#2 ナミダトカスカ





ペンキの剥がれた白い扉の、ドアノブを回す。



扉のプレートには、「質屋」とだけ記されていた。


中に入ると、暖房の効きすぎた乾いた空気の中で、煙草の匂いが鼻についた。

入ってすぐ左手には枯れきった観葉植物。

6,7畳ほどの部屋のど真ん中には大きな机。

オフィスの会議室にあるようなものだ。


剥き出しのフローリングを、部屋の奥にある仕切りまで歩く。


いびきはそこから聞こえていた。


冠葉かんばさん。」


朱鳥あすかの声は、力なく響いた。


目線の先には、パイプ椅子の上で仰け反り、ブランケットのようなものを被った、初老の男の寝顔があった。

冠葉さん______彼・冠葉かんば 八寿八やすはちは、寝苦しそうに身をよじらせた。


「………置いておきます。」


朱鳥はため息をついて、ポケットから四つ折りの小さな紙を取り出した。


それを、八寿八の側に置いてある小さなテーブルの上に置く。

すぐそばには、一本の鍵が置かれていた。


朱鳥は静かにそれを手に取り、外へ出た。



公衆電話から、そちらに行くという連絡を入れたのだ。

だから鍵を開けて待っていてくれたのはわかるが、もう時間が時間だ。

寝てしまうのも無理は無い。

その為に、鍵を用意してくれていたんだろう。

まったく、話を聞く気があるのかないのか。



朱鳥は、夜明けから逃げるように、急いで鍵を閉める。

彼は右手の郵便受けの隙間に、その鍵を差し入れた。

中で微かに金属音がする。

チラシが溜まっているのだろう。紙の擦れ合う音も聞こえた。


朱鳥は肩を竦め、息を吐いた。



七重の言葉が、頭をよぎる。


どうしても気に食わなかった。

七重の思っていることは、だいたい合ってて、少し違う。

まぁどちらにせよ、今更だ。


依と自分は、違う。


できるだけそう言い聞かせてきた。



だけど、




「寒…」


冷たい風が肌を刺す。

もう3月になったとはいえ、夜明け前の街はまだ凍えていた。


仄白く光る空を見上げ、朱鳥は白い息を吐いた。



両ポケットに手を入れ、体を縮めて歩き出す。


本当は、無断で病院を出ることはもちろん禁止だ。

でも、あのボロ施設では、防犯カメラもうまく作動していないし、裏口の鍵もちゃんと閉まらない。

だから、いともたやすく外に出られるのだ。

この時間はみんな寝てるし、唯一俺が抜け出すのに気づいている志賀野もあんなんだから、当然口を出してこない。



「馬鹿だなぁ……。」



誰に向けて言ったのか、自分でもわからなかった。

まぁ大方、そんなやつ初めからいないのだ。


何の親密性も無いルームメイトの姿に、自分を重ねて、怖くなったなんてそんなの、


誰も知らないだろうな。



たった一人の理解者である老父に縋ったって。


孤独な自分に酔って、勝手に感傷的になって。


そんな自分を置き去りにして、まるで何にも知らないみたく微笑んでいる彼らは、恐怖のようだった。


弱者は泣く。


そうさ、いつも泣いているんだ。

弱いと泣く。

そうやって泣くから弱いのか。


数分すると、見慣れた風景の端に、大きな廃ビルと化した、旧南棟が見えた。そこで路地を左に曲がる。裏口から入るには、こちらから向かわなければならない。


心なしか早足になった。

風景が両端に引っ張られるように消えていく。


朱鳥は、小さく鼻をすすった。

風が、スウェットの裾とスニーカーの隙間にみえる、痩せた足首を冷やす。



何だか、泣いてしまいそうな気分だった。



馬鹿の一つ覚えみたいに祈って、祈って、


祈って。


僕たちは、誰が傷つけば気が済むのだろうか。




朱鳥は、向かって右側の塀によじ登った。

裏口の、戸の上辺と壁の隙間に指を差し込み、留め金をずらす。

そこから下に飛び降りると、戸を強く蹴った。


ガン、という鈍い音がして、戸が開く。


古さゆえに、鍵がうまく閉まらないため、留め金の先に付けたチェーンだけで、錠をしているのだ。


中に入り、戸を閉め、チェーンをかける。


一連の動きは、流れ作業のように素早かった。



彼は薄暗い廊下を極力足音を抑えて進む。


寒さは少し和らいでいた。

冷え切った耳朶みみたぶに手をやる。


そのまま階段に着くと、一段飛ばしで上っていった。


朱鳥たちが過ごす寮のフロア、5階に到着する頃には、とてもではないが少し疲れていた。


暗闇にも慣れ、辺りを見回すも、新枝と七重の姿はなかった。



何安心してるんだ。




朱鳥は鼻を鳴らした。






ふらふらと突き当たりまで進み、自室のドアノブに手をかける。


中に入り、同居人を起こさないよう、静かに戸を閉めた。


「あぁー…今日食堂掃除かきっついなぁー…」


大きく伸びをしながら、新枝あらしは声を絞り出した。


午前7時。

旧南棟の朝食の時刻だ。


「結局昨日寝れたの?」


新枝は、あっけらかんとして首を振る。


「いいや。七重ななえも?」


七重は、どこか寂しげに、目を伏せ頷くと、食堂の長テーブルの、1番隅の椅子に腰掛けた。

新枝もその前の席に座る。


目の前には、もくもくと湯気を立てる、朝食らしい朝食が規則的に並んでいた。


有志で食事の配膳を手伝っているという、小学生3人が、キッチンの方から七重に手を振る。

彼女はにこり、と口角を上げ、手を振り返した。


その少女たちの立つ奥に、保育士のようなエプロンを身にまとった、神崎かんざきの姿があった。


晴歌はるかちゃんもさ、なんかかわいそうだよね」


特に何か感じたわけでもなく、七重はぼんやりと呟いた。

忙しそうにキッチンを歩き回る姿が、どうしようもなく小さく見えた。


「え?あー、まぁな。依よりちょっと前に入ってきたくらいだろ?

