十字架に背く

陽乃 雪

十字架に背く

朝の温かさが、私を夢から呼び戻す。

軽く伸びをして見上げた窓越しの太陽は、今日も明るくて綺麗だった。


「おはよう」

階段を降りてきた私に、パパは笑顔を向けた。

パパは優しくてかっこよくてなんでも知ってる、私の大好きな人。村外れの崖の上に、私はパパと二人で住んでいる。風に乗ってくる潮の香りが私のお気に入りだった。

朝ごはんを食べた後、私の真っ白で長い髪を梳かしながらパパは言った。

「今日は少し用事があってね、外に出なくちゃいけないんだ。だから今日一日、パパは家にいないんだけど…」


大丈夫。

「おうちからは?」

「絶対出ない!」

わかってる。

「知らない人が来ても?」

「ドアを開けない!」

これが二人の、

「"こわいへや"には?」

「はいらない!」

おやくそく。


「うん、いい子いい子。ちゃんとお留守番してるんだよ?……よし、これでおしまい」

パパに梳かしてもらった髪はツヤツヤでサラサラで、部屋の光を淡く跳ね返していた。

「ねぇねぇ、綺麗?」

「…ああ、綺麗だよ。凄く凄く、綺麗だ」

パパがうっとりしてくれる髪が大好きだった。髪だけではなく、爪も。ぴかぴかできらきらで、パパはいつも綺麗だと言って、優しく撫でてくれた。


「じゃあ、行ってくるよ」

パパは私の頭にぽんと手を乗せてそう言うと、笑顔で家を出て行った。

パパはたまに村に出かけていく。そして食べ物を両手いっぱいに買って帰ってくるのだ。私はいつもお留守番で家から出たこともなかった。でもパパがいつも楽しいお土産話をしてくれるから、それでも全然構わなかった。

私は読みかけの本を手に取り、栞を挟んだページを開いた。



目の奥がむずむずして、涙がぽろぽろ零れ落ちる。こんなに感動する話だなんて思いもしなかった。

涙を零しながら読み終わった本の余韻に浸っていると、

コンコン

突然ドアの音。

「ごめんください。配達に来ました」

私よりほんの少しだけ大人な声。その声は村のミルク屋さんのもので、時々私の家にミルクを届けてくれていた。直接話したことはないけれど、窓越しにお辞儀をしたことは何度もあった。

知らない人が来ても、ドアを開けない

おやくそくはしっかり覚えている。でも彼は知っている人だった。それに今ミルクを貰わないと明日の朝の分がなくなってしまう。

そう思い、私はゆっくり家のドアを開けた。


「あれ、娘さんだ。直接は初めまして。博士はお出かけ中かな?」

「うん。用事があるんだって」

初めての会話にどきどきしながらミルクを貰う。そして別れの間際、あれ、と彼が声を漏らした。

「なんか目の縁がきらきらしてるけど……どうしたの?」

涙を拭ききれていなかったんだ。そう気付いた途端恥ずかしくなり、咄嗟に顔を伏せる。

「本を読んでいたら、つい……」

そう言う私に彼は苦笑して、

「そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに。綺麗だよ?」

そして目に残った涙を指で拭ってくれた。その温もりにどきっとする。

「これでよし。それじゃあ、またね」


その日の夜、パパが帰ってきてからも私は彼が忘れられなかった。どうしてかはわからなかったけど、また彼と話したいと思った。



次の日、私を起こしたのは、玄関からの大きな音と男の人達の野太い怒声。外はまだ暗い時間だった。

「おい博士!いるんだろ?用があるんだ。ちょっと協力してもらおうか!」

「前からこの家はずっと怪しいと思っていたが…まさかあんなモノを隠し持ってたとはなぁ!」

「おら、早くツラ貸せやァ!」

怖さで体が固まる。階段を駆け上がる音のすぐ後、パパが部屋に入ってきて私の腕を掴み、そのまま走り出した。

私は必死でパパについていく。パパが向かう先には、地下室への扉ーー"こわいへや"があった。

「入って!」

パパは扉を開き、私を中へ押し込んだ。

「何も音が聞こえなくなるまで、家から誰もいなくなるまで、ここにいて。音を立てないで、息を潜めて、部屋の奥に隠れているんだよ」

いつものパパからは考えられないほどの早口に私はこくこく頷いた。

するとパパはこう言ったのだ。


「私は君を想っている。綺麗な君を愛しているよ」


今の状況に似つかわしくないくらいの微笑みと優しい声。

その違和感に戸惑っている間に扉は閉められ、すぐ後に重い布の音がした。


その部屋はパパの実験庫のようだった。棚に並んだ液体入りの瓶、積み上がった本、綺麗な石…どうしてだろう。少しだけ懐かしい気がした。

机の上は、麻紐で綴じられた紙の束が一冊置かれているだけだった。乱雑に置かれた物の中、ぽつりとあったそれに再び違和感を覚える。

私が机に近づいたそのとき、

バァン!

