第2話 コーヒーと占い師

 約束の時間まで、まだ三十分あった。久方ぶりに外に出たので、距離感と時間の感覚が大きく狂っていたようだ。

 蛍は目の前の馬鹿でかい白い建物を見上げ、くらくらと眩暈を覚えた。あの狭い部屋から、ずいぶん広い世界に来たものだ。しかしここは、数年前まで蛍が平気な顔で暮らしてきた世界だった。それなのに、蛍にはまるで異世界のように感じた。

 まるで、魔王が待つ城ね。

 囚われの姫君が、ここで待っている。

 では蛍が姫を助けにやって来た勇者ということになる。道中、敵と一度も出会うことなく、ただただ歩いて来ただけの、初期レベルの最弱勇者だ。初期装備の愛と勇気さえ持ち合わせていないから、そもそも勇者でさえない。

 ただの村人。同じセリフを繰り返すだけの名無しの村人だ。

 帰りたい、と蛍は踵を返した。ただの村人が姫の気まぐれで面会を許されたからといって、ほいほいと言われるままに来てはいけなかったのだ。

 目の前の建物があまりに潔癖で、精錬に見えて、蛍は完全に尻込みしていた。必死にとかしたぼさぼさの髪、クローゼットをひっくり返して見つけた数年前の洋服。今蛍の身を守っているものは、そんな装備だった。身に付けたところでむしろ、能力値をマイナスにする、呪いの装備品だった。

 やはり、無謀だった。帰れ、とまるで脅迫されている気分だ。蛍が今来た道を戻ろうと、もういっそ走り出そうとした時に、背中に声がかかった。

「そこのあなた!」

 あなた、では一体誰のことだかわからない。しかし、それが蛍を指しているのだと、何故だかはっきりとわかった。

 蛍は足を止めた。

 お姫様の声には逆らえない。

 蛍は善良な村人だった。


 きっと、あの子だ。

 糸子は病院のエントランスから、外にいる彼女を発見した。蛍を迎えようと、病室から降りてきたところ、どんぴしゃだった。

 少し痩せただろうか、しかし面影は残っていた。それはそうだ、二人が顔を合わせなかったのは、たかだか数年だ。人相に劇的な変化を及ぼす時間ではない。あの頃よりも化粧っ気のない顔は、以前よりも幼く見えるぐらいだ。

 林道蛍は何故か、病院の前で足を止めていた。まだ約束の時間まで少しある。そのせいで、病室に行くのを躊躇っているのだろうか。

 声をかけようと歩み寄っていくと、糸子の目の前で蛍と思しき女性はぱっと踵を返した。

「ちょっと」

 とっさに出た声は蛍には届かなかったようで、彼女は足を止めようとしない。

 蛍は何を思って来た道を戻り始めたのだろう。そんなことわかるはずないのに、糸子は慌てた。きっと、蛍はこのまま帰るつもりだ。糸子は確信した。今ここで引き止めないと、もう彼女とは二度と会うことはできない。そう思った。

「待って!」

 名前を呼ばなくては、と思った。もっと明確に、彼女に引き止める意思を伝えないといけない。当時、彼女のことをなんと呼んでいたのだろうか。

 わからない。でも、早く止めないと。

「そこのあなた!」

 どこのあなただ、と自分でも内心思った。案の定、複数人の怪訝そうな視線が、糸子に集まる。しかしそれ以外に、呼びようがなかった。

 蛍は立ち止った。立ち止ったからにはきっと、糸子の声が届いたはずだ。しかし、蛍は振り返ることもせず、そこに立ち尽くしていた。

「ちょっと、待って」

 駆け足と、ほんの少し大きな声を出しただけなのに、糸子は息が切れた。情けない。しかしこんな顔で、蛍と顔を合わせるわけにはいかない。

 糸子は息を整え、せいぜい魅力的に見えるように笑った。

「ねえ、あなたなんでしょう?」

 蛍はゆっくりと振り返った。怯えたような瞳が、糸子をとらえ、そしてすぐ明後日の方向を向いた。

「ねえ、私のことわかる?私、藤堂糸子。髪とか、ずいぶん伸びたから、雰囲気違うかもしれないけど」

「わかる」

 何故か、掠れた声だった。

「あたしが、林道蛍」

「わかってるよ」

 蛍はあっちを見たり、ちらりとこっちを見たり、落ち着かない様子だ。ただ、もう逃げ出す様子はなかったので、糸子はこっそり息を吐いて、安堵した。

「じゃあ、行きましょうか」

「どこに?」

「ゆっくり話ができる所」

 困惑する蛍の手を取って、糸子は駈け出す勢いで行く。

 蛍はつんのめりそうになりながら、糸子の少し後をついて来る。

「そ、それで、どこに行くの?」

「喫茶店」

 糸子は息を弾ませ、そう答えた。


 糸子に引きずられるようにして、蛍は歩かされていた。ここまで歩いて来て、また歩かされて、体力的にも限界に近かった。

 今、そんな蛍を動かしているのは、右手首に感じる人の温もりだけだった。この一点以外は、まるで極寒だ。糸子に手を離されたら、蛍はこのうすら寒い現実という世界で、きっと凍えて死んでしまうのだろう。

 糸子はそのまま電車に乗って、そしてバスに乗った。そういえば、電車代もバス代も支払っていないことに、蛍は後になって気付いた。糸子の動作があまりに計画的で滑らかだったので、蛍が余計な口を挟む隙は少しもなかった。

 糸子はいつの間にか、蛍の手を離していた。もちろん、そんなことだけでは、人は凍え死んだりしないから、蛍は当然生きていた。生きて、糸子と一緒に、こじんまりした建物の前に立っていた。

「ベリーズ」

 糸子が呟いた。

「ここは?」

「ただの喫茶店」

 ただの、というわりに、糸子は緊張した面持ちだった。どうやら、行きつけというわけではないようだった。

 ログハウス風の造りの建物の前に、カラフルなパラソルが二つ並んで置いてある。その下には木製の机と椅子が陰を作っていた。今そこには誰もいない。大きな窓からは店内が覗えたが、観葉植物しか見えなかった。客の気配はなかった。

 確かに静かで、落ち着いて話ができそうな所だった。しかしわざわざここまで来る必要はあったのだろうか。病院からここまで、結構な距離があった。そもそも、話をするだけなら、病室で事足りただろう。

