っている自分がいるようだ。進むほどに光は強さを増し、自分の体が眩く、魚たち、揺らめくサンゴとともに輝きを放っている。

 なんてすばらしいところ…。ああ、いつまでもこうやって漂っていたい。すべての命が、強く、激しく輝いている。私の体にも、力が入り込んでくる。強く、美しく変わっていく。息などしなくていい。このままずっと、こうやって漂いたい…。


 「大丈夫か?」

 気付くと舟の縁につかまっている自分がいた。

 「私、どうしたんでしょう?」

 老人は菜多里の手をつかんだまま、「あんたも魅了されてしまった」と笑って言った。

 「なんだか私、すごく美しい景色にみとれて…。でも、海藻なんてなかったようにも思いますし」

 すると老人が立ち上がった。今までの彼からは想像できないほど身軽に、服を脱いでふんどし姿になると、海の中にひょいと飛び込んだ。黒く痩せた体は、海の底へとみるみる小さく消えていき、瞬く間に静けさが戻った。

 どのくらい経ったのだろう。普通の人間にはとても信じられないくらいの時間が流れたように思えた。あるいは、今、ここにいることも幻か何かなのか、とすら思えてくる。彼女は、舟の縁につかまり、じっと彼が戻ってくるのを待った。

 ブクブク。そんな音とともに、泡がはじけた。彼だ、彼に違いない。やはりこれは現実なのだ。その通り、ようやくにして大きな光の塊が海の中から近づき、水音とともに老人は顔を出した。


 「それ、なのですね?」

 老人は、水を滴らせながら顔の皺を深く刻んで頷いた。

 「でもこんなものあったかしら?」

 彼は手で石を形どり、石の底の方に生えているようなことを言っているようだ。菜多里は、もう一度行ってみたい強い衝動に駆られた。

 「これで十分。見に行くのはいいが、とったり触ったりしてはいけない。この海藻も昔に比べれば随分と小さく、弱ってしまった」

潜った回数は何度になるか知れない。楽しくて仕方がなかった。そして、潜るほどに体に力がみなぎってくる。舟の上には、光る大きな海藻が前半分に乗せられている。

 「帰ろう。これ以上、潜ってはいけない」

 「え?あ、はい」

 我に返ったように、菜多里はこたえ、老人の手を借りて舟に上った。

 「元気になったかな?」

 「はい。不思議ととても」

 「この海は、そういう力を持っている」

 「そういう力…?」

 「薬のような、そういう力を持っている」

 老人は、手早く錨を上げると、オールを入れ、舳先を元の来た方に向けた。光の上に浮かぶ帆舟…。つかの間のそんな光景が菜多里の視界に描き出され、舟は月のない海に出た。闇に目が慣れていくなかで、老人は菜多里に声をかけた。

 「風を頼む」

 菜多里は頷き、手を掲げた。間違いなく風を操っている。舟はみるみる速度を上げていく。空には大きな雲の渦が現れているのが、星明りのなかに見て取ることができた。彼女が起こす風のせいなのだろうか。いつまで経っても渦の中心が常にこちらを睨みつけているようでもある。そう言えば、初めてこの海の存在を教えてくれた不思議な男も、渦のようなものを作っていたのではなかっただろうか。その中で闇を味わい、そして、突然空けられた風穴…。偶然とは思えなかった。

 「あの渦はなんですかな?」

 入り江が近づいてきた頃、老人は言ってみた。

 手を掲げたままの女は、間をおいて思い出したように口を開いた。

 「よくわかりません。ただ、何かこの風と関係があるとは思います。どこか別の世界と、この風をつなげているような…」

 「サイタの技ですか?」

 「それは…、本当によくわからないのです」

 「昔、あの海をわしに教えてくれたのは、おそらく風操士なんだが」

えっ、と彼女は男を見た。

 「この空を闇に包み、息苦しくなり、もうだめかと思っていたら舟が揺れ、大きな風穴が開き、そこから光が抜けて入ってきた。闇はあの渦のようなものだったように思うが」

 老人は、はっきりとした声で女に声をかけた。

 「あんたには、ほかにどんな力があるのかね?」

 「ほかに、と言いますと?」

 「わしには風操士のことはよくわからんが…」

 「そのような渦を作ることができるかどうかはわかりませんが…」

 「そうさな、この入り江は使いづらい。岩をくだいて風の通り道を拓き、もっと安定した風が吹いてくれたらありがたいが…」


 老人にとって菜多里の起こす風は、あのときの風操士との記憶をよみがえらせるものだ。しかしそれは、そのときよりも激しく、強く、力に満ちている。

 顔の前に手をかざす速い動作は、竜巻を創り出していく。その中心は、はるか上方の渦の中心とつながっている。次第に強まる破壊音とともに、空間のすべてが激しく揺さぶられる。それは、地表を削り、入り江につながる森の中へと突き進み、木々をなぎ倒し、高くガレキが舞い上げ、その跡には、森から入り江へと続く大きな風の道が通った。

 「聞きしに勝る、そ、それがサイタの技なのか?」老人はようやく声を発した。



28.サンとの別れ


 何事もなかったように、二人を乗せた舟は入り江の脇の川を上り始めた。複雑な支流でも、老人の言葉通りに舟を進めれば、すぐにあの地下の町に戻れた。

 「話は聞いた。お前を本当の風操士として受け入れる用意をする」

 菜多里は頷き、そして言った。

 「ここには私の連れがいるはずです。彼に海藻を預けます」

 「あの男は、もう何処にも行かない」

 菜多里の不安が実際のものとなったようで、声を失った。

 「それはどういう意味ですか?それでは、あの海藻を持ち帰ることができない」

 静まり返った空気は、例の祭壇のある部屋に充満したまま全く動く気配をみせない。

 「私から答えましょう」

 琴線を破ったのは、最初に立ち会った女だった。

 「あの方は、残念なことに片足を失っている。そして、ここで滞在することによって傷は癒え、心に安らぎを覚えるようになりました。あなたにだって分かっていただけることだと思っています。あの方は、ここに残りたいと言っているのです」

 「分かりません。彼にも信念がありました。それが、こんなに簡単に崩れるなんて…」

 「せめて、もう一度会わせて下さい。そして本人の口から気持ちを聞かせて下さい。お願いです」

 「残念ながら、それはできません」

 「なぜ?」

 「サンはもうこの世界の人間です。信じられないのは分かりますが、この世界の女と結婚しました。われわれは住人が何にもまして大切なものです。そして、この世界を維持するためには、外部の血も必要としなければなりません。彼の心をこれ以上動揺させないでほしいのです」

 「そんな、勝手すぎます。もし今あなたが仰ったことを変えるつもりがおありでないのなら、こちらにも考えがあります」

 「何をしようというのですか?」

 「私の力はご存知ですね。ここに突風を巻き起こして、あらゆるものを吹き飛ばします」

 「本気なのですか?」

 「もちろん本気です」

 もはや、菜多里の凄味は中途半端なものではなくなっている。周囲も動揺した。

「やはり、あなたの言っていることだけで理解するというのは無理な話です。だいたいこんなに短い期間に人の心が一変するなんて信じられません」

 「わかりました。相談しますので少し待っていてください」

 女は消えた。それにしても、自分を捕まえる気になればすぐにでも出来たはずだ。そう思うと、女の言っていることは、あながち嘘ではない。菜多里は気になった。

 「わかりました。サンに会っていただきましょう」

 

彼はすぐにやって来た。女の脇に用意された椅子に座り、優しい笑顔を浮かべて言った。

 「菜多里さん、いろいろとご迷惑をかけて申し訳ありません」

 「サン、あなた本気なの?」

 「本気です。ここに住むつもりです」

 「なぜ?」

 「不思議なものです。頭で考えるよりもずっと、人間が自然体であれるということを、ここは私に教えてくれたようです。本当に私の身勝手になりますが、こんな気持ちになったのは始めてのことです。どうか許してください」

 サンは訴えるように、菜多里を見た。目には涙がにじんでいる。そんな彼が許せない半面で、いとおしく、どこかで気持ちを尊重してやりたくもある。

 「わかりました、サン。本気なのですね。でもあなた、もし時間以内にサンサに戻れなかったらどうなってしまうかもわからないのよ。長老さんに聞いてみますが…。それでもし危険なことになるなら、一度は戻ってもらうわよ、約束よ」

 「はい」


 「その話はおかしい」と男が口をはさんだ。

 「お前も、風操士としてここに残らなければならない」

 菜多里は、男の言葉に対し、きっぱり言った。

 「約束はしましたが、そのときはこんな話は聞いていませんでした。彼が地上に戻れない以上、私があの海藻を持ち帰らなければなりません」

 「それは許されない」

 「では、どうしろと言うの?」

 「二人ともここに残ってもらう」

 「そんな…」

 菜多里は、絶望のなかから強い怒りが込み上げてくるのを感じた。そのときだ。彼女の体にまとっている風がみるみる成長し、すぐに彼女を取り囲む大きな竜巻となって、周りのものを吹き飛ばし始めた。菜多里自身も驚いたが、風の力は弱まることを知らず、むしろますます強く激しいものへと膨れ上がっていくようだ。

 椅子やテーブルが壁にぶつかり、瓦礫となって竜巻の中へと吸い込まれる。別の部屋に通じる扉も蹴散らされ、その向こうからはまるで断末魔の叫びのような音が反響してくる。

 誰もが頭を抱えて身を伏せていた。その中にサンの姿を見ることもできた。

 「サン、やっぱり私は行かなければいけないわ。お別れです」

 彼女は、竜巻に包まれるようにしながら歩き出した。誰も、その進路を妨げることはできない。入口を削り取りながら歩いていく軌跡には、瓦礫とともに今までの何倍もの大きな洞窟が残されていった。


 「菜多里さん、すごい。どうかご無事で…」

 サンは彼女の背中に向かってそう祈った。それが二人の永遠の別れとなった。菜多里は、竜巻の中に浮かび、削り取られた穴から地上に出ると、そのまま竜巻に抱かれるように、初めてここに来たときに見た崖に着いた。

 「あれを登れば…」。もはや躊躇はない。履物を投げ捨て、そして登った。来た時よりも圧倒的に体が軽く、自分でも信じられないほどの速さで登っていく。すでに不思議なほどの快さを感じていた。

 なんだろう。世界が明るくふわっとした気分だ。自然に手は上へ上へと運ばれ、裸足の足は、血が滲んでいるにもかかわらず踏みだすほどに気持ちがいい。ジリジリと焼きつけているはずの太陽も、全身を心地よい温かみで包んでくれるようだ。そして、最後の一段を超え、菜多里は約束の時間内に、あの部屋に着いた。この世界にサンと二人で入る時と同じ空間があり、そこはサンサと通じている。そしてそこに、長老が一人で待っていた。その姿に、菜多里は懐かしさを感じた。


 「よく帰って来た。疲れているだろうが皆が待っています。ついて来てください」。サンのことには触れず、彼は、ただそれだけを言うと、背中を向けて歩きはじめた。



29.サイタの風操士たち


 「だいたいこんなところです。あの世界に住む人々の言うことを信じれば、今ここにある、この海藻が病気の危機から私たちを救うことにつながるのだと思います。とても貴重なもので、いろいろ事情があってこの一切れだけになってしまいました」

 菜多里は店の中を見回しながら、そこにいる人々に見えるように海藻をひとつまみかざして見せた。

 「おれの町の問題がそれで解決できるのかわかりませんが」と一人が言った。

 「私はこの寄生虫がさまざまな問題解決の鍵を握っているのではないかと思っています。根っこを押さえねば、結局全てが壊れてしまいます。今後も放置しておくと寄生虫の汚染はますます広がっていくでしょう。私の知るところでは、寄生虫は太陽光を嫌う。ところが鉱物資源の掘り出しなどが原因で外にたくさんの数が露出され、それから逃れるために人間や今まで寄生していなかった生物の体内に入り込むものが現れた。


 そして人間の身体の中で死んでいくときに、何かが起こる。そのあたり、十年くらい経ってから人間に異変が起こるというあたりがまだ理解できないでいるのですが…」

 「それって」と誰かが言った。

 「寄生虫が自分の体にいるのかどうかってわかるんですか?」

 「おそらく普通には自覚できないのでしょう」

 「なら、誰にその海藻を与えれば良いかなんてわからないじゃないですか。それに海藻をどう使えば効くのかもわからない。仮に飲むとしても、発病してからでも間に合うんですか?」

 少しの沈黙を置いて長老は続けた。

 「そこのところもやはりわかりません。飲んでいいものかどうかも。ですから急いで調べる必要があります。」


 「仮に海藻で病気が治るとわかったら、俺たちのような苦しめられる人々も増えるのでは?」と別の男が立ち上がった。男の言葉を制するように長老は言った。

 「世界のあちこちで食料が採れなくなっているために、開発をして人を呼ぶことに専念せざるを得ない町もあります。一部の人間の欲で多くの人々が犠牲になったり、空気が汚れたり、おかしな病気が広がってきたり、いろいろと悪い循環が生まれていることもあるのでしょう。その犠牲として、今、最も恐ろしいのはこの病気だと思っています。でなければ、人々がこれから地下で暮らさなければならなくなってしまうようなことだってあるかもしれない。どうか力を貸してください」


 古い照明が、まるで今の世界の象徴であるかのように、寿命の近い灯をちらつかせている。期待と不安が錯綜するなかで長老は時計にちらりと目を移し、話を続けた。

 「今、ここに集まっている皆で、手分けしたいと思います。菜多里さん、あなたはこの海藻を持って、向こうの世界で病気の免疫の解明を急いでもらう。ホクイで正一郎さんと会ってください。それからサイタの方以外は、この危機を知らせるために自分たちの国や周辺の地域に行ってもらい、さらに病気の広がっている範囲をできるかぎり具体的に調べてほしい。サイタの方はここに残って、風操の技術を磨いてもらいます。


 えっ、と思った。風操の技術を磨くとは、いったい…。不思議がる彼女を見て長老が加えた。

 「そう、今まで黙っていましたが、サイタの風操士、あなた以外にもここに来ているんですよ」

 長老の目に促されるように静かに七人が立ち上がった。もう来ていたのか、と以前、長老が言っていたことを思い出した。サイタでも会ったことがない人たちが立っている。サイタの、あの悲劇の後に世界中に散った人々なのか、彼の言うことを信じればきっとそうだ。しかし、なぜ今ここに、この七人が呼ばれたのだろう。しかし、自分がなぜいるのかもはっきりとこたえることはできない。すべては長老の意図…。


 長老が言った。

 「彼らもあなたと同じ、サイタで選ばれた二十人の仲間です。あなたには正一郎さんに会いに行ってもらいますが、こちらに戻ってきたときには彼らと合流してもらいます」


 驚きをかくせない菜多里に、笑顔を向けている仲間がいる。「よろしく」と席の向こうから声をかけてくるサイタの仲間だ。ほどなく、細胞の一つひとつが反響し合うように体の奥深くから大きな力が沸いてくるのを感じることができた。

 「こちらこそ!」

 「では、今すぐに行ってもらうので、よろしく頼みます。時間は、おおよそ百日。みなさんの世界でも同じように時間が流れますので、しっかり時間を意識して動いてください」

 自分らの町に向かう仲間たちが、長老の家へと向かった。



30.光と印


 菜多里は、しばらくぶりにホクイの町へと帰った。そして、今回は“脳波”ではないはずだ。初めてサンサを訪れたときと同じ船で戻ってきたのだから。長老が紹介してくれた、船着き場近くの家の二階で朝を迎えた。

 窓を開け、人影のない町に向かって深呼吸をした。もうすぐ朝がやってくるのだろう。橋の間から見える川を覆う霧が、対岸に浮かぶ船をぼんやりと浮かび上がらせている。しばらくして階下からゴソゴソと物音が聞こえてきた。音は近づき、菜多里のいる部屋のドアをガリガリし始めた。菜多里がドアを開けると、向こうで甘え声を出す大きなオールドイングリッシュシープドックと向き合った。


 「あら、あなたは誰?」と語りかける彼女の声に反応するように、犬は一度声を上げ、お座りをしたまま多少前足をばたつかせるようにそわそわした様子でこちらを見上げる。

 「いつからここにいるの?ずいぶん人懐っこいのね。そんなんじゃ泥棒に入られてしまうわよ」と菜多里が言うと、犬は嬉しそうにまた前足をばたつかせた。赤く、太い皮でできた首輪を付け、その真ん中から銀色のネームプレートをぶら下げているのが目に入り、彼女もしゃがんでそれを手に取ってみた。


~黒丸ヨコタ~


 「そう、あなた、正一郎さんの。クロマルって言うの?」

 クロマルは、相変わらずお座りをして前足をパタパタやっている。

 「じゃあ、正一郎さんのところに連れて行ってもらえるのかしら?」

 彼女の言葉が終わる間もなくクロマルはすっと立ち上がり、今度はお尻を向け、こちらを嬉しそうに振り返った。懐いている犬にそういう仕草をされると、ついて来いと言われている気がする。菜多里はクロマルと一緒に行動してみることにした。

 外気は重さを感じさせるように地面にもたれ、自らにもまとわりつく霧をかき分けるようにして、前を歩く犬についていった。その姿に、先ほどの元気な愛想の良い印象はなく、ヨコタの身体のことを気にさせた。最後に会ってからだいぶ時間が経っているように思うが、元気にしているだろうか?

 川沿いを道なりに山側へ進んで、メタセコイヤの並木が出てきたら木の五本目にある路地を左に曲がればいいという記憶があてにならないほど、町は化けていた。それでも路地の入口はあり、そこだけを見落とすようにしたのではないかと思えるほど背の高い同じ色のビルが挟み込むように建っている。もしクロマルがそこを曲がらなかったら、気付かずに通り過ぎていたかもしれない。並木はすでになく、壁と壁の間から流れ出る、周囲とは異なる空気だけが彼女の記憶と一致した。ビルの壁を過ぎるとすぐに木造住宅の壁が現れ、突き当りを右、左と曲がればその先にヨコタの家がある。

 クロマルもそのように歩いていた。

 「正一郎さん…」

 期待と不安を交錯させながら、まだ薄暗い、土の匂いのする空気の中に吐く白い息が何度も溶け込んでいくのを眺めた。クロマルは立ち止り、こちらに横顔を見せる格好で座った。彼女も足を止め、確かにここだろうと思った。しかしそこにあるはずの重々しい門扉がない。よく見ると足元には、確かにそれがあったはずのくぼみを、均された土の上にわずかに確認することができた。その向こうにあった家もなくなって、更地になっている。

 

 「まさか」と声にもならない言葉と一緒にクロマルの方を見たが、その犬はただじっとしたまま動かない。だって脳波で“十年後”に来たとき、そこに家があって正一郎さんと“会話”したはず。それなのになぜ…。

 菜多里の目に涙がにじみ、それがくぼみのところに落ちると、黒い土色の染みになった。ホクイで会ったときから自分の世界を知ってくれていた彼。次第に家族のように慕うようになり、心のよりどころにもなっていた。サンサのことで本当に分かり合えるのも彼しかおらず、今の自分は彼に会うために戻り、会わなければならない。あの、何でも知っている長老も正一郎に会えと言っていたのだ。きっと会えるに違いないはずだが、それならなぜ黒丸がここに自分を連れてきたのだろう。


 いつしか頬の辺りに陽射しが差した。板張りの家々が残されたこの一角にも、大通りの音がだいぶ増えたようだ。少しずつ、彼女の五感を刺激する材料が増えていくと、僅かな気圧の変化も感じることができるようになっていった。もう少ししたら、霜柱を柔らかくしてくれる空気と入れ替わるだろう。

 黒丸が動き出した。

 「どこに行くの?」

 黒丸は振り向きもせず路地をゆっくりと歩いていく。彼女もそれについて行く。

 「ねえ、正一郎さんのところに連れて行ってくれるのよね?」

 そう声を出してみても、クロマルは最初に会った愛嬌たっぷりの犬とはまるで別の生き物のように振り向きさえしてくれない。全身を覆う長い体毛は、朝露に濡れて毛先が重たく下にたるんでいる。足元は土で汚れ、体全体がうなだれた老犬のように変わってしまった。彼女は無言の案内人に宛てもなく声をかける。

 「それとも家に戻るの?」

 何を言っても黒丸は反応せず、路地を右から左へと歩くだけだ。途中、ところどころに家一軒か二軒分くらいの空き地を見ることができた。いずれも四隅に杭が打たれ、金網が張り巡らされていて、その中には黒砂と貝殻のかけら、そして茶色い土が混ざり合ったような地肌と、背の低い雑草をまばらに見ることができた。

 「きっとこの辺りも立ち退かされたのね」

 もう、どのくらい前になるのか、以前、彼女が“街”に行った際、隣り合わせた席で、家を奪われたと言っていた少年のことが思い出された。みんな、どこに行ってしまったのか。前にホテルマンが街の発展を誇らしげに語っていたのと、少年の悔しそうな顔…。寒々しい空き地の汚れた土の上で雑草が揺れるさまが、そんな人々のことを交互に蘇らせる。


 やがて小さな神社に出た。三段の石段を上り、鳥居をくぐり、拝殿の前に並んだ。黒丸が建物の奥をまっすぐに見つめたまま動きを止める。菜多里も同じように目を向けた。大きな神鏡や和太鼓が目に入った。それから大きな玉のような物が、鏡の真下にある。黒丸に動く様子はなく、彼女は目をつぶりそっと頭を下げた。


 「あれ、菜多里さん、ですよね?」

誰かが声を掛けている。近い、確かな声だ。目を開けて見ると、拝殿の脇に少年が立っている。

 「あ、あなたは、あの遊園地の時の」

 少年だった。背丈も伸び、日焼けした顔はだいぶ大人びたが、面影は十分に残っている。

 「あなたを探していたんです。やはりあのときの人より、本物の方がいいですね」と少年は満面の喜びを浮かべている。

 「皆がお待ちです。あなたを」

 「亜来良君だったわね。それにしてもどうして…」

 ほんの少し前に脳裏をよぎった少年が今、目の前にいる。クレパスの底から見える細い空に、人の頭がのぞいたような感覚だ。

 「まあ、とりあえずこちらへ来てください。訳は来てみれば分かりますから」


 亜来良に連れられて行った先は、神社の本殿の裏の事務所のようなところだった。まだ早い時間だったが、二階を見上げてみると、窓から裸電球のような明かりがついているのがわかった。菜多里は、もしかして正一郎もここいるのではと思った。少年のノックにドアは開き、そこに出てきたのは例の見覚えのある男だった。

 「あなたは、サクラダさん」

 間違いない。脳波が会った医者のサクラダだ。彼女はまぶたを揉むようにして、今が脳波の世界ではないことを確かめようとした。

 「大丈夫ですよ、菜多里さん。私は本物です」と彼は笑うが、まだ頭を切り替えられずにいる。彼女は、亜来良の方を向いた。

 「亜来良君は、どうしてここに?」

 「ほら、一緒に乗った乗り物で、台風みたいなのを起こして暴れましたよね。あのときから僕は風操士に憧れて、ヨコタさんの仲間に入れてもらったんです」

 「そう、じゃあ正一郎さんが」と今度は部屋の奥の、真ん中に向かい合って置いてあるソファに目を移した。二人の男が身を埋めている。部屋に入ってすぐの菜多里の方からは、向こう側のソファに座る男の顔しか見えない。見たこともないような大男だ。

 焦げ茶色の装いの部屋の中に、クラシックなイタリア調の家具と厚手のカーテンがうまく調和している。いずれも自己主張するわけでもなく、しかし何十年もそこにあったかのような存在感で佇んでいる。ソファには、大男ともう一人、まるで菜多里を感じていないかのように向こうを向いて座る男がいた。後ろ姿しか見えないが、紛れもなく正一郎だ。

 「正一郎さん!」

 彼女の呼びかけに、正一郎は振り向かない。

 「よかった、ご無事だったんですね」

菜多里がそちらに歩こうとするのを制して、亜来良が首を振った。彼はその場を取り繕うように、「ご自宅の方に行ってこられましたか?ヨコタさんの家は壊されてしまい、もうひと月以上になります。ニシジらにやられたんです」

