#3 ホワイトアウト





「チーフ。」

「はい。」


舛田ますだ 芳子よしこは、自分でもヘドが出るように演じた。


そうでないと辛くなるからだ。

斜め上から自分をあざ笑う程度でなくてはならない。


彼女は科学者でありながら、詩人ロマンチストでもあった。



「あぁ、分かってるわ。すぐ行く。」



声をかけてきた相手を見て、彼女はなにか用件を思い出したようだった。


舛田は体の向きを戻すと、元の進んでいた方向へ何事もなかったように歩きだした。

そして立ち止まった彼女が手を伸ばしたのは、すぐ右側のドアノブだった。

彼女の履くハイヒールの踵の音が2、3回鳴った。


扉の外は階段だった。

舛田は右手の階段を素早く上り、

次の扉の前に立った。

その扉には「R」と記された白いプレートが付いていた。

屋上だ。


彼女はその扉を開けながら、白衣のポケットの中を探った。

屋上に出ると同時に取り出されたのは、カバーの無い白いスマートフォンだった。


扉は重力によってバタン、と音を立てて閉まり、舛田はそれを放ったまま屋上の真ん中を突っ切った。


屋上の四方を囲む高さ数メートルほどのフェンスに背を預け、彼女はため息をつく。

そこは入り口からは死角になる場所だった。


舛田はさりげなく辺りを見回し、人がいないのを確認すると、慣れた手つきでスマートフォンの画面を操作する。


それを耳にあてると、ワンコールほどで男との会話が始まった。


「ああ、数井かずいくん?」


先ほどとはまた違った、相手を小馬鹿にするような声色で、舛田はそう確かめた。

こちらの方が彼女の本性に近いように受け取れる。


『なんすか。』


電話相手は、至極不機嫌な男だった。

不機嫌というより、無愛想、無関心、といった方が近いだろうか。

その声色からは、それなりに若い男、ということしか判別できなかった。


風の音や車の音、人が会話する声も聞こえるが、ほとんどはそのままノイズとなって彼の声を埋もれさせた。


「今どこにいるの?」

『どこ、って……。仕事中っすよ。渋谷です。』

「ああ、そう。」


舛田は、自分から質問したものの、別段興味はなさそうに相槌を打った。もともと見当はついていたのかもしれない。


「仕事っていっても、昼間でしょう。」


彼女は足を揺らしたり組み替えたりして、つまらなそうに会話を続けた。


『……俺だってあんな仕事ひとつじゃ無いっすよ。そのうち顔は割れて行きますけど、いろいろ噛んでる口ですから。』


どうやら今彼は、“副業”の1つに勤しんでいるようだ。


「ふーん。何足もわらじを履いてるわけね。」


舛田はそう言うと、悪戯っ子よろしく笑った。


『で、結局何の用なんすか。何度も言いますけど仕事中なんで。』

「あら、私だってそうよ。できれば手短に済ませたいところだわ。」

『じゃあそうして下さい。』

「……ふう、最近の若い子は短気ね。」


舛田はわざとらしくそう呟いて、体勢を返した。

フェンスに手をかけ、目下の街を見渡す。


「浅井第3ビル。新宿。」


舛田は吐き捨てるように言った。


「多分次はそこよ。確かあそこにはクリアプレスの下っ端が入ってたわね。」

『……そうっすね。』


数井は至って冷静にそう答えた。

それと同時に物音がいくらか和らいだ。近くの路地にでも入ったのかもしれない。


「そこにあなたたちの下を張り込ませる。」


きっぱりと舛田は言い放った。

数井も勿論予測していた言葉だ。


『…もうだいぶきついっすよ。俺だって下の人間っすから、動かせる金にも人にも、限度があります』

「そんなことは重々承知の上よ。だってそうでしょう。だからこそあなたと組んでるんだもの。」

『……ムカつきますね。』


自分より格下の地位と力しか持たない者と協力することで、自分が優位に立つと同時に、相手が自分に逆らえないという構図を作り出す。

それが、エリート研究員である舛田のような人間が、裏社会でこき使われている下っ端を「ルート」に選んだ何よりもの理由だった。

それはお互いに理解の上だったが、こうはっきりと言われると、さすがに腹が立ったようだ。


「はは、そう?その意気よ。ムカついてるんだったら、見返して見せなさい。あなたがどれくらいの力を持ってるか。そこに限度はあるのか。

まぁどこまで這い上がれるかってことね。」

『……口が上手い女っすね』


這い上がったところで、舛田にとっての自分の利用価値は無くなるだけだ。それが分かっていてこの女は。結局そうやって、相手を弄び、葛藤の中にエネルギーを見出させる。それは自発的なもののようで、計算された彼女からの「エサ」だ。


