第二十四話 足跡のない道程

「源五郎のことよろしく頼みます」

「源五郎ではなく、昌幸ですよ。信玄どの」

 僕ははやる心を抑えつつ、苦笑混じりにそう述べる。

 すると、信玄どのは丸められた頭をなでつけながら、謝罪の言葉を口にされた。


「そうでしたな。自分で名を授けておきながらまだ慣れぬ故、許してくれ」

「もちろんです。御館様、父のこと、そして兄上たちのことよろしくお願いいたします」

 凛々しい若武者たる真田昌幸は、信玄に向かい澄んだ声でそう述べる。


「ああ、心配はいらぬ。しばらくは落ち着いた日々が続くであろう。越後の偽善者も流石にしおらしくしていようしな」

「どうでしょうかな。あの政虎がそう静かにできますかな?」

「もうすぐ冬が来る。そうなれば如何に越後兵と言えども、そう簡単には動けぬよ」

 菅助どのの疑念に対し、信玄殿は冷静に現状を評してみせる。

 それを耳にして僕も、一つの事実を彼らへと開示して見せた。


「それに大樹が飴と鞭を与えたようですしね」

 僕がそう口にした瞬間、菅助どのの眉間にしわがよった。


「飴と鞭?」

「ええ。昨日、細川さまから届いた文によると、争いを控えよという御内書を無視したことを咎めるとともに、偏諱を与えられたとのことです」

「偏諱をですか……して、あの男は名をなんと改めたのですかな?」

「確か輝虎と名乗られることになるとか」

 菅助どのの問いかけに対し、僕はわざと曖昧な記憶を装い、そう答える。


 史実ならば十二月になされるはずの偏諱。

 それが前倒しとなったのは、川中島の戦いの結果が異なるものとなった結果か、それとも史実では再来月に起こるはずだった上杉と北条の生野山の戦いが無くなることを示唆しているのか、はたまた僕自身が及ぼした様々な行動の結果か。それは正直わからなかった。

 ただ、少なからぬズレは生じ始めていても、まだ完全に史実のレールから脱線しているわけでないことを僕は感じ、この偏諱には胸を撫で下ろしている。

 一方、そんな僕とはまったく異なる見解を持つ者も存在した。

 今僕の目の前で、露骨に不機嫌さを露わにする武田の当主である。


「大樹の輝の一字をもらったわけですか。ふん、ころころ名前を変えおって。あんな奴には偽善者で十分なのだ」

「はは、確かに。ほうっておくと、そのうちまた名前を変えそうな気がしますしね」

 法号ではあるも後世において最も有名な彼の名前、謙信という名を脳裏に浮かべながら僕はそう答える。

 すると、そんな僕らの会話にやや退屈そうな様子の慶次郎が、間に入って話題を前へと転じにかかった。


「まあ、あの面倒な毘沙門天はそちらの信玄どのと、北条のおっさんに任せればいいさ。それより、京へ戻るんでいいんだな、隊長?」

「うん。既に畿内は戦準備が行われているみたいなんだ。どうやら将軍家も三好とともに、伊勢どのと戦うとのことだしね」

「政所執事の伊勢貞孝か……」

 それだけを口にすると、何か思うところがあるのか信玄どのは顎に手を当てながら考え込む。

 そうしてわずかばかりの沈黙が場に訪れたため、僕が表向きの疑問点を敢えて口にした。


「しかしどうしてこのような機なのでしょうね。確かに三好家次男の三好実休どのと三男の安宅冬康どのがお隠れに成れば、三好の力が落ちるのは当然です。だとしても、もう少し三好の混乱を見定めてからで良かったかと思うのですが」

「おや……わからぬのですかな?」

 その言葉は信玄どのの口から発せられた。

 途端、僕は戸惑いながら彼へと問い直す。


「はぁ……あまり合理的に思えず理由が見当たらぬのですが」

「おやおや、貴公はしばしば全てを見通しているかのように見えるが、たまにその芽が曇ることもあるのだな」

「菅助どの?」

 信玄どのに続き、菅助どのもやや呆れたような表情でそう口走り、僕は一層困惑を覚える。

 すると、菅助どのは顎髭をさすりながら、苦笑混じりにその口を開いた。


「天海どの、つまりこういうことでござる。将軍家と矛を交えるのならば、とある厄介な若者が戻らぬこの機こそが最善。おそらく伊勢どのはそう考えられたのでしょう」

「厄介な若者って……まさか僕のことですか!?」

「当然ですな。桶狭間で義元の首を取り、そして川中島では政虎と一騎打ちを行い、あの偽善者を引き返させた。その意味がわからぬ武士(もののふ)など、もはやこの日ノ本におりますまい」

