エピローグ あたしとあなた

 あっさりと、林道蛍は家に帰って来た。

 何もかもが元の通り、とはやはり、いかなかった。

 部屋のインテリアは変わっていなかったが、中身ががらりと変わっていた。本棚にはもともとあった漫画や小説は一冊もなかった。すべてが蛍の趣味ではなかったし、服装も明るい色合いのものばかりになっていた。着て行く服がない、と何度絶望したことだろう。

 歯ブラシや箸など、日用品も一新されていたし、何より、両親の態度の変わり様には、戸惑うぐらいだった。視線が、まったく違った。

 優しく、なっていた。

「どうかしたのか」

 と、父親から声をかけてくるなんて、いったい、何年ぶりのことだろう。

「おはよう。今日はご飯何杯?」

 お代わりなんて、いつもはしないのに、母親は尋ねてきた。そもそも、いつもは食事を自分の部屋で食べていたから、あったらある分、食べて終わりだった。顔さえ、極力合わせることはなかった。

 本当に、自分の家なのだろうか、と落ち着かない。それでもどうにか、話を合わせ、態度を変え、彼女が作り上げた居場所に、どうにかこうにか蛍は落ち着いた。

 彼女のその末は知らない。連絡はない。何も。

 それは即ち、そういうことだ。

 会いに行くほど、仲のよい間柄ではなかった。

「制服、返しに行きなさいよ」

 なんのこと、と思わず尋ねそうになったのを、蛍はどうにか堪えた。これもきっと彼女が残していったものの一つだ。

 蛍はクローゼットから一番落ち着いた色合いのカーディガンを羽織って、外に出た。そのカーディガンのポケットに、そのコンビニの住所のメモが入っていた。なんだか、全部彼女の思い通りのようだった。

 初めて来るコンビニだった。

「いらっしゃいませ」

 と、店員の女性は蛍を見ると、すぐにぱあっと表情を明るくした。

「お久しぶりです。急に辞めちゃうから」

 駆け寄って来そうな勢いで、カウンターの端までやって来た。

「連絡してくださいよ。話したいことがたくさんあって」

 私、山口さんと、とそこまで言って、もう一人の男性におしゃべりをたしなめられた。

「ああ、林道さんか」

 名札には店長とあった。蛍の顔を見ると、たしなめたくせに、軽い口調で話しかけてきた。

「聞いてよ、谷口さんね、山口さんと付き合い出してから、すっかり浮かれちゃって」

 谷口がこの女性、山口はおそらく一緒に働いていた同僚なのだろう。見ず知らずの人の恋話こいばなを聞かされたところで、反応に困るだけだ。

「ちょっと店長!浮かれてなんて」

 顔を赤くして照れる谷口は、確かに浮かれている様子だった。

「そんなことより、林道さんファンのお客様がですね」

 谷口は赤い顔のまま話を変える。

「あたしのファン?」

「はい。最近よく来られるんですけど、若い男の方で」

 あ、と谷口は入り口を指差し、慌ててそれを引っ込めた。

「彼です」

 お知り合いですか、と小声で尋ねる。感じの良い青年だが、一応、ストーカーなどの類ではないか、と想像したようだ。

「ううん」

 蛍は首を振った。

 彼と目が合った。

「覚えてますか、僕のこと?」

 見慣れたスーツ姿、見慣れた不安そうに潤ませた子犬のような瞳。

「またいらしてください」

 彼は言った。

「あの時の、あの言葉を真に受けて、また来ました」

 彼女はあの時、そんなことを言ったのか。

 また、彼女か。彼を蛍を繋いでくれたのは、最初から最後まで彼女だったのだ。

「覚えてる」

 あのことも、そのことも、あなたが知らない何もかもを、知っている。

「初めまして」

 でも、確かに初対面だ。あたしがあたしとして会うのは、初めてだ。

 彼も初めましてと返した。

「なんだか、気になってしまって」

 なんでだろう、と彼は首を傾げる。死期を悟った彼女の、意味深な言葉。彼はその意味を、ずっと考えていたのだろう。

 それは彼女の言葉ではなく、あたしの言葉だ。そこだけは、きちんと主張したい。他の誰でもない、彼女に。ここまでは、あたしの力でやったんだ、と。

 ごめんね、と思った。どこまでも彼女のことを信じている、彼に。心の底から悪いと思った。しかし、反比例するように、喜びが込み上げた。

 ごめんね、と今度は彼女に対して、言った。

「あたし」

 と、続いて出てきた言葉に、彼も、谷口も店長も、蛍自身も凍りついてしまった。とんでもないことを口走ってしまった。しかし後の祭り、冗談でしたと笑い飛ばすタイミングは、もう過ぎ去ってしまっていた。

 まず動き出したのは彼だった。

「こちらこそ」

 よろしく、と彼は言った。彼も少し、変わったようだ。彼女を失って、変わったようだった。以前の彼だったら、自分から一歩踏み出すことなんて、できなかっただろう。

 そもそも、一目合っただけの女性に会いに来るなど、彼の行動力では不可能だったはずだ。

 変わったのだ、生きていくために、彼も。

 動き出した時の中で、また生きていく。

 ひとまずはこの騒々しい店内を切り抜くために、蛍は大きく息を吸った。

 声を出して、動いて、考えて、生きる。

 そんな当たり前を、林道蛍は生きていく。

 死ねばいいのに、とはもう思わない。

 ただ、ほんの少しだけ、あの時、死ねばよかったのに、と思う。

 ここにいるのが、彼女だったら。

 考えずにはいられないだろう。これからもずっと、きっと蛍について回る。

 死ねないな、もう。

 彼女に見られている、そう考えれば、背筋も伸びる。

 今は弱々しくしか、笑えなけれど。

 あたしがあたしでよかったと、心の底から思えるようになるまでは。彼女にも、そう思ってもらえるようになるまでは。

 とりあえず、生きていようと思う。


 林道蛍は生きていく。

 前途多難な人生を、これからも。


 林道蛍は生きている。

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トレイド 木市村 一 @kakip-

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