12 越えられない夜を越える
ひとつ気が付いたのは、市川アサカもきちんとした日本語を話せるということだった。
それは当たり前の事実なんだけど、それでも俺は驚きを隠せなかった。
だって、市川アサカだぞ? あの、思考は不明で、コミュニケーションは不可能で、単なる『害』としてしか俺の前に現れなかった謎の女——市川アサカその人だぞ?
それがなぜ。
なぜこんなにマトモな顔をして、ファミレスで向かいの席に座っている?
「今までのことを、謝ろうと思って」
鼓膜にぶら下がるような余韻を持った、しっとりとした声で彼女はそう言って、小さく頭を下げた。
——まるで、物わかりのいい大人のような態度だった。
「どういう心境の変化ですか」
訊ねる。俺にはさっぱり理解ができなかった。
「心境は変わってないわ」
アサカは静かに首を振った。まるで今まで西尾維新が書いていたキャラを村上春樹が引き継いだかのような変貌ぶりだ。
……まあ要するに、別人だ。
「変わってない? 信じられるはずがないでしょう」
「本当よ。私自身は全然変わってないの。ただアプローチを変えただけ」
「アプローチ?」
「……ううん、こっちの話」
……? わけが分からない。
彼女は飲みかけのアイスコーヒーのグラスに浮かぶ水滴を中指でゆっくりと拭った。うっとりとした仕草だった。ドリンクバーの安い味のコーヒーに向ける表情としては、あまりに贅沢だ。
俺の知る限り、市川アサカはそんな風ではなかった。
クメダコーヒーの店員として働いている彼女はなぜか俺を目の敵にしていて、期間限定メニューのスイーツ『ブラックノワール』のチョコソースを醤油に挿げ替えて提供するという即訴訟&即敗訴ものの暴挙に打って出て、俺の舌を破壊した。
それに留まらず、なぜか俺が申し込んだ同人イベントを勝手にキャンセルするという謎の行動も起こしている。
はっきり言って、ヤバいやつとしか思えない。
正直、嫌いだ。……好きになれる要素が皆無だった。関わりたくもなかった。
——はずだったのに、だ。
「今までのこと、本当にごめんなさい」
彼女は憂いを帯びた目を伏せた。
「…………」
絶句ついでに観察すると、彼女まぶたが小さく震えている。
申し訳なさと、緊張感と、少しの恐怖感も滲ませている——演技で出来ることだろうか? 個人的には、そうは思わない。市川アサカは心から俺に謝っていると思えた。
——だとしたら、俺は訊ねなければならないだろう。
「どうして、俺の邪魔をするんだ?」
「それは……」
二、三、視線を迷わせてアサカはまっすぐに俺を見据えた。
「あなたのことが好きだから」
「は?」
ひとつだけ確実に言えるのは。
歴史上、今の俺の俺ほど感情を込めて『は?』と言った奴などいなかっただろうことだけだ。
そして、あろうことか——
彼女は頬を染めて、腰の奥から背中にかけてを僅かだが煽情的にくねらせて。
言い放った。
「……抱いて欲しいの」
*
*
*
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「こ、これが『Waves』ですか……」
「おおお……めっちゃ楽しそう……!」
肩を寄せ合いながら食い入るようにモニターを見つめているのは、みずほにとっては可愛い後輩二人組。
花園