「まったく……しっかりしてよね、天海さん」

 その聞き覚えのある声は突然僕の背後から発せられた。

 慌てて後ろを振り返った僕は、そこにあの細身の美青年の姿を見る。


「あれ、小次郎? どうしてここに?」

「それは決まっているよ。うちの主人が、君に付いて行けってさ」

 軽く肩をすくめながら、小次郎は僕に向かってそう理由を述べる。

 すると、信玄どのの目が怪しく光った。


「ほう、氏康は天海どのに鈴をつけるおつもりか」

「それは貴方も同じでしょう、信玄どの」

 小次郎はそう口にすると、彼はその視線を昌幸へと向ける。

 途端、昌幸は慌てて首をぶんぶんと左右に振った。


「僕は違います。僕はあくまで天海どのに――」

「はいはい、わかったからさ、もう早く行こうぜ。楽しい戦が待ってるんだからさ」

 昌幸の言葉を遮ったのは、そろそろ焦れだしてきた様子の慶次郎だった。

 一方、そんな彼を目にして、小次郎は腕を左右に広げながら小馬鹿にした口調で言葉を向ける。


「はぁ……まったく君の自分勝手は変わらないね。天海くんに付き添うのはともかく、こんなくだらない男に付き合わされるのは残念極まりないよ」

「なんだと、ひょろすけ。やる気か?」

「やらないよ。僕が君とやりあうなら、君が眠りこけた時だけさ」

 慶次郎の挑発に対し、小次郎はそんな不穏な言葉を吐き出す。

 その瞬間、慶次郎の目が座り、そして一つの事実を暴露した。


「ふん。風魔の時期当主かなにか知らねえが、甲賀に比べて所詮は児戯だ。俺の首を取れるものなら取ってみな」

「へぇ、興味なさそうなふりをしながら、気になって調べたわけ? まあいい。この旅の間に、その誤った認識を正してあげるよ。君の首と引き換えにね」

「なんというか、まったく君たちは……ともかくそろそろ行くとしようか」

 焦れていた慶次郎が物事をややこしくしたことに呆れつつ、僕は疲れた口調で一行に向かいそう告げる。

 すると、信玄どのが突然制止の声を上げられた。


「おっと、少し待たれよ」

「えっと、何かございますか?」

「先日約束したであろう。源五郎……ではなく、昌幸を預けるに辺り貴公を支援すると。その支度をさせておってな」

 信玄どのはそう口にすると、ゆっくり背後へ視線を移される。

 直後、一人の涼やかなる武士(もののふ)が一頭の巨体を持つ黒毛の馬を引き連れてその姿を現した。


「香坂どの?」

「これを御館様が貴方へと」

 香坂どのはそう口にすると、僕に向かい引いてきた馬を示してみせる。


 それは正直に言って、明らかに普通の馬ではなかった。

 基本的に前世におけるサラブレッドのような馬と、この時代の馬は本来違う。

 この時代における馬の殆どはポニーのような小柄な体躯のものがほとんどであった。


 しかしながら僕の前に立つ黒毛の巨馬は、前世におけるサラブレッドにも劣らぬほどの体躯を誇っていた。

 言う成れば、黒光りしたダイヤモンドのような肌を持つ化物馬。


 それを前にして、僕はわずかに震えを覚え、構えを取りかける。

 すると、その巨馬は唸り声を上げて僕を威嚇してきた。


 一瞬だけ覚える動揺。

 だが不思議と恐怖は感じなかった。


 そして僕は気づく。

 目の前の馬が僕相手に怯えているのだということを。


「ごめんね。慶次郎、少し預かってくれるかな」

 そう口にすると、僕は慶次郎に腰に下げた三日月宗近を手渡した。

 そしてそのまま巨馬へと歩み寄ると、その首を軽く撫でる。

 途端、菅助どのが驚きの声を上げた。


「ほう、驚きましたな。まさか御館様以外になつくとは……して、如何されますか?」

「ふふ、予定通りだ。黒雲が受け入れるのならば、天海どのに預けるとする」

 菅助どのの問いかけに対し、信玄どのは笑いながらそう答える。

 途端、僕は驚きの声を上げた。


「黒……雲……え、それではこの馬は!」

「ああ。わしの愛馬だ。川中島にも連れて行かなかった……な。だからこそ、いずれ昌幸ともども返しに来ることを待っておるぞ」

 数いる信玄どのの愛馬の中でも、最も有名で最も優れていたと評される馬。

 そして同時に、その気性の荒さ故に信玄どのにしか従わなかった馬。

 それが、今、僕が首筋を撫でているこの黒雲であった。


「さて、他の方々にも甲斐の駿馬を用意しています」

 香坂どのがそう口にすると、彼の部下たちが三頭の栗毛の馬を引き連れてくる。


「ふふ、黒雲がなつかなかった場合に備え、一頭多く用意しておってちょうど良かったようですな」

 当初は小次郎のことを計算に入れていなかったためか、信玄どのは苦笑を浮かべながらそう述べる。

 そして彼は僕へと視線を向けると、改めてその口を開いた。


「次に貴公とお会いする時、どこまで羽ばたかれているか楽しみにしております。黒雲を駆って存分にこの日ノ本を駆け抜けられよ」

「はい。それでは行ってまいります」

 信玄どのに向かいそう述べると、僕は黒雲の背に跨る。

 途端、黒雲は軽く一鳴きすると、そのまま前に向かい駆け出した。


「おいおい、隊長。俺たちを置いていくなよ」

 背後から慶次郎の声が聞こえた。

 その声が耳に入ったのか、黒雲はますます勢いを増して駆けていく。

 この先に続くは、懐かしき京への道程。

 そして同時に誰も知らぬ未知なる歴史。


 もちろんその為の準備は十分とは思ってはいない。

 でもいつかこの時が来ると信じ、僕はこれまで走ってきた。


 さあ覚悟を決めよう。そして踏み出そう。

 足跡の存在しない新しき歴史の一歩目を。

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