第1話 引きこもりと病人
明るい声だった。それは、努めて、明るい声だった。
「だから、騙されたと思って」
「だから、それ絶対に騙されてるって」
明るい声に対する彼女は呆れ顔だ。
「確かに、胡散臭い話だけど」
明るい声の彼は、身振り手振りを交えながら、めげずに、懸命に語る。
「でも、駄目で元々、やってみる価値はあるって」
「高いお金を払ってまで?」
金、という現実味を多分に孕んだ単語に、彼はしゅんとまるで塩でもかけられたように萎れた。
「でも、糸子のために」
まだぶつぶつ言おうとする彼に、糸子はゆっくりと言う。
「直希」
と、まず彼の名前を呼んだ。直希は怯えきった様子で糸子を見上げた。体格がいい方ではない直希は、それでも糸子よりも身長は高いはずなのに、いつだって上目遣いで糸子を見る。それは糸子の視線に合わせてくれているからだけでは、きっとない。そういう仕草で直希は、糸子にお伺いを立てているのだ。
糸子は直希のお伺いに対して、丁寧に返答してやる。
「占い師だかなんだか知らないけど、お金とるんでしょう?その人」
「う、うん。掲示板にはそう書いてあった」
直希が言うには、ネットでそんなカキコミを見つけたそうだ。
「人が変わる、ね」
「う、うん。掲示板には」
「掲示板には、ね」
「う、うん」
悪いことをしているわけでもないのに、直希はしどろもどろだ。それは、直希自身、そのカキコミを信用していないからだ。自分でも信じられないものを、人に勧めた罪悪感から、直希はますます小さくなっていく。
「人が変わるって表現は引っかかるけど」
「今までのとは違うだろ?」
「違うからって、前よりいいとは限らないでしょ」
もっともです、と直希はおそらくそう言った。消えかけのその声は、もうため息との区別もつかない。
「ごめん」
「謝らないでよ。私のために探してきてくれたんでしょ?」
糸子は優しく笑いかけた。努めて、優しく笑いかけた。
直希は最近よく、この手の情報を持ってくる。運気がよくなる、前向きになれる、明るくなれる等々、そういう類の情報だ。評判のいいカウンセリングやセミナーなどを、しきりに勧めてくるのだ。その情報源は様々だったが、やはり今のご時勢、ネットが主流らしい。参加も不参加もボタン一つで簡単だ。直希の行動力でも、簡単に一歩を踏み出せる垣根の低さも魅力的だ。
もう予約しちゃった、と悪意のない直希の笑顔。断ることなどできようか。
重い体と気持ちを引きずって、そうして何度か二人で出かけた。しかし、結果がこの様、この会話というわけだ。
それなりに、実のある話もあった。親切なカウンセラーの先生にも出会った。しかしそのどれもが、糸子の心を打つものではなかった。感動した、ただそれだけだった。
「でも、嫌なこともあったし、痛いめにもあったでしょ」
あれを買えこれを買えと言われるぐらいは序の口だ。屈強な男達に囲まれて、何か得体の知れない書類にサインを書かされそうにもなった。持ち出した書類を後から読んでみた所、それは土地開発に関する高額な投資だった。とても実現するとは思えない、まさに夢のような計画だった。そして実際、工事が行われている様子は、今現在もない。
「私は別にいいけれど」
失って困るものは、特にない。
「でも、あなたは違うでしょ。この先のことを考えたらお金だって必要だし。こんなことで事件にでも巻き込まれて、信用を失うようなことになったら、馬鹿みたいよ」
「馬鹿じゃないよ」
まるで子供のような切り返しだ。馬鹿と言った方が馬鹿なのだ、と。それなら糸子も直希も馬鹿だ。
「馬鹿なことじゃないよ。大事なことだ。何を失ったって、これは」
「直希」
それはいけない、と糸子の視線に直希は黙った。
「あなたは、これからだって生きるんだから」
「それは、糸子も一緒だろ」
直希、と言おうとしたのに、糸子は声が出なかった。
「大丈夫?」
と、直希は継子の背を軽くさすった。
「人、呼ぶ?」
「大丈夫、大丈夫よ」
明らかに無理やり笑う糸子に対して、直希はナースコールに手を伸ばしたり戻したりしている。
本当に、大丈夫なのに。
体はむしろ、調子がいいくらいだ。言葉を詰まらせたのは、気持ちの問題だった。
余命宣告を受けて、間もなく、この病室にやって来た。ベッドに寝かされ、針を刺されて、点滴を繋がれ、できる限り心穏やかに過ごそうと努めている。
そう、努力しないと、生きていられない体になったのだ。当然のように呼吸をして、当然のように心臓が動く、もうそんな体ではないのだ。検査を繰り返し、もうこれ以上体が弱らないことを願いながら過ごす。
改善の見込みはない。
ただ、待つばかりの日々だ。
この心臓の鼓動が止まるのを。
あるいは、何かの奇跡が起きて、素晴らしい治療方法が発見されるか、特効薬が開発されるのを。
待つしかできない日々だ。
待てる時間も、それほど長くはない。
暗い気持ちになるな、という方が無理な話だ。だから、誰も糸子にそんなことは言わなかった。糸子の、自然な気持ちの流れに任せてくれていた。暗くなって沈み込むのも、無理に明るく振る舞う姿に対しても、何も言わずにいてくれた。何もできない、どう接していいのかわからない、それが彼らの本音だったのかもしれないが、何もせず、普段通りに接してくれた方が、糸子は気が楽だった。
この、直希以外は、みんなそうしてくれたというのに。
「僕は、君に死んでほしくないんだ」
彼は単純だ。それは決して悪いことではない。それが、人を傷付けない限りは。
「私だって、死にたくないよ」
どんな顔をしていたのだろう。直希は怯んでいた。
「可能性があるならどんなことだってするつもり。手術だって薬だって、どんなリスクがあろうとね。でも、どんな小さな可能性も、私の前にはない。縋る藁さえないなら、どうすればいいっていうの?」
「だから」
「気持ちだけいくら前を向いたって、その先に見えるのが光りじゃないなら、結局絶望するしかないじゃない。期待しただけ、その絶望が大きくなるだけよ」
治る見込みはない。治療法も、特効薬もない。だから直希は、せめて前を向けと言う。生きたいという気持ちはなくさないように、希望を捨てないようにと言う。
しかし糸子はもうすでに、そういう気持ちを持っている。生きたいと思っているし、希望だって捨てたくないと思っている。
だからこそ、辛いというのに、直希はそのことに気付いてくれない。糸子が辛そうにしているのは、生きる望みと希望を捨ててしまったからだと思っているのだ。
「でも、僕は」
わかっている。わかっているさ、そんなこと。
「君に、生きていてほしいと」
「わかってる」
糸子は語気を強めた。思わず、少し荒げてしまった語気を誤魔化すように、糸子は目を逸らした。
「わかってるから。ごめん、今日は少し疲れた」
暗に、帰ってくれと言う。さすがに、これには気付いてくれたようだ。
「ごめん、喋り過ぎちゃった。一応、さっきの話も考えておいて。連絡先も、置いていくから」
よかったら、と控えめに主張して、直希はあらかじめ用意して来たのであろう小さなメモ用紙を、ベッド脇にある棚の上に置いた。
じゃあ、と手を振り、病室を出て行く直希を、糸子はまともに見ることができなかった。
直希は外に行く。外に出て行く。私を置いて。私はここから、どこに行けないのに。
いや、それは別に構わないのだ。寂しいと思う気持ちはもちろんあるが、だってそれは当然のことなのだから。直希の居場所はここではない。彼は外の世界で働き、そして生きている。
