第3話 私とあたし
ただいま、と言ってみたものの、返事はなかった。人の気配はあるのに、おかしなことだ。
両親とはほとんど顔を会わせない。会わせたとしても、話はしない。彼女はそう言っていた。
彼女のように振る舞う必要を、蛍は感じていなかった。
そう、もう私が、林道蛍なのだから。
彼女らしく、とはつまり私らしくということだ。妙な演技をした方が、違和感が出てしまう。そう思うのだ。
蛍は自分の部屋には戻らずに、リビングに向かった。彼女の家は一軒家だった。玄関を入って短い廊下があって、ドアを一つ挟んだその先だ。蛍がドアを開けると、ソファに座っていた女性と目があった。小さな湯呑を大事そうに両手で包むように持ち、テレビのニュースを見ていた。
この人がきっと、彼女の母親なのだろう。歳は自分の母親と同じぐらいだろうか。それよりも少し上かもしれない。ふくよかで見るからに包容力のあるその女性は、丸い顔に浮かんだ丸い目をさらにまん丸く広げて、こちらを見ていた。
「あんた、誰?」
「え」
どきりとした。まさかもうバレてしまったのだろうか。もしかして、入れ替わったなんてただの錯覚で、自分はまだ藤堂糸子なのだろうか。もしそうなら、ただのこれは不法侵入だ。
人生の最後の最後で、とんだ汚名を着るはめになってしまった、と蛍が顔を青くしていると、女性はげらげらと大声で笑いだした。
「いやだね、いくら久しぶりでも、娘の顔を忘れたりしないよ」
冗談じゃないか、と女性はよっこらせ、と立ち上がった。
「ご飯は?」
「まだ」
呆気にとられてしまい、まともに返事ができなかった。ずいぶんと冷たい返事だったが、女性は気にしていない様子だ。これが彼女のいつも通りなのかもしれない。
いや、親と子の会話なんて、どこもこんなものなのだろうか。自分自身を顧みると、こんなふうだったような気もするし、違う気もした。他人だという意識があるから、不自然な感じが拭えないのだろうか。
あまり、意識しないようにしないといけない。冷たいぐらいが丁度いい、そう思って行動する方がいいのかもしれない。口数は少なく。その方がきっとぼろが出ないし、自然なはずだ。
「温めるから、待ってなさい」
と、女性はキッチンに向かった。
待ってなさい、と言われても、どこで何をして待つのが正しいのか、わからない。しかしただ突っ立っているのは確実に不自然だから、先ほどまで母親が座っていた場所に座った。ほんのりと温もりが伝わってきた。
居心地は、やはりよくない。座っているのに、どこにも尻がついていないような、おかしな感覚だ。地に足がついていない。それの、尻バージョン。もぞもぞ、と何度か身動ぎしながら待っていると、母親がおぼんを両手に持って戻って来た。
「ここで食べるの?」
母親は尋ねるが、蛍の返事を待たなかった。さっさとテーブルにお皿を並べてしまう。お皿の上はカレーライスとサラダだった。ごろごろと大きな野菜とお肉が遠目にもわかる、いかにも家庭的なカレーだった。サラダはレタスにトマトに、小さな豆腐がころころ転がっていた。
「ほらちょっと詰めて」
久しぶりの家庭料理に見惚れていると、母親がお尻をずいずいと押し込んで来た。結局、母親は先ほど座っていた位置に落ち着いた。そうして、何の気なしに、またテレビに視線を送る。
並んで座っているので視線は合わないが、蛍はずっと視線を感じていた。蛍も母親の様子を、ちらちらとうかがっていた。
蛍は出された食事に視線を戻した。食事用のテーブルではないのだろう。ソファに比べて、テーブルはずいぶんと背が低い。食べるには皿を持ち上げなければならなかった。それを見越してか、分厚い皿だったので、熱くはなかった。
「どう?」
母親は早って尋ねた。
「まだ食べてない」
スプーンで一口、すくって食べた。病院食とは違う、藤堂家のものとも違う、林道家のカレーライス。それはずいぶんと甘かった。甘かったけれど。
「美味しい」
そう、と母親は素っ気ない返事だった。しかし、声が少し弾んでいるように感じた。初対面の蛍にもわかるような、わかりやすい変化だった。
しばらく無言で、食事を進めた。思いのほか、空腹だったらしい。すべて食べ終えると、ずっしりとした満腹感が訪れた。満腹感というのも、久しぶりの感覚だった。
「ごちそう様でした」
しっかりと手を合わせてそう言うと、母親は目を丸くした。
「久しぶりに聞いたわ、あなたのごちそう様」
彼女はずっと、自室で食事をとっていたらしい。
「いつもはサラダ残すのに」
珍しい、と母親はじろじろと蛍を眺め回す。
「少し、太ったんじゃない?」
元々を知らないから、蛍にはなんとも答えようがない。
「今日はどこに行ってたの?」
母親は次々に質問をしてくる。視線はこちらを向いたり、あちらを向いたりと忙しい。何気なくを装っているらしいが、上手くいっていなかった。普段とは違う行動をとる娘に興味津々だが、勢い勇んで尋ねれば逃げられてしまうのがわかっているから、湧き出てくる興味を必死に押さえつけている。
「それで、最近どう?」
漠然とした質問にはなお、答えにくい。彼女の近況を、蛍はよく知らない。彼女のことを、蛍はよく知らないのだ。入れ替わった後で、色々と話をしたが、お互いに表面的なことしか教え合っていない。家族構成だとか、家の住所だとか、誕生日とか血液型とか、本人なら当然知っている程度の個人情報だ。深い話をするほど、親しい間柄ではない。教えてほしいことはもっとあったし、こちらも教えておけばよかったと思うことはある。
しかし、いかんせん、親しくはなかったから言えなかった。お互いに、尋ねられなかったし、言えなかった。
答えに窮していると、母親は黙り込んでしまった。困っているのを、機嫌を悪くしたと思われたのか、母親もテレビの方に視線を戻してしまった。
上手く会話ができなかった。
まあ、まだ一日目だ。何事も、早足で進める必要はないだろう。
しかし、一寸先は闇ともいう。明日、この身がどうなっているか、それさえ定かでないのが人生だ。もしかしたら、突発的な事故により、糸子よりも先に死んでしまうなんて事態も、あるかもしれない。
けれども、それならそれでいいのだ。大事なのは、わからないということ。明確に、期限が決まっていないことが重要なのだ。終わりは、明日かもしれない、来年かもしれない、五十年後かもしれない。そうやって未来に対する希望が持てることこそ、大切なのだ。
「お母さん」
うん、と母親は横目でこちらを見た。
「私、バイトする」
一拍、間があったのは、きっと驚いていたからだろう。しかしその驚きを飲み込んで、母親は、そう、と短く答えただけだった。期待をかけることも、この二人の間にはタブーなのだろう。何が娘のやる気を削ぐのか、この母親はよく理解している。
