月夜にこぼれる、梅の花

柊 楓

第1話

 時は滔々とたゆたい流れ、もう二度と戻る事はない。

 たとえどれほど、願ったとしても――




「都子様、またそのような格好で! もう年頃なのですから少しは姫君らしくなさいませ!! 都子様――」

 乳母の君の声が少しずつ遠ざかっていく。最近小言が増えたとは言え、幼い頃からずっと一緒に過ごしてきた、都子にとっては母代りともいうべき大切なひとだ。なるべくなら煩わせたくはない。

 けれど素直に従えない時もある。普段は物わかりの良い都子だったが、どうしても言われるがまま『姫君らしく』するのには抵抗があった。

「ごめんなさい。でもせっかくお兄様がいらっしゃるのに、御簾越しで扇で顔を隠して……なんて事、したくはないの」

 誰もいないのを見計らって階(きざはし)を降り物陰に身をひそめ、都子はふぅと小さく息を吐いた。

 今日は兄帝がお忍びでやってきてくれる大切な日。政務に忙しい兄帝が都子の元を訪れるのはせいぜい数か月に一度。そんな貴重な機会なのだからちゃんと顔を見て話をしたかったし、その身に触れて大好きな兄の温もりを感じたかった。




 牛車を降り、随身達に庭先で待つよう命じて部屋へ向かおうとしていた帝の胸に、いきなり柔らかなものが飛び込んでくる。望月帝にはそれが何かすぐにわかった。

「都子――!」

「いらっしゃいお兄様! お元気そうで何よりです」

 ぎゅっと抱き付いてきた華奢な身体を逞しい胸でふわりと受け止めると、望月帝は愛しげな表情を浮かべながら優しく抱きしめ返した。

「お前は……いつも変わらないね。こんな場所に無防備に出て来てはいけないじゃないか」

「だって……お部屋で待ってる時間が勿体なかったんですもの」

「私が随身達を連れて来ていたらどうする。……貴人はそう簡単に顔を見せるものではないよ」

 困ったように笑う兄帝の声に怒気はない。むしろ楽しんでいるような響きすら孕んでいる。都子が見せるこうした無邪気な行動は、政敵に囲まれ多忙を極める望月帝の心を、ひどく慰めてくれるものだった。

「……っ……なるべく気を付けるようにするわ……」

「本当に仕方のない妹だ」

 都子の着物に焚き染められた白梅香の匂いが望月帝の紅梅香と合わさって華やかに薫り立つ。誰もが羨む、美貌の兄と妹の仲睦まじい逢瀬の姿は、まるで古の絵巻物から抜け出してきたかのように麗しかった。

「お前の方も息災のようだね」

「ええ。とっても」

 にこにこと無邪気に微笑む都子の後ろで、乳母の君が深々とため息をつく。もう小さな女童ではないのだから、いきなりあのように飛びつくのは如何なものだろう。しかもお相手は血の繋がった兄とはいえ、誰よりも敬うべき帝だというのに。

 難しい顔からそんな思いを察したのか、望月帝はくすっと苦笑いを零した。

「乳母の君も変わりなく……いつもご苦労な事だね。これの世話はさぞかし大変だろう」

「はい。都子様は少々元気が過ぎて困っております」

「なっ…! あの……そんなに困らせては……いないと思うのだけど……」

 語尾がだんだん小さくなる。着物越しにでもそれとわかる引き締まった胸板に両腕をつき身を離すと、頬を淡い紅色に染めながら、都子は潤んだ瞳で兄帝を見上げた。

「いつもはもっと淑やかにしているのよ。歌を詠んだり貝合わせをしたりして。物語だって読んで……」

「何をおっしゃいますやら、先だっても源の高雅殿と庭の池で水遊びをなさってたではありませんか。御髪もお召し物もずぶ濡れになって……私がいくら危ないとお止めしても聞き入れてはくださいませんでした」

「あ、あれは……だって……高雅が一緒だったし。……って言うか、お兄様に言いつけるなんてずるい!」

「いいえ。この際ですから言わせて頂きます。姫様がきちんという事を聞かれるのは兄帝様だけなんですから。これでは立派な斎宮様にはなれませんと何度申し上げたか――」

 なおも言い募ろうとする乳母の君を「まあまあ」とやんわり押しとどめると、望月帝は少し屈んで都子と視線を合わせた。

「乳母の君の言葉は本当? ……源高雅とはそんなに親しくしているの?」

「……本当よ。でも危険な事なんてしてないわ」

「池での事を言ってるんじゃない。高雅と、どれほど親密なのかを聞いているんだ」

 さっきまで凪いだ水面のように穏やかだった瞳が見た事もないような冷たい光を帯びている。それは兄帝の名のように、望月の――冷えた月の色に似ていた。

「お兄……様?」

 無意識に洩れた、都子の怯えたような声音。それに気付いてはっとした表情を浮かべると、望月帝は取り繕う様に笑みを深めた。

 高雅が如何ほどの者だと言うのか。たかが従三位の若者、さして優秀だと言う話も聞こえてはこないし、内親王……しかも現帝の妹で次期斎宮の都子に夜這いなどかける度胸はないだろう。いくら都子が心配だからといって、動揺するなど――馬鹿げている。

「……いろいろ言い分もあるだろうが、こんな所では落ち着いてゆっくり話もできないな。いったん場所を移してはどうだろうか?」

「――っ!! これはこれは失礼を致しました。ささ、こちらの方へ」

 乳母の君が大慌てで采配をふるい方々に指示を出す。感情の読めない笑みをのせたまま、望月帝は都子の肩をそっと抱いた。

 まるで、この娘は自分の所有物だとでもいうように。




 御所へ戻る道すがら、望月帝は物思いにふ けりながらぼんやりと己の手を見つめた。

 そこにはまだしなやかな髪の感触が残っている。はしゃぎ疲れて眠ってしまった都子の美しい黒髪をくるくると指先に巻き付けながら、起きている時よりも尚幼く見える寝顔を、望月帝はしばらく眺めていたのだ。

「……ずっと子供のままでいてくれれば……」

 そうすればこのような、妙に胸がざわつくような想いは知らないままでいられただろう。

 都子は、父帝が誰よりも愛した彼女の母に似てきたと思う。自分はその父帝に瓜二つというから、都子と並んでいれば兄妹ではなく男と女に――

 そこまで考えて望月帝は首を振った。

(あれは神に仕える斎宮になるのだ……)

 敬愛する父の遺言を守り、都子を清らかなまま伊勢に送る事。それが己に課せられた役目。 

 そう言えば最近、源高雅以外にも都子に近付く男がいるらしい。義弟の月影親王だ。血縁ならば問答無用に退けるわけにもいくまい、ましてやあの人懐こい都子の気性ならば尚更。

「高雅はともかく……あの義弟は信がおけぬ」

 乳母の君だけでは心もとない、もっと警戒心の強い、気の回る女房を都子の元へ。

 それは兄としての庇護欲なのか、それとも。

 答えが出る日は、そう遠くないところまで近付いていた。 

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