偽物の夏休み

水谷 文史

偽物の夏休み

 偽物の夏休み

                     

電車の窓から見える風景に田んぼが増えてきた。

 抜けるような青空の下に広がる水田が、降り注ぐ陽光を反射させていた。遠くに点在している民家はどれも木造で、その日焼けした赤い屋根を見ていると、この土地で育ったわけでもないのにひどく懐かしい気分になった。

「なーにボサッとしてんだよ」

頭上から声がして、わたしは頭を掴まれた。後ろの席から瞬也が手を伸ばしてきたのだ。

「うっさいな、ぼーっとしてるわけじゃないよ。これから調査に行く土地の雰囲気を掴もうとしてるの」

「へぇ。そりゃ偉い。……なあ、今日の予定って、旅館に行って荷物を置いて、その後、どこ行くんだっけ?」

「西木村でフィールドワークだよ。一里塚と祠をたどってね」

わたしの向かいに座る佐紀子が、ぱたんとメモ帳を閉じながら言った。眼鏡の位置を直しながら顔を上げる。

「大田市の駅に着くのが一時だから、旅館に挨拶した後はあまり遠くには行けないね。今日は土地の雰囲気を知るためにウォーキングをして、本命の城跡の見学は明日から……って、この日程を説明するの、これで三回目なんだけど?」

「そうだっけ?」

佐紀子にじろりと睨まれ、瞬也が誤魔化すように笑う。佐紀子はわざとらしく、深いため息をついた。

「みんな、もう少し部活に集中してよね。みんなで一緒に活動できるのは、これが最後なんだから」

彼女がわたしの隣の席を一瞥し、わたしもそれにつられた。半袖の開襟シャツに夏用のスカートをはいた制服姿の留美が、無防備に口を開けて眠りこけている。窓にあてた頭が電車の揺れに合わせてゴトゴトとガラスに打ちつけられているが、起きる気配はない。

 わたしは腰を上げて振り返り、座席の上から後ろを見やった。ボックス席の瞬也の向かいに座る恵介もまた、スポーツ刈りの頭を日光にじりじりと照らされながら、ぐっすり眠っていた。

 とすん、と座席に腰を落とす。窓の外に目をやると、夏の陽射しのなかに、細く長い一本の線が見えた。真っ白で涼しげな飛行機雲。その先端には、なぜか飛行機が見えなかった。


  001


 本物の夏休みじゃない、という気がしていた。

 今日は八月十八日。わたしは今間違いなく、学校が定めた夏季休業の期間にいる。それでもどこか納得がいかないのは、やはり今年のわたしが受験生だからなのだろう。

 わたしが通っている高校は県内でも有数の進学校で、三年生は九分九厘が大学への進学を希望していた。当然のように夏休みは補講のスケジュールでいっぱいで、『遊び』なんて、その単語を思い出すことも出来ないような現状だ。

 絶望的な状況の下、しかしわたしには抜け道があった。わたしが所属する『考古学研究部』の恒例行事、『夏季調査合宿』だ。

 考古学研究部――通称『考古研』には、顧問の教師がいない。生徒は学年ごとに自由に研究テーマを決め、長期休業中に泊りがけでその調査に行くのだ。費用は各自の負担だし、目的はあくまで『調査』なのだが、それでも退屈な日々を抜け出してひと夏の思い出を作れる貴重な機会だ。もともとお泊りがしたくて考古研に入ったわたしは、この上もなく前向きな気持ちで、出発当日を待っていた。

 勉強が嫌で、合宿が楽しみで、待ち遠しくて仕方がなかった。やっとその日が来て、わたしは補講を抜け出し、気の知れた友人たちと電車に揺られ、田舎の温泉郷に向かっている。