「ごめん」

 糸子は唐突に言った。

「ここに、人を待たせているの」

「どういうこと?」

 蛍は警戒した。てっきり、二人で会って、話をするだけだと思っていたから。それでは、話が違う。

「昨日、替わってもいいって、言ってくれたでしょう?」

 糸子は笑った。

「私、それを本気にしちゃったの」

 それは嘘みたいに明るい笑顔だったのに、どうしてか、泣きそうに見えた。悲しそうというか、苦しそうで、何かが溢れてきそうな顔だった。その顔のままで、糸子は蛍の手をつかみ、詰め寄った。

「ねえ、嫌だったら今言って。この手を振り払って逃げて」

「逃げる?」

 一体何から、誰から逃げろというのだろうか。

「とっても恐ろしいことを考えている、私から」

 糸子が何を言っているのか、蛍にはわからなかった。わからなかったけれど、蛍には逃げる理由はなかった。

「あたしは昨日、嘘なんか言ってない」

 それを伝えるために、蛍はわざわざここまでやって来たのだ。

「あたしは、本気だった。今だって、本気」

 嘘ではないと伝えるために、蛍はあの狭い部屋から飛び出したのだ。ここで逃げてしまっては、あの場所から出で来た意味がない。

 替わってもいいと言ったのも本当だし、自分自身に向けた悪態だって、本物だった。それを証明するためにここまで来たのだ。

「死ねばいいって、あたしは本当に思ってる」

 自分の本気が伝わって、少しでも糸子の気持ちが安らげばいい。そう思ってここまで来たのだ。

「本当に、死んでもいいの?」

「あたしはもう、死んでるみたいなものだから」

 いつまで続くかわからない生を、蛍は完全に持て余していた。しかしそれを自らの手で終わらせることもできない臆病者、それが蛍だった。心臓が脈を打つから、生きている。それだけの存在だ。

 そんなの、あたしでなくてもいいじゃないか。

 むしろ、自分じゃない方がいい。何も生み出さない自分より、糸子の方がいいに決まっている。ずっと有意義に、この体を使えるはずの、糸子の方がいいに決まっている。

 糸子はじっと蛍を見る。だから蛍は目を逸らした。

 糸子は少し、痩せただろうか。よくよく見れば、それは少しどころの話ではなかった。頬はこけ、顔色もあまりよくない。明るい色のファンデーションで無理やり顔を作っていた。手だって骨ばっていて、余計な肉がついていない。それなのに、熱だけはしっかりあって、それが逆に痛々しさを増していた。

 病気なのだ、と改めて蛍は認識した。あの頃とは違うのだ、と今になって気付く。

 劣化したのは、お互い様か。

 そう思ったら、少し力が抜けた。蛍は視線を上げて、糸子の目を見た。この子は自分よりも、よっぽど価値ある人間なのに、病気のせいで、蛍と同じ所まで叩き落されてしまったのだ。かわいそうな人なのだ。

 命さえあれば、彼女は輝ける人なのに、それだけがない。

「死ぬことは、怖くない」

 それは蛍の本音だった。

「だけど、自分で自分を殺す勇気がない」

「そんなの勇気でもなんでもないよ」

 糸子はそう言って、やっと蛍の手を離した。

「ここに、私とあなたを入れ替えてくれる人がいる」

 それはどういうことなのか、尋ねる前に、糸子は喫茶店の入り口へ進む。カラン、と鈴の音が聞こえた。

「恨んでくれてもいい。幻滅してくれてもいい。でも、ごめんね」

 顔だけをこちらに向けて、泣いたような笑ったようなその表情に、青春時代の糸子の姿が重なった。

「私、まだもう少し、生きていたいんだ」

 生まれたからには生きていたい。それは生きものすべてに当てはまる、とても素直な欲求だ。何も間違ったものではないし、汚いものでもない。

 糸子は至ってまっとうだ。歪んでいるのは、きっと蛍の方だ。生きもののくせして、死んだように生きている蛍の方が、よっぽど歪んだ存在だ。

 だからこれできっと、まっすぐになる。まっとうになれるはずだ。

 糸子が示す入り口。そこは天国への門だろうか。蛍はあのホームページを思い出した。

 楽園。あの、きれいな世界。

 そこに、自分も行くことができるのだろうか。

 蛍は店内に足を踏み入れた。


 喫茶店だ、と糸子はごくごく当然のことを思った。木製のテーブルと椅子のセットが三組とカウンター席がいくつか並ぶ、そんなこじんまりした店内。ニスが塗ってあるのか、全体的に光沢のある茶色、その中に観葉植物の緑がぽっかり浮かんでいた。

 ゆったりした音楽に、カウンターの男性の声が乗る。

「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」

 恰幅のよいエプロン姿の男性は、目尻に深い皺を刻んで、笑った。最初に電話に出てくれたのは、おそらく彼だろう。

「あの、待ち合わせをしていて」

「ああ、マキに御用でしたか」

 多くを説明しなくても、彼の理解は早かった。もしかしたら、ここにコーヒーを飲みに来る人間より、そっちに用事がある人間の方が多いのかもしれない。

「すみませんね、今お使いを頼んでしまって。もうすぐ戻ると思いますので、座ってお待ちください」

 糸子は頷いた。座ろう、と蛍を促し、窓際の席に座った。

「マキって?」

 蛍は糸子の横に座り、これから会う人物について尋ねた。

「占い師、らしい」

「占い師?」

「漫画とかでよくあるでしょう?頭をぶつけて、中身が入れ替わっちゃうって、例のあれ」

 はあ、と蛍は納得しているのかいないのか、曖昧な返事をした。

「その人は、それができるらしいの」

「それ?」

「だから、中身を入れ替えることができるらしいのよ」

「中身?」

「だから、魂とか、意識とか?」

 蛍に説明していて、自分がとんでもなく馬鹿なことを言っている気分になってきた。そして実際に、それは馬鹿げたことだった。

「ごめん、勢いだけでここまで来たけど、実際、そんなことあるわけないよね」

 謝られても、蛍は困るだけだろう。そして実際、蛍は困っていた。わけのわからないことを説明されて、しかもそれが嘘か本当かもわからないときている。困惑するなという方が無理だ。

