フゼツノタクト

丈野 談

#1 カレトミチカケ



これは実験的な話だ。


都心のオフィス街。高層ビルの最上階。

強く吹き付ける生暖かい風は、

嫌なものばかり含んでいるように思えた。

そんな風の中、少年は1人、うずくまって目を閉じた。


死なないとわかっているのに、なぜ飛び降りることができないのだろう。


何度も言うが、これは実験的な話だ。

ぞんざいな理論、そのまま何処かにしまっておく為に組み立てただけの。別に作品にする気もなかった。


だってみんな知っているのだから。


みんなが作れてしまうプラモデルを、1人で組み立てて、今どこにしまおうかとなんとなく考えている。


そんなことだった。


「とっくに過ぎてるだろ、11時。」


少年は、突然そう言った。


夜11時になると、子供達は自室に戻らなくてはならない。

奇病におかされた18歳未満の子供が生活する、

あづさ記念病院 旧南棟のルールだ。


「気づいた…」


聞こえたのは、か細い少女の声。

夜の暗闇に紛れ、長く伸ばした黒髪が、不規則になびいていた。白いワンピースの上に、カーキグリーンのジャンパーを着た少女は、その真後ろで、少年の背中を見下ろしていた。


「…気づくに決まってるだろ」


何もかもを諦めてしまったように、少年の声は力なく響いた。


「私の誕生日、覚えてる?」


少年は、一瞬少女と目を合わせたが、すぐに目下の夜景へと視線を逃した。


「…悪い。」

「……そう」


意外にも少女は、諦めたように軽く頷き、ジャンパーのポケットに手を入れた。


「寝ないの?」


静まり返った街を眺める少年の背に、少女はか細く問いかける。


「……寝る。けど、」

「あんまり悩み過ぎない方が良い。」


何か言おうとした少年を遮るようにして、彼女は呟いた。


「え?」


目を見開く少年にくるりと背を向けて、少女は階段に続く扉の方へゆっくりと歩いていく。


「」

「…………っ?」


扉のノブに手をかけた少女が、こちらを向いて何か言ったように見えたが、風の音にかき消され、少年の耳には届かなかった。


夜中1時50分。


少年少女は、とある未来を嫌っていた。





バタン、と扉が閉まり、少女の姿は消える。


少年は溜息をついて、小さく伸びをした。

徐ろに振り返って、数十メートル下に広がる、夜中の国道を見下ろす。

車が数台、駅の方へ向かって走っていく。

風俗店であろう店の看板の電飾が、どこか悲しげに点滅しているのが見える。


風がうねりながら目の前を通り過ぎた。


少年は視線を戻し、先ほど少女が出て行った扉まで歩いた。

びついた取っ手を右にひねって、少し力を込めて手前に引く。

金属のきしむ音とともに、少年は屋内へ入る。

暗がりの中、右手に、下の階へと続く階段が伸びていた。

彼は、「節電中」という紙の貼られた自販機の前を横切って、静かにその階段を下りていく。

下の階_____5階へと着くと、自販機の、いささか不気味な稼働音は遠くなり、少年の足音だけが廊下に響いた。

階段を降り、左に曲がって突き当たりまで進んだ右側にあるのが、彼と、あともうひとりの相部屋だ。


トイレと、診察室一つずつ、そして幾つかの部屋を通り過ぎ、

自室である520号室へ到着すると、少年はゆっくりとそのドアを開けた。


部屋中を照らす白色光が目を眩ませる。


少年は、後ろ手でドアを閉め、部屋より10センチほど低くなっている玄関代わりのスペースに、つっかけていた黒の革靴を脱ぎ捨てた。




靴を足先で揃えてから顔を上げると、窓際のテーブルに向かって、

何やら鉛筆を動かす、少年のルームメイト・伊勢いせ 朱鳥あすかの背中が目に入った。


「…お帰り、よるくん。」


背中を向けたまま、朱鳥がそう呟くと、少年_________叉守さがみ よるは、

小さくただいま、と返した。


部屋に上がり、すぐ右手にある扉を開け、中の洗面台の前に立つ。

依は小さく息を吐き、鏡の中に目をやった。

淡白な顔だ、と彼は思った。

最近、滅多に笑っていない。泣いてもいないし、怒ってもいない。

でも、それは毎日が平和だからだと、本当にそう思っていた。


「…15歳、か」


依が小さく呟き、頬に手を当てる。


彼は、周りより幾らか成長が早い方だった。

小さい頃から背は高かったし、人からは実際より少し上の歳にみられた。

だからか、まだ実感が湧かないのである。




自分が成長しなくなったことの。




そんな体になってしまった、14歳の秋の時点で、筋肉は乏しいものの、それなりの背丈はあった。

だから、大して他と自分の体を比べて、「変われない」事実を、強く感じることはなかった。

しかしやはり、これから先のことを考えると、全身に、

何だか嫌な気配が巡った。


彼は、まだその正体を知らない。


死なないなんて、いいことじゃないか。


世界中の富豪が、不老不死を求めて這いずり回っている。


誰もがそんな力を手に入れれば、喜ぶはずだ。


しかし、彼と同じ、「変われない」「死なない」病を持つ、人間達、

絶喰たく”は、ただ一つ、大きな恐怖と闘っていた。


置いていかれる。


自分だけ、時の流れに逆らって、立ち止まってしまう。

その病のくさりに縛り付けられ、前に進むことができない。


そして何より、死ねないこと。

それ自体がとてつもなく恐怖だった。


家族、友達、恋人_________大切な人が、次々に朽ちていき、やがて自分ひとりの世界になる。

自分だけが、別れを抱き続ける痛み。

失うことしか味わうことのできない辛さ。


死ぬことと死ねないこと。


どちらも同じくらい怖いということに、彼らは初めて気づいたのだ。


それ相応の年には死にたい。


だから今はまだ死にたくない。


そんなようなことなのだろうか。


普通の人間なら、死なない体になったことは嬉しいはずだ。

それを貪欲に求める人だっているだろう?