 ――なのに、しっくりこなかった。

 心のどこかに、限りなく薄められた、輪郭のぼやけた罪悪感のようなものがあった。補講を休んだことに対するものではなく、もっと大きくて漠然としたざわめきだ。

義務を放棄しているような。

重大な責任に背いているような。

「ユコ、着いたよ」

佐紀子に声をかけられ、わたしは、はっとして顔を上げた。

電車はいつの間にか、小さな駅のホームに停まっていた。


010


パンッ! と勢いよく、トランプが畳に叩きつけられる。

「よっしゃあ、あがりぃっ!」と瞬也が天井に腕を突き出し、

「マジかよぉおおおおおッ!」と絶叫した恵介が畳に崩れた。

「はっ。惜しかったな」額に汗を滲ませた瞬也が、息を整えながら口角を上げた。「まさかお前がここまで粘るとは思わなかったぜ。いつの間にか腕、上げてたんだな」

「あたりめぇだ! 俺がこの日のために、一体どれだけの努力をしてきたと思ってんだ!」恵介が心底悔しそうに頭を倒す。

「あ、やっと終わったの?」スプーンでアイスを掬いながら、浴衣姿の留美が訊ねた。「結局、順位はどうなったわけ?」

「大貧民」と恵介が手を上げ。

「貧民だ」と瞬也が胸を張る。

「なんだ、いつも通りか」わたしはばっさり切り捨てる。

 調査合宿一日目。西木村の一里塚巡りを無事に終え、わたし達は旅館に戻ってきた。

食堂で早めの晩御飯にスッポン鍋を頂き、夕日に照らされた温泉への参道を歩き、女子三人で露天風呂に飛び込み、ほかほかと火照った体のまま瞬也達の部屋に押しかけ、五人で夜のひと時を楽しんでいる。

恒例のトランプ大会の真っ最中。負けた恵介が悔しそうにカードをシャッフルし始めるのを見て、机に向かってノートを広げていたわたしは、アイスのカップを持った留美と共に、積み重なったトランプの傍にそそくさと移動しだした。

「ちょっとユコ。今日の調査のまとめ、まだ途中じゃないの?」

同じく机に向かっていた佐紀子に、ぴしりと声を飛ばされる。

「あ、ごめん。また後でやるから」

「いーじゃん佐紀子。今日くらいはのんびりさぁ」留美がにこにこしながら、佐紀子に手を振る。「こうして考古研メンバーではしゃげるのもあとちょっとなんだから。楽しくいこうって!」

「そういう留美は一ページもまとめてないじゃない。二人とも、帰ってから苦労するよー?」佐紀子は眉を下げつつもノートを閉じ、わたし達の輪に加わる。

「まあ、あたしはまずいとしてもさ」留美が、恵介の配るトランプを手にとりながら、隣に座るわたしを指差す。「部長様、どうかこの子だけは大目に見てあげてくださいな。ユコは日中、ずいぶん頑張ってたんだから」

「そうだっけ?」わたしは首をかしげる。

「考古新聞の見出し、ずっと考えてたじゃん。集中した時のユコは完全に記者の目してるもん、すぐ分かるよ」

「たしかに」佐紀子が頷く。「あれは間違いなく、面白い見出しを考えなきゃ、って張り切っている目だったね」

「ああ、そのこと」わたしは照れくさくて苦笑いした。「ただの癖だよ。三年間で染みついちゃったんだ」

 年に四回発行される『考古新聞』。その記事ごとの見出しを考えるのが、わたしの役目だった。

「新聞記者になればいいのになぁ」カードを配り終え、手札を確認しながら恵介が真剣そうな口調で言った。「でもユコ、理系だもんなぁ。大学もそっち方面に行っちゃうのか?」

 大貧民の恵介からゲームが始まる。スペードの四が畳に置かれた。

「うん。まあ理系の大学だからって、新聞記者になれないわけじゃないと思うけど」恵介の左隣に正座するわたしは、クラブの七を出す。「わたしは、東京の理大に進むつもり」

東京の理大。自分で言ったその言葉が胸に小さくのしかかる。

大学の話。それはつまり、この時間が過去になった後の、未来の話なのだ。

「大学かぁ」同じことを思ったのか、留美がどこか感傷的な声で呟いた。「華の女子高生でいられるのも、今年で最後なんだよねぇ。あたしは地元、ユコは東京、佐紀子は筑波、恵介は、群馬だっけ? みんなバラバラになっちゃうなぁ」

佐紀子が無言でハートのクイーンを置く。留美は顔をしかめ、パスと言う。

「瞬也はどこに行くんだっけ?」恵介が訊ねた。

 わたしは瞬也に目をやる。柔らかそうな癖毛の黒髪。黒いTシャツから伸びる彼の腕は細いが筋肉質で、中学でやっていたという陸上競技の名残が見えた。

「あー、俺ー?」瞬也は手札を眺めながら間延びした声を出す。やがてカードを摘み、ぱしん、と畳に落とす。ハートのエース。次に彼の口から出た言葉に、わたしは耳を疑った。「俺、留学するんだ」

 時間が止まった気がした。

「――ええっ!」

沈黙の後、三人の悲鳴が重なる。

 唯一悲鳴をあげなかったのは、わたしだった。わたしは瞬也の顔を凝視して、口を開けて固まっていた。

「ど、どういうことよ、それ!」留美が慌てて追求する。

「アメリカに行く。そんで、しばらく英語の勉強をしてくる」瞬也はカードの山を見つめながら、すらすらと言う。

 いつも冷静な佐紀子もさすがに動揺したようで、目をぱちぱちさせていた。恵介も顎を落とし、唇をわなわな震わせている。

「真面目に言ってる?」

「もちろん、大真面目」

「聞いてねぇぞ!」

「言ってねぇもん」

「なんで」

わたしの呟きに、瞬也が視線を上げた。

「親父がさ」と、彼は静かに語り出す。「東京で、輸入した海外の資源を売る会社をやってるんだ。俺、そこで働けって言われた。将来は安泰だし、就職活動も省略できるから、ってな。そのかわり大学は海外に行って、しっかり英語、喋れるようになってこいってよ」

