第八章 陵墓封印

     

「お彩ちゃん、あんたいくつになったんだっけ」

 だしぬけに聞かれ、お彩はまごついた。

「十九ですけど」

 趙太后に呼ばれ、久しぶりに宮中へ上がったとたん、挨拶もそこそこにいきなりの質問だ。いやな予感がする。

「政王より五つ上だったわね」

 ――知ってるなら、聞かなくてもいいじゃない。

 この人の前では、どうしても素直になれない。なんとなく反発がさきに出る。あまりにもいろんなことを知ってしまったせいだろうか。

「ちょっといやなことを聞くわよ」

 ――そうら来た。

 誘いに乗ってつい訪ねてしまったことを、お彩は悔いた。

「放っておいたわたしたちも悪いんだけど、十九といえばもう、こどものひとりふたりはいてもおかしくない年ごろよね」

「――」

 お彩は黙ってうつむいた。泣きたくなった。

「それともあなた、だれか好きな人でもいるの」

 ドキッとした。考えまいとして、わざと素知らぬ振りをしているのに、むりやり顔をもとに戻されたようなものだ。

「いっ、います」

 思わず返事してしまった。

「まさか政じゃないでしょうね」

「違います。冗談はよしてください」

 趙太后がまごつく番だった。

「じゃ、だれ? 教えてちょうだい」

赤雨せきうさん。師兄シィション(兄弟子)の赤雨さんです」

 むきになっていた。自分でも思いがけない人の名を口にしていた。

「どこかで聞いたことある名前ね。そうそう、仙薬づくりの名人だったわ。へえ、そうだったの」

 なんとなく安心した口調で、趙太后は納得した。

「あなたが方士さえ辞めてくれたら、ご大家たいけのお嫁の口はいくらでもあるから、それを勧めようと思っていたんだけど、好きな人いたんだ。でも相手が方士じゃ、幸せにはなれないわよ。ねえ、ほんとに方士を辞めて、ふつうの人の暮らしをやってみない? 刺激はないけど、落ち着けるわよ」

 趙太后としては精一杯、好意を示したつもりだった。

「いいえ。わたし、方士を辞めるつもりはありません」

「あなたみたいに綺麗で、よく気がつくだったら、いくらでも幸せになれるのに、もったいないわねえ」

 本音だったに違いない。趙太后はため息をついて、嫁入り衣装の品定めに話題をかえた。方士がまともな結婚などするものか。お彩の頭の中は真っ白で、ほとんど話が耳に入らなかった。

 お彩はボーとしたまま、宮廷をあとにした。

      ∵

 赤雨は新しい仙薬の開発に没頭していた。

 太白山の無名庵は、みな出払っていた。赤雨だけがひとり黙々と、薬剤を薬研やげんで押し砕いていた。

 蝉が鳴いている。

 ジージージー、単調な蝉の鳴き声が、かえって全山の静けさをきわだたせている。

 蝉の声が止んだ。つと、赤雨は顔を上げた。

 ――人が来たのか。

 窓の外を見た。黒装束の男が五、六人。なかにひとり方士姿の男が、目についた。むかし、この庵で修行したことのある男だ。洪坐こうざという名だったか。趙の出身だったと記憶している。

 ――おれに用か。

 赤雨は腰を浮かせた。

 用意周到な不意の訪問者なら、訪ねる本人を確認するため旧知のものをひとり加えるのがならいだ。洪坐もそれだろう。

 扉が放たれ、男たちが侵入した。

「無体はゆるさぬ。なに用だ」

 赤雨の問詰に、黒装束がこたえる。

「赤雨だな。聞きたいことがある。ぜひとも同行願いたい」

 有無うむをいわせぬ強い口調だ。争いを好まぬ赤雨は、がえんじた。

「いずれのものか」

 洪坐をにらみつけ、それだけをたずねた。

「ゆけばわかる」

 手短な答えが返ってきた。

 薬棚を漁っていたひとりが仲間に命じ、赤雨を縄で縛った。

 ひきたてられるまえ、赤雨はつくりかけの仙薬に目をやった。幸い放置されたままで荒らされていない。

 薬剤配合の分量にこだわりが残っていた。

 ――帰ってから、もういちどやりなおすか。

 拉致されながらも、楽観視していた。

          ∵

 太白山の庵から拉致され、一昼夜駕籠に揺られた。着いたさきは変哲のない田舎屋敷だ。咸陽の近くかとは思うが、分からない。縛られたまま、そこの土蔵に押し込められた。

「薬はなにを使った」

 目隠しを解かれて最初の質問がこれだ。相手の察しがついた。

「なんのことだ」

「孝文王、荘襄王を毒殺したろうが」

「おれの知ったことか」

「痛い目にあいたいか」

 相手は脅したつもりだが、赤雨には通じない。

「おれのつくるのは仙薬だ。不老長生の薬だ。もっとも使い方しだいでは、薬もまた毒になる。ただし、おれは薬をつくるだけで、使う側ではない。だから、おれの知ったことではない」