なのに何故、本当に不死を宣告されたとき、別の思いが生まれるのだろう。



彼はまだ、何も知らない。


ただ、不老不死、否、「不変不死」という“病”に侵された自分の体を、

試してみたい、確かめてみたい、と思う単純な興味と、

この体で迎える未来への、まだぼんやりとした恐怖から、目をそらすこと。


依は蛇口をひねり、初春の冷たい水を両手に溜めると、顔を洗った。


その冷たさと瞬間で眼ざめるような感覚に、無意識に息を止める。

蛇口を反対にひねり、右手に置かれていたタオルを手に取ると、顔をこすりつけた。


「……っは」


タオルを顔から離し、堪えきれなくなって息を吸う。


死なないのに、「苦しい」と感じるのだ。

息が必要だ、酸素が必要だ、と。


彼は、何となく右の親指で、左手首を抑えた。

規則正しい鼓動が指先を震わせる。


とてつもなく不思議だった。


死なない。


その定義は、何なのだろうか。


心臓が、止まらないこと。


闇医者は言った。


たとえ刃物で貫かれても、炎に焼かれても、凍らせても、酸素が絶えず、安定して供給される。また、心臓も、求められる働きを、いかなる状況でも遂行する。


まぁあの闇医者の言葉なんて、どこまでが本当かわからないのだが。



「……死なないのに、な。」


依は、脈を取っていた手を離し、呟いた。

鏡の中の自分が、部屋に戻っていくのが、一瞬だけ横目に見えた。

そのまま、部屋の右手にある二段ベッドへ向かう。

その下段に寝転がると、依はテーブルに向かう朱鳥の横顔を見つめる。


少しだけ濡れている頬に触れた外気は、室内といえど凍てつくようだった。


彼は寝転がったまま、片手で靴下を脱ぎながら訊いた。


「朱鳥。寝なくて平気なのか。」

「…まぁね、風邪さえも引かないわけだからね。」

「でも、眠くはなるだろ」

「いや、俺は不眠症だからね」

「……そうか」


このやりとりを何度しただろう。


依は、ため息をついて、寝返りを打った。

真っ白の壁が目の前に現れる。

2時間ほど前にシャワーを浴びた。

まだ3月の初め、男にしては長いと言われる髪が、やっと乾いてきた。

依が寝間着兼ルームウェアにしている、上下紺色のスウェット。

外に出るのに羽織った黒のジャンパーを寝転がったまま脱いで、ベッドの隅に丸めた。


「ねぇ、依くん」

「…何だ」


依は、朱鳥に背を向けたまま、返事をした。

朱鳥が、鉛筆で何かを書いている音が聞こえる。


「死ねない?」


「え?」


唐突な質問に、思わず素っ頓狂な声を上げる。

反射的に朱鳥の方へ寝返りを打つが、彼は先ほどと変わらず薄く笑みを浮かべ、また、さっきから何を書いているのか、その手を止めることもなかった。


「最近帰ってくるの遅いから、気になってたんだよね。」


そう言うと、朱鳥がいきなり手を止めるので、依は身構えたが、

朱鳥はただ何かを書き終わったような紙を眺めるだけだった。


「だからちょっとね。」


朱鳥は、視線を紙に落としたまま呟く。

つくづく変な奴だと依は思った。

しかしそれは自分も同じであるように感じていたのも事実だった。

どういうわけか、絶喰は変人が多い。

というか、この旧南棟_______おばけ寮、なんて言われてるこの建物にいる子供で、まともなのに会ったことはない。