 話すことがなくなってしまった。これ以上の説明が、糸子にはできなかった。糸子にとっても、マキという存在は、それほどに未知だった。

 気まずい沈黙はしかし、一瞬だった。糸子と蛍の間に割り込むように、カランと軽快な音が鳴った。

「ただいま」

 やって来たのは若い女性だった。それも、目を引く女性だ。

「あらお客さん?珍しい」

「マキのお客さんだよ」

 あらあら、と女性は持っていた袋をカウンターの男性に渡して、滑らかな動作で二人の前に座った。

「お待たせしました。マキです」

 丸くて大きな目がきょろきょろと落ち着きなく、無遠慮に二人を観察するので、糸子も負けじと、マキを観察した。

 歳は二十代の半ばから後半ぐらいだろう。糸子よりも年上に見えた。化粧は濃く、はっきりとした顔立をさらに際立たせるものだった。大きい瞳はさらに大きく協調されており、気持ちが悪いぐらいだった。ベリーショートの髪は黒かったが、自然な色合いには見えなかった。きっとあえて黒く染めているのだろう。耳には大きなイヤリング、胸元にはカラフルなアクセサリが揺れる。手首にもこれでもかというぐらい輪っかがついている。服装は喪服のような真っ黒なワンピース。だから彼女が身に着ける、ありとあらゆるものが浮いていた。すべてがちぐはぐで、正しくない。一つ一つは何も悪くないのに、合わせてしまってせいでそのすべてを台無しにしていた。

 ハンバーグとショートケーキを一緒にしてしまった感じがした。

「それで」

 マキは一度ゆっくり瞬きをして、軽く首を傾げた。

「覚悟は決まってるの?」

 余計な説明、どころか、必要な説明も一切なく、マキは覚悟の確認した。覚悟はいい、なんて、ヒーローが悪者にとどめを刺す前にする、最終確認ではないか。

「待って。これは完全に私の落ち度なんだけど」

 糸子は蛍を見た。蛍はマキの奇抜さもあってか、口を開けてぽかんとしていた。

「私、まだこの子に、あまりきちんと説明できてないの」

 あらまあ、とマキは大げさな動作で驚いた。それがどこか芝居がかっていて、糸子を苛立たせた。こんな女の話を、自分は一時でも信じたのか、と。

「だから、もう少し、ゆっくり進めてほしい」

「ゆっくりねえ」

 マキは先ほどとは反対側に、首を傾げた。

「じゃあ、とりあえず、自己紹介から始める?」

 彼女の提案は思いのほかまっとうだったので、その通りにする。まずは、と糸子が口を開こうとした時、カウンターにいた男性が、いつの間にかテーブルの脇に立っていた。

「コーヒーしかなくてね、うちは」

 と、三人のテーブルに湯気の立つコーヒーを並べていく。

「コーヒーが駄目なら、お水を持って来ますが」

「大丈夫です、ありがとうございます」

 糸子の横で、蛍もぼそりと礼を言った気配があった。

「ありがとう、父さん」

 マキはそう言って、さっそくコーヒーに口をつけている。砂糖も何も入れない、ブラックだ。

 男性は微笑んで、またカウンターに戻って行った。

「お父様、だったんですね」

「ああ、うん。言ってなかった?ここ、あたしの実家だから」

 だからここを事務所のように使っているのだ、とマキは言う。それにしても、態度が大きいような気がして、糸子はどうしても彼女の評価を上げることができない。

「自己紹介、でしたね」

 糸子は話を戻した。

「私がお電話した。藤堂糸子です」

「あたしがマキ。占い師やってます。といっても、ただ中身を入れ替えることしかできないんだけどね」

 それで、とマキは蛍を指差す。失礼な、と糸子の方がむっとしてしまう。指を差された蛍はというと、自分の番かとはっとした様子だった。タイミングを邪魔してはいけない、と糸子は黙って見守ることにする。

「あたし、林道蛍です。えっと、糸子ちゃんの高校時代の同級生で」

 蛍の言葉はぼそぼそ消えていく。引きこもっていたというから、人と話すのは久しぶりなのかもしれない。しかも初対面の相手とくれば、ハードルも高いのだろう。

 そんな事情もしらないマキは、で、と責め立てるように、蛍に続きを求める。

「あ、えっと、引きこもりで、無職です」

 そんなこと言わなくても、と糸子は驚いて蛍を見た。言うにしても、もう少し言葉を選べばいいと思う。それではあまりにも、自分を卑下している。

「あらそうなんだ。あたしと同じだね」

 しかしマキはあっけらかんとそれを受け入れる。まったく対照的にも見える二人に同じ部分があるとは、糸子には到底思えなかった。

 それに、占い師とは職業ではないのだろうか。仕事ではなく、趣味なのだろか。

「あたしの力、説明しにくいから、占い師なんて一応そんなふうに名乗ってるだけ」

 マキは糸子の疑問に答えるようにそう言った。

「仕事なんて高尚なもんじゃないわ。それでいつだってここに入り浸ってコーヒー飲んでるってわけ」

 それが本当なら結構なろくでなしだと思うのだが、彼女の父親らしい男性は相も変わらずにこやかで、コーヒーカップを丁寧に磨き上げていた。失礼な話、彼女一人を養えるほど、この店が繁盛しているようには見えない。彼一人だって、食っていけるのか疑問になるほどだ。

「でも、あたしこれでも結構売れっ子でね」

 何も言わないのに、マキは先ほどから糸子の疑問にするすると答えてくれる。もしかしたら、もう何度も同じことを尋ねられているのかもしれない。だから、糸子が何か疑問を口にする前に、彼女は答える。

「正直、働かなくても食べていけるの、あたし。お父さんもね。普通のサラリーマンだったんだけど、静かな場所が欲しくてここを始めたの。お客様には好評なのよ。人目につかない静かな場所だって」

 糸子は昨日の電話、社長と秘書の話を思い出した。彼らも、ここでこうしてマキと話をしたのだろうか。誰にも知られることなく、ひっそりと入れ替わったのだろうか。

「ここで話したことは、他の誰にも知られることはない。あなた達が漏らさない限りね。お父さんもああ見えて、口の堅い人だから安心していいわ」

 ああ見えてもこう見えても、あそこの彼も、目の前のマキも、信用できる人物なのか判然としない。安心してだなんて、そんな言葉で安心できるほど、まだ彼女らを信用することはできない。

「まあ、外に漏らしたところで、困るのはたぶん、そちら様の方だと思うわ。ここに来る人達って、少なからず、やましい所があるのよね」

 マキは嫌らしく笑った。見下げられている、と目線はそう変わらないはずなのに、糸子にそんなふうに思わせる顔だった。むっとした気持ちが顔に出たのか、マキはなお一層笑って、やあねえ、と糸子の顔の前で手をひらひらさせた。