体育会系タイプでボーイッシュで活発な莉音と、文化系タイプで少し内気な部分があり運動は不得意そうな豊歌。
対照的な二人だが、みずほの心配とは裏腹に不思議と馬が合うようだった。
「これくらいのダンスなら、ちょっと練習すればできそうッスね」
「ええ〜。私は無理ぃ……」
「ゆっちんは美術部だったから、まずはランニングからじゃないッスか? 体力体力ぅ♪」
「うう……ら、らんにんぐ……。莉音ちゃん、一緒に走ろう……?」
「ダメッス! ボクはテニス部で基本的な体力はあるし、初めは別メニューが望ましいッス!」
「ううぅ……」
「ははっ! 逆に、今まで全然走ってなかった分、ちょっと走ればすぐに伸びるはずッスよ〜」
「そんなものなのかなぁ……うー……自分は文化系だから走らなくていいやって決めつけてた部分あるし……」
「伸びしろあるッスよ♪」
明朗快活に笑い飛ばす莉音と、うなだれる豊歌。
そんな後輩二人を遠巻きに見ていたみずほは、思わず苦笑する。
たぶん、馬が合うんだと思う。……きっと。二人は違うクラスだったが、もし同じクラスになっても普段は違うグループに分かれるかもしれない。だけど、こうして二人で一緒にいると不思議なことにとても息が合うようだった。
だいいち、みずほと
……ちなみに、『ゆっちん』というのは豊歌の愛称らしい。莉音が考案したもので、初めは渋めの顔をしていた豊歌もすぐに慣れて今では普通になっている。
「莉音ちゃんは、運動神経いいもんね。みずほ先輩との試合、すごかった」
「そッスか? いやあ、ケガ明けだったから、フルパワーの六割くらいだったッスけど」
「あ、あれで六割……?」
さらりと、どこぞのラスボスのような絶望的な情報を宣告され顔が引きつる豊歌。
遠巻きにその会話を聞いていたみずほの背筋にも、ちょっとした悪寒が走る。
——さすがは県大会出場の腕前。元よりそれくらいのハンデがなければ、みずほがポイントを奪う隙など微塵もなかったのかも知れなかった。
「あ、でも——」
思い出したように莉音は付け加える。
「今まで対戦してきた中で、間違いなく一番戦いにくい相手だったッスね」
「え、みずほ先輩が!?」
豊歌が素っ頓狂な声を上げて驚く。
意識半分という形で耳を傾けていたみずほも、これには注意が引き寄せられた。
「あっ、」豊歌が気まずそうにみずほの方を見る。
「すみません、そういう意味じゃ——」
……どうやら今の驚き方が私に対して失礼に当たると感じたらしい。
「いや、謝ることはないよ。豊歌の驚きはもっともだし。……だけど気になるな。どうして私が一番やりにくかったの?」
思いつく理由としては、みずほがあまりに素人すぎて、テニスの定石が通用しなかったからとか? ……いや、県大会に出るほどの実力者であれば技術でねじ伏せられる範疇だろう。
みずほが莉音を見ると、莉音はなぜか苦々しく笑った。
「みずほ先輩が、本気だったからッス。それがすごくやりにくかった」
「私がテニス部の人たちよりテニスに本気なわけないでしょう」
「いいえ。テニス部にあの時のみずほ先輩みたいに本気でテニスをする人はいないッス」
「…………?」
本気で意味が分からなかった。テニスを頑張りたいと思ったからテニス部に入ったはずなのに、誰もテニスの試合で本気にならないってこと?