 「…、そう…」

 傍らに立っていたサクラダも、口を開いた。


 「正一郎さんの家には、何度も奴らが押しかけ、開発区域だから早く立ち退けとしつこく要求していたんですよ。応じないことは分かっていて。そして、一時の交渉じみたことが終わると露骨に暴力を振るうようにもなっていった。そんなふうにされ続けて、日に日に衰弱していくのがわかって、ついに監禁されて死んでいった」

 「えっ、何を言っているんですか?正一郎さんは今そこにいるじゃありませんか。それにサンサの長老さんだって、会って行けって」

 「あれはニシジらにやられているときに、ご自身で上半身だけ作られたようです。どこにそんな力が残されていたのか。正一郎さんが作業場からいなくなった後に、これが他の木材の中に埋めてあったので、そっとこの場所まで運んできたんです。

 「なぜ、なぜ助けられなかったんですか。身を隠すことくらいできたんじゃ」

 菜多里もまた、悲しみを抑えることができずに声を上げた。

 「助けられるものなら助けられますよ。でもこの町は、ものすごい勢いでニシジの力が大きくなっているんです。政治家も警察も全てが奴の思うがままに操られているようなものです。だから反感を買うようなことをしたら、この辺りには住めなくなるならまだ良い方で、最近はどういう形にしろ抹殺されてしまうほど我々にとって危険な状況なんです。今の住民のなかにもニシジに反感を持つ連中は多いんですが、それが見つかったら正一郎さんのようにされてしまう。我々は、悔しくても今は我慢して、時の経つのをじっと待つしかなかったんです。下手に正一郎さんと連絡なんて取ってしまったら、それこそすぐに見つかってしまいますし、もはやあのエリアに近づくことさえ難しくなってしまっていたんです」

 サクラダがそう言ったところで、先程まで彼の向かい側に座っていた男が立ち上がり、菜多里やサクラダの方に歩いてきた。

 「今は一刻も早くヨコタの仇を取ることです。そのために私が来ました」

「あなたは?」

 太く長い髪を後ろで束ねた男に、菜多里は聞いた。

 「彼はチヤン。イホンの圏域の人です。よくあるような話ですが、やはり武芸の名人です。表の世界では別の奴がチヤンピオンをしてますが、実際に闘えば彼にはかなわない。彼は闇の世界のチャンピオンというやつです」

 サクラダが近寄ってきた彼の肩に手をのせながら、そう説明してくれた。

 「でもたった一人で、あのニシジに勝つことなんて」

 「別に私一人でやるというわけではない。私にはちょっとした組織もあるし、サクラダもこの亜来良も、そして菜多里さん、あんたもいる。協力してもらいますよ」

 「待って、ください。ここでどんな話になっているのか分かりませんけど、優先するのはそこじゃないと思います」

 語る菜多里を三人が見た。

 「どれだけ信じてもらえるか分からないけれど、私はサンサという別の町でいろいろな話を聞いてきてきました。世界が本当におかしくなってきていて、その根っこを正すと、この町にとっても良い方向が見えてくることがありそうなんです」

 「なんだい、それは?」と大男が聞いた。

菜多里はそれにはこたえずに、「でも正一郎さんがいないと」と後頭部が見える彫刻の方に目を移した。

 同じように彫り物を見るサクラダが言った。

 「あれは正一郎さんが掘った像です。あなたのおっしゃったそのサンサ、そこでの力を借りれば、もしかしたら何かが起きるということを正一郎さんはおっしゃっていました」

 「しかし、本当なのかね?」と大声で大男が言った。

 「あんたもよく見てみなよ。おれもさっきそれを聞いて驚いたんだけど、本物よりよくできてるんじゃないか?足がないのが残念だがな」

 「えっ」と菜多里はソファへと駆け寄った。正一郎は彼女の方を見て笑っている。少なくともそう見える。そして、確かに腰から下がない。ソファに上半身だけをもたせかけてあるだけで、彼は彼女を見て笑っているように見えるのだ。

 「まさか」

菜多里は、サンサに行ったばかりの頃に長老から言われたことを思い出した。

 「まさか、でも長老さんの力がここまで及ぶはずもないし」と言いかけて、立っている亜来良やサクラダを見た。

 「前に見たことがあるんです。サンサの町で。そこでは長老という方がいて、正一郎さんの掘った鳥が彼の手の中で本物のように動き出したんです。信じられないことだと思いますが、でも、その時というか、今でもサンサという特別なところだからそのようなことが起こり得るのだと思っていました。でも、それがホクイでも起こせるのだとしたら…」

 錯角を作り出す一本の強い線のように、サンサの世界が今の自分を取り巻く空間にまでしっかり結びつけられていることを意識せずにはいられなくなった。

 「いや、これはぜったいに本物のヨコタだ。やっぱおれには生きているようにしか見えない」

 大男は話を聞いてもらえない子供のようにしつこく繰り返した。そこにサクラダが割り入った。

 「この彫刻に命を吹き込むことができるというのですか?」

 「もしかしたら、ですが…」

 「面白い話だな、もっと聞かせてほしいね」と大男は口を挟んでくる。

 「長老は確かに正一郎さんに会いに行けと私に言いました。正一郎さんが死んでしまっているのを知っていたとしたら、この木で作られた正一郎さんに会えと言ったとしか考えられませんし…」

 「なんなんだい?その長老っていう人は」

 「あのすみません」。菜多里が大男を見ると、サクラダが「この人は大丈夫ですから」と目に力を込めた。ナタリもグッと頷いた。

 「私は前にこの町に住んでいました。風操士として。その時は、正一郎さんと一緒に仕事もしていました。ご存知、ですよね、正一郎さんの仕事の素晴らしさは。私もいつも驚かされっぱなしで。そうして新しい事業が立ち上がった頃、ニシジに呼ばれて私も、このホクイから追放されてしまったんです。私は、その、サンサというところに行きました。最初は寒く暗いところでした。そして不思議なところ。そこにいた長老と呼ぶ方が、そこで起こることの正体というか、普通の人々の想いを実現することができる力みたいなものがサンサにはあって、正一郎さんの掘ったという鳥に命を吹き込んでみせたんです、私の目の前で」

 「すごいね、そんな場所がほんとにあるのかい?おれは世界中を旅しているが、聞いたこともない。どうやったら行けるんだ?」

 「あるのだと思う、としか言えません。ですから行き方もわかりませんが、脳波や四次元の通路を使って、普通の世界と行き来できるようなんですが」

 大男は目を丸くして、その後大声で笑った。

 「そりゃ、すごいね。そりゃ、おれには見つからんわけだ」

 「チヤンさん」とサクラダは強く制した。

 「私も脳波で菜多里さんと交流したことがあるんですよ。本当に会うのは今日初めてですが、前から知っているんです」

 亜来良は真剣なまなざしでずっと三人のやり取りを聞いている。サクラダが続けた。

 「さっきの話ですが、もし正一郎さんを生き返らせるようなことができるとしたら、いったいどうやるんですか?」

 菜多里はしばらく考え、「もしかしたら」と呟いた。上着の内ポケットに手を差し入れ、取り出したのは扇子だった。それを手元で眺めてから、さっと開き、サクラダを見た。

 「これはサイタに伝わる扇子です。サイタの風操士が持つもので、扇ぐとサンサに通じると言われたことがあります。もしかしたら、これで何かが起きるのかも」

全員が息を呑んだ。亜来良は首を伸ばすようにして、菜多里が握っている扇子に視線を送っている。

 「どうやったらうまくいくのかわかりませんが、ちょっと試してみます」

 サイタの風操士の技術が、これほどに近い距離で見られるのは、今の時代ではまず考えられない。男三人は、まばたき一つも惜しみながら菜多里の動きを追った。

 彼女は、扇子を一度閉じて、胸の前で立てるように持ち直し、目を閉じた。次に扇子を上に向けたまま開き、天井に向けて何度か扇いだ。そして正一郎の方に向かって立ち、木像に風を送った。最初は小さく扇いでいたが、扇子の羽から送り出される風以外に何も起こらない。菜多里は首をかしげて少し大きく扇ぎ、そこで何かを得たように頷いた。男らには何が起こっているのかわからない。扇子は、右左、右左と、同じリズムで同じ場所をなぞり続ける。根気よく、しかし確信に満ちたような表情で同じ動作を繰り返す菜多里。待ち続ける男たち。素晴らしい音色を夢見て弦の調音を待つ観客のように、全員の視線は扇子の動きだけに向けられていた。


「来たわ」


 張りつめた空気の中を静かな声が通った。左右に揺れる扇子の端が、陽炎のように少しぼやけている。男らが目を凝らして覗き込む。扇子の軌跡は、少しずつ残像となって伸び、残像は次第に濃く重なって黒味を帯びていく。明らかに扇子の軌跡によって作り出された、四角く黒い窓のような存在は、扇の軌跡が重なるたびに濃さを増し、深みを増した。身を乗り出し、軌跡の変化を見つめる三人は、今にも中で何かが起こるのではないかと期待と不安をもって見つめている。

 すると黒い窓の中から銀色の粉のようなものが銀河の帯のように流れ出てくるではないか。最初はわずかな点が、そして少しずつ細い帯となり、次第に何層かの太い帯となって、ソファの正一郎の体に向けて移動していった。帯は正一郎の顔の周りを回りながら濃さを増し、一定の時間回ってから、へその辺りへと移動していった。

 まだ菜多里は扇子を仰ぎ続けている。ふと、彼女が帯の移動していく先に目を移して、ハッとした。

 「もしかして」

 その言葉に、男らは顔を上げた。

 「この光が向かっているところって、“印”じゃないかしら」

 「何ですか、インって」

 亜来良はすぐに反応した。

 「前に正一郎さんが山の中に木を切りに行くときに教えて頂いたものなんだけど、なんかこの光の感じとか、この彫刻に刻まれた形とかがとても似ている感じがして」

 「今話して大丈夫なら、もっと教えてよ」

身を乗り出すチヤンに、彼女は手を左右に振り続けたまま伏し目がちに言葉を選んだ。

 「正一郎さんたちが年に何回か、要山の森で木を切っている話はご存じですよね」

 皆が頷く。

 「そのとき正一郎さんは、木芸品などの材料として使わせて頂く樹木に印を付けているんです。当印と言って、その印を付けた樹木を切り倒すということ以外に、印の付けられた箇所にナタを入れることも意味しています。一度印を付けたら、しばらく後に大勢の人々を伴って樹木を切り、皆で担ぎおろすんです」

 「それは知っている」とチヤン。

 「あのとき松明を持った人々が長い列になって麓から山を登ってくる様子は、天の川ほども美しいと思いました。まるで今のこの光の粒がもっともっと強い光を発した帯のようになって、光は印から樹木へと注ぎ込まれていくかのように感じました。そして最終的に印をつけたところにナタを入れていきます。なんというか、その時の光景が、今のこの状態と重なって思えたんです」

 「正一郎の木か。彼の作ったものは本当に生きているんじゃないかってくらいすごいものだ。あんたの思うこともあながち間違ってないかもね」

 チヤンに続き、サクラダも言った。

 「もしそうだとしたら、どうなんでしょう。正一郎さんが作るさまざまな品々と同じように、この光の帯が、もしかして正一郎さんそのものを生き返らせることができることにつながる」

 四人は、新しい治世者を迎えるような気持ちで光の行方を見守った。静かで美しい時間が流れていく。扇子の動きもゆっくりとなり、空気はすっかり落ち着いている。四角い枠の奥にある暗闇から、行くべきところをしっかりと見据えた未知のエネルギーが放出され、生命体として必要な変化を与えてくれるものだと、このとき誰もが信じるようになっていた。それ以外に、目の前の現象を説明しようがない。 菜多里の手には汗が滲んだ。

 しかし、変化はいつまでたっても現れない。しびれを切らすかのようにチヤンが声を出す。「いつまでかかるのかな」

 それには反応しない菜多里に代わるように、亜来良が口を開いた。

 「こんなふうに明らかに変化が起きているんですから、次に絶対何かが起こりますよ。信じて待ちましょうよ」

 彼の言葉を彼女は嬉しく思った。おそらくこの黒い空間の向こうはサンサにつながっているはずだ。長老が今、何かをしてくださっている。きっと、この正一郎さんの体に命を吹き込んでいる。彼にはそれができるのだから。



31.正一郎の復活


 もう一時間以上が経った。菜多里は疲労感をにじませながら仰ぎ続け、男たちは次の瞬間を期待しながらただ待っていた。そんな四人の前に、ついに変化が起こった。光の帯がそれまでとは明らかに違う軌道を描き始めたのである。印の部分へと吸い込まれるように消えていく帯の流れは、正一郎の周囲を回転し、体全体を濃く白い膜のようなもので覆っていった。もはや体の輪郭さえ見えないほど濃くなったころ、光の流出ははっきりと途絶えた。

 惑星を取り巻くガスのように光の粒は周回を続け、やがて霧が晴れるように薄くなっていった。正一郎の輪郭はその向こうにある。四人は目を凝らした。


 「正一郎さん?」

 もしやの思いで呼びかけた菜多里に、薄いガスの向こうの体は「はい」とこたえた。

 「話せるんですね?」

 「もちろんですわい」

 ゆっくりではあったが、間違いなく正一郎の声だ。四人は歓声を上げた。そうしているうちにも光のガスが切れ、はっきりとそこに正一郎の姿が浮かび上がった。皺を寄せて笑う顔、節くれだった手、足腰以外はすべて元通りの彼だ。四人は彼のところに覆いかぶさるように寄り、彼は手を亜来良の肩の上に乗せて「お待たせしたの」と笑い、今度は少し離れて立っている菜多里に向かい、「ありがとう。きっとやってくれると思っとったわい」と言った。


 「こうなることが分かっていたんですか?」

 「まあ、だいたい」

 「それにしても、こんなのびっくりだな。世の中にはおれの知らない不思議なことが本当にあるんだな」

 「これが風操士の力なんですか?」

 皆が喜びを隠しきれない様子で口々に気持ちをあらわし、正一郎もにこやかにこたえた。サクラダや菜多里は涙ぐみ、何度も良かったと呟きながらまぶたに手をあてていた。

 「さて菜多里さん、亜来良になんか言ってあげたらどうです。彼は風操士をずいぶん信奉しているようですわい」

 彼女はこのとき、あまりに長い時間の集中から解き放たれて、突然、話を振られてもどうこたえて良いのかすぐには思い浮かばなかった。

 「これは、これは風操士の力というよりはサンサ、そう、それに正一郎さんのお力だと思います。私はそうした意志に呼び寄せられただけで、こんな風を作ったのも初めてです」

 と言ったところで、その場に膝をついた。

 「大丈夫ですか?」

 亜来良が支えると、「大丈夫、ちょっと疲れただけですわい」と正一郎が言った。菜多里は、ひざまずいたような格好でこめかみをおさえてもう一度、正一郎の方に顔を向けた。

 「正一郎さん、変なことを聞くようなんですが、あなたは本当の正一郎さんなんですか?」

 にこやかなままで正一郎はこたえた。

 「本物、偽物っていうのは、何で決まるんかいの?」

 「生まれたときの魂に与えられた肉体がないというのであれば、偽物だわい。じゃが、肉体は関係ないというのなら、まぎれもなく本物だわい。ただし、今のわしの体はまだ木でできておる。魂がこの木の中に入っただけでの、肉体には変わっておらん。今、あんたがたが今見ているわしの顔は、わしの魂から訴えかけている幻影にすぎん」

 静まった場に、サクラダが分け入った。

 「脳波?あれと何か関係が?私はあの経験をしたとき、魂を奪われてしまったというか、どこかに移転させられてしまったというか、そんな感じがしました」

 正一郎は頷き、「そう、今は脳波どうしが共鳴しているんですわい。だから話しているように思える。共鳴をやめればわしはただの木像に見えるはずですわい。それと印の世界はどれも、そう、離れて、ひき付ける、そんな力を持ってますからの」と言い、ぽかんとしている仲間たちに、自分の下腹部を示した。


 「印には三つあり、それぞれに違う力が備わっています。これは、皆がご存知の 『当印』なんで、命までは吹き込めんでしたが、『呼印』さえあればきっとそれができますわい。あとは『真印』という、菜多里さんの扇子のような力を持った印があります」

 コインとシンイン…。とは?と誰もが思った。

 正一郎は続けた。「もうとっくにこの世に肉体はないですわい。じゃが、魂をサンサに置いといてもらった。そして今、その魂を印によってこの木が受け入れた。この木も特別なものなんだが、もっとすごい木が使えればもしかしたらこの体も動いておったかもしれんわい。おかげで、チヤンに下駄を作ってやることができなくなってしまったわい。すまん」と温かいまなざしを向けた。

 

 翌日、彼女は、四人の前で海藻を広げて見せ、この場所にある理由を説明していた。

 「俺の出身地のイホンは、ここよりもずっと小さな島国だが、その寄生虫の話というのは聞いたことがある。ただ、それはあんたの話を信用したうえで、さまざまな事実を無理やりつなげてみると信じられないでもない、といった話となるが、どうにも非現実的すぎるな」

 「正一郎さんが同じ体験をした、と言ってもですか?チヤンさんだって、サンサの不思議は昨日見たばかりじゃないですか」

 そう言ったのはサクラダであった。

 「まあ、そうだが。おれは疑い深い人間だからな。ヨコタが生き返ったのは確かに現実のように感じなくもないが、そのサンサって世界のことは行ってもいないし、まだ半分も信じられないよ」

 亜来良は黙って三人の会話を聞いている。

 「それで、どうするんだ?」

 「菜多里さんの話を信じて、まずは海藻にあるはずの毒素を分解する成分を何とか見つけていきましょう。私のコンピューターは世界のほとんどの医学会データベースとオンラインになっていますから、まずはあの病気の毒性となっている正体を調べてみましょう」と、サクラダが言った。

 「時間はどのくらいかかりそうですか?」

 「成分を見つけ出すまでに最低一ヵ月はかかる。なにせ、肝心の寄生虫がいないし、ものによっては全く未知のものを調べることになるかもしれませんからね」

 「大変でしょうけどなるべく早くお願いします。そうしないと、チヤンさんが痺れを切らせてしまうでしょうから」と、彼女はチラッと大男の顔を見た。

 彼はわずかに眉間にしわを寄せ、すぐに、

 「俺はそれほどわからず屋でも短期でもないよ」と言ってみせた。

 「でも、ニシジのことはどうするんだい。病気がこの町までやって来ているかどうかにかかわらず、ヨコタや仲間をやった罪は重いぜ。あんたたちの町を壊しちまったのもそうだし、俺も個人的に恨みがある」

 「それもよく分かっています、チヤンさん。この町は空気の感じが以前にもましておかしくなってしまったところが私は気になるんです。なんというか、気圧も感触も不安定で。もちろん、ニシジのやり方は許せない。しかし、それ以上に、この感じって、あの洞窟の人たちが言っていた、外には住めないという、何かチクチクした環境を持ち込んできているように思えるんです。もし私の予感が当たったら、私たちは何年か先に、皆、地下で暮らさなくてはならないかも知れない」

 「それって、その寄生虫ってのと何か関係があるのかね?」とチヤンが間を読みながら聞いた。

 「わかりません、しかし、そういう環境の下で強い毒素をはくのだとしたら…」

菜多里は、しばらく目を伏せ何かを考えていたようだったが、今度はきっぱり顔を上げ、「チヤンさん、できればニシジを取り巻くタナベ関係の警察とかの対策を練っていただけませんか?そちらをあなたにお任せできれば本当に助かります」

そう言われると、チヤンも悪い気がしない。「何か面白いことができるかもね」と子供のような表情で返した。


 「僕はどうしたらいいのでしょう?」と、ようやく口を開いた亜来良が期待に目を輝かせている。

 「あなたは私と一緒にいてください。これからあなたも忙しくなるけど、とりあえず私にはボディーガードが必要なの」

 二人はニコッと顔を向き合わせた。

 菜多里は、あの地下の世界に行ってから歳がずっと若返ったようだった。体全体が引き締まり、顔は艶やかな褐色に焼け、ハリも増していた。それに本来の知性が加わり、土のシミがまだ落ち切れていない洗濯しただけの皺の目立つ洋服姿がかえって、若々しい青年のようにさえ映る。

 「ああ、菜多里さん、あんたにはここで暮らす場所を用意しておいたわい。これからはそこで変装でもしていろいろやるといい」


 菜多里は、髪を短く切った。まるで少年のように。そして、小さなレストラン・バーを経営する女主人として、サクラダは総合病院の内科医として、チヤンは大手総合貿易商社の社長として、亜来良を交えた四人と正一郎が動きだすことになった。

 すぐに自分の活動拠点を案内された菜多里は、二階へと登り、窓から外を眺めた。下には淀んだ川面が、朝焼けを残す空と、街灯の薄明かりを映している。その向こう側には、町の中でも見ることが少なくなったメタセコイヤが、葉を落とした後の黒い幹を空に突き刺す姿があった。


 翌朝、菜多里は、豊風神社の社務所にいる正一郎を訪ねた。正一郎は、襖二枚隔てた狭い奥の部屋の椅子に座っていた。

「正一郎さん、まだぼんやりとなんですが、ニシジらを追放する方法を考えています。聞いていただけませんか?」

 椅子の男は頷いた。そして話をひとしきり聞き終わると、

 「菜多里さん、それは本当にあなたの技術でできますかな?」と不安な表情を見せた。

 「あんたの技術がどんなに素晴らしいかは、わしにもわかってます。じゃが、あんたの能力はまだまだ未完成ですわい。本当に意図する風を、意図するときに狙い通りに作り出すことは、偶然ではできません」


 彼は、私の力を知っている…。たまたま竜巻や呼印に導かれる風を作り出せたとしても、それは偶然でしかないのだ。ひょっとして正一郎に聞けば、正しい答えを導いてくれるのではと期待していたところを正一郎に見透かされた。


 「菜多里さん、今からサンサに行きなさい。あそこに行って、仲間と共に技術をもっと磨いてくるといいですわい。そうすればもっと良い解決法もきっと見つかるわい」

 正一郎は、知っていた。サンサでの出来事を。やはりこの人を信じればいい。きっと今、自分はサンサに行かなければならない。戻る目的は、正一郎が教えてくれた。それは、自分の期待通りの言葉でもあった。サイタの風操士、選ばれた風操士たちと共に、風操の技術を磨く…。これほど心が躍ることがサイタを出てからあっただろうか。家族の笑顔に迎えられる少女の頃の幸せは、少しだけ覚えている。その気持ちにも似た、ほんのりした温もりが彼女の胸をいっぱいにしていた。

 「正一郎さん、私はこちらへ来たばかりです。もう戻ってしまっても大丈夫なのでしょうか?」

 彼の目には、確信があった。もはや長老が乗り移ってここにもう一人いるような気にさえさせるものだ。

 「戻るにはどうすればよろしいでしょうか?」とだけ言った。


 「もう船が来ておるわい」



32.レッドゾーン


 ニシジが広い執務室で、巨大な椅子に身を深々と沈めまま、一枚の大きな地図を見ている。

 「首長、何を見ているんですか?」

 ノックもせず、ニシジの部屋に入ってくるなり声をかけたのは、彼の義理の弟の気留きるタナベだ。

 「さっき、お前の秘書が持ってきたものだ。この青く塗ってある部分が開発を終えた地域、黄色が開発中、赤が開発の進まん所だ。見ろ、赤い所がちょうど地図の中央部に集中している。そのど真ん中がヨコタのいた家だ。奴は死んだが、あいつ、うまく周りの住人を手なずけていたらしい。ここの連中のほとんどが、どこうとせん。特にあいつが死んでからはますます強固になりやがった」

