解:待ち人はバスの中に
午前十一時のまだ穏やかな日差しが、大きなバスの窓から差し込んでいる。
ごく自然な態度で静かな車内を見渡す。
今日もこのために一番後ろの席に陣取っているのだ。
終点に向かう車内にいまも残っている乗客は、自分を含めて三人。
一番前の席に座るのが、いつも乗っている厳しい雰囲気の老女。
今日はその少し後ろに、眠たげな表情のいかにも気だるげな男性がいる。
くたびれた営業マンであろうか。
その顔つきはどこか掴みどころがなく、年齢は若くも中年にも見える。
いかにも適当に選んだ風な薄手のヨレた灰色のジャケットが、まさにこの男の無気力さを物語っているかのようだ。
そう考えると、いつも見ている老女の方は雰囲気通りの整った着こなしである。
黒のサマージャケットに合わせて選ばれた淡い色合いの服装は、ゆったりとしながらも芯があって彼女の品格を示しているし、その顔も年齢は重ねているが老いは感じさせないものだ。
普段はただぼんやりと見ていただけなのだが、今日に限ってどうしてこうも目につくのだろうか。
そんな考えを巡らせていると、今日もいつもの目的地が見えてくる。
五つあるサイエンスポリス内の二つ目のバス停。
いつものように降りる準備をしながら、あらためて窓の外の景色を見る。
無駄に整備された人気のない道。
そろそろか。
ひと呼吸置き、下車ボタンを押す。
『次、停まります』
聞き慣れた、無機質なアナウンスが車内に響きわたる。
やがてバスは停車し、ゆっくりとバスを降りる。
下車したのは自分一人、これであのバスの乗客のはあと二人だ。
それを確認して、ようやく、今日はなぜあんな考えに至ったのか理解した。
あの男の影響だ。
存在感があったのではない。
無さすぎたのだ。
たしかに彼を見て、色々な印象を受け、考えた。
だがすぐに、それに比べて他の人がどういった姿をしているのかを確認することに気が向いてしまったのだ。
だからこそいつも見ていたはずの老女の服装にあらためて目が行ったのだろう。
それに対して、男の方へは一度注目を外すとそれからもう目を向けることもなかった。
存在自体がぞんざいで、あっという間に忘れてしまったのだ。
そして今思い出そうとしても、浮かぶのはヨレたジャケットだけだ。
なにかにすがるように去りゆくバスを見る。
だが、もはやなにも蘇ることはない。
あの男は何者だったのだろうか。
いや、そんなことなど気にする必要もない。
あのバスにあの男がいて、ここまで降りなかった。
その事実さえあれば充分だ。
今日も仕事をするだけだ。
「しかしランサよ、お前というやつはいつもいつも無茶ばかり言ってくれるな」
喫茶店『ハロン』の奥のいつもの席、原田蓮次郎は呆れた声の後、大きくため息をついた。
目の前には、彼の弟子ともいえる存在の探偵、杉高ランサがいる。
「そこを先生の力でなんとか」
「だからそれが無茶だと言っているんだ。そもそも、俺なんて所詮現場を離れたロートルだぞ。それに、見てきたお前が一番良くわかっていることだと思うが、サイエンスポリスだろう? あそこはヤバイ」
「ですよねえ……」
ランサも同調するようにため息をついた。
原田はこれまでも、幾度と無くランサの無茶な注文に応えてきた。
おとり捜査のために人員を割いたことも一度ではないし、誘導されてきた容疑者の監視もすでに定番になりつつある。
そこまで協力をするのも、ひとえに、ランサへの信頼ゆえだ。
実際、多くの場合はきっちりと犯人逮捕へと繋がっている。
だからこそ、警察もランサの意見に対して人員を割くことを黙認しているのである。
だが、今回は、サイエンスポリスはそういった原田の考えとはまったく別次元の問題なのである。
「あそこはな、目立ちすぎるんだ。下手に見慣れない車が走っているだけで完全に異物になるからな……」
これまでサイエンスポリスで事件が起こったことは数度あるが、現場に向かった人間は立場を問わず誰もが口を揃えて『不気味だった』と言っていた。
帰りがけの交通事故が起こった際にも、野次馬も現れず、淡々と処理だけをすることになったという。