 ほれ、ハートで縛ってるぞ、と瞬也は恵介に声をかける。

 留学。アメリカ。それらの単語が、わたしの頭の中で現実味のない音を響かせる。

――なんだよ、それ。

「そ、そうかぁ」恵介が長い息を吐き、ゲームを再開した。「そういえばお前、英語得意だもんなぁ。いや、びっくりしたぜ」

「ほんとだよ。どうして今まで何も言ってくれなかったのよー」

留美も呆れたように嘆息する。

「俺のなかでも決心がつかなかったんだよ」瞬也がへらへら笑った。「まあ、留学っつっても、別に凄い大学に行くわけじゃないんだ。面接だけで入れる、田舎の学校。勉強じゃなくて、現地の人達と話せるようになることが目的なわけだからさ。それに、どうせみんなばらばらになるんだ。筑波と群馬に離れるも、東京とアメリカに離れるも、大差ねぇって」

 大差あるよ。わたしは胸の奥で呟く。全然、違うよ。

「面接はいつなの?」佐紀子が訊ねた。

「十一月の二十六日」瞬也が答える。「その二日前、つまり二十四日に、成田空港から出発だ」

 ――十一月、二十四日。

「そっか。じゃあその日は、みんなで瞬也のお見送りだね」留美が張り切った風に言ってトランプを出す。

「ごめん。無理だ」

 わたしの言葉に、皆がこちらを向いた。瞬也も視線を上げる。一番驚いたのは、わたしだった。

 その言葉は、完全に無意識に発されたものだった。でも、わたしは見送りに行けない。それは分かった。

「無理って、どうして?」佐紀子が訊いてくる。

「用事がある」――なぜだろう。内容が思い出せない。でも。「すごく大事な用事でさ。外せないんだ」

「そうなのか」クローバーの五を出しながら、恵介が残念そうに舌打ちをした。「みんなで瞬也の見送りしてやろうと思ったのによぉ。タイミング会わねぇな」

 わたしは積み重なっていくトランプに視線を落とす。

「いいよ、別に」ダイヤの八を叩きつけ、カードの山を雑に流した。「見送りは、わたし以外で行って」

 乱暴な口調で言ってから、それが乱暴な口調だったことに気が付いて、わたしは、ぎょっとした。顔を上げて、慌てて笑みを作る。「いや、用事と被っちゃったのは、ほんとに仕方がないからさ。みんなでわたしの分も、瞬也を送り出してあげてよ」

わたしは、苛立っていた。どうしてだろう? 瞬也がアメリカに行くのは悪いことではないのに。距離の問題だって、冷静に考えれば彼の言う通りなのだ。簡単に会えなくなるのは、瞬也以外のメンバーも同じなのだから。

 なのに、一体何がこんなにショックなのだろう?

 ――いや。

と、心の中で首を横に振る。

わたしは既に、その理由に気が付いている――。

「また佐紀子が大富豪ー? 強すぎるって!」留美が裏返った声を出し、皆が笑う。佐紀子は上品に微笑んで、また机に戻る。

 ――わたしは置いて行かれた気がしたのだ。

 自分と同じ子供でしかなかった瞬也が、いつの間にか真剣に将来を考えていたことに、底知れない恐怖を覚えた。わたしだけがいつまでも子供で、先に進めないでいるような気がして、耐えがたいほどに心細くなった。それが悔しくて、だから、むきになった。

 ――わたしは幼稚だ。どうしようもないほどに。

「ユコ」

我に返る。留美が隣からわたしの顔を覗きこんでいた。色素の薄い彼女の瞳に心配の色が滲んでいるのを見て、わたしは急激に慌てだす。

「い、いや、それにしても、瞬也の見送りにいけなくて残念だなぁ」慌てた拍子に言ってから、凍りついた。

咄嗟に引き出した話題は、あろうことか、先程自分が失態を晒したものだった。わたしの馬鹿! と脳内で自責する。

 案の定、留美の顔が泣きそうに歪む。わたしは絶叫を堪えつつ、なんとか突破口を見つけるべく、夢中で捲(まく)し立てた。

「い、いや、ほら。懐かしいなーと思ってさ。わたし、二年の修学旅行の時も、一人だけ空港に行けなかったじゃん? もったいないよね、一人だけ修学旅行の思い出が無いなんて。なんで行けなかったんだっけな……ああ、そうだ。丁度、じーちゃんが死んじゃって……、お葬式が……重なって…………」

 これも暗い話だった!