なーんもわかんねえんじゃね?」


新枝は頬杖をついて返す。


「一般寮のスタッフは患者も普通なんだからいいけどさ、結局人手が必要

なのはこっちじゃん。みんな辞めちゃって、1人だよ?1人。新人1

人。不安なの伝わる。」


新枝は宥めるように苦笑いする。


「まぁな。」


七重は複雑な表情を浮かべて、朝食に目を落とした。


手伝ってくれているとはいえど小学生だ。

みたところ結局は、全部、と言っていいほど神崎が作っている。


料理だけじゃ無い。洗濯とか、部屋の掃除とか、看病とか、話聞いてあげたり、

自分たちのものは、自分たちでやるけど、ちっちゃい子たちの分は彼女も手伝わないとならない。



七重は新枝の眠そうな顔を見つめ、ため息をついた。


「そんなこと、どうでもいいのにね_________…」


小さくそう呟いて、目を伏せた。


「おっ、七重たん、新枝ちゃん。おっはよー!」


突然の明るい声に、びくんと新枝の肩がはねた。

七重の振り向いた先には、淡い茶色のボブヘアーの幼い少女がいた。

親指、人差し指、中指をピンと立てて、高く掲げている。


柏環かしわ。」


七重は驚いた顔をすぐに緩め、微笑んだ。


彼女________多部たべ 柏環かしわはこう見えても、七重よりも2歳歳上で、旧南棟の最年長に当たる18歳。

彼女こそ、最初の絶喰患者である。


しかし体は、「止まった時」の9歳のままだ。


彼女の後ろには、ぺこりと会釈をする、前髪の長い少年がいた。

あどけなさの残る顔立ちだが、大きな背丈にひょろりと長い手足。体の小さい柏環の隣では一層大きく見えた。


早世さよも、おはよう。」

「おはよう、ございます。」


慌ててそういうと、早世さよ_______勝鬨かちどき 早世さよはもう一度小さく頭を下げた。


早世は一昨年旧南棟に入ってきた、柏環と同い年の少年。

もともと病弱で何度か本棟の方に入院していて、その検査の一環で絶喰であることが判明したという。


フレンドリーである反面、いつも固定の誰かと一緒にいることのなかった柏環が、早世からだけはずっと離れない。


同い年だから、なんて簡単な理由ではないと、新枝は思っていたが、

別段そんなことにも興味は無かった。

しかし、自分が入ってきた頃から柏環のことは他と同じように見ることはできなかった。

柏環の笑顔には、「奥行き」が無かった。

だけど、とてもつくり笑いのようには見えない。


地球上で初めて確認された、「融合型不絶物質生命体ゆうごうがたふぜつぶっしつせいめいたいによる細胞異常」、そう、老化せず、つまり成長せず、そして、死ぬ事のないバケモノを生み出す病。あまりにも理不尽な奇病____患者の呼び名は絶喰たく

初めての絶喰患者が、彼女である。


“ファーストページェント”多部 柏環。


そのおかしな「キャラクター」。

あからさますぎる、例えば、空元気みたいな。


新枝にはそうとしか思えなかった。


誰もそれに触れようとしない。

あるいは、気づいているのは自分だけ?