 その三色に塗られた白地図をのぞき込みながら、タナベは「確かに」とうなずいた。

 「首謀格を探す必要がありますね」

 「そうだな、早速動いてくれ」

 タナベは、この町の警察と諜報部門のトップにいた。ニシジが近隣地域を吸収合併し、町そのものが拡大を続けるなかで、それと並行して組織を強化しているタナベの力も日に日に増大していた。

 「わかりました。では二-三人ほど監禁して口を割らせてみましょう」

 ニシジは、太いサインペンを取り出すと、地図の赤い部分を荒々しく丸で囲った。

 「ヨコタめ、なめた真似をしやがって。あの世ででも見てるがいい」

 その丸で記された赤い部分には、サクラダの勤める病院や亜来良が昔住んでいた家、そして菜多里の拠点とする店は含まれていなかった。だが、亜来良が現在、下宿している家はあった。亜来良は、アルバイトを装い、連絡係としての重要な役割を担っていた。


 菜多里がサクラダ達と合流した日から一日経った雨の夜。四人のグループが、家路を急ぐ勤め人を二人、道端で拉致し、彼らの拠点の地下室へ連れ込む事件が起きた。


 「いくら聞かれても知らないものは知らない。だいたい私はこの前あの家に引っ越してきたばかりだ。それなのに、なんでそんなことまで知らなくちゃいけないんだ」

 「それなら引っ越した理由を言ってみろ。いまどきわざわざあんなところに引っ越すやつがいるか!」

 「それはただ一軒家を借りたかっただけだ。今はその物件がほとんどない。だから、あきらめかけていたところに、投げ込みの住宅情報が入ってきたんだ。それで書いてある電話番号に電話した」

 「誰がでた?」

 「桜商事というところが」

 「何と言った?」

 「いや、ただ物件や賃貸の話しかしなかった」

 「そんな安い値段で、借りるための条件ぐらいあったろう?」

 「ない」

 彼は、訴えるような表情で首を振った。

 「いいか、これはお前の家族にもかかわることだ。よく思い出した方がいいぞ」

 ついにその手が出たかという思いが、捕らわれた男の頭をよぎったが、相手に乗せられたままでいる方が得策であるという計算があった。実のところ、彼も正一郎の信奉者である。拉致されたもう一人の男も、全身を痛めつけられながら全く同じようにこたえていた。

 「これが条件になるのかどうか分からないが、私もあの値段が安すぎると思ったので聞いてみたら、理由はない、貸主の善意だとだけ言っていた。あとは、風が強い場所であると付け加えていた程度だ」

 「そんなのが理由になるとまじめに思ったのか。話した相手はどこの誰だ?」

 「だから電話で話しただけだ。現場を勝手に見にいって、気に入ったら契約しろと…」

 「契約したのか?」

 「した。松実にあるその会社のオフィスで」

 「どこだその場所は、詳しく教えろ」

 タナベは、すぐに男が言った場所へと部下を連れて向かった。しかし、そこには男の言うように、三階建ての小さなビルはあったが、大きなテナント募集の張り紙が、通行人にわかるように、二階と三階の窓に貼られているだけだった。

暗い階段を二階まで上り、様子をうかがってみても入口のドアの向こうに人のいる気配はない。三階も同様で、怒りのはけ口を見つけたように生鮮品を扱う一階の店の主人に食ってかかった。


 「昔からこのままでさぁ。八百屋で四十年食っとりますが」

 「不動産屋があっただろう?」

 「あ、ああ。この間まではあったねえ」

 「ふざけるな。どこに行った?どこの誰だ?」

 「それがですねえ、突然夜逃げしちまって。名前はサクラさん。この辺りの不動産を仕切っていて力もあったし、いい人だったんですがねえ」

 「本当か?それは。何か言っていなかったか?そいつがいなくなる前に、おかしな奴が出入りしてたりしていなかったか?」

 半狂乱のようになって胸ぐらをつかんでいるタナベを前に、店主もさすがにひるんだが、知らぬの一点ばりで貫いた。

 「いえいえ、それはないでしょう。いや、おれの知っている限りそれは絶対にねえな。おれは毎日、こうやって店先に野菜を並べて、店頭に立ってんだよ。この前を通る顔もほとんど知ってる。知らねえ顔が何度もうろうろしてたら、しぜんに怪しむってもんでしょう。あんたたちみたいな」

 「お前、分かってて言っているんだろうな。おれたちに逆らうとどうなるか」

 「ええ、ええ、分かってまさあな。家も何にも奪い取られて、挙句の果てに牢屋に入れられて、帰ってこられなくなっちまう。まあ、もちろん、家もないんじゃ、帰ってくる場所もないってもんですがね」

 タナベは、開き直って大声でわめく店主を突き飛ばし、「お前もじきにそうなる。覚悟しておくんだな」とその場を去った。


 「相手は、こちらが考えていたよりも手ごわいかもしれん。風が強いというあたりも気になる」

 「どういう意味ですか?」と、タナベがニシジ聞いた。

 「まあ、それはいい。それにしても、あのレッドゾーンでおれたちの知らない間に空き家ができるということ自体、人間の移動が意外に行われているようだな。連中は町中に分散して隠れていると思った方がいいのかもしれない。地図の色も塗りなおす必要があるかもしれんな」

 調査の甘さを指摘するように、ニシジはタナベをにらんだ。

 「もっと警備も固めます」


 一方、タナベに突き飛ばされた八百屋の店主は崩れるようにその場で膝をつき、頭を何度か振って店に戻った。


 「もうここに長居は無用だな」

 「ああ」と奥から太く低い声がかえってきた。

 「クワアよ」と店主が言った。「どうするね」

 「正一郎さんの言ったように進めるだけだろ」

 「だな」

 八百屋の店主だった甦也エンジは、奥から現れた太観伊クワアとともに、奥の階段から中二階の隠し部屋へと入り、白装束に着替えた。要山における正装だった。白い帯と鉢巻をきつく結び、二人は正一郎が残していった、人の頭ほどの木の球に向かって正座し、目を閉じた。


 正一郎さんは復活されました…。サンサから二人にシグナルが送られて来るまでにさほどの時間はかからなかった。要山に向かいなさい…。


 二人はすぐに動いた。裾野に広がる丘陵は以前のままで、旅の姿を装った男たちは気分が和んだ。いつも山に入るときは正一郎と一緒だった。それゆえ警備の目は彼らにも向けられているので、顔まで変える必要があった。二人はしかし、正一郎を信じ、別人であることに耐えてきた。今向かっている先には正一郎が残しているはずの何かがあるはずだった。それはきっと、次につながる希望の何かだ。


 山道入口には見張りらしい人間が立っていた。今までそんなことはなかったが、正一郎に関係する連中を見つけ出す腹だろう。二人は立ち止まり、警察服の二人の男と向き合った。

 「やあ、今日はいいお天気で」

 「何をしに来たか?」

 「何をしにって、私たちゃ見ての通りの旅のものでさぁ。ホクイ観光のついでに、有名な要山を登りに来たんですよ」

 「身分証を見せなさい」

 二人は、用意しておいた別町の身分証を示した。それは、ホクイと友好関係にあるタマキ町のもので、ホクイの警備関係に就く人間にとっては見慣れたパスであるうえに、ホクイの検印もきっちり押してある。警備員は、写真と本人の顔を見比べ、「失礼しました」と敬礼して通した。


 山の中はだいぶ荒れていた。階段状にしっかり作られている足場には、伸びた雑草が生い茂り、自然な足取りで前に進むことが難しい。中腹辺りまでくると、「もういいか」とクワアが杖の中に仕込んであった刀を取り出し、雑草をひざ下あたりの高さで切り払いながら進み始めた。

 「正一郎さんが、わかるようにしていってくれたというが…」

 「ああ、しかしこんなに山が荒れていては、な」

それでも二人はいつも正一郎と通っていたルートを進んだ。何時間かが経ち、山頂も近づいてくるともはや足元の草は消え、岩場に視界も通っていた。辺りを注意深く見まわしながら進み続ける二人。すると大きい岩の上に、人の手で置かれたような不自然な形の木片を見つけることができた。

 「あれだろう」

 クワアの一言に頷くエンジ。山道をそれてみると、明らかに正一郎の掘ったものとわかる人形がある。といっても、素人にはなかなか人形と判別することは難しく、原木の風合いをそのまま残しながら、慣れた目でよく見ると人の形になっている。それは、正一郎が山に入ると印を入れた木の端材を使って作る人形に間違いなかった。

 「ということは、きっとこの辺りの木を切ってらっしゃるな」

 「ああ」とエンジが見まわしながら、「あれだろう」と木の切り株を指差した。付近はその一帯だけ背の低い木々の集まった小さな森のようで、その中に一本だけきれいに切られた木が横たわっていた。太さはせいぜい人の胴体ほどだ。切株と、横たわっている木の太さが違うところからすると、切り株から上の幹を切り取って何かに使ったらしい。おそらく、切り取った先端方面の細い部分は、先ほどの人形なのだろう。

 「こんな小さな木を、いったい何に?」と二人とも周りを見回してみる。むき出した岩と草場と、背の低い木の茂みがあるだけのように思える。


 「なあエンジ、この人形、どっちを向いていたかな?」

 「上向きに横たわって、頭は東の方だな。ほら、このくぼみに頭が固定されていた。手はここと…、ちょっと待て、腕の角度がちょうど四十五度くらいになっているが」

 「何か意味があるのか?」

 クワアが言う脇でエンジは腕を組んだ。

 「うん、あるような気がする。あの岩から東ということは、ちょうど切り株の場所だ。この右手の角度は、岩から見ると、おれたちが道をそれて岩まで来た角度とほとんど同じじゃねえか」

 「だとすると、この左手の、そのまま岩の反対側に行ったどこかに何かがあるのか?」

 「そう考えてみても損はないだろう」

 二人は、岩のところまで戻り、正確に頭と右手を合わせてみた。確かに、二人が山道からそれてきた場所に一致する。左手の先で目立つのは、低木の茂みの中に頭を大きく突き出している岩だ。

 「あれか?」とつぶやくクワアを見て、エンジは先に歩き出した。クワアも続き、背丈ほどの茂みに分け入った。目の前の枝葉をかき分け、ただまっすぐに岩へと歩いてみる。枝が壁のようになって全身に向かってくる。それでもどうにか岩に取りつき、周囲を回ってみる。すると一ヵ所だけ、二人が立っていられるほどの遊び地を見つけることができた。周囲の雑木は目の前に迫っているが、僅かに人の手が入っている跡がある。おそらく正一郎はそこで何かをしたのだ。二人は取りついている岩を念入りに探り、足元の方に、岩の穴を塞ぐようにして石が積んである部分があるのを見つけた。

 そして崩してみると、空洞が下の方まで続いていて、中から風が吹き出している。覗き込むクワアの目には、奥の方の出っ張りの上に何かが置いてあるのが見えた。彼はそれを取り出した。木の球だ。

 「また木の球だ。八百屋に置いてあるやつと何か違うのか?」

 クワアが手の上に乗せて様子をうかがってみる。

 「やはり頭を付けてみたらどうか?」

 クワアが頷き、掌の球をかざすようにして自分の額に近づけ、目を閉じてみた。 「何か聞こえるか?」とエンジがそっと声をかけてみても、クワアはじっと、もはや意識はその場に無いようにさえ感じるほど全くの無反応になってしまった。だが、しばらくしてクワアは目を開いた。

 「どうだった」と顔を覗き込むようにするエンジ。

 「いや、何も聞こえなかった。ただ」

 「ただ、何だ?」

 「ものすごい力だ」

 向き合うエンジにクワアは、「ものすごい力で魂が吸い取られていくような、そんな感覚があった」と言った。

 「そうか。おれはまた、意識がどこかに飛んでいってしまったのかと思ったが…」

 「ああ、いや。何かが見えたとか聞こえたというわけではない。ただ黒と光の力のようなものだけだ」

 二人はその場に並んで腰を下ろした。岩を背に、木の中にすっぽり埋もれた状態となって、それぞれに考えを巡らせた。

 「なあ、エンジよう。その穴からの風、なんだか弱まってねえか?」

 エンジが穴の入口に手を当ててみると、確かに先ほどより弱まっている。ひんやりした感覚だけが掌を覆うような感じしかしない。

 「確かにな。変わった」

 クワアは木の球を持ち、体をねじって元のあったところにそれを戻してみると、やんわりと風が再び吹き出してきた。二人とも風を顔面に受けながら、正一郎の伝えようとしたことを感じ取ろうとした。

 「冷たい風だな。だいぶ深いところから届いていそうだ。地下水脈だろうか?」とエンジが言った。

 「エンジよう、球をもう一度取ってもらえるか?」

 球は再びクワアの掌に置かれて、風は弱まった。

 「間違いなく風と関係しているな。この山の木は特別と正一郎さんがよく言っていたのは、この風と何か関係があるんじゃあ?」

 「おれもそれは考えていた。太い木、地下深くまで根を張った木は特にすごい力を持っている。正一郎さんが印をするとき、木の神、地の神、風の神と祈るのを思い出す」

 「きっとそうだ。この穴から吹いてくる風は、正一郎さんが切り出す木と関係があるんじゃねえか?」

 「んん、おそらくはな」

 「そうだな、エネルギーみたいなものだ。地下にそんなものがあると言っていたことがある。だけど正一郎さんはどうして我々をここによこしたんだ?理由くらい言ってくれたら助かったんだが…」

 「んん」。二人が座っている空間にまるで透明な水が充満していくように、穴からやんわりと這い出す空気が溜まっていった。そのなかで、「この球、本当に正一郎さんのものだろうか?」とエンジが普段見せない顔をした。

 「どういう意味だ?」

 彼は手の上で球をさすりながら、一ヵ所をクワアに示した。

 「これ、この跡だが、印のようにも見える。だとしたら正一郎さんのものではない」

 クワアが手に取って眺めると、色あせ、表面の腐食も進んではいるものの、わざとそこに手を加えられているようではある。しかもそれは、先ほど見てきた、切り倒された木とは別の木で作られているようだ。

 「確かに変だな。印だとしたら、いったい?」とクワアがさらに眺める。

 「この古さ、数十年は経っているだろう」

 ますます疑問が残った。さっき見てきた切株の本体はいったいどこにあるのか?正一郎はなぜこの位置を我々に教えようとしたのか?そして、自分らはここで何をすればいいのか?途方に暮れ、岩にもたれたまま空を仰いだ。岩と枝葉の間から抜ける空を眺めていると、遥かな時間と空間のなかに自分らが取り残されている感覚で覆い尽くされるようだ。

 

 「正一郎さんは今どこにいるのだろうか?」とエンジが木球をまた眺めて言った。クワアは黙って空を見ている。おそらく同じようなことを考えているに違いないと思いながら、エンジの言葉が珍しく続いた。

 「クワアよう、まだ探していないところがある」

 空を仰ぐ相手に彼は、「足の方だよ」と付け加えた。クワアがエンジを見た。

 「足の方って?」

 「あの人形の足の方さ」

 「ああ、確かに」

 「でもこの場所と何か関係があるのか?」

 「それはわからない。ただ気持ち悪くないか?やるべきことがあるのに、やらないままっていうのは」

 「まあそうだな。行ってみるか」

 二人は、木球を元の場所に戻して立ち上がり、茂みを抜けて人形のところまで戻った。そこから足の向く方へ歩いて行くと、ほどなくそれと思えるものが岩に囲まれたくぼみの中に丁寧に置かれているのを見つけることができた。

 「あった。けっこう大きい」

 「これは?」

 クワアが手に取り、直感的に思えたのは人間の下半身だ。まだ削りは粗いが、両太股に正一郎のものとわかる印がしてあり、彼が意図的にそうしたのであることだけは理解できた。

 「どうする?」とクワアが言った。

 「だな、持ち帰らなければおれたちがここに来た意味がないような気がする」

 「そうかもしれねえな。正一郎さんが印をしているくらいだ。その場所におれらがいるということは、持ち帰るべきものに違いない。それと、この胴体に開いた穴は何だろう、どうにも気になるが」

 「んん、確かにな、人の手で掘られているものだ。あの木球が入るようにも思う」

 「やってみるか?」

 二人はまた先ほどの茂みに戻り、岩の穴から木球を取り出して担いできた下半身らしき彫り物にはめ込んでみた。木球は胴体に溶け込んでしまったかのようにぴったりと穴の中に納まり、一度はめ込まれてしまうと、もはやびくともしなかった。

 「これでいい。間違いない」とエンジが目尻に皺を寄せた。

 「んん。しかし、どうするよ、こんなでかいものを背負っていたら、見張りに怪しまれて、取り上げられちまうかもしれねえ」

 「道を変えればいい。夜に動く」



33.伝説の風操士


 光のガスの向こうに、手を広げて迎えてくれる人々がいる。小さな点は次第に大きくなり、長老の姿がはっきりと視界に入ると、他にいるのはサイタの仲間たちであると予想がついた。

 「みんな」

 そう声を出さずにはいられなかった。不思議な運命とともに無我夢中で生きてきた時間のなかに、突然落ちてきたひと時の安らぎ、温もり。正一郎と長老が自分を導いてくれていることを思うと、何より心強い。これから起こるであろう、さまざまなことを皆が力を合わせてやっていくのだ。期待とともに、彼女はサンサへと降り立った。


 「お待ちしていましたよ、菜多里さん」

 長老が、おそらく満面の笑みで迎えてくれた。他にいた人々はやはりサイタの風操士たちだ。

 「はい、正一郎さんがこちらに来いと」

 長老は頷き、「ホクイでのことは知っています」と、改めて周囲に立つ男女を紹介した。ゾウラ、シュズ、コンク、ガラシ、サソラ、ウラシ、チャカの七名だ。歳は女のシュズとチャカが菜多里と同じくらいで、あとの男たちは三十歳~五十歳くらいに見えた。皆と握手を交わしながら、彼女は懐かしい仲間と出会ったときのように心から喜び、相手も同じようにこたえてくれた。


 「さて、菜多里さんが入ったところで、新しい練習をしてもらいます」

 「練習…」と菜多里が言った。

 「ここにいる皆さんは、説明するまでもなく、素晴らしい技術を備えたサイタの風操士です。世界中探しても、あなたたちにかなう風操士はいません。サイタでは二十人に技術を分散して伝承されたのですが、八人はいろいろな理由によってこの場に来ることが難しく、残念ながらあとの五人は亡くなりました」

 菜多里は胸に手を当てて長老の話を聞いていた。

 「しかし、技術がそれで滅びることはありません。これから皆さんにやっていただくことは、この七人で、皆さんが持つ技術をそれぞれが共有し、誰もが大小さまざまな風を操作できる、いわゆる伝説的な風操士になっていただくことです」

 「サイタの伝説的な風操士…」。菜多里の暮らしたレイジ家では、中から大の風を操る技術に長けており、代々、同じ技術が伝えられてきた。他の風操士より、この領域だけは負けないと父親が話していた。だからこそ、二十人の中に選ばれたのでもあろう。おそらく二十人というのは、レイジ家と同じようにどこかで秀でた技術を持った家系に違いない。しかし、伝説的な、というと話は違って、そうした技術を網羅した、サイタの風操士にとっても未知の技術者を指すはずだ。


 「そんなことができるのかしら?」

 大きな風は、確かに父から教わったもの。しかし、他の風は自分が一心に祈ったときに、たまたま現れたに過ぎないはずだ。でもそれらを訓練で覚えることができるのだとしたら…。未知の世界に、心躍るものがあった。

 両親から伝わった技術も神がかりの凄さを持つものであったが、ホクイでは小さい風を丁寧に扱う技術によって人々の生活が豊かにできることを教えられた。風操のさまざまな道具が発達した今のような状況では、サイタの伝承技術を使う機会はあまりなく、まして風操士の高い地位はほとんどの町で終焉してしまっている。

 でも、もし自在に風を操れるのなら、風操士がずっと必要とされ続けるのではないだろうか。サイタ出身、いやそれ以外の風操士も、昔のように生き生きと働いていける世界が再び訪れるかもしれない。

 「皆さん、今私が言ったことについては千思万考あるかと思いますが、何よりそれらが実現すると信じてください。明日の朝から始めます。日の出までには北の森に集まってください」


 北の森は、サンサにとって聖的な土地で、普段人が出入りすることはできず、菜多里の扇子の材木はここから切り出されたと聞いている。町から北への一本道だから間違うこともなく、次の日、そこにサイタの風操士七人と長老が集まった。

 まだ薄暗い空に、太陽の光が少しずつにじんでいる。長老は、自身の影が伸びるのを確かめるように「ついて来てください」と森の中に入っていった。

 石が敷かれた細い一本道を、長老は弱々しい熊のように歩いて行く。ときどき彼の背中に木漏れ日があたり、西に向かって進んでいることがわかる。起伏はほとんどなく、歩きやすい。途中で何本か枝分かれする道が現れるが、石の敷いてある道を選び、反対側の先には、大木の切株を見ることができた。

 ゾウラが聞いた。

 「長老様、途中の分かれ道にある切株の木は、何に使われているんですか?」

 「あれですか、あれは、古いものの多くは昔の風操士の道具に使われました」

 菜多里らも振り向いた。

 長老はにこりと全員を見回すようにして、また動物のような丸い背を向け、さらに一時間ほども歩いて立ち止った。そこは森の中に佇む大きな広場だった。よく見ると、隅の方に丸太が何本か横倒してあり、その脇の一本の大木を背に小屋が佇み、中が明るく灯されているのがわかる。住むにして小さい。おそらく作業をしている誰かがそこにいるのだろう。

 「あの小屋まで行きましょう」。長老に促されるように風操士らは広場を突っ切り、小屋の戸を叩いた。

 「さあ、どうぞ」

 中から声がして、長老が戸を開けた。

 「お待ち申しておりましたぞい」

 

 正一郎だった。

 菜多里はその姿に胸を押さえた。椅子に座りこちらを見ている。彼女が少し前に別れたはずの正一郎がここにいる。ホクイにあった以前の正一郎の作業場のように、作業台や椅子が置かれ、天井の梁からは重い木を吊るし上げるためのチェーンが置かれていた。ホクイのそれと違うのは、彼が掘り進めているものが、人形や椅子などではなくて、風筒や方向翼のような風操士が用いる道具であることだ。そして彼には足があった。

 冷静になれば、自分がここにいるのだからそれも不思議はないのかもしれないが、まさかすぐにサンサで会うことになるとは…。しかも、彼のいる場所はまるで、昔のホクイのようで、彼女にはピンボケしたような時間と空間の焦点の感覚を合わせるのに苦労した。

 どこか薄暗い小屋の中で立っている菜多里に、正一郎は「菜多里さん」と笑顔を向けた。

 「さっきは黙っとって悪かったが、わしもここの力によって生き返えらしてもらったんですわい。いよいよ本格的に行動に出ようと思いましてな。ここはそのための秘密基地なんですわい」

 「なぜおっしゃってくれなかったんですか?」と菜多里はそれでも口にせずにはいられなかった。

 「うむ、そうじゃな」

 正一郎は、目の前のテーブルの上にあったノミを手に取って眺め、汚れのついたあたりを指でこすり、また同じところに目を落とした。ノミは電球の光を鏡のように映して、周囲の壁をときどき照らしていた。

 「どうも、ここのシミが取れんでの」

 ノミを抱え込んで、正一郎はうずく古傷を癒すようにシミを拭う仕草を続けていたかと思うと、遠くの気配を伺う動物のように顔を上げた。


 「わしの体はここにおるわけではない。脳波が来ておる。もちろんあんた方は現実にここにおる。あんた方が今見ている世界は、前にわしがここに来て作っておいた作業場で、この場はまぎれもなく本物ですわい。ただ、わしは肉体のない、本物と言うわけにはいかん存在であって、あんたたちに見えているのは、ほれ、その天井の木球からあんたたちの頭に入り込んでいるんですわい。もう少ししたら、わしの足が届くはずじゃから、そうしたらほんとの体を持ってきますわい。さて、そんなことはいいとして、始めますかな。これから長老の体を借りて、少し扇子に細工をする」

