終章

1  『花子からの手紙』


 この手紙が果たして届くのでしょうか?それともやはり私の手元に戻ってくるのでしょうか・・。イタリアに旅行したおり、ボローニャの町で、日本人の方にお会いしました。その方は商社を退職されて、あの震災後、こちらに来られて、住まわれているとか、私が神戸で婦人服の店をしていたと言ったら、大変に驚かれ、懐かしがられました。私が店の名前を言ったら、「商社では繊維関係が長かったので、お店のお名前は存じ上げています」と言われ、北富雄と名乗られました。そして、「池野エミさんとお友達だったのでしょう」と言われ、〈サルパーレ〉の名前もご存知でした。私が不思議そうな顔をしていたら、「部下に、野々村健太というものがおりました」と言われ、あなた方との関係を話して下さいました。奇遇というものがあるのですね。そうでなければ、こうした手紙を書く事も出来なかったでしょうから・・。たとへ、届かなかったとしても。あなたたちが別れられてお住まいになっていることも、健太さんからの便りで北さんは存じておられていました。「この住所も変わっておられなければということで、何分、野々村健太から来た便りは随分と前のことだから」とお知らせ戴いた次第です。

 お元気ですか。私も元気だけが取り柄みたいなもので、このフランスの田舎町で退屈に暮らしています。笑うじゃありませんか。ここのご自慢の特産品は〈玉葱〉なんですよ。学生時代、英語が苦手だった私でも、これだけ住めばなんとか話せています。もっともここはフランス語ですが・・

 

 その節は、何のお力にもなれませんでしたね。何とか私も、主人も力になりたかったのです。代表取締は主人ではなく、主人の母でしたから・・。歩合みたいな不安定なものでなく、しっかりした保証金のある方を主張されたら、どうしょうもなかったのです。あんなに売り上げて、最後に発言権もなかったとは、私は何をしてきたのでしょう。やっぱりどこか抜けている花子です。あなたによくフォローしてもらいましたね。罪滅ぼしができると思ったのですが・・、そればっかりではありません。あなたがたの努力、戦い方は同じ小売業をやるものとして、主人共々認め、応援したい気持ちでした。あなたの奮闘ぶりには、「私の親友、深見エミ頑張れ!」と元応援団長はエールを送っていました。

 あなたの店が閉まった後、あなたの店のウインドウをよく見ていた私を知らないでしょう。あなたの服は、まるであなたのよう。可愛くって、キュートでセクシー。大柄な私には着れない服ですが、好きな服でした。あなたを好きだったように。


 それにしても、若かったとはいえ、私はあなたになんと酷いことをしたのでしょう。あの日からあなたとは口もきかれない関係になってしまいました。仲間とも・・。やっと、口をきいたのは、私たちが店をやめると決めた時でした。貸すならあなたの所にしようと思い、主人に話したら、気持ちよく了承してくれました。まさか、義母の反対があそこまできついとは思いませんでした。あの場所は服を売るなら神戸で一番の場所です。あなたの所の商品ならたくさん店を出さずとも、あの1軒で十分やっていけるでしょう。それだけの場所を捨てて迄の気持ちは、東京のアパレルの傍若無人な態度です。本当に彼奴らは礼儀もないもないヤクザです。ヤクザでも最低の仁義はあるものです。長くなりますが、許してくださいね。多分、もうお手紙を書く事も、出すこともないでしょうから。初めて東京で、彼らの服を見て感動し、彼らの言葉を聞いて震えました。『神戸で売ろう。私が売ろう』と決めたのです。それを主人に話したのです。彼は賛成してくれました。もっともその時は主人ではなかったのですが・・。彼とはセンター街のお店で、私が生地を買うときに気さくに話すようになって、お昼の休み時間に一緒にお茶する程度だったのです。その東京の話が出てから二人の仲は急速に近くなりました。結婚して、二人でお商売するのは自然の成り行きでした。私が、ただ店がやりたいだけで結婚したように云う者もおりました。竹野とはその後、10年後かに謝って来たから許してやりました。お土産は十分に頂きましたよ。確かに仕事の話が合って、関係が深まったのですからそうも云えますね。いざ結婚となったときに、なんでしょう、安っぽい小説のセリフみたいですが、そうとしか言い様がありません。私の中の女が騒いだのです。

 