直希の居場所はここにはない。それなのに、彼は頻繁にここにやって来る。他に行くべき所も、会うべき人もいるはずなのに、ここにしかそれがないかのように、直希はやって来る。
自分が直希を駄目にしている。こんな場所に、自分に、彼を縛り付けていてはいけない。
しかし糸子はそう思いながら、直希を放してやれずにいる。直希の献身ぶりやずれた気遣いを煩わしいと思う反面、なくなったら、きっと寂しくて、それこそ死んでしまう。そう思う。
駄目だ。死ぬのは自分一人なのだから。
直希は連れて行けない。
いや、いっそ一緒に連れて行ってしまおうか。
駄目だ、駄目だ。違う。そもそも、そんなことは望んでいない。と、一瞬脳内を掠めた恐ろしい考えを、糸子はすぐさま振り払う。
これはいよいよ、本格的に駄目かもしれない。変わらなければ。彼を手放してやれる自分に、ならなければならない。
結局、直希の言う通りなのかもしれない。
藤堂糸子は変わらなければならない。
糸子は身を起こして、うんと手を伸ばした。指の先に引っかかった小さな紙片を引き寄せる。もぞもぞとベッドで体勢を整え、紙片に目を落とす。ボールペンの尖った文字で、電話番号が書かれていた。その下にたった二文字。これがおそらくその占い師の名前なのだろう。
「マキ」
カタカナでそれだけ。おそらく女性なのだろう。それだけの情報しか読み取ることはできなかった。
なるほど、電話をかける勇気はなかったのか。たったこれだけの情報で、得体の知れないだれかと直接言葉を交わせるほどの勇気は、直希にはなかったのだ。彼にできるのはクリック一つまで。だから、わざわざお伺いを立てに来たのだ。興味があるなら電話をかけて、と糸子にお願いするために。まるで一人でお化け屋敷に入れない子供だ。親の手を引いて、一人じゃ嫌だと懇願している、子供。親と子ならそれでいい。しかし糸子と直希はもちろん親子ではない。
急に、馬鹿馬鹿しくなった。どうして、自分が直希の手を引いてやらなければならないのだろう。
歳も同じで恋人同士で、対等な関係のはずなのに、どうしていつも自分ばかりが、親お役目を負わなければならないのか。
私ばかりが。
こんな状態にいる、私ばかりが。
私だって、たまには手を引かれたい。こっちが正しい道だと示され、手を引かれて進みたい。
糸子は片手で紙片を握りつぶした。それを病室のごみ箱に向かって放り投げて、糸子は深々と布団を被った。
今日は体調がよかった。だからなおのこと、寂しかった。ありあまるこの力で外に駈け出して行きたかった。しかし医者に言わせれば、今日のこのコンディションであっても、ありあまるほどの体力なんてないらしい。いつもよりマシ、というだけのことなのだ。
回復の見込みはない。
忘れてはならない。期待なんて抱いてはならない。
こんなに悲しい思いに支配されている今だって、もう涙も出てこない。おそらく、人が一生のうちに流せる涙の量は決まっているに違いない。糸子の涙はもうきっと枯れてしまったのだ。いや、もう涙を流す体力すら、残っていないのか。
そんなふうに考えたら、むしろ泣きたくなったが、やはりどんなに頑張っても涙は出てこなかった。瞳を閉じたり見開いたりしてみたものの、眼球が乾いて痛くなっただけだった。
こんなことも、できなくなったのか。
泣くことさえ、できなくなったのか。
一つずつ、できることが減っていく。仕事に行けなくなった。友達と遊びに行けなくなった。好きな時に好きなものが食べられなくなった。
そのうち、会いたい人にも会えなくなり、話したい人とも話せなくなる。それどころかきっと、見たいものも見えなくなり、喋りたいことも喋れなくなるのだ。
「独り言だって」
言えなくなる。
「駄目だ」
これは駄目な傾向だ。寿命が尽きるのを待たずに、自ら死ぬ流れだ。
占い師、マキ。
直希が持って来た情報の中には、確かに怪しい団体もあったし、必ずしも糸子のためになったものばかりではなかったが、そうでないものだってあった。少なくとも、彼は糸子のためを思って行動してくれている。その気持ちだけでも、価値はある。
今回のその人は、どちらだったのだろうか。会う価値がある人物だったのだろうか。過去やら未来やらを占ってもらったところで、明かり兆しが見えてくるとは思えないが。
でも今さら、行く気になったと言うのは恥ずかしい。あれほど胡散臭いと直希に豪語した後なのだから。
それに、連絡先は捨ててしまったのだった。
何もかもが上手くいかない。タイミングやリズムのようなものが噛み合っていない気がした。こんな時はきっと何をしたって上手くいかない。何も決めない方が、きっといいだ。
寝よう、明日にしよう。
それだけ決めて、糸子は目を閉じた。
「起きろー」
間延びした声がした。甘ったるい声だ。
幼い少女の声に呼ばれた林道蛍は、布団の上でもぞもぞと身動ぎした。
「起きてよ、お兄ちゃん!」
お兄ちゃんじゃないし。
「学校、遅刻しちゃうよ?」
学校なんて行ってない。遠の昔に卒業したきりだ。
「お兄ちゃん!」
「だから」
蛍は布団の中から頭の上に手を伸ばす。声の元は平たい機械だった。手探りで、それをどうにか掴み取る。
「お兄ちゃんじゃねえし」
指先一本でその声を消し去ってから、蛍はその声を消し去った。
「一応、お姉ちゃんだから。その辺、臨機応変に対応してくれないもんかね」
既存の有料萌えボイスに無茶振りをして、蛍は切り替わったスマートフォンの画面に目をやる。
「おはよう」
待ち受け画面、掌の中の彼女は、金髪幼女で義理の妹だった。
「さすがに、ちょっと虚しいわ」
姉の性別を誤認している義妹はちょっと受けつけない。
義兄に対して尋常じゃないほど甘い声を出すだけのまっとうな義妹に、蛍は失礼にもそんなことを思って、スマートフォンを操作する。待ち受けには赤髪縦ロールの美少女が現れた。彼女に兄はいない。代わりに妹がいる。だからきっと、厳しく、しかし姉として妹を慈しむ愛情を持って、優しく起こしてくれることだろう。
「まあ、年下だがな」
年下のお姉さん系美女を眺めて、また虚しい気持ちを掘り起こす、林道蛍二十三歳雑食系オタクの自宅警備員である。
早い話が無職の引きこもりである。
おはよう、なんて言ってみたものの、時刻はすでに昼過ぎを大きく過ぎて、もう夕方に近い。今さら起きて、何をしろというのだろう。もういっそ、明日の朝まで眠って常識的な時間に起きて、行動する方が有意義なのではなだろうか。
どうせ今から漫画読んでネットしてアニメ観て、腹が減ったら何か口に入れて、時間が経てば排泄行為を済ませて寝るだけだ。人が作ったもの、与えられたものを目に入れ口に入れ、それをただ浪費するだけの日々。何も生み出さない、そんな日々。
そこに、どんな意味があるのだろう。命は尊い。粗末にしてはいけない。だから、生きているだけで素晴らしい。本当に。
「ああ」
誰かが聞いていれば、本当に女性の声かと疑うほど低い声で呻いて、蛍はやっと布団を横によけて、起き出した。今二度寝したら、深夜アニメの時間帯に起きることはおそらく不可能だ。夕方に目を覚ましたといっても、睡眠時間が多いわけではないのだ。眠りに落ちたのは昨夜ではない、今朝方だ。
とにかく、何か行動しないと、また睡魔がやって来る。眠らないために行動するのだ。
蛍はデスクトップ型のパソコンの前に座った。電源を入れる前の、まだ暗いディスプレイには、ぼさぼさ髪のみすぼらしい女の顔があった。頬もこけて生気のないその顔は、まるで幽霊だ。