「僕もあったよ。君みたいな頃がね。」


朱鳥は、表情を変えず、視線を紙に向けたまま、淡々と言った。

依は、その様子が、自分の、自分自身でさえもうまく形容できない思いを馬鹿にしているように感じて、そっぽを向く。


「…らしくないな。先輩ヅラなんかして」

「…あれ、嫌だった?この話。」


あからさまに悪態をつくが、朱鳥は、別段動じる様子も見せない。


「……。」

「確かにね、いい話じゃないよね。絶喰である僕たちが、1番考えたくな

いことだ。」


何も答えない依を置き去りにして、朱鳥はさらさらと話す。


「なにが言いたい。」


依は朱鳥の方に視線を戻すが、依然彼は、依の方を見ることはない。

鉛筆を机の上の筆立に戻して、何かを書いた紙を四つ折りにした。


「まぁ悩む必要ないね。

そんな無意味なことしてるくらいなら、

早く帰ってきてほしいな。

退屈なんだよね。1人は。」

「無意味…?」

「早く現実を受け入れなよ。」


朱鳥はそこまで言うと、四つ折りの紙を、ズボンのポケットに入れた。


「どうしたんだよ、朱鳥」

「ははっ、どうするもこうするも、時間の無駄だって言ってるんだ。

死ねないんだよね僕たちは。なんでそれを試す必要がある。」


いつになく強い口調でそう言うと、朱鳥は窓に目をやる。


「諦めろ、少年。」


確かに、彼はそう呟いた。


「…お前に何がわかる」


依はそう言ったものの、この気狂きちがいと口論をしてもらちがあかないと思っていた。

静かに薄い布団をかぶる。


ドアを開ける音が聞こえた。


「…どこ行くんだよ。」

「……おやすみ。」


その声と同時に、部屋の電気が消える。


依はため息をついて、目を閉じた。


ピピッ、という時計の電子音が、26時を知らせていた。






「あー、叉守さがみ よるのこと?」

「ええ。その、やっぱり、何かしてあげたいというか…

でもそれって、ただのおせっかいじゃないかとか…」

「おせっかいだよ。」


白衣の男は、切り捨てるように言い放った。

栗色の髪を揺らして、若い女は身をたじろがせる。


「君も大変だね、そんなにいちいち悩んでたら、胃に穴があくよ」

「だ、だって…!」


君_______神崎かんざき 晴歌はるかは、何か言いたげに男から目をそらす。


「あのね、誰でもあんな時期くるんだよ。君だって、あなたは死なない体

になりましたって言われたら、試してみたくなるでしょう?」

「先生はそう言いますけど、わざわざ傷ついてまで飛降りようなん

て…………。考えられません!」

「それは、君が普通に死ねるからだよ。死ねない化け物になった人間の気

持ちを、君はまだやっぱり理解できていない。

僕だって理解できない。死ぬからね。万物の流れには、何を以ってして

も逆らえない体だ。それが当たり前なんだ。

だから、僕たちは一生あの子らの気持ちを理解することはできないんだ

よ。」


先生________志賀野しがの まことは、特に何か感傷に浸る様子も無く、そんな悲しいことを淡々と言うのだった。


「も、もしそうだとしても……依くん、全然みんなのところに顔を出さな

いし、おかげで昼夜逆転みたいな生活してて…成長期なのに、体に悪い

じゃないですか。」


志賀野は軽蔑するような目で神崎を見、ため息をついた。


「成長期?体に悪い?

