駅での不思議

𠮷田 樹

駅での不思議

 いつだったか、サウジアラビアが最も暑いと聞いたことがある。きっと、今は日本のほうが暑いに違いない。もしくは意識だけが東南アジアにでも旅行に出たのか。そんな夏休み初日。


 昼前だというのに俺以外の人間が存在しない、この古ぼけた駅では現在、大蛤の気が出血大サービス中である。


「あづい」


 つい漏れてしまう独り言。容赦なく降り注ぐ直射日光は、肌で感じる鬱陶しさとあいまって、俺の精神状態をよりどん底へと叩きのめしていた。


「あづい」


 いくら言葉にしたところで、熱気が俺を避けてくれることは残念ながらなさそうだ。


 さて、そろそろ事の発端を話すとしよう。生憎あと一時間は電車が来ないんだ。少しくらい俺の話に付き合っても罰は当たらないさ。


 そう、あれは今からほんの少し前におきた、俺の悲劇のそれも序章の出来事だ。


 夏休み初日といえば、人工的に冷やした快適空間で、平日では考えられないような至福の睡眠を昼まで取るのが習わしであろうし、常識でもあるはずだ。


 そんなわけで、ひきこもり顔負けのカーテンを締め切った自室で、朝寝坊という快感を満喫していたのだが、残念ながら俺の知り合いにはそんな常識など簡単に覆す、非常識の塊のような女がいたということを失念していた。


 目覚ましの設定をした覚えはなかったのだが、携帯電話が二度、三度と睡眠を妨げてくる。


 それでも、おきるなどという選択肢が出現する訳もなく、手探りで携帯電話をどうにか拾い上げると、目覚ましを止めるかのような感覚で通話ボタンを押していた。


『せんぱーい! おーきーてー!』

「うぉっ!」


 通話ボタンを押しておいて意表を突かれたもへったくれもないのだが、いかんせん俺には押した自覚がない。第一、電話の相手が奴であるとわかっていたならば、決して通話ボタンなど押さなかったはずだ。不用意すぎるぞ、俺の親指。


「……何の用だよ」

『変態紳士である先輩が知らないなんて、これは異常事態ですね』


 俺の幸せに土足で踏み込んで来た女に苛立ちを覚える。


 そんな俺の気持ちなどお構いなしに彼女の減らず口は続いた。


『今日は、待ちに待ったエロゲーの発売日じゃないですか』

「残念だが、俺は待っていなかったんだ」


 待っていたものがあるとすれば、夏休みと言う名の睡眠タイムであろう。


『私の様な合法ロリ美少女が、変態であることしかとりえのない先輩を誘っているんですよ? 買いに行きましょうよ~』

「いやだ」


 発売日にかこつけてエロゲーを購入するときに、あいつが買う量は積みゲー確定レベルだ。体のいい荷物持ちにされるのがわかっていて、なぜ行くと思うのか。そのほうが謎でならない。


『しかたないですね。商品名を教えてあげましょう。ですが、気をつけてください。性犯罪者予備軍である先輩にはタイトルすらも刺激が強いかもしれませんから』


 もう、勝手にしてくれ。


『いいですか、先輩。その名も〝JSパラダイス~ランドセル少女の〟』

「もういい。勘弁してくれ」


 一応言っておくが俺はロリコンではない。故に刺激が強かった云々ではなく、彼女がそれを嬉々として語る声が耳を伝って俺の頭部に刺激、というよりは痛撃を与えたのだ。


『先輩も興味をそそられて我慢の限界のようなので、隣町の駅まで来てください。待ってますので』

「勘弁してくれ、外が何度だと」

『マゾの先輩であればそれを快感に変えることも可能でしょう。それと、ちょうどいい電車があるので、あと二十分で来てくださいね~。それではっ』

「ちょっと……おいっ!」


 まあつまりだ。仏以上に心が広く優しい俺は、この理不尽な状況に反発する間も惜しんで着替え、駅へと向かったのだ。今更あいつに何を言った所で効果がないと、さすがの俺も理解していたし、諦めることが得策であることも学んでいた。


