第4話 生と死
いくつ、面接を受けただろう。そのたびに書き直した履歴書。大学卒業に向けて始めた就職活動よりも、それは難航した。そしてたどり着いた仕事先は、自宅から徒歩二十分の所にある、とても便利とは言えないコンビニだった。まあ、近過ぎず遠過ぎず、働くには悪くない距離だと思う。
近場だと、いざって時に辞めずらいし。
当座の資金稼ぎの場なので、長居する気はなかった。なかったのだが、バイトを見つけるだけでもこれだけ苦労したのだから、キャリアアップにはもう少々時間がかかるだろう。
そもそも、できるだろうか、キャリアアップ。
面接の際に、就職活動をする旨は伝えてあるが、本格的に活動を開始するのは、もう少し先になりそうだ。
バイトが決まったと、もちろん両親にも報告した。
「あら、よかったじゃない」
と、素っ気ない感じで母親は言った。しかしその日の晩御飯はいやに豪華で、見ただけで胸焼けするほどだった。このぐらいで喜ばれると、なんだか逆に、悪い気がした。
「これからが、問題だ」
父親は母親と違い、裏も表もなく、素っ気ない。母親とは違い、喜ばしいという様子は少しも見せない。
「働くというのは、簡単ではない」
バイトであろうとも。それは、当座の資金稼ぎなどと、バイト先を軽んじていた蛍には、少々胸に来る言葉だった。
この二人は、これで結構バランスが取れているのだろう。飴は母親の、鞭は父親の担当なのだ。林道の家とは逆だ、と蛍は思った。糸子の母親は、バイトが決まったぐらいで、夕食のメニューを変えるような人ではない。
まあ、とにかくそんな両親の激励を受けて、蛍は今日もバイト先に向かうのだった。
「おはようございます」
夕方でも、仕事に入る時にはこの挨拶だ。
「あ、お疲れ様です」
「疲れてるのはそっちでしょ」
「ああ、そっすね」
先にシフトに入っていた彼は、疲れた様子も見せずに笑った。
「もうくたくたっすよ」
そう言ってへらへら笑う彼は、大学生の山口だ。確か、今年三回生になったと言っていた。来年には就職活動をするはずだが、明るい髪色からは、まだその兆候は見受けられない。
「引き継ぐこと、ある?」
「ないない。ないですよ。今日なんて、超暇なんで」
超のところを強調する山口。通りかかった店長に睨まれても、山口は気にする素振りもない。
「むしろ俺一人で平気なぐらいっす」
「いや、私にも働かせてほしいんだけど」
潔癖であるつもりはなかったのだが、結局、口に触れるようなものはすべて買い換えるほかなかった。どうしても受け付けなかったのだ。箸やコップ、歯ブラシやボディタオル、口紅などをはじめとする化粧品類。そうやって、身の回りのものを一新したら、ずいぶんとお金がかかってしまった。母親に借金した分を早く返済しないと、洋服を一枚買うにも抵抗がある。給料日はまだもう少し先だった。
「今日も、谷ぐっちーと一緒ですか?」
「気になる?」
店長と、ちらほら見える客の視線を気にしながら、山口と雑談を交わす。
「林道さんも谷口さんも、結構たくさんシフト入れてますよね」
頑張ってるなって、と山口は蛍の質問には答えなかった。
「まあ、私はフリーターだから、働かないとね。谷口さんは、頑張ってるわね、確かに」
谷口は山口と同じく、大学生のアルバイトだ。今年大学に入学したばかりの一回生で、入学と同時に眼鏡をコンタクトに、おさげ髪をストレートに変えた、背伸びの感じが初々しい女の子だ。
「同じ大学だったわよね、確か」
山口と谷口は同じ大学の先輩後輩だ。
「はい、まあ、大学ではほとんど顔合わせないですけど」
学年が違えば、そんなものだろう。
「サークルにも誘ってみたけど、忙しいって断られちゃいました」
「サークルって言っても、ただ飲み会と合コン繰り返しているだけでしょ、その旅行サークルとか言うの」
「旅サーですよ、旅サー」
旅、という所をやたら強調する山口。まあ一応、季節が換わるごとに、どこかに旅行に行っているようだが、活動のほとんどはミーティングという名の飲み会だった。そんなだから、山口はいつも金欠だと言っている。
「彼女をそんな怪しげな団体に誘わないで。あなたと違って真面目な子なんだから」
「俺とは違ってって、なんなんですか」
もう、と山口は口を尖らせる。
「可愛くないぞ」
「ひでえ」
また文句を言い出しそうな山口と蛍の間に、ひょいと顔を出したのは当の谷口だった。山口はぐっと言い出そうとした言葉を飲み込んだ。
「お疲れ様です」
谷口は二人の顔を見ながら、順番に会釈をした。
「お、お疲れ」
「お疲れ様」
谷口は仕事の間、長い髪を一つにまとめている。個人的にはこちらの方が、谷口には似合っているような気がしていた。
「山口さん、上がってください」
引き継ぎありますか、とそんな業務連絡をする谷口。淡々としていてあまり愛想がない。谷口は誰に対しても少々冷めたところがあり、誰に対してもそんな感じだ。だから特別、山口を嫌っているわけではない、と山口本人も知っている。だから、谷口がどんなに他人行儀であっても、山口は気楽に軽口を叩く。
「じゃあ、お先です」
そう言うと、山口はさっさと裏に引っこんだ。
レジの前で、谷口と二人で並んだ。谷口は仕事中、余計な口は開かない。
「林道さん」
だから呼びかけられ時、仕事の話だと思った。
「あの、仕事終わったら、ちょっといいですか?」
「私は構わないけど」
仕事が終わると、いつもさっさと帰ってしまう谷口が、珍しい。時間も時間だし、翌日には一限目から講義があるから、といつも山口の誘いを断っている。
「明日は午前中の講義が急に休講になって」
時間ができたのだという。しかし、それにしても、谷口からお誘いがくるなんて、初めてではないだろうか。
「聞いてもらいたい話があって」
「あら、何か相談?」
「はい、まあ」
「よかったら、山口も誘って」
飲みに行こうよ、と言おうとしたが、それは嫌です、と間髪入れずに断られた。
「ほら、私まだ未成年ですから」
そんな言い訳をする谷口。断ったのは、明らかにそれが理由ではないのがわかったから、そうだったね、と蛍は軽く流した。
あれ、そんなに山口のこと、嫌いだったのかな。
確かにタイプの違う二人だったが、休憩中や、帰りが一緒になった時などには、雑談ぐらいはしていた。その姿を見る限り、それほど嫌そうには見えなかったのだが。
谷口が、上手くあしらっていただけなのだろうか。
もしかしたら、したい話というのは、山口に困っているとか、そんなことなのかもしれない。そうだとしたら少し困ったものだが、やはり谷口が山口に困っているとは、蛍には思えなかった。
まあ、後になってみればわかるか。
「わかった。今日は女子会ね」
谷口はほっとした様子で頷いた。
残念、山口。今度誘うから。
と、蛍は心の中で手を合わせた。
「それで、話っていうのは?」
「はい、あの」
飲まない、とは言いつつ、二人がやって来たのは居酒屋だった。この時間に開いているのは、二十四時間営業のファミレスか、居酒屋ぐらいだったから、仕方ない。焼き鳥と適当につまみを頼んで、二人してジュースを注文した。飲んでもいい、と谷口は言ったが、この体がどこまでアルコールに耐えられるのか、まだ検証していなかったから、今日はいいよと遠慮した。
そうだ、お酒もしばらく飲んでいない。昔は強い方だった。付き合いで飲みに出かけるのも嫌ではなかった。さすがに入院してから飲んでいないが、お酒は好きな方だ。
だから、うん、今日は残念だ。年下の前で、醜態を晒して迷惑をかけるわけにもいかない。
「山口さんの、ことなんですけど」
まあ、そうだろうと思った。蛍と谷口の共通の話題は、バイトのことしかない。大学に進学していない蛍に、学校のことを相談しても仕方がないし、それなら先輩の山口を呼ぶだろう。経験者の方が、まだ頼りになるだろう。
「山口が、どうかした?」
食べてね、と焼き鳥を勧めながら、蛍は尋ねる。
「好きなんでしょうか、私、山口さんのこと」
「うん?」
質問の意味を理解しかねて、焼き鳥をくわえたまま、蛍は首を傾げた。
「私、山口さんのこと、好きなんでしょうか?」
「いや、そのまま繰り返されても」
つまり、谷口は自分の気持ちがよくわからず、悩んでいるということなのだろうか。
「困りますよね、こんなこと言われても」
「まあ、確かに」
蛍は正直に言った。谷口がしゅん、と萎れた気配を見せたので、蛍は慌てて付け足す。
「でも、迷惑ってわけじゃないから。まだよくわからないだけだから」
詳しく、話してみて、と谷口に言う。
「私、暗くて、あんまり友達いなくて」