「そんなに怖い顔しないで。本当のことでしょう?」

 どうしていちいち、人の神経を逆なでするようなことを言うのだろうか。そして、そう思うということは、マキ真実を言っているということに他ならない。その事実が、ますます糸子を苛々させた。

 やましいことがある、と指摘されて、腹の立たない人間がいるだろうか。それはきっとやましいことが少しもない、菩薩のような人なのだろう。自分の人生に、少しのやましさもない人間が、はたして存在するのだろうか。

 自分は菩薩じゃないから、苛々するのは当然だ、と謎の理屈を組み上げて、糸子は怒りを腹の内に飲み込んだ。

「それに、これは忠告」

 マキはぴっと人差し指を天井に向けて立てた。

「あたしのことが公になることを、快く思わない人達ってたくさんいるの。まあ、ここを利用したお客様方なんだけど。あの人達は、入れ替わったことを秘密にしておきたいみたいだから。それなりに力を持った人が多いから、彼らの不利益になりそうなことは言わない方が、無難よ」

 何をされるか、わかったものではないという。

「そもそも、言ったって信じないでしょうに」

「それでも、よ。疑われることさえ、嫌な人はいるのよ。それに、もしもあたしの存在が明るみになって、その能力が証明されたら、世の中どうなると思う?」

 それはどうやら、蛍に尋ねているようだった。発言の少ない蛍に、会話に加わるよう促してくれたのかもしれない。一応、客を相手にしている自覚はあるのか。それとも、ただ単なる気まぐれか。

 気まぐれだろうな、と糸子は思ったが、ここは素直に蛍の発言を待った。蛍の意見や考え方も、少しは聞いておきたい。

「疑心暗鬼、ですね。誰が誰と替わったか、ことある毎に、言われることになりますね。偉業を成しても、犯罪を犯しても、その体の中身は、本当に本人なのかと、言われ続けることになりますね」

 例えば、死刑判決を受けた犯罪者が、中身は別人なのだと主張したら。そのままそいつを処罰することはできなくなる。体と中身が一致していなければ、刑の執行はでいない。そしてそれを証明できるのは、入れ替わった当人達と、入れ替えたマキだけだ。いや、彼らにだって、第三者にその事実を説明することは、きっと困難だろう。

「そうよ。その通り。なんだ、よく理解してるじゃない」

 偉い偉い、とマキは手を叩いた。しかし、続く蛍の言葉に、マキは凍りついたように固まった。

「それが、本当なら」

 蛍ははっきりとそう言った。疑っていますと、そう言った。まだおどおどしているし、マキの方を見たり、そっぽを向いたりを繰り返していたが、それだけははっきり言い切った。

「あなたは、信じてくれないの?」

 マキは少し声のトーンを落として、蛍に尋ねた。思わぬところから反撃を受けて、驚いた様子だった。

「例えば、あたしが同じことできますって言ったら、あなたは信じてくれますか?」

 蛍は怯えていた。それは目に見えて明らかだったが、だからと言って、言われるまま、されるがままというわけではなさそうだった。自分で考えて、発言している。本当か嘘か、それを自分自身で見極めようとしている。

 糸子は静かに反省した。先ほどの蛍の発言に、驚いたマキと同じだ。自分も、蛍のことを侮っていた。

「そうね、信じないわ」

 マキはお手上げ、といった様子で、本当に両手を上げた。

「ただの金魚の糞じゃなかったのね、あなた」

 ひどい言い草だったが、蛍は変わらず、視線を泳がせ、おどおどしていた。

「でも、だったら厄介よね」

 と、マキは糸子を見る。

「この子を騙くらかして、入れ替わることは、どうやら不可能みたいよ」

「騙してなんかいません。私は最初から、彼女に全部、本当のことを話してここまで来ました」

 嘘だ。今日マキに会うことなんか、糸子は蛍に伝えていなかった。昨日話したのは、お互いの身の上だけだった。彼女が糸子を慰めるためにしてくれた発言を、都合よく解釈して、何も伝えることなくここまで連れて来たのだ。

 替わってくれるって、言ったよね。

 そうして、彼女に迫るつもりだったのだろう。

 なんてひどい話だろう。この先の短い体を、心優しい彼女に押し付けようとしていた。いや、今だって、そうしようとしているのだ。

「あたし、騙されてなんかいません」

 蛍は今日初めて、不機嫌そうな顔を見せた。わずかに、眉間に皺を寄せ、少しマキを睨むような顔をした。

「彼女は嘘なんて吐いてない。あたしだって、嘘なんて吐いてない」

 語気を強めてさらに言う。

「死んでしまえばいいと思う気持ちに、嘘なんかない」

 そう強く、彼女は言った。

 そうか、彼女も彼女の目的があって、今日ここまでやって来たのだ。糸子のため、それだけではないのだろう。今マキに対して強く反論するのも、すべて糸子のためというわけでは、きっとないのだ。

 しかし、それでいいと思うし、その方がいいと、思う。

 それでこそ、対等に話ができる。

「確かに、私は彼女にあなたのことを話さなかった。今日、ここに来ることも、伝えていなかった」

 でも、それは騙したかったんじゃない。

「確信があったから。彼女と、利害が一致する、その確信があったから」

 都合がいい。利害の一致とは、それはなんて都合のいい言葉だろう。

今、たった今だ。それはたった今考えた。利害の一致なんて、そんな事務的で冷たい響きのする言葉で彼女と手を結ぼうなんて、考えてもいなかった。糸子は蛍の情に訴えかけ、同情させ、生きることに迷いがあるならその命を譲ってくれと、ただただ懇願するつもりだったのだ。

 そんな情けない懇願よりも、利害の一致の方が、よっぽどいいじゃないか。これで立場は対等だし、負い目を感じる必要もない。

 ないよね、と蛍を見た。蛍は何も言わないし、目だってろくに合わないが、そうだと言ってくれているような気がした。

「じゃあ、いいの?」

 マキは尋ねる。

「覚悟は決まった?」

 そして、最初の確認に戻った。

 そして、最後の確認だった。


 覚悟を求められた蛍は、沈黙した。

 嘘ならこんなに馬鹿な話はないが、本当だったら。もしも本当だったなら、蛍は糸子の体の中に入ることになる。そして、間もなく、死ぬことになる。逆に、糸子は林道蛍として生きることになるが、こちらは別に、心配する必要はないだろう。