 私は派手な性格からして相当遊んでいるように見られましたが、あなたなら信じるでしょう。男の人を知らなかったのです。池野良太、中学校からズート好きでした。彼に抱かれる夢を何回見たでしょう。高校のころから彼の私を見る目を意識するようになりました。女ならすぐ分かりますよね。でも、あなたと、良太の間には入れない何かを感じていました。友達の好きな人だから・・?そんなのではないのです。うまく言えません。あなたたちは生まれた時から結びついていた。今になってそれがわかります。で、私は良太によく似ている、健太を好きになろうとしました。それしか私にはできなかったのです。良太の代用品。健太は頭のいい子です。何となくそんな私の気持ちを察していたのでしょう。私の何回かのアプローチを上手に逃げました。いいえ、健太は私を好きになるぐらいなら、あなたを好きになったでしょう。そんな節はありました。


 そして、あの日、結婚式の前夜になったのです。みなが、あの結婚の申し込みを断った竹野まで祝ってくれたのです。だのに、私はみなを裏切ったのです。特にあなたを・・。どうしても、あの日、良太に抱かれたい私があったのです。私も突然そんな感情が湧き上がってきたのには正直驚きました。でも、そうしないと女としての私は可哀想。一生悔いを残すと思ったのです。お酒が少し勇気の後押しをしてはくれましたが、酔ってなんていませんでした。竹野の言葉は、きっかけに使っただけです。主人ですか?あの中に、他に喋るような人間はいましたか。そんなことは考えませんでした。多分知っても、あの人はへっちゃらでしょう。あの人はそんな人で、そこがいいとこなのです。最もこれは私の勝手の解釈ですが・・。良太ですか。あなたには悪いのですが、一緒に出ると思っていました。エミと良太に私からの文句です。どうして、もっと、早くにあなたたちはなるようにならなかったのですか!それが悪いのだと、この不良少女はなんぼか思うのです。私は主人と結婚して良かったと思っています。彼のいい加減さと、心の広さには感謝しています。良太は元気していますか。思えば、エミ楽しかったね。あなたがいたから私の青春は豊かでした。たった一つ悪いことしたけれど。許してくださいね。何時までも元気でね。


2011年3月25日 アビニョンにて

                         あなたの花子より  

  

2  『別れ』


 懐かしい手紙だった。読んでいてエミは目頭が熱くなった。さてこの手紙を目の前にいる良太に見せたものかどうか?手紙は届いたし、間にあったのだ。息をするのがやっとで、もう読めはしないが、名前ぐらいならわかるだろう。でもエミは見せずに、静かに良太の息を引き取らせてやろうと思った。花子もそれでよしとするはずだ。


 池野良太は今、阪急御影駅から近い高台に建つ病院のホスピスに入院している。星おじさんの配慮である。星おじさんと、ここの医院長が友人である。阪急でも、JRでも、電車に乗っていたら山側に必ず見上げて目にする白い建物である。

 良太の病室の窓からは、眼下に神戸の街並みを見ることが出来る。赤い大きな橋の向には六甲アイランドが広がっている。病名は末期の肺がんである。家族が泊まれる部屋も用意されている。エミは1週間前から泊まり込んでいる。子供らも2日前から一緒に泊まっている。1週間前に良太はエミに息苦しいので、楽に眠れる薬を多くして欲しいとエミに頼んだ。息苦しさは減ったが、格段に覚醒している時間も減った。手を取って揺すると薄く目を開け、かすかに微笑む。まだ誰かを認識する力は残っているようである。娘が薔薇の花を持ってきたときは、声は出せなかったが口は「バラ」と開いたようであった。星おじさんは毎日午前中に散歩がてらだと見舞う。


 良太は、今どこにいるのかすらわからない。誰かがそばにいるが、誰かもわからない。かすかに意識が覚醒したとき、見慣れた顔を目にするが、又、まどろみの世界に住まう。いつも、良太は浴衣を着た少年で、桶を作っている男を見ている。良太の傍には、朝顔の柄の浴衣を着せて貰った少女がいる。男が二人を見て、何かを言う。二人は楽しそうに笑っている。死ぬんだなぁーと思う。別に苦しいモンでもないと思う。息をするのを忘れそうなぐらい気持ちがいい時がある。忘れちゃいけない。もうちょっと息をしていようと思う。