 ぽかんとする七人を前に、正一郎は長老へと乗り移り、ノミを顔の前にかざして、にやりと笑った。それから風操士たちの持つ扇子を一本一本、自分の前の机の上に置くように言い、柄の一部を削るようになぞっていった。菜多里が受け取った扇子は、何も変わっていないようで、なぞられた部分が親指の当たる辺りで、前よりも持ち具合が良くなったように感じる。他の風操士たちも同じようだった。不思議な顔をしてそれぞれが自分の扇子を眺めていた。

 「皆さん、今、皆さんの扇子に少し細工をしました。簡単に言ってしまえば、皆さんの扇子には今までとは少し違う力が備わって、今まで上手くできなかったような風が作りやすくなったはずですわい。外に出て試してみるといい」

七人は広場に出ると、長老の指示に従い、それぞれが風を試すための思い思いの場所に散った。菜多里は、小屋にほど近い広場の外縁近くに立ち、そこで小屋の周りに据えてある大小さまざまな風車の回転を試してみようと思った。しかし、この場には、七人の風操士がいる。ということは、それぞれが出す風が影響しあうはずだった。そこまで計算して、自分が苦手な小さな風をコントロールすることは、相当な難しさを伴うはずだ。彼女は、それでもやってみたかった。何より正一郎が自分の扇子に何をしてくれたのか知りたかった。

 見渡すと、皆がそれぞれの構えを始めている。自分と同じ構えを取る人間は一人もいないことと、遠い記憶を重ね合わせていた。


 静かな風が、菜多里の頬を撫でてくる。そのときの彼女は、父とともに湖のほとりにいた。遠くには、湖面からせり上がるように雄々しい山並みが見渡せ、足元には小波が一定間隔で寄せていた。

 「ほら、菜多里。むこうの岸に立っている人が見えるかい?」

 「はい、見えます、お父さん」

 「彼は、とても優れた風操士で、世界中から呼ばれて風を操る技術を教えに行っていらっしゃるんだが、サイタに戻っているときは、ああやって腕を磨いているんだ。私も指導していただいたことがあるんだよ。そのときいつもおっしゃっていたことがある。それは、風には新たに生み出される力と、すでに生み出されている風どうしが影響し合う力があるということなんだ。新たに生み出される力というのは、ほら、この扇子を仰ぐと生まれてくる力で、影響し合う力というのは、ある風が別の風にぶつかってそれぞれが今までとは違う風になるということだよ。ときには打ち消しあい、ときには力がかみ合って一つのすごい力に変わることもあるんだ。風操士はその両方のことを知らなければいけない。菜多里は、風を最初に読むとき、どこまで先を感じ取ることができるようになったかな?」

 「えっ、私は、あの向こうに見える山くらい、いえもうちょっと遠くまでの風は読めるわ」

 「ははは、それではまだまだだね。だから菜多里は私より小さい風になってしまうし、ズレも大きいんだね。ところで彼はどのくらい先まで読めると思う?」

 「んん、そうね、お父さまの二倍くらいとか?」

 「いやいや、そんなものじゃないよ。もっともっと、はっきりわからないけど、 おそらくこの星に吹く風のほとんどを読めるんじゃないかな。我々サイタの風操士仲間にもはっきりとは教えてくれないんだけどね」

 父親は笑って話を続けた。

 「彼が教えてくれたのは、風を遠くまで感じ取るためには自分なりにいろいろな工夫をしなければだめだということなんだ。たとえば最初に風を読む方法も、指を立てるだけじゃまだまだ足りなくて、ほら、彼は今、掌を真上に向けているけど、体全体で空気の重さやにおい、密度、水分、温度、性格の違う風の混ざり方などいろんなものを感じることができてはじめてもっともっと遠くを読めるようになるんだよ。そして、遠くを読める人は、近くも読める。それも大切なことなんだよ。まだ菜多里にはわかならいことかもしれないけどね」


 しかし、今の菜多里にははっきりとそれがわかる。近くの小さな風がどれだけ人々の生活に役立つことか。そして、大きな風の力も。彼女も今では、おそらく当時の父親以上に遠い風を感じ取ることができるようになっていた。


 「もう一つ、私達サイタの風操士にだけ与えられた力があるのはわかるね?」

菜多里はうなずいた。

 「この扇子から出される風は、とても不思議なものだ。どこから送られてくるかはわからない。そして、扇子から送り出される風の吹き方も、人それぞれに違うんだ。天から与えられた力みたいなものかもしれない。皆、風の力を調整するために、また違うやり方をするんだ。基本的なことは学んでも、そこから先は皆、独自に習得していくんだよ」

 遠く、湖畔に見える風操士は、片足を上げてまるで鶴が羽ばたくようなポーズを取っていた。すぐに彼の目の前の湖面には高い水柱が立ち、どんどん上っていった。そして二人の足元に寄せる小波は何一つ変わることはなかったのが強い記憶として残った。


 広場の七人は、それぞれのポーズで何かを試そうとしている。それらはどのような風なのだろう。大気に影響を及ぼし合うことが間違いないなかで、いったいどのような風を作り出すことができるのだろうか。菜多里は、自分の強みである大風を試してみることで、何が起こるかを確かめてみようと思った。

 ひとさし指を自分の鼻の前でクルクルと回し、右腕を頭上に掲げた。それから頭上で扇子を開き八方に強さを変えながらパタパタと風を向けた。強い手応えがあった。風が彼女の送り込んだ力に、今まで以上にはっきりと呼応している。すっ、と頬を撫で、大風が正一郎の小屋に向かって吹きつけた。小屋は壊れてしまうのではというほどに音を立てて揺れ、周囲に散在していた薪や道具のたぐいは小屋の後方に吹き飛ばされていった。彼女は、風の力を確認してから周りの仲間たちを見渡してみた。すると、誰もが菜多里の大風に影響されることなく、ある者は目の前に小さな竜巻を作り出し、ある者は離れた一本の木だけを折れそうなほど強く揺らしている。

 「すごい。あんな技ができるなんて」

 もはや菜多里には、自分の技術が幼稚にさえ思えてきた。女風操士の一人、チャカが作り出す美しい竜巻は、まるで生きている竜のように体をくねらせながら上へ上へと延びていく。彼女の腕が右へ振ると、それも大きく右へ、下へ振ると、それは土埃を巻き込みながら地を這うように突き進んだ。まるで、竜を操る神の手だ。以前、菜多里が無我夢中になって生んだことのある竜巻は、荒々しく雑なものであったが、チャカは美しい芸術のような竜巻を見事に操っている。


 ちょうど、チャカの竜巻がゾウラの傍をかすめた。菜多里はそこで目を止めた。彼はいったい何をしているのだろう。右手のひとさし指を自分の前方に向け、左手は掌を天に向けてかざしている。ゾウラの動きは止まったままだが、しかし、何かその辺りの空気には違和感がある。ふっ、と自分の周りにある空気のなかから、一つの空気の固まりだけが一瞬にして別の宙へともぎ取られていったような感じだ。同じような感覚が、同じようなペースで何度も襲ってくる。おそらく原因はゾウラの技にあるに違いなかったが、ゾウラが動いた気配はない。いつの間にか寸分の変化も見落とすまいとしている菜多里、そして心臓が高鳴った。

 「まさか!」

 目を凝らしてみると、ゾウラから百メートル以上はゆうにある先の木の切り株の先端では、木くずが舞い上がっている。明らかにその部分の木肌が削られているのだ。

 「まさか」と彼女は思わず切り株のところまで走った。彼女の動きに気付いたゾウラが手技を止め彼女の方を見ているのがわかる。菜多里は切り株を上から眺め、さらに驚かされた。そこには、立て筋と横筋が一センチほどの幅と深さで刻んであり、十字に書かれた筋の中心には人の拳ほどの丸い穴が垂直に掘られている。

 歩いて近づいてきたゾウラに、「これはあなたが、風で、されたんですか?」と興奮して聞くと、「はい。今日は特別すごい切れ味ですが」と柔らかい返事が返ってきた。

 そんなことができるなんて、信じられない。掘り下げられた箇所は、まるで正一郎が手掛けたもののようになめらかで美しい。風だけでそのようなことができるなんて、サイタの力とは世界にどういう影響力を持つものだったのかと、改めて自問するほどの衝撃だった。自分の力を過信しすぎていたようにも思う。風の威力にもいろいろなものがあるのだ。菜多里のいたレイジ家は、大風を受け継いだのだろう。話には聞いていた、いろいろな風という本当の意味を知らされたような気がした。

 「この風はどんな時に使うのですか?」と彼女はゾウラに向かって聞いてみた。

 「どんな種類の風にももろ刃の剣のようなところがありますが、この風はご覧の通り危険なのであまり使われることはありません。昔は、険しい山の中に道を切り開くときなどに使いましたが、今では、そう、今では殺傷の道具くらいにしかならないかもしれません」

 ゾウラの柔らかい言い回しの中に、人には言えないようないくつもの物語が宿っていることを連想させた。彼は、そんな菜多里の様子を伺うようにしながら言葉を続けた。

 「だから私にはもう一つあるんです、できる風が。そのままここで見ていてください」と言うと彼は、左手を真上に向けて扇子を広げ、右手は逆に真下に向けて掌を広げて風を呼ぶ言葉を唱え始めた。

 しばらくすると、大きな変化が起きた。ゾウラの右手を軸に周回する風が、土埃を巻き込みながら地面へと続き、その風があたっている地面は、人間が一人すっぽり入れるほどの大きさで丸くくり抜かれていく。どんどんとそれは深くなり、次第に底が見えないほどになった。

 「すごいわ、すごいですね。こんなにすごい力も私、初めて見ました」

手をおろしたゾウラが驚く彼女にこたえた。

 「これは、さっきの技よりも太い空気を使うので、わりと安全ですし、井戸を掘るのになんかはちょうどいいんですよ。さっき、正一郎さんにしていただいた細工ですかね、あのノミでちょっとなぞってもらってさらに威力が増したようですが」


 修業と呼ばれる時間は、菜多里にとって驚きの連続だった。仲間たちの技術力は、彼女自身の技術がまだまだ幼稚に映るほどに優れていることに目を見張り、一つひとつの技がお互いの技に影響し合わないことも発見だった。各自が使う層は、実は微妙に違っているのだという。

 「その特別な大気の層を硬大気流と呼びます」と長老は言っていた。そして、ゾウラのような鋭い風を導くためには、流れの上の方に位置する層が呼応し、菜多里のような風は、逆に最も低い方の層を使うのだという。

 「それぞれの違いによって、ゾウラさんはより硬い風を、菜多里さんは柔らかくまとわり付くような風を発することができます」

 そして、硬大気流に直接触れている地がこのサンサであることも。菜多里は、少しずつサンサのことを知ることができた。今まで、自分たちが住んでいるところとは違う「どこか」だったサンサは、実際には北方の、標高の高い大地に実存しているのだという。


 硬大気流が、大きく高度を下げて地表と接触しているのはこのサンサの山々だけなのだという。そして硬大気流に最も近いところで修業することは、この大気の流れが持つ性質の違いを感じるうえで重要らしい。

 「硬大気流は地層のようにいくつかの層に分かれ、風操士が扱えるのはそのうち十六あると考えてください。その十六層から取り込んだ風は、普段生活する大気には必要最低限の影響しかしません」

 「私たちは、いつも天気を知ることができると思います。それは、硬大気流を読み取っているわけではないように思うのですが。それから、私たちが暮らすこの大気層の影響というのは?」

 長老は一つ頷いてこたえた。

 「サイタの方々のなかには、ずいぶん先の天気を読める人がいると思いますが、それはサイタが育んだすぐれた能力です。硬大気流のみがサンサと深いかかわりがあり、これから学ぶのはサイタの通常の技ではなく、硬大気流を使ったサンサと通じる技です。もう一つのお話ですが、普通の大気層への影響というのは、簡単に申せば、硬大気流から取り込んだ風の力は、地上の空気を巻き込んで私たちが暮らす生活に大変な影響を及ぼすわけですが、硬大気十六層のそれぞれ違う層から取り込まれた風どうしは通常大気層の中で干渉することはほとんどないのです。先ほど皆さんが一緒に技を試したときと同じように、昔からそうなのです。干渉し合わないように、サイタでは十六層の各層の性質に合わせて一人ずつ違う技を授けました」


 サンサとサイタは昔からつながりがあったのだ。サンサの力があってこそ、サイタが独自に地上の風を読む力をも育んだ…。むしろ、普通の人々が暮らす大気層の風をどのように操るかという技術の方が世界に知られ、サイタは世界中に技術者を派遣していたに違いない。おかげで、伝承され得るサイタの真の技術は、道具を使って誰もが扱える風操技術に覆い隠される形で、ほとんど外に漏れなかったのだ。

 サイタにいつも吹いていた風は、もしかして硬大気流と関係があるのかもしれない。そうだ、ホクイでも感じたことがある。要山、あの山に登った時に感じた風。あのときは、技も冴えていた。そういえばサイタで技術伝承した二十人のうちの四人は、どの層を使うのだろうか。もちろん見たことが無い人たちだろうし、いったいどんな技を受け継いでいるのだろう。そんな菜多里を見透かすように長老は言葉を続けた。


 「皆さんの扇子は、一つひとつ、各層から得られる風の力に合わせて、サイタの風操士に伝えられました」

 そこで長老は間を置いてから言った。

 「実は、それ以前、正一郎さんの父親によって作られた四本の扇子があります。それらは十六の技を操ることができる扇子で、サイタに住む四人の風操士に渡されました。菜多里さん、あなたの父上もそのお一人なんですよ」

 

 まさか、そんな。父親がよく話してくれたこと、それはいろいろな風を操る技術がこの世にはあるということだった。でも、自分は大風と、それを少し細かく操ることしか正式に教わったことがない。優しい笑顔、言葉…。父と湖畔で見た風操士も四人の一人だったのだろうか?長老の言うことが本当だとしたら父はどうしてそのことを教えてくれなかったのだろう。


 「四人の風操士たちは、すべての層を使い、風を自在に操ることができるようになりました。ただ、今はここに一人もいませんが…」

 菜多里が不安そうに「父は?」と聞いた。

 「大丈夫ですよ、いつもあなた自身が感じているとおり、彼ら四人は生きています。今、ここに来る理由がないだけで、この後、合流することもあるでしょう」

 「それで」と長老は話題を変えた。

 正一郎さんが皆さんの扇子に細工をしたのは、十六の層を自在に使って、すべての層に属する技を一人ひとりが習得するためです。四人の風操士と同じように」



34.呼印と真印


 そのおよそ一年前、正一郎は「印」を見つけるために最後の力を振り絞っていた。ニシジらに痛めつけられた体に鞭打って、彼は幼い頃の記憶をたどって要山に向かったのだ。


 記憶とは自分の父親、キジの言葉だった。

 「『印』というものが入った木を隠してきた。山頂近くの塩湖の近くだ。山道を外れて塩湖の反対側に回ると、二本の松がある。そこからさらに十分も登ったところの大岩下の洞窟だ」


 確かに、大岩下の洞窟は、彼が幼い頃にはあったらしい。しかし、地震によってつぶれたとも聞いていた。このとき正一郎が「印」を目指した理由はただ一つ。それはおそらく「呼印」だからだ。呼印は、サンサの長老の話では、生命を司る印という。それは長老の手の中でのみ付けられ、生命そのものを誕生させることさえある…。


 「大きな岩の下だ。小さな穴があってな、そこに木の球を置くと風が吹いてきたんだ。お前、いつか必ず探しに行け。皮のないつるっとした木が、もしそのあたりに生えているのを見つけることができたら、その木で扇子を作れ。最高の武器になる。しばらく俺はホクイを出て金を稼いでくるから、お前は爺さんのところに身を寄せておけ」

 

 そんな記憶だった。


 正一郎にとって、木球のある場所は大方察しがついている。いつも仕事で登ってきた場所だ。彼が毎年、ホクイの木に「当印」を刻むときに気付いていたことがある。それは、印を入れるべき木は、ある一定の脈に沿って生えているということだ。サンサ、おそらくかの地に関係する大気がこの要山にも流れている。

 「それはきっと『呼印』の力に違いないわい」

 塩湖も関係があると考えていた。あそこからあふれ出す匂いと、地下を通る風のそれとはどこか通じている。そして地下の風は、「呼印」の刻まれた木球に向かって流れ込んでいるに違いなかった。特別な木のために…。過去から木芸職人に伝わる話と照らしてみると、そう考えるのが無難だ。その木は昔、要山に数多く生息し、ホクイの木芸を世界に知らしめたもののはずだ。ところが、彼はまだそれを要山で見つけたことはない。


 「この辺りにあるはず…」

 大岩は見当がついた。山道を外れ、少しだけ広がっている低木の藪地と、向こうに見える大岩。そこには間違いなく、サンサで感じた何か別の空気が漂っている。空を流れる風とは違う、土の匂いだ。


 「あれに違いないわい」

 ついにこの日が来たか…。場所は山頂付近。草木に足を取られながら少しずつ進んでいく。岩に取りつき、足元に風を感じ、隙間に手を差し入れた。

 「これが、呼印…。ホクイの木々の源…」

 彼は、呼印を紙に写し取って木球を戻し、残されたわずかな体力で、草木の中に伸びる一本の木を見上げた。

 「これは…」

 考える間もなくその木を切り倒し、自身の下半身分を彫り上げた。

 「まさか、その木なのか…」

 しかし、彼にはそれを持ち帰るだけの体力は残されていない。意識までも使い果たすほどに力を振り絞り、作業場に着いたころには、もはや屍とさえ言えた。崩れ落ちるように木材の山に倒れ、中に隠してあった上半身に当印を掘った。ほどなく肉体はこの世を去っていったが、彼が山中で見つけられた呼印によって、魂が木の上半身に受け入れられる用意を整え、自分の命と引き換えに自らの命を救った。


 菜多里にはまだ知る由もないが、正一郎が要山に残した下半身は今、クワアとエンジによって正一郎のもとに運ばれている。山腹にあった風の穴の入口に置かれていた木球を下半身にしっかりと据え付け、二人がかりで夜の山道を下っていた。


 「皆さんの扇子にも印に似た、魂を取り込むほど力のある風の道標があります。持ち方を少しずつ変えることによって十六の層を選ぶことができます。私には教えることはできませんが、訪れる風の力を体で受け止め、必要な形に変えて、皆さんが思うところに送り出してみてください。扇子のはためかせ方によっても受ける風、送り出される風に違いが出てきてしまうので、いろんなやり方を試しながら、お互いに協力して最高の方法を見つけ出してください」

 

 それきり長老は姿を見せなくなった。七人の修業は日に日に壮絶さを増していく。三日目には、七人がもともと磨いてきた技を互いに学び合い、それぞれが粗さはあるものの、ほぼ同じくらいに八つの技を繰り出せるようになっていた。次の日は菜多里の発案で、八つの技を、それまで使ったことのない層で試してみようということになった。

 ちょうど七人ということもあり、一人ひとりが異なる一層を受け持ち、八つの技を試してみることになった。

 菜多里自身が使いこなしている大風の技術は本来、十六層目の最も低い“柔らかい”層を使い、ゾウラの削り取るような風は上から四層目の“硬い”層を使う。


 「菜多里さん、あなたの技術を、最も上層の私の層でやるとどうなるんでしょう?」

 「そうですね、一番硬いところで柔らかい技術を使ってみる。ギャップが大きいので、そのぶんどんな変化が起こるのかわかりやすいかもしれませんね」

 

 彼女は、大きな広場の真ん中に一人、構えた。仲間たちは広場の隅に散り、扇子をしまい、広場中央で髪を揺らせる風操士に集中した。すでに彼女の扇子は動き始めている。まだ風の変化はない。彼女の向いている方向であれば、小屋とは反対側の森に向けて風が放たれるはずだった。


 菜多里の手が天に向けられ、そして止まった。風操士たちは息を呑みこみ、風の変化を読み取ろうと全感覚を研ぎ澄ませた。この間およそ一分、誰もがおかしいと思った。一寸の風も吹いてこないのだ。もうかなりの風の変化を感じてもいい時間だった。静かな時間だけが広い空間に流れていく。風の流れはいまだない。

 また何分かが過ぎ、広場周辺の風操士たちを包む空気が変わり始めた。ただ何か変だ。息苦しさを感じる。周辺の空気が薄くなってきているのか、と最初はだれもが考えたが、次第にその逆であることを悟り始めた。

 「空気が濃くなっている」

 「この変化って…」

 「いい感じ、じゃないね」

 明らかに濃さを実感できるようになったころから、風操士たちの口々からそうした言葉が漏れた。しかし、誰も菜多里に言うことはなく、彼女の美しい動作を見つめるだけだ。

 「とにかく何かが起きる」

 皆が見守った。周辺の空気はさらに濃くなり、胸が締め付けられるようなつらさを感じるようになると、不意を突かれるように大きな衝撃が全員に走った。菜多里が両手を前方に伸ばし、後ろ倒しになりそうな体を片足で支え、顔を天にのけぞっている。風操士たちを包んでいた空気は、まるで時間を逆回転させた超新星の爆発のように、音もなく一瞬にして中心部に向かい、今度は大きなエネルギーの固まりとなって彼女の手の先から森へと打ち出された。

 風操士たちは、空気が中心部に向かう時の衝撃波によって全員が菜多里の傍まで吹き飛ばされていた。そして、彼女の手の先から発せられたエネルギーは、奥深い森を突き抜け、地表を削り、森を超えて山にぶつかり、そこで大きな土煙を上げた。風操士たちはその様子に恐怖した。

 「菜多里さん」と誰かが叫んだ。

 見ると、彼女は仰向けに倒れている。もしも、風操士たちが受けた衝撃を、一人でまとめて受けていたとしたら、おそらく命にかかわるだろうと誰もが思った。ゾウラやシュズ、コンクが駆け寄り、ガラシは足を引きずっていた。他の風操士は、まだうまく立ち上がれない体でその様子を見守っている。

 「菜多里さん、大丈夫ですか?起きてください」と若いコンクが声を上げ、女風操士のシュズが、口元や胸に耳をあてた。

 「大丈夫、生きているわ」

 「気を失っているだけならいいですが、骨がバラバラなんてこと、ないですよ ね」

 「縁起でもないことを言うものではない」

 コンクをゾウラが制した。コンクの視界に長老が近づいてくる姿が入った。

 「おいでだ」

 立ち上がれなかった風操士たちもどうにか菜多里のところまでやってきて、長老を見上げる格好になった。

 「何をされましたか?」

 「はい、別の層を使って菜多里さんの技をかけてみました」

 長老の問いにゾウラが冷静に答えた。

 「そうですか、やはりそのことを思いつきましたか。説明していなかった私も悪かったのですが、今された行為はとても危険です。皆さんも途中で感じられたはずです、不穏な空気の乱れを。それをやると、制御できない風を生み出すばかりでなく、硬大気流が普通の大気層を安定させられなくなるので、普通の大気層のバランスそのものまで崩れかねません。未来の天気を予測することができなくなってしまうほどの影響力があるのです」

 「菜多里さんは大丈夫なのでしょうか?」

 コンクが不安そうに言った。長老は倒れたままの彼女の様子を見て、すぐにこたえた。

 「大丈夫、すぐに目を開きます」

 

 彼の言う通りだった。菜多里は目を覚ましてすぐに立ち上がり、長老の顔を見て頭を下げた。周囲の風操士たちはその様子をぼんやりと眺めている。長老が一つ頷き、そして口を開いた。

 「何かを感じましたか?」

 「はい」

 「それが何かあなたにはわかりますか?」

 菜多里は顔を上げ、「まさか、はかい…」と言った。

 長老はそれまでの厳しい表情を解き、「そう、破壊風に近いものです。ただし、今のはコントロールされていない危険な風、使ってはいけない風です。あなたが感じたのはそれによって起こる現実です」と言った。それから、他の風操士たちに向かって、「皆さん、皆さんの技と、硬大気流の順番をずらすことは、今のようにできないことはありません。しかし、なぜ層を決めているのか、そのことを考えてほしい。それは、サイタや、このサンサの先人たちが試行錯誤して見出した法則なのです」