 身長は少し低くなるし、胸もほんの少し小さくなるけれど、糸子にとって、そんなことはハンデにもならないだろう。些細な問題だ。

 死ぬことに比べてれば、どんなことだって些細な問題だろう。

 問題は全部、蛍に押し付けられることになる。蛍の覚悟が、すべてだ。嫌だと言えば、糸子は強制しないだろう。

 しないよね、と蛍は糸子を見た。

 糸子は何も答えてはくれなかった。ただ、少し気まずそうに目を逸らした。きっと、そうやって何も言わないのは、蛍の選択を待ってくれているからだろう。蛍に選ばせてくれるのだろう。そう思う。そう思うことにする。

 利害の一致、と糸子は言った。糸子の利は生きられることだ。では、蛍の利とはなんだろう。糸子の反対、それは死ぬことだ。

 自ら命を絶たずとも、通常の寿命をまっとうするよりも、よっぽど早く死ねること、それが蛍の利だ。

 それは、蛍が望んでいたことだ。死ねばいいのに、と自分自身に吐き出し続けた蛍にとって、病死はまさしく、理想的だと言えた。

 ためらうことなどあるものか、この顔にも、体にも、別に未練はない。

 では、どうして即答できないのか。

 あの糸子が、逃げ出そうとしているからだ。彼女でさえ、逃げ出したいと思うような恐怖を、受け入れなければならないからだ。

 死という恐怖を、現実のものとして、受け入れなければならないからだ。

 蛍の目から見て、とても輝いていて、強く見える彼女が、逃げ出そうとするほどの恐怖。それと、蛍は向き合わなくてはならないのだ。

 そんなことが、本当にできるのだろうか。

 認めなければならない。蛍は怖かった。あれほど、死ねばいいのに、と自分に言い聞かせ続けてきたのに、それでも、怖いと思ってしまった。それが現実のもとして迫って来た今、やっとそのことに気付いたのだ。

 やめると言っても、嫌だと言っても、いいのだろうか。

 ここで逃げ出しても、糸子は怒らないだろうか。怒らないだろう、と蛍は思う。しかし、落胆するだろう。心の中で、蛍を嘘吐きだと罵倒するかもしれない。罵倒しながら、一年後に死ぬ。

 それで、いいのだろうか。いいわけあるか。

 いいわけないのに、戸惑ってしまう自分が、蛍は情けなかった。

 こんな自分は死ねばいい。こんなに情けなくて、目の前で助けを求める彼女を振り払ってまで生きようとしている汚らわしい自分なんて、死んでしまえばいいんだ。

 そもそも、と蛍は思う。

 自分は死ぬべき人間なんだ。選ぶ必要も権利もない。それは当然のことなのだ。そうすることが決まっているのだ。

 それなのに、死に方を選べるのだから、贅沢にもほどがあるというものだ。

 理想的だ。これはいい話だ。

 自分の体が、命が、誰かの役に立つのだから。何も生み出せないと思っていた自分が、誰かの役に立てるのだから。

 ただ、自分が死ぬだけで。

「覚悟なんて」

 そうだ、あたしは最初から。

「死ぬつもりでした」

 これは自然なこと。

「彼女がこの体でいいと言うのなら」

 糸子がこの体で、生きる覚悟を持っているというのなら。

「替えてください」

 そのそも、選択肢なんて、なかった。


 はっきりと、蛍はそう言った。まっすぐにマキを見て、もう視線がぶれることはなかった。

 本当にいいのか、と確かめる勇気は糸子にはなかった。ただ、蛍の気が変わらないうちに、早く、とそれだけを願った。

 自分のことを、なんてひどい奴だと非難する余裕は、なかった。

「わかった」

 マキは糸子の焦りなど知ったことではないというふうに、ゆったりと頷いた。

「あなたも、いいのね?」

 改めて訊かれるまでもない。糸子は頷いた。

「わかったわ」

 マキは両方の手を、掌を上にしてテーブルの上に置いた。一方は糸子に、もう一方は蛍に差し出すようにした。

「入れ替わった後のことは、あたしは一切責任を持ちません。それぞれが、それぞれに頑張って。まあ、法的に訴えることなんて、できないでしょうけど。あ、報酬は後払いでいいから」

 それがマキの最終確認だった。口頭での説明は短く、文書もない。一応、なんて思って、シャチハタは鞄に入れて来たけれど、無駄になりそうだった。

「さあ、この手をとって」

 言われるままに、糸子は左手でマキの手をとった。蛍は反対の手だ。なんとなく、横でぶら下がっているだけの右手が手持無沙汰で、蛍と手を繋ぐべきだろうか、と糸子は思ったが、マキが何も言わないので、結局黙っていた。

「さあ、目を瞑って」

 蛍は素直だ。すっと目を閉じた蛍を確認してから、糸子は目を瞑った。

「大丈夫、目を開けたら終わってるから」

 じゃあ、今すぐ目を開けてみようか、と糸子は悪戯心がうずいた。しかし今まさに、魂とかなるものが移動している最中だとしたら、途中で何かトラブルが起きた場合、何かとんでもことになるのでないか、と思ってやめた。注意事項は特に何もなかったが、ここであえて逆らうメリットはない。

 糸子は待った。蛍も大人しく待ってくれていることを信じて、待った。

 それは、実際のところ、一分にも満たないわずかな時間だった。しかし人前でただ目を閉じ、待っているというのは、落ち着かない。無防備な姿を晒している。わずかな時間だったが、何度も、目を開けたいという欲求が襲ってきた。しかし、目を開けた時、何も変わっていなかったら。そんな恐怖が、瞼を重くした。

 特に、何も感じない。不快ではないが、快い感覚もない。ただ、少しだけ体温が上がったような気がする。手を繋いでいるからだろうか。別に、不自然ではない体の変化だった。

「いち、にい、さん、で目を開けて」

 言われて、糸子は逆にぎゅうっと目を瞑った。

 いくわよ、とマキは一呼吸おいて合図を出す。

「いち、にい、さん」

 目を開けた。

 マキがいた。二人に手を差し出したまま、糸子と蛍を交互に見ていた。

 隣を見れば、結果は明らかだ。しかし、糸子の首は、いや体全部が、まるで凍りついたように動かなった。

 ずれている、と感じた。難易度の高い間違い探しをさせられている気分だった。具体的な間違いは一カ所も指摘できないのに、そこに間違いがあることは、確信できた。

「順番に、名前を言ってくれる?」

 名前を言おうとした。しかし声が出なかった。いつも、どんなふうに声を出していたんだろう。声帯を震わせ、舌を回し、唇を動かす。そんなこと、いつもなんの意識もなくやっていたことなのに、どうしてできないのだろう。

