第4話 生と死

 いくつ、面接を受けただろう。そのたびに書き直した履歴書。大学卒業に向けて始めた就職活動よりも、それは難航した。そしてたどり着いた仕事先は、自宅から徒歩二十分の所にある、とても便利とは言えないコンビニだった。まあ、近過ぎず遠過ぎず、働くには悪くない距離だと思う。

 近場だと、いざって時に辞めずらいし。

 当座の資金稼ぎの場なので、長居する気はなかった。なかったのだが、バイトを見つけるだけでもこれだけ苦労したのだから、キャリアアップにはもう少々時間がかかるだろう。

 そもそも、できるだろうか、キャリアアップ。

 面接の際に、就職活動をする旨は伝えてあるが、本格的に活動を開始するのは、もう少し先になりそうだ。

 バイトが決まったと、もちろん両親にも報告した。

「あら、よかったじゃない」

 と、素っ気ない感じで母親は言った。しかしその日の晩御飯はいやに豪華で、見ただけで胸焼けするほどだった。このぐらいで喜ばれると、なんだか逆に、悪い気がした。

「これからが、問題だ」

 父親は母親と違い、裏も表もなく、素っ気ない。母親とは違い、喜ばしいという様子は少しも見せない。

「働くというのは、簡単ではない」

 バイトであろうとも。それは、当座の資金稼ぎなどと、バイト先を軽んじていた蛍には、少々胸に来る言葉だった。

 この二人は、これで結構バランスが取れているのだろう。飴は母親の、鞭は父親の担当なのだ。林道の家とは逆だ、と蛍は思った。糸子の母親は、バイトが決まったぐらいで、夕食のメニューを変えるような人ではない。

 まあ、とにかくそんな両親の激励を受けて、蛍は今日もバイト先に向かうのだった。

「おはようございます」

 夕方でも、仕事に入る時にはこの挨拶だ。

「あ、お疲れ様です」

「疲れてるのはそっちでしょ」

「ああ、そっすね」

 先にシフトに入っていた彼は、疲れた様子も見せずに笑った。

「もうくたくたっすよ」

 そう言ってへらへら笑う彼は、大学生の山口だ。確か、今年三回生になったと言っていた。来年には就職活動をするはずだが、明るい髪色からは、まだその兆候は見受けられない。

「引き継ぐこと、ある?」

「ないない。ないですよ。今日なんて、超暇なんで」

 超のところを強調する山口。通りかかった店長に睨まれても、山口は気にする素振りもない。

「むしろ俺一人で平気なぐらいっす」

「いや、私にも働かせてほしいんだけど」

 潔癖であるつもりはなかったのだが、結局、口に触れるようなものはすべて買い換えるほかなかった。どうしても受け付けなかったのだ。箸やコップ、歯ブラシやボディタオル、口紅などをはじめとする化粧品類。そうやって、身の回りのものを一新したら、ずいぶんとお金がかかってしまった。母親に借金した分を早く返済しないと、洋服を一枚買うにも抵抗がある。給料日はまだもう少し先だった。

「今日も、谷ぐっちーと一緒ですか?」

「気になる?」

 店長と、ちらほら見える客の視線を気にしながら、山口と雑談を交わす。

「林道さんも谷口さんも、結構たくさんシフト入れてますよね」

 頑張ってるなって、と山口は蛍の質問には答えなかった。

「まあ、私はフリーターだから、働かないとね。谷口さんは、頑張ってるわね、確かに」

 谷口は山口と同じく、大学生のアルバイトだ。今年大学に入学したばかりの一回生で、入学と同時に眼鏡をコンタクトに、おさげ髪をストレートに変えた、背伸びの感じが初々しい女の子だ。

「同じ大学だったわよね、確か」

 山口と谷口は同じ大学の先輩後輩だ。

「はい、まあ、大学ではほとんど顔合わせないですけど」

 学年が違えば、そんなものだろう。

「サークルにも誘ってみたけど、忙しいって断られちゃいました」

「サークルって言っても、ただ飲み会と合コン繰り返しているだけでしょ、その旅行サークルとか言うの」

「旅サーですよ、旅サー」

 旅、という所をやたら強調する山口。まあ一応、季節が換わるごとに、どこかに旅行に行っているようだが、活動のほとんどはミーティングという名の飲み会だった。そんなだから、山口はいつも金欠だと言っている。

「彼女をそんな怪しげな団体に誘わないで。あなたと違って真面目な子なんだから」

「俺とは違ってって、なんなんですか」

 もう、と山口は口を尖らせる。

「可愛くないぞ」

「ひでえ」

 また文句を言い出しそうな山口と蛍の間に、ひょいと顔を出したのは当の谷口だった。山口はぐっと言い出そうとした言葉を飲み込んだ。

「お疲れ様です」

 谷口は二人の顔を見ながら、順番に会釈をした。

「お、お疲れ」

「お疲れ様」

 谷口は仕事の間、長い髪を一つにまとめている。個人的にはこちらの方が、谷口には似合っているような気がしていた。

「山口さん、上がってください」

 引き継ぎありますか、とそんな業務連絡をする谷口。淡々としていてあまり愛想がない。谷口は誰に対しても少々冷めたところがあり、誰に対してもそんな感じだ。だから特別、山口を嫌っているわけではない、と山口本人も知っている。だから、谷口がどんなに他人行儀であっても、山口は気楽に軽口を叩く。

「じゃあ、お先です」

 そう言うと、山口はさっさと裏に引っこんだ。

 レジの前で、谷口と二人で並んだ。谷口は仕事中、余計な口は開かない。

「林道さん」

 だから呼びかけられ時、仕事の話だと思った。

「あの、仕事終わったら、ちょっといいですか?」

「私は構わないけど」

 仕事が終わると、いつもさっさと帰ってしまう谷口が、珍しい。時間も時間だし、翌日には一限目から講義があるから、といつも山口の誘いを断っている。

「明日は午前中の講義が急に休講になって」

 時間ができたのだという。しかし、それにしても、谷口からお誘いがくるなんて、初めてではないだろうか。

「聞いてもらいたい話があって」

「あら、何か相談?」

「はい、まあ」

「よかったら、山口も誘って」

 飲みに行こうよ、と言おうとしたが、それは嫌です、と間髪入れずに断られた。

「ほら、私まだ未成年ですから」

 そんな言い訳をする谷口。断ったのは、明らかにそれが理由ではないのがわかったから、そうだったね、と蛍は軽く流した。

 あれ、そんなに山口のこと、嫌いだったのかな。

 確かにタイプの違う二人だったが、休憩中や、帰りが一緒になった時などには、雑談ぐらいはしていた。その姿を見る限り、それほど嫌そうには見えなかったのだが。

 谷口が、上手くあしらっていただけなのだろうか。

 もしかしたら、したい話というのは、山口に困っているとか、そんなことなのかもしれない。そうだとしたら少し困ったものだが、やはり谷口が山口に困っているとは、蛍には思えなかった。

 まあ、後になってみればわかるか。

「わかった。今日は女子会ね」

 谷口はほっとした様子で頷いた。

 残念、山口。今度誘うから。

 と、蛍は心の中で手を合わせた。


「それで、話っていうのは?」

「はい、あの」

 飲まない、とは言いつつ、二人がやって来たのは居酒屋だった。この時間に開いているのは、二十四時間営業のファミレスか、居酒屋ぐらいだったから、仕方ない。焼き鳥と適当につまみを頼んで、二人してジュースを注文した。飲んでもいい、と谷口は言ったが、この体がどこまでアルコールに耐えられるのか、まだ検証していなかったから、今日はいいよと遠慮した。

 そうだ、お酒もしばらく飲んでいない。昔は強い方だった。付き合いで飲みに出かけるのも嫌ではなかった。さすがに入院してから飲んでいないが、お酒は好きな方だ。

 だから、うん、今日は残念だ。年下の前で、醜態を晒して迷惑をかけるわけにもいかない。

「山口さんの、ことなんですけど」

 まあ、そうだろうと思った。蛍と谷口の共通の話題は、バイトのことしかない。大学に進学していない蛍に、学校のことを相談しても仕方がないし、それなら先輩の山口を呼ぶだろう。経験者の方が、まだ頼りになるだろう。

「山口が、どうかした?」

 食べてね、と焼き鳥を勧めながら、蛍は尋ねる。

「好きなんでしょうか、私、山口さんのこと」

「うん?」

 質問の意味を理解しかねて、焼き鳥をくわえたまま、蛍は首を傾げた。

「私、山口さんのこと、好きなんでしょうか?」

「いや、そのまま繰り返されても」

 つまり、谷口は自分の気持ちがよくわからず、悩んでいるということなのだろうか。

「困りますよね、こんなこと言われても」

「まあ、確かに」

 蛍は正直に言った。谷口がしゅん、と萎れた気配を見せたので、蛍は慌てて付け足す。

「でも、迷惑ってわけじゃないから。まだよくわからないだけだから」

 詳しく、話してみて、と谷口に言う。

「私、暗くて、あんまり友達いなくて」

 谷口はいきなり自虐的なことを言った。本当のことなんで、と谷口は照れたように、少し笑った。その笑みは自然で、自虐的には感じなかったので、あえてフォローはしなかった。自分の短所を理解して、割り切っているような感じだ。少なくとも、本人は割り切っているつもりなのだろう。そして、一人でも強くあろうとしているのだ。