数井がため息をついた。


『俺は案外居心地がいいんすよ。あんたは上の上の上の方の人間だ。

ウィンウィンを崩すつもりは毛頭無いです。』


同じトーンで、淡々と数井はそう告げた。


「珍しく今日は饒舌ね。」


誤魔化すように舛田は笑い、目線を上の方にあげた。



「じゃ、頼ん…」


舛田が言い切るより先に、数井の方が連絡を遮断した。


舛田は呆れたように肩をすくめ、スマートフォンを白衣のポケットの中に戻した。


ため息を飲み込み、また出入り口へと戻る。

黒いハイヒールの踵の音が、カツカツと高飛車に響いた。

タバコを吸いに来た他の研究員と入れ違いに、屋内へ戻る。階段を降りると、先ほどの部下がちょうど自分の前を通った。


「あれ、チーフ。まだ行かれてなかったんですか。」

「今から行くところ。」

「そうですか。」


この女は、私が遅れたことが自分のミスになるのを恐れているだけだ。

私のことを気にかけているのではない。


希薄な。

そしてまた、愚直だ。


舛田はため息をつき、右手に進んだ。

「応接室3」と書かれたプレートを確かめ、3つ目の扉をノックする。

何かもごもごとした声が聞こえると、ノータイムで中に入る。


「待たせたわね。」


それと同時に、真新しいスーツに身を包んだ若い男は、機敏な動きで立ち上がった。


「あっ、いえ!こちらこそ!わざわざお時間をいただいて、申し訳ございません。」

「あぁ、大丈夫よ。座って。」


舛田は手で男の後ろを示す。

男は、ロボットのようなぎこちない動きで、そのまま1人掛け用のソファに座った。


舛田も、テーブルを挟んで向かい合う形で置かれた、同じ形のソファに座った。


それを見計らったように数回ノックが鳴り、使用人らしき若い女が、扉を開け、姿を現す。

コーヒーを2つ、慣れた手つきで2人の前に置くと、物音を一切立てないまま、「失礼致しました」と消え入るような声で告げ、いなくなった。


それを横目に確認し、舛田はコーヒーに口をつけた。


「まぁ面倒くさいのは置いといて、さっさと本題に入ってちょうだい」

「あ、はい、わかりました。」


男はそそくさと、小脇に置かれた黒い仕事鞄から、書類の束らしきものを取り出した。


「あはは、今の時代に紙?

あぁ、そういえばあなたのところアナログだったわね。ごめんなさい。

どうもこういうところで働いてると、そんなことにばかり目がいってしまって。」


舛田はそう言って微笑んだ。

勿論嫌味だ。

男は戸惑ったまま、乾いた笑いを吐き出す。


舛田は、大手医療機器メーカー「recoverys」の日本支社「リカバリーズパートナー・ジャパン」研究部の研究員で、主に商品の開発、研究、リカバリーズ製品を使用する団体・個人からデータを回収・解析する仕事なども受け持っている。