だから、放置していたのか。何を言っても、何をしても、娘のやる気を削ぐだけだから、ただ興味のないふりをして、突き放すしかなかったのではないだろうか。
干渉したくて、何か言いたくて、どうにかしたくてたまらなかっただろうに、母親はただただ待つしかなかったのだ。母親としては最善を尽くした結果、放置するしかない、それはどんなに辛いことだったろう。
しかも、そんな母親の善意は、彼女にはおそらく伝わっていない。彼女はただ単純に、突き放されたと感じていたようだった。彼女の話の中に登場する母親には、好意的な印象を受けなかった。
なんて悪循環だろう。もしこの母親が彼女の背中を一つ、どすんと押すことができていれば、案外、あっさり外に出ることができたのではないだろうか。
実際、糸子の電話一つで、彼女は外に出たのだから。
蛍は彼女と母親に、同情していた。母親の愛情が間違いなく、彼女に届いていれば、蛍なんかに、付け入る隙を与えなかっただろうに。
そしたら、愛する娘は死なずにすんだのに。
罪悪感が、ぐっと来た。駄目だ、今泣いてしまったら、説明ができない。罪悪感には目を瞑って、別のことを考える。
彼女とは噛み合わなかったこの母親と、蛍は上手くやっていけるだろうか。やっていかなければならない。これからしばらく、ここで一緒に生活するのだから。いずれは家を出る気でいたが、まとまった金がない。彼女と交換した財布の中身も、ずいぶんと慎ましいものだった。
「でも、今日は疲れたから、寝る」
とにもかくにも、明日にしよう。この疲労した頭で色々と考えてみたとことで、きっと何も生み出さない。
そう、と送り出す言葉も素っ気ない。だからこちらとしても、お休みの一言も言えなかった。一言喋るのも億劫だったので、今日のところはこれでいいことにしておこう。
それにしても、他人と、他人のふりをして共同生活を送るのは、想像以上に疲れる。むしろどうして、それを簡単なことだと、少しでも思ってしまったのか。
希望や期待が一段落すると、困難な現実が蛍に襲いかかった。だから今さら、とんでもないことをしでかしたような気分に、蛍はなっていた。
彼女は、大丈夫だろうか。
本当に今さら、そんな心配をした。今さら、この体を手放せるはずもないのに、大丈夫でないと言われたら、自分は一体どうするつもりなのか。
駄目だ。こんな気分の時にいくら考えても、後ろ向きなことしか考えられない。だから蛍はさっさと自室に引っこんで、眠ることにする。彼女に、部屋の場所は聞いていた。
蛍は化粧も落とさず、服もそのままで、ベッドに倒れ込んだ。慣れないこの場所で眠れるかどうか不安だった、睡魔はすぐにやって来た。
単純に疲れていのか、それとも上手くやっていけそうな手応えを、それなりに感じて安心したからか、とにかく、一度目を閉じると、朝まで目を覚ますことはなかった。
明日にしよう、なんて。
それは驚くほど前向きで、素敵な響きなんだろう。いつ、明日が来なくなるか、なんて、そんな心配なくなったのだ。
久しぶりに、蛍は幸せな夢を見た。
明日が来るという、それはそれは幸せな夢だった。
そして明日がやって来た。目覚めは爽やかで、悪くない気分だった。どうやら八時を少し過ぎたところらしい。窓からカーテンを通して、淡い光が部屋に差し込んでいた。
とりあえず、服を着替えた。クローゼットを物色し、無難な色合いのシャツとデニムを選んだ。脱いだ服はとりあえず、部屋の隅に畳んでおいた。
顔が引きつっているように感じたので、顔を洗いに行くことにする。昨日、化粧を落とさなかったからだろう。クレンジングはどこに置いてあるのだろう。
洗面所に行こうと階段を降りると、一人の男性がドアから出で来るところに丁度、行き当たった。
「おはよう」
ございます、まで付けるべきだっただろうか。とっさに言葉が出てきてしまったので、どちらにしても後の祭りだ。しかしあまり丁寧なのも不自然だ、と昨日結論したばかりだったので、蛍は切り替える。
「おはよう、お父さん」
この男性は、きっと彼女の父親だ。兄弟がいるとは聞いていないし、見た目の年齢からいっても、おそらくそのはずだ。
男性はスーツ姿で、脇に新聞紙を抱えていた。ドアの奥は狭い部屋。ちらりと見えたのは白い便器だろう。後ろ手でドアを閉め、男性は銀縁の眼鏡をかけ直し、改めて蛍の姿を見た。
「ああ、おはよう」
やっと娘を認識した父親は、首を傾げながら言った。父親はそれでもまだ、目の前の女性が本当に娘なのか、疑わしそうな表情だった。まるで、数年ぶりに再会した同級生の名前が思い出せず、気まずい思いをしているような顔だった。
父親は、当たり障りのないことを言う。
「久しぶりだな」
いかにも頑固で気難しそう。そんな印象を受けた。真面目に会社と社会に尽くす、立派な社会人、きっとそんな人だ。
だからきっと、彼女とすれ違ってしまったのだ。
そんな人が、彼女の気持ちを理解できたとは思えない。きっと、娘の行動を理解できなかったはずだ。もしかしたら、引きこもっていた彼女と、ぶつかり合ったことも、一度や二度ではなかったかもしれない。しかし、久しぶりということは、言い争うことさえ、最近はなかったのだろう。
彼女はあまり、両親のことを語らなかった。それは、語ることができなかったからかもしれない。お互いに、ほとんど関わりを持っていなかったから、蛍に何も教えることができなかった。何を言っても、何をしても相手を傷つける結果にしかならないから、距離をとる。そしてさらに溝を深め、相手が何を考えているのか、わからなくなっていく。
悪循環を繰り返す家族。そこに、赤の他人の蛍が加わることは、もしかしたら、それほど悪いことではないのかもしれない。
これはきっと、この家族にとって、よいきっかけになる。
そう前向きに考えることにした。彼女に対する罪悪感は、これっぽっちの心境の変化で消え去るものではなかったが、少しでも前を向かなければやっていけない。
「トイレか?」
父と娘の久しぶりの会話にしては、なんともデリカシーがない。ここがトイレの前だということを差し引いても、会話の手札が貧弱過ぎる。真面目に答えるのもなんだか馬鹿らしいと思ったので、昨日母親にした決意表明をしておくことにした。
「私、バイトするから」
仕事するから、ではなんだかハードルが高いので、一番低い所を目標に定めていた。この体の能力では、どの程度が適切なのだろうか。正直、バイトをするという目標が、本当に低い目標であるのかも、定かではない。