 そんな良太にエミは語りかけた。子供たちはまだ眠っている。


 良太、あなた、事業を閉鎖して、そして震災があって、宇山さんや、応援してくれる人たちがあって、おかげで店は再開することが出来ました。あなたの言うように、どだいお商売のきく立地ではなくなっていました。1店舗では服は作れません。他所のメーカーの服を仕入れて売りました。それは別段、嫌なことではありませんでした。私はあなたが褒めてくれたほどのバイヤーだったのですから・・。2年何とか頑張りましたがそれが限度でした。その2年間、店を7時に閉めたあと、京都に取って帰し、祇園のクラブに出ました。住まいも岡本のマンションを払い、京都に移りました。祇園のお店が忙しくなるのは9時以降なのですから、北野の店の閉店後に働けると云えばそんなところしかなかったのです。二人の子供を学校にもやらねばなりません。そないまでして、北野の店をとあなたは云うかも知れません。あの北野の店は私の産んだ子供なのです。子供を捨てられますか。「これから子供たちにもお金がいるから、北野の店は諦めて、何処か市場筋でも」と、言ったあなたが正しいのは分かっていました。でもそれしか出来ない私も分かって欲しかったのです。所詮、女と男の違いでしょうか。辛い時、瓦礫の街の片隅に捧げられた白い花を見て慰めました。あの人たちの方がズート辛いと・・

 

 あなたは、出て行きましたね。私は止めませんでした。それから別々に住んで暮らすようになりました。夫婦といえば、子供の結婚式ぐらい。子供に孫が出来、息子のところにあなたは季節ごとに来るようになって、階は違っても、息子と一緒のマンションに住む私は、あなたと季節に一回逢えたのですから・・七夕さんよりよかったのですから、お互い文句はなしにしましょうね。

 思えば何時の間にか、私は強い女になっていましたね。守ってやる対象でなくなったからでしょうか?守ってやる力を無くしたとあなたは思ったのでしょうか。それとも私の何処か心の去った部分をあなたは気付いたのでしょうか?そう、今、告白しますわ。私は野々村健太を愛するようになりました。だからと云ってあなたが嫌になったわけではありませんでしたよ。あなたが二人できたような、そんな感じでした。あなたは私を先生みたいに上の世界に引っ張り上げてくれる人、健太は私の後からついてきて、私を押してくれる人でした。一番辛いときに、気がつけば彼が、すぐ後ろにいたのです。良太と健太、二人のエースのいるチームのマネージャーの様な幸せを感じていました。でもそんなことはいつまでも続きませんよね。


 あなたと、花子のこと、私がどうにか思っていたと、あなたは引け目に思ってなんぞいなかったでしょうね。あなたと花子が出て行って、私はとっても悲しかったのです。だって私にとってかけがえにない人を同時になくしたのですから・・。でも、二人を、恨んだりしたことはありませんでしたよ。だから、あなたと一緒になったのではないですか。あなたが淡路の家を訪ねて来てくれた日、どんなに私は嬉しかったか。直ぐに抱きつけば良かった。私はどっかええ子ちゃんで、あきませんでしたね。あなたの夢の話、星おじさんより聴きましたよ。

 花子さんは見事でしたね。あんなに付き合ったのに、あなたを好きだったところなんて全然見せませんでしたよ。最も私が鈍感だったともいえますが・・。


 一度、須磨の村雨堂に行ったことがありましたね。松風と村雨を愛した行平、松風と村雨に愛された行平、今、私はよくわかります。許すとか許されるとかそんなことではないように思います。あなた、花子さんを抱けてよかったですね、花子さん良太に抱かれて良かったですね。心からそう思うのです。私が歳を取ったから・・、あなたが死んで行くから・・、そう思うのでしょうか。いいえ、違います。二人とも私の好きで、大事な人だから・・。そうでなかったら、私はきっと焼餅妬き。

 花子さんからのこの手紙、どうしましょう。そう、あなたのお棺の中に入れましょうね。


 池野良太は息を引き取った。享年65才であった。看取ったのは、池野エミと二人の子供と花子の手紙であった。


3  『橋を渡って』


 明石海峡大橋、この橋が完成したのが、1998年(平成10年)であった。エミはこの橋を一度も渡ったことはなかった。最後に淡路に渡ったのは平成9年、母の納骨であった。その時はまだ船はあった。橋が出来てからは神戸から洲本までの船はなくなった。

 エミにとって、橋は渡って見たいような、恐いような存在であった。でも、一度は渡ってみたいと思っていた。恐い?エミにとって、淡路は島であって、陸続きになったことを見るのが怖かったのである。それを理由にして、鹿蔵の墓にも、母、敏江の墓にも長いこと参っていなかったのである。良太の納骨で帰るには今や車しかない。息子、茂樹の運転で橋を渡ることになった。

 

 エミは今、琵琶湖の見える大津市にマンションを買って住んでいる。大津は淡路島の位置に例えるなら岩屋のあたりになるのだろうか・・。マンションは琵琶湖の湖水のそばに建ち、北に比叡山、南に瀬田川が見える。冬は叡山が北国の風を貰って何時も雪化粧をしている。比叡おろしが湖面に吹きつけ冬は寒い。