_______________表向きは。





舛田の所属する、「研究部 第9チーム」は、「第九」と呼ばれる。

その実態は、「recoverys」本社最上層部からの指令で、極秘裏に研究を進める、いわば「暗部組織」だった。


この男の勤める製薬会社「エクスシティ」とは、その仕事の中で連携をとることになった。


男の本名は不明。


一応リカバリーズ周辺には、『篠田しのだ』と名乗っているようだ。


『篠田』は、一見雰囲気は好青年ではあるが、取引相手の情報は最大限掌握するのがメゾットの舛田にも、その最近の“仕事”ぶりすらも掴むことができなかった。

ただ1つだけ聞くことができたのは、彼「らしき」人物の通り名だ。

らしき、というのは、あくまで顔見知りの情報通に聞いた話で、舛田がそれは『篠田』の事ではないかという憶測を立てただけ、という意味だ。

しかし彼女はその情報に確信を持っていた。

女の勘、とでも言えばいいだろうか。その通り名と、いつもその名について回るエピソードを聞かされた時、その時点で2回ほど会っていた彼の顔が浮かんだのだ。







食虫花









彼の通り名はそれだった。


そう恐れられる彼に対しての先ほどの嫌味は、『篠田』への、「牽制」だった。



舛田は冷たい汗を握りしめた。



あの日、握り潰された命。


舛田は嫌というほど知っていた。


「食虫花」という名の、本当の意味を。


もう失うわけにはいかない。

こっちが食べ尽くしてやる。


お前のその無尽蔵な冷徹を。



「あ、あのどうかされましたか?」

「…いいえ。話を続けて頂戴。」



第九が今研究しているのは、エクスシティの親会社「クリアプレス」が開発中の、「インフィニティサイクル」だ。

クリアプレスは、最近では最先端技術を駆使したエネルギー事業に専ら力を注いでおり、インフィニティサイクルはその研究の集大成といえるだろう。

その全貌は明らかになっていないが、

簡単に言えば、


尽きることのないエネルギー


だ。


このインフィニティサイクルを巡るエネルギーは、テラタックスと名付けられている。税金、つまりは公的な価値、力、エネルギーという意味を持っているという。

それほどに力を持つべきであるという開発者側の思いも込められているようで誠に大々的だが、そんな事はどうでもいい。

さて、不滅のエネルギーループなど作り出せるものなのか。

厳密に言えば、完全に同一性のある物質が同じ場所を巡っている訳では無いのだが、まぁ大体同じことが起こっているといえよう。

キラル研究を応用した特殊な多重構造により、タックスは、燃焼時に発生する外部からの干渉で細胞分裂と同じように分解され、「消費されると同時に発生する」ことを可能とした。

それを用いて作られたのがインフィニティサイクルだ。

資源の枯渇が叫ばれる現代では、革新的かつ究極の研究といえる。

未だ発表には至っていないが、完成は目前という事だった。


しかしその研究が、ある日を境に、ピタリと進展をなくした。


まぁとどのつまりは、完成したということなのだが、話では開発チームの中で、大きな派閥抗争が生まれ、発表に至っていないというのだ。果たしてその中身が手柄の奪い合いなのか、裏切り者がいたのか、はたまた科学者としての専門的な話に落ちるのか、桝田のような暗部組織に生きる者にとっては到底興味のないことに見えたが、桝田はうんざりしていた。



そんなわけないだろう。



「今回は、先日もお話ししました通り、御社との提携の中で、ええとまぁ、はっきり言ってしまえば、研究成果の、






______共有を」



彼女は科学者でありながら、詩人でもあった。

そして、詩人でありながら、ただ単純に、純粋に、


科学を愛していた。






濁ったような暗闇の中に、男の影が浮かび上がった。

志賀野しがのだ。


身体の至るところに絡み付く配線コードは、少し指先で触れるとひんやりとした。


「じゃあ数かぞえて。」


よるは消え入りそうな声で、気怠げに数字を刻んだ。一定のリズムは、他の誰かの眠気を誘っているようにも感じられ、馬鹿馬鹿しかった。


視界がぼんやりと、ただぼんやりと翳っていく。景色の端は捻られたように曲がっていく。

激しい頭痛とともに、依は目を閉じた。






「依。」

「にいちゃん。」


兄ちゃん...?


依は、今より幾分か高い自分の声が発した、もう呼ぶことのないような気さえしていたその名に、心の中で首を傾げた。


視界の下方から伸びた手の大きさに、自分の声の高さとも合点がつき、依はまた穏やかな混乱に苛まれた。


これは、自分だ。

小さい頃の。


そして、目の前にいるのは、




にいちゃん、にいちゃん、


自分の意思は置き去りにされてはいたものの、その名を呼ぶことに嫌悪感はなかった。

幼い頃の自分。

まるで記憶がないような時期だ。

それでも違和感は際立った。


目の前にいるのは、


いや。


目の前なんかじゃない。



「にいちゃん」


そう呼ばれた少年は、ただ目の前から、遠くを見るようにして、俺を見た。


いや、俺なんか見てない。


じゃあ、何を見てる?