もう本当だったらクビなんだからね!彼らは成長もしないし病気にもな

らない!死なない変わらない!何度言ったら……あぁもう!

あのさぁ、冗談抜きでタブーだよ、それ。ガキの前で言ったらもう本当

笑えないから」

「そ、そうでしたね……ごめんなさい…。

でも!ガキとかそういうの、やめてください!

まだ小さい子もいるんですよ中には!

些細なことでも傷ついてしまうんです、多分…あの子たちは本気で悩ん

でるから!」


神崎は、申し訳なさそうに顔を歪めたが、オフィス用の椅子に座る志賀野に詰め寄った。


すると、志賀野はその瞬間すっくと立ち上がって、神崎の言葉を遮るようにまくしたてる。


「ああもう!うるさい!うるさいなっ!!誰だこのど新人送り込んできた

のはー!!あんたほんっとーにバッカだね!!少し考えりゃわかるでし

ょうに!」

「な……っ」


志賀野のメガネが不恰好にずれる。


「同じように接してあげよう、なんでわざわざ思うからいけない

んだ!あっちだってもうそれなりに大人ですからね!自立してんの!見

た目通りの年齢だと思わないでね!馬鹿にすんなはこっちのセリフなん

だよ!!」


終始、神崎を人差し指でさしながら、後ろ向きのまま医務室から出て行った志賀野を追い、神崎も一歩廊下へ出る。


「ちょっと待っ…て!」


もう奥の方に歩いて行ってしまう志賀野の背中に向かって、神崎は叫んだ。


「話を聞けー!!この老眼闇医者がー!!」


すると志賀野は振り返り、あっかんべーのようなポーズをとる。


「黙れちんちくりーーーん!!!」


そう言い捨て走り去っていく三十路直前の白衣の背中を睨みつけ、神崎は歯ぎしりをした。


なんなのあの人、研究者のくせに、ちゃらんぽらんで…。


神崎はぎゅっ、と拳を握る。

その時、先ほどの志賀野の言葉が思い出された。


『あっちだってもうそれなりに大人ですからね!自立してんの!見

た目通りの年齢だと思わないでね!』


志賀野が消えていった廊下の先を見つめる。


だんだんと、喚き声だったその言葉がほぐされて、静かに形を成していく。


体は変わらなくても、あの子たちは日々変わり続けてる。

もがいて、苦しんで、やっと明るい場所を見つける。


その力を、彼らはすでに持っているんだ。


志賀野先生は、それを言いたかった________?




だけど、だけど、飛び降りるなんて、そんなの。


絶対におかしい!



みんなが病気のことで頼れるのはあの人くらいしかいないのに、

もっとしっかりしてもらわなきゃ困るのに。



大体もう、あの人は自己管理がなってないし、足も臭いし、食べ物の好き嫌い多いし、



「神崎さん。」

「へ…っ?」


後ろから唐突に声をかけられ、神崎は肩をすくませる。


「あ、板池いたちさん!」


彼女が振り返ると、目元のホクロが特徴的な、長身の男、板池 蒼司そうしが立っていた。


「こんばんは?おはよう、かな」


そう言って微笑む彼、板池は、志賀野の同僚で、絶喰関係の研究員だ。


「ああそっか、もう金曜日か…」


神崎は、医務室の中の時計に目をやり呟いた。


彼は、普段は隣町の研究所に勤め、毎週水曜日と金曜日に、この場所へ医療スタッフとして訪れる。


時刻は午前2時。

神崎の睡眠時間は午前1時から5時前までの4時間ほどだ。

しかし最近は、患者である子供達の事に思案を巡らせ、睡眠不足が慢性化しつつあった。


この人は、いつ寝てるんだろう?