銃声が鳴った。

口から漏れた声を手で抑え、大丈夫だと繰り返し自分に言い聞かせる。

深呼吸を大きくひとつ。心を落ち着かせ、一枚目を読み始めた。



「ッ、女はどこだ。アレが肝心なんだぞ!」

「外に逃げたのでは?」

「家の中には居ないようだな…外を探すぞ。まだそう遠くへは行ってないはずだ!」

「ついでだ、博士も連れて行こう。最悪こいつにもう一回作らせればいい」

「今までずっとビンボー暮らしだったんだ。こんな絶好の金ヅル、逃がしてたまるか。ほら、行くぞ!」


遠のく足音。少しすると家の中は完全に静まり返る。私は扉を力一杯押し開いた。捲れたカーペットが埃臭い。

私は静かに廊下を歩き、ドアが無くなった玄関から外に出た。

そのまま向かう先は裏手の崖。その端の端に立ったとき、

「…いた。待って!」

振り返った先に居たのはあのミルク屋さんだった。

「ごめん、僕のせいなんだ。昨日、父さんが僕の手を見ていろいろ問いただしてきて、君とのことを話したら凄い顔で家を飛びだしていって…」

「いいの。もう、何もかも全て」

私は全てを知ってしまった。だから、全てがどうでもよかった。

「…ここで何をしていたの?」

「ここから下に落ちようと思って」

彼の目が大きく開く。

「そんなことをしたら死ぬじゃないか!」

「それでいいの。私は生きていないほうがいい」

「どうして?綺麗な君が…」

「それが嫌なの!」

彼の言葉が切れる。

「あなたもあなたの父親から聞いたんでしょ?言わなくてもわかるわ。信じられないかもしれないけど、あなたが私について聞いたことは、多分正しい」

 

私は、禁忌を破って生まれた、罪あるモノ。

私達が信じる十字架に背く存在。


「だから死ぬの。…ねぇ、何が欲しい?」

私は彼に微笑んだ。

「あなたなら、構わない。私の髪を切ってあげる。爪も全部剥いであげる。涙を零すのだって厭わないわ。ねぇ、何が欲しいの?」

「僕は…」

彼は一呼吸置いてから、真っ直ぐ私の目を見て言った。

「…君の心が欲しい」

今度は私が目を見開く番だった。

「どんな罪でも被る。どんな罰だって受ける。君と共に居られるなら、僕は崖の下にも一緒に行ってあげる」

彼はそう言い、私を優しく抱きしめた。

自然と涙が零れ落ちた。嫌になったそれも、今なら許せる気がした。

風が白い髪を撫でる。顔を覗かせた太陽に私の爪が光る。

その全てを抱いたまま、彼は私に囁いた。


「僕は君が好きだ。君のその綺麗な心を愛しているよ」


強い強い風が、二人の未来を後押しした。




『記録 遺伝子組み換えによる美の追求について』


◯月◯日 実験開始 検体1の組み換えに着手する。

◯月X日 検体12ー失敗 組換えによる腕部欠陥が発生。廃棄。

……

X月□日 検体89ー仮成功 欠損無し。髪、肌、顔立ちも整った個体の生成に成功。確かに綺麗ではあったが、なぜか私の理想ではなかった。廃棄。

………

X月◯日 検体89が理想体でなかった理由を考察。結果、"普通のヒト"では私の理想は満たされないことに気づく。検体89の技術を応用し、検体90の組み換えに着手する。

X月X日 検体90ー失敗 綺麗ではない。廃棄。

…………

□月△日 失敗 廃棄。

□月◯日 失敗 廃棄。

□月X日 失敗 破棄。

失敗 廃棄。失敗 廃棄。失敗 廃棄。失敗 廃棄。失敗 廃棄。失敗廃棄失敗廃棄失敗廃棄失敗廃棄失敗廃棄失敗廃棄失敗廃棄廃棄廃棄廃棄廃棄廃棄廃棄廃棄廃棄廃棄廃棄廃棄廃棄廃棄廃棄廃棄…………

◯月△日 検体389ー成功

組換えにより、毛髪は生糸、涙腺からの分泌物はアクアマリン、20枚ある爪は全て薄いオパールで出来た個体が生成される。

ああなんて綺麗なんだろう。これこそ価値あるヒト、私の理想体だ。

このままポッド内で3000g程になるまで保存。後に取り出し、養育することにする。


大切に生かそう。君を想おう。

綺麗な君を、パパが愛せないわけがない。

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