 接続できていません。

 時々、インターネットなどで、そんな表示に行き当たることがある。接続されていません。だから、このページは表示できません。電子機器に疎い糸子は、そういう時、電源を落としてしまうことにしている。パソコンに対する処置としては、あまりいい方法ではないのはわかっている。しかしそれ以外に、現状を打破する方法を知らなかった。

 もちろん、糸子の体はパソコンではない。ボタン一つで意識を落とすなんて、器用なことはできない。だから糸子はとりあえず、大きく深呼吸をした。

 呼吸音が耳まで届くぐらい、大きなものだ。それでやっと、自分の喉から音が出ることを、糸子は理解した。

 声が出る。

 それを理解した。

「私は、藤堂糸子」

 それは、林道蛍の声だった。

 喉に触る。ごくりと唾を飲んだ感触が伝わった。

 今、この喉の、声帯が震えた。

 隣から視線を感じた。隣にいるのは林道蛍だ。

「あたしは、林道蛍」

 当然、蛍はそう答えた。藤堂糸子の声で。

 自分の声で。

 答えはすぐ隣にある。見ればすべてがはっきるする。それなのに、体は自由に動かない。一つ一つの機能が、まだ正常に働ないていないようだった。

 指先は動く。指先は太ももを軽く撫でた。こそばゆい。感覚は、あるようだ。体内を、巡回する血液。流石に、その流れを感じ取ることはできないが、血液を通して、体中に自分というものを浸透させていく。糸子はそんなイメージをしながら、ゆっくりと瞬きした。もちろん、さっきと今で、見える世界は違わない。

 糸子はもう一度深呼吸をしてから、ゆっくりと首を回した。

 目を丸くした、なんとも間抜けな顔の自分が、そこにいた。

 糸子は驚きに目を見開いた、藤堂糸子の顔を見た。

「大丈夫かしら?何か異変はある?」

 異変しかない。

 違和感しかない。

 なんと答えたものか悩んでいると、マキは笑いながら首を傾げた。

「まあ、落ち着きなさいよ。大丈夫よ、あたし、今まで失敗したことないから」

 くすくすと笑いを零しながら、彼女は聞いてもいないのに思い出を語り出す。

「初めては、あたしのお父さんとお母さんだった。川の字になって昼寝をしてて、どうして手を繋いだのかしら、わからないけれど、目が覚めたら入れ替わってた」

 じゃあ、と糸子がカウンターの男性に視線を向けると、マキは大声を立てて笑った。

「まさか。お父さんの中身はちゃんとお父さんよ。すぐ元に戻したから」

 戻すこともできるのか、と糸子は自分の顔を見た。まったくひどい顔をしている。明らかに戸惑った様子の自分。いや、もう自分の体ではないのか。

 それにしても、あまりに簡単だった。献血で血を抜いた時の方がまだ痛かったし、間違って他人の靴を履いてしまった時の方が違和感があったぐらいだ。

 瞬きができる。喋ることもできた。両手を顔の近くまで持っていき、握ったり開いたりしてみる。もうなんの違和感も感じなかった。ただ、少し、見慣れないだけだ。指の長さも、爪の形も違う。自分の体をまじまじと見る機会など、最近はほとんどなかったはずなのに、違いはよくわかった。

 音もなく、痛みもなく、なんの感覚もなく、いつの間にか糸子は蛍になっていた。逆に、蛍は糸子になっていた。

 驚きが去り始めると、先ほどの硬直が嘘のように、滑らかに体を動かすことができた。この体のコントロールは、完全に糸子のものだった。

 頬に触れてみる、唇に触れてみる。何もかもが自分とは違う。まるで、体全身の皮を剥いで、新しい皮を貼り直したようだ。

 隣に、かつての自分の体がなければ、きっとそう思ったことだろう。もうすぐ朽ち果てる、この体がなければ。

 そして、そうであったなら、どんなに幸せだっただろう、と糸子は思った。

 入れ替わったのだ。中身を替えただけだ。自分の体を作り変えたわけではない。藤堂糸子の体は間もなく死を迎える。その事実は一向に、変わってはいない。

 誰かは、必ず、死ぬのだ。

 そうか、皮だけ貼り直しても、内臓が変わらなければ、意味ないのか。皮を剥いで貼り直したとか、そんなことはまったく、無意味な妄想だったわけだ。

 どうでもいい。そんな仮定の話はもういい。今はこの事実を受け入れることに、全力を注がなければならない。

 これからは、林道蛍として生きるのだから。

「落ち着いたかしら?ご納得いただけたなら、そろそろお支払をお願いしたのだけど」

 よろしいかしら、とマキは言う。

「ああ、そうね、わかったわ」

 と、糸子は鞄を手に取って、それが自分の鞄でないことに気付いた。

「ごめん、そっちの鞄に入ってる。取ってくれる?」

 蛍ははっと驚いて、慌てて左右を見渡した。別に、鞄は隠れていないし、すぐ目につくところに置いてあるのだが、蛍はそれを大層苦労して見つけ出した。そしてその苦労して見つけたものを、何故かおっかなびっくり摘み上げるようにして持ち、糸子に差し出してきた。

 それは間違いなく藤堂糸子の鞄だったのに、藤堂糸子がお伺いを立てるようにそれを差し出してくるその光景は、どこからどう見ても違和感しかなかった。盗んだわけでもあるまいに。いや、泥棒だって、もうすこし堂々としているだろう。

 蛍はこんな畏れ多いことはできない、と糸子の様子をうかがっていた。人様の鞄をまさぐるなんて、そんなこと。

「その中に、茶色の封筒が入ってるから」

 一向に手を伸ばしてこない糸子に、蛍は不思議そうな顔をする。自分の顔が様々な表情に変化するさまを見るのは、どうしても落ち着かなかった。普通、鏡でしか自分の顔を見ないから、こんなに自然に、自分の顔の表情が変わるのを見るのは、きっと始めてだ。鏡の前の自分は、いつも作ったような笑顔を浮かべていた。

「その鞄は、もうあなたのなんだから」

 あ、とやっと気付いた蛍は、もう一度糸子の様子をうかがってから、ゆっくりと鞄を開いた。

「あの、じゃあ、これ」

 蛍は目についた封筒をぱっと出して、ぱっと渡した。中身を確認さえしなかった。例えばそれが他人のものだとしても、そこまで神経質に扱わなくてもいいんじゃないか、と糸子は自分の体を眺めた。しかし、この様子だと、蛍も糸子の体と、上手く繋がったと思っていいだろう。動きは機敏で、滑らかだった。少しは、安心した。