「呂不韋から頼まれてつくったことがあろう」

「呂不韋といえば秦の宰相ではないか。まさか宰相が直接頼みに来るものか。おまえらは、いったい、なにものだ。役人なら、お役所で吟味してもらいたい。おれは隠すことなどなにもない」

 方士は、医師・薬師として、社会的に認められた存在だ。不法行為を糾弾したければ、公の取調べをおこなってもらいたい。赤雨は正論を吐いた。事実、赤雨にうしろ暗いところはない。

 以前、人知れず首をかしげたのは、服用量についてであって、薬に問題があったわけではない。規定どおり用いていれば、死にいたることはないと、胸を張っていえる。

 おもわく通りにことが運ばず、拉致した側は、鳩首きゅうしゅ協議におよぶ。作戦変更だ。

 痛めつけても、白状する風には見えない。かりにその場しのぎで白状されても、あとでひるがえされるおそれは濃厚だ。

 かれらは顔を見合わせた。赤雨をどうするか。いまとなっては、拉致したことが、重荷になった。

 ――おとりに使え。

 闇の中から、低い声で指示が出た。

「これは、晋関しんかんさま」

「名を呼ぶな」

 いらだった声が返った。

 ――晋関だと?

 かすかにこの名だけが、赤雨の耳に入った。

 他国人呂不韋の台頭で排斥された秦人しんひとの旧勢力が、孝文王や荘襄王の死因を糾明し、呂不韋の失脚を策謀したものか。あるいは、仇討ちが目的なら、両王の近縁のものか。背後に成蟜せいきょう擁立を狙う華陽太皇太后一派の影が、見え隠れする。太皇太后は先々代の皇后、政にとっては祖母にあたる。

 この場を脱出する方法はないか。赤雨はあたりを探った。

 かたわらに洪坐がいる。口を動かさずに小声で問いかけた。

「なぜおまえが、秦のお家騒動に加担する」

「秦は趙の敵だ。敵を撲滅するためには手段を選ばない。他に十人の同士が加わっている。趙無、趙為、趙自ら、五台山の十壮士だ」

 復讐ふくしゅうの鬼と化した五台山の十壮士。以前、趙統らが話題にしていた。五台山の抗戦グループのうち特に過激な十人が、趙国の仇として政王を狙っている。姓を趙、名を老子のことば、「無為自然大道廃有仁義」(無為むい自然 大道たいどうすたれて仁義あり)から一字ずつとって仮の名乗りにしているという。秦の謀叛グループが趙の過激派を引き込み、積極攻勢に出ようとしている。一刻も早く、無名道人に知らせなければならない。

「洪坐よ。おのれは無名道人のおそろしさを知っておるか」

「いや、知らない。おれにはずいぶんとお優しい方だった」

「ふだんは優しい。しかし、怒らせると怖い。天が裂け、地が割れる。おれはこの目で見た」

 雷の閃光と地震の地割れを表現したものだ。天文の解析により地震・雷の発生を予知し、方術に援用する。日蝕ほどではないが、自然の驚異は人を畏怖させるに十分だ。タイミングよく利用すると、おのが手で天地を揺り動かしているように見せることができる。