「あんなに必死に、1ポイントでもいいから取ってやるって闘志をメラメラ燃やして、届きそうにもないボールに食らいつく選手は、テニス部にはいないッスよ。いたとして、せいぜい県大会以降ッスね」
莉音の苦笑に、少しだけ嘲笑のような色合いが現れる。
「本気になるのがカッコわるいって思ってるんスよ。取れもしないボールを追いかけるのがカッコわるいって……」
豊歌が大きく首を捻る。
「……どうして? 本気の方がカッコいいのに……」
その疑問はもっともだ。みずほは心の中で首肯した。なぜって、穂波を見ていれば分かるじゃないか。——本気にならないと、運命は引き寄せられない。
『本気になる』ことは、私たちが思っているよりも難しいことなのかも知れない。もしかすると、本気にならずに一生を終えるような人だっているのかも。
それは幸せなことだろうか、それとも不幸だろうか? 今の私には結論は出せないけど、希望としては『本気』が人生にとって美徳であって欲しいと願う。
穂波を中心に創立された『チア部』の活動内容は明快だ。
『チアアイドル』として、他の運動部の試合に駆けつけてチアリーディングを披露し応援する。たったそれだけ。
こういったことはプロスポーツの世界では決して珍しくないことだ。チームは見目麗しい女性を集め、体のラインがほどよく出る衣装を着せて、応援のダンスをさせる。話題作りにもなるし、試合に華を添える。
……まあ、プロのチアは身体能力が物を言う世界だろうから、厳密に言うと『チアリーディング』と『チアアイドル』は別ジャンルではあるのだけど。
私たちが目指す『チアアイドル』はその名の通り、どちらかと言えば『チアリーダー』であることよりも『アイドル』であることを重視している、と思う。切り口としては、特別アクロバティックな応援を志向するわけでもなければ、運動神経の良い子を集めて回っているわけでもない。応援したいという気持ちさえあればいいのだ。そこが私たちの活動の新しい部分でもある。
だけど、これにも実を言えば先駆者がいる。
それが今、二人が食い入るように見ている映像——チアアイドルグループ『Waves』だった。
野球とサッカーの全国大会常連校の華やかな応援の先陣を切り、『チアアイドル』という概念を世に知らしめた、十二人のフロンティアだ。アイドルとしての人気も高く、世間の注目度はもはや野球部やサッカー部以上とまで言われる、ちょっと本末転倒な気もするがものすごいチアアイドルグループなのだ。
当然、私たちもチアアイドルを目指す以上は、その存在を無視できない。……というより、そのダンスや輝く笑顔をみて、自分に何が足りないかを学ばなければならないということで、映像を入手して、こうして部室で上映会を行っていたのだ。
キラキラと弾けるように踊る少女たちの映像を見ながら、みずほは内心「これを自分でやれと? いやあ……ちょっと……ねえ?」と苦笑いしていると、莉音はふと思い出したようにこちらを振り返った。
「そういえば、穂波先輩は?」
む。そういえば遅いわね。ちょっと用事を片付けたらすぐに部室に向かうと言っていたけど。
「そうね、ちょっと様子見に行ってくるわね」
「あ〜い」
「了解、ですっ」
莉音と豊歌の返事を背中に受けつつ、私は部室を出た。
そして、空を仰ぐ。
「……なんか、嫌な予感がする」
——さっきまで雲ひとつなかった空に、暗雲が立ち籠め始めていた。
——アニメ『女神ラブ!』 第四話より
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*
*
*
——やってはいけないこと、というのがある。
人間が社会の中で生活していくための決まりのようなもので、そのほとんどは憲法、法律、条例として明文化されているものだが、中にはされていないものもある。
いわゆる不文律というやつだ。
それらはマナーとかエチケットとか、その場その場にふさわしい呼び名で生活の中に現れる。まあ、そういう呼び名がついている内はまだマシなのだが、厄介なのはそれが『常識』とか『倫理』とか呼ばれた時だ。
人を殺せば裁かれる。それは法律の仕事だ。人殺しは許せないという人間の感情はその外側にある。シンプルに、殺せば厳しく罰するという決まりが一番初めに来る。
では、殺したいと公に発表することは? これも、場合によっては脅迫罪が成立し法律のもと裁かれるだろう。脅迫とまでは認められないケースでも、周囲の眼差しは相当に厳しいものになる。
じゃあ心の内で、殺したいと念じることは? 法律上は問題はない。しかし、やはりどこかに歪みがあるのは確かで、可能であればそういった状況は抹消しておきたいところだと考えることはさほど不自然じゃない。誰かが誰かを殺したいと願っていることは、じつに居心地が悪い。