 大津も京都の隣接都市ということから、近年、ホテルや百貨店やパルコも出来、マンションからも近い。何よりエミが経営している京都の店に行くにも、何かと便利である。エミは今、京都の祇園でクラブの店をやっている。

 祇園でも、切通といえば一番いい場所である。その1階、路面に面して店はある。北野の店を終えて通った店である。店のママはこのビルのオーナーでもあった。そのママと従業員のことで喧嘩したことがあった。そこを見込まれて、「私もう引退やわ、あんた、後せぇーへんか」と譲られたのである。勿論、しっかり家賃は取られるが、お客もついているし、内装費もかからないので引き受けた。たまに、馴染みのお客がある時は出ることもあるが、そんな歳でもとっくにない。店はチィーママに任せている。祇園と言っても昔の賑わいはないが、何とか店は続けられている。

 マンションには階が違うが息子夫婦も住んでいる。息子には娘が二人あって、顔を見て相手をするのが、今のエミの何よりの楽しみである。そしてこのマンションのプライベートルームを借りて、着物の着付け教室をやっている。それがエミの仕事と云えた。


 神戸からなら淡路はついそこであるが、大津から神戸までが時間がかかる。名神などが混めばうんざりである。平日だから混むことはないと思ったが、予想通りにスムースに車は流れた。それでも、舞子に着くには2時間かかった。明石海峡大橋は神戸側の舞子と淡路の岩屋の間で、海峡を跨ぐ。瀬戸大橋は鉄道道路併用橋であるが、明石海峡大橋は自動車線だけでスッキリしている。写真で見ていたパールブリッジと愛称を持つ白い橋が見えてきた。いよいよ碧い海峡を渡るのだ。

 神戸に岩屋からフェリーに乗って家出をした日を思い出して、エミは思わずハンカチで目頭を拭った。横で運転している息子と、後ろの座席にいる長女、奈津子が変な顔をした。ほんにあっという間に、海峡を渡り、島側の岩屋につき、ハイウエイオアシスの展望台から対岸神戸の方を見た。あいにくの黄砂で対岸はぼんやりとし、三宮の高層ビル群は黄色いシルエットしか見せていなかった。

 

***


 神戸淡路鳴門自動車道は淡路の中央部、背骨を四国鳴門まで貫通している。ほとんど海が見えず山並みを走るので、何か島を走っているようには思われなかった。運転する茂樹が、橋が出来る前、仕事で淡路に来た時の不便を語った。

「帰り、岩屋からフェリーを待つやろぅ、観光の休日なんかは、5時間待ちはざらやった。やっと乗れると思ったら、淡路名産、瓦を積んだトラックが前3台や、次待ちや。ガックリするでぇ」

 息子は1級建築士の資格を持って建築事務所に勤めていたが、昨年から商業施設のプランニングの事務所を開いて独立した。「たまらんのは、海が荒れて欠航のときや、職人抱えて、旅館の手配や。いらん出費が嵩んで・・」。段々、昔を思い出したのか嘆き節だった。

 

 インターを降り、洲本市内に入った。エミは洲本市内の様子に驚いてしまった。茂樹が「何や、車が走っとらん、人も歩いとらんがなぁー」と云った。サービスエリアの賑わいからは考えられなかった。エミの幼い日、車こそあまり走らなかったが、島中から人が来て市内はいつも賑やかであった。港の付近は船が着くたび人が一杯降りてきて、通りをいっぱいに歩いたものだ。母の納骨の時だって、電車はなくなっても車の通行もあり、商店街は人出で賑わっていた。今や、商店街の半分がシャッターを閉めていた。良太の実家、池野洋装店はこの商店街通りにある。エミの生家はその商店街の裏通りにあり、3軒並んだ長屋は今はなく、跡地は駐車場になっている。生家の跡地を眺めるのは寂しい。


 池野家は、今は、良太の妹、秋子が養子を取って跡を継いでいる。母の郁恵はかくしゃくとして元気であった。良太と別居するようになったら、どうしても疎遠になって、年賀状と暑中見舞いだけのやりとりだけになってしまう。鹿蔵の仏壇に手を合わして、座敷につき、郁恵と秋子に会葬に出向いて貰った時の礼を述べて、テーブルについた。お昼の用意がされていた。

 郁恵は、「田舎やて、何にもないんよ。あっさりしたほうがええと思って・・」と云って、冷たい麦茶を出した。テーブルには、冷やしソーメンとタイの刺身、野菜の煮ものの椀、香の物等が用意されていた。「ご飯かて、あるよって」と秋子が云い、茂樹はご飯も頼んだ。