そんな場所だからこそ、もし『相手』が監視をしているのなら、すぐさまこちらの存在に気がついてしまうだろう。
それではマズイのだ。
「で、お前は誰が相手かわかっているのか?」
「まあ、その辺は一応目処はついていますよ。今日、ターゲットの方と少し話もできましたし」
「そこまでできてりゃあと一歩なんだがな……。いかんせん相手に動いてもらわないと手の出しようがないのがもどかしいな」
ランサの推理は今回もほぼ正解だろう。
一応の推測は聞かせてもらったが、その材料だけでよくぞそこまで考えたものだと感心する。
しかし、それはあくまで推測でしかないのだ。
実際に『犯人』を捕まえるには、犯人が事件を起こすのを待たねばならない。
それこそが健全な警察機構である。推測だけで人を捕まえることはできない。
ましてや、犯行に及ぶ具体的な人物はまだ不明なのである。
犯人に動いてもらうためには、まずこちらが犯人に気づかれないようにしなければいけない。
あの場所はそれが難しい。
「随分とお悩みのようじゃない、お二人さん!」
不意に、喫茶店の入り口から声がした。
店内に残っている客はこの席の二人だけであるから、その声は必然的にここに向けられたものだ。
「おいランサ、来客だぞ」
呆れたように原田がぼやく。
名前を呼ばれた探偵はさらに呆れて首を振る。
「いや、そもそも、なんでお嬢様がここにいるんですか。ここは私と先生の秘密の会合場所なんですよ」
「なによその態度。せっかくあのいけ好かない街に入り込む名案を持ってきてあげたのに」
ランサの言葉などまったく聞く耳持たず、その来訪者、民辻ユリナはズカズカと店内に入ってくる。
この店にほとんど来たことのないユリナであったが、マスターは特になにも言わずにその動向を見ているだけだ。
横の席から椅子を持ってきて、二人がけの席に勝手に割って入るユリナ。
「で、名案というのはいったいなんだ? アイディア次第では好きなものをおごってやろうじゃないか」
「えっ、いいんですか! やったー!」
無邪気に喜ぶユリナの横でランサがあからさまに顔を歪めているが、それでも、それ以上なにも口を挟むことはなかった。
この探偵も、いや、この探偵こそが、少女のひらめきの鋭さを最も認識しているのだ。
「いやいやまあ待て、アイディア次第だといっただろうが……。で、どんな手を使ってあのサイエンスポリスに乗り込もうっていうんだ?」
そう促され、少女は、自信満々の笑みを浮かべて自分の持ってきた案を語り始めた……。
「名づけて、『トロイアの木馬』作戦ですよ」
『次、停まります』
聞き慣れた、無機質なアナウンスが車内に響きわたる。
やがてバスは停車し、一人、バスを降りる。
そして今日も仕事の仕上げへと向かう。
仕事といっても、その内容はごく簡単なものだ。
ある時間のバスに乗り、乗客の人数を確認し、このバス停で降りる。
その際、バスに残っている乗客が一人だけだったら、帽子を被って反対側のバス停で待つ。
そうでない場合は帽子を被らずに待てばいい。
ただそれだけのことである。
そして言われたまま、鞄から帽子を取り出し、被る。
よく目立つ、赤いベースボールキャップである。
野球には特に興味はないし、ましてや特定球団を応援するわけでもないのだが、一番目立つのがこのキャップだったのである。
これを被り、反対側のバス停に腰掛ける。
ただそれだけのこと。
このことにどんな意味があるのかはわからない。
しかし、金が貰えるのだから文句もない。
そのはずだった。
しかし、こうしていざ帽子を被ってここに座ると、その後なにが起こるのかが気になってしょうがない。
これまでの一ヶ月で、帽子を被り待機したことは三度。
思った以上に回数は少ない。
これまではなにも起こらなかったが、この前に帽子を被ったのはもう一週間以上前になる。
おそらく、今日は別だ。
走り去る、先程まで乗っていたバスの後部を見つめる。
もうだいぶ遠くになっている。
これで終わりなのだろうか。
それとも、明日以降もこの仕事は続くのだろうか。
その時、ずいぶん遠くに行ってしまったバスが、突如物凄い音を立てて急停車した。
見るとバスの前には白い煙が立ち上っている。
なにかしらの事故だろうか?