谷口はいきなり自虐的なことを言った。本当のことなんで、と谷口は照れたように、少し笑った。その笑みは自然で、自虐的には感じなかったので、あえてフォローはしなかった。自分の短所を理解して、割り切っているような感じだ。少なくとも、本人は割り切っているつもりなのだろう。そして、一人でも強くあろうとしているのだ。
そんなのただの思い込みで、谷口の笑みはただの強がりだ。蛍はそう思ったが、そんな本当のことを指摘したって、谷口が救われることはないから、余計なことは言わなかった。
「男の友達なんかいなくて、それ以前に、
林道さんは、林道さんだから、と谷口は言う。バイトの先輩はまた別枠ということなのだろう。
「人を好きになるって、どういうことなのか、よくわからなくて」
「初恋とか、ないの?」
谷口は下を向いて首を振った。
「まあ、まだ若いんだから、そんなこと、悩む必要ないと思うけど」
可愛らしい悩みだと思う。
「それにしても、どうして私にそれを?」
「どうしてでしょう?」
尋ね返したわけでわならしい。わからない、と谷口は首を捻った。
「経験豊富、そうに見えたのと、後は、どうしてなのかな」
わからないです、と谷口は困っていた。まあ、谷口の話からすると、同性の知り合いがそもそも少ないようだから、身近にいた蛍にたまたま白羽の矢が立ったということなのだろう。
今日の本題はそこではないので、深くは追及しないが、人とのコミュニケーションを、あまりとってこなかった子なのだろう。そういうことが苦手な子なのだろう。こういうことは、意識一つで変わるものだと蛍は思う。だからこそ、解決するのが難しい。具体的に、どうすればいい、という解答がないからだ。当たり前のように、他人とぺらぺら話せる人は、そもそも意識なんてしてないから、できない人の気持ちはわからない。わかったような、気になるだけだ。
だから蛍も、谷口の気持ちをわかったような気になっただけだ。解決してやることなどできない。
しかし、きっと、谷口もそんなことはわかっている。蛍が自分に、一筋光が差すような、明確でわかりやすい答えをくれないことなど、きっとわかっている。
誰かに話すということが、谷口にとっては重要なことだったのだ。変わるきっかけを、探しているのだ。まずは、恋心がわかる自分に、変わろうとしている。
だから今日、蛍を誘った。それにだって、勇気が必要だったはずだと思う。それでも、変わらなければならない、と思っているから、こうやって行動を起こしたのだ。
こうやって、恋やら愛やらがわからない、と恥を忍んで尋ねに来たのだ。
やはり、可愛らしい子だ、と蛍は思う。
変わると言っても、替わるわけではないから、蛍と違って、疚しいところもない。
「山口が、好きかって話だけど」
はい、と谷口は真面目に返事をする。
「それは、谷口にしか、わかんないよ」
しゅん、と谷口は萎れる。突き放されたと思ったのか、まあ最後まで聞きなさい、と蛍は続ける。
「わからないけど、谷口がわざわざそんなふうに悩むってことは、何か思い当たる節があるんじゃないの?」
「思い当たる節?」
「一緒にいてドキドキするとか」
「ドキドキします。私、人見知りなので」
「尽くしてあげたいと思うとか」
「誰に対しても、優しい人でありたいとは思っています」
「彼のこと、もっと知りたいと思うとか」
「そもそも彼のこと、あまり知らないので」
もっと深くなんて、まだそんな段階ではない。
「うん、手強いね、君」
すみません、と谷口はまたしょげる。
「謝るようなことじゃないけど。いや、むしろ謝らないで」
これじゃあ、私が谷口を責め立てているみたいだ。そんなふうに思えて、居心地が悪い。
しかし、これはどうしたものか。山口のことを、谷口が好きかどうかだが、こればっかりは本人の気持ち次第だ。谷口の気持ちは、谷口にしかわからない。しかも、色恋に関する微妙な心理状況など、推し量ることは不可能だ、と蛍は思う。
「やっぱり、違うんでしょうか」
「残念?」
だったら、やはり、谷口は山口のことが好きなんじゃないだろうか。しかし、谷口はううん、と唸って首を振った。
「ほっとしたような気がします」
やっぱり、よくわからないんですけど、と谷口は俯く。
「それ」
蛍はびしっと言った。谷口は上目づかいでこちらを見る。
「悪いことしてるんじゃないんだから、下向かない」
「そう、なんですけど」
「みんなが当たり前みたいにやってるから?」
図星なのか、谷口はまた下を向いて、はたと思い出してすぐに顔を上げた。とても素直でいいことだ。
「同じことができない自分は、他の人より劣ってる気がして、気が引ける?」
下を向くことができないからか、谷口の視線はあっちにこっちに泳ぐ。
「同じことがいいこととは限らないでしょ。まあ、恋が悪いことだとは言わないけど。しなくても、生きてはいける」
「でも」
「したいと思うなら、大丈夫。そのうちできるわ」
そうでしょうか、と谷口は半信半疑だ。だから、うん、と蛍は自信満々に頷いた。それで少しは安心したのか、谷口は少し微笑んだ。
「聞いてもらえて、少し、楽になりました」
答えはまったく出ていないけれど。
しかし、その答えは谷口自身が出さなければならない。谷口にしかわからないことなのだから。
「少しは力になれたみたいで、よかった」
と、思う反面、何もできなかったなあ、とも思う。まあ、他人があまり力になれるようなことでもないが。
それにしても、ずいぶんと可愛らしいことだ。谷口も、山口もだ。
きっと、谷口は山口のことが好きなんだろう。初めての感情に戸惑っているだけだと思う。今ここで、はっきりそれが恋だと指摘してやっても、谷口は困惑してしまうだけだろう。だから、自分で考え、気付くように促すに留めた。
きっと空回るだろうから。
谷口には谷口のペースというものがある。
それにしても、恋か。
今日は飲まないと決めたアルコールだったが、なんだか急に飲みたくなった。
彼の顔を思い出した。いや、もう私の彼ではない。藤堂糸子の彼氏でも、すでにない。
彼女から電話があった。時々、様子はどうか、とお互いに連絡を取っている。あの日、お互いに伝えきれなかったこともたくさんあった。色々と情報を交換した後で、彼女から聞かされた。
彼のこと、終わったから、と。
「ごめん、やっぱり一杯だけ」
蛍は谷口に一言断って、アルコールを頼んだ。
彼のことを思い出しながら、それを一気に流し込んだ。
ぞわりと鳥肌が立った。
久方ぶりのアルコール。そもそも苦手だったのか、蛍の体はぞわりと鳥肌を立てた。唖然としてこちらを見ている谷口が、なんだかおかしくて、飲んでみる、と空のグラスを冗談めかして差し出した。
「い、いえ。駄目ですよ」
真面目くさって答える谷口がさらにおかしくて、蛍は声を出して笑った。
どうだ、こちらの生活も悪くないぞ、となぜだか彼女に自慢したくなった。
彼女はどうしているだろう。かつての自分の顔はすぐに思い浮かんだ。
笑っているといいなあ、と他人事のように思った。
「もう一杯飲もうかな」
他人事のように言った。
また来た。
糸子はノックの音を聞いた。誰が来たかはわかり切っていた。足音でわかる。いや、パソコンに繋がったイヤホンは、大音量で音楽を流してる。
本を読む、と母親には言ったが、一冊読んで、結局次の一冊には手が伸びなかった。ネット環境はいっそ、昔より整っているぐらいだったので、糸子の今の時間潰しはもっぱらネットだった。イヤホンで耳をふさぎ、必死の現実逃避。以前の生活と、何が違うのだろう。滋養強壮、体に良いものを食べ、大量の薬を流し込む習慣がつき、早寝早起きが日課となったぐらいが、変化だった。三食きちんと取らないと、食後に薬が飲めないのだ。
蛍は現実を遮断していた。だから、実際は足音もノックの音も聞こえなかった。ただ、糸子はパソコン右下に表示されている、デジタル時計の表示を見ただけだった。
いつも彼は、同じ時間にやって来る。
「入るよ」
聞こえない。しかし、きっと彼はそう言って、ドアを開けた。背後に人の気配があって、さすがに、糸子は音量を下げた。しかし振り向かない。小さくなった音楽と、彼の声が重なって聞こえる。
「やあ、来たよ」
「知ってる」
振り向かないままで会話する。
「何しに来たの?」
「会いに来た」
あんたねえ、と糸子は不機嫌な声を出す。
「わかってる?あたしたち、別れたのよ」
「別れたけど」
それがどうしたの、と悪びれる様子もなく言う。
「それがどうしたの?友達が会いに来ちゃいけない?」
「友達でもないとしたら?」
「ただの知り合いだって、例えば知り合いじゃなくたって、それは君に会いに来ちゃいけない理由になるの?」
あまりの言い草に、言葉を失ってしまう。知り合いじゃない人間が、自分の部屋に上がり込む状況とは、と考えるだけでぞっとするというのに。
糸子は諦めて、やっとイヤホンを外した。回転する椅子をぐるりと回し、やっと彼の顔を見た。