「おのれも薬を飲んで死ぬるか」

 太白山の庵で薬棚を漁っていた男が、ふところからひとつかみの薬剤をとりだし、勝ち誇ったようにいった。

「水をくれ。薬効を五臓ごぞう六腑ろっぷにしみわたらせるには、水をたくさん飲むとよい」

 縛られたままだ。薬剤を赤雨の口に押し込んだ男が、柄杓ひしゃくの水を流し込む。

「プワッー」

 とつぜん赤雨は、その男の顔に向かって口いっぱいの薬剤と水を吹き付けた。薬がもろに目に入る。男は悲鳴を上げて転げまわった。

 かたわらの洪坐を羽交い絞めにした赤雨は、戸口に進む。

 縄抜けは、容易な業だ。方士を縛るには鉄の鎖が必要だという鉄則を、やつらは知らないとみえる。外に出た赤雨は洪坐を放り出し、馬を奪って遁走した。

 逃げる赤雨は、興奮のあまり冷静な判断を欠いていた。容易に敵の罠にはまった。十壮士が尾行しているのに、気付かなかった。

          ∵

 その朝、呂不韋は供のもの十数名を連れただけの軽装備で、出立した。驪山の陵墓建設現場の視察だが、周囲にはまだ伏せてある。地下霊廟が完成するまでは公表は控えるようにと、無名道人から念を押されている。だからお忍びに近い軽微な姿での郊外出張だ。

 その霊廟が完成した。きょうは招魂祭、霊魂を招いてまつる。霊魂の招致にさいしては、白起が東奔西走の働きをしている。もっとも、そんなことを呂不韋は、知るよしもない。呂不韋は鬼神を信じない。

 霊廟は、陵墓の東側の地下に建設されている。このころはまだ造営されていないが、のちの始皇帝陵と兵馬俑坑との中間あたりになる。両地の間隔は約千五百メートル。近衛軍の白起将軍が守るに申し分ない結構だ。

 始皇帝陵の南側には驪山のスロープがなだらかな稜線を見せている。標高千十四メートル、さほど高い山ではないが、陵墓の南の守りとして、落ち着いた雰囲気をかもし出している。山の麓一帯には、石榴ざくろの木がいまを盛りと実をつけている。

          ∵

 地下霊廟の地上の入口現場近くで、李斯が待ち受け、呂不韋の馬のくつわをとる。

「政王はいずこにおわすか」

 珍しく政王の方から、「現場で話をしたい」と申し渡されている。

「祭主にござれば、地下の霊殿にて招魂の儀式を執りおこなっておられます」

「霊廟の入口はどこじゃ」

「それがしにも判然といたしません」

「その方の差配で工事したのではないか」

 不審に思った呂不韋が、李斯をとがめる。

「それが無名道人のご献策で、霊廟の造営に世俗のものが携わるのは宜しからずとかで、いっさいの工事は、墨者のお仲間で進捗されもうした」

「費用はいかほどかかるというておるか」

「それが、まったくお申し出がありません」

 ――陵墓の造営にあまり金をかけるな。

 呂不韋の経済感覚ではそうなる。

 このたびの視察は、過度の出費を抑えるための調査目的もある。陵墓造営工事の全体費用を見積もるには、最初の霊廟工事は、それをうかがうサンプルとなる。高く吹っかけるようなら、はねつけねばならぬ。それが、案に相違した。

 ――墨者がただで働いたというか!

 この時期、かなりの数の墨者が秦に移ってきている。

 墨者は口舌の徒ではない。不言実行を身上とする。危険に身を挺し、重労働を厭わない、献身的かつ高度な技術専門家集団だ。

 築城・攻城・守城など戦略・戦術にけ、武器の開発・製造・補給などにおいても定評がある。凧を揚げて上空から偵察したり、攻城用の雲梯うんていという大はしご車を開発したり、実績も豊富だ。