前途は多難だ。
「そうか」
父親はそう言った。朝の時間がない時なのに、父親はトイレの前から動かない。
「簡単じゃないぞ」
それだけだった。頑張れとも言わない。無理だとも言わなかったが、わずかに現実の厳しさだけをちらつかせた。
元々無口な人なのか、慎重に言葉を選んだ結果がこれなのか、どちらにしろ、不器用な人だな、と蛍は思った。
そんなことを言って、頑張れと背中を押すこともしないで、また、娘がやる気を失ったら、とは考えないのだろうか。まあ、こんな一言で傷ついて引きこもるぐらいなら、いっそ外の世界など知らないほうが幸せに暮らせるような気もするが。
簡単じゃないことは重々承知していたから、蛍はあっさり頷いた。父親も簡単に、そうか、と言っただけだった。もういい加減時間がないのか、父親はそうしてその場を去った。
蛍は本来の目的を果たそうと洗面所に向かった。洗面台の脇にクレンジングオイルがあったので、少しきつめに顔を擦った。化粧を落としても、蛍の顔に大きな変化はなかった。
これが自分の顔か、と蛍は改めて、自分が手にしたものを点検した。眉を寄せてみたり、口角を少し上げてみたりして、鏡の前で表情を作ってみた。他人の顔写真を次々と見せられているような気分になった。
次は歯を磨きたかった。しかし歯ブラシは三本並べて置いてあったので、どれが蛍のものかわからない。いや、仮に彼女のものがわかっても、それはそれで使いにくい。
彼女のものは、今や自分のものなのだ。今着ている服だって、そもそも彼女のものだった。他人のものを使うことへの罪悪感はない。だからこれはもっと根本的な、生理的な気持ちの問題だった。他人が口に入れていたものは、口に入れにくい。そんな当然の拒否反応だった。
そうだ、どのあたりでその拒否反応がでるのか、確かめておく必要がある。彼女の服は着れたが、靴は履けるだろうか。歯ブラシは無理でも、箸や食器は平気だろうか。場合によっては、身の回りの物を新たに一式そろえる必要がある。
朝から新たな問題にぶち当たって、出鼻を挫かれた気分だ。とりあえず手で水をすくって、口をすすいだ。誰のか知らないが近くに置いてあった櫛で髪を梳かして、一応、人前に出ても差し支えないぐらいの身嗜みは整えた。
すっぴんも、それほど悪くない。元々、整った顔立ちだ。顔色はあまり良くないし、肌は少々荒れているが、それは糸子の顔だって同じことだ。
メンテナンス不足はお互い様か。
この体は栄養を欲している。具体的にはビタミン的な。サプリメント的な。
しかし美容にはお金がかかる。そのためにはまず、働かなければ。
やらなければいけないことは色々とあったが、まずは腹ごしらえだ。朝食の用意ぐらいはあることを信じて、昨日夕食をとった部屋に向かった。
「あら、早いのね」
「おはよう」
部屋には母親一人だった。父親はもう家を出たのだろうか、姿が見えなかった。
「何か食べる?食パンしかないけど」
「食べる」
間髪入れずに答えると、母親は少し笑った。しばらく待っていると、焼いた食パンとコーヒーが並べられた。
昨日と同じ並びで、母親と座った。テレビは朝のニュース番組を流していた。食パンにはすでにバターが塗られていた。至れり尽くせりだ。
「お母さん」
食パン二枚をぺろりと平らげ、コーヒーを飲みほしてから、控えめに呼んだ。だからか、母親の反応は鈍かった。しばらく視線を送っていると、やっと母親はこちらを向いた。
「あら呼んだ?」
「うん、ちょっとお願いがあって」
「きっとろくなことじゃないわね」
あんたのお願いは、と母親は茶化して言うが、本当にとくなことではないので、蛍は言い辛くて視線を泳がせた。
「お金を少し、貸してほしい」
必ず返すから、と母親の前で手を合わせた。
「改まって何を言い出すかと思えば、そんなのいつものことじゃないの」
いつものことなのか、そういうものなのか。では昨日の交通費も、母親からもらったものだったのだろう。
「いくら?」
「履歴書買って、証明写真も撮りたいから、千円ぐらい」
「あら、ずいぶん謙虚ね」
母親はあっさりと蛍に千円札を渡した。軍資金は手に入れた。
「じゃあ、行ってきます」
「もう行くの?」
先日まで引きこもっていた娘が急に起こした行動に、母親はついていけない様子だ。
思い立ったらすぐ行動。それは糸子だった時に、染みついた癖のようなものだ。余命一年。時間がなかったから、やりたいこと、やらなければならないことは、すぐにやらなければならなかった。ただ、それだけのことだ。
だから別に、これは殊勝な心掛けではない。しかし蛍になった今、この行動力は、他人の目からは奇異に映るのかもしれない。
それでも一度持ち上げた腰を、また下ろす気にはならなかった。余命という枷からは解放されたにしろ、無限に時間があるわけではないのだから。
呆気にとられる母親を残して、蛍は自宅を出た。
求人誌からいくつか目ぼしい情報を拾い集めた。働く場所はコンビニに定めていた。糸子であった時代、コンビニでのバイト経験があったからだ。勝手がわかっていた方がやりやすい。
電話をかけると、今日の夕方面接に来てくれということだったので、慌てて履歴書を埋める。しかし名前と歳しか埋められなかった。そして知っているのは、彼女が自分と同じ高校を、同じ年に卒業したということだけだった。
仕方がないので母親に尋ねることにした。履歴書も一人で書けないというは、ずいぶんと不自然だったが、仕方がない。久しぶりだから、忘れた、で誤魔化していくしかない。
「お母さん」
「何?」
「履歴書を、書こうと思ったんだけど」
蛍は空白だらけの履歴書を母親に見せた。不審がられると思ったが、母親は困ってる娘に対し、真摯に対応した。あらあら、なんて言いながら、ばたばたと大きな冊子をいくつかどこからか引っ張り出して来た。
分厚い表紙には学校名が書かれていた。その中の一冊には糸子にも見覚えがあった。母親が持って来たのは、蛍が今まで卒業して来た学校の卒業アルバムだった。
「あなたが小学生の頃はね」
と、母親は蛍が質問をする前に喋り出した。アルバムを開き、幼き日の蛍を指差して言う。いつどこの学校を卒業したとか、どんな資格を持っているかとか、そんな履歴書に書ける客観的な事実が知りたかったわけだが、母親の話は脱線にさらに脱線を繰り返し、それでもなお走り続けた。
母親はとにかく蛍を褒めた。テストで百点をとったとか、絵を描いたら先生に褒められたとか、そんな些細なことをとめどなく、母親は話した。もちろんそんなこと履歴書には書けない。中学時代、友達と一緒に作ったチョコレートを学校の先輩に渡したとか、そんな彼女のプライベートなことまで、母親は話した。その夜、彼女がひっそり泣いていたことまで母親は知っていた。こんなこと、聞いてもよかったのだろうか、と少々胸が痛かった。