違う。

あれは、気づく気づかないの流動の中にはない。


新枝にとって彼女は、恐怖のように見えた。


自分にとっての恐怖なのではなく、色んな感覚に共通する「恐怖」のような。


とにかく新枝は、柏環が生きてきた、空白の3年間、「2番目」伊勢いせ 朱鳥あすかが生まれるまでの3年間に触れることができなかった。

いや、もしかしたら、朱鳥が現れてから、自分が入院するまでにも、それぞれが過ごした怒濤の日々があったのではないか。


そんなことを考えてしまうのは多分、自分が幼いからだ。


知能や精神、つまり内面は、ちゃんと成長するって、志賀野は言ってたのに。


なんでこんな子供染みた考えしかできないんだろう。

小説の読みすぎみたいな。

結局あの人はそういう人なんだっていう簡単なオチは分かっているのに。


新枝はため息をついて、うつむいた。


「あれ、よるくん…!」


テーブルに目を落としたまま、あくびをすると、七重の声が耳に届いた。


新枝は、何故か顔をあげられなかった。


「はよっす………。」


気怠けだるげで、少しだけ幼く甘いような、もう聞き慣れた声。

そこに悩みの色は見られなかった。


「おー!依たん!おねぼーさんじゃなくなったの!」

叉守さがみさん、おはようございます。」


柏環と早世が、挨拶する声が聞こえる。


新枝はゆっくりと、目線だけをそちらに向けた。


「あ………」


新枝の口から思わず声が漏れる。


依は、いつもとなんら変わりの無い様子で、着崩れた黒いパーカーをTシャツの上に羽織って、裾を適当にまくったスウェットのズボンのポケットに左手を入れている。

若干背中を曲げて、柏環を見下ろしていた。


「今日はなんか、起きられました。」


依は、柏環に向かって、小さく微笑んだ。

柏環は満面の笑みで、片手を依の方に伸ばした。


依はそれに応えるように、徐にしゃがみこむ。


柏環は満足そうに、依の細い黒髪に覆われた頭を撫でた。


「いーこいーこー!みんなで食べる朝ごはんはー、うまうまだよー!」


依は、新枝や七重から身を隠すようにして、テーブルの足の方で、目を閉じた。柏環の小さな手を頭上に感じながら、そっと息を吐いた。


なんとなく体が重い。


依は、寝る前のことをぼんやりと思い出した。


朱鳥だ。

朱鳥の言葉だった。


そりゃああんなこと言われれば俺だって。


寂しいのかな、ってくらい思うさ。




依は柏環の手が離れるのを感じて、立ち上がった。

そして、木の椅子に手をかけると、ゆっくりと座る。




嘘でもよかった。

利用されてるだけだって、それでも良かった。


死ぬことを諦めたわけじゃない。


この不思議な感覚が、どうにも気持ちが悪いのだ。


死にたくない。死にたくないのに、

死ねないと言われると、それも嫌だった。


死ぬことも、死ねないことも、今の俺には、同じくらいの恐怖なのだ。


感情が、言葉が、感覚が、理想が。

煩いんだ。

煩くて煩くて、嫌になる。

この何次元にも千切れてつながった狂った世界から、抜け出したくて、


今日だけを生きていたくなった。


たった、今日だけ。


俺には、今日しか要らない。


明日なんて、昨日なんて、全部捨ててしまいたかった。

今日だけを見ていられるような、そんな空想を描いていたいんだ。


現実逃避も大概な桃源郷。


誰かに、連れ去って欲しかった。


そんな愚かな場所へ。



卓上に並んだ朝食から、湯気が沸き立ち、頬を包む。



隣に飛び乗るようにして座った柏環が、特になんの意図もないように、呟いた。


「依たん来たんだから、今日は朱鳥っちも来るかな?」

「え?」