「依。」


愛おしくて、憎い。


そんな声が、依の耳を突き抜け、再び頭痛が襲った。


明晰夢というやつだろうか。


これが夢だということは、少なからず分かっていた。


次に現れたのは、まだ記憶に新しい、別の風景だった。


俺は、最近の俺だ。

声も低くなって、背も伸びて。


しかし、兄は先ほどと同じ場所にいた。

同じ目で、俺を見ていた。


遠くを見るような、


俺なんか見てないような目で、俺を見る。



「にいちゃん...?」

「依。」


同じトーン。


まるで気持ちのこもっていない、声。


それにすがるように俺は、ただひたすらに手を伸ばした。


あぁ、あったかもな。

こんなこと。


「にいちゃん...」

「依。」





「」



あいにく俺に、読唇術は使えなかった。


俺は、静かに、静かに。




意識は泣くようにして、深く沈んだ。







体が、冷えていく。


「あっ、起きた?依くん、依くん。」


若い女の声。

苦手だ。


明るくて、青くて、なんだか。


俺にはなんだか、



眩しすぎる。




依は、ゆっくりと目を開いた。

体を声の方によじると、神崎かんざきの顔が見えた。


「お疲れ様。無事終わったよ。大丈夫?」


大袈裟だ。

この手の検診は、月に一、二回のペースで受けている。正直言ってもうなんの感情も湧かなかった。

いつもと同じように、検診が行われる診察室に入り、目覚めるのはその隣の、入院患者用の病室みたいな部屋。

今日も同じ。

白い壁と天井と、白いベッド。

目が痛むほど真っ白だった。


「...あぁ、はい、大丈夫、っす。」


全身に蔓延する冗談みたいな倦怠感と、もはや笑えるほどの痛みに、顔を歪める。

麻酔は切れたようだが、まだ眠っていたいと、身体は危険信号を震わせていた。


それでも、伸びをするようにして、寝返りを打ち、神崎から顔を背けると、ちょうどそちら側のドアが開いた。


現れたのは志賀野だった。


「あ、起きた?」


彼は間の抜けた声を上げて、こちらに近づいてくる。

小脇には黒いバインダーのようなものを抱えていた。多分検診の結果やカルテなどの書類だろう。


「まぁ特に問題はない。いやまぁ、それが問題かもね。」


志賀野は飄々と笑うと、バインダーから目線を上げた。


志賀野からの簡単な問診にいくつか答えると、並行して彼がバインダーの上の紙に何かを書き込んでいく。

一通り質問し終えた後、志賀野はその紙を神崎に手渡した。


それを受け取った神崎が、先に病室から出て行く。

志賀野もその後に続いて廊下へ出ていった。


「じゃあね。」


俺はそれをぼんやり見つめたまま、深く息を吐いた。


何であいつ、





あんな顔。






冷たい風が吹くと、なんだか無性に目を閉じたくなる。




「あっ、柏環かしわさん!」


ベンチから勢いよく立ち上がった勝鬨かちどき 早世さよに、多部たべ 柏環かしわはへらりと笑いかけた。


「...お待たせ。」





ファーストページェント。


その名を何で知ったのかは、自分でもよく覚えていない。


だけど、柏環さんがそう呼ばれていることを、僕は確かに知っていて。

そして僕はその呼び名を「機械みたいだ」って思ったんだ。

柏環さんは、研究機関には、柏環さんとは呼ばれない。FPとか、ファーストとか。

個別に呼ばれることすらない僕らに比べ、価値があるってことなんだろうけど、




その価値って、なんだ?




