それでも、追いかける理由がある。

@satou9sato

第1話 佳奈美の場合


わたしは、うんざりしている。

少し授業が賑やかになりでもしたらすぐに、そんなことで人生を棒に振る気か。と食って掛かるような教師の都合のよさにも、どうせ大して勉強なんてしないくせに、「私はちょっと・・ほら、受験だから」なんて言っている八方美人な同級生にも、うんざりしている。ヒーターのせいでどんよりと濁った教室の空気から少しでも逃れるように、窓際の最前列の席に座る佳奈美は顔を窓に向けた。外はまるでそんなやるせない鬱憤を知らんぷりしているかのように、快晴だ。深いため息をつくと同時に六限目終了を知らせるチャイムが鳴る。キーんコーンカーンコーン




佳奈美の家は学校から五分ほどの場所にある。とくに入りたい部活動もなく、近いという理由だけで学校を選んだ。大きなT字交差点に面している学校をまっすぐ直進し、二つ目の信号で左に曲がり少し進むと、白いどこにでもありそうなところどころ黒ずんだマンション【ホーム田上】。四階403号室がそこが佳奈美の家だった。


「ただいま。」


返事はなく、冷たいフローリングの廊下に声が反芻したようにきこえた。短いため息をつき、佳奈美はその場に荷物をドンと落として居間へと入る。どこにでもあるごく普通の家庭だ。テレビ台には、佳奈美の入学式の写真が入った写真立てが立っていて中では両親と佳奈美が緊張気味に口角を上げている。これを世間では微笑みというのだろうか。くだらない。冷蔵庫を開けて麦茶ポットを取り出して自分のマグカップに注ぎいれる。学校終わりの癒着しているかのように心地が悪い咽喉をすぅっと冷たい麦茶が流れていく。これがたまらなく気持ち良いのだ。しかしそんな時間も束の間、”それ”は突然に聞こえてきた。布製ソファに座り優雅に三口目を含もうとしていたときだった。


「________て・・・」


一瞬経験したこともない心霊現象という言葉が頭を高速でよぎっていったが、声の主が分かりすぐに違うと気付いた。心臓がドクンと大きく跳ね上がり、そこからは絶え間なく心臓が脈打つ。うそでしょう。うそでしょう。うそだといって。呼吸が浅くなり息苦しさを感じた。この声は、そしてこの声が聞こえる場所は・・・。忍び足で廊下を進み思い切りドアを開けると同時に悲鳴が聞こえた。そんな、そんな。まさか、この人がそんなことをするなんて。


「おかあさん・・・」母親は裸のまま、父の年齢を明らかに遥かに下回った父でない男の隣で半口を開けたまま静止していた。時間が止まった気がした。





男は、逃げるように家を出て行った。服を着ていたが髪を乱したままの母がベッドの端にちょこんと座り佳奈美の足元に目線を落としていた。気まずい沈黙が二人の間の空気に充満した。先ほどの男もあのタイミングで出て行くことはないだろうと佳奈美は心の内で舌打ちをした。何を言おうか、思考をフル回転させて模索する。最初に口を開いたのは母だった。


「驚いた、でしょう。ごめんなさい。」


声がかすれていた。不愉快は感じるものの、それでも冷静にこの先はどうなるのだろうと考えている自分自身に少しばかり驚く。


「いつからなの。どうしてなの。」


「・・・。」


「答えて、おかあさん。おとうさんと昨日だって普通に話してたじゃない。ねえ、話してたよね?今朝だって朝ごはんを食べているときに顔を合わせたよね?それとも、なに、来週から出張って今日おとうさんが言っていたとき、おかあさんはあの男のことを考えてい「ちがう!」


佳奈美の声が遮られた。目尻から一筋涙を静かに涙を流している目の前の女は、だれだろうとどこかまだ眠ったままの頭の片隅で思った。いつもより頼りなさげで少女のように泣いている彼女は誰だろう。


「あなたを必死に育ててきたわ。この家でだって、洗濯から炊事掃除まで全部全部私じゃない。なにひとつ怠けたりなんてしていない。若くから結婚して子供を産んで育てて、そのあいだ私の青春時代を沢山犠牲にしてしまった。それでもあなたのために、あなたのためなら我慢していられた。けど佳奈美、あなたはもう十七歳。わたしだって、わたしだって・・・」


最後はもう涙声になっていた。そしてとうとう、うううと呻くように泣き始めた。あまりに痛々しく禁忌に触れてしまっているような罪悪感を感じて、自分で涙を拭いながら泣き続ける母の薬指をただ呆然と凝視する。本来そこにあるはずのものはなく、そこだけ肌色が薄い。目頭はとうに熱くなっているはずなのに涙は出てこない。どこか違う世界から見ているように遠く感じた。母は続けていった。


「佳奈美、あなたが何より一番大事なの。私は、お父さんじゃない人を愛してしまったけど、それでもあなたが結婚してこの家を出るまでは今まで通りにあなたとお父さんで暮らしていこうと思っているの。」


瞬時に頭を殴られたような衝撃を感じる。いままで眠っていたマグマがどんどん上へと上ってきて口をついて出て行く。


「ねえ、わたしのためって、何。結婚も妊娠も全部おかあさんが選んだことじゃない。あなたが恋して、あなたが好きで産んで、いまこうして結婚しているのだってあなたの選んでいることじゃない。勝手なことを言わないでよ。何でもかんでも、おかあさんの人生の後悔をわたしのせいにしないでっ」


もうその場には居られなかった。ベッド横にあったオルゴールを咄嗟に手に取り部屋の隅に向かって全力で投げつける。ぼろぼろと出て行く涙で視界が霞んでいる。もうなんでもよかった。ローファーをはいて外へ出た。外はいつの間にか暗くなっていて気温も低い。それでも引き返すわけにもいかず、鉄砲玉のように家を飛び出した。寒いが空気は澄んでいた。





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