こけた頬はすぐにはどうにもならない。せめて、と髪の間に指を入れた。手櫛もまともに通らない。指にまとわりつく切れ毛を乱暴に振るい落して、今度こそ、パソコンの電源を入れた。
突如として、パソコンは凄まじい音を立てる。
こいつは今、起動のために全力を注いてでいる。起動する、人間で言えば、布団から出るぐらいの行為に、全身全霊で臨んでいるのだ。
「ご臨終、召されてくれるなよ」
日々、労働基準法を大きく逸脱するほどの重労働を課されている勤続五年目のパソコンは、盛大に悲鳴を上げていた。しかし悲鳴を上げようが高熱に浮かされようが、有給なんかとらせてやるつもりはない。
「ほらさっさと開きなさい」
決まりきった動作を繰り返し、お決まりのページを開く。いつも覗く掲示板は、しかし何故か表示されなかった。
「何これ?警告文?」
それさえ、よくわからない。いつもは超長文だろうがお構いなしで、文字で埋めつくされているような所なのに、今はほとんど真っ白だった。左の方に短い文章がぽんと浮かんでいる寂しいページと睨めっこしてから、右上のバツをクリックした。
「わからん」
毎日パソコンに触っているからといって、パソコンに詳しいわけじゃない。毎日顔を合わせ、触れ合っているといっても、別に話をするわけでもないし、わかり合えるはずもないじゃないか。
「お前のことなんか理解できないよ」
不具合なのか、どうなのか、調べる気にもならない。しょせんは、その程度の居場所だったというわけだ。そこに行けなくなったら、また別の所に行くだけだ。どうせ、眠らないための、ただの時間潰しだ。
と、いうわけで、蛍は適当な単語を入れて検索を開始する。最近読んだ漫画の評判、アニメの評価、特に興味もない芸能情報などなど。タイトルが変わっただけで、どれも変わりばえのしない内容。二次元にしろ三次元にしろ、何か目新しいものがあるわけではなかった。それに対する感想や評価もまた同じだ。
退屈だった。時間潰しとはいえ、これでは睡魔との勝負にさえ勝てる気がしない。何か、何か、と求めるものは段々と過激なものになっていった。とにかく、目が覚めるような新しい情報が欲しかった。
いつくかの単語を入力し、そしてクリックし、一体どういう経緯でここまで来たのだろう。目の前に並ぶ単語は、決して穏やかなものではなかった。
いや、これはむしろ穏やかなのだろうか。
楽園、というらしいその場所は、緑と青と、とにかく人の目に優しい作りになっていた。掲示板での交流がメインのホームページだった。過去の書き込みをさっと読んでみると、なるほど、楽園か、と蛍は納得した。
簡単に言ってしまえば、ここは死にたがり達が集まる交流の場らしい。死にたい理由だったり、楽に死ぬための方法だったりがつらつらと書き記されていた。そして、そういった書き込みに対してコメントがついているのだが、そのどれもが、すべてを肯定するものだった。死にたいと言ってみたり、やっぱり嫌だと言ってみたりする気まぐれな書き込みに対しても、誰も何も否定しない。
そうだね、苦しいね、楽になりたいよね、でもやっぱり怖いよね、わかるよ。
わかるよ。
ここはそういう場であるらしい。
肯定の場。自ら死ぬことを、肯定する場であるらしい。
ネガティブな言葉のすべてに優しい言葉が寄り添っているこの空間は、とても美しかった。ネットでよく目にするスラングの類は一つとして見られない。冗談も茶化す言葉もなく、嘘だと笑う言葉もない。
嘘みたいな空間だった。
「楽園ね」
よく言ったもんだと思った。確かにここは、死にたがり達の楽園だった。誰にも邪魔されることなく、死に向かって行くための場所だ。
「自殺か」
自分で自分を殺すこと。
過去の書き込みを見てみると、ほとんどが匿名ではなかった。もちろん、本名ではない。ネット上の、ニックネームが残っている。
チカ。熊太郎。流れ星。花華。ジュン。
彼らはみんな、自殺をほのめかすような書き込みを残した後、書き込みが途絶えている。それが一体、何を意味するのだろうか。
彼らの消息は知れない。知ったことではない。
自分には、関係ない。
関係ないのに、何度も、何度も彼らの名前を探してしまった。
ただ、書き込むことをやめただけかもしれない。三次元の、身近な誰かに、優しい言葉をかけてもらって、思い留まったのかもしれない。そもそも、ここに書いていることが、本当であるかどうかなんて、わかるものか。このホームページが、蛍を騙すために存在しているのかもしれないじゃないか。
そうか、だからこんなにも、嘘みたいなんだ。
嘘みたいに、きれいなんだ。
いや、これはきっと嘘なんだ。
だって死にたがりが、こんなにもきれいなわけない。
あたしが、こんなにもきれいなわけない。
「死ねばいいのに」
この人達じゃなくて、あたしが。
林道蛍という人間が。
同じ死にたがりでも、彼らはきれいで、あたしは汚い。
だったら、あたしが死ぬべきだ。彼らは、生きるべきだ。
蛍は慌ててキーボードを叩いた。彼らに死ぬなと伝えるためだ。しかし、と蛍は指を止めた。ここでは、否定してはいけない。死にたがっている人に、生きろと伝えることは、その人を否定することにはならないだろうか。
「駄目だ」
生きて、とは言えない。
彼らはそんな言葉を、きっと望んでいない。そんな言葉をかけて欲しいなら、彼らはここには現れなかっただろう。
「でも」
どうする。それなら、どうすれば、この気持ちは伝わるのだろう。
「死ねばいいのに」
こんな自分は。
「あたしが、死ねばいいのに」
彼らの代わりに、誰かの代わりに。
結局、蛍は自分の口癖をそのまま書いた。
「死ねばいいのに」
こんなことしかできない自分はやはり。
「死ねばいいのに」
エンターキーを叩いて、固まった。
「あ」
蛍自身、一瞬、固まってしまった。
「おい、ねえ、ちょっと」
固まって動かない目の前の画面。いくらキーを叩いても、マウスを動かしても、画面にはなんの変化も起きない。自分が残した書き込みの行方がどうなったのかも、よくわからない。ネット上に反映され、誰かの目に触れることになるのだろうか。
この現状を回復させるための知識を、蛍は持たない。仕方がないので、電源ボタンを数秒を押して、無理やり電源を切った。もう一度、電源ボタンに触れて、やっぱりやめる。
これでもう電源が入らなかったら、絶望のあまり、パソコンの後追い自殺でもしかねない。
蛍は頭を振った。
ああ、やはり。まだ、死ぬつもりはないのだ。それはそうか、死ねばいいのに、なんて浅ましく生きている奴に向かって言う台詞だ。
きれいな言葉にあてられて、きれいなことがしたくなったけれど、結局、自分の覚悟なんてこんなものなのだ。
だから蛍は、皮肉気な笑顔を真黒なディスプレイに向けて言う。
「ご臨終、召されてくれるなよ」
せめて、あたしが生きているうちには。
きっと、もうすぐだから。もうすぐ死ぬから。今だけだから。
だから、生きていてくれ、と。
だから、今は生かしておいてくれ、と。
こうして林道蛍は言い訳を繰り返しながら、今日も生きている。
「ああ」
目が覚めた。まだ、きちんと生きているようだ。今は何時だろうか。窓から差し込む光は淡いオレンジ。夕方なのだろう。
糸子はまだだるい体をゆっくりと持ち上げる。眠る前には何を考えていたのだっけ、と思考する。思考できることに安堵しながら。
そうだ、占い師だ。
確か、マキと言った。
「メモ用紙」