 彼は自分の記憶を探すようにして話を続けた。

 「昔、このサンサに、キジという一人の若い風操士がやってきました。いや、皆さんと同じようにこちらから呼んで来てもらったと言った方がいいでしょう。彼はサイタの生まれで、そのときすでに、知られるはずのない風操のための扇子を持ち、実際に風を操ることを知っていました。彼は扇子から生み出される風を、さきほど菜多里さんが試したような破壊を生みだす力と思い込み、いつしかそれを楽しみにしていきました」

 「それを食い止めようとして…」

 「そうです。それは、一本の扇子でいろいろな風を操ることができる扇子です。もともとキジの持っていた扇子は、風を自在に操れるわけではなく、昔の扇子がそうであったように、持ち主の意図とは関係なくそのときの状況に影響されて、まるで気まぐれな雷雲のようにいろいろな風を作り、人々を困らせていたのです」


 「彼はこのサンサに来てからも、不思議な行動をとり続けました。一年かけて、ある一本の木を見つけ出したのです。それはエネルギーに満ちた、何かの条件が揃ったときにのみ育つとしか考えられない、見た目は百日紅のようでもあり、しかし中身は竹よりも強くしなやかな木です。このサンサでも、数年に一本見つかるかどうか、というほどめったに育つことはない。私にもつくり出すことはできません」

 「それを彼はなぜか見つけ出し、何本かの扇子を作り出した。どの扇子も素晴らしく、まるで美しい踊りのように繰り出される彼の体技と扇子のはためきからは、しかし、サイタから持ってきていた道具と同じように狂気の風が宿されたのです。彼の挙動を案じたサンサの人間が、同じくここに来た四人の風操士に彼の作った扇子を渡しました。彼らはキジとは違い、今のあなたたちと同じようにこの場所で新しい力を試し、ホクイの人々とも協力しながら最初はほとんど手に負えなかった風を次第に制御し、十六技を獲得していきました」


 「十六技?」

 「十六技は、十六の『層』『体』『扇』の型によって、十六の風を正確に繰り出せる技のことです。普通の木では作ることは難しい。やはり、あの木でなければ。次第に形作られていく十六技は、菜多里さんのような大風も、チャカさんのような小さな竜巻によって雨をもたらす風も作り出すことができますし、ゾウラさんの技は、耕作に使われました。それは皆さんの祖父が、この地で得た技なのです」

 皆が互いに様子を伺いあった。

 「すると、その場にいた五人の風操士というのは…」と菜多里が言った。

 「菜多里さん、ゾウラさん、チャカさん、ウラシさんの祖父、そして正一郎さんの父上です」

 皆が顔を見合わせた。

 「では、私の父はどうやって今の技を?」と、五人に数えられないガラシがやや戸惑った様子で聞いた。

 「得たかと?それは、後に私が正一郎さんに頼んで、キジが残していった端材を扇子に変えてもらい、この場所で皆さんの父親に伝承していただいたのです。その頃には、十六通りの風の使い分けがおおよそできるようになっていましたが、間違って使われないよう、扇子は硬大気流の一つの層に合わせた一技のみ繰り出されるように細工を施しました」

 「そういえば先日、私、正一郎さんに不思議な風を送りました。ほんとに弱い風で、扇子の軌道から光の粒がたくさん出てきて。あれって…」

長老は頷き、「菜多里さん、あなたの扇子は元々十六技が使えます。お父様の考えでそのことはあなたに教えられなかったのです。あなたのお父様は紛れもなく、すばらしい十六技の使い手です」と答えた。

 菜多里の体に鳥肌が立った。なぜ父はそのことを自分に教えなかったのだろう。


 「キジという方はどうなってしまったのですか?」と菜多里が聞いた。


 「彼は、逃げるようにして自分の生まれたサイタに戻って行きましたが、しかし、人々には受け入れられなかった。サイタには、そのずっと前から独自に磨いてきた風操の技があります。サンサの扇子を使った技術は、当時使うべきでない特別なものであって、生活と密着した風でなければならないと、最小限の道具で最大限に風を操れる木芸技術を発達させていったのです。そこにキジが扇子を持って入ろうとしても無理な話です。その後、世界を放浪してから、ホクイでしばらく暮らし、最後はタイトにいたようです。問題はホクイにあった真印の刻まれた臼まで持ち出していったこと。彼は真印から流れ出る気によって、圧筒の力が何倍にもなることを偶然にも発見してしまった」

 

彼はそう言って空を見上げた。



35.十六技


 十六技とは、サンサの地で、サイタの風操士が見出していった風操の技である。それらは、硬大気流の下から順番に、大風、中風、小風、微風、生風、竜巻の大・中・小、真空場、真空破壊、空気弾の大・中・小、そして硬大気流の最下層と最上層二つの層を使う破壊風の十四技が基本としてあり、これらを左右に操る技術と上下に操る技術が加えられている。これらすべての技を習得するため、サンサの七人は北の森とつながる広場に集まっている。はからずも「破壊風」を作り出してしまった菜多里は、長老の話が終わるのを待って立ち上がった。

 「どうもキジの風には破壊風のにおいがしたということですね。本人か、扇子か、その両方か、いずれにしても彼は、あなた達が今知ろうとしている風を自在に作り出すことは最後までできませんでした」


 七人はいつもの位置に戻り練習を再開した。より正確に、よりしっかりと。何よりそれが必要だった。硬大気流を正確に利用することは、全球の流れを乱さないようにするためにも必要なのです…という長老の言葉が背後にあった。微妙な乱れは風の性格を変え、それが人に向かえば命を落とすことにもなりかねない。現に木々を根こそぎ吹き飛ばすほどの力や、ドリルのように穴をあけてしまう力が生じるのだ。そうした乱れを起こさないための微妙な調整が長く続いた。

 百日も経っただろうか。もうすでに七人は十六技を習得し、十分に風を使いこなすことができるようなっている。同じ技でも体格の違いなどによって風の強さには個人差があるが、それらの差も体技によってカバーすることもできた。誰もが自信に満ち、同じ技をぶつけ合って力を比べあう。異なる技をぶつけ合うときはどのような現象が起こるのか、ときに痛みを伴いながらの挑戦は、風の性格によってさまざまな現象が起こることも教えてくれた。中風は竜巻に翻弄され、竜巻どうしは打ち消しあい、空気弾は大風や中風に混ざるとより遠くまで力のある弾道を描くことができる。また真空場を作り出すと、どのような風でも消滅または減衰させてしまう。


 「あとは破壊風か…」と誰かがつぶやいた。

 「そうですね」と言ったのはいつの間にか広場に来ていた長老だった。最近はあまり顔を見せなくなっていたが、この日はずいぶんと早くから広場に足を運んできていた。

 「七人の力で破壊風を作り出します」

 「七人で、破壊風を、ですか…」と菜多里が言った。「それをやったらこの間の私のように大変なことが起きてしまうのでは…」

 「大丈夫です」と長老は穏やかに風操士たちを見回した。

 「同じ力を与え合うことで自分に危害が加わることはなくなります。菜多里さんの時は、入ってくる空気と出ていく空気の力の差が大きくなりすぎて、強いショックが風操士の側に加わってしまった。あれは破壊風ではなく、それに似た制御できないただの暴風です。しかし、本当の破壊風、複数人で風を同じほどの力で押し出すときには、そうはならない。風に均衡を保つ力が働きます。そのうえで力や方向を制御する。まあものは試しです。始めますから、みなさんで円を描くように立ってください。隣の人とは十メートルほど離れてください、だいたいで結構です」

 七人は長老に言われた通りに円を描いた。そして、大風を操るときのように初めに天高く右手をあげ、そこで開いた扇子を、腕を伸ばしたまままっすぐ下へ弧を描くように振り下ろし、胸の位置で掌を真正面に向ける。それだけだった。全員がタイミングをほぼ合わせないと風がまとまらないのだという。はじめのうちはズレが大きかった。ある者の風が先に円の外へと飛び出してしまうと、もはやまとまった風にはならず、穴の開いた風船のように円内に蓄えられようとした力が萎んでいってしまう。たとえ全員の風が円内で合流しても、それが円の中心部付近でなければ、いびつなボールを弾ませたときのように力はどこかにはじけ飛んでしまった。

 何度も試していくうちにタイミングがわかってきた。中心付近で合流した力はエネルギーの塊になってそのままとどまり、レンズのように濃い密度となって円の向こう側にいる相手をいびつに映し出している。掌にはいつ弾き飛ばされてもいいほどの強い力がかかっている。足を腕を前に突出し、気球が外へ外へと押し出そうとする力を抑え込まなければならない。力は次第に強くなっていく。

 「長老、どうしましょう!」

 耐えかねたコンクが声を上げた。

 「そのまま、もう少し耐えて。あなたたちの掌まで力が膨らんでいきます。そのときに皆がそろって腕を天に上げ、掌を目標に向けて手を握る」

 力はもはや掌のギリギリまで膨らんできているようで、皮膚がやすりで削られるように熱く、痛んだ。さらに待つと、その刺激は掌を突き抜け、腕の方に浸みてきた。

 「いまです!」と長老が言った。

 七人がいっせいに腕を上げた。刺激は腕から掌を抜けて消え、今度は開いている掌が強く引っ張られている力が加わってくる。上方にはレンズが見えた。そして、一度は菜多里が打ち砕いた森の先に見える大岩の方に掌を向け、次にそれを閉じた。

 グワン。大きな音がした。ゆがめられた景色がその方向に向かって飛んでいく。途中で地面が削られ、菜多里がそうしたときよりもはるかに大きな規模で木々を打ち砕き、破壊音が遠くなった頃、太い雷鳴に似た音が轟いてきた。

 誰もが息を切り、地面に倒れこんだ。疲れと、目の前の光景に目を疑うしかなかった。それほどに破壊の規模は大きすぎた。地面ごと森を剥ぎ取り、それまでは頂上の一角しか見えていなかった遥か向こうの大岩の容姿がすべて広場から見えていた。なぎ倒された木々はほとんどバラバラな状態になって落ちていた。

 残り風と荒い息遣いの音でしばらく満たされていたが、ようやく菜多里が口を開いた。

 「あの大岩、見に行ってみませんか?」

 「そうだな」と何人かが反応した。


 現場は、広場で見た以上に壮絶なものがあった。人の腰の高さほども削り取られている地面の上に、何もかもがバラバラになって落ちている。足元を確認しながらしばらく歩くと、大岩についた。初めて見た岩だが、そこに大きく強い衝撃が加わったことは一目でわかる。破壊風が当たった面だけが、やすりで削られたように丸みを帯び、色も違っていた。

「これ、一枚岩っぽいね」とチャカが言った。

「なぜ?」と聞くシュズに向かって彼女は、「だって削り取られたここの面ぜーんぶ、継ぎ目みたいなものがなさそうじゃない?」と笑った。

 誰もが上の方まで見渡した。

 「本当に大きい。上まで百メートルくらいあるのかしら」

 「横もそのくらいあるかな」

 菜多里はやり取りを聞いているうちに体が震えてきた。どれだけの力を自分たちは得たのかと思うと恐ろしくなってしまったのだ。風操士という者たちの力というのは、真に世界に恐怖を与えることができる。タイトの技術などおそらく足元にも及ばないほどの力なのではないだろうか。

 「これで七人の力…、だとすると、二十人の力って…」

 タイトの力のほどは知らなかったが、ここにある破壊風というものは絶対的な力であるように思えた。

 「さあ、今の力が言ってみれば序盤です。それでもかなり体力を使いますし、体を痛めつけられますが、最初の気球をさらに大きくしたり、密度を濃くすることで、まだまだ強く鍛えることができます。それを皆さんは覚えていかなければなりません」

 「これ以上、こんなに危険な技をやる必要があるのですか?」と菜多里が聞いた。

 「サイタは自らこの力を見出し、そして封印し、あの事件のときに皆さんに授けることを決めたのですから、それにはきっと理由があるはずです」

 「サイタの事件にまで至ったあの大きな大気の変化で思うことはありませんか?いったい何が起きているのかと」

 少しの沈黙を破るようにゾウラが「硬大気流のことですか?」と言った。

 「そう、硬大気流。この大気の実態は、細い大気の流れです。それは普段、蛇が自らの尻尾を追いかけるように地球の周りを回っていて、この流れを変えてしまう大きな変化が起きたのです。風操士にとって硬大気流はなくてはならないもの。特にあなたたちのように扇子を使う風操士にとってその乱れは技そのものを奪い取られることになりかねません」

 「タイトがそうしたと…」

 「もし、硬大気流と風操士の関係を知っていて、タイトにもかかわっている人間がいるとしたら…。そしてもしその人間が木芸の技を知っていたのなら、可能性としては考えられることです」と長老はうなずいた。

 「でも破壊風でどうしろとおっしゃるのでしょう?」と菜多里が聞いた。

 「いろいろ必要なことはあると思います。サイタの技術ですからあなたたちが決めればいい。正一郎さんにも聞いてみたらいいでしょう。一つ言えることは、破壊風は唯一、印に対抗できる力を持ちます」

 「印に対抗する?」

 「印は、それ自体は反応を導きます。強い風を受け入れ、より強くすることもあれば、ときには人の心をつなぐ役目を持たせたり、世界をつなげることもできる。ただし、印によって導かれた反応を壊すことは難しい。なぜなら、印はその場の状況に反応し、受け入れてしまうからです」

 彼らの練習は続いた。二人で作れば程よい川も作れるだろう。三人なら広い土地を均すこともできる。四人になれば小さな町くらいなら吹き飛ばしてしまいそうだ。しかも中心部にエネルギーをためることで力の強弱もつけられる。破壊風と言っても、使い方次第では人のためになることもできる。自分たちの体をさんざん痛めつけながら、ようやく導いた答えはこのようなものだった。

 「ここにいる七人でやれば、すさまじい力を作り出せるな。最初にやった時よりもっとすごい力で、あの大岩もひとたまりもないだろう」

ゾウラが言うと、誰もがうなずいた。

 「でも、そんな力何に使うんだ?この地球ごと吹き飛ばそうとでも考えない限り、必要ないんじゃない?」

 竜巻の強い力を知るチャカの一言に、ウラシは「地球の裏側まで穴を開けることだってできるかも」と皆の笑いを誘った。

 「正一郎さんのこと言っていたけど、今、いるのかしら?」

菜多里が言うと、ウラシが「行ってみようよ」と小屋の方向を見た。

 「そうね。長老さんが言うのだから、いるのかもしれないわ」



36.タイトの破壊風


 もう遠い過去に戻るような気分で、七人は正一郎と会った小屋へと向かった。最初に扇子に細工してもらってからというもの小屋の中に彼の姿を見ることはなかったが、この日入ってみると、以前と同じように下半身のない正一郎の座っている姿が見えた。

 「やあ、みなさん来ましたか」

 元気そうな正一郎が顔にたっぷりの皺を寄せて話しかけてきた。

 「お久しぶりです」と嬉しそうにこたえたのは菜多里だ。

 「話は聞いておりますわい。破壊風の使い方はだいぶ習得しましたかな?」

 「ええ、おかげさまで。四人まででしたら強さの加減も角度の調整もできるようになりました」

 「そうですか。で、それ五人以上とか一人とかでは試したかいの?」

 「やってはいますが、それは危険だと思ってあまり…。必要なんでしょうか?」

 「そうですな。使い方によっては危険ですな。何せ破壊風というくらいですから。じゃがやる必要があります」

 「何か特別な理由があるんですか?」

ゾウラが身を乗り出した。

 「理由ですか。そうですな…」

 少しの沈黙を置いて、正一郎はうなだれ気味に口を開いた。

 「わしの親父はキジと言ってな、長老からも聞いておろうが、如何様な風操士じゃ。彼はホクイにあった臼を盗み出し、硬大気流をめちゃくちゃにしよった」

 誰もが興味深そうに聞いている。

 「圧筒と結びついたんですわい。その臼にはおそらく真印が掘ってあったのじゃろう。それなら硬大気流から必要な空気を取り込む力が生まれて、どうやったのかは知らんが圧筒と結びついて大きな力をタイトに呼び込みおった。その後、サイタの風操士たちがずいぶんとタイトに連れて行かれてもおる」

 圧筒…、と菜多里は以前、自分の風の進路が大きく変えられた、ホクイでの試験のことを思い出していた。その圧筒は凧のような不思議な仕掛けで強い力を出していたが、それが扇子のように硬大気流を使うようなことになれば、何かしら異常な現象が起こりそうなことは想像できる気がした。

 「そして、その力はサンサの想像を超えるものだった。実際にその力が試されたとき、菜多里さんやシュズさんのお父さんたちが真空場や破壊風を使って対抗した。じゃが真空場はもちろんのこと四人が力を合わせて最大限の破壊風を作り出してもタイトの圧筒の力には及ばなかったんですわい」

 「そんなにすごいものなんですか?」

 「すごいもんですわい。ただ圧筒は一度風を作ると、次に力を蓄えるまでにずいぶん時間がかかるんでな。その間にタイトの倉庫とかそういうところはすべて壊したはずだったんじゃが…」


 「どうなったんですか?」とゾウラが言った。

 「臼は残ったらしい。今もどこにあるかわからない。しかもなぜかその臼とサンサを結ぶチャンネルを、一方向だけしか閉じることができんのですわい。だからどうしてもサンサの力がいつも流れて行ってしまう」


 正一郎は顔をあげた。

 「タイトにもうキジはいない。じゃが、技術は残っていて、サイタやホクイの人間まで搾取して、また同じことが起きようとしている。それを封じるためにも破壊風の力があることを示すことは大切でな。ただ、タイトに対抗するには七人でも足りないかもしれない。まずはあんたら全員が一体となっていつでも破壊風を自在に作り出せるようにすることが必要だと思う。そうしないと各所に散らばっているほかの扇子使いとも呼応できんし…」


 そして正一郎は消えていった。もう少し、父やほかの風操士、そしてホクイに暮らす仲間たちのことを聞きたいと菜多里は思った。


 何かが大きく動き出している――。


 「正一郎さんを信じて破壊風を仕上げましょう」

 強い菜多里の言葉に仲間たちもうなずいた。


 グワン、グワン、ガリガリ、ガガン。轟音とともに、突風は吹き荒れ続けた。七人の風操士たちは、おおよそ破壊風をものにしていた。広場は荒原と化し、視界に入るのはもはや遠くに見える大岩くらいしかない。天ほどもそびえていた大岩も、この数日で削り取られ、人の背ほどしか残されていなかった。

 ハア、ハア、ハアと呼吸の音が響くなかで、空気が七人の中央に蓄えられていく。破壊風を生み出す空気球の大きさ、密度の濃さによっても大きくその性格が変わる。そして彼らは、空気球の形さえもその威力に影響することに気づき始めていた。ゾウラが言った。

 「球が長細いと力が変わるようだ」

 「なぜわかるんだ?」

 「さっきの一手を繰り出したとき、俺たちの円陣は少し楕円だった。前にも同じことがあったから、注意して見ていたんだが、楕円の先端側から風を投じれば、ドリルのように鋭く強い風になるようだ」

 「私もそれは少し思ったわ」

 「それで、逆に楕円の腹側から投じれば、衝撃波の力が広がりながら及ぶ」

 「どれもすごすぎて、私には同じように見えていたけど」

 皆が座り込んだ。

 「もういいかな?やれることはやったと思うけど」

 チャカの声に、菜多里が言った。

 「そうね。でも一つだけ。長老さんが言っていたことに、遠くの風操士とも連携するようなことがあったと思うの。それって、見えない相手と呼応しなければならないんじゃないかしら」

 「じゃあ、どうする?」とゾウラが疲れた顔で言った。

 確かにやらなくてはいけないことなのかもしれないと誰もがわかっていた。しかし、疲労がきつく、新しいことを試そうという気には誰もなれない。すると、測ったように長老がやってきた。

 「みなさん、破壊風の習得はだいぶ進みましたか?」

 頷く姿を見て長老は、皺の多い笑顔で周囲を見渡し、「最大のエネルギーまで引き出せたようですね」と誰に話しかけるでもなく言った。

 「今皆さんがお話していたことはとても大切です。見えない相手と呼応しながら、より大きな破壊風を作るということ、しかもどこに?どうやって?規模は?ということ。何のために?ということも、もっと理解し信じることができなければ、あのような危険な技を心を一つにして使うことはできないのかもしれません。そうですね、タイトの問題、また、あの微生物の問題もあります。それらは求められるときに生まれる力なのかもしれません」

 「求められるとき…」と誰ともなくそこにいる仲間たちの心がつぶやいた。


 「それから、いい話があります。正一郎さんが完全復活します」

 「本当に、ですか!」と、菜多里が思わず身を乗り出した。

 「おそらく今頃は、ホクイに両手両足のしっかりついた正一郎さんがいるはずですよ」

 「ホクイに…」



37.正一郎の復活


 クワアとエンジが夜の茂みを下っていくと、山道入口からはずいぶん離れた小道に出た。「どうやら麓だ」。辺りは暗く、足元がおぼつかない。二人はよろけながらも入口を大きく迂回するように街へと走った。最近は深夜でもニシジの息のかかった警察があちこちで目を光らせている。ビルの合間の影を利用しながら、息を忍ばせて正一郎の指定した豊風神社の鳥居をくぐった。

 「ご苦労様です」と男は声をかけながら手を差し伸べ、「本殿の中に」と誘導した。神殿の明かりに浮かび上がった大きな神鏡の下へ三人は滑るように移動し、二人が山から持ち帰った木はゆっくりとおろされた。そばには、昔、正一郎が作った流木製の臼が置いてある。

 「神主の刀場です」と男が言うと、

 「ここで何かあるのですか?」とクワアが聞いた。

 「はい」と刀場は神殿の奥を指差した。

 そこにいるのは、椅子に座った正一郎だ。クワアもエンジもポカンとした表情でその姿を見入った。

 「正一郎さん、ですか?」

 「はい。姿は木ですが、正真正銘の彼です。魂はもう入っています。彼は今、菜多里さんたちと交信しているところで、意識はここにはありません」

 「菜多里さんて、あの?」

 「ご存知ですよね。あの風操士の菜多里レイジさんです。彼女は他の風操士たちとともに新しい風操の訓練をしているところです。正一郎さんもそれにお付き合いしている。脳波だけで」

 「ちょっと難しい話ですね」と言ったのはエンジだった。

 「彼の上半身は、今、動けない木の姿で生き返っている状態だというのですか?」

 「おそらくそういうことです」


 刀場に促されるようにして二人は正一郎の傍らについた。意識はないようだが、確かに今すぐにでも話しかけてきそうな気配を持っている。彼らが持ってきた木の半身が、正一郎の上半身とつながるように立てかけられた。

 「この半身には、木球が入っていますね?」と刀場が確認するように言い、二人はうなずいた。


 「その木球には『呼印』が刻まれているはず。そうですね」

 「見たことのない印ではありました」

 「なるほど、それがおそらくは『呼印』でしょう。これで『呼印』の木球と、『真印』の臼が揃ったことになるはずです」

 クワアとエンジは、理解できずにたたずんでいる。

 「臼はあの鏡のそばのがそうです。ここには『真印』と呼ばれる印が刻まれ、もう一つ、『呼印』は、あなた方が持ってきたこの下半身にあります。その木球は地下のエキスをたくさん吸収したので、特別な力があると話されていました。


 そして、いつも要山での刻印の儀式のときに付けられる、この下半身そのものに刻まれた『当印』が、『呼』からのエネルギーを受けて強く反応するようです。そしてまた、この『当』の木は、特別なもの。よく要山に生えたものだと正一郎さんがおっしゃっていましたが、それを使ってご自身の半身を作られました。それとあの臼も、正一郎さんによるものです。この日のために作られたわけではないでしょうが、今はご自身のために使われることになってしまいました」