柏環の言葉を無意識に反芻し、聞き返す。


今日、は…………………。


依は、柏環の顔に視線をやった。


「あの、え、朱鳥、来てないんですか?」

「え、依たん知らないのー?依たんがご飯食べに来ないから、朱鳥っち

も、来てないんだよ?」

「え、だっててっきり……。あぁ、そうなん、ですか…。」


依は、昨日の朱鳥の顔を思い浮かべた。

しっかりとは見えなかったが、あの真剣な目は、少しだけ震えているようで、すぐに崩れてしまいそうな柔なものに感じられた。


なんで。

俺がみんなの食事に顔を出さない事で、どうして朱鳥まで。

依には全く理解できなかった。


「ホントに、俺が来なくなってから?」

「そうだよ。依たんがおねぼうさんと戦って早2週間。いっちども朱鳥っ

ちは顔を出してないの。ご飯にはね。」


柏環がそこまで話し終えると、厨房から、エプロンをたたみつつ、神崎 晴歌がやってきた。


「はーいみんな!お待たせ!じゃー、食べよっか!」


彼女のいつもとなんら変わりのない声に、ほっと息をつく。


新人さながらに、「依くんが帰ってきましたー!じゃーみんなでお祝いに ー、乾杯!」なんてされちゃあ、元も子もなかった。


自意識過剰だろうか。


この人のキャラからして、そんな事をしそうな感じがしていた。


幼い頃、親戚まわりによく言われた。


『大人はね、あなたの何倍も生きてるの。もしその人のこと、自分より頭

が悪いと思っても、大人のことを信じてちょうだい。

大人にはね、大抵のことは戦って、解決する力があるのよ。

だから見くびっちゃダメ。迷惑をかけてるなんて思わないで。』


今考えてみれば、当然のことだった。


馬鹿にするな。なめるな。見くびるな。


そんな言葉は、決して棘のあるものではない。



いくら能力がとある子供より劣っていたって、大人の方が、強いのだ。


子供の知らないところで強いのだ。


だから、信じなさい。



俺は、単純にその言葉に救われていたりもした。


今もだ。


優しい大人を見ると、頼ってしまいそうになるのは、そのせいだ。


無条件に助けてくれる大人が、まわりにいないような少年に、

例え俺を救ってくれる言葉だとしても、そんなこと。


ああ。


無条件でないものを、どうして愛といえよう。

無条件でない命綱を、どうして信じられよう。


俺のまわりには、そんなものはない。


無条件に俺を愛してくれる、助けてくれる大人。


そんなものはないんだ。


だから、幾ら綺麗な言葉でも、いや、綺麗だからこそ、俺にそんなこと、教えないで欲しかった。

持っていない武器の使い方を教わったところで、何にもならないのだ。



神崎の手伝いにまわっていた、3人の小学生組が、バタバタと席に着く。


「はい、じゃあいただきまーす!」


手と手が合わさる音が、高らかに響いた。






「良かった、戻れて。別に平気だった。」


よるは、頬を緩める。


「…本当に?」


白いワンピースの少女_______荒目すさめ 愛忌あいみはため息をついた。


「本当だよ。」


愛忌は表情を変えないまま、依の一挙手一投足を目で追う。

その視線から逃げるように、依は顔を背け、やれやれというように呟いた。


「朱鳥の言葉を、信じたからじゃない。」

「じゃあどうして?」


依は、この少女の名前も、歳も、なぜここにいるのかも、知らなかった。

ただ、彼女はどこか、人間の感性からは乖離した思考回路を持っているように感じていた。

「人間」が、何故その行動を起こすのか、何故そんなことを言うのか、そんな、常人は気にも留めないような、あるいは、成長の過程や本能、文化的な知識によってそれとなく感じ取れるような、

