第二十二話 信玄の頼み

 海津城の裏庭。

 そこで僕は何度も繰り返すように、ただ無心で木刀を振るう。


「違う、こうじゃないんだ。この間はもっと……」

 自らが振るった木刀の剣筋に納得がいかず、僕は思わず頭を振る。


 先日、政虎相手に放ったあの剣。

 それを自分のものにしようと、何度も何度も再現を試みていた。

 しかしながら現在のところ、正直言ってその結果は芳しいものではない。


 もちろん、僕の中で明らかな手応えは掴んでいる。

 だがしかし、完全に自らのものとするには、まだ超えなければならないハードルがあることを認識せずにはいられなかった。


 そうして、夢中になって剣を振るい続けていた折、突然背後から渋い男性の声が向けられる。


「精が出ますなぁ、天海どの」

 僕が目にした人物。

 それは既に甲斐へ戻ったとばかり思っていた武田家の当主、武田信玄その人であった。


「これはお恥ずかしいところを。まだこちらに居られたのですか?」

「ええ。典厩寺に信繁と室住を弔ってまいりましたので」

「それは……」

 信玄どのの言葉に、僕は思わず言葉を詰まらせる。

 この度の川中島の戦いにて、信玄どのは実の弟と幼少からの老臣を失っていた。

 それ故に、どう会話を続けたものかと僕が僅かに戸惑いを見せると、信玄どのは穏やかな表情で僕へと言葉を向ける。


「天海どのはお若い。だからお気に病まれておるようですな。ですが、これは武家ならば覚悟しておいて然るべきことにございます」

 信玄どのの気遣いに満ちたその言葉、それに僕は強く感銘を受ける。

 いつもわずかに胃をさすりながらも、決して折れることなく武士としてのあり方を体現してみせる武田信玄という大人物。

 それは、僕に目指すべき一人の武士(もののふ)としてのあり方を指し示しているかのようであった。


「さて、そう言えば天海どの。上杉はあの後、おとなしく越後へ帰ったとのことです。此度はこれにて一件落着に御座いますな」

「そうですか、それは何よりです」

 信玄どのが提示されたその話題に対し、僕はなるほどと思いながら一つ頷く。

 すると、目の前の人物は突然思わぬことを切り出してきた。


「そうそう、一つ天海どのに聞いておきたかったことがあるのですが、よろしいですかな?」

「何でしょうか?」

「敵が本陣に突入してきた後、上杉方が慌てて引いたのは、横山城の上空に狼煙が上がった折。確かそうでしたな?」

 信玄どののその言葉は、まさにただの確認。

 そこから繋げられるであろう本題を僕は色々類推しながら、一先ずは頷いてみせる。


「ええ、そのとおりだったかと思いますが、それが何か?」

「ふむ……いや、一つ疑問がありましてな。あの狼煙が上がったこと、そしてそれが上杉勢への合図であったことはわかるのです。ですがその後、すぐ狼煙が消えたのは変だと思いませぬか?」

「全軍に情報が伝わったと判断したからではないでしょうか」

 僕はわずかに考えた後に、信玄殿の問いかけに対しそう答える。

 すると、今度は別の方角から更なる声が向けられることとなった。


「なるほど、それは確かに一理ありまするな。ですが、本気でそうは思っておられぬでござろう?」

「……菅助どの」

 声の主へと視線を向けた僕が目にしたもの。

 それは城側の方角からゆっくりと歩み寄ってきた、隻眼の老人の姿であった。


「御館様、たった今確認が取れ申した。やはり北条の越後攻めは擬態。既に彼らは関東へとその軍を引いておる由にございます」

「ほう……となれば、あの狼煙が消えたのは北条の撤退を示していたかもしれんな。しかしそうなると些か奇妙ではある」

「ええ、実に奇妙でござるな」

 菅介どのと信玄どのは意味ありげな笑みを浮かべながら、僕の方へチラチラと視線を向けてくる。そしてまだ聞かせ足りないことがあるとばかりに、信玄どのはその口を開いた。


「上杉方が慌てて越後へ戻ろうとするのは、当然最初から織り込み済みであろう。少なくとも氏康は、その程度の事を踏まえず兵を挙げる愚か者ではないからのう」

「然り。となれば、最初から上杉方を撤退させるために彼らは兵を動かしていたようにも見受けられますが……となれば、一層奇妙にござりますな」

 二人のわざとらしいそんなやり取り。

 それは明らかに一つの事実を明かすよう迫るものだということは明白だった。そしてだからこそ、僕は判断を保留して堂々ととぼけてみせる。


「……何か奇妙な点がありますか? 北条家は武田と同盟関係にあり、越後と因縁がございます。それ故、兵を挙げることは自然かと思われますし、ましてや上杉が越後に引いたとなれば好機が去ったとして撤退するのもまた自然なことかと」