しかしそんな思い出話も、高校卒業とともに終わった。話を聞く限り、彼女は明るく活発で、友人も多かったようだ。それは蛍が知る彼女の人柄とも相違ない。
それがたった一度の挫折で、どうしてここまで打ちのめされてしまったのだろう。相談すれば、助けてくれる人だっていただろうに、どうしてたった一人で内にこもってしまったのだろうか。
彼女の気持ちが、まったくわからないわけではない。どんなに親しい間柄でも、話せないことはある。しかし、すべては理解できなかった。蛍になった今でもだ。
履歴書はできる限り埋めた。特に書けるような資格も特技もない。まあ、バイトの面接だから、そういう所はあまり重視されないだろう。
「いいのよ、ゆっくりで」
二十歳も過ぎた娘に、母親は悠長に言った。焦るな、とそれは母親の優しさからきる言葉だろう。
どうせ無理なのだから、傷つかない程度にしなさいと、そんな優しさ。悪気のない優しさなのだが、蛍はなんとも言えない微妙な気分になった。
ここまで期待されていないのか。そして、期待されないということが、ここまでやる気を削がれることなのか、と。
母親は面接に行くという蛍を、玄関まで見送った。車を出すと言い出したので、それは丁重に断った。他人の親を悪く言いたくはないが、過保護をさらに行き過ぎているような気がした。
しかしこの母親をこのようにしてしまったのは彼女だ。そして蛍だ。
心配されないような人間に、なればいいのだ、この私が。そしたら、この歪な親子関係もきっと解消されるはずだ。
それだけのことだ、と蛍は気合いを入れ直した。
「お電話しました、林道蛍です」
糸子と名乗りそうになって、一瞬、言葉が詰まった。動揺する。緊張していると思われたのか、不審には思われなかったようだ。
裏に通された。そこは小さな事務所のような所だった。デスクが一つに、その上にデスクトップ型のパソコンが一つ。椅子に座った男性が、パソコンに向かって数字と睨めっこしていた。
「失礼します」
言わずとも、入って来たことぐらいわかりそうなものだが、蛍が声をかけると、やっと男性は椅子ごとくるりとこちらに体を向けた。
「ああ、座って」
自分は立ち上がることもしない。蛍をさっと上から下まで見て、ふうんと何か納得したようだった。できる奴か、できない奴か、見ればわかる。そんなふうに言う上司がいたっけ、と蛍は思い出していた。
いけ好かない、上司だった。
「林道蛍さん、二十四?」
「はい」
蛍が椅子に座るのと、質問はほとんど同時だった。名前と年齢は、電話口ですでに、伝えておいた。
「じゃあ、履歴書出して」
男性は三十か、その手前ぐらいの、まだ若者と言ってもいいぐらいの歳だろう。一回りも違わない蛍に対して、彼はずいぶんと尊大だった。
「高校卒業してから、何してたの?」
何も書いてないけど、と早速突っ込まれた。値踏みするような視線が、ねちっこく、蛍の体を這う。
「大学に進学するために勉強をしていました」
「今までずっと?」
「はい」
絶対にされる質問だと思っていたから、もちろん答えは用意していた。嘘は言わない。しかし、余計なことも言わない。バイトの面接は数打ち当たれだ。それを姑息な手段だと判断されれば、それまで。
勉強していた、というのは嘘ではない。自宅で独学、そしてそれが少々長期に渡っただけだ。
「勉強してたねえ」
疑わしい、とそんな表情を隠しもしないで、男性は言う。そういえば、彼は名乗りもしなかったが、おそらく、彼が店長なのだろう。胸のネームプレートを見ようとしたが、上手くいかなかった。
「まだ大学目指してるの?」
「いえ、今は公務員目指して勉強してます」
これは今考えた。
「ふうん、じゃあバイトしながら勉強してるってわけだね。でも、職歴何も書いてないね。バイト歴も書いてくれていいんだよ」
この男は、きっとわかって訊いているのだろう。やはり、いけ好かない男だ。
「バイトは、したことないです」
糸子はあるが、蛍にはない。
「バイトはっていうか、働いたこと、ないんでしょ?」
明らかに馬鹿にしたふうだった。これは駄目だ、と蛍は直観した。たとえ採用になっても、断ると決めた。まあ、そんなことをしなくても、きっと不採用だろうが。
学歴や職歴も、大事だろうけれど。それだって、その人の人間性を判断するための情報には、確かになるのだろうけれど。
それがすべてではないだろうに。
面接して、品定めをしているのはお互い様だ。彼の中で、もう完全に蛍は切られているだろう。しかし蛍も、もう完全に彼を切っていた。
「コンビニのバイトだって、なめて来られてもね」
なめてない、と言い返すのも面倒で、蛍は適当に言葉を濁してごまかした。後はもうあまり覚えていない。熱意の欠片も失っていたから、適当に相槌を打って終わった。
しばらく、このコンビニには来ないことを決めて、蛍は家路についた。
母親が言っていたことを蛍は思い返していた。ゆっくりでいい、か。ゆっくりにしか、きっと進めない。それが、母親にはわかっていたのだろうか。
蛍だって、すべてが簡単に、順調に進むとは思っていなかったが、思っていた以上に、前途多難だ。
家に帰ると、母親が生暖かい笑顔で出迎えた。結果がどうとかは、何も尋ねられなかった。わかりきっているということか。まあ、実際、母親の想像通りだ。悔しいが何も言えない。
今日はもう特に何もすることがない。夕飯はどうするか訊かれたので、食べると答えてテレビを見ながらのんびり待った。そうしていると、父親が帰宅した。時刻は七時前だった。
「あら、早いのね」
母親が父親に向かって言った。
「お帰り」
「ただいま」
父と娘はそして、目も合わせない。父親はたぶん、蛍が今日面接に行ったことを知らない。結果が結果だけに、話題にもしにくい。さて、何を話そう。
「面接に、行ったんだってな」
「なんで」
知ってるの、と考えてみれば、情報源は一つしかない。視界の端で、母親がちろりと舌を出していた。わざわざ連絡したのか。
「駄目だったか」
父親は尋ねることもしなかった。九割ぐらいの決めつけだった。実際、駄目だったから腹も立たないが。
父親も母親も、案外きちんと現実を見ている。しかしそれなら、娘にどう思われようと、尻を蹴り飛ばしてでも、さっさと部屋から外に出すべきだったのではないだろうか。数年間の空白は、わずかな言葉で埋められるほど、小さいものではない。短い面接で、面接官にわかってもらうには、彼女の置かれた状況は複雑過ぎた。履歴書の空欄は、一行ごとに水深何百メートルもの溝を作る。他人がやすやすと踏み込めるものではないし、ましてや跳び越えられるものでもない。
