第二十三話 バタフライエフェクト

「は? ど、どういうことですか」

 まったく話が見えなかった僕は、戸惑いを隠すことが出来なかった。

 そんな僕に向かい、信玄どのはここに初めて今回の依頼の経緯を口にされる。


「此度の戦にて、上杉方の本陣への強襲を最初に勘づいたのはこの源五郎。その褒美として、二つのものを提案致しました。一つは武藤家の家督を与えるということです」

「今は途絶えたものの武藤家は甲斐の名門。真田家の三男である源五郎に与えられるとは、なかなかに剛毅な褒美にござる」

 信玄どのの言葉を補足する形で、菅助どのは僕に向かいそう告げてくる。

 そして間髪を容れることなく、信玄どのはその言葉を続けられた。


「菅助の申すとおり、わしとしても十分以上な褒美を提案したつもりでした。しかし、この者はもう一つの褒美を望みました。つまり貴方の側で学べるよう、わしが取り計らいをするという褒美を」

「え、いや、ですが……その……」

 先程のやり取りから、それに近い何かであることは薄々察してはいた。

 しかしながら、こうやって正面から告げられると、やはり困惑を覚えずにはいられない。

 すると、そんな僕の内心に気づいてか、信玄どのは矢継ぎ早にその口を開かれた。


「戸惑われるのも無理はありません。ですので、受け入れて頂けますなら、武田家として、天海どのにできる限りの支援を行わせて頂くことを確約いたします」

「少なくとも源五郎にはそれだけの価値があり、更に貴方様の側で学ぶことはそれ以上の意味を持つ。少なくとも、我らはそう考えておるのでござる」

 信玄どのに続く形で、菅助どのの口から告げられたその言葉。

 それはまさに武田家として、僕に対する最高の賛辞に他ならなかった。


 もちろん、僕の中の戸惑いは依然として強く存在している。

 だが同時に、この提案はあまりにも魅力的すぎるものであった。


 僕の眼前でこちらへと尊敬の眼差しを向けてくる青年。

 彼が将来、表裏比興の者と称される比類なき策士へ成長すると、既に知っているが故に。


 だからこそ、僕はすぐにこの申し出を受けることを決意した。

 だが、どうせならば……


「条件というわけではありませぬが、厚かましいながら、僕からも一つだけお願いしたき事がございます」

「ほう、なんでしょうか。この信玄めにできることなら構いませぬが」

 先程の僕の言葉をそっくり返す形で、信玄どのはそう答えられる。

 その言葉を受け、僕は一瞬だけ迷いを覚える。しかし覚悟を決めると、僕は此度の武田行きのその真の目的を口にした。


「今後、仮に私個人が一軍を預かる身となった折、その軍に武田家の軍制を取り入れさせて頂きたいと思っております。その折は是非ご指導頂けますでしょうか」

 諸事情があったとは言え、後に徳川家康でさえ取り入れた武田家の甲州流軍学。

 僕が天の頂きを目指す上で、それは絶対に欠かすことが出来ぬものであった。


 だからこそ、此度の大樹のご命令は、内心で渡りに船と考えていた。

 何しろ目的としていた武田の軍制だけではなく、あの北条の民政もこの目にすることが出来たのだから。


 そして結果的に先日の川中島の戦いを通して、武田家の軍制に関し大まかな全容は掴むことができていた。


 しかしながら、細部に関してはまだまだ不十分。

 そこを如何にして盗み知るかが、僕にとっての現在の課題とでもあったのだ。

 来るべき将来のために、そして天の頂きを目指すために。


 だからこそ、この機を逃すことはできなかった。

 それ故、僕は断られても良い……いや、断られて当然と思いながらも、僅かな可能性に期待して交渉を持ちかけたのである。


 そんな僕の願い。

 それを耳にした信玄どのは、いつの間にかやや険しい表情を浮かべていた。


「我が武田の軍政を……ですか」

「ええ。如何でしょうか?」

「……なかなかに面白きご提案に御座いますな。それをなしてしまえば、我が武田家は貴公相手に丸裸となるという問題はござるが」