 マキは放り出された茶封筒を手に取り、中身を確認した。

「五万あるわね」

 確かに、とマキは封筒をテーブルの脇に置いた。

「さあ、これですべての工程は終了しました」

 マキは最後、にこやかに笑った。まだまだ混乱し、落ち着かない二人に対し、完全に他人事だからこそ、そんな顔で笑えるのだ、きっと。少しだって、糸子と蛍のこの先を、案じてなんていないのだろう。

「後は各々、頑張ってね」

 マキはひらひらと手を振った。

 後のことは知ったことではない、と。

 手の平に押されるようにして、二人は店を出た。

 各々の、新しい体を引きずるようにして、二人は外に出た。


「あ、コーヒー代って、よかったのかな」

 蛍は何故かそんなことが急に気にかかった。そんなことを気にしている場合ではないのに、お金の勘定を始めてしまう。

「さっきの五万も、あたし、半分出した方が」

 いいんじゃないか、とショルダーバックはいつもと形状が違ってはっとした。

「その財布からお金出しても」

 糸子は蛍を見て、くすくすと笑った。いや、糸子は糸子を見て、笑ったのか。違う、蛍が、糸子を見て、笑っていた。

「コーヒーは何も言われなかったから、きっと、サービスでしょう。あんまり商売してるって感じでもなかったし」

 自分が、まるで自分ではないような話し方をする。それはそうだ、中身はまるきり別人なのだから。

 急に、自分が大人っぽくなったように感じた。朝、必死に身嗜みを整えた自分と、これは同一人物なのだろうか。

「私のものは、もう全部あなたのものよ。代わりに、あなたのものは、私がもらうけど」

 それはお相子のはずなのに、糸子は申し訳なさそうだった。

「今さらだけど、本当によかったの?」

「本当に、今さら」

 笑ったつもりだったのだが、上手くいかなかった。糸子ならこういう時きっと、もっと上手く笑うのだろうに。まったく融通の利かない体だ。いや、外側はよいものにグレードアップされているのだから、伴っていないのは中身の方だ。

 上手く笑えなかったせいで、何故だか、ごめん、と糸子に謝られる始末だ。

「今さらだよね。こうなった後で、そんなこと言われてもね」

「違う、そうじゃなくて」

 そうじゃなくて、こうじゃなくて。言いたいことが上手く言葉にならない。そうこうしている間に、糸子がまた申し訳なさそうな顔をするので、慌てて話を変える。

「それより、この後のこと、考えないと」

「そうね。まさか、本当にこうなるとは。ずっと、半信半疑だったから」

 そうだったのか。糸子のことだから、確信とは確証があって、ここまで行動を起こしたものだと思っていた。しかしそうだとすると、ずいぶんとずさんな計画だ。

 こんな不確かな情報に飛びつかねばならないぐらい、糸子は焦っていたのだ。自分に残された時間が少ないことを、糸子は実感していたのだ。

 この体に残された時間は、どのぐらいなんだろう。

 蛍は胸に手を当てた。心臓が脈打つ感覚があった。

 余命一年。しかし宣告を受けた日から、きっかり三六五日後に死ぬ、というわけではないだろう。短くなるかもしれないし、もしかしたら、長引くかもしれない。

 どちらにせよ、それは短い。生きたいと願う人間にとって、おおよそ一年とは、あまりに短い。そして不確かで、不安定だ。

 それなのに、蛍に不安はなかった。焦りもない。

 ただ、待つだけだ。緩やかに、死ぬのを待つだけ。それはあの部屋に引きこもっていたあの時と、一体どこが違うのだろう。あの頃よりも、待ち時間が減っただけだ。漠然とした不安を感じる時間が減っただけ。

 それはいいことだ。今回のことは、蛍にとってはいいことだらけだ。しかし、好ましくないことも、ないではない。

 それは、おおよそ一年という期間、藤堂糸子として生きなければならないことだ。

 藤堂糸子として振る舞うことが、はたして蛍にできるだろうか。

 中身が子供のままなのに、体だけが大人に成長してしまった気分だ。それも、大層立派な大人。立派な被り物の中で、小さな手足をバタつかせても、歩くこともできない。

 どこにも行けない蛍が、藤堂糸子の人生にケチをつけ、名前に傷をつけてしまうことが、蛍には不安だった。

 謝りたいのはこちらの方だった。自分なんかが藤堂糸子を演じることを、今さらながら申し訳なく思った。しかし今謝っても話の腰を折るだけだと思って、蛍は謝罪の言葉を飲み込んだ。

「これからか」

 糸子は呟いた。藤堂糸子の体のままなら、なかったものだ。これから、先。いわゆる、未来。

「まあ、連絡は携帯でとれるし」

 糸子は遠くの方を見ていた。先が見ないほど、遠くの方だ。

 蛍はそれを怖いと思った。先の見えないのは怖い。暗闇の中で、不確かな足場を進むことを、怖いと思わない人間がいるだろうか。

 しかし、糸子はそれを恐れない。どころか、それを望んでいるのだ。先が見えないのは同じでも、糸子が進むのは蛍とは違い、輝かしい光の中だ。目を開けていられないほどの、光の渦中。

「とりあえず、火急必要なことだけ教え合って」

 糸子は嬉しそうだった。林道蛍として生きることが、楽しみで仕方がない様子だった。蛍に悪いと思っているのか、そういう気持ちを必死で隠しているふうではあったが、糸子はわかりやすくにやついていた。

 もしかしたら、林道蛍の体だからだろうか。糸子を持ってしても、操ることが困難な肉体なのだろうか。

 いや、違う。慣れ親しんだ、自分の体だからだ。親しんではいないか、とすぐに思い直す。しかし、慣れた体だ。自分の表情の変化に、自分が敏感でないわけない。客観的に自分の顔を見ることはあなりない。しかしそれでも、わかった。

 二十年と少し一緒に生きた、自分の体だから。

 惜しくはないが、妙な喪失感を感じた。取り戻したいとは思わないのに、何かを失った感覚に、どうにも落ち着かなかった。

「お互い、家に帰ろうか」

 家に帰る。糸子が言う家とは、もう蛍の家ではない。あの部屋も、あのパソコンも、もう蛍のものではない。

 全部、糸子のものになった。代わりに、糸子のものは蛍のものになった。得たものも失ったもの、どちらもある。蛍にとっては得たものの方が圧倒的に大きいはずなのに、やはり喪失感ななくならなかった。