厳しかろうと、娘には旅をさせるべきだった。できてしまった空白は、後からどうやっても、埋めることはできないのだから。
しかし、娘の尻を蹴飛ばせるぐらいの父親と母親だったら、きっと蛍と糸子は別々の人生を歩み、すれ違うことだってなかっただろう。
複雑な気分だった。わかっていて引き受けたハンデだったが、これはなかなか重い。しかしこの重いハンデがなければ、彼女はこの体を引き渡そうなんて、もちろん思わなかっただろう。
「甘くはない」
父親はネクタイを緩めながら言った。父親は、どんな仕事をしているのだろう。どこかの商社の、営業マンだろうか、と蛍は想像する。スーツ姿は様になっているし、身嗜みにも気を使っている様子だったから、少なくとも、人と接することが多い仕事なのではないだろう。
「でも、一歩だ」
お褒めの言葉を頂いた。
「どんな道だろうと、厳しいものだ」
「わかってるよ」
それは素直な一言だった。決して父親の説法が疎ましかったわけではなかったのだが、父親は少し怯んだように、次の言葉を飲んだ。
自分の言葉が厳しいことを、彼は理解しているようだった。しかしそういう言葉遣いしかできない。悪気がないから、改めることができないのだ。気にはしているようだが、そうそう簡単に、染みついた癖はとれない。
「これからだ」
慰めの言葉としてはずいぶん半端だ。しかしこれが精一杯なのだと思うから、蛍は素直に頷いた。別に、反抗するつもりはない。
三人で囲む食卓は、久しぶりらしい。会話らしい会話はなく、母親が一人で喋っているような状態だった。一対一でも距離感が上手くつかめていないのに、三人できれいな三角を描くことは当然できない。近づいて傷つけるぐらいなら、離れてしまおうというのが、この父親、母親と、そして彼女だったのだ。
気まずい食卓だった。しかしお互いに歩み寄ろうとしているからこそ、このように顔を突き合わせて食事をしているのだから、悪くない傾向だと思う。
これからだ、と父親は言った。その通りだ、と思う。
まだまだこれからだ。
蛍は気合いを入れ直して白米を掻き込んだ。
胸が苦しかった。これは病気のせいなのか、ただ緊張しているせいなのか、はっきりしないがどちらでもいい。
とにかく、胸が苦しい。彼女はいつもこんな苦しみと戦っていたのだろうか。この苦しみから解放してあげられたのなら、それだけでも入れ替わった価値があるというものだ。
さて、と顔を上げれば病院だ。今日から、ここが自分の家だ。
先ほどは入り口の前で引き返してしまったが、今度は意を決して、中へ足を踏み入れた。
「糸子!」
入るやいなや、怒鳴り声が飛んで来た。女性の声だ。
「どこに行ってたの!」
ここは病院だ。視線が痛い。しかし怒鳴り声を上げる女性は、ずんずんと糸子に近づいて来る。
「糸子!」
とっさのことに反応できずにいると、女性は糸子の肩をつかんで引き寄せた。
「母さんを心配させないで」
ああ、予想はしていたが、この人が彼女の母なのか。
細く、背が高い、凛とした女性だ。薄い化粧は上品で、大人の女性の魅力は、母となった今でも失われていない。つい、自分の母親と比べてしまう。歳はいくらも違わないと思うのだが、ここまで違うのか。
彼女はどうやら黙って病院を抜け出したらしい。そんなこと一言も、彼女は言っていなかった。焦っていたのか、本当に入れ替わると思っていなかったのか、彼女の計画は相当ずさんだった。せめて報告ぐらいしてほしかった。
さて、どうしたものか。とりあえず、目の前の女性を落ち着けるために、謝るべきだ。それはわかるのだが、言葉が出てこない。というより、声が出ない。
胸が苦しい。息が上がる。
「糸子?」
母親の表情が変わった。
糸子の顔色も変わっていた。力が抜けていく。糸子は膝から地面に落ちた。立てなかった。
誰か、と母親が叫んでいる。病院のエントランスが騒然とするのを、糸子は他人事のように見ていた。糸子の低い視線の先で、誰かが慌ただしく走って来るのが見えた。耳が段々と遠くなり、それにともなって気も遠くなった。
深い穴に落ちていくように、糸子は意識を落とした。
それが、藤堂糸子としての、最初の帰宅となった。
目を覚ますと、そこは病室だった。エントランスからの記憶はないが、抜け落ちた部分は容易に想像できた。倒れて、運ばれて、何かしらの治療を受けたのだろう。
胸の苦しさはなくなっていた。ただ、疲労感に体全体を押さえつけられているような感じがした。
「気分はどう?」
目だけ動かして声の方を見ると、母親が呆れた表情でこちらを見下ろしていた。
「うん、大丈夫」
「まったく、心配かけて」
それで、と母親はじろりと糸子を睨む。
「今日はどこに行っていたの?」
今日は、ということは、糸子が病院を抜け出すのは、今日が初めてではないのだろう。いつものことだから、彼女は糸子への報告を怠ったのだろうか。
「驚いたわ。いつもは直希君と一緒なのに、彼もあなたの行方を知らなかったから」
直希。彼女の恋人。
「彼に、ちゃんと謝りなさいよ」
もう、大騒ぎだったんだから、と母親は言った。
「ごめん」
「それで、どこに行ってたの?」
「友達に会ってた」
「わざわざ外で?」
会いに来てもらえばいいのに、とまったくその通りだ。しかし詳しくは説明できないので、それで押し通すしかなかった。
「まあ、いいわ」
母親は一応、納得した。
「疲れただけだって、お医者様おっしゃってたから。それにしても、まったく」
もう、と母親は肩を落とした。
「皆さんに謝ってくるわ」
と、母親は病室を出て行った。慌ててしまった自分を恥じているのか、母親の頬は少し、赤かった。
申し訳ないことをした、と糸子は思った。連絡の一つもすればよかった。まあ、彼女が伝達を怠ったことがすべての原因なのだが、今はもう彼女の失態さえ、糸子のものだった。だから、心配させたのは自分だ。謝らねばならないのも、自分だ。
「糸子!」
一息吐く間もなかった。母親が出て行って、足音がすると思ったら、病室のドアが開いていた。
少年だ、と糸子は思った。息を切らせて走り寄って来る、この少年がきっと。
「直希」
「うん」
僕だよ、と直希は人懐っこく笑った。
同じ歳らしい。大学の同級生だと彼女は言っていた。それにしては、ずいぶんと可愛らしい。というか、子供らしく見えた。しかし直希は糸子の顔を覗き込んで、きっと眉を吊り上げた。
「連絡ぐらいしてくれてもいいんじゃないかい?」