 さらに建築土木の分野で、民生にも通用する技術者が目白押しだ。

 未開拓地の開墾、灌漑用水路の開削や堤防・ダムの建設などの治水工事、隧道工事、道路工事など、富国強兵と天下一統に向け、秦国に需要はいくらでもある。

 ――墨者と天下統一。妙な取り合わせだ。

 墨者は、『兼愛』『非攻』に加え、『尚賢しょうけん』をも主張する。

「政治というものは、無能な貴族の手に委ねておいてはいけない。有能な人民の手にこそ渡すべきだ」

 危険思想といっていい。呂不韋にはよく分かる。「人民」を「自分」に置きかえれば、自ら実践してきていることだ。

 強気一本やりでここまできた切れ者呂不韋の脳裏に、ふと弱気な不安がよぎった。思わず、背筋が冷えた。

          ∵

「人は死ぬと鬼になる」と、俗説にいう。「人はかならず死に、死ねばかならず土に帰す、これを鬼という」のだ。

 鬼といってもいろいろあるが、このばあいの鬼は、死者の霊魂を意味する。

 ふつう霊魂には、帰るべき安住の場が必要だ。

 墓があれば土に帰ることができる。子孫に恵まれ定期的に祀りを受けていれば、家ごとに帰る場があるから安定している。

 神々となって天界や冥界に安住の場をもった霊魂は、最高級の部類に入る。有難く、ご加護を祈らずにはいられない。祟りを恐れるどころか、むしろあやかりたいと願う。

 一方、帰る場のない霊魂が、人にとり憑いて祟りをする。

 霊魂の中には、怨念が解けず、いまだ地界に漂い、ときに悪鬼となって人に祟るものもいれば、自然の運行に支障をきたすものもいる。「風調雨順」ということばがある。気候が順調で、季節ごとにほどよく雨が降ることをいう。農耕民族にとってはかけがえのない天の恵みだ。この反対が、日照り・干ばつ・豪雪・豪雨・大洪水・大地震といった大自然の脅威だ。帰る場のない霊魂がもたらすと、信じられている。

 まつり手のない霊魂を「孤魂ここん」という。

 非業の死を遂げた霊魂は、「厲鬼れいき」(怨霊おんりょう疫病神やくびょうがみ)と呼ばれる。

「孤魂」も「厲鬼」も恨みがりかたまっているから、人に祟りやすい。

 この霊魂を駆除する方法は、加害者の側からする謝罪であり、鎮魂の祈りである。とうぜん、それが筋というものだろう。

 長平や邯鄲にある霊廟は、無名道人という第三者や被害者の趙国側による霊廟で、あくまでも仮のものにすぎない。

 だから、政が真っ先に霊廟の建造から手がけたのは、筋からいっても正しい選択だ。帰る場がなく浮遊し、人にとり憑いている霊魂を、できるだけ多くこの霊廟に招いて、謝罪し、鎮魂を祈り、慰霊するのだ。

 そうすれば、霊魂は浮かばれ、二度と人に祟ることはない。

          ∵

 政が近づいてくる。地から湧いたか、と思わせるほどの唐突なあらわれ方だった。地下の霊廟への抜け穴が、そばにあるに違いない。

 政は呂不韋を手招きした。床几に腰掛け、ふたりは対面する。

「久しぶりですね」

「王にはご壮健であられ、祝着至極に存じ上げます」

 お元気でよかったですね。これだけですむことばが、じつにいかめしい。

 最近になってようやく、政は呂不韋とふつうに話ができるようになった。こどものころは苦痛だったので、避けていたものだ。

「霊廟ができ、ぼくの望む事業のひとつが、はじめて完成しました。あとはできるだけ多くの霊魂を全土から招き、末永く鎮魂の祀りをつづけます」

「全土から、ともうされますと――」

「天下統一にさいし、一国を制覇するつど、その国の祖霊をそっくり移します。真の統一をなしとげるためには、古い時代の国や都、ときには人さえも支障になるばあいがあります。古い時代を象徴するそれぞれの国や都の代表的な建物は、いずれ新しい咸陽に移します。人もうつってもらいます。旧体制の支配者や大商人などには、一族まとめて遷ってもらいます。ですからそれぞれの祀りが絶えないように、霊廟も用意したのです。多少、費用がかかりますが、統一帝国を維持するために必要な経費です。税金の取り方と、使い方を研究しておいてください」

 機先を制された形になったが、政王の構想の一端を聞かされ、悪い気はしなかった。

「たしかに承りました」

 呂不韋は姿勢を崩さず、慇懃いんぎんにこたえた。

「ぼくの元服まで、あなたにこの国をあずけます。しっかり治めてください。その間、ぼくはじゅうぶん勉強させてもらいます」

 呂不韋は冷や汗が出た。自分がわが世の春などと浮かれ、目を離しているまに、この王はしっかり成長していた。

 恐れと喜び、相反した複雑なふたつの思いが、呂不韋の頭の中で錯綜した。

「忘れぬうちに礼をいっておきます。十歳までしか生きられなかったぼくの命を、助けていただいたと聞いています。ありがたく思っています。十年分、なにかの形でお返ししなければと考え、相国に任じました。父でもないあなたに、父に準ずる位を授けた理由です。足りなければ、おっしゃっていただいて結構です」

 喜びの部分に、しっかり釘を刺された。親子の血縁については、明確に否定されたのだ。王と臣下、くれぐれもこの身分関係を超えるなと、少年王に諭されたにひとしい。無名道人の差し金か、とも思ったが、すぐに否定した。道人はそんな小細工をする男ではない。