どちらにせよ、この少女はまるで、人間を「観察」し、はたまた「実験」をしているような、人間の本能的な動向を、すべて規則的な、とある一定の条件や効果を踏んだ、ひとえに、英数記号とでも言おうか、そんな形で理解し、習得しようとしている、そんな素振りを見せるのだ。


「分からない。」

「分からない……?」


そこで行われていたのは、お互いの合意の上での交換トレードだった。


依は、愛忌が、「人間の感情」についての“公式”を欲していること、さらにその糧となるものを依から得ようとしていることも、心の何処かで理解し、肯定している部分があった。

こんな抽象的な言い方こそ、彼女は解決しようとするのだろう。


例えばそう、今依が告げた、「分からない」というような言葉。


「何故、分からない………?それは自分のこと………。」


愛忌は、そういう、人間の感情の移ろい、という乱反射に近い不規則な流動も、1つ1つほどき数式に当てはめれば、一定方向、または、ある種の規則に従って流れているものであるから、時間をかけ処理をする事によって、それを1つずつ見て取る、手に取ることが可能だと、

そして、さらにそれが自己の感情であれば、無意識のうちに自己の内側でその処理が行われ、「自分は何故今こんな感情を憶えているのか」ということが分かり得ているものだと、そう思っていた。


というより、そうであれば簡単だったのだ。


もしもそうであったとしたならば、もう直ぐ、“人間の深層心理”という名の、一つのスペクタクルと成り果てた緻密かつ愚かな難問を、外部からの刺激によって、機械的に罵倒することが可能だったのである。


しかし、そう一筋縄ではいかないようだ。

それも、分かってはいた。


が、これぞ人間の普遍的かつ、最大の美であり醜であると言わしめるべき「欲望」なのであろう。


それがまた、少女の心をときめかせるのだ。


ああ、この先には何がある。

この超難問を大いに嘲笑した先に見えるものは、


ああ、一体。


彼女は、そんな、もはや狂信的な知識欲にさいなまれるのであった。


「自分にだって分からないこともある。」


依は半分苛立いらだって言った。


「…………そう。」


愛忌は俯いた。


「…それより、お前はどうなったんだ。この前の検査。」


話題を変えようとそう呟いた依に、愛忌は肩をぴくりと震わせる。


「なんで、知ってるの。」

「……いや、は、なに、泣いて…?」


愛忌の声は震えていた。

依は驚いてそちらを振り向いたが、長い黒髪に隠れて表情は窺い知れない。


「泣いては、いない。だって、悲しくない。人は、悲しいと泣く……。

今はなにも、悲しくない。だからこれは、泣いてるんじゃ、ない。」

「いや、泣いてるだろ…、」


黒髪の先から、何かが滴った。

彼女は確かに泣いていた。


「あなたなら、分かるはず。悲しくない時に、涙みたいなものが、出るの

は、やっぱり私が、」


_______人間じゃないから?



依は、身動きが取れなかった。

そのあとの言葉が、分かっていたからだろうか。


「知らない。けど……。」


依然ぼたりぼたりと床に落とされる水滴は止まっていなかった。

まるで、蛇口を最後まで閉め忘れた時みたいに。

少しだけ、開いた隙間から、規則的に水玉が膨らみ、その重さで、地面に引き寄せられる。

愛忌は、涙の事を、そんな風に思っているのかもしれない。

固く心を閉ざし、毅然として佇むのを忘れ、他人の前で少しだけ、解れてしまった感情の隙間から、甘えようとか、頼ってしまおうなんて、そんな想いが膨らんで、耐えきれなくなった時、溢れ出す。