「久しぶりだね」
「一昨日ぶりでしょ」
彼、いやきっぱり別れたはずの元彼、直希はこのように、すっかり開き直ってしまっていた。しばらく音沙汰がないと思ったら、ひょっこりと顔を出し、このような態度だ。それからしばらく、毎日同じ時間にやって来るようになった。毎日来るなと言ってやったら、一日おきに来るようになった。それからは糸子も諦めて、もう何も言わない。できる限り無視すること以外、糸子にできることはなかった。
母親は昼間パートで留守だし、父親も仕事に行っている。彼を阻む人はいない。もちろん、自宅の玄関には鍵がかかるし、母親は家を出る時に鍵を閉める。しかし直希は何故かこの家の鍵を持っているのだった。
一度、鍵の件について母親に問い質した。母親の回答は、何かあった時に、すぐに駆けつけてもらえるように、とのことだった。しかし直希と別れたことを知っているはずなのに、未だに鍵を回収しないのは何故なのだろう。
彼は、そこまで信用できる人間なのだろうか。悪い人間ではないだろうが、あまり頼りになるとは思えない。しかし、直希は今、両親の信頼を完全に悪用していた。
「今日は何してたの?」
「いつも通り」
ネット、とパソコンの画面を差す。
「楽しい?」
「別に」
特に、楽しいわけでもない。これはただの暇潰しだ。死ぬまでの、時間潰しだ。
「だったら出かけない?」
「出かけない」
外出は歓迎されていない。母親からも、勝手な外出は控えるように言われている。しかし、直希となら話は別らしい。本当に、おかしいぐらいの信頼のされ方だと思う。
糸子の前で見せる顔と、母親に見せる顔は、きっと違うに違いない。
案外、強かなのかもしれない。
とにかく、迷惑極まりなかった。きっと一日おきに来るなと言えば、二日おき、次は三日おきに来るのだろう。
「ねえ、あなた暇なの?」
「うん、まあそれなりに」
「友達いないの?」
「あんまり」
「仕事は」
「あんまり」
「あんまりって何よ」
「あんまり忙しくない」
「そもそも、仕事って何してるの?」
「知ってるでしょ」
少し、ふて腐れたように言った。
「あなたの口から聞かせて」
だってあたしは知らないから、と本音は隠して。怒っているように聞こえたのか、少し怯んでいるようだった。
「本屋で、バイトしてる」
「バイト」
別に馬鹿にするつもりはなかったのだが、直希にはそう聞こえたようだ。
「わかってるよ。今のままじゃ駄目だって。でも、僕は自信がない」
その気持ちはわからなくはない。給料分の仕事とは、と糸子は考えてしまう。そんなことを考えて、バイトさえ、ついに自分にはできなかった。自給八百円の価値が、自分にはあるのか、と。
誰かに言わせれば、それは馬鹿らしいことらしい。働きたくない言い訳らしい。
自信がない。自分を信じられない。それは、働きたくない言い訳らしい。らしい、らしい、と誰かに直接言われたわけでもない言葉が、糸子を責める。
反論したい、と糸子は思う。言い訳ではない、本当に自分に自信がないのだ、と思うのだけれども、そんな自分の意見だって信じられないから、結局口を閉ざす。すると、やはりその通りなのだろう、ぐうの音も出ないだろう、とその誰かは言うのだ。
自分を信じて生きている人にはわからない。
きっと、彼女にはわからない。
しかし、糸子には直希の気持ちがわかってしまった。わかってしまったから、どんどん、離れがたくなってしまう。
彼女は、彼とは離れなければ駄目だと言った。彼を駄目にすると彼女は言った。
しかし、糸子は逆だと思う。今彼と離れれば、駄目になってしまうと思う。自分を信じられない彼から、信じる相手まで奪ってしまったら、直希は一体何を信じればいいのだろう。
最終的には、糸子は彼から離れるべきだと思う。それは、彼女に同意する。しかし、今すぐばっさり切り捨ててしまうことには反対だった。
このままでは、糸子の後追い自殺でもしかねない。
まったく、やっかいだ。
どうして彼女はこんな彼と付き合っていたのだろう。男の趣味が悪い、悪過ぎる、と彼女の趣味を内心でこき下ろして、改めて直希を見た。
顔は悪くない。少々小柄だが、可愛らしい若者だ。糸子と同じ大学に通っていたはずだから、頭も悪くないはずだ。
彼には何が足りないのだろう。なかなかいいものを持っているはずなのに、直希は自信がないと言う。
自信をつけるには、どうすればいいのだろう。糸子もないから、よくわからない。
ああ、だからか、と糸子は思う。だから直希は糸子にべったりくっ付いて離れないのだ。自分ではわからなことだから、糸子に頼る。君なら知っているでしょう、と彼女に答えを強請る。
しかし、今の糸子にいくらかわいく強請ってくれたとしても、直希が知りたいことを知ることはできない。だって今の糸子には、自信がないから。
馴れ合うのも、悪くはないと思ってる。もたれ合って、それでも一緒に歩いていけるなら、それはそれでいいと思うのだ。
しかし、糸子と直希では、そうはいかない。
糸子は間もなく死ぬのだから。
だから、直希には一人で立って、一人で歩いてもらわなければならない。悪いが、一緒には歩いてやれないのだ。
「社員登用制度とか、ないの?」
その職場、と糸子は尋ねる。そういうのが世の中には存在するらしい、と噂には聞いている。
「ある、らしいけど」
あまり興味がなかったから、とそれは嘘だろう。要は、ただただ自信がなかったのだ。
「一回、調べてみたら?」
そこの職場が好きなら、と言ってみるが、直希は見るからに乗り気ではない。
「嫌なの?」
「嫌じゃないけど」
嫌じゃないけど、自信がない。それはつまり嫌だということではないか。
「なんでもいいけど」
あたしはあなたのことなんで、どうでもいいけど、と直希を突き放す。
「あなたは一人で生きていかなきゃいけない」
どの口で説教するのか、と思う。その言葉は、そっくりそのまま自分自身に返って来た。
一人で生きていく。それがあの時できていたら。
そもそも、ここにはいないのだから。
そうしなければならないとしても、どうできないこともある。一人で生きろと言われても、それが言うほど簡単でないことを、糸子は身を持って知っていた。
それでも、強要でも、強制でも、させなければならない。
「でも、僕は」
「自信があろうとなかろうと、どうだっていいのよ」
それでもやるのよ、と無茶を言う。そうすることしかできない。彼女なら、もしかしたら、もっといいアドバイスができるのかもしれないが、糸子にはできない。
「やりなさい」
きつく、命令することしかできない。
「やったらさ」
直希は言う。
「社員にさ、正社員になったら、また僕と付き合ってくれる?」
「あなたね……」
あまりの馬鹿らしさに、言葉を失った。
「あたし、もうすぐ死ぬのよ」
「わかってる」
「わかってないと思うけど」
実の所、糸子自身、よくわかっていない。死の実感、命が尽きていくような感覚は、まだない。
「わかってるよ」
直希の言葉ははっきりしている。自信があるようだった。医者でもないくせに、どうしてそう言い切れるのか。
「それでも、僕は最後まで君の隣にいたいんだ」
なんて感動的なセリフだろう。彼女が聞いたらきっと、涙を流すだろう。真っ赤な他人である糸子でさえ、少しばかり、ぐらりときた。
ここで拒否したところで、結局、直希は糸子の傍を離れないだろう。恋人でなくても、友達だから、知り合いだから、と理由をつけては会いにくるだろう。
「考えてあげてもいいわ」
どちらにしろ、結果が同じなら、少しでも彼をやる気にさせるようなことを、言っておこうと思う。
「あなたの頑張りが見れたら、いいわよ」
また、付き合ってあげても、とこんなに上から言われて、直希は腹が立たないのだろうか。直希は素直に嬉しそうだった。約束が反故にされるなんて、少しも疑っていないようだった。
良心が痛む。
彼を裏切って、二人の良好だった関係に、ヒビを入れなければならないことに。
自分にできないことを、彼にやれと強制しなければならないことに。
まったく、損な役回りだ。大人しく、深窓の令嬢として、ベッドに転がっていればいいと思っていたのに、どうやらそんなわけにもいかないようだ。
「僕、頑張るよ」
と、気合を入れる直希。
ごめんね、と糸子は心の中で謝った。
こんな半端な結果になってしまったことを、彼女と彼に、心から。
ごめん、と蛍は心の中で谷口に謝った。
「二人で飲みに行った?」
「そんなに怒らないでよ」
二人で顔を突き合わせた休憩室。今は糸子の休憩時間だった。店内には、谷口と店長が出ている。そこにたまたまシフトの件で話がある、とやって来たのが山口だった。
会えばまあ、世間話ぐらいはする。それでつるりと、口を滑らせてしまってこの結果なのだ。