 そんなのただの思い込みで、谷口の笑みはただの強がりだ。蛍はそう思ったが、そんな本当のことを指摘したって、谷口が救われることはないから、余計なことは言わなかった。

「男の友達なんかいなくて、それ以前に、恋話こいばなとかできる女友達もいなくて。今も、いなくて」

 林道さんは、林道さんだから、と谷口は言う。バイトの先輩はまた別枠ということなのだろう。

「人を好きになるって、どういうことなのか、よくわからなくて」

「初恋とか、ないの?」

 谷口は下を向いて首を振った。

「まあ、まだ若いんだから、そんなこと、悩む必要ないと思うけど」

 可愛らしい悩みだと思う。

「それにしても、どうして私にそれを?」

「どうしてでしょう?」

 尋ね返したわけでわならしい。わからない、と谷口は首を捻った。

「経験豊富、そうに見えたのと、後は、どうしてなのかな」

 わからないです、と谷口は困っていた。まあ、谷口の話からすると、同性の知り合いがそもそも少ないようだから、身近にいた蛍にたまたま白羽の矢が立ったということなのだろう。

 今日の本題はそこではないので、深くは追及しないが、人とのコミュニケーションを、あまりとってこなかった子なのだろう。そういうことが苦手な子なのだろう。こういうことは、意識一つで変わるものだと蛍は思う。だからこそ、解決するのが難しい。具体的に、どうすればいい、という解答がないからだ。当たり前のように、他人とぺらぺら話せる人は、そもそも意識なんてしてないから、できない人の気持ちはわからない。わかったような、気になるだけだ。

 だから蛍も、谷口の気持ちをわかったような気になっただけだ。解決してやることなどできない。

 しかし、きっと、谷口もそんなことはわかっている。蛍が自分に、一筋光が差すような、明確でわかりやすい答えをくれないことなど、きっとわかっている。

 誰かに話すということが、谷口にとっては重要なことだったのだ。変わるきっかけを、探しているのだ。まずは、恋心がわかる自分に、変わろうとしている。

 だから今日、蛍を誘った。それにだって、勇気が必要だったはずだと思う。それでも、変わらなければならない、と思っているから、こうやって行動を起こしたのだ。

 こうやって、恋やら愛やらがわからない、と恥を忍んで尋ねに来たのだ。

 やはり、可愛らしい子だ、と蛍は思う。

 変わると言っても、替わるわけではないから、蛍と違って、疚しいところもない。

「山口が、好きかって話だけど」

 はい、と谷口は真面目に返事をする。

「それは、谷口にしか、わかんないよ」

 しゅん、と谷口は萎れる。突き放されたと思ったのか、まあ最後まで聞きなさい、と蛍は続ける。

「わからないけど、谷口がわざわざそんなふうに悩むってことは、何か思い当たる節があるんじゃないの?」

「思い当たる節?」

「一緒にいてドキドキするとか」

「ドキドキします。私、人見知りなので」

「尽くしてあげたいと思うとか」

「誰に対しても、優しい人でありたいとは思っています」

「彼のこと、もっと知りたいと思うとか」

「そもそも彼のこと、あまり知らないので」

 もっと深くなんて、まだそんな段階ではない。

「うん、手強いね、君」

 すみません、と谷口はまたしょげる。

「謝るようなことじゃないけど。いや、むしろ謝らないで」

 これじゃあ、私が谷口を責め立てているみたいだ。そんなふうに思えて、居心地が悪い。

 しかし、これはどうしたものか。山口のことを、谷口が好きかどうかだが、こればっかりは本人の気持ち次第だ。谷口の気持ちは、谷口にしかわからない。しかも、色恋に関する微妙な心理状況など、推し量ることは不可能だ、と蛍は思う。

「やっぱり、違うんでしょうか」

「残念?」

 だったら、やはり、谷口は山口のことが好きなんじゃないだろうか。しかし、谷口はううん、と唸って首を振った。

「ほっとしたような気がします」

 やっぱり、よくわからないんですけど、と谷口は俯く。

「それ」

 蛍はびしっと言った。谷口は上目づかいでこちらを見る。

「悪いことしてるんじゃないんだから、下向かない」

「そう、なんですけど」

「みんなが当たり前みたいにやってるから?」

 図星なのか、谷口はまた下を向いて、はたと思い出してすぐに顔を上げた。とても素直でいいことだ。

「同じことができない自分は、他の人より劣ってる気がして、気が引ける?」

 下を向くことができないからか、谷口の視線はあっちにこっちに泳ぐ。

「同じことがいいこととは限らないでしょ。まあ、恋が悪いことだとは言わないけど。しなくても、生きてはいける」

「でも」

「したいと思うなら、大丈夫。そのうちできるわ」

 そうでしょうか、と谷口は半信半疑だ。だから、うん、と蛍は自信満々に頷いた。それで少しは安心したのか、谷口は少し微笑んだ。

「聞いてもらえて、少し、楽になりました」

 答えはまったく出ていないけれど。

 しかし、その答えは谷口自身が出さなければならない。谷口にしかわからないことなのだから。

「少しは力になれたみたいで、よかった」

 と、思う反面、何もできなかったなあ、とも思う。まあ、他人があまり力になれるようなことでもないが。

 それにしても、ずいぶんと可愛らしいことだ。谷口も、山口もだ。

 きっと、谷口は山口のことが好きなんだろう。初めての感情に戸惑っているだけだと思う。今ここで、はっきりそれが恋だと指摘してやっても、谷口は困惑してしまうだけだろう。だから、自分で考え、気付くように促すに留めた。

 きっと空回るだろうから。

 谷口には谷口のペースというものがある。

 それにしても、恋か。

 今日は飲まないと決めたアルコールだったが、なんだか急に飲みたくなった。

 彼の顔を思い出した。いや、もう私の彼ではない。藤堂糸子の彼氏でも、すでにない。

 彼女から電話があった。時々、様子はどうか、とお互いに連絡を取っている。あの日、お互いに伝えきれなかったこともたくさんあった。色々と情報を交換した後で、彼女から聞かされた。

 彼のこと、終わったから、と。

「ごめん、やっぱり一杯だけ」

 蛍は谷口に一言断って、アルコールを頼んだ。

 彼のことを思い出しながら、それを一気に流し込んだ。

 ぞわりと鳥肌が立った。

 久方ぶりのアルコール。そもそも苦手だったのか、蛍の体はぞわりと鳥肌を立てた。唖然としてこちらを見ている谷口が、なんだかおかしくて、飲んでみる、と空のグラスを冗談めかして差し出した。

「い、いえ。駄目ですよ」

 真面目くさって答える谷口がさらにおかしくて、蛍は声を出して笑った。

 どうだ、こちらの生活も悪くないぞ、となぜだか彼女に自慢したくなった。

 彼女はどうしているだろう。かつての自分の顔はすぐに思い浮かんだ。

 笑っているといいなあ、と他人事のように思った。

「もう一杯飲もうかな」

 他人事のように言った。


 また来た。

 糸子はノックの音を聞いた。誰が来たかはわかり切っていた。足音でわかる。いや、パソコンに繋がったイヤホンは、大音量で音楽を流してる。

 本を読む、と母親には言ったが、一冊読んで、結局次の一冊には手が伸びなかった。ネット環境はいっそ、昔より整っているぐらいだったので、糸子の今の時間潰しはもっぱらネットだった。イヤホンで耳をふさぎ、必死の現実逃避。以前の生活と、何が違うのだろう。滋養強壮、体に良いものを食べ、大量の薬を流し込む習慣がつき、早寝早起きが日課となったぐらいが、変化だった。三食きちんと取らないと、食後に薬が飲めないのだ。

 蛍は現実を遮断していた。だから、実際は足音もノックの音も聞こえなかった。ただ、糸子はパソコン右下に表示されている、デジタル時計の表示を見ただけだった。

 いつも彼は、同じ時間にやって来る。

「入るよ」

 聞こえない。しかし、きっと彼はそう言って、ドアを開けた。背後に人の気配があって、さすがに、糸子は音量を下げた。しかし振り向かない。小さくなった音楽と、彼の声が重なって聞こえる。

「やあ、来たよ」

「知ってる」

 振り向かないままで会話する。

「何しに来たの?」

「会いに来た」

 あんたねえ、と糸子は不機嫌な声を出す。

「わかってる?あたしたち、別れたのよ」

「別れたけど」

 それがどうしたの、と悪びれる様子もなく言う。

「それがどうしたの?友達が会いに来ちゃいけない?」

「友達でもないとしたら?」

「ただの知り合いだって、例えば知り合いじゃなくたって、それは君に会いに来ちゃいけない理由になるの?」

 あまりの言い草に、言葉を失ってしまう。知り合いじゃない人間が、自分の部屋に上がり込む状況とは、と考えるだけでぞっとするというのに。

 糸子は諦めて、やっとイヤホンを外した。回転する椅子をぐるりと回し、やっと彼の顔を見た。

「久しぶりだね」

「一昨日ぶりでしょ」

 彼、いやきっぱり別れたはずの元彼、直希はこのように、すっかり開き直ってしまっていた。しばらく音沙汰がないと思ったら、ひょっこりと顔を出し、このような態度だ。それからしばらく、毎日同じ時間にやって来るようになった。毎日来るなと言ってやったら、一日おきに来るようになった。それからは糸子も諦めて、もう何も言わない。できる限り無視すること以外、糸子にできることはなかった。