 わたしは眩暈を覚えた。どういうことだ。わたしは暗い話しか出来ないのか。

 恐る恐る顔を上げると、そこには果たして、じっとわたしを見つめる留美の、恵介の、瞬也の顔があった。視線をずらせば佐紀子も見えるだろうが、見たくない。わたしは絶望的な心持ちで、場の雰囲気を壊してしまった罪を背負う覚悟を決めた。

「……お前、なに言ってんだよ」瞬也がゆっくりと言った。「一人だけ空港に行けなかった……? なんだよそれ」

 ……え。

「お前、修学旅行、来てたじゃねえか。それに、お前のじーちゃん、元気に生きてるだろ」

 わたしは、ぽかんとして記憶を探った。

 ――その通りだった。

 わたしの祖父は、まだ生きている。修学旅行は――。

「ホレ。修学旅行で沖縄に行った時、考古メンみんなでお揃いのストラップ買ったろ?」瞬也がそう言って、自分のセカンドバッグを指差した。幅が一センチ、長さが十センチ弱の厚手の織物のストラップが、ジッパー部分に繋がれている。

 視線をずらすと、机の上のわたしのペンケースにも同じストラップがついていた。わたしが修学旅行に行った動かぬ証拠だ。

「そ、そっか。あれ? なにと勘違いしたかな」わたしは癪然としない気持ちで呟いた。

「ぼけーっとしてんなぁ」常時ボケっとしている恵介にすら、そう笑われる。「その隙をついてー、はいっ、あがりぃっ!」

パシン、とカードが畳を叩いた。留美が笑う。

「ユコ、あんた、大貧民だよ」


  011


 夜の十一時になり、「夜更かしは駄目だよ」と佐紀子に引きずられて、わたしと留美は自分達の部屋に戻ってきた。

 電気をつけると既に蒲団が敷かれており、わたし達は各々、自分の場所を決めてもぐりこんだ。わたしは入り口の襖側、留美が真ん中で、佐紀子が窓側だ。枕に頭をつけると、気持ちが落ち着く畳の匂いがした。

ぽうっと見つめる天井が、透明に近い青に見えた。毛布の上に放った腕に触れる空気は澄んでいたし、浴衣越しにひんやりと伝わる毛布の涼感も、心地よかった。

二十分ほど経った頃だった。

「佐紀子、寝ちゃった」隣で留美が呟いた。

 わたしは返事をせずに黙っていた。留美はわたしが起きていることに気付いているらしく、そのまま囁き続ける。

「佐紀子ってさ、こうして素顔で見ると、かなり可愛いんだよね。髪型とかこだわらないし、眼鏡も無愛想な形だから、普段は目立たないけど。実はさ」

 なにを言い出すかと思えば。と、わたしは内心で微笑む。それに、『実は』なんて失礼じゃないのか。

「好きな人とか、いなかったのかな」留美が、ぽそりと言った。背伸びをするように溜め息をつき、彼女は続ける。「なんかさぁ、高校生活が終わりに近づいてみると、いろいろ考えちゃうんだよねえ。あれもやればよかった、これもやればよかった、ってさ。もっとみんなの恋愛事情に首を突っ込んでおけば、あたしの高校時代は、もっとドラマチックになったのかなー、とか」

 留美は相当首を突っ込んでいた方だと思うよ。という指摘が喉までこみ上げたが、留めた。何故だか、声を発してはいけないような、そういう決まりがあるような気がした。

「なんやかんやであたし、三年のみんなのこと何も知らないかもなぁ。誰が誰を好きで、誰の告白がどうなった、とか」

 恋愛相関図を知ることを、まるで世界情勢を把握することのように留美は重視しているらしい。それは滑稽だったが、不思議と共感もできた。

 留美はぼそぼそと、誰は誰に片思いをしていた、とか、あいつはたしかフラれたんだ、とか、何も知らないと嘆いていたわりにはやたらと詳しく、一人で相関図を確認しだした。

 わたしは聞くともなくそれを聞きながら天井を見つめる。

 ――わたしこそ。

 わたしこそ、高校生らしいことは何一つしてこなかった。

 誰かを好きになって夢中に追いかけることをしなかった。生徒会に入ることもしなかったし、体育祭や音楽祭で目立つ舞台に立つこともなかった。勉強にも最低限の時間と労力しか費やさなかったし、部活の研究にも、佐紀子と比べられると恥ずかしいくらいに、身を入れて取り組んだことが無い。