そんなことを思いながら、神崎は板池の爽やかな笑顔を見つめた。


「またケンカですか?」


板池は、薄く笑みを浮かべながら、子供のように首をかしげた。

茶色い瞳が、くるりと揺れる。


「えーっと…まぁ。」


神崎は、情けなく目をそらし、ため息をついた。

すると板池は、ふっと笑みを漏らし、神崎の頭に手を置く。


「無理しないでください。あの人に聞いてもらえない事は、僕に言って。

そんなに気負いする必要はないです、子供たちの事も。」

「へ…」


板池は神崎の頭の上から手を離すと、廊下の窓の外に目をやった。

木々の隙間から見える西の空に、満月が輝いている。


「世話係1人で大変ですよね。奇病の子供達って、軽蔑されて、

ここ待遇も良くないし。本棟は大金持て余してるっていうのになぁ。」


その言葉に、神崎は唇を噛んだ。


確かにそうだ。


ここの患者は、化け物扱いを受ける、軽蔑の対象だった。

治る見込みのない前代未聞の奇病を抱えた人たちなんて、病院の資産を貪るだけだって、迷惑にされて、

だからこの大病院でも、旧南棟だけは、いい待遇を受けられない。

おかげで施設もボロボロ。

支援員も、最初は6人程度いたのが、この待遇に耐えきれなくなってみんな辞めて、昨年に入った私と入れ違うように、最後のひとりもいなくなってしまった。

つまり今は、スタッフは私のみ。

お金は、志賀野先生たちが勤める研究所の力を借りて、どうにか保ってる。


神崎が顔を歪め、ぎゅっと拳を握った。


例え1人でも、もっとみんなを支えなくちゃならないのに……!


そんなやりきれない思いは、いつも彼女の胸のどこかで渦巻いていた。


そして、それは自分の力不足だと、本気で思っていた。

志賀野の言葉に、初めて気づかされる事ばかり。

結局自分は、彼らの本質を見る事ができていないのだと感じた。

しかし、試行錯誤の日々に、途方に暮れそうになる自分を、奮い立たせるしかなかった。


同時に板池も、自分の無力さに呆れていた。


天才的な頭脳や、才能は持ち合わせていないものの、人として、絶喰寮の子供達や、それに関わる神崎のような人間たちを支えたかった。

そして一刻も早く、この理不尽で途方もない病から彼らを救いたかった。


もし自分が、絶喰であったとしたら。そう考えると、恐ろしくてしょうがなかった。ただただ、救いたかった。


自分は普通の人間だ。いずれ死ぬ。その時も彼らは、いまと全く変わらない姿で、死を、老いを、普通の人間なら誰もが忌み、恐れ、嫌がるそれを、望み続けるのだ。


早く、早く。

早く助けなくては。


板池の焦りは、日を重ねるごとに募る。

そしてもちろん、その思いは板池に限った事ではない。


だが、昨今の絶喰_______「融合型不絶物質生命体による細胞異常研究」においての医療現場に、画期的な進歩は見られていなかった。


彼には、ふと思う事があった。


自分の他に、自分以上に有能な研究員はたくさんいる。

しかし、現にこうして患者やそれを支える支援員とつながっているのは、

果てしなく少数の人間だ。


板池は、自分がその責任を背負っているように思えて、ならなかったのである。


だからこそ、板池は誰より研究に積極的だった。

そして誰より、将来に対して前向きでもあった。


板池は、窓の外から神崎の方へ視線を戻した。


「ああ、そういえば神崎さん」

「はい?」


彼は、小脇に抱えていた鞄から、書類のようなものを取り出す。


「この前言ってた、永遠虫とわむし再現実験の経過報告書です。

先輩……志賀野先生に渡しておいてください。」

「え…」


板池から渡されたそのコピー用紙の束を神崎は両手で受け取った。


「…仲直りも兼ねて。」

「なっ!うぅ…分かりました…。」


意地悪く笑った板池から、神崎は頬を膨らませて目を逸らした。


「あっ、あの、それで…」


神崎は、何かを思い出したかのように、板池の方に視線を戻す。


「そう、その、“永遠虫”ってヤツ、絶喰が生まれる原因になる虫、って、

この前板池さん教えてくれたけど…」


そう言うと、一歩前に踏み出し、息を吸い込んだ。


「私、今は絶喰の子供達を支える唯一のスタッフだから、もっと知ってお

きたいんです…!私、勉強は得意じゃないから、全部は理解できないか

もしれないけど…あの子たちの体が、今どういう風になってるのかっ

て、それがわかったら、もっと良いサポートをしてあげられる気がし

て…」


そこまで言うと神崎は、ハッとしたように後ろに下がり、咳払いをした。


「でも、お仕事に差し支えてしまうようだったら、いいんですけど……」


すると板池は、ふっ、とほおを緩める。


「構いませんよ。でも、今日はもう寝たほうがいいんじゃないですか?」


神崎は、目を見開き、苦笑いをした。


「そうですよね…。すいません……」


そう呟いた途端、欠伸が出そうになるのを慌てて抑える。


板池は鞄を持ち直し、おやすみなさい、と神崎に一言言うと、志賀野が歩いて行った廊下の向こうへ行ってしまった。


「お、おやすみなさい!」


神崎が挨拶を返すと、板池はこちらへ振り向き小さく会釈をした。


その背中も、角を曲がって消えてしまうと、神崎はため息をついた。


板池に渡された書類に目をやる。




“融合型不絶物質生命体 再現実験 第967回”