 母親は昼間パートで留守だし、父親も仕事に行っている。彼を阻む人はいない。もちろん、自宅の玄関には鍵がかかるし、母親は家を出る時に鍵を閉める。しかし直希は何故かこの家の鍵を持っているのだった。

 一度、鍵の件について母親に問い質した。母親の回答は、何かあった時に、すぐに駆けつけてもらえるように、とのことだった。しかし直希と別れたことを知っているはずなのに、未だに鍵を回収しないのは何故なのだろう。

 彼は、そこまで信用できる人間なのだろうか。悪い人間ではないだろうが、あまり頼りになるとは思えない。しかし、直希は今、両親の信頼を完全に悪用していた。

「今日は何してたの?」

「いつも通り」

 ネット、とパソコンの画面を差す。

「楽しい?」

「別に」

 特に、楽しいわけでもない。これはただの暇潰しだ。死ぬまでの、時間潰しだ。

「だったら出かけない?」

「出かけない」

 外出は歓迎されていない。母親からも、勝手な外出は控えるように言われている。しかし、直希となら話は別らしい。本当に、おかしいぐらいの信頼のされ方だと思う。

 糸子の前で見せる顔と、母親に見せる顔は、きっと違うに違いない。

 案外、強かなのかもしれない。

 とにかく、迷惑極まりなかった。きっと一日おきに来るなと言えば、二日おき、次は三日おきに来るのだろう。

「ねえ、あなた暇なの?」

「うん、まあそれなりに」

「友達いないの?」

「あんまり」

「仕事は」

「あんまり」

「あんまりって何よ」

「あんまり忙しくない」

「そもそも、仕事って何してるの?」

「知ってるでしょ」

 少し、ふて腐れたように言った。

「あなたの口から聞かせて」

 だってあたしは知らないから、と本音は隠して。怒っているように聞こえたのか、少し怯んでいるようだった。

「本屋で、バイトしてる」

「バイト」

 別に馬鹿にするつもりはなかったのだが、直希にはそう聞こえたようだ。

「わかってるよ。今のままじゃ駄目だって。でも、僕は自信がない」

 その気持ちはわからなくはない。給料分の仕事とは、と糸子は考えてしまう。そんなことを考えて、バイトさえ、ついに自分にはできなかった。自給八百円の価値が、自分にはあるのか、と。

 誰かに言わせれば、それは馬鹿らしいことらしい。働きたくない言い訳らしい。

 自信がない。自分を信じられない。それは、働きたくない言い訳らしい。らしい、らしい、と誰かに直接言われたわけでもない言葉が、糸子を責める。

 反論したい、と糸子は思う。言い訳ではない、本当に自分に自信がないのだ、と思うのだけれども、そんな自分の意見だって信じられないから、結局口を閉ざす。すると、やはりその通りなのだろう、ぐうの音も出ないだろう、とその誰かは言うのだ。

 自分を信じて生きている人にはわからない。

 きっと、彼女にはわからない。

 しかし、糸子には直希の気持ちがわかってしまった。わかってしまったから、どんどん、離れがたくなってしまう。

 彼女は、彼とは離れなければ駄目だと言った。彼を駄目にすると彼女は言った。

 しかし、糸子は逆だと思う。今彼と離れれば、駄目になってしまうと思う。自分を信じられない彼から、信じる相手まで奪ってしまったら、直希は一体何を信じればいいのだろう。

 最終的には、糸子は彼から離れるべきだと思う。それは、彼女に同意する。しかし、今すぐばっさり切り捨ててしまうことには反対だった。

 このままでは、糸子の後追い自殺でもしかねない。

 まったく、やっかいだ。

 どうして彼女はこんな彼と付き合っていたのだろう。男の趣味が悪い、悪過ぎる、と彼女の趣味を内心でこき下ろして、改めて直希を見た。

 顔は悪くない。少々小柄だが、可愛らしい若者だ。糸子と同じ大学に通っていたはずだから、頭も悪くないはずだ。

 彼には何が足りないのだろう。なかなかいいものを持っているはずなのに、直希は自信がないと言う。

 自信をつけるには、どうすればいいのだろう。糸子もないから、よくわからない。

 ああ、だからか、と糸子は思う。だから直希は糸子にべったりくっ付いて離れないのだ。自分ではわからなことだから、糸子に頼る。君なら知っているでしょう、と彼女に答えを強請る。

 しかし、今の糸子にいくらかわいく強請ってくれたとしても、直希が知りたいことを知ることはできない。だって今の糸子には、自信がないから。

 馴れ合うのも、悪くはないと思ってる。もたれ合って、それでも一緒に歩いていけるなら、それはそれでいいと思うのだ。

 しかし、糸子と直希では、そうはいかない。

 糸子は間もなく死ぬのだから。

 だから、直希には一人で立って、一人で歩いてもらわなければならない。悪いが、一緒には歩いてやれないのだ。

「社員登用制度とか、ないの?」

 その職場、と糸子は尋ねる。そういうのが世の中には存在するらしい、と噂には聞いている。

「ある、らしいけど」

 あまり興味がなかったから、とそれは嘘だろう。要は、ただただ自信がなかったのだ。

「一回、調べてみたら?」

 そこの職場が好きなら、と言ってみるが、直希は見るからに乗り気ではない。

「嫌なの?」

「嫌じゃないけど」

 嫌じゃないけど、自信がない。それはつまり嫌だということではないか。

「なんでもいいけど」

 あたしはあなたのことなんで、どうでもいいけど、と直希を突き放す。

「あなたは一人で生きていかなきゃいけない」

 どの口で説教するのか、と思う。その言葉は、そっくりそのまま自分自身に返って来た。

 一人で生きていく。それがあの時できていたら。

 そもそも、ここにはいないのだから。

 そうしなければならないとしても、どうできないこともある。一人で生きろと言われても、それが言うほど簡単でないことを、糸子は身を持って知っていた。

 それでも、強要でも、強制でも、させなければならない。

「でも、僕は」

「自信があろうとなかろうと、どうだっていいのよ」

 それでもやるのよ、と無茶を言う。そうすることしかできない。彼女なら、もしかしたら、もっといいアドバイスができるのかもしれないが、糸子にはできない。

「やりなさい」

 きつく、命令することしかできない。

「やったらさ」

 直希は言う。

「社員にさ、正社員になったら、また僕と付き合ってくれる?」

「あなたね……」

 あまりの馬鹿らしさに、言葉を失った。

「あたし、もうすぐ死ぬのよ」

「わかってる」

「わかってないと思うけど」

 実の所、糸子自身、よくわかっていない。死の実感、命が尽きていくような感覚は、まだない。

「わかってるよ」

 直希の言葉ははっきりしている。自信があるようだった。医者でもないくせに、どうしてそう言い切れるのか。

「それでも、僕は最後まで君の隣にいたいんだ」

 なんて感動的なセリフだろう。彼女が聞いたらきっと、涙を流すだろう。真っ赤な他人である糸子でさえ、少しばかり、ぐらりときた。

 ここで拒否したところで、結局、直希は糸子の傍を離れないだろう。恋人でなくても、友達だから、知り合いだから、と理由をつけては会いにくるだろう。

「考えてあげてもいいわ」

 どちらにしろ、結果が同じなら、少しでも彼をやる気にさせるようなことを、言っておこうと思う。

「あなたの頑張りが見れたら、いいわよ」

 また、付き合ってあげても、とこんなに上から言われて、直希は腹が立たないのだろうか。直希は素直に嬉しそうだった。約束が反故にされるなんて、少しも疑っていないようだった。