「水玉」は地面に、引き寄せられるのだ。


だけど、もしもそんな風に思っているとするなら。


それは間違いだ。


依は、自分でも考えたことのなかった、「涙の出る理由」なんてものを、淡々と思い出した。


ここに来てから俺は、一度も泣いていなかった。

泣いてなんかない。


俺は、泣いてなんかいない。


依は、深くため息をついた。


「涙は、悲しい時にだけ出るものじゃない。」


愛忌の上下する肩が、ぴたりと止まった。

依は愛忌に背を向ける。

顔を見られるのが、照れくさかったからかもしれない。


「涙は、涙っていうものは、」


涙っていう、ものは。


「嬉しい時とか、驚いた時とか、安心した時、感動した時、怖い時、あと

はなんだろ、あぁ、わけもなく、出る涙も、ある。」

「わけも…なく……?またそうやって、人間は、曖昧な、事を言ってい

る…。そんなわけ、ない。ただ単に、自分の心の内を……っ、知る

ことが、怖いだけだろうに、愚かだ。」


依には正直、愛忌がなにを思って泣いているのか、分からなかった。

泣きじゃくりながら言った言葉が、どういう事なのかも分からなかった。自分がかけた言葉が、正しかったのかどうかも。

ただ、分かっていた事は、

愛忌は昨日の検査で何かがあったという事。

それと、


愛忌は確かに、今、泣いている、という事だった。


「分からない。じゃあ私のこの涙は…一体……っ?」


依は、後ろから届く愛忌の声を、静かに聞いていた。


それはこっちの台詞だ。

検査でなにがあったというんだ。

ただ、検査の事を口に出しただけで、これほど泣きじゃくるなんて、それ相応の出来事があったのだと推測する他ない。


しかし依は、聞けなかった。





彼女、荒目すさめ 愛忌あいみは、絶喰たくでは無い。


絶喰は、病。

不老不死の、病、だ。


絶喰は、患者。

細胞異常“患者”達が、暮らしているのが旧南棟なのだ。


ではなぜ、絶喰では無い人間がここにいるのか。


それは、


「絶喰であるべきなのに、絶喰でなかったから」。


絶喰にならんとする絶対条件。

それはただ1つ。


永遠虫とわむし”との接触である。


絶喰状態を指し示す、いわば正式な「病名」となるのは、


“融合型不絶物質生命体による細胞異常”。


これが絶喰の正体で、この“融合型不絶物質生命体”に当たるのが、“永遠虫”。


永遠を与える虫である。


虫とはいえど、これは地球上に突如出現したエネルギーの塊、核である。


永遠虫は何せエネルギー、「力」であるため、目視で確認する事はできず、なぜ突然空間に生まれるのかも解明されていない。


ただ、なんらかの方法で、細胞中に永遠虫が発する物質_______これは不絶物質と呼ばれる______を取り込んだ事によって、接触者は永遠虫と融合し、絶喰となるのである。