「霊廟が完成したので、つぎはぼくの王陵づくりにかかります。ぼくの寿命は五十まで延びたということですから、あと三十六年残されています。たとえ肉体は滅びても、霊魂だけは未来みらい永劫えいごうに生きられる墓を、つくろうと思っています。あなたが厚葬に反対なのはよく知っています。でもぼくはあくまで世界一の墓陵にこだわります。現世の帝国は空しいものだと思っています。だからこそ永遠の地下帝国を築きたいのです」

 もはや、呂不韋は抵抗しなかった。

「御意のままに」(お考えどおりおやりください)

 自分の残りの人生、政王のために、道をつけておく。自分は天下一統に先駈ける。呂不韋は、自分の役割にじゅうぶん満足した。

 ――それにしても、ようここまで成長された。

 呂不韋は床几を下り、あらためてその場に片膝ついて、拝跪した。

 政王を仰ぎ見る呂不韋の眼に、光るものがあった。

          ∵

 急にあたりが騒がしくなった。

 赤雨が馬で駆けてくる。そのうしろを、十人の壮士が追走している。そしてその後方から土煙が近づいてくる。百人もの騎馬軍団がおしよせているのだ。さらに天空から五百人の精兵をひきつれた趙括の怨霊軍団が、攻め寄せる。長平の古戦場から馳せ参じたのだ。大量坑殺の怨みつらみもさることながら、「実戦知らず、頭でっかちの生兵法よ」と揶揄された己の評価の撤回を求めての出動だとはいうものの、私怨ばらしの意図が見え見えだった。

 母の反対を押し切って就任した将軍位だったが、初戦で敗れ、母の主張の正しさを証明した。推薦者の王の面子は丸つぶれだったから、通常なら趙王にたてついた母親も連座して当然のケースだ。しかし王は母を許した。母は自宅で霊魂を祀った。趙括と五百人の精兵には、帰るべき安住の霊廟は存在するのだ。にもかかわらず、帰るに帰れぬ趙括らの霊魂は戦場で浮遊し、汚名挽回の機会を窺っていた。いまこそ、その機会に違いない。勇躍、馳せ参じた由縁ゆえんである。 

 一方、迎え撃つ側に、油断はなかったか。 

 呂不韋の供回りのものは十数名、李斯の配下も多くはない。工事の縄張りで来ているのが十数名。戦仕度はしていない。あとは趙統ら三人方士にお彩だ。無名道人と墨者の土木工人グループは、地下の霊廟にいる。

 馬を乗り捨て、赤雨が奔りよる。

「ご謀叛にございます。さきの重臣晋関の手のものが、政王殿下と相国どのを暗殺せんものと、兵を起こしました」

 寝耳に水の叛乱だ。

 蒙驁将軍をはじめとする諸将は外征中で、都の守りは手薄になっている。国の守りは函谷関など関門の要衝に集中し、咸陽の都は平和の象徴として、軍備の目立たないことをむしろ誇りにしてきた。その虚を衝かれた。

 幸い相手は私兵集団で、正規軍を発動した様子はない。持ち堪えさえすれば、勝機はわれにある。咸陽からの援軍を待てばよい。

 政と呂不韋のまわりを、李斯の配下が固める。そのまえに呂不韋の供回りが立つ。二重の防御だ。

「師兄!」

 お彩と三方士が赤雨を助けようと、前方に駆けよる。

「あぶない、気をつけろ」

 政が叫ぶ。

 ――白起よ、いまこそ来たれ。でよ白起!

 政は祈った。

 灰塵がもうもうと立ちこめる。敵の軍勢が眼前に迫っている。無数の怨霊・悪鬼がうねりとなって、くうに漂い、ともにおしよせる。明らかに趙括と五百の精兵だ。敵の騎馬軍団は、私兵集団だ。各国の敗残兵を駆り集めたものに違いない。戦場でとり憑かれた怨霊・悪鬼を、いまも背に負い、頭上に漂わせている。