 良心が痛む。

 彼を裏切って、二人の良好だった関係に、ヒビを入れなければならないことに。

 自分にできないことを、彼にやれと強制しなければならないことに。

 まったく、損な役回りだ。大人しく、深窓の令嬢として、ベッドに転がっていればいいと思っていたのに、どうやらそんなわけにもいかないようだ。

「僕、頑張るよ」

 と、気合を入れる直希。

 ごめんね、と糸子は心の中で謝った。

 こんな半端な結果になってしまったことを、彼女と彼に、心から。


 ごめん、と蛍は心の中で谷口に謝った。

「二人で飲みに行った?」

「そんなに怒らないでよ」

 二人で顔を突き合わせた休憩室。今は糸子の休憩時間だった。店内には、谷口と店長が出ている。そこにたまたまシフトの件で話がある、とやって来たのが山口だった。

 会えばまあ、世間話ぐらいはする。それでつるりと、口を滑らせてしまってこの結果なのだ。

「どうして誘ってくれなかったんですか!」

「いや、だって」

 誘うおうとしたさ、私は、としかしそれは言えない。言ってしまえば、誘わなかった理由を話さなければならなくなる。その理由は、山口にだけは絶対に言えないことだった。

 しかし、こんなに怒るなんて。

 予想外だった。羨ましがるだろう、とは思っていたが、怒り出すとは思わなかった。

「俺が誘っても断られてばっかりなのに」

 それは初耳だった。

「何それ、私誘われたことないけど」

 あ、と山口は気まずそうに目を逸らす。

「まあ、いいじゃないですか」

 よくはないけど、と釈然としないがまあいい。

「だから、たまたまよ。たまたま。タイミングが合わなかっただけ」

 墓穴を掘ってしまったからか、山口は渋々と納得した。

「今度は誘ってくださいよ」

「お互いにね」

 山口は引きつったように笑って、話を変える。

「谷口さんと仲いいんすね」

「うん、そうかな」

 まあ、それなりに、だ。

「俺よりはいいでしょ」

「だって女同士だし」

「女同士か。俺は男として意識されてるんでしょうか」

 おや、と思う。

「あら、そんなに谷口にご執心だったの?」

 山口は、ううんと唸った。

「なんかね、仲良くしたいんですよね」

 男性が女性に向ける好意と、それは違うのだろうか。少なくとも、山口は違うと感じているようだった。

「俺の周りにいる奴らとタイプが全然違ってこう、真面目で」

「真面目な人がタイプなの?」

「タイプっていうか」

 山口は言葉に詰まっていた。

「俺、谷口さんに嫌われてるんですかね?」

「ずいぶん、自信ないのね」

「自慢じゃないですけど、コミュニケーション能力は高い方だと思うんですよ、俺」

 それはどうだろう、と蛍は思う。確かに人見知りはあまりしないようだけど、それと人と上手くコミュニケーションをとれるかどうかは、また別の能力だと思うのだ。初対面の人にも物怖じしないのは認めるが、山口は誰かと深く繋がることは苦手な様子だった。友達も多いようだし、本人にその自覚はないのかもしれないが。

 確かに、谷口とは真逆だ。谷口は人見知りをするし、友人も多くない。しかし少ない友人と、深く長く繋がっている。そんな感じだ。

 なるほど、山口が谷口に興味を持ったのは、自分にないものを持っているからか。人との深く、長く、堅い繋がり。

「でも、谷口さんとは、こう、上手くいかなくて」

 そうだろう。谷口は山口とは違い、気楽に人と接することができないのだ。相手のことを真面目に思いやるあまりに、発する言葉一つ一つにまで気を回してしまう。その結果、口を利かないことを選んでしまうのだ。黙っていれば、少なくとも、相手を傷つけることは言わない。近づいて、何かの拍子に傷つけてしまうぐらいなら、最初から近づかない。

 そのあたりの、谷口の心情が、山口にはよくわからないのだろう。そして、谷口もまた、山口の考え方が理解できないのだ。簡単に人に近寄っていく態度が、谷口には少し、軽薄に見えるのかもしれない。そして、自分にできないことを簡単にやってしまう山口を、うらやましい思っているのだ。そういう羨望とか、嫉妬が、少し態度に出てしまっているように、蛍には感じられた。そんな谷口の態度を、最近の山口は少々冷たいのではないか、と感じているようだった。

「普通に、喋りたいだけなんですけどね」

 珍しく、思い悩んでいるようだ。

「だったら普通に喋ればいいじゃない」

 谷口には時間が必要だ。自身に生まれた初めての感情に戸惑い、そして山口から向けられている感情にも、谷口は戸惑っているのだ。

 時間さえあれば、案外この二人は上手くいくかもしれない。お互いに、待つことができればだが。

 しかし山口のこの様子だと、それは少し難しいかもしれない。

「まあ、時間をかけて口説き落としなさいよ」

 時間をかけて、か。少し前の自分なら、考えられないことだった。

「口説くとか、そんなんじゃないですって」

 まあ、頑張りますよ、と最後山口は笑って帰って行った。

「山口さん、来てたんですか」

 店内に戻ると、谷口が尋ねた。

「何話してたんですか?」

 あなたのこと、とは言えないので、適当に誤魔化した。

「そうそう、この間飲みに行ったこと、バレちゃった」

「別に隠してないですよ」

 あ、でも、と気付いたのか、驚いて口元に手を当てる。

「大丈夫、話してないよ」

 羨ましがってただけ、と蛍は安心させるように笑った。

 そうですか、とそれでも谷口は微妙な表情をしていた。

 これは、おや。

 秘密がバレたと怯えているのではないようだ。

 これは、嫉妬か。蛍が山口と二人っきりで話したことに対する、細やかな嫉妬。

 この二人には、案外時間はかからないかもしれない、と蛍は少し、ほっこりした気持ちになった。

 私も、恋したいな、なんて乙女チックなことを考えて、蛍はやはり彼のことを思い出すのだった。


「ああ、もう無理だよ」

「弱音を吐く頻度が多い」

「弱音ぐらい吐かせてよ」

 今日も今日とて、直希は病人の部屋に押しかけていた。

「弱ってる病人に、わざわざ吐きにくるなって言ってるの」

 糸子はため息を吐いて、軽く頭を押さえた。今日は朝から熱っぽくて、体調があまりよくなかった。だからベッドから身を起こした状態で、直希の話を聞いていた。直希はいつも糸子がパソコンを弄る時に使う椅子に座っていた。

 直希は最近、スーツでやって来る。

「だって」

「だっても何もないわ」

 直希はしゅんと萎れる。就職活動は精力的に行っているようだが、その結果はどうやら芳しくないらしい。最初はやる気一杯だった直希も、今はすっかりしょげ返っていた。湯がいたホウレンソウみたいだ、と糸子は思った。

 もういくつ、面接を受けたのか。確かに頑張っているのは伝わった。だからこうして会ってやっているのだ。

「やっぱり僕は駄目なんだ」

 直希の弱音は止まらない。

「こんな僕なんて」

 死んだ方がマシだ、とでも言う気だろうか。糸子が睨むと、直希は口をつぐんだ。図星だったのかもしれない。糸子はため息を吐いた。

「そんなに、焦んなくてもいいんじゃないの?」

 別に期限があるわけじゃなし。

「焦るよ」

 焦ってるよ、と直希は泣きそうな顔をする。そうだったか、彼に期限がなくたって、こちらにはあるのだった。

「だって」

 うう、と直希はまた言葉を詰まらせる。いつ死ぬのか、わからないから。とか、どうやらそんな所だろう。言えばいいのに、と思う。今さらそんなことを言われても、傷つきやしないのに。

「頑張る。頑張るよ」

 弱々しい鼓舞だった。

「頑張ってよ」

 アドバイスはできないから、漠然と応援することしかできない。それでも、直希は素直に頷いて笑う。

「頑張るよ」

 漠然とした会話だった。内容はない。

 微妙な沈黙があった。ここ最近、こんなことが多い。この部屋に引きこもっている糸子にはサブカルチャーの話題しかないし、直希は弱音しか吐かないのだから、仕方のないことだ。

 こんなに気まずいのだから、もう来なければいいのに。

 愛想が尽きないのが、糸子には不思議でならなかった。

 彼女は、本当に愛されていたんだな、と思う。今の自分は、彼女への愛の惰性で愛されているに過ぎないのだ。

 胸が痛い。

 自分が、愛されているわけではないのだ。

 いや、今さら愛されてどうするというのだ。むしろ、愛想は尽かされるべきだ。それが彼女の望みで、彼のためにもなることだ。彼が一人で立って歩くことができるようになるのなら、過程はどうだっていい。

 だからこれでいいのだ。いいはずだ。

「じゃあ、これから面接だから」

 直希は重そうな腰をどうにか持ち上げた。寂しそうな背中に、待って、と思わず声をかけてしまった。振り返る直希に、何を言えば言いのだろう。

「何?」

 こっちが訊きたい。呼び止めてどうするんだ。

「なんでもない」

 呼んでみただけ、と誤魔化して笑った。

「頑張って」

 うん、と直希はやはり、寂しそうに頷いた。

「待って」

 だから、呼び止めてどうする。

 直希はいい加減、怪訝な顔をしていた。

「だから、ちょっと、察しなさいよ」

 ああもう、と乱暴に直希を呼ぶ。

「どうしたの?」

 上から覗き込むような態勢の直希。

 本当に、どうしたのだろう。これは、あまりよろしくない傾向だ。よくないことをしようとしている。

 ねえ、と尋ねる直希のネクタイをぐいっと引いた。狙いは上手く定まらない。

 それでも、糸子は直希にキスをした。

 ちゃんと唇には当たらなかった。少し横に逸れて、唇と頬の間ぐらいだった。勢い余って痛いぐらいだった。

 甘い雰囲気も何もない。残った余韻は痛みだけ。そんなキスだった。

 それでも確かにキスだった。

 呆けた顔をしている直希を、糸子はやっと解放した。手を離し、スーツの前を少し直してやると、軽く胸を押した。行け、という意思表示だ。もうまともに顔が見れない。

「糸子」

「いいからさっさと行きなさい。時間ないんでしょ」

 直希はふふ、と気持ち悪く笑って、部屋を出て行った。

「何してるの?」

 あたしは、と両手で頭を抱えた。

 期待を持たせるようなことして、どうするのだ。突き放さなければ、嫌われなければならないというのに。

 認めなければならない。直希に、惹かれ始めているということを。

 彼は彼女の恋人だ。彼が好きになったのは彼女で、今現在好きなのも彼女だ。

 あたしじゃない。

 勘違いしてはいけない。直希は自分の恋人ではない。今後も、恋人同士になることはない。友達の恋人なのだから。

 ある意味、彼と彼女は一生別れることなく繋がっているのだ。糸子がいくら直希を拒絶しようとも、それは彼女に拒絶されたことにはならない。逆に、直希が糸子のことを嫌いになっても、彼女のことを嫌いになったというわけではないのだ。

