ノエシスとレイニー

星町憩

ノエシスとレイニー

「ねえ、レイニー。調子はどう?」

「やあ、ノエシス。奇妙なことを聞くね。僕は君の目の前にいるのだから、聞かなくてもわかるじゃない」

 大理石を透けるまで磨いた壁の向こうで、少女レイニーは微笑む。

「だって、君は……」

 壁の此方側で、少年ノエシスは耐えるように唇を噛み締めた。

 いつだってレイニーの声は柔らかく鈍く、瑞々しくノエシスの鼓膜を震わせる。

 ノエシスは、彼女がとても優しい少女だということを嫌という程知っていた。

 レイニーは壁の彼方側で、水色の霧に包まれながら微笑み佇んでいる。

「痛くない?」

 ノエシスの震える声に、レイニーは今日も困ったように笑った。

「そろそろその質問、飽きないかい? それに……聞いてもどうしようもないことだろう?」

 レイニーは目を伏せ、銀色の長い睫毛を微かに震わせた。

「辛いならやめていいんだよ。僕と同じものになる必要はないじゃない。僕は、」

 ノエシスは拳をぎゅっと握りしめる。

「君がどこかで笑っていてくれたら、それだけでいいんだ」

「馬鹿なことを言わないでよ」

 レイニーは荒むように笑う。

「僕はただ、君と同じになりたいだけなんだよ。そのために生きてるんだ。こんな箱庭の中で君だけを見つめ続けて、見窄らしくても生きているんだよ。ねえ、ノエシス」

 レイニーは二人を隔てる壁をそっと撫でる。

「どうしてこの壁が、硝子でも水晶でも、はたまたぷらすちっくなんかでもなく、大理石でできているか知ってるかい。君に僕がぼやけて見えるようにと、僕がお願いしたんだよ。君はだって、いつまでも心配するから」

 レイニーはそう言って、目を伏せると口の端で笑った。

「僕は、痛みも歓びも快楽も苦痛も知らない君と同じになりたくて此方にいるのにね。それなのに君は、僕が痛覚も歓びも悲しみも何もかもじわりと失っていくように、僕を案じる心なんか手に入れちゃうんだね」

 レイニーの言葉が折れた針のように零れて床に落ちる。ノエシスは強く首を振り続けた。膝の上でぎゅっと拳を握りしめる。

「やっぱり、こんなのだめだよ、レイニー。僕は、今ならわかるんだ。このまま続けても君が死んでしまうよ。君は僕とは違って生き物なんだ。免疫を酷使したって、僕とは同じになれない。やがて君は摩耗してしまう。僕は君がいなくなるのは耐えられない…耐えられないよ。僕のことなんか忘れて、お願いだから、生きておくれよ。僕は君を幸せに出来ないよ。君のいた証を残すことも出来ない。それだったらいっそ、君は他の同じ生き物と――」

「そういうところが嫌だっていうんだ」

 ノエシスの言葉を遮るようにレイニーは吐き捨てた。

「君のそんな言葉にこんなにも胸が痛くて針で貫かれているようだ。君なんか嫌いだよ。そして、君なんかに傷つく自分も大嫌いだ。やっぱり、君は偽物でしかないよね。僕のこんな想いなんてわからないんだろう? 人間ぶるのはやめてよ。そのままでいいんだよ。人間の心なんか手に入れなくていいんだよ。僕が君と同じになるから、それまで待ってと何度も何度も何度だって言っているでしょう?」

 そうして、レイニーは背を向ける。

 霧の中へと帰っていく。霞んで見えなくなる。ノエシスの眼前に、水色の淡い世界だけが残るのだ。

「わからないよ……」

 ジー、ジー、という音をたてながら、ノエシスの頭は熱を持った。

 君をそこから助け出して、こんな白い箱の中から外に出してあげたい。それなのに、たくさんのコードやチューブがノエシスをつなぎ止めて動くことが出来ない。一歩だって動くことは出来ないのだ。立ち上がることさえできない。

 もしも動いたら、線が全てちぎれてしまう。そうしたらノエシスはもう二度と動くことなんて出来ない。ノエシスを直すことの出来る人はいない。もう、そんな技術はとうの昔に失われてしまった。

 水底に沈んだ石の街は、ノエシスの手など届かないところで眠り続けている。

「どうしてこんなに僕はあの子に彼方側にいてほしくないんだろう。どうしてあの子は此方側へ来ようとするんだろう。ここは何もないのに。生きることは出来ないのに」

 ノエシスは呟いた。

 ジー、ジー、と鳴き煙をわずかに立てる心臓は、何か大事なものがノエシスに欠けていると伝えてくる。この感情が何か理解が出来ない。そんなものは、情報の中にコードされていない。