高校三年間、わたしは一体、何をしてきたのだろう。

春に卒業をして、高校生を名乗れなくなって、制服を着なくなって。

その時、わたしの手には一体何が残るのだろう。

「……うーん。やっぱり、正確に分かってることって、全然ないやぁ」留美が、ふぅ、と息を吐いた。「今のところハッキリしてるのは、ユコが瞬也のことを好き、ってことだけでさぁー」

「ちょっと待った」

「あ、やっと喋った」

「わたしは瞬也のことが好きなの?」

 思わず訊ねた。意表を突かれたせいで、心臓が、とくとくと強めに波打っている。枕の上から見据えるなかで、こちらに頭を倒した留美が吹き出した。

「それ、こっちに訊くことー?」あはは、と留美が笑う。「どっからどう見てもメロメロに見えるよー。え、まさか、好きじゃない、なんて言いますか」

「考えたこともないよ。そりゃ、いいヤツだけどさ。メロメロになった覚えもないし、好きってことは」

「あるんでしょー?」

「……ないってば」

「ぐひゃぉっ!」

 毛布の下で、留美の脇腹に拳を入れた。

しばらくそのまま、二人でもそもそと格闘する。


「佐紀子、寝るの早いね」

 いつの間にか二人で蒲団のあいだに落ちていた。

 こちらに後頭部を向けた留美が呟いたのを聞いて、わたしは上体を起こす。佐紀子は、感心するほどにきちんとした姿勢で静かに寝息を立てていた。なるほど確かに眼鏡がないと、すっと通った鼻梁や長い睫毛がはっきり見えて、元の顔立ちが綺麗なのが分かった。

「真面目だからね」わたしは答えた。「明日の本格的な調査に、備えてるんだよ」

「もったいなくないのかな」

 もったいない?

 わたしは、留美の顔を見下ろし、そして、はっとした。

 月明かりが染み込む仄闇のなかで、きめ細かく浮かび上がった留美の小ぶりな丸顔。その表情が悲しいほどに不安げで、さらに、いつも眩しく輝いている茶色の瞳に、助けを求めるような光が揺れているのを見て――。

 わたしは悟った。

 ――同じなのだ。留美も、わたしと。

 わたしと同じで、この二度と来ない夏休みに、どうしても、しがみついていたいのだ。未来になんて進みたくないし、みんなと離れ離れにもなりたくない。だから、明日のためにさっさと寝てしまった佐紀子のことを悲しんでいるのだ。

 わたしは留美から目を離した。

 どこか遠くを見たくて、カーテンの隙間に目を凝らす。青白い明りの線があるだけで、どんな景色も動きも、そこには見つからなかった。

 実のところどうなの? と、わたしは静かに自問した。

 わたしは瞬也のことを、どう思っているの?