“結果報告書”




「ゆうごうがた…?きゅ、967………。」


訳の分からぬまま、書類を開く。


部外者が見てもいいのか、と不安に思ったが、それよりも探究心が先立った。


あの子たちを助ける手がかり……にはならなくても、少しくらいの知識はつけられないかな。


書類の活字に目を落としながら1人自室へ歩き出した。





「なーなえちゃん」

新枝あらし……?」


ななえちゃん__________唐澤からさわ七重ななえは、真っ暗な廊下にも目が慣れてきた頃、眠れない夜を1人過ごそうとしていた。


「……眠れない?」

「…なんかね。別に理由わけがあるわけじゃないんだけど」


灰色のパーカーのポケットに両手を入れた、小さな男の子、桟野さんの 新枝あらしは、俯いた七重に背を向け、廊下の突き当たりの窓に目をやった。


「俺も。」


七重は、すぐ側の壁にもたれかかって、ため息をついた。


[520]


目の前には、依たちの部屋があった。


「依くんさ、また飛ぼうとしてんのかな?」


無意識に、そんな言葉が出る。


新枝は窓の外を見たまま興味なさげに首を傾げる。


「さぁなぁ」


七重は、ぼんやりと黒く染まった天井に目をやる。


「痛い?」

「痛くない。」


新枝は、一瞬の隙もなく答えた。


「気持ち悪いよ。ホント気持ち悪い。俺はやっぱ人間じゃねえんだなって

思う」

「……ふーん」


七重はスウェットのまくっていた袖を下ろした。


「迷うなら、やめたほうがいいとは思う。まぁ、好きにすりゃいいけど」


冷たい風が、少し空いていた窓から吹き込む。


「…死にたくないのかな、依くんは。」


七重は身震いをして、その窓をゆっくりと閉めた。


「そうだな。だって、もう2週間くらい経ったもんな…」

「でも、変じゃない?依くん自分の体のこと聞いたの、3ヶ月前くらいで

しょ?どうして今更」


新枝は、窓際の少し迫り出した壁の上に軽々と飛び乗り、座った。


「知らねーよ。いろいろあんじゃねーの?」


七重は、そう、とだけ返し、ただ腕を組む。


そのとき目の前の扉がガチャガチャと金属音を立てた。


少しして、内側から開く。


「おやすみ。」


聞き慣れた、ほんの少し上ずった声と共に、長身の茶髪が現れる。

朱鳥は、後ろ手でドアを閉めると、小さく息をついた。


「あれ、何、待ち伏せ?」


朱鳥は、別段驚く様子もなく、にこりと笑った。


「なんでお前こんな時間に……依は?」


新枝は、何気なくそう訊き、朱鳥の顔を見やった。


「寝たよ?」


朱鳥は、なんでもないように首を傾げた。


そんなことはわかっている。朱鳥は先ほど部屋から出てきたとき、はっきり「おやすみ」と告げていたはずだ。


何か様子がおかしいと思った。


伊勢 朱鳥という人間は、感情を表に出すことはない。

それを探るということは、些か面倒な話だ。


このとき新枝は、暇つぶしのようなものだと思っていただけなのかもしれない。



「…とぼけてやんの。依に何言ったよ?」


新枝は、突き出た壁の上から降りる。


七重は、そんな2人のやりとりを、特に何か感じるという風でもなく、ぼんやりと見つめていた。


「ん?別に?早く帰ってこいって感じかな。」

「あ?」

「あとはねー…えーと、諦めろって言ったかもね。あと何か言ったかなぁ

ー…?」


朱鳥は、斜め上の方を見上げて、指を折った。


その瞬間、新枝の顔色が変わる。


「ねー、ふざけてんの?」


新枝は片手で髪をかきあげる。


「ふざけてんですか。」


彼は訊き直し、じっと朱鳥の目を見つめた。

しかし朱鳥は、動揺する様子も見せずヘラリと笑う。


「“ご機嫌斜め”だね。寝不足はよくないよー。」

「な…っ!」

「じゃ、僕はこれで」


そう言って、朱鳥は階段の方へ歩きだす。


止めたのは七重だった。


「ね。」