 ソーメンを食しながら、エミは街の様子を秋子に尋ねた。

「鐘紡の跡地にイオンのショッピングセンターが出来たのよ。車も人もそこに吸い込まれて、出てこんのよ。港も遠から人がおらんようになったし、今、若い人は神戸に車やバスで通勤しとるんよ。お義姉さんの時なんか考えられんやろぅ」と街の現状を話した。

 

 茂樹が、橋が出来る前と、出来た後とどっちがいいのかを聞いた。

「どっちやろねぇー?出来る前は出来たらええねぇーと思ってたんやが、出来てしもうたら街はこんなんやろぅ。電車も船ものうなって、洲本に来る用事はあらへんようになって、車は四国まで素通りやろぅ、商売するもんには橋がない方がよかったのに、それもわからなんだウチらがアホやったわけや」と秋子は答えた。

「船がのうなって私らは不便になったわ。車運転せんもんには、神戸出るのも便利やったし、関空に行くのに船やったら直ぐやった」と郁恵が溢した。


 淡路は古来より島であった。島が島でなくなったということは、大変な出来事で、人々の生活を根本的に一変させるものに違いない。秋子が語ったような悪い面ばかりでなく、島の野菜や花や酪農品は、出荷額は増えたし、新しい観光施設も増えた。京阪神から来るのも、行くのも高速バスで便利になった。

 功罪半ばあるのだろうが、エミには、島は島であったほうが自然ではないかと思えた。


4  『母校宇山のグランドでストライク』


 食事を終えた後、寺町の池野家の菩提寺、真言宗・遍照院に郁恵、秋子と共に出向いた。秋子の夫は所用があったとかで、出先からお寺に直接駆けつけた。お寺は常盤町からは歩いて行ける距離にある。納骨を終えて、池野家に帰ったが、エミは茂樹に連れて行って欲しいとこがあると云って、一緒に車で出かけた。出かけた先は母校、宇山の洲本実業高校であった。

「あんた、先に上がっておいて、歩いていくから」といって、坂の上がり口で下してもらった。通学で何回も登った坂道だ、遅刻しそうな時は必死に走って上がったものだ。今は歩くのもきつく、15分たっぷりかかった。息も少し切れている。校門から入った感じは昔と変わっていなかった。校門そばの職員用の駐車場に茂樹は車を止めて、島の地図を見ていた。エミが着ていた時と変わらないセーラー服姿の女生徒がおじぎをしてエミとすれ違った。エミは校舎の南側にあるグランドに出てみた。

 

 放課後のグランドでは野球部の練習が行われていた。緑の木々の間からは海も見えた。3階の教室からは、港も街も見下ろせて見えたものだ。街中に野々村健太の洲本高校も見え、遍照院の本堂の瓦屋根も見えた。

 木陰に腰を下ろし、野球部員の練習をエミは外野からぼんやりと眺めていた。この木陰で空のコーラ瓶を持ちながら、良太といつまでも無言で座っていたことを思い出していた。

「あなた、帰って来ましたよ。やっと、あなたと私が生まれた町に、一緒に通った学校に・・」。いつしか追憶になり、マウンドで投げる野球部員のユニホームが、良太に変わった。サードは竹野、ベンチには平田、応援しているのは高島花子。


 エミの前に白いボールが転がってきた。ボールを追いかけて来たユニホーム姿の野球部員に、「投げるわよ」と云って投げ返した。部員は帽子を取って礼をしたあと、後ろを追いかけてきた部員に、「あの、おばぁーさん、ストライク投げよったでぇ」と言うのが聞こえた。

「あなた、あなたの後輩は、高校生の私に、おばぁーさんって云うのよ」

 

                 完


参考図書

詩集『神戸市街図』

昭和61年ジュンク堂書店発行、この本は神戸を詩で紹介した、ユニークな本で、かなりのインスピレーションを受けた。本書は絶版。神戸市立図書館にある。


『メリケン波止場』 長征社 かどもと みのる(神戸港めぐりの船長を長年勤められていた)


『神戸 歩いて100景』 神戸新聞社編

『兵庫歴史散歩1』1982年 歴史散歩刊行会発行 当時の地図も挿入され、堅苦しくもなく見よい本である。


『タルホ神戸年代記』1990年 第三文明社 稲垣足穂(神戸をメルヘンチックに描いた作家)


『おヨネとコハル』1989年ヴェンセスラウ・デ・モラエス、岡村多希子訳 彩流社

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神戸ファッション物語 北風 嵐 @masaru2355

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