呟いて、糸子はもぞもぞと滑るようにして、ベッドから降りた。足元にスリッパが見つからなかったので、裸足で降り立った。足の裏に、ひやりとした感覚があった。その久しぶりの感覚に、おっかなびっくりしながら、糸子は部屋の隅に置かれたごみ箱に近寄って行った。
ごみ箱は空になっていた。しかし、もともと入っていなかったのか、それとも、ごみを回収する際にたまたま落ちたのだろうか、メモ用紙はごみ箱の裏の方に、隠れるように転がっていた。
これは、何かの運命だろうか。
糸子は自分でぐしゃぐしゃに丸め捨てたそれを拾い上げ、破らないように丁寧に広げた。
直希の字。電話番号とマキという名前。
改めて、糸子は時間を確認した。部屋の壁掛け時計を見れば、今は五時を少し回ったところだった。誰かに電話をかけるには、まだ非常識な時間ではないだろう。
糸子は上着を肩に引っかけ、ベッドの下に隠れていたスリッパを引っ張り出して、装着した。電源を切ったままにしておいた携帯電話とメモ用紙を握りしめ、糸子は病室を出た。病室が並ぶ通りを抜けて、エレベーターで下に降りる。売店と喫茶店が一緒になった店の脇、小さなベンチに腰掛けて、糸子は携帯の電源を入れた。実は、糸子の病室は、携帯電話の使用は禁じられていない。しかしその事実は直希にも内緒にしていた。両親にも話していないから、きっと知らないと思う。いつだって連絡がつくと思われている状況は、苦痛だった。孤独は嫌だけれど、一人になりたい時間もあるのだ。まあ、居場所は知れているのだから、問題はないだろうと、糸子は判断していた。
起動した携帯電話をするすると操作して、メモ用紙の電話番号を叩いた。問題なく、コール音が響いた。どうやら、まったくのデタラメではなかったようだ。
「はい、喫茶ベリーズです」
電話口の声は男だった。おそらくは糸子よりも年上、父親と同じぐらいの年代だと感じた。それにしても、喫茶店とは。もしかしたら、どこかのチラシやホームページの番号が、流用されただけかもしれない。
「えっと、喫茶店ですか?」
「そうです。喫茶ベリーズです」
おうむ返しの質問にも、電話口の男性は明るい声音で返事をした。さすがは喫茶店、客商売をいているだけのことはある。きっと、この店のマスター、一番偉い人だ。
「マキさんという方は、そちらにいらっしゃいますか?」
一応、確認してみた。彼に尋ねてわからなければ、きっとこの店の誰に尋ねてもわからないだろう。誰だそれ、と一蹴されても仕方がないと思っていたが、男性はああ、と納得した。
「マキに御用でしたか、少々お待ちください」
はい、と返事は聞こえただろうか、もうすでに電話口は電子音で軽やかな音楽を奏でているところだった。メロディーが二周したところで、ぷっつりと急にそれは途絶えた。そして声がした。
「はい、マキです」
女性の声だ。先ほどの男性よりも、ずいぶん若い感じだ。
「あの、私、藤堂糸子と申します」
「はあ、存じ上げません」
「いえ、あの、占い師のマキさんですよね?」
あっさりと電話を切られてしまいそうだったので、糸子は慌てて言う。
「ご相談がありまして」
「あたしに、相談ですか?」
マキは心底不思議そうだ。電話越しに顔を見ることはできないが、顔を傾げている様子が容易に想像できた。
占い師に依頼をする時は、なんと言ったらいいのだろうか。相談という言葉は違うのだろうか。そもそもまだ、彼女に何かを頼むと決めたわけではなかった。もう少し、話を聞いてから、決めたい。
「マキさんは、人を変えることができると聞きました」
「確かにあたしは人を替えることができます。むしろ、あたしにはそれしかできません」
「それは、どういうことでしょうか?」
「誰かと誰か入れ替えるということです」
それは一体、どういうことだ。言い直してくれたけれど、まったくわかりやすくはなっていなかった。
「言葉の通りで、それ以上の説明はできません。だから、占い師という肩書も、正しいとは言えませんね」
占い師でさえないと言う。今や占い師以上に胡散臭い存在になってしまったマキという女性に、糸子は尋ねる。
「もう少し、具体的に説明していただけますか?」
「具体的、と言いますと?」
「今までに占われた方の、エピソードなんかを聞かせてもらえると」
ありがたいのだけれど、と糸子は控えめに尋ねた。もしかして、探偵のように守秘義務のようなものに引っかかってしまうのだろうか。もしかして、非常識なことを尋ねてしまっただろうか、と糸子はマキの返答を待った。
「エピソードねえ」
しかしマキの逡巡は、そういう職務上の倫理を考えてのものではないらしい。
「そんな大層なものではないし、面白い話でもないんだけど、それでもいい?」
別に、壮大さも面白さも求めてはいないから、糸子は、はい、と短く答えた。
「えっと、この前の人の話」
さすがに名前は伏せていた。
「依頼主は会社の社長だった。どこかの、ネットとかⅠT関係とか?」
いや、ただ単に忘れているだけかもしれない。
「それで、裏金?架空口座とか架空請求とか、とにかく、もうすぐ警察に捕まるらしくって、それはもう決まっているらしくって」
マキの話は曖昧だ。興味がないのだろう。覚えていないのだ。話してくれと頼まれたから、今必至になって記憶をひっくり返しているのだ。それにしても、単語一つぐらい、はっきりと断言してもらいたいものだ。そう思うのは、贅沢だろうか。
「刑務所に何年か入ることになるから、その間、身代わりの秘書と入れ替えてくれって頼まれたの」
糸子は絶句した。
「それで、替えてあげた」
あっさりと、マキは言った。
「ちょっと待って。それって、犯罪の片棒を担いだってこと?」
あまりのことに、敬語も忘れた。
「犯罪?」
とぼけていない。マキは心底不思議そうだった。
「だってそうでしょ?その社長の代わりに、秘書を身代わりにしたんでしょ?」
どんな策謀を巡らせたのかは知らないが。
「無実の人を犯罪者に仕立て上げたんでしょ?」
「うん、そうかな。そういうことになるのかな。秘書も同意の上だったけど」
「だからって」
「駄目なのかな?」
「駄目に決まってるでしょ」
彼女の倫理観はどうなっているのだろうか。ここまで言われても、マキ軽い返事をするだけだ。ふうん、と一応の納得は示すが、糸子の言葉は何も、マキには届いていないと実感できる。
「でも、私は入れ替えただけだから」
「だから、それが問題なんでしょ?」
「中身を入れ替えただけだよ」
私は、それだけだよ、とマキは言う。
「中身を?それってどういうこと?」
「だから、中身。体の中に入っているもの。あ、内臓とかじゃなくてね」
マキはからからと笑った。彼女なりのジョークだったのかもしれないが、糸子はまったく笑えなかった。
ひとしきり、笑った後でマキは言う。あくまで、軽い口調で。
「魂とか、心とか呼ばれているものだと思う。その人の、意識」
「意識」
「漫画とかアニメでよくある、あれ。私はあんまり読まないから知らないけど、ここに来た人はそんなふうに表現するわね」
人と人とが頭をぶつけて中身が入れ替わる。いわゆる人格だけが入れ替わってしまうのだ。そして入れ替わった人達がはちゃめちゃな騒動を起こすなんてよくある話だ。あくまで、創作の中でなら。
「私はそういうことができる。魂、心、人格、そんなふうに呼ばれるものを、私は入れ替えることができる。むしろ、それしかできないけれど」
誰かと誰かを入れ替える。
「だからさっきの社長と秘書も、中身を入れ替えてあげただけ。社長は今刑務所に入って罪を償っている。ただ、その体の中にいるのは秘書の魂というだけのこと」