 ちょっと意識してみると、思っていたよりも明確にその答えらしき想いが胸中に見つかりかけて驚いた。わたしは咄嗟に首を振り、形になりかけた思考をなんとか散らす。

 見つけかけたその想い。

 それを言葉にしてしまうのは怖かったし、なんだか、してはいけないことのような、気もした。


 100


 長野県の南東、飛騨山脈と赤石山脈に囲まれた多くの盆地の一か所に、大田市西木村は位置していた。

 合宿二日目。わたし達は本命の目的地――かつてこの一帯を治めていた武将、据倉(すえくら)氏(し)の居城跡を目指した。

杉黒山という山の頂上にそれはあるらしい。


息を切らして登頂すると、見晴らしがよかった。

染めたように濃い青空の下に、浅緑の稲が敷かれていた。遥かに連なる山並みが、空色の大気に霞んでいた。

山頂に広がっていたのは、殺風景な、ただの空き地だった。

そのあまりの何も無さに、わたし達はあっけなさを感じた。城跡だというから、真っ白い砂壁や、せめて石台とかを期待していたのに、あるのが空き地だけとは。

据倉氏がここにいた痕跡は、もう何も無くなっていた。

――終わってしまう。

ふと、わたしはまた、それが怖くなった。

瞬也と考古研の仲間でいられるのは、今日と明日だけなのだ。

この旅が終わったら、わたしと瞬也の関係はどうなるのだろう? クラスも専攻も違う、ただの同級生。他の生徒たちよりも少しだけ仲のいい友達。わたしは、その中の一人。

 ――いやだな。

 はっきりと、そう思った。思った瞬間に口が動いていた。

「瞬也」

 わたしが呟くと、隣で瞬也が振り向いた。二重の目蓋に先の巻いた短髪。わずかに傾げた彼の首と瞳が、先を促した。

「あのさ」

 ――こうして見ると、結構、整った顔してんだよな。

「わたしさ」

 そして、

 わたしはそこで、言葉に詰まってしまった。開いた唇が、ゆっくりと降りてくる。

言ってしまいたいのに。

どうしてこんなに、言葉にするのが躊躇われるのだろう。

「……ううん」わたしは首を振る。「やっぱ、なんでもないや」

 わたしは視線を彼から逸らし、青い空を仰ぎ見た。

 青い空の一部に、幻想的な虹色の光がかかっていた。まるでカメラのレンズ越しに見た日光のような、しゃぼん液に射し込む光のような。そして。

ほんの一瞬だけ、空がぶれた。

 虹色に輝く光が瞬くように薄れて、その中に『夕焼け』が見えた。胸を鷲掴みにするような濃いオレンジ色。幻や気のせいではない、存在感のある確かな光を、わたしは間違いなく見た。

「なんでもないってなんだよ、ユコ」

「今の見た?」

「……あ?」

「今、空が」わたしは晴れ空を指差した。そこにはただ、抜けるような青と入道雲があるだけだ。「あれ?」

 油蝉の鳴き声がした。

まるで何かを誤魔化すような。何かを、覆い隠すような。


   101


 宿に帰って、留美に謀られた。

 晩御飯を食べて、温泉に行くための道具を取りに和室に戻ると、机の上にメモ帳が広げてあった。『あたしと佐紀子は道具を持っていってました。先に行ってるネ。ファイト!』。

一読して首を傾げたが、二読して意味を悟った。つまり、留美と佐紀子は入浴のための道具類を、既に持って食堂に行っていたのだ。そのまま真っ直ぐ、わたしを置いて旅館の外にある温泉に向かった。理由は文末の『ファイト!』から推測できた。

 エレベーターでロビーに降りる。

案の定、ちょうど玄関を出て行く瞬也の背中が見えた。

余計な世話をやきおって。わたしは内心で、留美に毒づく。

 しかし、こうなってしまった以上は仕方がない。瞬也に気付かれないように温泉まで尾行の体をとるのも、不自然だ。

 わたしは、後ろから瞬也に声をかけた。


 黄昏時とは、まさにこの時間のことを言うのだろう。

 そう思わせるような夕焼けが、わたし達の上に広がっていた。黄色から橙(だいだい)、煉瓦色から夜色へと移る、郷愁を誘う綺麗な色彩。灯をふくんだように光る雲がまた、どうしようもなく美しかった。

 わたしと瞬也は並んで橋の上を歩いた。下方を流れる川の音がごうごうと聴こえる。視線を遠くにやると、金緑色に輝く稲穂の海がどこまでも見えた。

 話によると、どうやら瞬也も留美達と同じ手口で恵介に置いて行かれたらしい。わたしと瞬也が二人きりにされた意図を論じる流れにだけは会話を持っていきたくなかったので、わたしは自分も留美達にしてやられたのだ、とは言わなかった。

 前方にベンチが見えた。木で出来た温かみのある形で、それが地面に落とす影すらも柔らかく見えた。

「なぁ、ユコ」瞬也がベンチを指差す。「ちょっと、話していかねぇ?」

 動揺を押し隠し、わたしは頷いた。


「佐紀子は筑波で量子力学。留美は美大で絵画の勉強。恵介は群馬で……何すんだっけ?」

「忘れた」

「そうか」瞬也が微笑する。「じゃあさ、お前が進む学部って、具体的に何を勉強する所なの」

 また将来の話だ。

「情報科学、とか」

「とかって、お前。自分の進む学部のことぐらい知っとけよ」

「うっさいな。わたしが進む学部は、勉強できることの幅が広いんだよ。コンピューターのプログラミングだとか、ウェブ上の情報大系だとか、新聞とかテレビの活用とか。いろいろやってるとこなの」