 冷たい板の間に立ったまま、三人はまだ「接続」していない正一郎を見た。彼は頭を木球に伏せたまま、静かに呼吸を続けている。

 「どうなるんですか?」とクワアが聞いた。

 刀場は鏡の方を指差し、「あそこにある臼から気が放出され始めると思います」と答えた。

 「気?」

 「風操士たちが使う特別な大気の層から送り出される空気です。あちらの臼には『真印』が刻まれ、その大気層とつながっている、ということです。それ以上は何とも、正一郎さんから教えていただいた話です」


 三人は、板の間に腰を下ろしてしばらく場の様子を眺めていた。しばらくは特段の変化もないようではあったが、気のせいか、ふと空気が変わる瞬間があるように感じた。戸は閉めきったままで、蝋燭の灯はほとんど揺れることはなく、こんな状態で空気が変わるというのも不自然な話だとクワアは心でつぶやいてみた。

 蝋燭の明かりに照らされながら、時間は経っていった。クワア、エンジともに意識はあったものの、寝ずに山を下ってきた疲れのせいもあり、それはもうろうとしたものに変わっていった。刀場は目を閉じている。これから起こることに確信を持つように、しっかりと精神を集中させているようだ。


 そうこうしているうちに変化が起き始めた。

 まず、正一郎が目を覚ました。彼は、驚いたクワアを指で制し、静寂を保ったまま、眼差しを鏡の方に向け座ってじっとしている。エンジも彼に気付いたようで、目に輝きが戻っている。刀場は変わらず目を閉じている。次第に、クワアにもはっきりと空気の変化を感じ取れるようになってきた。

 辺りが明るくなってきている。しかしそれは蝋燭の明かりではない。光だ。視点を中空に漂わせてみると、塵ほども小さい光の粒が、蛍のように空気の中に混じり飛んでいるのだ。それは少しずつ、鏡の方から正一郎の方へと流れていく。時間とともに粒子の数は増え、薄い流れから徐々に濃い強い光の流れへと変わり、正一郎へと向かっていく。流れは彼の頭から首、肩、胸、そして下半身へと取り巻くように回転しながら下り、全身をまゆのように覆いながら光を増していった。まぶしいほどの光が部屋に満ち、正一郎の姿が見えなくなるころには、部屋に強い圧力のようなものが加わっていた。

 苦しいとクワアは思った。汗が額から滴ってくる。戸を開けて外に逃げたいとさえ思ったが、さすがに踏みとどまるしかない。刀場は涼しい顔をしているが、エンジは同じように顔から汗をふいているのがわかる。

 「もう少しです。動かず頑張ってください。空気を散らしてしまわないように気を付けてください」

 刀場が静かに言った。太陽がそこまで迫っているのではないか、と思うほど光の強さが増している。耳鳴りがし、圧迫感が体中にのしかかってくる。何か、たとえようのない力が充満し、すでに声さえ出すことはかなわず、そこに起きていることすべてに服従を強いるようでもあった。


 それでもまだ光は容赦なく増していく。それに伴って圧力も強まっていくようだ。全身を締め付けるような力はまた、引き裂くような力にも感じ、頭がつぶれ、破裂しそうな痛みが襲いかかってくる。

 服従ではない。これは死を要求しているのだ。身動き一つ取れないだけではなく、呼吸さえ抑え込まれてしまっては…。苦痛があらゆる方向から襲いかかり、体の内部で膨張している。もしかして、正一郎さんの身体と引き換えに俺たちの命が奪い取られてしまうということなのか。しかしなぜ?そんな理不尽なことがあってたまるか。

 クワアは、肉体ばかりでなく思考までも押さえつけようとする力に悲痛の叫びをあげたが、声にはならず、そのまま気を失った。

この場にいたエンジも気を失い、光の中に二人は倒れた。だが、刀場は違った。一人気を吐き、光に吸収されまいと水をはじく油膜で覆いをしたように全身を守っている。光は力とともにいかにも彼の体にめり込もうとするが、それらはことごとくはじき返された。


 時を計っていたように刀場は立ち上がり、目を見開き、臼に向かって歩を進める。一歩一歩足を前に出すたびに全身押しつぶされるほどの桎梏に取りつかれていくようだが、それでも光の圧力を押しのけるようにして目的のところまで行き、臼に両手をついて体を支え、さらにはさび付いたぜんまい玩具のように鏡を見上げた。

 鏡は光を吸い込んでいるのか、それとも光を吐き出しているのか、周囲の粒子を巻き込むようにして渦を巻くように回っている。

 刀場は立ち、鏡に両腕を伸ばし、掌で鏡面をこすり始めた。鏡は、墨を塗りこむように彼の手の軌道に沿って黒い跡が残されていく。何度かそうすると、鏡は周囲の白とはまるで対照的な闇のような黒さに染まった。そして空気が流れ始めた。はじめは少しずつ、そしてだんだんと強い流れに変わり、暗い闇の中に白い光がすべて吸い込まれていった。気付くと蝋燭の灯りだけが残り、辺りは元通りの暗さに戻った。

 刀場の目が慣れ、椅子の上に正一郎の姿が現れた。彼は背もたれにもたれかかり、両手を垂れ下げたまま顎を突き出すように天井を仰いでいる。その姿はまるで死人のようでもあったが、上向きになった胸は一定の間隔で上下している。

 さらに近づいてみると、彼の体がしっかりつながっていることが見て取れた。やせ細った足の間の黒ずんだ小さな性器は、命ある人間のそれとは到底思えないほどうなだれている。刀場は正一郎に言われていた袴を用意し、彼の新しい下半身を包んだ。帯を結び、あとは正一郎の意識が戻るのを待った。蝋燭は静かに燃え続け、視界も平常に戻ってくるころにはクワアやエンジも意識を戻した。そして、ほとんど同じタイミングで正一郎も目を開けた。

 「正一郎さん、大丈夫ですか?」

 静かに聞いたのは刀場だった。正一郎は、不思議そうな表情をして、刀場に支えられながら体を起こし、ゆっくり周囲を見渡した。

 「そうか、ここは豊風神社でしたな」

 「はい」

 「脳波がサンサに行ったまま意識を失ってしまったようですわい。うまくいきましたかの?」

 「おそらく」

 正一郎は自分の下半身を眺めた。

 「なるほど。大丈夫なようですな。ずいぶん若返った感じもする。思ったよりうまくいったのかもしれない」と立ち上がろうとしてよろけた。

 「まだ自分の体になりきってないですな。足をうまく出せん」

 よろよろとクワアとエンジも近寄ってきた。

 「正一郎さん、ご無事で!」

 「おお、皆もの。今回はずいぶんと世話になったの」

 彼の言葉に二人とも嬉しそうな表情を浮かべた。そんな様子を見ながら「それにしても」と言ったのは刀場だった。

 「なぜ?」

 「なぜ、合体したのか、ということかな?」

 三人は黙って正一郎を見ている。

 「それは、だな、自分の足を使わなければ行けないところがあっての。そのためになんとしても皆さんの力を借りなければならなかった。許してほしい」

 「いや、それはいいんです」


 自分の足を使わなければ行けないところがあっての…


 「この世には不思議なことがあるものですわい」

 正一郎は、刀場らの前でにこやかに話し始めた。

 「体半分しか間に合わなかったもんで、みなさんにはお手間を取らせてしまって申し訳なかった。ほんとうは体すべてを作り上げられれば良かったのでしょうが、いい流木が足りなくての。残り半分は山の木なんで、二つをくっつけるのに地下のエキスを沢山吸った木球と呼印の力を借りれば何とかなると思ったんですわい」

彼は一呼吸おいて続けた。

 「不安もありましての。もうお聞きになったかもしれんが、その木球には、『呼印』と呼ばれる印が刻まれていての、それは、もう一つの印、『真印』が刻まれた物から出てくる風を受けると、おそらく生命そのものさえ作り出せるんですわい。今、要山にとって、いやホクイにとって大切な印が、このわしの中に入っておる。ホクイの命をそっくりこの体に預かったようなものでしてな、わしの命あるうちに一刻も早く仕事を片付けないと、ホクイが、ほんとにおかしなことになってしまいますわい」

 「どうされるんですか?これから」と、クワアが聞いた。

 「んん、まずはタイトに行ってきますわい。あそこでどうも不穏な動きが強まっておるようじゃから、それを確かめたら、必要なものを作らなくてはならんでの」

クワアとエンジは自分らも連れて行ってほしいと訴えた。しかし、正一郎は首を縦にはふらなかった。

 言葉を見つけ出せずにいる二人の手を、正一郎は握りしめて言った。

 「わしはの、木芸細工なんですわい。まるで命があるかのように作り上げられる我々ホクイの芸術は、わしも知らなかったが、どうやらここまで昇華できるわけじゃ」

 そう言って笑い、二人と目をしっかり合わせた。

 「わしは要山に与えられた命じゃ。このホクイを守らにゃいかんでの」

 そう言って立ち上がった。


「あ、それからもうじき菜多里さんがこっちにやってくるから、しっかりと守ってやってほしい」



38.血統


 菜多里の体はサンサを離れ、ホクイへと移っていった。ニシジの地図上に描かれた赤いゾーンから車で十五分ほど離れた家で、二階の窓から登ってこようとする朝日をぼんやりと眺めていた。そこはレストラン・バーと称する、正一郎が彼女のために用意してくれた場所である。


 「もう本当に吹かなくなってしまった」

ニシジによる開発は日を追うごとに加速しているようで、かつて彼女が心地よいと感じていた風がほとんど吹かなくなっている。すでに町は、正一郎らの発案した「帆舟」で潤い、裕福で他の町にも影響力を持つ都市国家に生まれ変わりつつあった。「風操士」という職業も、ここでは広場の芸人と同じように見せ物になる以外、ほとんど存在価値はなくなっている。

 菜多里はその町に戻ってきている。まだ薄暗い早朝に愛犬の黒丸に餌をやり、店の前をほうきで掃除し始めたころに、決まって自転車のベルとともに亜来良がやって来るのを待つのが日課になっていた。亜来良は、周囲の目を欺きながら必要なメンバーと情報のやり取りをするために、新聞配達のアルバイトを始めていた。


 「仲間がまた、タナベらにやられました。家族はチヤンがかくまってくれてますが…」

 「そう」

 餌を食べている黒丸の横にしゃがんだまま、まだ冴えない頭を軽くゆするようにして、目の前に集まった落ち葉をけだるそうに塵取りに集めている。

 「サクラダさんの調べの方はどうなっているかしら?」

 「もう少しということですが…」

 「そう。今夜にはみんな集まれるかしら?」

 彼女は、黒丸のふさふさの毛皮の中に顔を埋めながら言った。

 「連絡してみます」

 いよいよ計画を試す時が迫っている。その日のために、菜多里はここのところほとんど眠らずに出来るかぎりの知恵を絞り、そのための準備を整えてきた。この町そのものはもうどうすることもできないが、ニシジの力を葬りさることはできるはず。さまざまな人間が彼の犠牲になってきた。自分や正一郎、家族や仲間達、そしてサン。もうサンに会うことはできないのだろうか…。あの時の場面場面が昨日のことのように思い出されるたび、不思議と遠い日の出来事のような懐かしさが込み上げてくる。

 サンは、あの暗い地下の世界で幸せに暮らしているのだ。彼がいてくれたからこそ今がある。この計画が終わったらまた会えるはず…。そのためにも、自分がこれからやるべき事を必ず成功させなければならない。感傷に浸るのはそれからでいい。そう自分に言い聞かせるようにして、菜多里はまたプランに目を通した。

 

 夜、サクラダとチヤンは定刻通りにやって来た。亜来良が二人にウイスキーの水割りを差し出し、そのグラスの横にノートサイズの紙五枚をきちんと束ねて置いた。

 「話は亜来良から聞いています。さっそく始めましょうか」

 菜多里は紙とグラスが置かれたことを確認し、切りだした。

 「これが私の考えたプランです。いろいろ考えました。ウイルスやワクチンをたくさん作れるようになったのを前提にしたとき、どうするのが一番良いのか」

 と言って、各人の前に置かれた紙を指さし、三人が読み終わるのを静かに待った。

 「おもしろくなりそうだな」と、言ったのはチヤンだった。亜来良も同意した。

 しかし、サクラダの反応はちょっと違うもので、「恐ろしいことを考えるものだ」と、考え込んでしまった。

 「サクラダさん、何が心配なんですか?」

 「危険すぎます。たとえあの病気を直すためのワクチンが開発できたとしても、やはり危険すぎる。風でウイルスを飛ばすなんて、他のところにも広がってしまうリスクが大きすぎる」

 「サクラダさん。私からすると、この計画はそれほど危険なものではないんです。私たちサイタの技術を知ればきっとそう思っていただけるはず…」

 「ええ、まあ何といいますか。正一郎さんがよみがえったときには神業のように感じましたが、あのときと今回のプランでは環境もやり方も違うと思いますし」

 サクラダの言葉を遮るようにして、彼女は立ち上がり、きっぱりと言った。

 「サイタの真の力は、あのときお見せしたものだけではありません。それを見てからでも結論を出すのは遅くはないと思います」

サクラダは腕組みをしたまま考えていたが、他にプランがあるわけでもない。

 「わかりました。では見せて下さい」

 四人は、夜の外に出た。

 「あまり派手にやると、ニシジらに見つかるかもしれないから、少しだけです。亜来良君には見せたことがあるけど、この技の本質は人に見られてはいけないものとして伝えられています。魔法使いと思われてしまうんです」

どこか威厳を含んだ言葉とともにちょっと笑ってみせると、三人から十メートルほども離れた。その後、以前、亜来良に見せたように指を上に向け、何かを声にしている。


 「あの、川向こうに見える並木の、あの木の一番右側から二本目だけを揺らして見せます」


 風は全く吹いていない。が、菜多里がそう言った後、すぐに三人は空気が流れだすことを感じた。そしてヒューという音が耳をかすめたかと思うと、菜多里の指した木が突然、倒れんばかりに大きく揺れた。

それは一瞬の出来事だった。

 言葉を失っている三人に、「次はこの川の中心部に竜巻を起こします」と言い、扇子を小さくはためかせた。

 今度は、三人には何の風も感じない。川面に目を投じていると、少しずつ渦巻くのが分かった。渦の中心は次第に深くなり、そして円柱が上へ上へと延びていったかと思うと、それはますます力を強めながら、天にも達しそうなほどに高く上がっていくではないか。そこにばかり気を取られていたが、どうも竜巻周辺の舟などはまったく揺れてないようだ。風もない。ただそこに、本物の龍がいるのではないかと思わずにはいられないほど、天まで舞い上がった竜巻が静かにたたずむだけなのである。

 菜多里の血統が、真の光を放った。葉のない大樹を揺らす力、そして天の竜巻の不気味さ、三人は、まさに魔法使いを前にしたかのように発する言葉を失った。


 「ブラボー!」と間を置いて言ったのはチヤンだった。

 「どうやったのですか?」

 目をきょとんとさせたまま、サクラダが聞いた。

 「そうですね、気圧の変化を作り出すんです」と、菜多里は片目を瞑ってみせた。

 「噂には聞いたことがありますが、風操士の力がこんなにすごいなんて。信じられない」

 「そう、本当の風操士の力は…」

 これならうまくいくかもしれない。誰もがそう信じられるようになってきていた。


 菜多里に従って、四人は今後の作戦を吟味した。

 「これは、私が最初に考えたものですが、正しいのかどうかはともかく、いずれにしても風操士としてもっと腕を磨かなければならないと正一郎さんはお話くださいました。それで、私はサンサで仲間たちと修行してきたんです。先ほどお見せしたのもそこで覚えた技なんです」

 サクラダらは、その当初のプランが書かれた紙に目を通しながら話を聞いている。

 「このプランについてちょっと説明していただけませんか?」とサクラダが言った。彼女の作ったプランは、ニシジの執務室のあるビルが舞台となっている。

 「この地図は、ニシジが仕事で居る場所がちょうど真ん中になっています。この中心から放射線状に道路が五本ほど伸びていて、北方面に向かう二本の道路はオフィス街を造り、西への太い道が工場、東に行けば新しく開発された住宅地となっています。正一郎さんの家はここ。やはり新しく住宅や商業施設を建設しようとしている南方面ですが、その道を下った、この赤丸で囲んでいる一帯です。そして今私たちがいるのが、青で囲んだ部分、正一郎さんの家と東の住宅街の中間地点あたりになるわけです。それで実は、これは私にとってはとても都合の良い地形なんです」


 「周囲の住人には影響を与えずに、今みたいな風で真ん中を壊せるから、ですか?」と亜来良が言った。

 「そう。さっきやって見せたことで、少しは私の風を操る技術も信頼してもらえたと思うけど、ニシジの居るビルとその周辺だけ、せいぜい半径四十-五十メートル、それだけが、常に低気圧に付きまとわれることになれば…」と、菜多里は顔を上げた。

 「ニシジのいる所は、町のどこからでも風下になるわけだ」とチヤンが嬉しそうに、菜多里の代弁を買って出た。

 「しかも、あのビルは天井から空気を取り入れる喚起システムになっている。あんたの言うことが本当なら、もし風がそういう向きに吹いていれば住人の誰も気づかずに、ビルの人間だけが侵されてしまうということができるかもな」

 「はい、そこを狙います。それから前に亜来良が教えてくれたように、ニシジは、夜の十時になるとほぼ毎日と言っていいほど最上階のベランダに出てきます。何をしているのかはわかりませんが、その時は必ず一人だそうです」

 「空気感染も、水での感染もあり得ますし、もちろん直接触ったりすることでも、起こりえますが…」

 サクラダはまだ不安そうな表情を覗かせていたが、菜多里は気付かないふりをして話を続けた。

 「サクラダさん、薬ができるとすればあとどのくらいかかりますか?」

 「そうですね、ほとんど終わっていますが、念のためあと十日ほどみてもらえれば…」

 「わかりました。それを進めていただいていいですか?」

 「ちょっと、ちょっと待って下さい。菜多里さん。そんなことで、本当に一般人に感染しないと言い切れるのですか?」

 「私が地下の世界で聞いてきた限りでは大丈夫だと思います。あの寄生虫は、紫外線と寒さに非常に敏感ということです。たとえ実行するのが夜でも、今は冬ですから、集まった空気が上空に逃れる際に、三〇〇-四〇〇メートルも上昇したところで寒さで死んでしまうでしょう」

 「もし、生き残って町の他の地域に飛び火したら…」

 「サクラダさん、生き残っても一匹か二匹くらいですわ。それでもし感染する人がいたら、薬で防げればと思います」

 サクラダは、それ以上は何も言えなかった。確信は持てなかったが、菜多里の言うことが本当なら、確かにリスクは少ないように思えないでもなかった。

 不安を残したままではあったが、作業は進められた。サクラダによる薬の開発をはじめ、いざという時に備えたストック分の薬の量産はチヤンの人脈を使うことになった。あとは、冷え込みの厳しい晴れた日を待てばいい。亜来良は、菜多里が薬をサンサに持っていく間の連絡係と、バーの店番を任された。

 「できた!」

 それから十日後には、サクラダは薬の開発を終えていた。

 「完璧です。信用して下さい」

 サクラダは、南の圏域で取れる大型の青年葉や土壌菌を使った一種の解毒剤で、病気に感染する恐れが出た場合でも、服用すれば胃と腸の中で必要な酵素に形を変えるというようなものを創り出していた。


 「これを量産するのにどれくらい時間がかかります?」

 「チヤンにもう原料は手配してもらっているので、数日もあれば多少は」

 「じゃあ、申し訳ありませんが、少し多めに必要なの。それと作り方も。それをサンサに持っていきますので」

 「頑張りますよ」

サクラダは、いつもより黒くくすんだ顔の目尻に皺を浮かべて菜多里に応じてくれた。

 そして菜多里はしばらくの留守を得た。


 その間、メンバーの行動は早かった。亜来良は菜多里の仮の仕事に精を出すように見せながら、かたわらで沈黙を守っていた仲間達への連絡に奔放した。亜来良のほか、サクラダが病院での外来診察中に「患者」と称してやってくる仲間に伝える形もとった。仲間達は、本当に信頼できるという意味で約五十人いる。ニシジによって家や土地、そして家族を奪われた者がほとんどだ。

 彼らには、それぞれの自宅で、例の病人にやどる寄生虫をサクラダの指導に従って培養してもらう。開発が進む街で、ダウンタウンとなるいわゆるレッドゾーンに含まれる家は、地下を作業場にできるメリットがあった。住宅の床下は、海砂の混じった土であり、ここを五十センチも掘ると、どこも穴の下半分ほどには、暑い日でも湿気の宿るひんやりとした空気が溜まるのが確認できた。その空気が培養に適していることを、サクラダは発見していた。以前、菜多里が洞窟内では感染する人間がいないらしいと話していたことを思い出し、もしかするとそうした環境が培養に適しているのではないかと考えた末の策でもあった。



39.タイトの実態


 一方、正一郎はタイトにいた。ホクイにも負けない高い壁が物々しくそびえ、門を抜けた後も、大小の堀をいくつか越えなければ、人々が生活する場所にたどり着くことはできない。

 「ずいぶん厳重な守りだわい」

 そんなことをつぶやきながら、彼はこの町の中心部にある城を目指していた。先ほどの堀や山間部にある町にしては不自然に広がる平地など、過去には想像を絶する重労働があったのかもしれない。あるいは風の力を利用したのか…。

 「サイタの事件とあながち無関係ではなさそうだわい…」

 バスの車窓から見える家々は、どれも同じように灰色にくすみ、暗く寒々しく流れていく。そして工場ばかりが経っている団地に入ると、「役場」というところで降りた。

 「なるほど城と呼ぶのもごもっとも」

 目の前には、石垣でできた硬固な建物がひときわ存在感を示している。人々に強い威圧感とともに権威を感じさせる、タイトらしい象徴にも見えた。

中に入り、「ホクイで木芸職人をしていたヨコタと言います。職人を募集していると聞いてやってまいりました」と、警備らしい男に伝えた。

 小さい窓しかない薄暗い別室に案内され、そこでは、まるで犯罪者に対する尋問でもしているかのように口を開いた。


 「ホクイではどんなものを?」

 「へい、椅子とか机とかそんなものを」

 「ここで、何を作るか知って来ているのか?」

 「へい、武器類をおつくりになるとか」

 「そうだ。どんな武器を知っている?」

 「方向翼に風筒に、それから圧筒に…」

 「ほう、圧筒を知っているか。だが、方向翼なんかは武器とは言えんな。その程度の知識でここで働けると思っているのか?」

 「へい、腕には自信がありますが」

 そこへ、別の男が部屋に入ってきて、正一郎の顔を見るなり、言った。

 「もう死んだが、以前、ホクイにヨコタという木芸の名人がいたようだ。お前は、その男と何か関係があるのか?」

 正一郎は、まさか自分の名前がこの下っ端役人レベルにまで伝わっていることなどないとたかをくくっていたが、この一言には寒気を覚えるものがあった。自分の復活以来、自分の体は日に日に若返るようであり、それに変装もしている。自分がそのヨコタであることが気付かれることはない。しかし、このタイトでは必要以上に用心するに越したことはなさそうだ。

 「ヨコタさん、亡くなったのですか?それは知りませんでした。へい、もちろんあの方の名前は知ってますが、私とは関係はありません。ホクイと言っても広うございますから。この紙に自分のことは全部書いとりますから、ご覧ください」

 男はその紙を不審顔で眺めながら、向かいの椅子に座り、この先の“尋問”を自ら請け負うように隣の男に目配せし口を開いた。何かを知っているようにも感じる。用心に越したことはないと、正一郎は自分の心に言い聞かせながら平静を装っている。

 「なぜここに来た?家具を作って人間が、わざわざ武器を作りにくるのも変わった話に思うが」

 「へい、それでしたら簡単なことです。ホクイはもうだめですから。何がって、もう昔の木芸細工の町ではないですから、私のような下っ端の職人なんかに与えられる仕事もありませんで」