「私の病室はわかるよね」

 病院の場所はわかるし、部屋の番号さえ間違えなければこちらは問題ない。

「そっちは、あたしの家知らないよね。送ろうか?」

「大丈夫、住所だけ教えてもらえれば」

 たぶん、と糸子は笑って付け足した。

 住所のついでに、家族構成や最近の出来事などを話した。といっても、引きこもりの蛍が抱える最近の出来事など、些末なことしかなかった。話していて、少し情けなるぐらい、漫画とアニメの話しかなかった。

 それでも糸子は熱心に聞いていた。蛍らしく、振る舞おうなんて考えているのだろうか。そんなことをしなくても、母親も父親も、蛍の変化になんて気付かないだろう。顔なんてほとんど合わせていないのだから。

「うん、まあ大丈夫かな」

 最近面白いと思ったアニメの顛末を聞き終えた糸子は、うんうん、と頷いた。何やら自信がありそうだった。

 糸子にとっては、楽勝なのだろう。林道蛍を演じるとこぐらい。

 こちらは、こんなにも不安を感じているというのに、この違いはなんだろう。糸子の方が、ずっと長いこと、林道蛍として生きていかねければならないのだから、その苦労は計り知れない。それでも、それが少しも苦ではなさそうだった。

 自分は、あれほど苦しかったのに。

 不思議なものだ、と蛍は思う。彼女と蛍はきっと、幸と不幸の感性が真逆なのだろう。

 それはお互いにとって都合のいいことだった。

 生きることに喜びを感じる糸子と、苦しみを感じる蛍。そんな二人だったから、あっさりとこんな結末に至ったのだ。

 あ、と不意に糸子が声を上げた。先ほどまでの楽しそうな表情とは一変して、さあっと血の気が引いていた。病人のように、青い顔だ。いつもの自分だ、と蛍は懐かしい気持ちになった。

「ごめん、やっかいなことが一つ」

 どうして失念していたのだろう、と糸子は頭を抱えた。

「私、思い立って即行動しちゃったから、実は身の回りのこと、何も片付けてなくて」

 それは蛍の方も同じだった。まあ蛍が片付けなければならないのは部屋ぐらいだから、特に問題はないだろう。蛍の周りの人間関係は、整理しなければならないほど、複雑ではない。

 しかし糸子の方は問題だ。友人もたくさんいるだろうし、元職場の同僚とも、まだ付き合いがあるかもしれない。糸子を慕う彼らと、自分が上手くやれるはずがない。

 死ぬことは怖くない。しかし、糸子の評価を下げることは、ひどく怖いのだ。

 会ったこともない大勢の友人たちの顔を蛍が思い浮かべ、蛍は苦いものを噛み潰したような顔をした。

 それを見た糸子は逆に笑って見せた。心配しないで、と言うように。そして実際そう言った。

「心配しないで。今はもうほとんど誰も会いに来ない。最初はみんな心配してお見舞いに来てくれたけど、忙しいから」

 みんな、と寂しそうに言った。会いに来てほしい、ともしかしたら誰かに零したことがあるのかもしれない。その度に、きっと言われたのだろう。ごめんね、忙しいから。いや、言われなくても、同じく社会人として働いていた糸子には、それが建前ではないとわかっただろう。だからこそ、糸子は誰にも弱音が吐けず、ますます自分を追い詰めるような事態になったのではないだろうか。

「だけど、一人だけ。家族を除いて、たった一人だけ」

 そうだ、と蛍は思い出した。

 そんな相手がいるなら、死ぬ必要なんてないんじゃないか。そう思ったことを思い出した。

「恋人が」

 選んだ言葉が恥ずかしかったのか、糸子はわずかに頬を赤らめた。

「会いに来る」

 今日は色々なことがあった。久方ぶりに遠出して、数年ぶりに会った同級生と体を交換した。しかし今日一番の衝撃は、今だった。

 林道蛍にとって、初めての恋人。それはあらゆる工程をすっ飛ばして、人から譲り受ける形となった。

「ごめん。別れようと思ってたんだけど」

 しかし今さら、糸子にはどうすることもできないことだ。糸子は申し訳なさそうだった。ここで、心配するな、と笑いかけることでもできればいいのだが、あいにく蛍にそんな余裕はない。

「ど、どうすれば」

 糸子は何も言わなかった。それはもう糸子の問題ではなく、蛍の問題になってしまったのだ。ごめんね、と糸子は顔をうつむけるだけだ。

「わ、別れてしまっていいの?」

「むしろ、その方がいい」

 糸子はやけにはっきり言った。

「できるだけ早く」

 ごめんね、と糸子はまた謝った。

「別れてあげてほしい」

 蛍は察した。糸子は彼を切れなかったのだ。友人や同僚は、忙しいのだから、とそれで納得できたのに、彼だけは駄目だったのだ。忙しくても迷惑でも、最終的に悲しい思いをさせるとわかっていても、糸子は離してあげることができなかったのだ。

 これは蛍の役目だ。他人である、蛍になら、難なくできることだ。その彼に、蛍は何も思うことはないから、簡単に手を離してあげることができるはずだ。

 そう思えば、さして深刻な事態ではない気がしてきた。手を離すだけ。もう会いに来るなと言うだけ。それで嫌われても、詰られても、蛍はきっと何も感じないはずだ。だって彼に対して、なんの思い入れもないのだから。

「大丈夫。わかった」

 なんとかする、と蛍は笑顔のようなものを無理やり作った。

「別れて、それで終わり。それで、いいんだよね?」

 うん、と糸子は頷いた。しかしその顔は、どこか寂しそうな感じがした。

「ごめんね、色々、押し付けちゃって」

「大丈夫、なんとかなるよ」

 どうせ、短い間だ。

「なんとかなる」

 なんとかなるよ、と互いに唱えあって、別れ道。

「じゃあ、よろしくね、私」

「そっちこそ、頑張ってね、あたし」

 心配なことは多々あったが、互いに、自分の元の体には未練がなかった。

 別れはひどくあっさりしていた。

 振り返ることさえしなかった。

 こうして、藤堂糸子と林道蛍の新しい人生が始まった。


 藤堂糸子は林道蛍になった。

 林道蛍は藤堂糸子になった。

 私があたしになって、あたしが私になった。

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