 趙の十壮士が武器を手に、赤雨に迫る。

 ――ひょう

 先頭を駆ける趙無が騎馬で弓を射る。

 お彩が九節鞭をしならせて、飛翔する矢を叩き落す。

 矛をかざした趙為が、赤雨に撃ちかかる。お彩は赤雨をかばい、身を盾にする。矛がお彩の頭上に届く寸前、趙統が大刀で矛を巻上げ、からくも窮地を脱する。

 しかし、つぎの瞬間、お彩は首筋を押さえて転倒する。

「師妹、どうした」

 赤雨が助け起こす。お彩の首筋には、吹き矢が突き刺さっていた。

 してやったりと、趙自が吹き筒をかざす。

「毒矢だ!」

 赤雨は吹き矢を抜き取り、お彩の首筋に唇をおし当てる。毒を吸い出すのだ。 お彩の意識は薄れてくる。

          ∵

 お彩はいま、菜の花畑の真ん中にいる。

 一面、真っ黄色の広大な菜の花畑だ。山の麓から川の手前まで、あらん限りの菜の花が、地上を埋めつくしている。

 菜の花をむ。幼い政の手に一本分けてやる。政は駆けてゆき、花の中に隠れる。

 三人方士があらわれる。政を見つけ出し、いじめようとする。お彩は近づこうとするが、近づけない。ふと見ると、三人方士が謝っている。いつのまにか、政は少年に成長し、三人方士をこらしめている。やがて四人の談笑する声が、風に乗って運ばれる。

 趙姫があらわれ、真紅の花嫁衣裳に着替えさせようとする。お彩は菜の花畑の中を逃げまわる。趙姫が追う。

 お彩の前に青年が立つ。政だ。青年になった政は、自分より年上になっている。ひそかにお彩は待っていた。年上の政を。

 お彩は身を投げ出す。青年が受け止める。

 真紅の裳裾が菜の花の上にかぶさる。顔をおおった花嫁の面紗めんしゃ(ベール)が涙でぬれる。涙は真紅の色に染められる。

 ――あっ、赤雨さん。

 赤雨が必死になって、毒を吸い出してくれている。吐き出す毒血は、大地に黒いしみを刻み込む。

 ――ごめん、勝手に名前をもちだして。

 声にならない。でも赤雨は許してくれるに違いない。

 三人方士が泣きながら敵に対抗し、守ってくれている。

 ――ありがとう。みんな。

 温かい空気がお彩を包む。

 肉親を知らずに育ったお彩は、家庭の温もりを知らない。

 ――これが、その温もり。

 温もりの中を、お彩はゆっくりと歩きだす。花畑のさきに川が流れている。川に向かってお彩は歩きつづける。

          ∵

 白起が吼えた。天空より白馬にまたがった白起が舞い降りる。戦車を駆った兵馬俑の軍団が、続々と舞い降りる。

 しかし、遅かった。わずかに一歩、遅かった。

 白起の出陣が遅れたには、理由がある。戦場に呂不韋がいた。鬼神を信じようとしない呂不韋を見て、白起はねた。命を助けてもらっておいてそれはないだろう。忘恩の徒と罵ってやりたい。でも白起の声は呂不韋には届かない。 信じないものには鬼神の声は聞こえず、姿も見えない。