「どうして誘ってくれなかったんですか!」
「いや、だって」
誘うおうとしたさ、私は、としかしそれは言えない。言ってしまえば、誘わなかった理由を話さなければならなくなる。その理由は、山口にだけは絶対に言えないことだった。
しかし、こんなに怒るなんて。
予想外だった。羨ましがるだろう、とは思っていたが、怒り出すとは思わなかった。
「俺が誘っても断られてばっかりなのに」
それは初耳だった。
「何それ、私誘われたことないけど」
あ、と山口は気まずそうに目を逸らす。
「まあ、いいじゃないですか」
よくはないけど、と釈然としないがまあいい。
「だから、たまたまよ。たまたま。タイミングが合わなかっただけ」
墓穴を掘ってしまったからか、山口は渋々と納得した。
「今度は誘ってくださいよ」
「お互いにね」
山口は引きつったように笑って、話を変える。
「谷口さんと仲いいんすね」
「うん、そうかな」
まあ、それなりに、だ。
「俺よりはいいでしょ」
「だって女同士だし」
「女同士か。俺は男として意識されてるんでしょうか」
おや、と思う。
「あら、そんなに谷口にご執心だったの?」
山口は、ううんと唸った。
「なんかね、仲良くしたいんですよね」
男性が女性に向ける好意と、それは違うのだろうか。少なくとも、山口は違うと感じているようだった。
「俺の周りにいる奴らとタイプが全然違ってこう、真面目で」
「真面目な人がタイプなの?」
「タイプっていうか」
山口は言葉に詰まっていた。
「俺、谷口さんに嫌われてるんですかね?」
「ずいぶん、自信ないのね」
「自慢じゃないですけど、コミュニケーション能力は高い方だと思うんですよ、俺」
それはどうだろう、と蛍は思う。確かに人見知りはあまりしないようだけど、それと人と上手くコミュニケーションをとれるかどうかは、また別の能力だと思うのだ。初対面の人にも物怖じしないのは認めるが、山口は誰かと深く繋がることは苦手な様子だった。友達も多いようだし、本人にその自覚はないのかもしれないが。
確かに、谷口とは真逆だ。谷口は人見知りをするし、友人も多くない。しかし少ない友人と、深く長く繋がっている。そんな感じだ。
なるほど、山口が谷口に興味を持ったのは、自分にないものを持っているからか。人との深く、長く、堅い繋がり。
「でも、谷口さんとは、こう、上手くいかなくて」
そうだろう。谷口は山口とは違い、気楽に人と接することができないのだ。相手のことを真面目に思いやるあまりに、発する言葉一つ一つにまで気を回してしまう。その結果、口を利かないことを選んでしまうのだ。黙っていれば、少なくとも、相手を傷つけることは言わない。近づいて、何かの拍子に傷つけてしまうぐらいなら、最初から近づかない。
そのあたりの、谷口の心情が、山口にはよくわからないのだろう。そして、谷口もまた、山口の考え方が理解できないのだ。簡単に人に近寄っていく態度が、谷口には少し、軽薄に見えるのかもしれない。そして、自分にできないことを簡単にやってしまう山口を、うらやましい思っているのだ。そういう羨望とか、嫉妬が、少し態度に出てしまっているように、蛍には感じられた。そんな谷口の態度を、最近の山口は少々冷たいのではないか、と感じているようだった。
「普通に、喋りたいだけなんですけどね」
珍しく、思い悩んでいるようだ。
「だったら普通に喋ればいいじゃない」
谷口には時間が必要だ。自身に生まれた初めての感情に戸惑い、そして山口から向けられている感情にも、谷口は戸惑っているのだ。
時間さえあれば、案外この二人は上手くいくかもしれない。お互いに、待つことができればだが。
しかし山口のこの様子だと、それは少し難しいかもしれない。
「まあ、時間をかけて口説き落としなさいよ」
時間をかけて、か。少し前の自分なら、考えられないことだった。
「口説くとか、そんなんじゃないですって」
まあ、頑張りますよ、と最後山口は笑って帰って行った。
「山口さん、来てたんですか」
店内に戻ると、谷口が尋ねた。
「何話してたんですか?」
あなたのこと、とは言えないので、適当に誤魔化した。
「そうそう、この間飲みに行ったこと、バレちゃった」
「別に隠してないですよ」
あ、でも、と気付いたのか、驚いて口元に手を当てる。
「大丈夫、話してないよ」
羨ましがってただけ、と蛍は安心させるように笑った。
そうですか、とそれでも谷口は微妙な表情をしていた。
これは、おや。
秘密がバレたと怯えているのではないようだ。
これは、嫉妬か。蛍が山口と二人っきりで話したことに対する、細やかな嫉妬。
この二人には、案外時間はかからないかもしれない、と蛍は少し、ほっこりした気持ちになった。
私も、恋したいな、なんて乙女チックなことを考えて、蛍はやはり彼のことを思い出すのだった。
「ああ、もう無理だよ」
「弱音を吐く頻度が多い」
「弱音ぐらい吐かせてよ」
今日も今日とて、直希は病人の部屋に押しかけていた。
「弱ってる病人に、わざわざ吐きにくるなって言ってるの」
糸子はため息を吐いて、軽く頭を押さえた。今日は朝から熱っぽくて、体調があまりよくなかった。だからベッドから身を起こした状態で、直希の話を聞いていた。直希はいつも糸子がパソコンを弄る時に使う椅子に座っていた。
直希は最近、スーツでやって来る。
「だって」
「だっても何もないわ」
直希はしゅんと萎れる。就職活動は精力的に行っているようだが、その結果はどうやら芳しくないらしい。最初はやる気一杯だった直希も、今はすっかりしょげ返っていた。湯がいたホウレンソウみたいだ、と糸子は思った。
もういくつ、面接を受けたのか。確かに頑張っているのは伝わった。だからこうして会ってやっているのだ。
「やっぱり僕は駄目なんだ」
直希の弱音は止まらない。
「こんな僕なんて」
死んだ方がマシだ、とでも言う気だろうか。糸子が睨むと、直希は口をつぐんだ。図星だったのかもしれない。糸子はため息を吐いた。
「そんなに、焦んなくてもいいんじゃないの?」
別に期限があるわけじゃなし。
「焦るよ」
焦ってるよ、と直希は泣きそうな顔をする。そうだったか、彼に期限がなくたって、こちらにはあるのだった。
「だって」
うう、と直希はまた言葉を詰まらせる。いつ死ぬのか、わからないから。とか、どうやらそんな所だろう。言えばいいのに、と思う。今さらそんなことを言われても、傷つきやしないのに。
「頑張る。頑張るよ」
弱々しい鼓舞だった。
「頑張ってよ」
アドバイスはできないから、漠然と応援することしかできない。それでも、直希は素直に頷いて笑う。
「頑張るよ」
漠然とした会話だった。内容はない。
微妙な沈黙があった。ここ最近、こんなことが多い。この部屋に引きこもっている糸子にはサブカルチャーの話題しかないし、直希は弱音しか吐かないのだから、仕方のないことだ。
こんなに気まずいのだから、もう来なければいいのに。
愛想が尽きないのが、糸子には不思議でならなかった。
彼女は、本当に愛されていたんだな、と思う。今の自分は、彼女への愛の惰性で愛されているに過ぎないのだ。
胸が痛い。
自分が、愛されているわけではないのだ。
いや、今さら愛されてどうするというのだ。むしろ、愛想は尽かされるべきだ。それが彼女の望みで、彼のためにもなることだ。彼が一人で立って歩くことができるようになるのなら、過程はどうだっていい。
だからこれでいいのだ。いいはずだ。
「じゃあ、これから面接だから」
直希は重そうな腰をどうにか持ち上げた。寂しそうな背中に、待って、と思わず声をかけてしまった。振り返る直希に、何を言えば言いのだろう。
「何?」
こっちが訊きたい。呼び止めてどうするんだ。
「なんでもない」
呼んでみただけ、と誤魔化して笑った。
「頑張って」
うん、と直希はやはり、寂しそうに頷いた。
「待って」
だから、呼び止めてどうする。
直希はいい加減、怪訝な顔をしていた。
「だから、ちょっと、察しなさいよ」
ああもう、と乱暴に直希を呼ぶ。
「どうしたの?」
上から覗き込むような態勢の直希。
本当に、どうしたのだろう。これは、あまりよろしくない傾向だ。よくないことをしようとしている。
ねえ、と尋ねる直希のネクタイをぐいっと引いた。狙いは上手く定まらない。
それでも、糸子は直希にキスをした。
ちゃんと唇には当たらなかった。少し横に逸れて、唇と頬の間ぐらいだった。勢い余って痛いぐらいだった。
甘い雰囲気も何もない。残った余韻は痛みだけ。そんなキスだった。
それでも確かにキスだった。
呆けた顔をしている直希を、糸子はやっと解放した。手を離し、スーツの前を少し直してやると、軽く胸を押した。行け、という意思表示だ。もうまともに顔が見れない。