「だけのことって、それが大問題なんじゃない」
「どうして?」
「だって罪を犯したのは中身の方なんだから、それを入れ替えたら」
「無意味だと思う?でもその社長は秘書を説得するために多額の費用を支払った。賠償金を支払えば、場合によっては許されることもあるでしょう?」
「場合によってはそうかもしれないけど、それを個人で判断したら司法の意味がないでしょ?それに社長が秘書に支払ったお金は口止め料であって、賠償金とは違う」
その金額は、きっと、実際に支払うべきだった賠償金とか、保釈金とかよりも、きっと安い。
「細かいこと言うのね」
「細かくない!」
えっと、と糸子は荒げた語気をごまかす。
「その例え話に突っ込むのはもうやめるわ」
「例えじゃないのに。本当なのに」
糸子はそれを無視した。本当の話だとしても、糸子にはどうすることもできない問題だ。その社長と秘書の間にどんなやりとりがあったのか知らないが、金で納得して行われたようだし、もう何も言うまい。横領だとか裏金だとか言われても、自分に関係のない問題だとさして怒りもわかない。せいぜい、呆れたぐらいだ。
いや、もうそんなことに、怒りを感じている余裕もないだけか。最近では、自分に近しいことにだって、怒りを感じないぐらいだ。
「それは、簡単にできるの?」
「できるわ。あたしになら」
「いくら?」
「五万」
彼女はさらりと言った。
「それ以上でもそれ以下でもない」
値上げもしないが、値下げもしない。
「ただ、相手の斡旋はしないから、相手は自分で見つけてきてね。揉められるのはごめんだから、ちゃんと納得させてきてね」
質問はそれだけ、と尋ねる彼女に無言を返した。
「そう、それじゃあ、またのご利用、お待ちしております」
最後まで、ふざけた様子の彼女だった。普通、電話は客から切るものだ。しかし、マキにはそんな常識なようで、乱暴に受話器を下げた音が耳元で響いた。
糸子は顔をしかめた。乱暴なその音にではなく、先ほどの自分自身の言動に、だ。
私は、何を考えた。
五万円と言われて、それなら払えるなんて、あっさり思った自分が恐ろしかった。そして汚らしいと思った。
糸子の頭に浮かんだ提案は、それほどに悍ましく、そしてシンプルなものだった。
誰かと誰かを入れ替える。
私が、誰かと、替われば。
何を、馬鹿なことを。金持ちでもなければ、地位もなく、驚くほどの美人でもないこの顔と体を、一体誰が貰ってくれるというのだろう。例えばそれらをすべて兼ね備えた人間であったとしても、そいつの肉体は間もなく死んで使えなくなるのだから、そんなのすべて意味がない。
先の話の中の社長のように、人の心を揺さぶるほどの金もない。
「馬鹿ね」
と、糸子は自分に言った。通りかかった男性がちらりとこちらを見たので、糸子は慌てて席を立った。
一歩一歩と病室に向かうごとに、糸子は現実に引き戻されていった。廊下で、ぺたりと冷たい壁に触れた。
これが現実だ。本当だ。
私は決して、ここから出ることはできないのだ。どこにも行けない。
それが、現実だ。
糸子は病室に戻った。
蛍は現実に戻った。
戻るも何も、どこにも行っていない。意識だけ、ほんの少しだけ、夢の世界に飛んでいただけだ。飛んだと言っても、脳内だ。蛍に行ける範囲なんてそんなものだ。
眠っている間に、まったく別の次元のどこかに飛ばされていればよかったのに、と馬鹿なことを考えた。考えただけで、一歩だってこの部屋から出るつもりはなかった。
蛍は重たい頭をさすった。その頭で考えていることは、とんでもなく軽くて浮ついているのに、不公平だ。こんなに重たい頭を持ち上げるのは、ひどく億劫だった。
だから蛍は寝転んだまま、視線だけをパソコンのディスプレイに移した。部屋の中が映り込むほど光沢のある黒。電源を落としたままなのだから、当然だ。その黒がまた鮮やかに光を放ってくれるかは、今のところ不明である。
知りたくもない、と蛍は思った。だから余計に動きたくなかった。
蛍は手を伸ばして携帯電話をつかんだ。つかめるものがそれしかなかったからだ。こんな時に限って、漫画も小説も、本棚の所定の位置に収まっている。仕方なくゲームのアプリを起動したが、すぐにゲームオーバーになったのでやめた。
退屈だ。しかし動きたくない。仕方ないので携帯電話を弄る。ネットに繋いで、先ほどの掲示板に飛んだ。どうやら、蛍の最後の書き込みは反映されていないようで、楽園は以前の楽園のまま、変わらぬ美しい姿を保っていた。もしかしたら、この場には相応しくない、と楽園の管理者によって削除されたのかもしれないが。
これでよかったのだ、と思う。今思えば、自分のやろうとしたことは、まったく余計なことだったとしか思えない。この場所はこれでいい。この人達は、これでいいのだ。
あたしとは、まったく別の人達なのだ。
死にたい、死にたいと唸っていても、悲しみの深さも、苦しみの度合いも、蛍のそれとはまったく別のものなのだ。
そもそも、蛍は死にたいのではない。死ねばいいとは思うけれど、じゃあ自分で自分の手首を切ろうとは思わないし、思えない。首を吊るのは苦しいだろうし、電車の前に飛び込んで、人様に迷惑をかけたいとも思わない。
さっさと寿命が尽きればいいと思う。眠ったまま、目覚めなければいいと思う。
しかし、若いからだろうか、不摂生で、見るからに不健康な生活を送っているが、蛍は至って元気だった。
これは幸運なのか、不幸なのか。
世間一般的には、健康的な肉体を持つことは、幸運だ。幸福であることだ。しかし蛍にとってそれは不幸なことだった。
深窓の令嬢。天蓋付のベッドに寝て、窓から外を眺めているだけの生活。そうすることが許される生活に、蛍は憧れていた。病弱に生まれたかった。休み休み生きることへの、大義名分が欲しかった。お金持ちの、令嬢でなくてもいいから、と蛍は願うのだ。
蛍は携帯を弄る。が、すぐにやることもなくなってしまう。普段は使わない携帯の機能を探してみたり、インカメラで自撮りをしてみたりしたが、すぐに飽きた。
何をどう弄くって、どうしてここにたどり着いたのか、蛍は電話帳を開いていた。自分でも驚くほど、ずらりとそこには名前が並んでいた。
これぐらいの人数が平均的なのか、多いのか少ないのかは判断できない。しかし蛍は多いと感じた。蛍にとっては多いと感じたのだ。
中学や高校時代、友人は少なくなかった、と思う。それなりに、楽しくやっていたと思う。それなのに、今連絡を取り合っている友人は一人もいなかった。いつからだろう。
大学受験に失敗して、通いだした予備校のせいだろうか。熱心な先生がいる、とてもいい予備校だと評判だった。そして実際その通りだった。そこに通う生徒もやはり熱心で、将来に対する夢や希望に目を輝かせていた。受験に失敗したという負い目もなく、それさえキャリアアップの一つとしてとらえているようだった。
たぶん、それがいけなかった。そんな輝きの中に、蛍はいられなかった。
蛍はとりあえず、進学組だった。とくにやりたいことがないから、やりたいことを探すために大学に行く、そんな進学理由だった。周りも大体そんな感じだったから、こんなものなのだろうと深く考えなかった。
それほど、高いレベルの大学ではなかった。受験のその日、体調が悪いわけでもなかった。だからどうして自分だけが落ちたのか、わからなかった。周りの友人は、みんな希望の学校に進学したというのに。