前代未聞の奇病なら、まずはそれにかかった人を調べるってことは当たり前で、それが結局は自分を救うことに繋がる。

嫌がる理由は一つも無い。


柏環さんはそう言って、あの車に乗った。


僕がここに来て、最初の検診の時の話だ。

その時柏環さんにとっては、271回目の検診だった。


柏環さんが研究の対象になっているのは、ファーストページェント、つまり最初の絶喰患者ってことの他にも、理由がある。


親族がいないからだ。


本当は、探せば遠かれど親戚なりなんなり見つかるのだろうが、彼女は元々、児童相談所で暮らしていた。

何があったのかは分からないが、孤児院や児相などの施設を渡り歩いていたようだ。

絶喰になったことが判明したとき、その親族を捜し連絡を入れようとしたが、所在がつかめたそれらしき人物はたったの3人。

そのうち2人は全く連絡がつかず、そのうち1人は彼女との血縁関係を否定した。


つまり彼女には家族がいない。


よって、研究を進めていく中での承諾事項の決定権は、全て彼女自身に委ねられていたのである。

柏環さんはそれら一連のことを淡々と語った。

時に笑いながら、虚しいほどに、淡々と。


前代未聞の奇病なら、まずはそれにかかった人を調べるってことは当たり前で、それが結局は自分を救うことに繋がる。

嫌がる理由は一つも無い。




柏環さんの検診が終わるのは、僕より数時間遅い。


つまりはそういうことだ。



「...お待たせ。」


柏環は小さな声で呟くと、早世の元まで駆け寄った。


「あっ、ダメです柏環さん!まだ目覚めたば かりなんでしょう!?」

「だいじょーぶだよ!そんなことより、寒いのに待っててくれてありがとうね!早世くんはだいじょーぶ?」


そう言うと柏環は、早世の隣に腰掛けた。


「あぁ、僕は平気です。僕が好きで待ってるだけですから。

...って、あっ、好きっていうのはそう言う ことじゃなくてですね!言葉のあやといいますか、その!」

「ふふ、まだ何も言ってないよっ。」

「.........っ!」


悪戯っ子のように笑う柏環から目線を背け、早世は顔を赤らめた。


7時間。

今回は7時間待った。



10時間越えはざらにある。

このベンチで一晩明かして、神崎さんに怒られたこともあった。


それでも僕は、柏環さんを待つ。


頼まれてなんかない。

きっと、必要となんてされてない。


でも、


いつも元気に病室から飛び出してくる柏環さんの、その細い体は、

9年前からずっと変わらないその体は、どれだけ傷つけられてきたのだろう。


死なないから。

そんな理由が、

僕らを傷つけ、

世界を狂わせている。



死なない体を病として治そうとしているということは、死ななきゃならないということ。

でも、

世界中の大富豪が不老を望んで這いずり回っているし、

死にたくないと思っている人が、死にたいと思っている人より少ないわけがないし、

何で彼らは、

死にたくないっていうのに、

いざ死なない体になると、

悲劇にするのだろう。


はっきり言って僕は、

絶喰になれたことを、




嬉しいと思っている。




僕は生まれた頃から病弱で、学校もろくに行けなければ、思い切り外で遊ぶこともできないような少年だった。

持病があるわけではなくて、何か難病に冒されているわけでもない。

ただ体が弱くて、入退院を繰り返して、

いろんな人に心配も、迷惑も、負担かけた。

僕はそんな自分が大嫌いで、

死ななくなった、と聞いた時、

神様を信じた。


それくらい嬉しかった。


あるべきものが、あるべき姿で無い時、

秩序は狂う。


これを病として、全貌と治療の研究が行われている理由は、まぁそういう事なのだろう。


僕は、はっきり言って、治して欲しくなんてない。


でも、ここを出れば、柏環さんと離れることになってしまうから、僕はここにいる。


そうだ、

僕は。

この体が、


〔大好き〕だ。




柏環さんと永遠に生き続ける世界を望んでいる。




恋と呼んではいけない。


決して、恋と呼んでは、いけないのである。






恋と呼んでは、







妙にぬるい部屋は、汚れているようで、またそれが必要なものであるかのように。



「どうして俺が、お前たちみたいな小難しいガキの相手をしてるのか...」


ため息混じりの冠葉かんばの言葉に、朱鳥あすかは淡々と返事をした。


「...はい。」