「糸子」
「いいからさっさと行きなさい。時間ないんでしょ」
直希はふふ、と気持ち悪く笑って、部屋を出て行った。
「何してるの?」
あたしは、と両手で頭を抱えた。
期待を持たせるようなことして、どうするのだ。突き放さなければ、嫌われなければならないというのに。
認めなければならない。直希に、惹かれ始めているということを。
彼は彼女の恋人だ。彼が好きになったのは彼女で、今現在好きなのも彼女だ。
あたしじゃない。
勘違いしてはいけない。直希は自分の恋人ではない。今後も、恋人同士になることはない。友達の恋人なのだから。
ある意味、彼と彼女は一生別れることなく繋がっているのだ。糸子がいくら直希を拒絶しようとも、それは彼女に拒絶されたことにはならない。逆に、直希が糸子のことを嫌いになっても、彼女のことを嫌いになったというわけではないのだ。
お互いにそんな意識はなくとも、ずっと。お互いに気付かなくても、ずっと。
勝ち目なんてあるはずなく、そもそも勝ってはいけない勝負だ。もしも万が一、億が一、糸子が彼女に勝てたとしても、その先に待っているのは悲劇だけだ。
まもなく訪れる、死別だけ。
この世に、未練なんてないと思っていたのに。
糸子が生きたいとあれほど願った気持ちが、今さらわかった。しかしもう遅い。どうにもならない。
ああ、泣きたいのは体調が優れないからだ。頭がひどく痛むからだ。
それ以外の理由はない。決してない。
糸子は頭から布団を被った。
布団に潜り込んだところで、携帯電話が鳴った。電話ではない、メールだろう。寝転んだまま携帯を操作して、メールを開いた。
谷口からだった。内容は電話をかけてもいいですか、だったので、返事をする前に電話をかけた。
あ、あの、と言葉を詰まらせながら、おっかなびっくり、電話口では谷口の声がした。
「どうしたの?」
眠りにつきそうな頭を起こして、蛍は尋ねた。
「あの、遅くにすみません」
時刻は深夜の一時前だった。蛍は今日休みだったが、谷口は出勤だったはずだ。確か、山口と。
「いいけど、まだ起きてたし」
辛うじて。蛍はひっそりと欠伸をかみ殺した。それでどうしたの、と話を促す。
「えっと」
それでもまだ谷口はためらう。まあ、蛍に連絡して来たということは、きっと山口に関することだろうと想像はつく。
なんだ、あいつ、待ちきれずに告白でもしたのか。
「山口さんに、今日」
そうであれば、正直なところ、蛍にアドバイスできることはない。谷口の気持ち次第だと言って、さっさと電話を切ろうと思う。眠いからだろうか、ずいぶんとぞんざいな考えが蛍の頭を占めていた。
でも、こればっかりは、本人の気持ち次第だからなあ、と眠たい頭でぼんやり考えた。
「飲みに誘われました」
はあ、と蛍は微妙な返事をした。ほとんどため息のような、声とも言えない相槌だった。蛍は当然、飲みに行って、その後何かあったのだろうと、谷口の言葉を待った。しかし、谷口はそれ切り、黙りこくってしまった。
「え、まさか、それだけ?」
谷口は黙ったままだ。電話の向こうで、きっと赤面しているのだろう。
「行ったの?」
いえ、と谷口は小さく返事をした。
「誘われて、それだけ?」
「二人で、行こうって言われて」
谷口はぼそぼそと拙く言葉を繋げていく。
「それで、返事ができなくて、困ってしまって」
結局、返事ができなかったのだという。
「返事はいつでもいいって、山口さん、言ってくれたけど」
きっと、呆れられた、と谷口の声は段々と小さくなって消えた。
「えっと、じゃあ、飲みに行こうって誘われたけど、その約束を保留にしちゃったってこと?」
谷口は返事もしない。それは肯定だった。
「情けないです」
それで、谷口は凹んでいるらしい。
「告白されたわけでもないのに」
「そうねえ」
谷口は真面目な子だ。山口のことに対して、とても真剣だからこそ、とってしまった行動。いや、行動できなかったのか。軽く、流してしまえばそれで済んだ話だったのだろうが、そうすることも、谷口にはできなかった。
「次にどんな顔して会えばいいんですか?」
私、と谷口は泣きそうだった。
「普通の顔して会えばいいのよ」
「でも、私」
「大丈夫だから」
心配しないで、もう寝なさい、と蛍は諭した。
「それで、次に山口に会ったら、あなたの気持ちを正直に言いなさい」
「正直に、ですか」
「そう、好きも嫌いも正直に」
「好きも、嫌いも、何も」
「わからないなら、わからないと言いなさい」
それさえわからないのなら。
「その気持ちを山口に伝えなさい。わからないなら、わからないでいいから」
いいんでしょうか、と谷口は自信がなさそうだ。
「いいの、それでいいから」
まあ、言い換えればそれしかできないから、なのだが。
はあ、と谷口は渋々と言った感じで、やっと電話を切った。
さて、と蛍は続けて、携帯電話を操作する。しばらく電子音を聞いて、それがぷつりと途切れた。
「お疲れ様」
と、蛍が先に言った。
「お疲れ様、です」
本当に、疲弊した声だった。
「今ね、谷口から電話があった」
「ええ、マジですか」
驚いてみせるが、本当に驚いた様子ではなかった。
「山口」
「はい」
いい返事だった。
「早まったわね」
「はい」
山口はずいぶんと萎れていた。誘った方も誘われた方も萎れているなんて、おかしな話だ。しかし、やはり山口の方が凹んでいるように感じだ。さすがに、ショックだったようだ。
「こんなに嫌われてると思わなかったです、俺」
「だから、時間をかけて口説きなさいって、忠告してあげたのに」
まったく、こいつらときたら。
「別に、嫌われはいないから、安心しなさい」
「でも、保留ですよ、保留。断られもしなかったですよ。本気で困ってましたよ」
ショックを受けている原因はそこらしい。
「嫌われてるなら、好きになってもらえるように努力しますよ」
殊勝なことだ、と蛍は思う。
「でも、困るってなんですか困るって。そんなに扱いに困ってたんですか?」
「そうね」
うぐ、と山口は胸を押さえた。見えないけど、きっとそうだ。
「谷口は今ね、悩んでるのよ」
困っているというよりは。
「悩んでる?」
「自分の気持ちがわからずに」
どうしたものか、と蛍は慎重に言葉を選ぶ。蛍の口から、谷口の気持ちを説明するわけにはいかなかった。それは公平ではない。二人もためにもならない。
「とにかく、嫌われてるわけじゃないから、安心しなさい。ちょっと、びっくりしただけよ、急だったから」
「そんなもんですか?」
「そんなもんよ」
それで押し通す。谷口の気持ちに言及されても困るので、少し、話を変える。
「返事はいつでもいいなんて、格好つけたそうね」
「かっこつけたわけじゃ」
ないです、と山口は不満そうだ。
「そうとしか、言いようがなかったんですよ。断られることは想定してましたけど、あの反応は想定外でしたよ」
まったく、と山口は肩を落とした。もちろん、そんな気配があっただけだ。
「いいとも悪いとも、とにかく、返事ができなさそうな感じだったんで」
「時間を与えたってわけね」
「時間を与えられたのは、こっちの方じゃないんですかね」
山口は弱々しく笑った。執行猶予のような。
「まだ、取り返すチャンス、あると思いますか?」
「大丈夫よ、あなたたち二人、まだ何も始まってなから。取り返すも何も、まだ何も失ってない」
失うのが怖くて、何も前に進んでいないのだから。
「けど、もう話しかけてさえくれないかも」
「大丈夫よ、大丈夫」
段々、眠くなって来た。蛍の返事はどんどんぞんざいになっていく。
「次会ったら、普通にしてなさい。それで、普通に話を聞いてあげなさい。それで、なるようになるわ」
「なるように」
上手くいくとは言わない。そんなこと、蛍に保障できることではない。二人のことは、二人にしか解決できない。山口にもそんなことぐらい、わかっている。だから、蛍の冷たい言い分にも、山口は何も言わなかった。
すんませんでした、と山口は一言謝ってから電話を切った。こんな時間に電話をかけたのは蛍の方だったから、むしろそれはこちらのセリフだったけれど。
まあ、完全に巻き込まれて、たたき起こされたわけだけど。
「二人の問題ね」
それにしても、と蛍は携帯電話を放り投げて呟く。
二人の問題を、完璧に投げ出して来た自分が、よく言う。
「二人の問題は、二人にしか解決できない」
だとしたら、糸子と直希の問題は、どうなるのだろう。
彼女に解決できないなら。
彼と彼女は今、どうしているのだろう。
ああ、こんな時、彼女はどうしていたのだろう。
ここは、相変わらず糸子の自室だった。暇を潰す本やDVDばかりが増えていた。それ以外に、特に変わったことはない。母親が小まめに掃除にやって来るので、埃さえ溜まらず以前と同じ量だろう。