 お互いにそんな意識はなくとも、ずっと。お互いに気付かなくても、ずっと。

 勝ち目なんてあるはずなく、そもそも勝ってはいけない勝負だ。もしも万が一、億が一、糸子が彼女に勝てたとしても、その先に待っているのは悲劇だけだ。

 まもなく訪れる、死別だけ。

 この世に、未練なんてないと思っていたのに。

 糸子が生きたいとあれほど願った気持ちが、今さらわかった。しかしもう遅い。どうにもならない。

 ああ、泣きたいのは体調が優れないからだ。頭がひどく痛むからだ。

 それ以外の理由はない。決してない。

 糸子は頭から布団を被った。


 布団に潜り込んだところで、携帯電話が鳴った。電話ではない、メールだろう。寝転んだまま携帯を操作して、メールを開いた。

 谷口からだった。内容は電話をかけてもいいですか、だったので、返事をする前に電話をかけた。

 あ、あの、と言葉を詰まらせながら、おっかなびっくり、電話口では谷口の声がした。

「どうしたの?」

 眠りにつきそうな頭を起こして、蛍は尋ねた。

「あの、遅くにすみません」

 時刻は深夜の一時前だった。蛍は今日休みだったが、谷口は出勤だったはずだ。確か、山口と。

「いいけど、まだ起きてたし」

 辛うじて。蛍はひっそりと欠伸をかみ殺した。それでどうしたの、と話を促す。

「えっと」

 それでもまだ谷口はためらう。まあ、蛍に連絡して来たということは、きっと山口に関することだろうと想像はつく。

 なんだ、あいつ、待ちきれずに告白でもしたのか。

「山口さんに、今日」

 そうであれば、正直なところ、蛍にアドバイスできることはない。谷口の気持ち次第だと言って、さっさと電話を切ろうと思う。眠いからだろうか、ずいぶんとぞんざいな考えが蛍の頭を占めていた。

 でも、こればっかりは、本人の気持ち次第だからなあ、と眠たい頭でぼんやり考えた。

「飲みに誘われました」

 はあ、と蛍は微妙な返事をした。ほとんどため息のような、声とも言えない相槌だった。蛍は当然、飲みに行って、その後何かあったのだろうと、谷口の言葉を待った。しかし、谷口はそれ切り、黙りこくってしまった。

「え、まさか、それだけ?」

 谷口は黙ったままだ。電話の向こうで、きっと赤面しているのだろう。

「行ったの?」

 いえ、と谷口は小さく返事をした。

「誘われて、それだけ?」

「二人で、行こうって言われて」

 谷口はぼそぼそと拙く言葉を繋げていく。

「それで、返事ができなくて、困ってしまって」

 結局、返事ができなかったのだという。

「返事はいつでもいいって、山口さん、言ってくれたけど」

 きっと、呆れられた、と谷口の声は段々と小さくなって消えた。

「えっと、じゃあ、飲みに行こうって誘われたけど、その約束を保留にしちゃったってこと?」

 谷口は返事もしない。それは肯定だった。

「情けないです」

 それで、谷口は凹んでいるらしい。

「告白されたわけでもないのに」

「そうねえ」

 谷口は真面目な子だ。山口のことに対して、とても真剣だからこそ、とってしまった行動。いや、行動できなかったのか。軽く、流してしまえばそれで済んだ話だったのだろうが、そうすることも、谷口にはできなかった。

「次にどんな顔して会えばいいんですか?」

 私、と谷口は泣きそうだった。

「普通の顔して会えばいいのよ」

「でも、私」

「大丈夫だから」

 心配しないで、もう寝なさい、と蛍は諭した。

「それで、次に山口に会ったら、あなたの気持ちを正直に言いなさい」

「正直に、ですか」

「そう、好きも嫌いも正直に」

「好きも、嫌いも、何も」

「わからないなら、わからないと言いなさい」

 それさえわからないのなら。

「その気持ちを山口に伝えなさい。わからないなら、わからないでいいから」

 いいんでしょうか、と谷口は自信がなさそうだ。

「いいの、それでいいから」

 まあ、言い換えればそれしかできないから、なのだが。

 はあ、と谷口は渋々と言った感じで、やっと電話を切った。

 さて、と蛍は続けて、携帯電話を操作する。しばらく電子音を聞いて、それがぷつりと途切れた。

「お疲れ様」

 と、蛍が先に言った。

「お疲れ様、です」

 本当に、疲弊した声だった。

「今ね、谷口から電話があった」

「ええ、マジですか」

 驚いてみせるが、本当に驚いた様子ではなかった。

「山口」

「はい」

 いい返事だった。

「早まったわね」

「はい」

 山口はずいぶんと萎れていた。誘った方も誘われた方も萎れているなんて、おかしな話だ。しかし、やはり山口の方が凹んでいるように感じだ。さすがに、ショックだったようだ。

「こんなに嫌われてると思わなかったです、俺」

「だから、時間をかけて口説きなさいって、忠告してあげたのに」

 まったく、こいつらときたら。

「別に、嫌われはいないから、安心しなさい」

「でも、保留ですよ、保留。断られもしなかったですよ。本気で困ってましたよ」

 ショックを受けている原因はそこらしい。

「嫌われてるなら、好きになってもらえるように努力しますよ」

 殊勝なことだ、と蛍は思う。

「でも、困るってなんですか困るって。そんなに扱いに困ってたんですか?」

「そうね」

 うぐ、と山口は胸を押さえた。見えないけど、きっとそうだ。

「谷口は今ね、悩んでるのよ」

 困っているというよりは。

「悩んでる?」

「自分の気持ちがわからずに」

 どうしたものか、と蛍は慎重に言葉を選ぶ。蛍の口から、谷口の気持ちを説明するわけにはいかなかった。それは公平ではない。二人もためにもならない。

「とにかく、嫌われてるわけじゃないから、安心しなさい。ちょっと、びっくりしただけよ、急だったから」

「そんなもんですか?」

「そんなもんよ」

 それで押し通す。谷口の気持ちに言及されても困るので、少し、話を変える。

「返事はいつでもいいなんて、格好つけたそうね」

「かっこつけたわけじゃ」

 ないです、と山口は不満そうだ。

「そうとしか、言いようがなかったんですよ。断られることは想定してましたけど、あの反応は想定外でしたよ」

 まったく、と山口は肩を落とした。もちろん、そんな気配があっただけだ。

「いいとも悪いとも、とにかく、返事ができなさそうな感じだったんで」

「時間を与えたってわけね」

「時間を与えられたのは、こっちの方じゃないんですかね」

 山口は弱々しく笑った。執行猶予のような。

「まだ、取り返すチャンス、あると思いますか?」

「大丈夫よ、あなたたち二人、まだ何も始まってなから。取り返すも何も、まだ何も失ってない」

 失うのが怖くて、何も前に進んでいないのだから。

「けど、もう話しかけてさえくれないかも」

「大丈夫よ、大丈夫」

 段々、眠くなって来た。蛍の返事はどんどんぞんざいになっていく。

「次会ったら、普通にしてなさい。それで、普通に話を聞いてあげなさい。それで、なるようになるわ」

「なるように」

 上手くいくとは言わない。そんなこと、蛍に保障できることではない。二人のことは、二人にしか解決できない。山口にもそんなことぐらい、わかっている。だから、蛍の冷たい言い分にも、山口は何も言わなかった。

 すんませんでした、と山口は一言謝ってから電話を切った。こんな時間に電話をかけたのは蛍の方だったから、むしろそれはこちらのセリフだったけれど。

 まあ、完全に巻き込まれて、たたき起こされたわけだけど。

「二人の問題ね」

 それにしても、と蛍は携帯電話を放り投げて呟く。

 二人の問題を、完璧に投げ出して来た自分が、よく言う。

「二人の問題は、二人にしか解決できない」

 だとしたら、糸子と直希の問題は、どうなるのだろう。

 彼女に解決できないなら。

 彼と彼女は今、どうしているのだろう。


 ああ、こんな時、彼女はどうしていたのだろう。

 ここは、相変わらず糸子の自室だった。暇を潰す本やDVDばかりが増えていた。それ以外に、特に変わったことはない。母親が小まめに掃除にやって来るので、埃さえ溜まらず以前と同じ量だろう。