怒っているらしかったが、いかんせん、迫力がなかった。どこまで本気なのか、はっきりしない。
「ごめん」
うん、と直希はあっさり頷いた。やはり。強くは怒っていないようだ。
「心配、したよ」
罪悪感があった。とんでもなく、ひどいことをした気分だった。そして、実際しているし、そしてこれから彼には、もっとひどいことをしなければならない。
これは、彼女との約束だった。たった一つだけ、自分にできなかったことを、してほしいのだと、頼まれた。
それは、彼を突き放してやること。藤堂糸子という人間から、解放してやること。
異性と付き合ったことのない糸子には、もちろん、別れ話の経験もない。
傷つけてはいけないと思う。いや、むしろ傷つけて、きっぱり切れてしまうのが優しさなのだろうか。
このままずるずると付き合うことを、彼女はよしとしていなかった。しかし、彼女には切れなかった。彼の優しさを、突き放すことは彼女にはできなかった。
「ごめん」
「もういいよ」
直希は笑った。それは優しい笑顔だった。これを手放せなかった、彼女の気持ちはよくわかった。
だから、早い方がいいと思った。自分まで、彼の笑顔に絆されてしまうわけにはいかなかった。
「別れよう」
きっぱりと、短くそう伝えた。
「何?」
聞こえていただろうに、直希はとぼけたように尋ねた。
「あたし達、別れよう」
「何?どうしたの?」
急に、と冗談だと思っているのか、直希はまだ困ったような笑顔だった。
「ずっと考えてたの。別れた方が、お互いのためだって」
「お互いの……」
「だから、別れましょう」
議論をするつもりはない。どっかに行って、と糸子は虫にするように、手で直希を払った。
「どうして?」
「これが一番いいのよ」
「何がいいの?」
「すべて。全部。すべからく」
「すべからく?」
「とにかく」
糸子はもう直希の顔を見ない。
「あたし達はもう終わり」
これで終わり。
「どうして?」
直希の質問は無視した。
「本当に?」
無視した。
「僕のこと、嫌いになった?うっとうしくなった?」
直希は女々しくすがりつく。いや、こうも唐突だと、この反応が普通なのか。とにかく、経験がないからわからない。
それにしても、怒ってもいいぐらいなのに、直希はすっかりしょげ返っていた。別れ話を切り出され、その原因が、自分にあることを少しも疑ってはいない様子だ。
「ごめん。悪い所は直すから、だから」
「直希」
直希は泣きそうな顔をしていた。良心がずきずきと痛む。
「あたし達は、もう一緒にいちゃいけない」
彼女に言われたからではなく、糸子は今、心からそう思っていた。
悪い奴、ではないと思う。しかし、どうにも彼は糸子に依存が過ぎた。生活の大部分を糸子に傾けてしまっているのだ。気持ちの部分でも、大きく寄りかかってしまっている。もしもこの状態を維持したまま、糸子の命が終わってしまったら、傾いた体を立て直すことなど、この彼にはできないだろう。
だからこそ、糸子が生きているうちに、離れるべきだ。放してあげるべきだ。さよならが言えるうちに、別れるべきだ。
死別は、死の悲しみを乗り越えて、前に進まなければならない。しかし直希には、たぶん、無理だ。
彼女の死を乗り越えることは、きっとできない。
「ごめん」
もう、話したくない、ときっぱりと拒絶した。絶望した様子の直希を、糸子は哀れに思う。この子は、糸子がもうすぐ死ぬことを、本当に理解しているのだろうか。こんなに寄りかかってきて、糸子がいなくなった時に、一人で立つことができると、思っているのだろうか。
なんで、と呟く直希は、茫然としていた。ほら、ただの別れ話で、こんなに傷付いて、死の悲しみやら苦しみやらを、乗り越えられるか。
無理だろう。だから、もういい。
君はよくやったよ。事情は話せなから、そう言って褒めてあげることはできないけれど、糸子は直希のことを、心の底から哀れに思っていた。
嫌いになっていい。怒っていい。泣き叫んでくれてもいいさ。暴言だって、受け止めてやる。
それが、あたしの役目だ。
彼女にできなかった役目を果たせる。そう思えば、自分がほんの少し、立派な人間なれたような気分になった。
そうやって、たくさん理由をつけて、全力で罪悪感から目をそらしていると、直希はいつの間にか部屋にいなかった。
帰ったのか、糸子はひっそりと息を吐いた。しかし、本当に息吐く間しか、糸子には与えられなかった。
「直希君と何かあったの?」
直希とほとんど入れ替わりで、母親が病室に顔をのぞかせた。
「うん、別に」
「別にって、そんな様子じゃなかったけど」
母親が近づいて来る気配があったので、糸子は布団を被って、物理的に壁を作った。いくら顔を見られたところで、中身が別人だと気付かれることはないのだが、とっさに体が動いていた。
「ねえ、今日のあなた、変よ」
バレてるし。
「変じゃないよ」
そう言うほかない。
「何もかも、全部話せとは言わないけどね」
母親は、布団の上から言葉をかける。
「大事なことは、ちゃんと言いなさいね」
ごめんなさい、何も言えない。謝ることも、不自然だからできない。
「ありがとう」
だから、感謝だけしておいた。布団の中から小さな声で、聞こえたかどうかもわからない。母親は特に、何も反応しなかった。
また来るから、と言い残して、母親は病室を去った。
これで、よかったのだろうか。彼女自身の望みだったとはいえ、恋人であった直希とあんな別れ方をしてしまって。
そんな不安が、今さらになって押し寄せた。
母親にも、あんな態度をとってしまった。
自分の母親に対する今までの行いを顧みれば、あれでもずいぶんマシな対応だと思う。しかし、あの人は彼女の母親だ。あまり邪険にはしたくない。
でも、と糸子は思う。今さら仲良くなってどうするというのか。今から仲良くなっても、別れが来た時に、辛いだけではないか。だったら、彼女のようになど、振る舞う必要もない気がする。
誰からも嫌われ、一人になる。
そして死ぬ。
もしかして、彼女の望みはそうだったんじゃないだろうか。誰からも嫌われ、糸子がたった一人になることを、彼女は望んでいたんじゃないだろうか。
彼女は、一人で死ぬことには耐えられなかった。だから直希の手を、放してあげることができなかった。
たった一人で死ぬ。それが糸子にならできる。できる気がする。
一人になるは簡単だ。蛍だった時と、同じ行動をすればいいだけだ。
そうして、死を待つ。それだけのことだ。
糸子になら、それができる。
そんなことを考えながら、ベッドに横になっていると、糸子はいつの間にか眠りについていた。