 必死に付け焼刃の知識を振るう。夕日を見つめる瞬也の横顔が、ふっと緩んだ。

「ふーん。じゃあ、昨日の晩に言ってた通り、新聞記者になれないってことはないんだな」瞬也はちらりとわたしを見る。視線を前に戻し、呟く。「頑張れよ、ユコ」

 その響きがなんだか年寄り臭くて、わたしは苦笑する。

「頑張れってなによ。受験も就職もまだまだ先でしょ。瞬也は焦り過ぎなんだよ。学校生活はまだ、五か月もあるんだからさ」

 五か月。

限られた時間。長いとか短いじゃない。終わりがある。

 わたしは瞬也の横顔を見つめたまま、口を閉ざす。

 夏のそよ風に髪が揺れ、背後の木々から葉擦れの音がした。

「瞬也さ」わたしは言う。「わたしのこと、どう思う?」

 蜩(ひぐらし)の鳴き声が聴こえた。蒸された夏の大気を宥(なだ)めるような、しっとりとした音だった。

 空を仰ぐと一面の夕日色が見えた。夕焼けはどうして、人をこんなにも懐かしい気持ちにさせるのだろう。

 ――ひどく胸騒ぎがした。

 夕焼けが染める空を、飛行機が横切って行くのが見えた。数か月後に瞬也を運ぶ乗り物だ。

 ――瞬也の旅立ちを、わたしは見送れない。用事があるからだ。内容の思い出せない、大切な用事が。

「どう思う、かあ」瞬也が、くつろいだ声で言った。「答えてもいいけどさ。でもその前に、今日、お前が山の上で言いかけたこと、教えろよ」

「それ、また掘り返すの?」わたしは苦笑した。

 ――山頂で見た光景を思い出した。青空の中の虹色と、その陰に見えた夕焼け。あれは一体、なんだったのだ。

「何回訊いても答えねぇお前が悪りぃんだろ。ほら、言えよ。そろそろさ」瞬也がつつくような声で言った。

 わたしは空を見上げたまま逡巡した。言ってしまおうか。言ってもいいかもしれないな。

 ――息苦しかった。

飛行機雲が、空にゆっくりと伸びていった。わたしの心音が、とくとくと高まる。

――胸騒ぎが。

「ユコ……?」

胸元をぎゅっと掴んだわたしに、瞬也が心配そうに声をかけた。

飛行機が夕焼けに向かって進む。真っ直ぐに飛び、燃える夕日に突っ込む。そして光と重なって――。


小さな機体が、木端微塵に爆散した。


わたしは静かに、それを眺めた。

 爆発炎上する飛行機。炎に包まれながら、ぱらぱらと落下してくる鉄の滴。

 ――ああ――。

 私の喉から、涌き出るように声が漏れた。

 ――そうだ。そうだった。これこそが。

 

 これこそが、瞬也を焼き殺した炎だ。


 わたしの脳に、様々な映像が、音声が、記憶が流れ込んできた。わたしが自分で押さえつけた、過去の、そしてある意味では未来の記憶だ。

 『離陸した飛行機 突然の爆発』

新聞の見出し。続くアナウンサーの声。

「本日午前八時ごろ、成田空港を飛び立った東京発ロサンゼルス行きの旅客機○○便が、離陸直後に謎の炎上をしました。搭乗していた方は以下の通り――」

 視界が暗転する。声が聞こえる。

「どうして……! どうしてあいつが、死なないといけなかったのよ!」少女の声。続く少年の声。「誰のせいでもない……。理由なんて、なかったんだ」

桜が咲く。時が過ぎる。

「就職おめでとう。まさかあんたが科学者さんになるなんてねぇ。母さん、嬉しいわ」「……なんで、あたしだけが大人に」

試験管が割れる音。怒号。

「馬鹿野郎! お前、自分が何をしてんのか、分かってるのかよ!」「離して! もう少し……、もう少しなんだよ!」「駄目だ! 今すぐに……」「どうしても、やり直さないといけないことなの!」「これはやりすぎだ! いくらなんでも……」「あいつに、言えなかったことがあって」「……んだね? 分かってるなら、止めはしないわ」「死んだ人間は戻ってこねえんだ! あいつは、もう」「会えるよ……、会ってみせる。絶対に会って、今度こそ」ゴウン……。「いい? ダイブできるのは一度だけよ」ゴウン……。「あんたが目的を達成したら、この空間データは自動的に消去される」「ありがとう」ゴウン……。「準備はいいね? ……よし」ゴウン……。