だが、どうやら人為的なものらしい。
それとほぼ同時に、自分の目の前を猛スピードで一台のワゴン車がバスに向かって走って行ったのだ。
そしてバスがバックできないようにワゴン車はバスの後ろに止められ、中から三人の男が降りてくる。
灰色のスーツの、一見するとただのサラリーマンたちだ。
こんな荒事をするとも思えない。
その中の一人が止まったままのバスへと乗り込んでいく。
間違いなく、あそこでなにかが始まっているのだ。
「これが、自分の仕事だったのだろうか?」
呆然とその様子を見つめながら、ぼんやりと言葉にできないままそんなことをつぶやいていた。
「はい、そこまで。少し話を聞かせてもらっていいかな?」
勢い良くバスに乗り込んだ時、そこに待っていたのは会長ではなく、数人の屈強な男たちだった。
放つ雰囲気が明らかに一般人とは異なる連中で、その誰もが剣呑な顔つきをしている。
こいつらは何者か。
だが、その正体はすぐに明かされた。
少し奥にいた隻腕の男が、残っている左腕で器用に懐から小さなケースを取り出したのだ。
それは黒地に金のエンブレムのついた、まごうことなき警察手帳だった。
「ど、どう、どういうことだ! 話が違うぞ!」
思わず声を上げてしまった。
帽子を被って待っているなら、乗っているのは運転手を除けば老女、つまり会長一人のはずである。
だが、ざっと見ただけでも正面に三人、さらに、後ろの乗車口が開いてそこからさらに二人が降り、既にワゴン車を確保している。
つまり、この計画は完全に漏洩していたのだ。
どこからだ?
私服警察たちに促されてバスを降りた際、チラリと、通り過ぎてきたバス停に目を向ける。
なにも知らない男が、赤い帽子を被って何事かとこちらを凝視している。
遠くてハッキリとはわからないが、それでも、その表情が驚きに満ちていることぐらいは想像がつく。
それくらいに、あの男にはなにも教えていなかったのだ。
おそらく、この警察官たちもなにも教えていないのだろう。
ただ、自分たちはいなかったものとして仕事を続けろと言ったくらいのはずだ。
ではいったい一体なぜ、彼らはこのバスに乗り込み、こうして待ち構えていたのだろうか。
必死に考え、思い出してみると、ほんの少しだけ存在した違和感に行き当たった。
数日前の昼過ぎに、あのバス停にふと現れた男と女。
思えば彼らは、明らかになにか探りを入れていたようだった。
だが、彼らがなにをしたのか。
ただ少しだけここを見て、そのまま去っていっただけではないか。
考えてみればあまりに怪しいが、それだけのことでこの、どうして計画を止めることなどできようか。
しかし、止めるべきだったのだ。
視界の隅に映る、こちらに向かってくるあの時と同じ車に、そのことをいまさらながらに確信するのだった。
「どうやらひとまず解決ってところですね」
バスの中から出てくる男と原田を見て、ランサは他人事のようにそう口にした。
「なんでバスの中で待たせてもらえなかったのよ。こんなに遠くからじゃ臨場感もなにもあったものじゃないじゃない」
助手席のユリナがそう愚痴るが、それも仕方あるまい。
ランサたちはこうして、バスの急ブレーキの現場から少し離れた場所に停まった車からその様子を眺めているだけなのである。
「いや、もう私たちの仕事じゃありませんよ。あとはプロに任せるべきです」
「事件のほとんどは私たちで解き明かしたようなものなのに……」
「まあ、それもそうですけどね。でもいいじゃないですか、それだけで。昨日もさんざんパフェを食べたでしょう」
ユリナの提案した『トロイアの木馬』作戦は、まさに逆転の発想だった。
この人気のない都市に侵入するには、元から警戒せず入り込める物の中に潜むのが一番だ。