眠る前にぼんやりと考えていたことは、かつての母親と父親のことだった。彼らは彼女に、どのような仕打ちをしていることか。彼女のことだから上手くやっているような気もするが、心配するなという方が無理だった。
何せ、糸子が最後に見た両親は、憐れむような、蔑むような、とにかくとんでもなく不快な視線を、娘に向けていたから。
目を覚ますと朝だった。それは至極当然のことのはずなのに、糸子にとっては懐かしいことだった。いつもなら、昼過ぎまで寝ている。眠ったのは何時頃だったのだろう。しかしよく眠れたようで、目覚めは悪くなかった。
何をすればいいんだろう。健康だけが取り柄だったから、入院の経験もない。病人は寝ているのが仕事とは言うが、病院には病院の、規則的な生活リズムがあるはずだった。
途方に暮れていると、こんこん、と控えめなノックが転がって来た。
「おはようございます」
白衣の女性、看護師だろう。名札はよく見えなかった。歳は三十手前ぐらいだろうか、初々しさはないが、若々しさがある女性だった。第一印象は悪くない。
「体調はどうですか?」
形式的な問診なのだろう。看護師の女性は質問をしながら、糸子の様子を見る。その間にもてきぱきと手を動かし、体温を測ったり、血圧を測ったりしていた。その数値を一通り記入し終えると、看護師はもう一度、糸子に体調について尋ねた。
「大丈夫」
だと思う。気怠い感じはあったが、体調不良というほどでもない。このぐらいが、この体にとっては通常なのかもしれない、と糸子は思う。
看護師が去ってしばらくすると、次には食事が運ばれて来た。見た目らからしてとてもヘルシーだった。食べてもやっぱりヘルシーだった。まずくはない。
そしてすることがなくなった。彼女のものだろう文庫本がいくつか、ベッドの脇に置かれていたが、背表紙のタイトルを見ただけで、開いてみる気にもならなかった。つまりは、そういう種類の本だった。活字はライトなノベルしか読んだことがない。
結果、何もやることがない。彼女のものだという意識が邪魔をして、携帯を弄る気にもなれなかった。つまり、もう何もすることがない。有料のテレビは置いてあったが、こんな朝から、観たい番組もない。ああ、ここではきっと深夜アニメは観られない。録画機材もないし、さて、どうするか。そして、どう過ごすのか。
駄目だ、もう家に帰りたい。撮りだめしておいたアニメが観たい。彼女はまったく興味がないだろうから、もうすべて消されているかもしれない。そうか、彼女は今頃、蛍の部屋にいるのか。彼女はあの部屋に、どんな印象を抱いただろう。こんなことになるとは思わなかったから、掃除もろくにしていないのに。
電話でも、してみようか。
いや、昨日の今日で、まだ早いか。彼女だって、林道蛍を演じることに必死なはずだから、邪魔しても悪い。彼女の方から連絡があるまで、電話は控えることに決めた。
ふむ、とベッドの上で、糸子は退屈を持て余す。眠るぐらいしかすることがない。病人としてはそれが正解なのかもしれないが、まだ心が健康だった頃を引きずっているのか、大人しくしているのは困難だった。
病院は、それほど不自由ではなかった。しかし何もすることがない。とにかく退屈だった。退屈は、辛い。
家に帰りたかった。家に帰れば、暇を潰す道具がいくらでもある。しかしもう蛍の部屋には帰れない。あそこはもう自分の家ではないのだから。この体が帰るべき場所は、当然ながら、藤堂の家だ。
「帰りたい」
「なら、帰る?」
呟きに思わぬ返事があったので、糸子はドアの方を振り返った。
「いいわよ、別に」
立っていたのは母親だった。
「そりゃあね、病院にいてくれた方が何かと安心だし、私だって楽ができるけど」
彼女とも、こういう話をしたことがあるらしい。
「やっぱり、退屈でしょう?」
いいわよ、と母親は軽い。
「先生には私から話しておくから」
じゃあ、私仕事だから、と母親はさっさと行ってしまった。ジーンズにパーカーとずいぶんラフな格好をしていたが、一体どんな仕事をしているのだろう。また今度、それとなく確認しておかなければならない。
それにしても、仕事前に、わざわざ何しに来たのだろう。帰りたい云々の話になったのは、糸子が呟いていたからたまたまだ。だから母親は、糸子の様子を、ただ見に来ただけというこになる。仕事前の慌ただしい時間帯に、わざわざだ。
まあ、昨日無断で外出しているわけだから、それも仕方がないことか。
その日は寝て過ごした。そうするしかなかった。一日中寝ていても、誰にも咎められることがない。しかし一々、体調はどうなだのこうだの尋ねられるので、むしろ気が咎めた。
翌日からはとんとん拍子に話が進んだ。いくつの検査を経て、無事に自宅に戻る許可が下りたと母親から聞いた。だから実際、医師がどのようなことを言っていたのか、糸子は知らない。もう後がないから好きなことをさせてやりましょうとか、そんな理由なんじゃないか、と糸子はどうしても邪推してしまう。しかし、直接医師に話を聞きに行く度胸はなかったから、母親の話を素直に信じることにした。
そして、退院の日。仕事が休みらしい母親は、しかしいつもと同じ格好だった。ジーンズにパーカー、そして薄化粧。それでも洗練された印象を受けるのは、短時間でも社会に出て働き続けているからだろうか。蛍の母親は大学を卒業してすぐ父親と結婚した、根っからの専業主婦だった。糸子が知る限り、蛍の母親が仕事に出ていた記憶はない。
いや、まあそれはただただ単純に、持って生まれたものの違いか。
と、自らの母親にずいぶんと失礼なことを思って、糸子は彼女の母親の後に続く。
母親が運転する白い軽自動車でおおよそ二十分、糸子の自宅は一軒家だった。
「あなたの部屋、空気入れ換えたり、掃除したりしたけど、怒らないでね」
部屋に入ったことに対してだろう。まあ、まだ自分の部屋だという実感もないから、腹も立たない。
「久しぶりの我が家はどう?」
荷物を下ろしながら、母親が尋ねる。ここがリビングだろう。藤堂家よりも薄くて大きなテレビがどんと鎮座しているのが印象的だった。棚の上には家族写真が何枚か飾られていた。幼い時の糸子から、セーラー服を着ている写真まであった。最近の写真はないようだった。今よりも少し若い母親と、まだ顔を合わせていない父親が笑顔で並んでいる。
優しそうな父親だった。すらりとした母親とは対称的に、丸みを帯びた体型をしていた。朗らかな笑顔を浮かべ、糸子を抱きかかえていた。
林道家とは、まったく逆だった。林道の父親は厳しい人だった。それを母親がまあまあと抑える立場だった。藤堂家の方は、どちらかと言えば母親が厳しい人で、それを父親が抑える役目を担っているのだろう、と糸子は想像する。