 あまりにさばさばと話す正一郎に、男らは警戒を少し緩めたように、話を仕事に戻した。

 「どのくらいの技術を持っている」

 「一応、ホクイ木芸職人として認めてはいただいてましたんで、一応は印が入れられた正当な木を使わせていただいてましたが、まあでも下っ端ですので、少し分けてもらった木とあとは普通の木でやりますから、ほんとに人様を感動させるほどのものはなかなか作れませんですが。一応、これなんかが作ったものですが」

 そう言って、何枚かの写真を出して見せた。

 「まあいいだろう。ホクイで木芸職人として認められていた技術はあるということだな。明日から工場に入れ」

 「へい、ありがとうございます」

 一時はヒヤッとしたものの、意外にあっさりと正一郎はタイトの武器工場に侵入することができた。


 工場は、木の匂いと高い天井が何よりも印象的だった。向こうに巨大な筒が見える。それが圧筒であって、本当に機能するものなのだとしたら、山の一つくらいは楽に吹き飛ばせそうである。もちろん大気に影響を与えることは間違いなかった。タイトでは、すでにそれを何年も前から造っているのだろうか。そうでなければ、サイタがなくなるほどの大気の乱れは起きていないはずだ。

 「だとしたら、これまでにいったいいくつ造られたのだろうか…」

 そんなことを考えながら、工場の人間に連れられて、持ち場とされるところに着いた。

 「お前はここで、この部品を作るんだ。できるな?」

 「へい。これはなんですか?できないことはないと思いますが」と言いながら、手に取って眺めてみた。

 「余計なことは聞かなくていい」とにらみをきかせて男は、「あの木材の山の中からこの部品に合うものを自分で選んで作るんだ。いいな、一日に何個作れるかで待遇も変わる。ホクイから来たなら、二十個は期待する」と言って、すぐに立ち去ってしまった。

 正一郎は、改めて手にある部品らしいモノを眺め、おそらくそれが巨大圧筒を構成するさまざまな部品を接続するために必要な、ネジの役目を果たす部品であるのだろうと察した。

 「この形、誰が考えたものか、なかなかのものだわい。しかし、こんな木を使っておってはの。それに、木目も強度をしっかりと引き出すようには考えられておらんな。ここで働く作り手が素人だということか。それを見抜けぬ上の連中もアホの集まりかもしれんの」

 そんなことを考えながら、木材を取りに歩いてみた。何人か、視界に入る作業者の仕事は、どれも違う部品を作っているようであり、誰もがボロ布のような作業着をまとった痩せた体でこちらを振り向くこともなく黙々と手を動かしている。

 広い工場の中でいったい何人が働いているのだろう?ざっと百人はいそうだが、それで何日かかればあの圧筒は完成するのか。それにしてもこんな連中が作ったもので、しかもこんな木材できちんと機能するものだろうかと疑わずにはいられなかった。

 

 「どうも。わしは今日から仕事なんじゃが、あんたはここでどのくらいやっとるのですか?」

 近くの作業者に声をかけてみると、「五年」とかえってきた。監視の目が光っているのを気にするとそれ以上話すこともできず、材木を取った後は与えられたところでノミを入れてみた。

 もう五年か、とすると五台、六台は造られてしまったかもしれんな…。きちんと造られているのだとしたら恐ろしいものであるがが、世界の気圧の変化から察する限り、はたしてきちんと造られているとは思えない。自分の目に狂いはない。ボロ布を着ている作業者の手さばきを見てもそれはわかる。

 「連中、ろくな生活を送っていないな。じゃが、なぜ辞めずに続けておるのか。いろいろと裏がありそうだわい」

 彼は自分の場所で、自分に与えられた仕事を始めてみた。掌よりやや大きい木材を手早く回転させながら、ノミを入れる角度を決めた。どうやら木材は普通の針葉樹を使っている。乾燥はしているが、正一郎からしてみるととても商品として扱えるものではない。

 「これではすぐにガタがきてしまって、本当の圧筒だったら二回も使わずに終わってしまうわい」

 

 正一郎は、半日で自分に与えられた部品二十個を作り終わり、ひとまずこの日は仕事を止めて帰ろうと支度を始めていると、監視員の男が着近寄ってきた。

 「お前、何をしているか!」

 「へい、期待された分の仕事が終わってしまったので、今日は帰ろうかと…」

 「何、こんなに早くか?」

 「へい。早いかどうかはわかりませんが、へい」

 「ちょっと見せてみろ」と、男は正一郎の作った部品を手に取り、じっと見入って、「ここで待っていろ」と言うと、今度は朝、正一郎をこの場所へ案内した男を連れてきた。男は、正一郎が作った部品一つひとつを眺めながら、「これを全部、お前一人で作ったのか?」と半ば疑いの目で言い、正一郎は「へい」とうなずいた。

 「少し待っていろ。ここで同じものを作っておくんだ」と言い置き、男は一時間ほどして別の男を連れて戻ってきた。

 「これです」

 別の男がまじまじと部品を見ている。

 「いい出来だが…、あなたはホクイの出身とか。あそこの職人は皆ここまでできるものですか?」

 いくら手を抜こうと思ったところで、普通より良いものができてしまう。そのことをあまり意識せずに正一郎は仕事をしてしまったことに、一瞬ヒヤッとしたが、平静を装い、「へい、わしなんか下っ端ですから」ととぼけた。

 「確かにいい腕をしているようだ。この部品ではなく、隣の工場へ行ってください」



40.サイタの作業者


 隣の工場も、よくもここまで作ったものだと感心してしまうほど天井が高く、ただ最初の工場と違うのは、巨大圧筒らしき装置が三機、等間隔に置かれ、人々がそこに張り付いて作業していることだった。

 「先の工場で作られた部品が、この装置に組み込まれます。この装置は今のところまともに機能しないだけでなく、一度使うとあちこち修理が必要になるのですが、たった一機だけ壊れないやつがあって、その違いを見つけ出してもらえないでしょうか?」

昨日、最後に現れた男だった。しかも、正一郎にはわかるが、非常に重要なことを言っている。静かで慇懃な語り口ではあったが、それだけにタイトで相当に力を持っていると感じさせる。

 「へい。わたしでお役に立つのでしたら…」

 正一郎にとっても随分早く訪れたチャンスだ。これでタイトのしていることを直接探れる。彼はまず「壊れない一機」に案内してもらい、そこに登りながら構造、肌触り、木目をつぶさに観察し、ある木材が組み込まれていることに気付いた。

「当印…。やはり親父か…」


 そのときだ。猛烈な力が正一郎の全身を覆うようにして襲い、彼の体内のエネルギーを奪いにかかった。

 「当印・・・、こいつが・・・、ううっ、わしの体に反応しておるわい」

 あらためて自分の体が呼印の入った木であることを思い出しながら、呼印の力と当印が反応したときのエネルギーとはこれほどまでに生命に関わるものなのかと、うめくように声を上げた。

 一歩、二歩と当印のところから遠ざかるしかなかった。距離とともに彼の生命力を吸い取る力は減衰して、十歩も離れるともう何事もなかったように静けさが戻った。

 「危ないところだったわい」

 だいぶ疲れてしまったが、それでも何事もなかったように、次は一度使えば修理を必要とする他の機体を同じように観察し、いくつかの答えを見いだしていった。


 「一つ確かなのは木目ですな。設計図にはそこまで書いてないようですが、木目の向きが悪い部品は、この装置の力によって一発で壊れるのでしょう。あとはちょっとわかりませんが」

 正一郎は、本来は木の質や部品ごとに使う木の部位を変える必要があることを知っていたのだが、そこまで触れるとかなり強度が増してしまうので、今までの倍、おそらく一‐二回までは三-四割の力で使えるようにする方法だけを伝えた。

 「どうやればいいのでしょう?」

 「へい。それを一言で説明するのは無理です。何せ、この装置に使われている部品は何百種類とあると思いますんで」

 「んん、確かに。あなたにはこの装置すべてを知ってもらうのが良いのかもしれませんね」

 男はそう言うと、別の男を呼んで、最初に連れられた工場からすべてを案内するように伝えた。

 木材や作られた部品が人の背丈ほども積み上がって、作業者それぞれが木材の山の間に埋もれるように仕事をしている。どの作業者も、木の種類にはこだわっていないことは正一郎にとって致命的な欠陥を生むものと映った。

 「わざとか…」

 そう思えなくもなかったが、しかし、彼は木目だけに注目し、作業者一人ひとりが作っているものについて、案内役に聞きながら歩いた。そして、部品の性格によって木目の密度と角度を口頭で助言していった。

 一人、正一郎を見て目を見張る作業者がいた。彼は、周りに聞こえない声で「もしやヨコタさんでは?」と囁き、正一郎が意味深に頷くのを見て、「私はサイタの人間です。あとでお話したいことが…」と監視員にばれないように耳打ちした。

 何事もなかったように正一郎はその場を離れ、二人は時を待った。工場勤めが認められると、全員が寮に入らなければならない。武器を製造するためには必要なことなのかもしれないが、まるで監獄のように食事時も移動時も監視が付いているので、なかなか個人的に話す機会がない。しかも、正一郎はいきなり一般の作業者とは別待遇となり、食事や部屋がいいのと引き換えに、監視の目もきつかった。

 それでもしばらくおとなしくしていると、厳しい監視の目も緩んでくるものだ。食事の際に二人は偶然を装って同じテーブルに着き、正一郎はいつものように木の特性について談義するふうに和やかな雰囲気を装いながら、隙をみて話を切り出した。

 「それにしても何ですかな、この刑務所みたいな雰囲気は?」

 「ここに来たら、もうどこにも行くことはできません。監獄と同じです」

 「あんたはサイタから、とか…」

 「はい。炉辺留ろべるカイトと申します。あの事件の前から捕えられています」

 「で、話とは?」

 「困ります。私たちはたとえ知識があったとしても、わざとあの圧筒を壊れるように作っているんです。気付かれないように。だから給料もほとんど出ない。それを頑丈にされてしまっては私たちの抵抗が水の泡になってしまう」

 正一郎は笑顔を作りながらも、難しい目をして頷いた。

 「それなら大丈夫ですわい。わしが教えているのは、一回ももたないものを一回できるかどうか、しかもあの圧筒から考えられる力からすれば、せいぜい三割くらいの力が出るかどうかですから、結果は対して変わりませんわい。それより、あんたたちがこのタイトに対して何を考えているのか教えてもらえませんかの?」

 男は周囲に注意を払った。

 「はい。いずれ、あの一機が壊れるまで今の状態を続けていくつもりです。これらの圧筒の開発には、我々サイタの人間が数多くかかわってきました。捕えられた仲間では私が最後の生き残りです。今のところあいつらは私を殺せない。私が作る部品は、圧筒のなかで最も力が加わるところで、私以外の誰が作っても機能する前に壊れてしまうからです」

 「吹き出し口の弁のあたりですかな?」

 「はい。同じ木、同じような木目を選んでも、他のものはやはり空気の圧力に負けてしまって、吹き出す前に壊れます。ただあなたならもっと良いものが作れるでしょうが…」

 「ん~、それはどうか知らんが…。たしかにあの弁だけが、壊れない一機の弱点ですな。それ以外は、これから何年経とうと、何回使おうと壊れることはないですわい。なんせ、あの機体は生きておる」

 「生きている?」

男は驚いて正一郎を見た。

 「しかも、もしその弁を改良すれば、あの一機の力はおそらく何倍にもなるでしょう。それができないのは、あの機体の心臓に馴染む木材がないからですな。心臓は特別な木でできておるんで、いくらあんたの腕が良くても、普通の木材では絶対にダメなんですわい」

 もうそんなことまで見抜いているのか…、と男は心の中で思った。


 「ところであんたは、臼がどこにあるかご存知ですかな?」

 「臼?」

 「そう、真印という特別な印のされた臼でして…。ああ、印の話はご存じないかもしれませんが、どうもその臼から湧き出している空気の匂いがするんですわい」

 「匂い、ですか?」

 「そう、その空気がいつも、うっすらとじゃがあの巨大圧筒に吸い込まれておる。それで圧筒を使ってないときでも、圧筒の口から嫌な風を生み出しておる。この地球の大風に影響する風ですわい」

 「そういうことは知りません。ただ、十日後にあの圧筒を使うようです。場所は、西のトラミ」

 「なんじゃと」

 正一郎は驚きのあまり、思わず大きな声を出してしまった。

 「トラミの風操士が、この工場をつぶそうと画策しているような話がありまして、事前に潰してタイトの支配下に置いてしまおうとしているようです」

 「あの町の大きさほどなら、確かに三割の力でも一発でほとんど壊滅してしまうわい…。しかしどうやってあんな巨大な圧筒を運ぶのかね」

 「ここにいる風操士が、空を飛ぶ不思議な圧筒の使い手です。信じられないほどの大凧で浮かせて、運ぶ…」

 「そんな技術まで手に入れていたのか…」

 正一郎は思い出したように、ポケットから木球を取り出し、

 「これを毎日、夜中の十二時に頭に当ててみてくれんか。わしと話ができる」


 「こら、そこで何をべらべらしゃべっておるか!」

 少し長い話が監視員の気を引いてしまった。

 「へい、木目の話でちょっと」


 その日、正一郎は一機目を調べると言って、圧筒内部に組み込まれていた部品に再度近づいてみた。しばらくすると、自分の命を吸い取る、あのとてつもない力がまた襲ってきた。

 「ダメだわい・・・」

 当印を削り取ることができれば、と思ったが、そのあまりの力は彼の魂こそ奪い取ろうとはすれ、彼の肉体そのものの接触をどうしても拒んだ。

 もはやそこにいることは無理だ。圧筒をますます元気にしてしまう。あれは間違いなく当印…。しかもあの木は地空木に近い。

 「親父だ。あいつが世界の風をめちゃくちゃにしおった。この圧筒が真の力を発揮したら、一つの圏域などあっという間に吹き飛ばせそうじゃわい。しかももし、上空で風を作り出すことにでもなったら…力ははるかに強まるに違いない」

 正一郎は暗い圧筒の内部でつぶやきながら、疲れきった体とともにどうにか外に出た。


 「この木に集まってくる気を追うしかないわい。まずは元を断ち切らねば…」

 彼の顔は一気に老けていた。体は重病人のように重くだるい。復活前の本当の肉体のように、いやそれよりもつらい衰弱は、自分の家で横になって死を迎えたいほどの気持ちを強いた。揺さぶられる脳の隙間に、なぜか菜多里の像が入り込んできた。現実でも現在でもない、さまよう菜多里の脳と呼応している。


 大丈夫、わしは死にやせんよ…。


 その日の十二時に正一郎は疲れ切った体をベッドに横たえ、炉辺留カイトと密かに“通信”した。


 「聞こえますかの?」

 「本当だ。聞こえます」

 「あのときの話の続きがしたいのじゃが。トラミで圧筒が使われるのは、本当ですな?」

 「本当です」

 「空から風を放つと?」

 「おそらく。ここで、その実験をしているのを見ましたので」

 正一郎は考えた。

 「近くに臼、わしがこの前言った臼のようなものはなかったかね?」

 「それはわかりません。なにしろ、遠くからだったもので」

 「そうか、それにしても今、あの圧筒を使われるのはまずい。わしの力を吸い取って、あいつは今までより力を出せるようになりましたわい。なんとしても臼を見つけださねば」

 「臼のことはわからないのですが、ただもうひとつ、お伝えしておいた方がいいと思うことがあるのですが…」

 「なんじゃな?」

 「寄生虫のことはご存知でしょうか?」

 「んん、ある程度じゃが聞いてはおるわい」

 「その寄生虫ですが、どうもある風に反応するようなのです」

 「どういうことですかな?」

 「詳しくはわかりませんが、サイタの風操士がある条件で繰り出す風に反応して活性化するようなのです」

 「なぜそんなことを知っておるんですか?」

 「前にここで一緒だった、扇子を使う仲間から聞きました。彼はもうこの世にいませんが…。それであの圧筒ですが、風と一緒に寄生虫をばらまくという噂を聞きました」

 「すると、どうなるんですかな?」

 「活性化された寄生虫は、地上の大気中でもしばらく生き続け、人間に取りつく可能性が高くなると思います」

 「なんと…。地下でしか生きられないと思っておったが…」

 「普通のやつでしたらそうだと私も聞いていましたが、そのサイタの風には何か力があるようで…」 

 正一郎の頭には真っ先に、菜多里が今、ホクイでまさに行おうとしていることが浮かんだ。 

だめだ、今、その風をホクイで使うのはまずい。ホクイが死の町になってしまう――。

そう彼女に向かって強く念じた。



41.計画の進展


 チヤンは、解毒剤の原料を調達するため、東南の圏域に足を運ぶと同時に、仕事のルートを使って解毒剤の処方を世界中の信頼できる医療機関に伝えていた。サクラダは、薬の量産を進めた。そして菜多里が戻り、四人が揃った。他の仲間は各々の家で待機している。

 「いいお天気ね」と菜多里は呟いた後、「今日、これから実行します」と続けた。

 三人は頷いた。すぐに亜来良が仲間への連絡に走る。連絡を必要とする家は全部で十五軒あり、そのうち寄生虫を培養しているのは十四軒。残り一軒は、まだ何も知らされていない亜来良の家族であった。その寄生虫は、サクラダがダニの仲間に寄生させることに成功させていた。

 通信手段は盗聴される危険があるので、亜来良はいつも通り自転車をこいだ。連絡と、寄生虫の回収を同時に行う役割である。


 「いいですか、寄生虫を放す場所はこの三カ所」とサクラダが言った。

 「ここは風の通りが良く家が少なく人通りもほとんどない。この三ヵ所だけは夜十時を過ぎたら全く人が通らないと言ってもいいでしょう。要するに最初に寄生虫と接触する人間は、ニシジとその仲間になる可能性が最も大きい。その三ヵ所には、私とチヤンと亜来良がそれぞれ待機します。亜来良は無事戻れるでしょうか…」

 「物騒なことは言わないで、サクラダさん。もうこうなったら信じるしかないわ」

「ですね。そして風が吹き始めたことを感じた時点で虫籠の入口を少しだけあける。いいかいみんな、少しだけだ。でないと、いっぺんに虫が飛ばされてうまくニシジのビルの中に入ってくれないかもしれない。そうしたら、またコピーをするのに何日もかかってしまう。危険度も増してくるし、それだけは避けたい」


 サクラダは続けた。

 「虫を放す場所から、ニシジのいる所までは約一キロメートル。菜多里さんの予定していた距離よりだいぶ遠くなってしまったが、ニシジの警戒網を縫って事を起こすには、これが限界です。ここまでうまくいったとしたら、あとは菜多里さんの腕に期待するしかない」

 菜多里が頷いた。

 「私はどこに行けばいいでしょう?」

 「それはご自分で決めて下さい。われわれではあなたの仕事のやりやすいという場所がよく分かりませんから」

 「それもそうですね。そうしたら、どこかニシジの居る部屋が見えやすいビルの屋上なんてないかしら?」

 菜多里は、サクラダの案内に従ってそのまま現地に行ってみた。距離はかなりあったが、ニシジの居る建物はハッキリと見ることができ、彼女の仕事に支障はないと思われた。四人が行動を開始するのは、夜十一時に決まった。残り時間は、あと一時間と十五分。菜多里は、ビルの屋上から空を見上げ、淀んだ空気の中に星を数えた。それでも二十個くらいにはなった。


 目をニシジの方向に移すと、いくつかの窓から冷たい灯が漏れている。そのまま、寄生虫が届いたとするサクラダからの合図を待った。時間は十時半を回っていたが、まだ合図がない。菜多里は、亜来良の消息が心配でならなかった。

その頃亜来良は、最後の仲間の家で寄生虫を運ぶために小さな容器に移す作業を終え、現場に向かおうとしていた。

 「亜来良君、大変だ。外に怪しい連中がうろついている。おそらくニシジの手下だ」

 亜来良が窓の隙間から外を見ると、確かに男が三人ほどで周辺の家々をのぞき込んでいる。もしかしたら、こちらの動きを何か嗅ぎ取っているのかもしれない。

 「すいません。この家に裏口はありますか?」

 仲間の男は頷いた。

 地下室がある。そこから境川への排水口に抜けることができるから。さあ、こっちだ」

 階段を地下に向かい、男が分厚いドアを開けた。四畳ほどのシェルターには、缶詰やら水やら、懐中電灯などがぎっしりと常備してあった。

 「すごいですね」

 「仲間の分もだから、これくらいはないと。この作戦が成功したら、町も乱れるだろうし、何があるかわからないからきっと役に立つはずだよ」

 「さあこっちだ」

 男は缶詰のびっしり重ねられた棚を横にずらすと、床に一人分の穴が掘られていた。

 「ここから、境川に抜けることができる。少し臭いがかんべんしてくれ。この穴を進んでいくと排水管に出る。それを左に行けば川に通じている。ちょっと遠回りになるが、あの辺りは安全なはずだ。これを持っていって」

 男は亜来良に携帯用の電灯を渡した。亜来良はそれを右手に持ち、左手にはダニの仲間がぎっしりと詰めこまれたケースを二つ携えて待つ仲間の元へと急いだ。自転車はもう使えないから、自分の足で走るしかない。足元が暗く、何度も転びそうになりながら、走りに走った。

 もし、自分が転んでこのケースの中身が飛びだしでもしたら、すべての計画がぶちこわしになる。みんなの命もない。みんなが命を懸けて、自分を待っているんだ…。

 亜来良はそう思って、心臓が張り裂けそうなくらい必死で走った。

 時間は過ぎた。夜に静けさが増し、サクラダ、チヤン、そして菜多里、誰もが気持ちを張り詰めて、その静けさに溶け込んでいる。

 もし、ニシジの仲間に見つかりでもしたら、その場で殺されるかもしれない…。

 だが、もうそんなことは気にもならない。人が死ぬことを覚悟した瞬間に宿るものであるかのような一種の興奮が四人の脳を占領している。

 すると亜来良がしっかりとサクラダの目に飛び込んできた。あの少年が頭を左右に大きく揺さぶって、しかしサクラダの開発したダニの仲間が入っていると思われるケースを両脇にしっかりと抱えて、走ってくる。サクラダは胸が一杯になった。

 やがて、菜多里の目にサクラダからの合図の光がはっきりと映った。

どうやらうまくいったようね…。

 「亜来良、ごくろうさま」と、心の中で呟いた。

 次の瞬間、彼女の手が、何のためらいもなく夜の静けさをかき回し始める。


 だめだ、今、その風をホクイで使うのはまずい。ホクイが死の町になってしまう…。

 正一郎の声だ。彼女は思わず動きを止め、脳の奥の方から聞こえてくる声に集中した。 


 寄生虫は、あなたの風に反応して強くなってしまう。町中に寄生虫が飛び散ってしまうかもしれん。すぐに中止してくれんかの。また後で別の指示を送るわい…。


 ニシジは、ビルの最上階の部屋から自分が作り上げた町の夜景を眺めていた。彼は窓を開け放つと、バルコニーに出て星に目を移し、「七か、少ないな」と感傷に一人、浸った。誰にも言ったことはなかったが、星を数えるのが、彼の唯一の習慣のようなものだ。

 そして、いつものチェアーの背もたれを大きく倒しながら、水割りの入ったグラスを手にし、目を閉じた。

 「いい風だ…」

 「そう。こんなにいい風は久しぶりですわい」

 驚いて振り向いたニシジの目に映ったのは、まぎれもない正一郎だ。

 「ヨコタ…なのか。なぜ、貴様がここに。死んだはずだ」

 「はは、そう。死んでますわい。しかし生き返った」

ニシジは声すら発することができない。まさに亡霊を前にして目を見開いたまま体を凍らせている。風が強さを増し始めている。次第に、正一郎の体がいくぶん光を帯びてきた。

 「この光がなんだかわかりますかな?」

 返事はない。

 「この光は、今、菜多里さんが起こしている風に乗って来た、ある微生物と反応しているんですわい。わしの体は木でできておってな。その微生物とは反応してしまうんですわい」