落ち込んだ。自分が落ち込んでいることに驚きながら、落ち込んだ。しかしその落胆を理解してくれる人は、周りには誰一人としていなかった。周りのみんなは、新しい生活への希望を抱くことに忙しく、慰めることさえ、蔑ろだったような気がする。少なくとも、蛍はそんなふうに感じた。そんな彼らとは、当然のように疎遠になってしまった。
どうして、彼らと自分は違うのだろう。同じように過ごして来たし、同じように不純な気持ちで進学を決めたはずなのに。どうして自分だけが、躓いてしまったのだろうか。
受験に失敗したことは、蛍にとっては汚点でしかなかったし、恥ずかしいことだった。しかしその予備校の生徒は違った。受験の失敗は、山頂の途中、山の中腹でしかない。躓いたとも思っていない。蛍は崖に突き落とされた気分でいるのに、それを誰も理解してくれない。当然だ、山の上と崖の下では、立っている位置がまるきり違う。今まで同じ位置に立っていた友人達は、軽々と別の場所に飛び立ってしまっていた。
ここはあたしの居場所じゃない。
蛍は逃げ出した。
あそこで頑張り続けることは、蛍はできなかった。頑張る、という方向性が、彼らと蛍ではまったく違った。彼らは山の頂を目指し、蛍はせめてと山の麓を目指すのだ。そんな彼らに頑張ってと言われたところで、上から目線の慰めにしか感じられなかった。
そんな場所にはいられなかった。
予備校時代に出会った彼らの名前も、小さな画面の中にきれいに収まっていた。蛍が予備校をサボり始めた時に、何度か連絡があったが、それきりだ。蛍が彼らの電話にもメールにも、何も返さなかったからだ。そもそも彼らから逃げるために予備校を辞めたのに、連絡をとってこられるのは迷惑でしかなかった。
そうか、あの時、ありとあらゆるものから逃げ出したのがいけないのだ。楽して笑って、人生をなめ切っていた学生時代の友人達からも、夢に向かってひたむきに努力を続ける予備校のクラスメイト達からも、逃げ出したのがいけないのだ。
みんなのように緩やかに人生を生きることもできず、みんなのように何かに必死になることもできない。そんな自分から目を逸らして、一目散に逃げたのだ。
しかし引きこもってみると、もちろん他人と顔を合わせることもないから、自分自身と向き合うしかなくなるのだ。鏡もないのに、目の前のもう一人の自分と、自問自答を繰り返すのだ。
その結果が、これだ。
雰囲気に流されて生きることもできず、夢や目的に向かって努力することもできずにいる。夢や目的の一つも持てずにいるのだ。
そんな自分に、悪態をつかずにいられるわけもなかった。
「死ねばいいのに」
かつての友人達の名前をスクロールしながら、蛍は自分自身に向かって、いつもの悪態を吐き捨てる。
ここにいる彼らと違う自分なんて、死ねばいいのに。
また悪態をつこうとしたところに、音が響いた。加えて、持っていた携帯電話が振動した。
「いたっ」
仰向けに寝ていた蛍は、顔の上に掲げるにようにしていた携帯電話を取り落した。一瞬悶えてから、蛍はすぐに携帯電話をひっつかむ。その音も振動も、携帯電話が着信を知らせるためのものだったからだ。
一体、誰が。
あたしなんかに、と今度は体を半回転させ、うつ伏せになってから確認する。
彼女の名前はフルネームで登録されていた。確か、高校時代のクラスメイト。
彼女のことを、一体なんと呼んでいただろう。こちらはなんと呼ばれていたのだろう。どの程度の、間柄だったのだろう。
数年越しの着信をどうするべきか、蛍は大いに悩んだ。
彼女は何を思って蛍に電話をかけてきたのだろうか。どんな思惑があって、一体どんな目的があって。
いや、馬鹿らしい。どんな目的もあるものか。
きっと間違い電話だ。それが一番高い可能性だ。
だから、出よう。出て、人違いです、と言うだけ、それだけだ。
でも、もしもそうじゃなかったら。間違い電話じゃなかったら。
あたしは何を話すのだろう、と蛍は一抹の不安と、それよりももっと粗末な期待のような何かを抱えながら、着信に応じた。
耳の傍で響いた声は、まるで初めて聞くような馴染みのない声だった。
病室に戻った糸子は携帯電話を弄っていた。夕食の時間まで後わずかで眠る時間もなく、そんな気にもなれなかった。
継希に電話でもしようか、と糸子は携帯電話を操作する。一応、マキと連絡を取ったことぐらいは伝えておこうと思ったのだ。彼女が一体どんな人間だったのか、伝えておく必要があるだろう。
しかし、いや、でも、と糸子はためらう。あまり、継希と話したい気分ではなかった。あんな女を紹介して、と憤る気持ちもあった。
あんなことができる女性がいるなんて、そんなことを知らなければ、こんな後ろ暗い気持ちは抱かなかったのに。
電話帳を開いた流れで、糸子は知り合いの名前を眺める。学生時代の友人達、元職場の同僚達だ。親しくしていた何人かは、未だに会いに来てくれる。忙しいのに、ありがたいことだ。
その中に、一つ、目に留まった名前があった。
「林道、蛍」
彼女は高校時代のクラスメイトの一人だ。特別、仲が良かったわけではないが、別に、仲が悪かったわけでもない。大勢いる友人の一人。糸子にとってそうだったように、彼女にとってもそうだったのだと思う。
林道蛍は整った容姿で、クラスでも目立った存在だった。友人も多く、いつも大勢の人達に囲まれていた。明るく元気で、クラスの人気者。そんな立ち位置の彼女のことを、糸子は一歩離れた所で、他人とは違った目線で見ていた。
心配だな、と糸子は憐れみの気持ちを持って、彼女を見ていた。
だって彼女は、何も考えていないように見えたから。今が楽しければ、それでいい。いや、今が楽しいのだから、この先もきっと楽しいはずだと、なんの根拠もなく信じ切っている様子だった。
だから彼女が受験に失敗したと聞いた時、やっぱり、と思ってしまった。彼女にとってはおそらく、初めての挫折だ。そういう経験は、早いうちにしておく方がいい。そう考えれば、彼女にとって大学受験の失敗は,そう悪いものではなかったと思う。もう一段階、高いレベルの大学を目指せると考えれば、悪くはないと思うのだ。
糸子はそう思うのだが、志望校に合格した自分が彼女に言葉をかけるのは、違う気がした。かける言葉も見つからなかった。憐れみや慰めの言葉は、彼女のプライドを傷つけるだけだろうから。
そして、結局連絡できなかった番号だ。
彼女は今どうしているのだろう。順当に、一年後に大学に進学したのなら、もう卒業しているだろう。留年とか、してなければいいけれど。自分にとっては、もうずいぶん懐かしい心配だった。それとも、進路を変えて、専門学校に通っているかもしれないし、留学なんかしちゃっているのかもしれない。
懐かしい、思い出だ。
若返った気分だ。季節の変わり目に襲いかかる風邪に、喘いでいた若かった自分。病気らしい病気は、その程度で、三日と休んだこともなかったあの頃。
今の自分を、想像なんてしていなかった、あの頃。
平日の、夕方か。まあ、仕事中ならそれはそれか。
そもそも、糸子の番号など、削除されているかもしれない。誰とも知れない番号を、彼女は無視するかもしれない。
それでも、別に、損をするわけではない。
死ぬわけでもないのだから、と何も面白くないことを思って、糸子は笑った。
糸子は電話をかけた。
藤堂糸子が、一体なんの用だ。
彼女は高校時代の同級生だ。クラスが同じだったこと以上の接点が何一つとして見つけることができない、それぐらいの間柄だ。