それは、粘膜を媒介としたものや、皮膚組織の隙間、傷口から侵入するもの、経口的に摂取されたもの、など、様々なパターンがある。

未だ成長過程にある子供達に多く融合するのが特徴だ。


そんな絶喰患者の暮らす旧南棟にいる、1人の少女。




「絶喰であるべきなのに、絶喰でなかったから」。



愛忌は、

永遠虫と接触しても、絶喰にならなかったのである。



「…なんか、されたのか。」



わかりきった事だった。


愛忌のような存在は、絶喰研究の場においては最大の希望だ。


しかし、その「希望」がどういう事を意味するのか。




依は愛忌の方を向けなかった。



科学は進歩している。

それゆえになのかもしれない。

それゆえに、傷つかなくてはならないのかもしれない。


矛盾だ。果てしなく。


彼女の体が、どんな状況にさらされているのか。

彼女の心は、何によって、どうして傷つけられているのか。


容易に想像がついた。


検査。

つまりは実験だ。


本当だったら多分、彼女は生きてない。


でも、研究の為には、生かしておく方をとったんだろう。


残酷だ。モルモットなんて、そんな言い方は、使い古されたものかもしれないが、


そのおかげで俺たちが普通の人間に戻れるようになるのなら、良いのだろうか。


彼女だって、病気だ。

絶喰と同じ。



「分からない…。私は、一体、何………。」


涙は止まったようだった。


「思い出して、泣いたんだろ。検査の事。何もなかったらそんな風になら

ない。何かあったからそうやって…っ」

「やめて。」


愛忌の方を振り向くが、言葉は遮られた。

両手で服の裾がぎゅっと握られていた。


「やめて、欲しい。その話をするのを。なぜかは分からない。けど、嫌。

嫌だ。」

「……は?」

「昨日の事は、もう、言わないで。」


依は、今にも崩れ落ちそうな愛忌の体に、手を伸ばした。

まるで、幼い子供みたいだった。

でも、彼女の背中を撫でる事は、できなかった。


そこまで依は、強くなかった。


「言わないで。何も。」


依は、愛忌の手をさりげなく振りほどき、自室までの道を戻った。


何も言わなかった。

言えなかった。


愛忌がどんな顔をしているかも見なかった。

見ないまま、愛忌を置いて、廊下をひたすらに進んだ。



俺なんかまだ、知らない。


死ねない事を、知らない。


依は、すぐ脇の階段を一段上り、ため息をついた。


それをかき消すように、頭上から声がする。


「あれ、依くん。」


自然と体が縮むような感覚に襲われた。


「あ、すか………。」


いつもと同じ、張り付いた笑顔。

まるで、剥がしてくれと言っているような。


そこまでもが、計算尽くのような。


「今ここにいるって事は________朝ごはん、食べたんだね?」


朱鳥は、胃のもたれるような笑みを浮かべた。


他人事だ。

何を分かったような顔をしている。

見透かされたような事を言われるのが、一番腹が立つ。


というより、こいつ自身に、伊勢いせ 朱鳥あすかという存在自身に、いつも腹が立っているのかもしれない。


依は、ふて腐れるようにつぶやいた。


「お前は……お前は、何でこなかったんだよ。」

「いやぁ、なんかちょっと食欲なくてね。」


あからさまな嘘は、馬鹿にしているようにも聞こえた。


実際少し気まずかった。

それは朱鳥も同じはずだ。

昨日の夜中____いや、今日の夜中か。寝る前に言い合いをして以来、喋っていなかった。


依は、朱鳥の方に視線を向けた。


「毎日、ないのか。」

「え?」


朱鳥が依の方に視線を向ける。


「聞いたんだよ、多部たべ 柏環かしわに。俺が飯食いに来なくな

ったら、朱鳥も来なくなったって。」


多部 柏環。

何だかその呼び方には深い警戒心が張り巡らされているようだった。


「たまたまだね。」


朱鳥は、そう言ってわざとらしく微笑むと、依の横を通り過ぎ、階段を下りていく。


「………っ!」


依は、不意に開いた唇をぎゅっと噛み締めた。


何か言ってやりたかった。

というか、何か言おうとしてカマをかけたはずだった。

だけど、自分でも何を言おうとしたのか分からなかった。


「あ、依くん。」


何かを思い出したように、後ろから朱鳥の声がした。

依が振り向かないのを無視して、彼は続けた。


志賀野しがのさんが呼んでたよ。検診前だからかもね。」


依は力無く階段を再び上り始めた。


「明日までに、事務室に来るようにだって。」


声が消えると、すぐに朱鳥の廊下を歩いていく足音が聞こえた。

依は、ため息をついた。

手すりにもたれかかり、目を閉じると、一気に体が痛み出した。

それだけ気を張っていたということだろうか。


愛忌の泣き顔。

朱鳥の笑顔。


脳裏にぼやりと浮かんだ。


朝食が腹の中で音を立てた。



俺は、生きてなんかないのに。







「ねぇ、数井かずい君?」

「なんすか。」

「もしも、不老不死の体を手に入れたら、どう思う?」


女は、30代後半くらいだろうか。

白衣のポケットに手を突っ込み、座っている事務椅子を回転させて、男の方を振り返った。

こちらは、女より一回りくらい若そうだ。


「なんすかそれ。つまんない質問っすね。」


男は、研究室のような暗い書斎では紛れてしまいそうな、黒の上下スウェットを着ていた。髪も黒く、マスクの白と、パソコン画面からの光を反射する瞳だけが見て取れるようだった。


「まぁ、そう言わないで。嬉しい?怖い?それとも、どうも思わない?」


男は、少し間を置いてから答えた。


「……俺頭悪いんで。そういうの、分かんないっす。」


女は、そう答えるのが分かっていたように、笑った。






「つまらない答えね。」

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