変わったのは、彼との距離感だけだった。
近い。
直希はずいぶんと近い所にいた。糸子はベッドに腰掛け、その隣に、隙間もなく直希もいた。肩や腕、指やら太ももが、触れる距離だ。
この間の一件から、直希との距離感がすっかり違ってしまっていた。いや、直希からすれば、元に戻ったというところなのだろう。直希はすっかり以前の通りに戻ったつもりでいた。
直希の心境の変化も問題だったが、一番の問題はその変化を、自分が受け入れてしまっていることだった。困ってはいるが、拒絶をする気にはなれなかった。心臓は大きな音を立て脈打ち、痛いぐらいだったが、それは不快なものではなかった。
この感じは知っている。懐かしいこの感じ。
この感じは、非常によろしくない。よろしくないのはわかっていたが、抗えるものではなかった。
なんたって、心地いい。胸を締め付けるようなこの感覚さえ、丁度よい刺激だった。
これは、まずい。非常にまずい。
「一次、通ったんだ」
直希ははにかみながら、唐突に言った。
「面接」
「そう」
それはよかった。うん、と直希は糸子の少ない言葉にも明るく返事をする。
「まだ、先のことはわかんないけど、どうにかなりそうだよ」
「油断してると、足元すくわれるわよ」
大丈夫だよ、と直希は笑う。ずいぶん、前向きになったものだ。
「心配してくれて、ありがとう」
「別に」
独り立ちしてくれないと困るからなのだが、今糸子が何を言おうと、直希は前向きに、自分に都合のいいようにしか受け取らないだろう。
まったく、こいつは本当にわかっているのだろうか。
今すり寄っている相手は余命もう一年もないということを、本当に理解しているのだろうか。いつこの世界から消えてなくなるとも、知れないのに。
寄る辺を失った時、この頼りない青年は、きちんと一人で立てるのだろうか。それどころか、このベッドに一人座っていることも、できないのではないだろうか。
「大丈夫だからさ」
直希は糸子に近い所で微笑む。
「糸子はもっと、僕を頼ってくれていいんだよ」
うん、と糸子は曖昧に頷いた。本人はずいぶんとしっかりしてきたつもりらしいが、傍目に見ればまだまだだ。しかしその本音は飲み込んだ。それは直希のやる気を削ぐことにしかならない。
直希には実力がない。能力がない。言い過ぎかもしれないが、彼はまだ何も身に付けていないのだ。まだスタートラインにさえ立てていないのに、後退していた分を取り戻しただけなのに、それを前進したと勘違いしているのだ。
面接を受けて、職場を見つけて、働きだして、それを続けてやっと能力が身に付くのだ。
そうだというのに、頼れとは、呆れて言葉もない。
言葉も出ないのに、糸子はゆっくりと直希に身を寄せる。直希を拒絶したりはしなかった。暖かい肩に触れ、心が落ち着いていくのがわかる。
直希の考えは甘い。少し努力して頑張れば、褒めてもらえて当然だと思っている。まるで子供だ。
しかし糸子はさらに甘い。直希の細やかな努力も、いじましいと感じてしまう。愛おしいと思えてしまう。
この組み合わせはよくない。相性がいいのが、逆によろしくない。直希の甘さを、さらに甘ったるいもので包み込んでしまう。
糸子じゃ駄目だ。糸子じゃ直希を駄目にしてしまう。突き放さないといけない。離れなければならない。
しかし突き放すこともできない。それは湧き出してしまった情のせいでもあり、直希自身のせいでもある。彼はまだとても、自分一人の力で立てる状態ではなかった。精神的に、少しも自立していないし、実際、未だに実家暮らしだったはずだ。
いつまでも、一緒に居てやれるならいい。二人で寄りかかり合って生きていくのも、間違いではないだろう。しかし、糸子にはそれができない。
糸子には。では、彼女になら。
「ねえ、ちょっとコンビニに行って来てくれない?」
「何か欲しいものでもあるの?」
「別に」
うん、と直希は首を傾げた。
「とにかく、あのコンビニに行って来て欲しいの」
あのコンビニ。彼女がいる、あのコンビニに。
そうだ、そしたら、全部元通りだ。
「行ってくれるだけでいいから」
「それってどういうこと?」
「いいから」
理由は説明できない。
「とにかく行って来て」
お願い、と懇願する。そこに尋常ではない様子を感じとったのか、怪訝な表情をしながらも、直希は承諾した。
「でも、わざわざそこじゃないといけないの?」
そのコンビニは電車で二駅行った所にある。
「同じコンビニならこの近くにも」
「ごめん、そこじゃないといけないの」
直希の当然の主張を遮って、糸子は断固として言った。
「行ってくれたら、わかるから」
「わかったよ」
直希は腰を持ち上げて、上着を羽織った。
「限定スイーツでも買ってくるよ」
やっと出かけて行った直希を見送って、糸子はすぐさま携帯電話を手に取った。彼女だって、二十四時間働いているわけではない。
彼女に電話をかける。コールが続き、最後には留守番電話になった。ということは、少なくとも、彼女は今電話に出られる状況にはないということだ。それすなわち、仕事中と決まったわけではないが、それでもそも可能性が高い。
これも運命か。
そんなふうに考えたら、ほんの少し寂しくなった。
こんな気持ちになるのなら、さっさと死んでしまいたい。
一人になった部屋で、糸子は勝手に落ち込んだ。
慰めてくれる人はもういない。
きっと、もう来ない。
だって、彼には彼女がいるから。
眠い目をしばしばさせて、蛍はレジ前に立っていた。今日はいつもより早い時間にシフトが入っていたから、どうにも上手く体が機能していないように感じた。といっても、もう夕方で日が落ちる頃だから、眠いのは完全に蛍の自業自得、寝不足によるものだった。
谷口と山口との電話の後、何故か目が冴えてしまい、結局朝まで本を読んでいた。昼間に仮眠をとればいいかと軽く考えていたら、今日に限って出勤が早かったわけだ。
なんとも間が悪い。しかしまもなく交代の時間だ。今日は山口とも谷口とも会わないシフトだ。しかし二人はお互いにに、顔を会わせるシフトだった。心配だったから、待っていようか、とも思ったが、この睡魔には抗えそうもない。
二人には悪いが、フォローはまた今後にしよう。この覚醒し切らない頭では、どうせ何も言ってやれやしない。
自動ドアが開閉する音がした。いけない、と蛍は慌てて顔を上げた。
「いらっしゃいませ」
蛍の声に反応して、同僚のやまびこが返って来る。視界に入って来た客の顔を見て、蛍は固まった。営業スマイルを歪にしたまま、蛍は首だけを動かして、その客の姿を追い続ける。
これは、なんて偶然。
いや、と蛍はすぐさま否定する。
こんな偶然あるもんか。たまたま、寄ったなんて、あり得ない。彼の家からここには電車でいくらかかかる。仮に彼女の所から来たのだとしても、たまたま選ぶ距離にこの店はない。
あの子が手を回した。そうとしか考えられない。しかしどうして、何故だ。
彼は店内を物色している。何か目的の物を探しているようには見えなかった。入り口を入って雑誌のコーナーから進んで、飲み物をちらりと覗き、新商品のカップラーメンを手に取ってから、デザートコーナーでしばらく足を止めていた。しかし結局、何もレジには持って来ない。
しばし、何か考え込む様子を見せたかと思えば、手ぶらのままでレジまで、蛍の前までやって来た。
「あの」
「はい」
声がひっくり返った。さあっと顔が赤くなる。失礼しました、と慌てて俯いて、改めて言う。
「いらっしゃいませ」
「変なこと聞いてもいいですか?」
まったく、妙な客だ。彼のことを知らない人なら、きっとそう思うことだろう。確かに、彼の行動は誰が見ても不審なものだが、蛍にはそこにさらに驚きが混じる。
彼はわざわざ、店員と雑談したりはしない。そんな人じゃない。
蛍は彼のことをよく知っていた。だから彼も自分のことをよく知っているはずだ。彼とは深い仲だった。
しかし、彼にはわからない。わからないはずだ。それなのに、いつもとは違う行動をする彼に、少し期待をしている自分がいることに、驚いていた。もしかして、気付いたんじゃないか、なんて。
「大丈夫ですか?」
「はい、申し訳ございません」
すっかり呆けていた蛍に、彼は心配そうな視線を向ける。それはとても懐かしい眼差しだった。
「いえ、こっちこそ」
と、彼は急に話しかけたことを謝罪した。
「それで、えっと」
お互いに恐縮してしまって話が進まない。困ったような視線を、蛍は彼に向けた。
「変なことを訊きますけど」
彼はもう一度前置きしてから言う。
「ここって、何か特別なこと、ものかな、ありますか?」
「特別なこと、とは?」
質問の意味がわからず、鸚鵡返しで質問した。
「それが、ちょっとよくわからなくて」