 変わったのは、彼との距離感だけだった。

 近い。

 直希はずいぶんと近い所にいた。糸子はベッドに腰掛け、その隣に、隙間もなく直希もいた。肩や腕、指やら太ももが、触れる距離だ。

 この間の一件から、直希との距離感がすっかり違ってしまっていた。いや、直希からすれば、元に戻ったというところなのだろう。直希はすっかり以前の通りに戻ったつもりでいた。

 直希の心境の変化も問題だったが、一番の問題はその変化を、自分が受け入れてしまっていることだった。困ってはいるが、拒絶をする気にはなれなかった。心臓は大きな音を立て脈打ち、痛いぐらいだったが、それは不快なものではなかった。

 この感じは知っている。懐かしいこの感じ。

 この感じは、非常によろしくない。よろしくないのはわかっていたが、抗えるものではなかった。

 なんたって、心地いい。胸を締め付けるようなこの感覚さえ、丁度よい刺激だった。

 これは、まずい。非常にまずい。

「一次、通ったんだ」

 直希ははにかみながら、唐突に言った。

「面接」

「そう」

 それはよかった。うん、と直希は糸子の少ない言葉にも明るく返事をする。

「まだ、先のことはわかんないけど、どうにかなりそうだよ」

「油断してると、足元すくわれるわよ」

 大丈夫だよ、と直希は笑う。ずいぶん、前向きになったものだ。

「心配してくれて、ありがとう」

「別に」

 独り立ちしてくれないと困るからなのだが、今糸子が何を言おうと、直希は前向きに、自分に都合のいいようにしか受け取らないだろう。 

 まったく、こいつは本当にわかっているのだろうか。

 今すり寄っている相手は余命もう一年もないということを、本当に理解しているのだろうか。いつこの世界から消えてなくなるとも、知れないのに。

 寄る辺を失った時、この頼りない青年は、きちんと一人で立てるのだろうか。それどころか、このベッドに一人座っていることも、できないのではないだろうか。

「大丈夫だからさ」

 直希は糸子に近い所で微笑む。

「糸子はもっと、僕を頼ってくれていいんだよ」

 うん、と糸子は曖昧に頷いた。本人はずいぶんとしっかりしてきたつもりらしいが、傍目に見ればまだまだだ。しかしその本音は飲み込んだ。それは直希のやる気を削ぐことにしかならない。

 直希には実力がない。能力がない。言い過ぎかもしれないが、彼はまだ何も身に付けていないのだ。まだスタートラインにさえ立てていないのに、後退していた分を取り戻しただけなのに、それを前進したと勘違いしているのだ。

 面接を受けて、職場を見つけて、働きだして、それを続けてやっと能力が身に付くのだ。

 そうだというのに、頼れとは、呆れて言葉もない。

 言葉も出ないのに、糸子はゆっくりと直希に身を寄せる。直希を拒絶したりはしなかった。暖かい肩に触れ、心が落ち着いていくのがわかる。

 直希の考えは甘い。少し努力して頑張れば、褒めてもらえて当然だと思っている。まるで子供だ。

 しかし糸子はさらに甘い。直希の細やかな努力も、いじましいと感じてしまう。愛おしいと思えてしまう。

 この組み合わせはよくない。相性がいいのが、逆によろしくない。直希の甘さを、さらに甘ったるいもので包み込んでしまう。

 糸子じゃ駄目だ。糸子じゃ直希を駄目にしてしまう。突き放さないといけない。離れなければならない。

 しかし突き放すこともできない。それは湧き出してしまった情のせいでもあり、直希自身のせいでもある。彼はまだとても、自分一人の力で立てる状態ではなかった。精神的に、少しも自立していないし、実際、未だに実家暮らしだったはずだ。

 いつまでも、一緒に居てやれるならいい。二人で寄りかかり合って生きていくのも、間違いではないだろう。しかし、糸子にはそれができない。

 糸子には。では、彼女になら。

「ねえ、ちょっとコンビニに行って来てくれない?」

「何か欲しいものでもあるの?」

「別に」

 うん、と直希は首を傾げた。

「とにかく、あのコンビニに行って来て欲しいの」

 あのコンビニ。彼女がいる、あのコンビニに。

 そうだ、そしたら、全部元通りだ。

「行ってくれるだけでいいから」

「それってどういうこと?」

「いいから」

 理由は説明できない。

「とにかく行って来て」

 お願い、と懇願する。そこに尋常ではない様子を感じとったのか、怪訝な表情をしながらも、直希は承諾した。

「でも、わざわざそこじゃないといけないの?」

 そのコンビニは電車で二駅行った所にある。

「同じコンビニならこの近くにも」

「ごめん、そこじゃないといけないの」

 直希の当然の主張を遮って、糸子は断固として言った。

「行ってくれたら、わかるから」

「わかったよ」

 直希は腰を持ち上げて、上着を羽織った。

「限定スイーツでも買ってくるよ」

 やっと出かけて行った直希を見送って、糸子はすぐさま携帯電話を手に取った。彼女だって、二十四時間働いているわけではない。

 彼女に電話をかける。コールが続き、最後には留守番電話になった。ということは、少なくとも、彼女は今電話に出られる状況にはないということだ。それすなわち、仕事中と決まったわけではないが、それでもそも可能性が高い。

 これも運命か。

 そんなふうに考えたら、ほんの少し寂しくなった。

 こんな気持ちになるのなら、さっさと死んでしまいたい。

 一人になった部屋で、糸子は勝手に落ち込んだ。

 慰めてくれる人はもういない。

 きっと、もう来ない。

 だって、彼には彼女がいるから。


 眠い目をしばしばさせて、蛍はレジ前に立っていた。今日はいつもより早い時間にシフトが入っていたから、どうにも上手く体が機能していないように感じた。といっても、もう夕方で日が落ちる頃だから、眠いのは完全に蛍の自業自得、寝不足によるものだった。

 谷口と山口との電話の後、何故か目が冴えてしまい、結局朝まで本を読んでいた。昼間に仮眠をとればいいかと軽く考えていたら、今日に限って出勤が早かったわけだ。

 なんとも間が悪い。しかしまもなく交代の時間だ。今日は山口とも谷口とも会わないシフトだ。しかし二人はお互いにに、顔を会わせるシフトだった。心配だったから、待っていようか、とも思ったが、この睡魔には抗えそうもない。

 二人には悪いが、フォローはまた今後にしよう。この覚醒し切らない頭では、どうせ何も言ってやれやしない。

 自動ドアが開閉する音がした。いけない、と蛍は慌てて顔を上げた。

「いらっしゃいませ」

 蛍の声に反応して、同僚のやまびこが返って来る。視界に入って来た客の顔を見て、蛍は固まった。営業スマイルを歪にしたまま、蛍は首だけを動かして、その客の姿を追い続ける。

 これは、なんて偶然。

 いや、と蛍はすぐさま否定する。

 こんな偶然あるもんか。たまたま、寄ったなんて、あり得ない。彼の家からここには電車でいくらかかかる。仮に彼女の所から来たのだとしても、たまたま選ぶ距離にこの店はない。

 あの子が手を回した。そうとしか考えられない。しかしどうして、何故だ。

 彼は店内を物色している。何か目的の物を探しているようには見えなかった。入り口を入って雑誌のコーナーから進んで、飲み物をちらりと覗き、新商品のカップラーメンを手に取ってから、デザートコーナーでしばらく足を止めていた。しかし結局、何もレジには持って来ない。

 しばし、何か考え込む様子を見せたかと思えば、手ぶらのままでレジまで、蛍の前までやって来た。

「あの」

「はい」

 声がひっくり返った。さあっと顔が赤くなる。失礼しました、と慌てて俯いて、改めて言う。

「いらっしゃいませ」

「変なこと聞いてもいいですか?」

 まったく、妙な客だ。彼のことを知らない人なら、きっとそう思うことだろう。確かに、彼の行動は誰が見ても不審なものだが、蛍にはそこにさらに驚きが混じる。

 彼はわざわざ、店員と雑談したりはしない。そんな人じゃない。

 蛍は彼のことをよく知っていた。だから彼も自分のことをよく知っているはずだ。彼とは深い仲だった。

 しかし、彼にはわからない。わからないはずだ。それなのに、いつもとは違う行動をする彼に、少し期待をしている自分がいることに、驚いていた。もしかして、気付いたんじゃないか、なんて。