 「微生物だと?」

 ようやく口を開いたニシジをほくそ笑むようにして正一郎は続けた。

 「いかにも。世界を脅かしている病気の原因の寄生虫のことだわい。そいつらが 今、どんどんここに向かっている。ほれ見んか。わしの体がまた強く光っておる。どんどん増えておる証拠だわい。それとは反対にお前は黒くなっている。間違いなくこれで感染したじゃろう。しかも大量に体内に取りついたから発病も早い」

 「どういう意味だ、それは?」

 「死ぬということじゃよ」

 正一郎はそう言って立っている。その姿に呆然と対峙するニシジ。外の風は徐々に強まっていた。彼にとってそれが自分に向かって吹き込んでいる風だとは思いもよらない。手を眺めてみると、小さな黒い粒がうっすらと付着していて、何度も払おうとしてみても、薄い血のような色が広がるだけで、また次々に黒みは増してくるばかりだった。そこでニシジは目を覚ました。


 「夢、なのか…」



42.臼


 タイトの横田は、腹を空かした老犬のように、臼から湧き出してきているはずの空気の匂いを追った。どうやら工場の外にあるようだと気付くまでに丸一日かかった。次第に体調が良くなってくる。

 「間違いない。わしの体にエネルギーを送っている証拠じゃ。真印がどこかにあるわい」


 次の日は、タイトが用意した車で町を回った。


 「そんなに木材が大事なのか?」

 「へい。木材次第で、圧筒は壊れにくくもなりますでしょうし、力ももっと強くなると思います」

 そんなやり取りから、どうにかそばに見張り役が二人もついて外に出ることを許されたのだ。木材によって圧筒の力が変わるようなことまでわかる職人が、いったい何人いるだろうか。もはや自分の存在が、このサイタの一部の人間に怪しまれているに違いない。正一郎は急いだ。

 便りは匂いだけだ。暗い街中のほとんどに生気が感じられない。しかし、要山がそうだったように、何か、脈のように命が通っている流れがある。それを追うんだ。脈に重なった自分は、間違いなくエネルギーをもらって鼓動さえ高まる。きっとその先のどこかに臼があるに違いない。

 何度も車を乗り降りし、あるとき、湖が見えた。

 「あれは?」

 「あれは湖だ。この町の水をまかなっている水瓶だ」

 湖畔にはいくつも風車が並び、こんな殺風景な町にも血が通わせてくれるのかと、時代遅れの風車をしばらく眺めた。そうしているうちに心臓が高鳴りだした。急に息遣いが荒くなった正一郎に、見張りは「どうした!」と顔を近づける。

 「へ、へい、大丈夫です。なんでもありません。湖の近くに行きたいんですが…」

 三人は路上に車をとめ、歩いて松林を抜けた。正一郎の中に、エネルギーがみなぎってくる。これはサンサの力。ここに臼があることはどうやら間違いない。まるで川を上る鮭のように、波打ち際の砂浜を進み、しばらくして力を感じる強さはピークに達した。

 「この辺りから少し沖に出てみたいのですが」

 そう訴える正一郎に、男らは顔を合わせて「なぜだ?」と聞いてきた。

 「こんなところにいい木材があるとは思えん。なぜ山じゃなく、湖なのだ?」

 「沈んでおるのです。おそらくは。鉄ほどに重い木材なんじゃないかと思うのですが、へい」

 正一郎はでたらめを言っていた。そこに臼があったら壊してしまえばいい。そこには真印が刻まれているに違いない。壊してしまえば少なくとも、タイトとサイタの接点はなくなり、あの圧筒の力は弱まるはずだと考えていた。


 三人は、湖上の人となった。恐ろしいほどに透明な水の中に陽光が差し込んでいる。真っ青な色は、底などどこにもないと言っているようでもある。

 どうやら臼の真上に来ている。体がサンサの気配に完全に同調し、血液が全身の細胞に溢れるほどにいきわたり、体が小刻みに震えている。

 「この下にあるようなんですが、へい」

 「こんな深いところでは取り出しようもない。光が届いている先に、まだまだ真っ暗な闇がある。この湖の深さを知る者はいない。それだけ深いのだ。あきらめた方がいい」

 「潜ってみてもいいですか?」

 男らは驚いて正一郎を見ると、どうやら本気で言っているらしい。

 「いいが、命の保証はないぞ。水温はおそらく十度もない」

 「どうせこの先短い身ですゆえ、運命に任せてやってみます」と、彼は褌姿になって飛び込んだ。

 吸い込まれるように沈んでいく正一郎の姿を追っていた二人は、やがて闇に消えていくのを確認して、後は静けさの中に漂い続けた。

 正一郎は光の届かない闇を貫くように沈み続ける。おかしい、極寒と闇の水中深くにいるにも関わらず、何の苦痛も訪れないばかりか、むしろ体は活性化してくるようだ。さらに、なにやら体が光り始めているのをみると、どうやら幻覚が起きているのであろうが、それにしては意識はきわめてしっかりしているように思う。

 なんじゃ?

 宇宙を漂う星のように、光る何かが闇の中に増えている。クラゲだ。淡いピンクに光る大量のクラゲが、底に進むにつれ、密度を増して漂っているのだ。なんと幻想的な世界だろう。

 そして、その星々の向こうには、太陽のように強い光を発している点が見える。サンサへの入口か…。周囲の光は次第に濃くなり、やがて光に支配された湖底が現れた。本当に自分は生きているのか…。光のまったく届かない湖の底に光の世界がある。彩っているのは、無限にも思える光るクラゲであり、木でできた自分はその宇宙に漂っている。その先に、臼が光を発しているのが見えた。

 「こんなところに隠しておったか」

 湖底の砂地を蹴るようにして少しずつ近づいて臼を覗いてみると、そこには見覚えのある景色があった。サンサ、それから…二本の松…。要山の塩湖の松なのか?それともう一つ、この景色はなんだ?闇と光の世界…。

 真印が刻んであるのだから、わしならここを通って、サンサに行くことができるはずじゃが…。しかし、今、自分の頭も足もそこに入れることさえできない。

 「一方のチャンネルが閉じられた、ということか?」


 この真印を削り取ってしまえば、あの巨大圧筒の力はおそらく十分の一にも満たなくなる。それよりも大風の乱れが止むはずだ…。じゃが、わしが生きてここまで来られたのが真印からのエネルギーのおかげだとすれば、それがなくなったとき、わしはあっという間に窒息してしまうのではないか…。

 「それでは、最後の目的を果たすことができんわい」


 「まさか…」

 正一郎の脳裏をよぎったのは、この湖と、何百キロも離れた塩湖が、地下の水脈でつながっているのかもしれないということだ。いまだホクイに当印できる木々が育っているというのは、真印の力を受けているからこそ。それは、正一郎が掘った真印の臼ではない。なぜなら、その臼を掘る前から、木々は育っているのだから。彼が当印を刻むホクイの木々は、地下からの特別なエネルギーを吸収して育っている。塩湖に通じる水脈を通って、この臼から出されるエネルギーが流れ着いているのだ。

 なぜ、キジはそんなことを考えたのだろう。そしてなぜ、そんなことを知っているのか?偶然か?あるいは臼の、いや長老の意図によるものか?まあいい。塩湖が光らなくなったのも、それならうなずける。そう、昔、臼は、ホクイの塩湖の中に沈められていたのだ。キジもきっと何かを感じたのだろう。


 「ますます、削り取ることが難しくなったわい…」

 海の底の光に包まれながら、絡み合う糸を解きほぐすように正一郎は考えを巡らせた。

 「いよいよ勝負に出るしかないわい」

 彼は浮上した。もう湖面には男らの乗った舟はなく、それはそうか、などと苦笑いしながら岸へと泳ぎ着いた。車もなくなっている。おそらくは死んだと思って帰ったか、あるいは自分を探すために仲間を呼びに行ったか。いずれにしても、彼は自分の足で歩いて帰った。


 工場へ戻った彼に駆け寄ってきたのは、工場を案内してくれた丁寧語の男だ。

 「大丈夫だったのですか?」

 「もう何十分も出てこないから死んだと聞きましたが…」

 そんな様子を横目に、彼は「流されてしまいまして。木材は見つかりませんでした」とだけ言って詫びた。

 そして、その日の夜の十二時。彼は、炉辺留カイトと“通信”した。


 「いましたか、カイトさん。圧筒の力を削ぐことはできんでしたわい。ただ、臼は見つけました。いちかばちかですが、あの圧筒の砲口に強力な風をぶち込んでやれば、圧筒がエネルギーを吸い込んでいる『印』という心臓の部品まで破壊できるかもしれん。あの弁。あれが開いているときは、印が油断しておるはずじゃから、そこにぶち込んでやるんですわい。ただし、圧筒が風を吹き出すタイミングでやらなければ、ぶち込む風の力まで吸い取られてしまう危険がある。風を吹き出してすぐのタイミングじゃ」

 「その時を知る必要があるのですね?」

 「そうですわい」

 「しかし、あの圧筒に勝る風なんて、そんなものどうやって作るのですか?」

 「もうできておる…」

 そして、その日が来た。朝から二つの巨大な凧が空に浮かんでいた。

 「いや、違う。あれは飛行船だ。いったいどこから来たというのだ」

 壊れない一機が吊り下げられ、カイトが見上げるなか、ゆっくり移動し始めた。正一郎は、飛行船にいた。そこで、木球を額に当て目を閉じた。


 菜多里さん…お願いがありますわい…。

 ホクイの彼女はすぐに反応した。

 菜多里さん、豊風神社の臼を見に行ってくれませんかの?もう一日、二日もしたら何かいつもとは違う変化が起こるはずですわい…その時、破壊風を使ってもらいたい…。

 破壊風…ですか?…。

 そう、境内に出て風を感じながら、北西の方角にエネルギーを飛ばしてほしい…残り十五人、すべての風操士とともに破壊風を創りだしてください…。

 すべて…お父さんも加わるのですね…。

 もちろんですわい…全員のエネルギーをタイトの圧筒に向けてぶちかますんですわい。成功の鍵は、神社の臼です…真印どうしは連鎖していますので、一方で何かが起これば、一方にも変化が起こるはず…。その瞬間をわしに教えてください…そして、サンサで皆と練習した時と同じ感覚、それを測りながら破壊風を打つ…。あの、最も空気を小さく固めたやつにしてくだされ。チャンスは、タイトの圧筒が放たれる瞬間の一度だけですぞ…。

 タイミングがずれたら…どうなるのですか?…。

わしも経験したことはないのでわからんが、もしかしたら圧筒が破壊風のエネルギーを吸収してしまって…トラミのある西の圏域ごと吹き飛ばされてしまうこともあり得ますわい…。

 そんな…。

 そこで通信は終わった。空の正一郎は、船室の片隅で腕組みをしたまま寝たふりをしている。菜多里は、今の話をサクラダに“通信”し、サクラダは豊風神社の刀場のもとに急いだ。



43.十六人が動く!


 豊風神社の神鏡の前には、かつて正一郎が掘った臼が置かれ、刀場は梯子をかけて中を覗いてみた。いつものように夜にだけ見せる怖いほどの闇がその中にたたずんでいるだけで、特別な変化はまだ起きていないようだ。

 菜多里が神殿に駆け込んできた。チヤンが外を護衛してくれている。ニシジらにはもはや不審な動きがばれている。

 「誰だ、お前は!」

 神社に入ろうとした男らに、チヤンは拳銃を向けながら、あっという間に縛り上げた。一人に対して銃口を突きつけ、他に見張りがいるかどうか聞いた。

 「そこいらじゅうにいるさ」

 男が負け惜しみのように吠える声を聞いて、「本当か?どこにいる」とチヤンが冷静に聞き返す。

 「ここだって、おれたちが戻らなければタナベさんに狙われることになるぜ」

 「もう狙われているさ」

 この言葉が、男たちの聞く最後の言葉になった。チヤンの蹴りが色白の男の側頭部に決まり、次の瞬間には回し蹴りが別の大男の顎をとらえた。よたった大男の顔面にもう一発、鋭い蹴りが入り、瞬間、鈍い音がしたかと思うと、大男は声も立てずに地面に倒れた。

 境内では、静かな時間が過ぎる。ニシジを狙った日から続く、悶々とした時間でもある。しかし、ついに変化が起こった。臼が淡い光と強い光を交互に繰り返し、周囲の空気がそこへと流れ込み始めた。

 「これだわ」

 正一郎さん、変化が起きています…。

 わかった…。ではすぐに始めてください…。他の風操士にも伝えます…。

 菜多里は、急ぎ境内に出た。両手を真横に掲げ、掌を正面に向けた後、ゆっくりと体を一回転させた。

 「向こうだわ」

 反応がある。わずかだが掌が押されるような感覚。その感覚を頼りに自分も押し返す。はっきりとした感触となってさらに力が加わってくる。サンサで七人で試してきた力とは違う。十六人の力が呼応している。みんな…。お父さん…。さらに力が増し、菜多里は右足を後方にずらし、踏ん張る姿勢をとった。グングンとまるで音が聞こえてくるかのように押し寄せる力を決して逃すまいと、必死にエネルギーを送り続けた。

 まだですか?…。もう体力は限界に迫っている。ただ、正一郎からの返答はない。もしここで少しでも気を緩めてしまったら、どこかで形作られている破壊風の塊は、自分のところだけ穴が開いてしまい、全員の努力が無に帰してしまう。じっと耐えるしかなかった。

 一方、トラミの空には、巨大な木球が二体浮かんでいた。吊り下がっているのは巨大圧筒だ。さらに、周辺にはこちらも巨大な凧がいくつも上げられている。

 「あいつが凧で風を圧筒に誘導するのか…」

 気球の中で正一郎は、地上に小さく見える風操士らしき人間を見てつぶやいた。

 「ヨコタさん、どうですか?圧筒の具合はいいと思えますが?」

 「へい。問題なさそうで。ただ、やはり弁の取り付けが気になりますんで、わしを圧筒までおろしてもらえんでしょうか?」

 正一郎はそう言って、わざとらしく弁の部品を取り出して見せ、「もし何かありましたら、これに変えますんで。よくご覧ください。工夫をしてもっと丈夫になったと思うんですが、へい」

 「そうか、聞いてみよう」


 遥か上空には、レンズ状の球体が育っているのがかすかに見えた。

 待っていたら時間がないわい…。一分が恐ろしいほど長く感じる。男が例の丁寧語の男と話しているのを横目に、焦りが募っていく。

 「許可が出た。ただ、時間があまりない」

 男の後を小走りで付いていくと、地下の倉庫の床の扉から、ロープを圧筒に向かって放り投げた。

 「ここから降りて、新しい部品と交換するんだ。できるか?」

 「へい。残りの時間はどんなもんでしょう?」

 「十分だ」

 予想より厳しい。正一郎は急いだ。風に大きく揺さぶられるロープを伝って降りていく自分は、どれだけ人間離れしているのだろう、などと苦笑いしながら、あっという間に圧筒の上に立った。作業路を通り、奥へと入る。凧からの風がどんどん吸い込まれている音が聞こえる。

 「あの風操士、とんでもなくいい腕をしておるわい。臼がもっと近くにあったらどうなっていたか。本当に圏域ごと吹っ飛ばしていたかもしれの」

 もう残り時間は五分ほどだろう。作業窓から外を見ると、レンズは大きく膨らんでいる。

 もっと…、もっと小さく固めなくてはだめですわい…。


 菜多里にも限界がきていた。全身が震え、すべての関節が痛みと共に悲鳴を上げている。もはや気力で持ちこたえているだけだった。そこに、正一郎の声が入ってきた。

 もっと…、もっと小さく固めなくてはだめですわい…。

 でも…、もうこれ以上は無理です…。

 頑張って…、トラミ、いや世界を守るためです…。

 菜多里は大きく息を吸い、目を見開き、全身全霊を腕に注いだ。「いけー!」。すべての風操士が波長を合わせるように同じだけのエネルギーが反応してくる。

 正一郎が見るレンズは、濃く、そして小さく、そしてエネルギーにあふれるものに変わっていった。そのとき彼は、作業路を抜け、当印のところでそれに重なるように仁王立ちになった。

 今です!…。

 その声に、風操士たちの腕が振り下ろされ、もはや固体と化したようなレンズが落ち始めた。正一郎は、自分のエネルギーを当印にどんどん吸われていく。本当にわずかな時間しか、自分の命は続かないだろう。圧筒の筐体の震えが大きくなっていく。まだか!

 体の力が奪われ、意識がもうろうとしてきたとき、バン!という大きな音が聞こえた。

 やったぞ。これは弁が開かれた音だ。そして圧筒からは、圧縮された空気がゴーと唸りを上げて吐き出されたまさにその瞬間、レンズが圧筒の砲口に飛び込んできた。レンズは圧筒からの猛烈な圧力にめり込むように突き進み、爆発音のような轟音が辺り一帯に広がった。レンズはグイグイと押し入り、そしてついに弁を突き抜け、内部へとえぐり込んでいく。

 その先には…。圧筒の心臓である「当印」の刻まれた部品に背中を重ね、「呼印」の正一郎が仁王立ちしている。その二つの印にまっすぐに向かうように、すさまじいエネルギーを宿した破壊風の球は、ドリルのように内部を破壊しながら突き進んでくる。

 爆音が目の前に迫り、正一郎の体を丸ごと呑み込んでいった。彼の目に風操士たちの姿が映った。菜多里、チャカ、ゾウラ…。彼らが自分の体に入り込み、正一郎は全員の力を受け取るように生気をみなぎらせ、無意識に体を反転させて当印に両手を充てた。

 グググググググ…。

 今まで彼の体の力を吸い続けていた当印が、瞬時に膨大なエネルギーを受け、きしみ音をうならせながら膨張し、ついには支えきれず大爆発を起こした。その衝撃波は、水滴がはじけ飛んだように複数の空気塊となって地上にも達し、地上にいるあの風操士のいる一帯を吹き飛ばしただけでは足らず、さらに、遠くタイトの湖へと向かった。空を幾筋にもなって流れ飛ぶレンズ…。タイトの上空では隕石の落下でもあるかのように、景色を屈折させた空気の塊が大きな水しぶきを立てながら湖面に降り注ぎ、そして湖底を目指していった。湖面はまるで沸騰しているかのように泡で溢れ、そこに次々に幾筋もの空気塊が飛び込み、それらのうちの大きないくつかは湖の中で表面を削られながらも臼へと到達した。

 先頭の空気の塊の中には、正一郎の姿があった。彼そのものでもある「呼印」が、破壊風を引き付け、従えていたのだ。彼は、臼の中へと飛び込み、「向こう側の世界」へと突き抜けようとしていた。サンサ、ホクイの要山の塩湖、そしてもう一つの闇と光の世界。不思議なもので、意図したこととは別に、自分の再生された理由が今にあるとはっきり感じる。もともとは、圧筒を壊すことさえできればよかったはずだったが、自分が湖底の臼を意識した、いや、させられたような感覚とともに、今いるここに向かおうとする意志が生まれた。

 中では、三つの世界が映し出されている。すると、空気塊とともに、正一郎の体は三つに分かれ、それぞれの世界に向かってえぐり込んでいった。やはりサンサだ。先にはサンサがあった。もう一つは塩湖の中。そしてもう一つは、なんだ、ここは…。財宝とミイラの空間。壁に蝋の灯が揺れる洞窟のようなところだ。すべてが地下の洞窟でつながっているのだ。

 老人が一人、部屋の隅でうつむいたまま座っている。正一郎の気配に気付く様子もなく、ただただうつむいたまま、大きく曲がった背中を上下させていた。

 「ここは、菜多里さんが行っていた洞窟かもしれんわい」

 そんなことを思いながら、洞窟を突き進み、壁にぶつかるたびに木の破片を残しながら、海の上へと出て、空中をしばらく漂っていた。

 サンサの空では、長老が空気塊を見ている。レンズのようなそれは、辺りを飛び回りながら彼の手へと収まっていった。「帰ってこられましたか…」

 菜多里は、豊風神社の境内から要山を見ていた。今度の破壊風は今までにない疲れを強いられたが、立ち上がれるだけの力がようやく戻ってきていた。周りの人間もひとまず安堵の様子を浮かべて、彼女の眺めている方向を不思議そうな目で追ってみた。

 次第に、夜の静けさのなかに、かすかな光の点が浮かんでいるのがわかった。

何時間経ったことだろう。皆が酒を飲んでいるなかで、菜多里はまた要山の方を眺めてみた。いつの間にか、クワアやエンジも集まってきている。

 「塩湖が光っていますね」

 誰に言うでもなく菜多里がつぶやくと、クワアが「ああ、今日は新月か」と呼応した。

 「あそこには臼が沈んでいて、そこから流れ出る気が湖の中の植物を光らせていると正一郎さんは言っていました」

 「臼が、なぜ?」

 「キジという彼の父親がかつてそうしたのだと聞きました」


 「新月だからと言って、あんなに光っている塩湖は今までない」とエンジが言う。

 「正一郎さんがいるから?さっき、正一郎さんの声があそこから聞こえてきたように感じました」

 菜多里が言うと、誰もがしんみりと目を落とす。


 わしは要山に与えられた命じゃ。このホクイを守らにゃいかんでの…


 そんな正一郎の言葉が思い出された。


 「正一郎さんが蘇った時にも、臼のようなところから光が出てきたが…」とエンジが言った。

 「特別な印のされた臼であれば、そのようなものが流れ出てくるのかもしれません。それが命を育み、奪いもする」と刀場が言う。


 しばらくして要山の山頂がぼんやりと光に照らし出された。それを見ながら菜多里が言った。

 「正一郎さんは、この計画が危険だと知って、わざわざ来てくださったんだわ」

 山頂は、少しずつ強い光を帯びていく。

 「あれは正一郎さんの光なのかしら…」

 「きっとそうでしょう」

 「正一郎さんは、呼印によって光る命を吸収されて蘇った。その命をまた要山に放っている。そして木に帰るんだ…」

 誰がそう言ったのだろう。皆が自分そのものの声であるかのように、その言葉を受け止めた。

 光が塩湖から吹き出している。山が宝石になり、塩湖から延びる光は月のない天をも照らす。まさにそれは命の持つ果てしない力、銀河だ。


 「要山が命を取り戻したんだわ。正一郎さんはあそこにいつもいてくれる」


 わしの体がもうこんなに光っておるわい。もういい…。大丈夫、大風が戻り、地下にもしっかりと微生物が戻ってくれてますわい…。


そんな声が聞こえてきたような気がした。



44.あの海


 スイラの老人は、海に一人、浮かんでいた。今日は、洞窟の光がえらく騒がしく光っているので、こんなことは新月のときか、あの風操士が来たときでもないと、と思ったが、いままで見たことがないほど強い光に満ちている日にはもしかしてと、心が海に向かわせたのだった。

 すると、月明かりに満ちていた永遠の海原の向こうに、黒い壁が天まで伸びている。あのときも…。いや、あの時は四方を全て閉ざされた、あの壁の中にいた。今は違う。だが、あのときと同じように何かが起こるかもしれないと、彼は期待で自然に手が震えだした。まさに同じところで同じことが起こっているように思える。

 壁の方向から何かが向かってくる。壁に穴を開け、海上ではなく、空からまっすぐこちらに飛んでくる。小さな点のようなもの。頭上近くまで来ると、弧を描き、船の上に落ちた。小さな、小指の先ほどの木の固まりだった。彼は捨てずにそれをしまい、念のためと思ってあの岩にも向かうことにした。

 舟が思った方向にどんどん進んでくれる。まるで傍らに風操士がいるように。そして、岩は口を開けていた。そうか、新月…、もはやそんなことも忘れるところだった。彼は、中に入り、目を見張った。光が、今までの何倍も眩しく、美しい。光を反射させながら、魚が飛び跳ねていた。



(おわり)


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風操士 @emma

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