僕にも、と彼は少し照れて笑った。
彼女は、一体彼になんと言ってここに寄越したのだろう。
蛍は彼がここに来たことを、もう彼女の差し金だと疑っていなかった。
「コンビニ限定商品なんかはありますが、さすがに当店にだけ、というのは」
普通のチェーン店だ。この店にあるものは、同じチェーン店になら、当然あるものだ。この店だけのオリジナル商品なんて存在しない。
そう、コンビニの中で違うものなんて、そこで働く人間ぐらいなものだ。
「そうですよね、やっぱり」
「あの、何をお探しでしょうか?」
「人に頼まれて来たんで、僕にもよくわからないんですよ」
どうしましょう、と逆に尋ねる始末だ。どうしましょう、と言われても、ただの店員にどうしろというのだろう。エスパーでもなのに。彼が困っているのはわかっていたが、それ以上に、蛍は困り果てていた。
話したいことが山ほどあった。伝えたいことが溢れ返っていた。しかし、彼と蛍は間違いなく初対面だった。言えない。言えるわけがない。他の誰かに朽ち果てそうな自分の体を押し付けて、生きながらえているなど、言えるわけない。
蛍は困った顔で、笑うことしかできなかった。
「すみません。適当に甘いものでも買って帰ります」
「待って」
行ってしまう、と思ったら、呼び止めてしまっていた。彼は驚いた様子で振り返った。
「なんでしょうか?」
今さら、なんでもないとは言えなかった。言いたくもない。なんでもなくなんて、ない。彼と自分の間には、決して、何もなくなんかない。
「いえ、あの」
けれど、林道蛍として、彼にどんな言葉をかけていいのかわからない。
「また、いらしてください」
結局、コンビニの店員として、お客様に言葉をかけた。
彼は笑って頷いた。
彼は蛍の顔を覚えただろうか。彼は蛍の名札を見ただろうか。彼の記憶の中に、自分という存在は刻まれただろうか。
本当に、また来てくれるだろうか。
何を期待しているのだろう。そんな資格はないのに。彼を捨ててここまで来たのは、自分のくせに。
一体、なんのつもりなの。
施しのつもりか、慰めのつもりか、はなむけのつもりか。なんにせよ、鼻先に人参をぶら下げられている気分だった。いくら頑張って走ったところで、それを口にすることはできないのだ。絶対に。
あの、とおずおずと声をかけて来た同僚のおかげで、蛍はやっと我に返った。
「ごめんね、ぼおっとしてた」
いえ、と同僚の笑顔は引きつったままだった。怖い顔をしているのだろう。蛍はそう思っていた。だって、彼女に腹を立てていたのだから。
上がってください、と同僚に言われて、蛍はさっさと裏に引っこんだ。
「ねえ、林道さん、どうしたのかな」
だから、残された同僚二人がこんな会話をしていたのを、蛍は気付きもしなかった。
「うん、どうしてあんなに」
泣きそうだったのかな、と。
「どういうつもりよ」
彼女の反応は早かった。時刻は夕方を過ぎ、しかしまだ夜中とも言えないぐらいの半端な時間だ。夕飯時ではないだろうか、と連絡を自重するぐらいの時だ。それなのに、彼女は謝罪の言葉一つなく、糸子が電話に出るやいなや、彼女の低い声が飛び込んで来た。それはどこか懐かしい感じがしたが、それがいざ自分に向けられていると、ひどく不快だった。
そうか、これなら誰からも、愛想を尽かされるのも、納得できる。
「何が?」
とぼけてみたのは何故だろう。彼女が焦る様が、なんだかおかしかったからだろうか。なるほど、外側をいくら変えたところで、本質的な嫌らしさは変えられないらしい。
「わかってるくせに、すっ呆けてんじゃないわよ」
口がよろしくない。
彼女から何かしらのリアクションがあることはわかっていた。感謝はされないだろうことも、最初からわかっていた。
これは、彼女のためにしたことではない。
「彼のためよ」
そう、と低い声が返る。
「ずいぶんと、ご執心な様子で」
「お陰様で」
「別れてくれって頼んだよね、私」
「頼まれたけど、実際にそうしたけど」
一度は確かにそうした。
「向こうが別れてくれないんだから、仕方ないでしょう?」
しつこく言い寄られて、なんていい女ぶってみた。正確に言うなら、糸子と直希は現在、恋人同士ではない。直希が職に就いたら、よりを戻してもいいという話だったから、現在はただの友人ということになる。しかし、その辺りの事情を、話すつもりはなかった。
そのぐらいの思い出、一人占めしたってバチは当たらないだろう。
「でもほら、あたし、もうすぐ死んじゃうじゃない」
沈黙が返って来た。
「だから、あなたが面倒見てよ」
彼のこと。押し付ける。
「いいでしょ」
それで、全部丸く収まるでしょ、と。
「顔は違っても、中身はあなたなんだから」
愛し合ったあなた達なのだから。
「問題ないでしょ」
見た目のハンデぐらい、彼女になら乗り越えられるはずだ。
それに、持って生まれた顔は、悪くないはずだと自負している。
「もう、これで、連絡することもないと思うから」
彼女とはもうこれで、縁を切ろうと思う。
そして、彼とももう終わりだ。
「あたしは一人で死ぬから」
安心してよ、と声が震えて言葉にならなかった。泣いているのだろうか、と思ったが、どうやら泣いてはいなかった。ただ、喉が焼けるように熱いだけだ。
悲しくはない、辛くはない。死ぬのが、怖いわけでもない。
ただ、少し、ほんの少しだけ、寂しいだけだ。
それだけだ。
電話は一方的に切った。
電話は一方的に切れた。
あの子、あの子はまさか。
電話は掛け直さなかった。これが本来、自分が望んだことだったから。
彼女はたった一人になって死ぬつもりだ。
それは、自分自身が望んだことだった。
けれど、できなかったことだ。
自分には、たった一人で死ぬ勇気はなかった。結局、最後まで。誰かが訪ねて来てくれないのは寂しかった。仕事も迷惑をかけながら、ぎりぎりまで続けた。一人になんてなりたくなかった。
怖かった。寂しかった。
誰かに必要ようとされていたかった。それが、最終的に誰かを傷つけることになるとわかっていたのに、それでもいい人でいることを、やめられなかった。
だからそれを彼女に押し付けた。彼女は押し付けられたそんな願いを、きちんと叶えようとしてくれている。
それだけのことだ。誰も彼をもはねつけて、傷つける人を、最小限に抑えようとしてくれているのだ。そもそも、文句を言う筋合いなんて、自分にはないのだ。
林道蛍として生き、そして彼とやり直す。ああ、それはなんて理想的なのだろう。それができれば、どんなにいいだろう。
なんとか落ち着いてきた日常。バイトだが、少しは貯えもできたし、好きな物も買える。恋愛相談をしてくれるほど信頼してくれている後輩もいるし、軽口を叩ける異性の友達もいる。
ありふれた日常。
満ち足りた日常。
これは、自分の手で成したことだ。この体を使って、自分という人間が作り上げたすべてだ。だからこれは間違いなく、自分のものだ。
彼女に引け目を感じる必要はない、はずだ。
彼女は死にたがっていた。だから、これは彼女が望んだことでもある。
でも、でも。
本当に、そうだっただろうか。
本当に、死にたがっている人間なんているのだろうか。誰だって、とりあえず、死にたくないものではないだろうか。
今この環境にいるのが、もしも、彼女の方だったら。
死にたいなんて、思うだろうか。
いや、でも、これは私が。
体温が高い。熱があるのかもしれない。考え過ぎからくる、知恵熱だろうか。それとも、今さら、この体がこの精神に拒否反応を示し始めたのだろうか。
違う、違う。これはもう、私の体だ。
楽しかった日常にずっと隠れていた罪悪感が、今さら顔を出した。
死ぬことが、彼女の望みでもある。蛍に残された大義名分はその一点に尽きる。
今彼女を苦しめているものはすべて、本来は自分のものだった。それを、たったそれだけの理由で、その絶対的な理由一つで、すべて彼女に押し付けたのだ。
だから、考えたくなかった。もしかしたら、彼女の優しい心に、付け込んでしまっただけではないだろうか、なんて。
時間がない。
今一度、立ち返って考えなければならない。
彼女は、林道蛍は本当に死にたいのか、と。
今向き合わないと、もう二度と、彼女と向き合うことができない。
今しかない。
彼女と私には、今しかない。
片方は、まもなく、失われる。それはもう覆りようがないことだ。
だから、今、向き合わなければならない。
私か、彼女か。
死ぬのは、生きるのは。
死にたくない、なんて思っているのだろうか。
見上げる天井は白い。
糸子は病院にいた。病室のベッドの上だった。意図的か偶然か、以前と同じ病室とベッドだった。
体を動かすのがひどく億劫だった。痛みはあまりない。重いような、だるいような、この体にかかる重力だけが増したような気分だ。