それでも、蛍は彼女のことをよく覚えていた。彼女には存在感があった。それはきっと、確固たる自分を持っていたからだろう。やりたいこともあって、夢もあって、希望もあって、努力することも怠らない。裏表がなく、嫌味がない。嫌味がないのが逆に、とんでもない嫌味だと、当時の蛍は思っていた。そして、今も思っている。
蛍にとっては、彼女はそんな存在だった。親しくはなかった。けれど、嫌いでもなかった。ただ少し、苦手だった相手だ。
「もしもし、私、藤堂糸子」
「うん」
声が出たことに、ほっとした。もしかして、話し方を忘れてしまったんじゃないか、と思っていたから。
「覚えてる?」
「うん」
糸子の視線の先には天井がある。目の前には誰もいない。まるで、独り言だと糸子は思った。耳に当てたこの薄っぺらい機械の向こうには、確かに相手が存在するのだけれど、どうにもうまく実感できなかった。実感してしまえば、今以上の緊張を覚え、きっと相槌さえまともにつくことはできなかっただろう。
「一応、確認だけど、あなた林道蛍、さんよね」
彼女は敬称を付けるべきか迷ったようだった。
「うん、蛍」
「蛍、いい名前だよね」
まるで初対面の自己紹介だ。そんな、典型的な切り返し。
「糸子も、いい名前だと思う」
「ありがとう」
小さく、笑いを堪えながら糸子は言った。自分から先に言ったくせに、笑うとはどういうことだろう。名前を褒めるということは、おかしいことだっただろうか。こちらも、笑い返すべきだったのだろうか。
「ごめんね、急に電話して。あ、今大丈夫だった?」
「大丈夫。暇だった」
暇だった、は余計だっただろうか。暇なのか、と相手に思わることが、なんだか無償に恥ずかしかった。特に、今の蛍を知らない相手には。
「そっか、よかった」
一言、一言に、蛍はいちいちどぎまぎしているのに、糸子はあっさりしたものだった。深読みなんかしない。蛍が暇だったと言えば、今たまたま偶然ほんの少しだけ、暇だったのだろう、とそう思うだけだ。まさか、二十四時間年中無休で暇だとは、流石に想像さえしていないだろう。
糸子が思い浮かべているのはきっと、高校時代の、自分。今とは違う、流れに乗れていた時の、自分。
当時の自分を思い出しながら、蛍は言う。
「急に、どうしたの?」
同窓会の誘いさえ、もう蛍にはこないのに。
「何年かぶり、だよね?」
「そうだね、卒業以来。ずっと、連絡しようと思ってたんだけど、なかなか、きっかけがなくて」
「きっかけ?」
「うん、まあ、今日だって、何か特別な用事があったわけじゃないんだけど」
本当に、用事はないのかもしれない。しかし、何かきっかけがあったはずだ。そういう、口振りだった。そうでなければ、特別親しかったわけでもない元クラスメイトに、数年ぶりに連絡を取ってみようだなんて思うだろう。
何か、理由があるはずだった。
「ねえ、今どんな感じ?」
「どんな?どんなってどんな?」
漠然とした質問に、漠然とした返答をする蛍。正直、どう答えていいのかわからなかった。はいか、いいえで答えられる質問にしてほしい。蛍のコミュニケーション能力は、それほどにまでに劣化していた。
「今、どんな仕事してる?それとも、まだ学生してるの?」
蛍は電話に出てしまったことを後悔し始めていた。当然のように、その二択で、問われることが辛かった。そのどちらでもない場合を、糸子は想定していない。
「そっちは?」
返事を先延ばしにして、蛍は尋ね返した。ただの時間稼ぎだ。明瞭な答えを待っていた蛍は、しかし、糸子の曖昧な相槌と沈黙を聞いた。
「私は、うん、働いてた」
沈黙の末、糸子はぼんやりとそんな回答を寄越した。
「働いてた?」
「うん、ちょっと色々あって、辞めたの」
そうだろう。短い文脈からだって、そんなことぐらいは読み取れる。蛍にだって、久方ぶりに人と会話をした蛍にだって、そのぐらいのことはわかる。聞きたいのはその、色々、の部分だ。
しかし、尋ね方がわからない。尋ねていいのか、蛍にはわからなかった。言い辛いから、色々なんて言葉でぼかしているのは明白だった。
いや、しかしこんな思わせぶりに話しをしておいて、何も聞くな、なんてあんまりだ。むしろ、尋ねるべきなのだろうか。尋ねてほしいのだろうか。そういう振りなのだろうか。
「ああ、もう!」
蛍が悩んで作った沈黙を、糸子が乱暴に振り払った。驚いた蛍は携帯を落っことしそうになった。何事か、と蛍は携帯電話を持ち直して、改めて耳に当てた。
「ごめん、私の方から電話をかけたのに、こんなんじゃ駄目だよね」
別に駄目だとは思っていなかった。むしろ、上手く会話を続けることができない蛍が悪いのだと思っていた。しかし糸子は、電話をかけた方のホストが、会話を弾ませる使命を持っていると考えているらしい。
「ごめんね、電話をかけた理由って、本当に何もなくて。電話帳にあったあなたの名前がたまたま目に入って、それで」
ごめん、と糸子はまた謝る。
「このままだと、私弱音吐いちゃうから、もう切るね」
「ちょっと」
待って、と何も考えずに言葉が出た。しばらく沈黙があったので、もう切れてしまったと思ったが、何、と聞き返す声があった。やっぱり、切れてくれててもよかった、と蛍は変な汗をかいた。
「弱音って、何?何かあったの?」
「うん、ちょっと」
話すつもりはないのだろうか。踏み込まないのが正解なのだろうか。
また、沈黙だ。引き止めたのはいいが、久しぶりに会話をする蛍には、ずいぶんとハードルが高かった。どうにも重たい事情を抱えていそうな気配がある。
「あたしに、話があったんじゃないの?」
「うん、どうだろ」
はっきりしろ、とは言えなかった。それぐらい、話しにくいことなのだろう。それぐらいの空気は読める。こういう時、話せと強要することが、逆効果だというのは、わかる。辛うじて。
向こうから歩み寄るのが不可能なら、こちらから近づいて行くしかない。
「あたしね、今、引きこもっているの」
「え」
返事の短さが、驚きの現れだった。驚きと、憐れみと、失望の現れだ。こんな相手に電話をかけてしまったという後悔。短い一言で、蛍はそこまで読み取った。被害妄想だと突っ込んでくれる第三者はここにはいない。糸子だって、たった一言で蛍がこんなにも傷ついていることなど、想像だにしていないだろう。
言わなきゃよかった。電話なんて、さっさと切ってしまえばよかった。
ここまでして、相手の事情を尋ねることに意味があるのだろうか。糸子の重たい事情を聞いたところで、蛍に何ができるというのか。
ただの好奇心は、こんなにも人を突き動かすものだったろうか。久しぶりの感覚だった。人との会話とは、やりとりとは、こんなふうだったか。相手に踏み込んで、その分踏み込まれて、傷ついて、傷つける。こんなことを、以前は平気な顔してやっていたとは、驚きを通り越して呆れる。
他の誰でもない過去の自分に、とんでもなく呆れながら、やや開き直って蛍は言う。
「受験に失敗したのは知ってる?」
尋ねたが、糸子の答えは待たない。
「予備校に行ってみたんだけど、合わなくて、すぐに辞めちゃって、もう何もする気になれなくて」
そういえば、こんなこと、他の誰にも言ったことなかったな、と蛍は思う。
「何かを始めるタイミングを逃して、今に至るってわけ」
投げやりに吐き捨てて、それで、とそして乱暴に尋ねた。
「こんな底辺のあたしに、一体どんな弱音を吐きたいっていうの?」
糸子は言葉を失っていた。蛍の発言の内容に驚いたというよりも、勢いに押されて言葉を挟む余地がないようだった。
「そうだったんだ」