 そう口にしたのは、武田の軍制の一端を担う菅助どのであった。

 そんな彼の物言いに否定的なニュアンスを感じた僕は、すぐに言葉を重ねてみせる。



「ですが同時に、もし僕が軍を率いるに至った折、その軍は武田家に対して丸裸同然となります。違いますか?」

 実際のところ、今の僕には固有の軍など存在しない。

 だから全ては未来であり仮の話なのだ。


 それ故、所詮は空手形。

 ならば自らのデメリットを強調してもしすぎることはなかった。


 そうして未だ存在さえせぬ僕の軍の欠点を告げたところで、信玄どのは堪えきれぬと言った様子で笑い声を上げられる。


「はっはっは、なるほどなるほど。互いの首を互いに差し出すというわけですか」

「ええ。と言っても、僕が個人として軍を引き連れる日が来るかは未知数。全ては、もしそんな日が来ればの話にございます」

 僕はそう言い切ると、口元を緩めてみせた。

 途端、菅助どのと信玄どのはお互いの顔を見合わせる。そして隻眼の男が一つ頷くと、武田家の当主はニコリと微笑んだ。


「良いでしょう。お受けしましょう」

「将来において、上杉以上に厄介となりかねぬ天海家と誼を結ぶこと。これは武田家にとって、実に良き話かと思いまする」

「ならばその際は、源五郎に武田の軍政を伝えてもらう役を担ってもらうかのう」

 菅助どのの言葉を受け、信玄どのはその視線を彼の側近である奥近習の青年へと向ける。

 すると、真田源五郎は急なことであったため僅かな戸惑いを見せた。


「わ、私がですか」

「自信がないか?」

「い、いえ。その際はきっとお役目を果たしてみせましょう」

 源五郎はすぐに首を左右に振り、そして力強く答える。

 その彼の言葉には、はっきりとした決意が垣間見えた。

 だからこそ、信玄どのは嬉しそうに大きく頷く。

 

「ならば良し。源五郎、お主も今日をもって父の幸隆の一字を継ぎ、昌幸と名乗るが良い」

「ありがたき幸せにございます」

 信玄どのによって新たに名を授けられたこと。

 その事実に源五郎は、いや真田昌幸は感動のあまり体を震わせながら平伏していた。

 そんな彼の反応を目の当たりにして、信玄は満足げに笑うと、僕へとその視線を移す。


「では、これからも我が武田家、そして昌幸をよろしくお頼み申しますぞ、天海どの」

「承知いたしました。こちらこそ、どうぞ――」

「一大事に、一大事にござります!」

 僕が返事を行おうとしたまさにその時、この海津城の城代が大声を上げながら突然この場へと駆け込んできた。


「どうなされましたかな、香坂どの」

「天海どの。京で、京で異変ありとの由にございます!」

 僕の問いかけに対し、香坂どのは青い顔をしながらそう答える。


「異変? どういうことですか?」

「詳細は不明ですが、事故にて三好実休どのと安宅冬康どのが亡くなられたとのこと。そして同時に政所執事の伊勢貞孝が挙兵。足利将軍家に対し謀反との由にございます」

 脳が受け付けられなかった。

 たった今伝えられたばかりの報告を、そして情報を。

 何しろあまりに大きな狂いが起こっているのだ。

 

「馬鹿な、あまりに早すぎる。それに事故と謀反って……まさか!?」

 そこで一つの仮説が僕の脳裏をよぎった。

 途端、冷たい汗が背を流れていくのを感じる。

 

「天海どの?」

 信玄どのの声が遥か遠くから発せられているかのように感じられた。

 もちろん、それが生じる可能性は常に考えていた。そしてリスクが生じる行動をいくつも取ってきた自覚はある。


 だがその影響を最小限とするために、僕は努力を重ねてきたつもりもある。

 しかし今もたらされた報告は、間違いなくそれが生じたことを示していた。

 それも完全に予期せぬ形で。


「起こったっていうのか……バタフライ……エフェクト」


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