「行ってきな。ユコ」


そうだ、忘れていた。


この世界は、仮想の世界。

現実世界のわたしが作り出した、偽物の夏。

「……そっか」

ベンチに座ったまま、茜色に染まる空を眺めた。

遠く、山の端を霞ませるような空の一か所で、ふわりと光が揺れた。虹色の光。その後ろに見える、濃いオレンジ色。

今なら分かる。あれは、サーバーの描写処理が追いつかずにむき出しになった、画素イメージ用の背景台紙(バック・グラウンド)。

「そっか、わたし……」

全部、思い出した。

「……どうしても、瞬也に言いたいことがあったんだ」

 あの日は、じいちゃんの葬式で空港に行けなくて。最後だったのに言えなかった。だから、わたしはここに来た。

「でも、みんなと一緒の夏休みが、ほんとうに楽しすぎたんだ。留美の言うことはいつも面白いし。恵介はむちゃくちゃやるし。佐紀子は優しいし。あんただって、隣にいるし」

 頬を涙が伝った。

 瞬也が、わたしの手を握る。わたしもそれを握り返す。

「言えるわけないよ。こんなこと」

 ――目的を達成したら、この世界は消えてしまうから。

「あんたに会えなくなるのは、もう嫌だよ」

 私はしばらく、そのまま泣いていた。


 二人でベンチから立ち上がり、涙をぬぐって歩き出した。

――ごめんね、みんな。せっかく手伝ってくれたのに。

胸の奥で、わたしは仲間に謝った。

――わたし、やっぱり、このままでいたい。瞬也に告白するためにダイブしたけど、やっぱ無理みたいでさ。わたしはこのまま死ぬまで、この世界で過ごすよ。

夕焼けが道を照らした。街路樹も、ガードレールも、同じ色に染まっていた。

 永遠に続く合宿。もう、胸騒ぎもなかった。

「なあ。結局さ」瞬也が口を開いた。「お前が山の上で言いかけたことって、なんだったんだ?」

 あいかわらずの質問に、わたしは思わず微笑する。

「別に? ただ、これからもよろしく、ってね」

「はぁ? なんだよ、それ」

「いいじゃん。大切なことでしょ。受験生のわたし達にとってはさ」わたしはとぼけて、そのまま歩く。

「なんか拍子抜けしちまったよ」瞬也が頭を掻きながら、呆れた声を出した。「まあ、いいや。んじゃ、俺も質問に答えるぞ」

 答える? 答えるって、何に――……。

はっ、とわたしの中で何かが凍った。その場に立ち止まり、瞬也の後頭部を凝視する。自分の言葉が、脳内に反響する。

――瞬也さ、わたしのこと、どう思う?

「……あ……」

――どう思う、かあ。答えてもいいけどさ。でもその前に、今日、お前が山の上で言いかけたこと、教えろよ。

 駄目だ。

――別に? ただ、これからもよろしく、ってね。

答えたら駄目だ。瞬也。

 目の前で瞬也が立ち止まる。ゆっくりと振り向いて、わたしの目を真っ直ぐに見つめた。二重の目蓋。先の巻いた短髪。わたしは、何も言えなくなる。

「ユコ」

 静寂の後、彼は静かに言う。

「ずっと前から、好きだった」

 時間が止まってしまったかのようだった。

風がやみ、音が遠ざかった。夏の夕刻の涼しさを、肌に感じた。

「……なんで」

 視界が霞んだ。

 そんな設定、していないのに――。

「なんで瞬也が、そんなこと、言っちゃうんだよ」

声が掠れ、力が抜けた。その場に崩れ落ちそうになって瞬也に抱き留められる。せっかく止めた涙が溢れ、瞬也のジャージを濡らした。

「あんたがなんで、あたしよりも先に言うんだよ。どうしてあんたは、いつもいつも、あたしより先に……」

 瞬也の胸に顔を埋めた。涙が染み込む布から、彼のにおいがした。涙が止まらない。嗚咽が。感情が。

「うあぁぁああああああああぁ……っ」

 泣き叫ぶと同時に、ガラスが割れるような音がした。

仮想世界の消去が始まったのだ。

 静かに腕を離された。目を開けたわたしの背中を、彼の手が、とん、と押した。

「悪りぃ、旅館に忘れ物した」

振り向いた先で、瞬也が照れくさそうに、にっと歯を見せて笑っていた。

「先に行ってろ。走って、すぐに追いつくからよ」

 瞬也の背後には、もう何も無かった。温泉郷の景色が遠くから順に、ぱらぱらとパズルが剥がれていくように分解されていく。彼が立つすぐ向こうの道路まで、崩壊が追いついていた。

「すぐって、いつなんだよ」

 瞬也の身体を、その笑顔を残して、世界の全てが夕焼け色に呑まれていった。眩しく、切なく、懐かしい夕日の色に。

――ずっと前から、好きだった。

 すぐ後ろで、世界が砕ける澄んだ音がした。わたしの周りを光が覆い、瞬也の姿も消えていく。

――瞬也――。


 わたしは光に消える世界に手を伸ばす。夕日色の中、彼に向かって。最後の想いを、思い切り叫んだ。


 ――わたしもずっと、瞬也のことが――。



  110


目が覚めた。

頭に装着されていたヘルメットが、静かな駆動音と共に自動で外れる。

わたしはベッドに横たわっている。

うす暗い実験室には、空調機がたてる音が満ちている。覗き込むように配置されたディスプレイに、電子の文字が点滅した。


『――All data is deleted.――』


わたしはそれを、いつまでも無感動に見つめる。

 流れる涙の感触の、真偽が分からない。



                          〈了〉

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偽物の夏休み 水谷 文史 @mizutaniyasan

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