思想の自由は保証されていることは理解していても、自分の思想と相反する思想を快く思わないのは当然だ。そういう思想に直面した時、それを「正したい」と思ったとする。
その瞬間に『常識』『倫理』が生まれる。これは非常に厄介な概念だ。
なぜならそれは、個人差が激しく、場当たり的だからだ。
将来を考えていない相手とたった一度、関係を持ってしまうことは? これは、やってはいけないこととして責められるものだろうか。
なるほど、どちらかが既婚者であったり、すでにパートナーを持っているのであれば、少なくともその相手を悲しませ、怒らせることになる。これはまずい。
浮気、不倫。
これは紛れもなく特定の相手への背信行為であり、誰かを裏切る行為は道義上は避けるべきことだ。
しかし、これはあくまで個人間の出来事であって、社会的な責任という点ではそれほど追求できないのではないだろうか、どうだろう? ……それと、男女どちらにもそういったパートナーがいなかった場合はどうだろう。
彼らは裁かれるべきなのだろうか。インスタントに胸ポケットから『常識』や『倫理』を持ち出して、「ノー」を突きつけるべきだろうか。
本来ならそれは愚行である。
——でも。
俺は、そうすべきだと思う。関係を持つということは、愛する者同士ですべきことだ。
この考えによって、俺は矛盾を抱え込むに至った。
……人間らしいと言えば人間らしい。
市川アサカに導かれるがまま、俺は夜を越えた。
いや、正確に言えば、俺たちは夜を越えた。
越えてはいけない夜を。
本来であれば、越えられない夜を。
……抗えなかった。ここで止まるための機構を、悲しいかな思春期の男子は持ち合わせてはいなかった。
「……………うぅ」
呻く。太陽の光を浴びるでもなく、自然と目が覚めた。
「起きたか」
カーテンの隙間から室内に光が入ってこない朝がある。鳥のさえずりが聞こえない朝がある。
そういった朝の存在を、俺は今まで知らなかった。なぜなら、今までこんな場所に来たことはなかったからだ。
天井は灰色だったが、それは白が薄闇に塗られているからだった。
部屋は狭くはない。いや、まあ広い。
ひどく静かだった。まるで世界から自分だけ取り残されてしまったかのような、強く強い孤独感が胸の奥で暴れている。
侘しさがキリキリと胃を締め付ける。それはきっと喪失感だった。
大事にしていたものを失う悲しみではなく。
大事じゃないとかなぐり捨てたものが実は大事なものだったことに後になって気づく滑稽な哀しみだった。
横を見る。中央がへこんだ枕と——ベッドが見えた。これがとてもふかふかしている。これがやたらと大きい。そして白い。
「……寒い」
思わずつぶやく。頭が痛む。寝不足からだろうか、鈍く深い頭痛だった。
「そのような姿であれば、寒くて当然であろう」
「え?」
その声に、俺は毛布を剥いで、自分の体を見る。
素っ裸だった。一糸まとわぬ……とはいうが、局部の体毛を視認して、いや、少しは纏っているか——などと的外れなことを思った。
「というか」
勢いよく飛び起きる。
そして、聞き覚えのある声が聞こえた方向へと、顔を向けた。
「な、なんで……お前……!」
そこにいたのは、漆黒だった。
いや、黒衣を纏った金髪縦ロールの少女。
……ブランノワールだった。
「ど、どういうことだ……?」
痛む頭で記憶を辿る。市川アサカの誘いに負けてホテルにやってきたところまでは覚えている。それから部屋の中で何かを飲んで、……その先を思い出そうとすると、刺すような痛みが頭に走った。
ただ断片的に、市川アサカの紅潮した顔や、白い陶器のような肌とその熱すぎるほどの温もりや、荒い息遣いといった淫らな記憶が思い出された。
ブラン・ノワールは淡々と、それでいて言い聞かせるような口調で言う。
「なかなかに刺激的な夜だったな。そなたの滾る
ゴスロリは下ネタも意味深で魔術的な表現なのか、などと茶化す余裕もなかった。
「な、なぜ……?」
愕然とする俺に、彼女は含み笑いを差し向けた。
「ここまで来て隠し立てすることもなかろう……我が市川アサカだ」
——時が、止まった。
「なッ……!?」と、声を漏らすのが精一杯の俺に、不思議なポーズを取ったゴスロリ女が畳み掛ける。
「我が身をもって創り上げた事実は、そなたの
そして俺を指差し、決めポーズ。
「——そなたの
同人以上、恋人未満。 吉永動機 @447ga
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