体はベッドに横たえたまま、ぴくりとも動かない。少なくとも、糸子はそう感じていた。代わりに、頭の中は冴えわたっていた。いや、代わりにというより、他のあらゆるものを犠牲にして、頭の中にエネルギーを集中させているのだろう。
そうして明瞭になって、明晰になった頭で考えることはといえば、彼と彼女のことしかなかった。
今さら、どの面下げて、そんなことを考えるのか。いや、この面は元々彼女のものだから、悪くはないのだが。
しかし、今朝鏡で見た顔は青白く、頬はこけ、とてもきれいとか可愛いとは、形容しがたないものだったが。
死期が近い。誰が見たって明白な事実に、本人が気付かないはずなかった。
いよいよ目前に迫って来た死に対し、恐怖はなかった。それは嘘でも強がりでもない。死ぬことは糸子にとって、逃げ道としてずっとあった。逃げ道があったからこそ、糸子はいままで生きてこれたのだ。変な話、死ぬこともなく生き続けろと言われていたら、糸子はずっともっと早く生きることをやめていたはずだ。
こんな苦行がずっと続くのなら、と。
今だって、苦しい。体は自由に動かないし、頭は明瞭だが、どこか熱を帯びていて、暑苦しい。正常な思考を大いに妨げる。
だから、この後ろ向きな思考は熱のせいだ。きっとそうだ。
熱が引けば、また素直に受け入れられるさ、きっと。
だから心配ない。心配ないよ。
誰に向かってか、糸子は言う。
そして目を瞑って眠りについた。
このまま目覚めなければいい、とどこかで考えながら。
決めたことがあった。
この決意を誰かに聞いてほしかったが、誰にも何も言うわけにはいかなかった。きっと、誰も信じないだろうけれど。
これからの自分と彼女に、ケチがつくようなことがあってはいけない。
迷った時点で、きっともう決まっていたのだろう。
迷った時点で、気付いてしまったのだろう。
私たちは、迷ってしまっただけなのだと。
生き方を、迷ってしまっただけなのだと。
そして、替わった私と彼女。
そして、変わった私と彼女。
それは誰にも知られることはない。
これからもずっと。
あ、死ぬ。死にそう。
ひどく、穏やかな気持ちだった。
目は覚めていたが、目を開ける気分にはならなかった。もうそんな余分な体力は、糸子の体に残されていなかった。
「聞こえる?まだ、生きてるよね」
一体誰だろう。母親の声ではないことは、辛うじてわかった。聴覚の働きも正常ではないようだ。耳から入った情報を、処理する脳が機能していないのかもしれない。なんにせよ、今何が起こっているのか、糸子には理解できなかった。
あまり、理解したくもなかった。
「じゃあ手を握って」
手に温度を感じた。まだ、そんなものを感じる神経が残っていたのか。
「目を閉じてって、もう閉じてるわね」
これは誰の声だ。聞いたことがあるような、でも、あまり馴染みのない声だ。
「本当に、いいのね?」
「ちょっとだけ、待って」
どうやら二人いるらしい。片方の声には聞き覚えがあった。何十年も、この身に染みついた声なのだから、当然だ。
「藤堂糸子、いえ、蛍」
林道蛍の中の糸子は言う。
「ありがとう。一番辛い時期を引き受けてくれて」
糸子は蛍の声で言う。
「やっぱり惜しくなっちゃった、自分の体」
こんな体が今さら惜しいというのか。そんなの嘘に決まっている。
「だから、やっぱり返して」
何を言っているのだ。この体は、もうすぐ終わってしまうのに。
「我がままばっかり言ってごめんね。自分勝手はよくわかってる。だけど、やっぱりこれが正しい形だと思うから」
勝手だ。こんなのずるい。彼女の選択から、あたしは逃げられない。
「楽しかった。後悔してない。するはずない」
それは自分自身に言い聞かせているようだった。
「だから、ありがとう」
彼女はどんな顔をしているだろう。目を開ける力も湧いてこない。
「目を開けたら、振り返らないで」
じゃあ、と。
「さよなら、蛍」
「誰に、言ったの?」
蛍はあなたでしょうに。尋ねようとして、あっさりと声が出た。意識せずとも目が開いた。
「こっちを向いて」
ぐいっと、誰かが腕を掴んだ。だから目を開けてすぐ見たのは、化粧の濃い女性の顔だった。強い力で、体ごと持っていかれる。
「さっさと出るわよ、誰かに見つかると面倒だから」
病室を出ると、やっとそいつの正体が見えた。
「マキ」
「私の名前はどうでもいいの」
マキは口の端を吊り上げて笑った。
「あなたはだあれ?」
「林道蛍」
迷わず言った。いつもの顔で、いつもの声で。
「あたしは、蛍」
この体は、間違いなく。
「彼女は、どうしたの?」
どういう心境の変化があったのか。
「さあ、あたしはお金を貰って仕事をしただけだから」
人一人の命を、人生を左右しておいて、しかしマキはとくに何も感じていないようだ。
「あなたも彼女も勝手ね。あたしの意思は無視?」
「まあ、元の形に戻っただけだしね」
マキはしれっと言う。
「あたしとしては貰うものをもらったから、その分の仕事をしただけ。ご不満なら、やり返せばいいんじゃない?」
「五万持って来いっていうの?」
「出張費も含めて十万」
そんなお金、と蛍は眉間に深い皺を寄せた。しかし考えてみれば、彼女はこの蛍の体でそれだけのお金を貯めて、これを実行したのだ。
「ああ、彼女からの伝言。私が貯めた分は全部使ってしまったからって」
と、いうことは、現在貯金はゼロということだ。
「だから、あたしに依頼したかったら、まずは働くことね」
「彼女は、他に何か言ってた?」
「何も。ただ元に戻るだけだからって」
そう、と蛍は不思議なぐらい落ち着いていた。心が、この体に馴染んでいるからだろうか。
「元通り、なんて」
そんな簡単な話じゃない。何もかもが元の通りなんて、そんなはずない。
「急いでください!」
白衣の天使が、呆けて立っていた蛍を突き飛ばして病室に入っていく。マキはひらりと軽やかに避けた。どたどたと慌ただしく人が出入りする。母親の姿もあった。当然、蛍には目も止めず、病室に走って行った。
ナースに連れられて、もう一人、走って来る男性がいた。男性は蛍をちらりと見た。見た気がした。それは完全に蛍の希望的観測だった。今の彼に、余所見をしている余裕なんてあるはずない。
「いいの?」
マキが尋ねる。あたしが訊くのもなんだけど、と笑う。
「いいも何も、彼女が決めたことだから」
最初から、蛍が決めたことなんて一つもありはしなかった。
「あたしにはどうにもできないわ」
最初にお金を出したのも彼女で、最後も彼女だった。
お金もないし、と言うと、それもそうね、とマキはあっさりしたものだ。
悲しいとは思わなかった。それ以上に、驚きがあった。涙も出てこない。自分は冷たい人間なのかもしれない。
しかし、これは全部、彼女が決めたこと。
全部、彼女のわがままだ。それに、付き合わされただけなのだ。
「あたしには」
林道蛍にできるのは。
「生きることだけ」
そう、マキに蛍の決意表明は、少しも響かない。別にそれで構わない。そもそも、そんなことを宣言せずとも、みんな生きているのだ。何も特別なことはない。
「最初から」
あたしにできることなんて、それだけだった。
彼女の荷物を背負って生き抜くことなど、できなかったのだ。
そしたら急に悲しくなって、泣いた。
それはきっと、自分のための涙だ。情けない自分を哀れに思っての、涙。
こんなに情けない自分が、まだ生きているんだ。
そう思って、悲しくて、泣いた。
目頭の熱、頬を伝っていく涙の感触、口から漏れる嗚咽。
ああ、生きているんだ。
自分は、まだ。
そしてこれからも。
「さよなら、糸子」
返事は来ない。
そして、また泣いた。
林道蛍は泣いた。
よかった。これで、よかったと糸子は思う。
懐かしい倦怠感の中、どうにか、目を開けた。
母親の顔、医師や看護師の顔、そして、彼の顔。
よかった、と思う。
この中に彼がいてくれて、よかったと思う。彼女には散々別れてくれと言ったくせに、勝手なことだ。彼が、自分のために、藤堂糸子のために、泣いてくれることが、心から嬉しかった。
やっぱり、戻ってよかった。この涙は、私のものだ。
彼は今、間違いなく藤堂糸子のことを見て、自分を見てくれている。そして、泣いてくれている。
ごめんね、と頑張っても言葉は出なかった。さすがに、そこまで望むのは贅沢か。
彼が、彼らが何を言ってるのかさえ、もうわからない。
それでも、きっとこれでよかった。
藤堂糸子の人生は、これで間違いなく、終わることができる。
よかった、間違えないで。
確信して、糸子は目を閉じた。
願わくば、愛すべき彼らが幸せでありますように。
藤堂糸子は目を閉じた。
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