 そんなわけで、暑さと眠気による脱力感をぬきにしても俺としては急いでいたんだ。嘘じゃない。その証拠にいま炎天下で必要以上の水分を排出している。クーラーの効いた車内であればこうはならなかったかもしれないが、無慈悲にも目の前で扉に拒否されたのだ。


 公衆電話はあるくせに、夏が儲け時であるはずの割高飲料販売機すらありはしない。大規模小売店の倍だしてでも、今は喉を潤したかったのだが。


 改めて考えると、この駅は電車に人を乗せる気がないと見える。暇をつぶしたくても、周りに広がるのは無造作に伸びた雑草ばかり。色あせた駅に不釣り合いな新しいポスターは殆どの者が目に留めることもないだろうに、律儀に更新されている。だいいち、白線がひかれている時点で時代を感じさせられるのだ。


 三人掛けの椅子があっただけでも、ましだと思ったのだが、


「あちぃっ」


 足を固定されたまま、俺より長く待ちぼうけをくらっていたらしい。


 夏に他人と密着しようなどという酔狂な感覚は持ち合わせていないので、結局落ち着く事すらできなかった。


「こんにちは。お兄さん」


 不意をつくように、挨拶をするのはどうかと思う。少女が一人、背後にたたずんだまま微笑んでいるのだ。これが深夜なら、明らかにB級ホラー映画のワンシーンに違いない。

 ただ、そんな少女の華奢な体から紡ぎ出す、透き通るような声に俺は思わず息をのんでしまったんだ。

 こんな場面に遭遇した人間はすべからく今の俺と同じ反応をしてしまうと断言できるほどの雰囲気を少女は醸し出していやがる。

 真っ白なワンピースに腰まで伸びた桜色の髪、幼さを残す顔にこぼれんばかりの大きな澄んだ朱の瞳が俺をまっすぐ見つめてきていたのだ。日常の中に生まれた非日常の構図であることは言わずとも知れている。

 神秘的、なんて言葉があまりにもしっくりくるだろう。この子は本当に人間なのだろうか、なんて感じてしまうほどに。


「お兄さんはどこまで行くの?」


 無表情のまま、名も知らぬおれに語りかける少女。俺の勝手な妄想にすぎないかもしれないが、この構図は絵になると思う。


「連れて行かれるがままに、かな」


 俺の脳は残念ながら、こんな時でもうまい言葉を提示してくれたりはしなかった。


「そうなんだ」

「君は?」


 不意に聞いてみたくなった。聞いたところでどうなる訳でもないのだが、それでもなんとなく知りたくなったのだ。若さゆえの好奇心というやつかもしれない。


「私は、行ける所まで行くよ。それがセカイの果てだとしても」

「……そうか」


 スケールがでかすぎて何が言いたいのかはさっぱりわからない。でも、少女の口から出たその言葉に、俺は少しも疑問を抱かなかった。なぜだろうな。

 もしかしたら、そんな途方もない話を信じてみたいと思う程度には少女の言葉に重みを感じたのかもしれない。あくまで感覚の話ではあるがな。


「電車、来たよ」


 少女の言葉を聞いて線路へと目を向ける。待ちに待った冷房車両が目の前にとまっていた。なぜか俺は、言われるまでその事に気付かなかった。


 こんな辺境で降りる者がいる訳もなく、暑さを拭い去る為に駆け込むように乗車する。


「あれ?」


 その時既に、少女の姿はそこになかった。まるで彼女の存在が、幻であったとでもいうように。


 きっと、人の優しい俺の為に用意された贈り物だったに違いない。



 一度として狂った事のなかった腕時計の針が、携帯電話に表示された時間の三十分ほど前を指していた。 

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駅での不思議 𠮷田 樹 @fateibuki

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