「大丈夫ですか?」

「はい、申し訳ございません」

 すっかり呆けていた蛍に、彼は心配そうな視線を向ける。それはとても懐かしい眼差しだった。

「いえ、こっちこそ」

 と、彼は急に話しかけたことを謝罪した。

「それで、えっと」

 お互いに恐縮してしまって話が進まない。困ったような視線を、蛍は彼に向けた。

「変なことを訊きますけど」

 彼はもう一度前置きしてから言う。

「ここって、何か特別なこと、ものかな、ありますか?」

「特別なこと、とは?」

 質問の意味がわからず、鸚鵡返しで質問した。

「それが、ちょっとよくわからなくて」

 僕にも、と彼は少し照れて笑った。

 彼女は、一体彼になんと言ってここに寄越したのだろう。

 蛍は彼がここに来たことを、もう彼女の差し金だと疑っていなかった。

「コンビニ限定商品なんかはありますが、さすがに当店にだけ、というのは」

 普通のチェーン店だ。この店にあるものは、同じチェーン店になら、当然あるものだ。この店だけのオリジナル商品なんて存在しない。

 そう、コンビニの中で違うものなんて、そこで働く人間ぐらいなものだ。

「そうですよね、やっぱり」

「あの、何をお探しでしょうか?」

「人に頼まれて来たんで、僕にもよくわからないんですよ」

 どうしましょう、と逆に尋ねる始末だ。どうしましょう、と言われても、ただの店員にどうしろというのだろう。エスパーでもなのに。彼が困っているのはわかっていたが、それ以上に、蛍は困り果てていた。

 話したいことが山ほどあった。伝えたいことが溢れ返っていた。しかし、彼と蛍は間違いなく初対面だった。言えない。言えるわけがない。他の誰かに朽ち果てそうな自分の体を押し付けて、生きながらえているなど、言えるわけない。

 蛍は困った顔で、笑うことしかできなかった。

「すみません。適当に甘いものでも買って帰ります」

「待って」

 行ってしまう、と思ったら、呼び止めてしまっていた。彼は驚いた様子で振り返った。

「なんでしょうか?」

 今さら、なんでもないとは言えなかった。言いたくもない。なんでもなくなんて、ない。彼と自分の間には、決して、何もなくなんかない。

「いえ、あの」

 けれど、林道蛍として、彼にどんな言葉をかけていいのかわからない。

「また、いらしてください」

 結局、コンビニの店員として、お客様に言葉をかけた。

 彼は笑って頷いた。

 彼は蛍の顔を覚えただろうか。彼は蛍の名札を見ただろうか。彼の記憶の中に、自分という存在は刻まれただろうか。

 本当に、また来てくれるだろうか。

 何を期待しているのだろう。そんな資格はないのに。彼を捨ててここまで来たのは、自分のくせに。

 一体、なんのつもりなの。

 施しのつもりか、慰めのつもりか、はなむけのつもりか。なんにせよ、鼻先に人参をぶら下げられている気分だった。いくら頑張って走ったところで、それを口にすることはできないのだ。絶対に。

 あの、とおずおずと声をかけて来た同僚のおかげで、蛍はやっと我に返った。

「ごめんね、ぼおっとしてた」

 いえ、と同僚の笑顔は引きつったままだった。怖い顔をしているのだろう。蛍はそう思っていた。だって、彼女に腹を立てていたのだから。

 上がってください、と同僚に言われて、蛍はさっさと裏に引っこんだ。

「ねえ、林道さん、どうしたのかな」

 だから、残された同僚二人がこんな会話をしていたのを、蛍は気付きもしなかった。

「うん、どうしてあんなに」

 泣きそうだったのかな、と。


「どういうつもりよ」

 彼女の反応は早かった。時刻は夕方を過ぎ、しかしまだ夜中とも言えないぐらいの半端な時間だ。夕飯時ではないだろうか、と連絡を自重するぐらいの時だ。それなのに、彼女は謝罪の言葉一つなく、糸子が電話に出るやいなや、彼女の低い声が飛び込んで来た。それはどこか懐かしい感じがしたが、それがいざ自分に向けられていると、ひどく不快だった。

 そうか、これなら誰からも、愛想を尽かされるのも、納得できる。

「何が?」

 とぼけてみたのは何故だろう。彼女が焦る様が、なんだかおかしかったからだろうか。なるほど、外側をいくら変えたところで、本質的な嫌らしさは変えられないらしい。

「わかってるくせに、すっ呆けてんじゃないわよ」

 口がよろしくない。

 彼女から何かしらのリアクションがあることはわかっていた。感謝はされないだろうことも、最初からわかっていた。

 これは、彼女のためにしたことではない。

「彼のためよ」

 そう、と低い声が返る。

「ずいぶんと、ご執心な様子で」

「お陰様で」

「別れてくれって頼んだよね、私」

「頼まれたけど、実際にそうしたけど」

 一度は確かにそうした。

「向こうが別れてくれないんだから、仕方ないでしょう?」

 しつこく言い寄られて、なんていい女ぶってみた。正確に言うなら、糸子と直希は現在、恋人同士ではない。直希が職に就いたら、よりを戻してもいいという話だったから、現在はただの友人ということになる。しかし、その辺りの事情を、話すつもりはなかった。

 そのぐらいの思い出、一人占めしたってバチは当たらないだろう。

「でもほら、あたし、もうすぐ死んじゃうじゃない」

 沈黙が返って来た。

「だから、あなたが面倒見てよ」

 彼のこと。押し付ける。

「いいでしょ」

 それで、全部丸く収まるでしょ、と。

「顔は違っても、中身はあなたなんだから」

 愛し合ったあなた達なのだから。

「問題ないでしょ」

 見た目のハンデぐらい、彼女になら乗り越えられるはずだ。

 それに、持って生まれた顔は、悪くないはずだと自負している。

「もう、これで、連絡することもないと思うから」

 彼女とはもうこれで、縁を切ろうと思う。

 そして、彼とももう終わりだ。

「あたしは一人で死ぬから」

 安心してよ、と声が震えて言葉にならなかった。泣いているのだろうか、と思ったが、どうやら泣いてはいなかった。ただ、喉が焼けるように熱いだけだ。

 悲しくはない、辛くはない。死ぬのが、怖いわけでもない。

 ただ、少し、ほんの少しだけ、寂しいだけだ。

 それだけだ。

 電話は一方的に切った。


 電話は一方的に切れた。

 あの子、あの子はまさか。

 電話は掛け直さなかった。これが本来、自分が望んだことだったから。

 彼女はたった一人になって死ぬつもりだ。

 それは、自分自身が望んだことだった。

 けれど、できなかったことだ。

 自分には、たった一人で死ぬ勇気はなかった。結局、最後まで。誰かが訪ねて来てくれないのは寂しかった。仕事も迷惑をかけながら、ぎりぎりまで続けた。一人になんてなりたくなかった。

 怖かった。寂しかった。

 誰かに必要ようとされていたかった。それが、最終的に誰かを傷つけることになるとわかっていたのに、それでもいい人でいることを、やめられなかった。

 だからそれを彼女に押し付けた。彼女は押し付けられたそんな願いを、きちんと叶えようとしてくれている。

 それだけのことだ。誰も彼をもはねつけて、傷つける人を、最小限に抑えようとしてくれているのだ。そもそも、文句を言う筋合いなんて、自分にはないのだ。

 林道蛍として生き、そして彼とやり直す。ああ、それはなんて理想的なのだろう。それができれば、どんなにいいだろう。

 なんとか落ち着いてきた日常。バイトだが、少しは貯えもできたし、好きな物も買える。恋愛相談をしてくれるほど信頼してくれている後輩もいるし、軽口を叩ける異性の友達もいる。

 ありふれた日常。

 満ち足りた日常。

 これは、自分の手で成したことだ。この体を使って、自分という人間が作り上げたすべてだ。だからこれは間違いなく、自分のものだ。

 彼女に引け目を感じる必要はない、はずだ。

 彼女は死にたがっていた。だから、これは彼女が望んだことでもある。

 でも、でも。

 本当に、そうだっただろうか。

 本当に、死にたがっている人間なんているのだろうか。誰だって、とりあえず、死にたくないものではないだろうか。

 今この環境にいるのが、もしも、彼女の方だったら。

 死にたいなんて、思うだろうか。

 いや、でも、これは私が。

 体温が高い。熱があるのかもしれない。考え過ぎからくる、知恵熱だろうか。それとも、今さら、この体がこの精神に拒否反応を示し始めたのだろうか。

 違う、違う。これはもう、私の体だ。

 楽しかった日常にずっと隠れていた罪悪感が、今さら顔を出した。

 死ぬことが、彼女の望みでもある。蛍に残された大義名分はその一点に尽きる。

 今彼女を苦しめているものはすべて、本来は自分のものだった。それを、たったそれだけの理由で、その絶対的な理由一つで、すべて彼女に押し付けたのだ。

 だから、考えたくなかった。もしかしたら、彼女の優しい心に、付け込んでしまっただけではないだろうか、なんて。

 時間がない。

 今一度、立ち返って考えなければならない。

 彼女は、林道蛍は本当に死にたいのか、と。

 今向き合わないと、もう二度と、彼女と向き合うことができない。

 今しかない。

 彼女と私には、今しかない。

 片方は、まもなく、失われる。それはもう覆りようがないことだ。

 だから、今、向き合わなければならない。

 私か、彼女か。

 死ぬのは、生きるのは。


 死にたくない、なんて思っているのだろうか。

 見上げる天井は白い。

 糸子は病院にいた。病室のベッドの上だった。意図的か偶然か、以前と同じ病室とベッドだった。

 体を動かすのがひどく億劫だった。痛みはあまりない。重いような、だるいような、この体にかかる重力だけが増したような気分だ。

 体はベッドに横たえたまま、ぴくりとも動かない。少なくとも、糸子はそう感じていた。代わりに、頭の中は冴えわたっていた。いや、代わりにというより、他のあらゆるものを犠牲にして、頭の中にエネルギーを集中させているのだろう。