「表面的に見ればその通りでしょうな。表向きは北条家と我が武田家は同盟を結んでいるのですから」

 僕の言葉を受け、信玄どのは苦笑混じりにそう述べる。

 すると、菅介どのが意味ありげな笑みを浮かべながら、その続きを口にした。


「しかし北条にとって、武田との同盟は関東の平定と越後への備えにござる。ならば、我らと上杉が正面からぶつかり、ぎりぎりのところまでお互いの力を損耗させることこそが最良の展開であったと思われまする」

「にも関わらず、上杉と武田がまだ余力を残したところで、北条はその動きを示してみせた。これが奇妙でなくて、何が奇妙と言えましょうかな」

 そう述べ終えた信玄どのは真正面から僕を見据える。

 途端、僕は彼らの演出するこの会話に乗ることを決めた。



「確かに見方によれば、奇妙だと感じるかもしれませんね」

「うむ、その通り。物事とは、実に様々なことが複雑に絡み合っておる。その一つの事象をどの位置から見るかで、別の意味合いを持つことは珍しくはないものだ。して、天海どの。そなたの側に付いていた風魔小次郎は、いつその姿をくらましましたかのう?」

 この問いかけが終着点。

 既に彼らが確信を抱いていることは明白だった。

 だからこそ、僕は思わず苦笑いを浮かべる。


「はは、怖いお人たちだ。戦い終えてもまだ刃を隠されませんか」

「つまりそれが答えと考えてよろしいですかな?」

「ええ。小次郎には武田の戦が終わったと、氏康殿のもとへ伝えに行って貰いました。此度のことはあくまで僕のわがまま故、北条家に血を流させるわけには生きませんので」

 そう、これは氏康どのと交わした賭けの支払いだった。

 当時は上杉方の小田原攻めに際して、関東勢の切り崩しの第一歩として成田長泰を引き抜けるかどうかという賭けの。

 そして僕はその賭けに勝利したのだ。

 なぜならば、鶴岡八幡宮で行われた政虎の関東管領就任式に於いて、諍いが起こると予期していたからである。


 藤原北家の流れをくむ名家の成田氏。

 彼の家はかつて源氏の中興の祖である源義家に対してさえも、かつては下馬せずの挨拶が認められていたことで知られていた。

 にも関わらず、乗馬したまま挨拶を行った長泰を、政虎は馬から引きずり降ろし、それどころか烏帽子まで打ち落としたのである。

 そう、後世においても政虎の過ちとして有名なこの歴史的出来事が、見事なまでにこの度も生じるに至った。

 だからこそ、その機を逃すことなく僕は成田長泰へと調略を行ったのである。


 結果として、この調略が上杉方についていた関東武士の離反のきっかけとなったこともあり、見返りとして僕は氏康殿に一つの依頼をお願いするに至った。

 武田と上杉の戦いに際し、空となった越後を狙う偽装を行ってもらうという依頼を。


「やはり貴公が獅子の手綱を握られていた……そういうわけにござるか」

「手綱なんて握ってはおりませんよ。ただ少しばかり借りを返して頂いただけです」

 探るような菅助どのの問いかけに対し、僕は曖昧な笑みを浮かべながらそう答える。

 すると、信玄どのが顎に手を当てながら、しみじみとした口調でゆっくりと言葉を紡いでいった。


「なるほど、借りですか。だとしたら、今度は我が武田家も大きな借りを作ってしまいましたな。しかし参りましたな。天海どのに一つお願いしたき事があるのですが、借りばかり作るわけにもいきませぬし……」

「お願い……ですか。その、もちろん僕にできることでしたら構いませんが」

 目の前の人物が何を望んでいるのかわからないため、僕はやや戸惑いながらそう答える。

 すると、信玄どのの表情は途端に晴れやかなものとなり、彼はその視線を菅助殿へと向けた。


「本当ですか。ならば菅助、今すぐにあやつを呼んできてくれ」

「承知いたしました」

 そう口にして、やや不自由な足を引きずりながら菅助どのがこの場から立ち去る。

 そしてわずかの間の後に、彼は一人の青年を連れてこの場へと舞い戻ってきた。


「真田源五郎、お呼びと伺い参上仕りました」

 そう、この場に姿を現したのは、真田幸隆が三男にしてあの真田幸村の父となる表裏比興の者、信玄の奥近習を務める真田源五郎であった。


「源五郎、昨晩話した件だがいずれを望む?」

「もし可能でありましたら、武藤家の件は固辞させて頂けましたら幸いにございます」

 僕にはわからぬ信玄の問いかけに対し、源五郎はそのような答えを返す。

 すると、信玄の口元にはっきりとした笑みが浮かび、そして次の瞬間、まったく予期せぬ事を僕へと口にした。


「ほう、やはりそうか。ならば……天海どの、ご迷惑かもしれませぬが、しばらく源五郎をお預かり頂けませぬか?」


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