冠葉はちらりと朱鳥の方に視線をやると、軽く唇を舐めた。乾燥した部屋にこもっているせいか、老父の唇は所々切れていた。


叉守さがみ よる、だったか。お前が気にかけてるのは。」

「気にかけては...別に。」


目線を逸らした朱鳥に、冠葉は呆れて鼻を鳴らした。


「笑わせるな。彼の身辺調査まで頼んでおいて。」

「それは...。

それは、疑わしいところがあったからってだけです。気にかけてやってなんていません。」

「あぁ、分かった分かった。ガキは変に気が立ってて弱るな。まぁどちらにせよ、ここに頼みに来たのは賢明だ。そうだろ?」


冠葉がそこまで言うと、机の上に無造作に置かれていた携帯電話が震えだした。

彼は特に何か操作をするでもなく、朱鳥に、奥の扉を顎で示した。

そこで待っていろということだ。

そこまでは、朱鳥の予測していた通りだった。





現れたのは、黒いエンジニアブーツに黒いカーゴパンツ、黒いTシャツの上に黒いジャンパーを羽織り、黒い手袋をはめた、まさに黒ずくめといった格好の若い男だった。

髪は整ってこそいないが、人並みの長さで、髭もそれなりに剃ってある。

顔立ちは、特に目立ちもしないが、鼻筋の通った、好青年という印象だ。

街中ですれ違っても、目に留まることはほとんどないだろう。

しかしだからこそ、「そういう人間」といえるのだが、それも少々皮肉な話だ。


「お前か。下っ端つうのは。」

「...こっちも渡せる情報には限りがあるんで。契約外の詮索はやめてください。」

「は...っ、そりゃあ失敬したね...。」


冠葉は踏ん反り返ったような姿勢のまま、片手でトントンとテーブルを叩いた。


「手短に頼むよ。」

「そのつもりです。」


そう言うと男は、カーゴパンツのポケットの中から小さな黒い物体を取り出し、冠葉が示したテーブルの上に置いた。


朱鳥は物置の扉を少し開け、外の様子_____冠葉達の様子を伺った。


目線の先は、その物体だ。


冠葉は、横に置いていたノートパソコンに、その物体を挿し込んだ。

どうやら、USBデータの類のようだ。


朱鳥からはそのパソコンの画面______つまりデータの中身は窺い知れなかった。しかしこれは、のちに自分の手元に置かれるデータだ。

自分が冠葉に頼んだ内容からして、その中身は想像のつくものでもある。


「これでもう文句ないっすかね、鈴木さん。」

「ああ、まぁ見た限りはな。 お前が欲しいのは、クリアプレスの下っ端の...?」


鈴木さん。

男は確かに冠葉をそう呼んだ。

偽名だ。


その先の会話は、朱鳥にはよく分からなかった。


ただ、それが取引(ビジネス)であることは確かだった。







今日も彼は、




「...ただいま。」

「おかえり。」



振り向かないままそう言った。



「何、やってんの。」



朱鳥は、滅多に出すことの無いノートパソコンを開いていた。

彼は夕飯には現れなかった。


俺は行ったのに。


依はため息をついて、靴を脱ぎ捨てた。


薄暗い部屋に、パソコンの画面からの光が眩んでいる。

この前何かを書いていた時と同じ、窓に向かったテーブルに座って、朱鳥は慣れた手つきで何やら操作をしていた。





「ちょっとね。」


そんな答えなのは、分かっていた。




依は、今日も屋上に行くつもりだった。


飛び降りるつもり、なのかどうかはわからない。 最近俺、どんどん疎くなってるから。

自分がどんどん、霞んでいくみたい。

遠く、そして、


誰もいない場所へ。



依は、二段ベッドの下の段___自分の寝床の上に脱ぎ捨てられたジャージを手に取り、無造作に羽織った。


そしてまた部屋を出る。




朱鳥は、1人になったのを確認して、ため息をついた。


ポケットから、USBメモリを取り出す。



冠葉から受け取ったものだ。

男が帰ったあと、投げるようにして渡された。


『使い方は、お前に任せるから。』


この他に、使い方なんて。



馬鹿にするように朱鳥は鼻を鳴らし、USBメモリを挿し込み、何回か操作をする。


現れた、見慣れた黄色いファイル。

名前は付けられていない。

朱鳥はそこに、矢印を重ねた。


覚悟なんて、もう彼には、



必要なかった。


小さなクリック音のあと、3秒ほどで、それは画面上に現れた。



朱鳥は静かに息を吐いた。







“叉守 依”








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