「お昼用意するから」
部屋で待ってなさい、と母親に言われ、糸子はリビングを出た。おそらく二階だろう、と階段を上ってすぐの部屋だった。空気を入れ換えているのかドアが開いていた。明るい色合いのものが多い。ここがきっと、糸子の部屋なのだろう。姉や妹がいるという話は聞いていないし、まさか母親の部屋ではないだろう。
部屋に入ると、まず匂いに違和感が覚えた。臭い、とは思わないが、馴染まない。やはり他人の部屋という感じだ。いつから愛用しているのか、年季の入った学習机と、オレンジの布団が丁寧に敷かれたベッド。本棚には難しい活字の本だけでなく、糸子も知っている漫画のタイトルもあった。誰もが知っているような、メジャーなタイトルだ。話の種に、と買ってみたものだろう。糸子はもうすでに読んでしまっていたものばかりだった。
本棚のものでは暇を潰せそうにない。目についたのは学習机の上のノートパソコンだ。インターネットぐらい、繋がっているだろう。起動してみるが、パスワードの入力画面で固まった。彼女から聞いておくべきだった。今度メールで訊こう、と諦めて、糸子は見慣れない背表紙の本棚に向かった。
ハードカバーの本を一冊抜き取って、ぺらぺら捲る。どうやら、海外の本が翻訳されたものらしい。ジャンルは何だろうか、とさらにそれを捲っていると、母親から早々にお呼びがかかった。
糸子は大声で返事を返し、本を戻して一階に降りた。
「うどん」
と、言いながら、母親は薄い色のスープのどんぶりを、食卓に並べた。気分は悪くないし、なんだって食べられるような気がしたが、だからといって、以前と同じような食事というわけにはいかないらしい。母親がどのようにして自宅療養を勝ち取ってきたのか知らないから、その辺り、よくわからない。
まあ、薄味の食事に対し、まだあまり不満はないので、糸子は黙ってそれを食べる。見ると、母親も同じものを食べていたから、この質素な食事に、別に特別な意味はないのかもしれない。
「本屋にでも行く?」
今日は休みだから、と母親は言う。しかしその提案に、糸子は首を横に振った。
「明日は仕事があるから、付き合ってあげられないわよ」
「今ある本、読むから」
まだ読んでない本がある、という状況は、あまり好きではない。本は一冊読み切ってから、新たに一冊買うタイプだ。まだ読んでない本を、部屋の隅に積み上げて置くのは、落ち着かない。
「あれ、もう全部読んでしまったんじゃないの?」
「久しぶりに、読み返そうと思って」
あれは彼女の持ち物だったから、糸子はまだあられらの本を、一冊も読んだことがなかった。彼女とは、本の趣味がまるきり違った。あそこにある本を全部読もうと思ったら、それ相応に時間がかかる。だから、まあ、しばらくはあれで暇を潰そうと糸子は決めた。
「まあ、あなたがそれでいいなら、いいけど」
読み返す、ということを、彼女はあまりしなかったのかもしれない。母親は少々怪訝そうに糸子を見ていた。しかし一応納得したのか、ところで、と母親は話を変える。
「直希君とはどうなったの?」
「別に」
何とも、言えないというのが本音だ。彼女と彼は一つの終わりを迎えたわけだが、糸子と彼とは終わるも何も、始まってさえいないのだから。深く付き合えば愛着もわくだろうが、初対面だった糸子には、彼に対して何もない。
「別れたって聞いたけど」
「え、誰から?」
「彼から、直接」
あの男、彼女の母親と直接連絡を取り合っているのか。
悪いとは、言わないけど。少し、嫌な感じがした。
まあ、糸子の場合は少し状況が特殊だから、本人を抜きにして、色々話し合っておくことがあったのかもしれない。
「それで、どうして別れたの?」
「そんなこと、話さなきゃいけない?」
「別に、私には話さなくてもいいけど」
けど、と母親は下から糸子を睨むようにする。可愛らしい悪戯を、咎められた子供のような顔で。まるで、同年代の友達のようなその態度に、糸子は少々くすぐったい思いをした。蛍の母親とは、こんな距離感で話をしたことはない。
母親と、まるで友達のように恋の話をする。彼女と母親はそうだったのか。
「彼には、きちんと話すべきじゃないの?」
もっともなことを、母親は言う。そんなことは、糸子にだってわかっている。わかっているが、本当の事情など、話せるわけもない。
「何をどんなふうに言ったのか知らないけど、傷ついてたわよ、彼」
傷つけたいわけではなかったが、傷つけることに抵抗があったわけでもなかった。まあ、多少良心は痛んだが、やはり、彼に特別な思い入れがあったわけではないから、それもあまり大きいものではない。
そもそも人を傷つけない話し方など、糸子にはできない。そんな特殊能力、持っていない。他の人は誰しも、気遣いという魔法を持っているらしいが、糸子にとってその存在は眉唾ものだった。
「ちょっと、色々あったの」
「色々、ねえ。良い子だったけど、彼」
母親の印象は悪くなかったらしい。糸子も別に、彼に対して悪い印象はなかった。良い印象を持つ前に、別れてしまったわけだが。
「まあ、あなたと彼の問題だから、私がとやかく言うことではないけど」
話し合うことぐらい、しておきなさい、と母親は空になった食器を持って立ち上がった。いつできなくなるか、わからないのだから、と暗に言われているようだった。そして、実際、母親はそう言いたかったのだろう。こんな別れ方、後悔する、と。
母親が言うことは正論だ。至極もっとも、当たり前のことだ。
しかし後悔するのは糸子ではない、彼女だ。後悔するのであれば、彼ときちんと別れることができなかった、彼女であるはずだ。糸子はむしろ、彼女の頼み事を早々に片付けることができて、いっそ清々しいぐらいの気分だった。
この件についても、連絡しておくべきだろうか。パソコンの件もあるし、一度メールぐらいしてもいいだろうか。
携帯にも、ロックをかけている人なら、どうしよう。彼女はパスワードを誕生日とかにしてしまうような、安直な人間だろうか。いや、そもそも、誕生日はいつだっただろう。聞いたような気もするが、すっかり記憶から抜け落ちてしまっていた。
なるほど、さすがは自分だ。外側が彼女でも、関係なく、ダメ人間にしてしまう屑。
さっそく、色々詰んだな、と思いながら、糸子は自室に引っこんだ。
それはそれは、いつものように。
何も変わったことなどないかのように。
外側を変えたところで、やはりというか、当然、中身にはなんの変化もないのだった。
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