かくしてバスには原田の指揮の元、精鋭の警官が乗り込むことになったのである。
ランサはバックミラー越しにあの帽子の彼を見る。
なにも知らず、自分がなにをしているのかもわからなかったからこそ、警察の指示に対して抵抗する理由など持ちあわせてはいなかった。
バスに突然大勢の警官が乗り込んできた時、彼はどういった気分だったのだろうか。
「しかしまあ、思っていたよりは大事になったわね。あいつらは一体なにが目的だったのやら……」
途中で割り込んできたユリナは、その前の原田とランサの話を聞いていないのだ。
ランサは少しだけ面倒そうな表情を浮かべ、ユリナの顔を見る。
もちろんユリナはランサのその表情など気にすることもなく、ニッコリと微笑み返してくるだけである。
ランサはあらためてため息を付き、ゆっくりと口を開く。
「まあようするに、彼らの目的はある人物の誘拐だったわけです。毎日あのバスを利用する、とある企業の会長のね」
「バスに乗る人を誘拐? 随分まどろっこしいことをしてたのね。そんなの何処かで適当にバーンとやっちゃえばいいじゃない」
予想通りのユリナの言葉に、ランサの苦笑はさらに強いものとなる。
「……まあ正直、その意見は一理あると思いますよ、私も。でも、彼らはおそらくただの誘拐犯じゃないんですよ」
「どういうことよ」
疑問か、不服か、おそらく本人もわからないままにそうつぶやいたユリナに、ランサは慎重に言葉を選びながらその推理を口にする。
「これは推測ですが、彼らは産業スパイかそれに類するものじゃないかと思いますよ。元々バスに乗っていたのは、さっきも言ったようにとある企業の会長でしてね。彼女の持っている『情報の鍵』こそを求めていたんじゃないかと……。まあ、その会長さんとは少し話をしただけなんで、確かなことは言えませんが……」
言葉を濁し続けるのは、ランサにも確証はないからだ。
そのあたりはもう、しがない探偵のランサの領分ではない。彼の師である原田やその同僚、国家権力が解き明かせばいいことだ。
ランサにとって重要だったのはあくまで、あの待ち人の正体と待たせている背後にいるものの目的でしかなかった。
「それで、できるだけ手を汚さず会長を誘拐する手段として、このサイエンスポリス内での犯行を計画した。会長がいつもあのバスで通勤するのを知っているからこその計画です」
帽子の彼を使ってバスの利用者数を調べ、確信が持てたらあらかじめ道の脇、あの飛び出し坊やの下に仕込んでおいたガス噴射装置でバスを停止させ、そこで会長を誘拐する。
計画と準備は万端だった。それをこの女子高生助手が見ていたという、一つの誤算を除いては。
「なーんか嬉しそうね。結局背後関係もわからないのに」
「そのあたりは後で先生に聞けばいいんですよ。正直、カネにはなりませんしね」
「あーやだやだ、夢のない話ね」
わざとらしく呆れてみせるユリナに、ランサはもう一つ苦笑いで返す。
「いいじゃないですか、事件も解決したし、お嬢様はパフェをおごってもらったんですから」
「まあ、そういうことにしておいたほうが良さそうね。しかし、本当に凄い場所ね、ここは。あんなことになっても誰も出てきやしないんだから」
バスの側では淡々と事後処理が行われ、区画全体は静まり返ったままだ。
この静けさと無関心が事件を生んだのではないか。
「ここにももう少し人がいれば、あんな無茶を考えることもなかったかもしれませんね……」
ランサは、いまさらながらにそんなことを考えていた。
家賃代わりの名推理 シャル青井 @aotetsu
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