 悔しさが涙となって、白起の頬をぬらす。私情にこだわり、お彩を犠牲にしてしまった。お彩は政にとってかけがえのない人だ。

 後悔の念が、自分を責める。白起は怒った。自分に怒った。「怒髪どはつ天をく」激しい怒りに、天が呼応し、ともに怒り、ともに泣いた。

 右手めてほこ左手ゆんでに大斧を振りかざし、戦神白起は中空に群がる怨霊・悪鬼を蹴散らして進む。

 木々がしずかに揺れはじめる。雲が動く。風が空気を洗う。

 とつぜん閃光がひらめく。雷鳴がとどろき、天が裂ける。

 怨霊・悪鬼は避難場所を求め、逃げ惑う。

 地下にいた無名道人が、墨者の工人とともに地上に戻り、敵の前面に立つ。道人は両手を高々と掲げ、天に祈る。稲妻が光り、道人の姿を浮彫りにする。

 敵の地上軍団は、かまわず突き進み、道人を馬蹄にかけようとする。馬がいななく。棹立ちになって、前進を嫌う。

 なおも敵は進もうとする。馬の尻に鞭をくれる。馬は地を蹴る。

 つぎの瞬間、大地が真っ二つに割れたのだ。

 百騎の軍団は、馬もろとも地中に転げ落ちる。くうにうごめく趙括と五百人の精兵に取り憑く怨霊・悪鬼も、煙となって吸い込まれて行く。

 地下霊廟の天井扉がひらいたのだ。ぽっかりと地上にいくつもの大きな穴があいた。

          ∵

 政はお彩のそばに駆けよった。

「お彩ねえさん」

 赤雨が肩をふるわせて涙をこらえている。

 お彩の意識はすでにない。

 政は前方を見た。

 趙自が勝ち誇ったように吹き筒をかざしている。

「うぬっ!」

 政は立ち上がった。太刀を抜こうと身構え、右足を出そうとした。足が動かなかった。お彩が右足の裾をつかんで押さえていた。

「お彩ねえさん」

「だめよ、政ちゃん。これいじょうの殺し合いはもうたくさん。刀を抜かなくても勝つ方法を考えて。お願い!」

「だって、あいつはお彩ねえさんをこんな目にあわせたじゃないか。あいつだけは許せない」

「わたしの寿命はここまで。無名道人はご存知よ。まえから決まっていたの。だから許してあげて、あの人たちも。わけ隔てなく、ひろく人を愛する。兼愛の気持ちを忘れないでね――」

 それでも趙の十壮士は、政に刃と矛先を向け、弓に矢をつがえて迫ってくる。

 政は太刀を捨てた。お彩の今際いまわのことばにしたがった。

 三方士も赤雨も、素手で十壮士に向き直る。

 全員が両の掌を開き、十壮士に向かい、瞑目して「気」を念じる。

 十壮士の手から、矢が放たれる。刃がひるがえる。同時に、十壮士に向かって開かれた全員の両の掌から「気」が発せられる。

 飛矢が空中で砕け、刃は根元からふたつに折れる。「気」に煽られて十壮士は吹っ飛び、霊廟の穴に叩き落される。

 飛ばされながら洪坐は、赤雨のことばを反芻はんすうしている。いまさらながら無名道人の恐ろしさを、身をもって知らされたのだ。

 そして、それに輪をかけた政王とその仲間たちの恐ろしさをも!

          ∵

「ありがとう、政ちゃん」

 お彩は菜の花畑のさきにある河原に下りて、川を渡る。ゆっくりと振り返り、綺麗な笑顔を政に見せた。

          ∵

「みごとにはまりましたね。このさき、どうしますか」

「穴埋めにするわけにはいかない。息のあるものは、あとで引き揚げましょう。馬も人も」

 道人は墨者の工人頭に、敵を助け上げるよう救援を依頼した。

          ∵

 謀叛の首謀者 晋関しんかんは、自裁して果てた。謀叛に加わったもののうち他国者は国外追放、秦人しんひとは辺境の地へ流罪とし、開拓事業に従事させた。成蟜と華陽太皇太后は、お構いなしと決し、従前の身分を保証した。政も呂不韋も、ふたりを追及することに難色を示したからだ。

 お彩の葬儀は、無名道人を親代わりに、王家の格式に準じてとりおこなわれた。政王の姉としての身分を付与したのだ。

「お彩ねえさんのがらは、棺に納め、墓陵の真下に埋葬する。いずれぼくが入る場所の真下だ」

 政はお彩の埋葬を指示する。

「お彩ちゃん、お彩ちゃん」

 趙太后が泣きながら、お彩にさいごの死に化粧をした。

 死に装束は、花嫁衣裳だ。これも趙太后が用意した。真っ赤な衣装を着せられたお彩は、はにかんで見えた。

 その顔を真紅の面紗で覆った。まるで花嫁 御寮ごりょうのように!

 この一事をもって、政は母のすべてを許した。父にたいすることも、呂不韋とのことも。

「お彩ねえさん、これでいいだろう」

 政はお彩に問いかける。お彩は、にっこり微笑ほほえみかえす。

 お彩の埋葬のあと、陵墓はふたたび埋められた。

「地下宮殿の工事はつづけるが、陵墓の表面は土をかぶせ、ぼくが冠礼かんれいの式を挙げるまで封印する。それまでは、なんぴとたりとも侵入を許さない」

 冠礼は元服の礼式、男子がおとなになる儀式だ。成人式にあたる。

 政は元服ののちに封印を解き、お彩を正式の皇后にする心づもりでいる。しかしこのことは、まだだれにも明かしていない。自分ひとりの胸のうちに秘めたままにしている。

 封印を解くその日が来るまで、大切にしまっておくのだ。

 のちのファーストエンペラー、始皇帝の少年時代の思い出は、封印とともに地下に埋められた。

 封印の解かれる日、青年となった政は、きっと思い出を甦らせるに違いない。

              

                  (完)

                 

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ヤングエンペラー ははそ しげき @pyhosa

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