 そうして明瞭になって、明晰になった頭で考えることはといえば、彼と彼女のことしかなかった。

 今さら、どの面下げて、そんなことを考えるのか。いや、この面は元々彼女のものだから、悪くはないのだが。

 しかし、今朝鏡で見た顔は青白く、頬はこけ、とてもきれいとか可愛いとは、形容しがたないものだったが。

 死期が近い。誰が見たって明白な事実に、本人が気付かないはずなかった。

 いよいよ目前に迫って来た死に対し、恐怖はなかった。それは嘘でも強がりでもない。死ぬことは糸子にとって、逃げ道としてずっとあった。逃げ道があったからこそ、糸子はいままで生きてこれたのだ。変な話、死ぬこともなく生き続けろと言われていたら、糸子はずっともっと早く生きることをやめていたはずだ。

 こんな苦行がずっと続くのなら、と。

 今だって、苦しい。体は自由に動かないし、頭は明瞭だが、どこか熱を帯びていて、暑苦しい。正常な思考を大いに妨げる。

 だから、この後ろ向きな思考は熱のせいだ。きっとそうだ。

 熱が引けば、また素直に受け入れられるさ、きっと。

 だから心配ない。心配ないよ。

 誰に向かってか、糸子は言う。

 そして目を瞑って眠りについた。

 このまま目覚めなければいい、とどこかで考えながら。


 決めたことがあった。

 この決意を誰かに聞いてほしかったが、誰にも何も言うわけにはいかなかった。きっと、誰も信じないだろうけれど。

 これからの自分と彼女に、ケチがつくようなことがあってはいけない。

 迷った時点で、きっともう決まっていたのだろう。

 迷った時点で、気付いてしまったのだろう。

 私たちは、迷ってしまっただけなのだと。

 生き方を、迷ってしまっただけなのだと。

 そして、替わった私と彼女。

 そして、変わった私と彼女。

 それは誰にも知られることはない。

 これからもずっと。


 あ、死ぬ。死にそう。

 ひどく、穏やかな気持ちだった。

 目は覚めていたが、目を開ける気分にはならなかった。もうそんな余分な体力は、糸子の体に残されていなかった。

「聞こえる?まだ、生きてるよね」

 一体誰だろう。母親の声ではないことは、辛うじてわかった。聴覚の働きも正常ではないようだ。耳から入った情報を、処理する脳が機能していないのかもしれない。なんにせよ、今何が起こっているのか、糸子には理解できなかった。

 あまり、理解したくもなかった。

「じゃあ手を握って」

 手に温度を感じた。まだ、そんなものを感じる神経が残っていたのか。

「目を閉じてって、もう閉じてるわね」

 これは誰の声だ。聞いたことがあるような、でも、あまり馴染みのない声だ。

「本当に、いいのね?」

「ちょっとだけ、待って」

 どうやら二人いるらしい。片方の声には聞き覚えがあった。何十年も、この身に染みついた声なのだから、当然だ。

「藤堂糸子、いえ、蛍」

 林道蛍の中の糸子は言う。

「ありがとう。一番辛い時期を引き受けてくれて」

 糸子は蛍の声で言う。

「やっぱり惜しくなっちゃった、自分の体」

 こんな体が今さら惜しいというのか。そんなの嘘に決まっている。

「だから、やっぱり返して」

 何を言っているのだ。この体は、もうすぐ終わってしまうのに。

「我がままばっかり言ってごめんね。自分勝手はよくわかってる。だけど、やっぱりこれが正しい形だと思うから」

 勝手だ。こんなのずるい。彼女の選択から、あたしは逃げられない。

「楽しかった。後悔してない。するはずない」

 それは自分自身に言い聞かせているようだった。

「だから、ありがとう」

 彼女はどんな顔をしているだろう。目を開ける力も湧いてこない。

「目を開けたら、振り返らないで」

 じゃあ、と。

「さよなら、蛍」


「誰に、言ったの?」

 蛍はあなたでしょうに。尋ねようとして、あっさりと声が出た。意識せずとも目が開いた。

「こっちを向いて」

 ぐいっと、誰かが腕を掴んだ。だから目を開けてすぐ見たのは、化粧の濃い女性の顔だった。強い力で、体ごと持っていかれる。

「さっさと出るわよ、誰かに見つかると面倒だから」

 病室を出ると、やっとそいつの正体が見えた。

「マキ」

「私の名前はどうでもいいの」

 マキは口の端を吊り上げて笑った。

「あなたはだあれ?」

「林道蛍」

 迷わず言った。いつもの顔で、いつもの声で。

「あたしは、蛍」

 この体は、間違いなく。

「彼女は、どうしたの?」

 どういう心境の変化があったのか。

「さあ、あたしはお金を貰って仕事をしただけだから」

 人一人の命を、人生を左右しておいて、しかしマキはとくに何も感じていないようだ。

「あなたも彼女も勝手ね。あたしの意思は無視?」

「まあ、元の形に戻っただけだしね」

 マキはしれっと言う。

「あたしとしては貰うものをもらったから、その分の仕事をしただけ。ご不満なら、やり返せばいいんじゃない?」

「五万持って来いっていうの?」

「出張費も含めて十万」

 そんなお金、と蛍は眉間に深い皺を寄せた。しかし考えてみれば、彼女はこの蛍の体でそれだけのお金を貯めて、これを実行したのだ。

「ああ、彼女からの伝言。私が貯めた分は全部使ってしまったからって」

 と、いうことは、現在貯金はゼロということだ。

「だから、あたしに依頼したかったら、まずは働くことね」

「彼女は、他に何か言ってた?」

「何も。ただ元に戻るだけだからって」

 そう、と蛍は不思議なぐらい落ち着いていた。心が、この体に馴染んでいるからだろうか。

「元通り、なんて」

 そんな簡単な話じゃない。何もかもが元の通りなんて、そんなはずない。

「急いでください!」

 白衣の天使が、呆けて立っていた蛍を突き飛ばして病室に入っていく。マキはひらりと軽やかに避けた。どたどたと慌ただしく人が出入りする。母親の姿もあった。当然、蛍には目も止めず、病室に走って行った。

 ナースに連れられて、もう一人、走って来る男性がいた。男性は蛍をちらりと見た。見た気がした。それは完全に蛍の希望的観測だった。今の彼に、余所見をしている余裕なんてあるはずない。

「いいの?」

 マキが尋ねる。あたしが訊くのもなんだけど、と笑う。

「いいも何も、彼女が決めたことだから」

 最初から、蛍が決めたことなんて一つもありはしなかった。

「あたしにはどうにもできないわ」

 最初にお金を出したのも彼女で、最後も彼女だった。

 お金もないし、と言うと、それもそうね、とマキはあっさりしたものだ。

 悲しいとは思わなかった。それ以上に、驚きがあった。涙も出てこない。自分は冷たい人間なのかもしれない。

 しかし、これは全部、彼女が決めたこと。

 全部、彼女のわがままだ。それに、付き合わされただけなのだ。

「あたしには」

 林道蛍にできるのは。

「生きることだけ」

 そう、マキに蛍の決意表明は、少しも響かない。別にそれで構わない。そもそも、そんなことを宣言せずとも、みんな生きているのだ。何も特別なことはない。

「最初から」

 あたしにできることなんて、それだけだった。

 彼女の荷物を背負って生き抜くことなど、できなかったのだ。

 そしたら急に悲しくなって、泣いた。

 それはきっと、自分のための涙だ。情けない自分を哀れに思っての、涙。

 こんなに情けない自分が、まだ生きているんだ。

 そう思って、悲しくて、泣いた。

 目頭の熱、頬を伝っていく涙の感触、口から漏れる嗚咽。

 ああ、生きているんだ。

 自分は、まだ。

 そしてこれからも。

「さよなら、糸子」

 返事は来ない。

 そして、また泣いた。


 林道蛍は泣いた。


 よかった。これで、よかったと糸子は思う。

 懐かしい倦怠感の中、どうにか、目を開けた。

 母親の顔、医師や看護師の顔、そして、彼の顔。

 よかった、と思う。

 この中に彼がいてくれて、よかったと思う。彼女には散々別れてくれと言ったくせに、勝手なことだ。彼が、自分のために、藤堂糸子のために、泣いてくれることが、心から嬉しかった。

 やっぱり、戻ってよかった。この涙は、私のものだ。

 彼は今、間違いなく藤堂糸子のことを見て、自分を見てくれている。そして、泣いてくれている。

 ごめんね、と頑張っても言葉は出なかった。さすがに、そこまで望むのは贅沢か。

 彼が、彼らが何を言ってるのかさえ、もうわからない。

 それでも、きっとこれでよかった。

 藤堂糸子の人生は、これで間違いなく、終わることができる。

 よかった、間違えないで。

 確信して、糸子は目を閉じた。

 願わくば、愛すべき彼らが幸せでありますように。


 藤堂糸子は目を閉じた。

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