しっかりと、彼の右手首を掴み、そのカーゴパンツのポケットに左手を差し入れ、何やら取り出す。

七重の手には、一枚の紙が握られていた。


「何これ。」


七重は、淡々とした、しかし射抜くような目で朱鳥の顔を見上げた。


「……透視もできるの?」


朱鳥は呆れたようにため息をつく。


「やっちゃんのとこ?」

「関係ないよ、七重には。」

「誤魔化さないで。ホントは助けたいんでしょ?」


間髪入れずに七重は手首を揺らした。

依然左手に握られた四つ折りの紙は閉じられたままだ。


新枝は窓の外を眺めた。


立場無いな。


新枝はそれとなくため息をついてみる。


昔から、この2人の間には、他人には分からない何かがあるように思う。


でも、初めて出会ったのはこの病院のはずだ。

歳が近いから?

それだけじゃない。


別にそのことに対して何か感情が湧くわけではないが、

確かに新枝は、そう思っていた。


「なんで助ける必要があるの。あれくらいみんな自分で解決できるよ。」

「違う。新枝とか、自分みたいになって欲しくないからでしょ。」


七重に名を呼ばれ、びくん、と肩が震える。


新枝は、ここに入院し、自分の体について聞いたとき、『死んでみよう』と思った。

ただの興味だと言えば簡単な話だ。

でも今の依のように屋上に向かい、飛び降りた。


全身に寒気が走る。


あの感覚は、自分が人間じゃない、普通の生き物ではないと、強く良い聞かされるようなもの。


あんなことは、するべきじゃない。


受け入れられなくても、試してみようとするものではない。


「試す」ことの意味が、もう正常ふつうではないのだ。


「……」

「いつか、本当に飛ぶんじゃないかって。飛んだら、傷ついちゃうんじゃ

ないかって。それが可哀想で、怖いから。」

「いいから。勝手にさせてくれよ」


そうか。

朱鳥は…………。


俺や朱鳥のように、飛び降りてしまうことで傷ついては欲しくないんだ。


彼はまだ知らなくていいから。


自分が普通の人間でなくなってしまったことの本当の意味を。


「素直に伝えればいいだけじゃん。諦めろ、なんてそんな言い方。

朱鳥が全部話せば、分かってくれるって…っ」

「そんなわけない。」


七重の言葉を遮った、朱鳥の声は震えていた。

怒りに?悲しみに?


七重は、驚いたように掴んでいた手首を離した。

その拍子に紙が落ちる。


「いいだろ、もう。」


朱鳥はそう呟いて紙を拾うと、疲れ切った背中を揺らして、階段の方へ曲がっていった。

その階段を下りる足音が反響する廊下を、七重は新枝の方へ歩み寄った。


「行っちゃった。」


七重は小さく息を吐く。


「もういいんじゃねーの?あんだけ言うなら。

助けようとしてることは、悪いことじゃねーし。むしろやってもらった

ほうがいいっていうか…」


新枝は、タイミングを見計らうようにして、言葉を選んだ。


「違うよ。朱鳥が、なんていうか、助けたいのに、できないみたいな感じ

で。やっちゃんに相談しようとしたんだと思う。」


七重は、朱鳥の感触を確かめるように、自分の右手を開いたり閉じたりした。


「はぁ?なんで助けられないんだよ?」

「それは……。」


一瞬口ごもると、彼女は顔を上げた。


「それは、思い出して、辛いんだよ。自分の時は、助けてくれる人がい

なかった。だからどうしても、素直には助けられないんじゃないか

な。」


新枝は呆れたように肩を竦める。


「なんだよそれ…自分と同じ思いして欲しくないから助けたいんだろ?

もうそれでいいじゃねえか。」

「うーん……新枝みたいに、吹っ切れればいいんだけどね。」


七重はその場にしゃがみ込む。



「朱鳥はまだ、繰り返してるんだよ。」







少年少女の眠れない一夜が、刻々と暁に向かっていた。

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