 どれくらい俯いていただろう。ふと気配を感じて顔を上げる。壁の彼方側に、レイニーが立っていた。

 また少しやつれたように思う。

「どう? そろそろ僕の気持ちはわかったかい」

 レイニーが静かに問いかける。

「わからないよ。君が僕と同じものになりたい理由なんてわかるはずもないよ。僕は人ではないのだもの」

「そんなこと言ってるから……」

 レイニーは悔しげに顔を背ける。

「理由なんて考えていたらいつまでたっても君に僕は理解出来ないよ。ねえ、君のその水色の目に、僕の髪の色はどう見える? 僕の目は? この雨の色は?」

「君の髪は白銀色で、目は灰色で、雨は水色だよ。僕の好きな色だよ」

「違うよ」

 レイニーは唇を噛み締める。

「僕の髪は亜麻色で、目は翠で、雨は透明だ。さあ、わかっただろ? そろそろわかってくれるだろう? 君の見ている世界は僕の世界なんかじゃない。どうすることもできない。それだったら僕は……僕はせめて、何も見えず何もわからない何も感じられない、君と同じになりたい。だから……だから、」

 レイニーは顔をくしゃりと歪めた。

「お願いだから……今更感情なんか持たないで…そんな偽物なんかいらない。僕は本物しかいらない。本物がないなら何もいらないんだ!」

 ノエシスは、レイニーの泣き顔をただじっと見つめていた。彼女が涙を流すのを初めて見た。涙がそんな風に流れるのだと、初めて知ったのだった。

 ノエシスは、そっと自分の滑らかな白い肌を撫ぜる。この眼球から、あんな綺麗なものはきっと流れないだろう。流れるとすれば、それは匂いの強いオイルだけだ。

「それは……」

 ノエシスは震える声で呟く。自分の声がずっと震えていたことをようやく自覚した。体の奥で小さな電球が点滅する。エラーを検出しました……エラーを検出しました……エラーを検出しました……再起動出来ません……。

 ノエシスは、全ての歯車を回して検索をかける。この気持ちになんと名前を付けたら良いのかわからなかった。僕はあの涙を綺麗だと思った。レイニー。君が、あなたが泣くのがたまらなく辛い。こんな感情は知らない。こんな熱も知らない。今すぐこのコードなんて引き裂いて、割れもしない壁を壊してしまいたい。君を傷つけるそんな毒の霧の世界なんかから、君を引き出して、その体を拭いてあげたい。

 君の涙を拭ってあげたい。

「それは、好き、ということなの?」

 ノエシスは呟いた。体中がエラーで満たされる。燃えるように熱い。このままでは止まってしまう。このままだと何もわからなくなってしまう。目覚められるかわからない。あなたにもう一度会えるかわからない。

 僕は君が傷つくのなんか見たくない。そうだ。こんな水色の世界なんていらないんだ。

 ノエシスは軋む体を起こして、壁の向こうへと手を伸ばした。バリッという音がする。火花が飛び散る。ガガガガガガガガガ。音は鳴り止まない。それでも僕はあなたにここにいてほしくない。

 ブチン、と音が聞こえた。けれどノエシスは振り返らなかった。ようやく指先が壁に届く。じゅわ、と音がして、溶けていく。壁が溶けていく。

 レイニーに手を伸ばして、その手は宙をさまよった。頭の中でけたたましく叫ばれるエラーの音。僕は今とても熱いのだ。こんな体で触れたら…石でさえ溶かしてしまうこんな体、きっとレイニーを殺してしまう。

 じゅ、じゅわ、プツ、ジー。音がする。ノエシスは顔を震わせた。レイニーが止めどなく泣き何かを叫んでいる。けれどもう知覚することが出来ない。僕を映してくれるものが何もないから、僕は今笑えているかもわからない。

 もしもレイニー、君が僕の鏡だというのなら、僕はもしかして、泣きそうな顔をしているだろうか。

「僕のこと、好き?」

 ノエシスは雑音の混ざった声で問いかけた。

 レイニーの口が動く。何も聞こえない。けれど、心は伝わる。意思は伝わるのだ。

 ――ああ、これが、心なんだ。

 ノエシスはざらついていく視界に別れを惜しみながら、笑った。

 僕も、レイニーが好きみたいだ。

 届かない声を夢見ながら。


 動かないノエシスに触れる。

 水で湿った体に、熱い痛みが走って、レイニーは胸を押さえた。

 体が震える。もう長くはないだろう。

「ノエシス……」

 置いていかないで。連れて行って。

 身にまとわりつく霧は、いつだって痛かった。削げていく体はいつだって苦しかった。

 けれど、もう何も痛みは感じない。

 最後の胸の痛みを抱え、レイニーはノエシスに寄り添い膝を折る。

 触れた手がじゅわりと赤みを帯び、皮膚がただれていく。何も痛くない。苦しくない。

 ああ。最後にようやく私は、あなたと同じになれた。

 だとしたらきっと、

 あなたの逝ってしまった世界へ、私も逝けるだろう。

 レイニーはノエシスに覆い被さり、涙の流れる瞼を閉じた。

 二人を霧の雨が覆い隠した。


 主を失った白い逆さまの箱庭は、空の上で次第に崩れ落ち、瓦礫が海へと沈んでいく。

 失った世界へと、還るように。


 未完成の実験を惜しむように、どこからかレコードの擦れた音が微かに響いていく。

 しかしそれはふいにぷつり、と途切れて、


 世界から音が消えた。








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