と、糸子はやっとそれだけ言った。大した情報量ではなかったろうに、それを飲み込むためにずいぶんと時間が必要だった。
高校時代の林道蛍と、今現在の林堂蛍を、上手く重ねられなかったからかもしれない。糸子のゆったりした時間の使い方を、蛍はそんなふうに解釈した。
「私の、話しをしてもいい?」
歩み寄ることにはどうやら成功したらしい。いや、彼女はきっとこんなに単純な人間じゃない。こちらが無防備に踏み込んだからといって、無防備になってくれるほど、彼女は安易じゃない。
きっと、ただ話したかっただけだ。そもそも、話したかっただけなのだ、きっと。
だから、電話をかけてきた。電話とは普通、そういうものだ。人と、話しをするために、するものだ。
「私も、今仕事をしてない。ううん、本当は続けたかった。でもできなくなったの。私、病気になったの」
糸子は一気に言った。
「もう治らない。今の医学じゃ治らない、そんな病気。余命は、一年」
一年。それは長いのだろうか、短いのだろうか。愚問だ。短いに決まっている。今現在、蛍は二十四だ。同級生だから、糸子も当然同じ歳だ。
つまり、二十五で、死ぬ。
それは平均寿命を大きく下回る結果だろう。日本の平均寿命はいくらだっただろうか、と蛍はぼんやり考えた。七十ぐらいか。
「晴天の霹靂ってやつ。死ぬなんて、考えたことなかった」
「そう、考えたこと、ないか」
それはそうか。それが、当然か。二十の半ばで死について本気で考えている人間なんて、いないか。
自分も含めて。
「私の人生設計どうしてくれるのって感じ」
「どんな設計だったの?」
糸子は興が乗ってきたのか、ずいぶんと口が軽くなっている様子だ。それとも、ただ捨て鉢な気分になっているだけだろうか。
「大学卒業して、事務の仕事に就く。就職活動は絶対に妥協しないで、一生を捧げてもいいぐらいの会社を見つけて入社。三十になる前には結婚して、一年後に子供を産むの」
一年、という単語に、ややおかしなアクセントを感じたのは、考え過ぎだろうか。それにしても、一生を捧げてもいいという仕事が、事務とはまた珍しい。なんだか糸子らしいと思った。よく知りもしないが、彼女らしいと思った。誰かのために、尽くす。得られる賃金のためだけにではなく、純粋に、そこで働く誰かのために尽くす。彼女はそういうことができる女性だと、蛍は感じていた。
「産休後は仕事に復帰して、家事と仕事を両立する主婦になる。いいお母さんになるの。子供は男の子と女の子どっちも欲しい。元気に産まれてさえくれれば、もうどっちでもいいんだけどね」
もう妊娠しているような口振りだった。
「老後は愛する夫と慎ましく過ごすわ。穏やかに、余生を過ごすの」
余生。彼女にとって、それは老後にやって来るものではないのだ。
「馬鹿みたい。馬鹿みたいよね、そんなの」
馬鹿にするほどおかしい話ではないと思う。悪い話でもない。ざっくりと大雑把な人生設計だが、彼女はそれに向かって真面目に邁進していたのだ。実際、彼女は大学を卒業し、就職し、働いていた。結婚相手だって、もう見繕っていたのかもしれない。
「彼氏はいたの?」
「いるよ」
現在形だ。
「一応、まだね」
「いいじゃん。それだけでも、生きる価値ある人生じゃん」
「うん、だから惜しいんだ」
この、人生が。
一気に下がった糸子の声のトーンに、蛍は斬り付けられたような痛みを感じた。
そうだった。一瞬沸き上がった嫉妬で、一番大事なことを失念していしまった。最悪だ。そして最低だ。
「気にしないで。そんなに悲観してるわけじゃないの。もしかしたら、私が生きているうちに、治療法が発見されるかもしれないし」
それはただの強がりというのだ。しかしそんな、本人さえわかり切っているようなことを、わざわざ指摘してやるほど、蛍は親切じゃない。
「底辺だって、言ってたけど」
糸子は話を変えた。
「まだまだ人生これからじゃない」
あなたには、と含みがあった。
「今は少し上手くいってないだけだよ」
「そうかな」
上手くいってないことは認めるが、それは少しどころの話ではない。生半可な頑張りでは、盛り返せないところまで来ている。
「そうだよ」
糸子は笑う。何をおかしなことを、と笑う。生きていればいくらでもやり直せる、と糸子は本気で思っている。
「あたしには無理だよ」
頑張れない。頑張ったところで、たかが知れている。
不可能ではない、と糸子は言う。いくらでもやり直せるから頑張れ、と月並な励ましの言葉をくれる。その言葉に嘘はないのだろう。糸子ならきっと、蛍の置かれたこの現状をひっくり返すことができるのだろう。
糸子になら。
「あなたになら、きっとできるんだろうね」
「あなたにも、できるよ」
そんなことない。あなたに林道蛍という人間の何がわかるのか。いや、むしろわかってほしくなんてない。弱くて汚くて、どうしようもない部分など、理解されたくもない。そういう部分を、ひた隠しにして生きた結果がこれなのだ。そういう部分と上手く向き合って、受け入れることができていれば、今こんなことにはなっていなかっただろう。
汚い部分を見せたくなくて、弱い自分など受け入れたくなくて、隠して逃げてこの現状。自分自身でこんな場所に逃げ込んだ蛍に、一体何ができるというのか。
「あなたなら、この場所から出て行くことができるのに」
糸子にならできるのに、蛍にはできない。
「力になってあげたいけど」
糸子は本当に申し訳なさそうに言う。
「私にはそんな時間も、もうない」
電話の向こうで、糸子はきっと苦笑いをしていることだろう。何をそんなくだらないことで悩んでいるのだ、ときっと呆れている。
「大丈夫だよ」
「大丈夫なんかじゃないよ」
何をしているのだろう、と蛍は思う。数年前のクラスメイトにまですがる、余命一年の彼女に、蛍は逆に弱音を吐いている。弱音を吐きたかったのは糸子の方のはずなのに、蛍の吐露は止まらなかった。
「あたしにはもう無理。ここから人生を巻き返すことはできない」
「そんなことないよ。人生まだまだこれからでしょう?」
「いくら命があったって」
「ねえ、もしかしてあなた」
蛍の弱音を遮って、糸子は尋ねる。
「死にたいの?」
非難の色はなかった。それはただただ、純粋な疑問に聞こえた。
「うん」
だからか、蛍は素直に答えていた。
「そっか」
短く答えた。
彼女がどんなに欲しがっても手に入らないものを、今まさに投げ捨てようとしているのに、それでも糸子は非難しなかった。
「死にたいって思う気持ちは、わからなくは、ないよ」
そして慰めてくれる。励ましてくれる。
それは本来、蛍の役目のはずだ。糸子だって、蛍にそうされることを期待していたはずだ。懐かしい声を聞いて、高校時代の楽しかった思い出に、浸りたかったのかもしれない。
しかし彼女の期待には、応えられない。それどころか、まるで立場が逆だった。
情けない、と蛍は思う。それでも、糸子にかける言葉が見つからない。自分のことで精一杯だった。
「ごめんね」
「どうして謝るの?」
糸子は真面目に尋ねる。
「あたし、こんなんで」
「こんなんって」
糸子は少し笑った。
「誰だって、気持ちが弱ることもある。今、そういう時なだけだよ」
「あなたにも、そういう時があった?」
「あったよ」
それがいつだったか、糸子は言わなかった。
「でも、生きているよ。生きてきた。死なずに、生きて来た。ああ、でももうすぐ、死ぬけどね」
「ごめん」
「どうして謝るのよ」
趣味の悪い冗談を言わせてしまったことに対しての謝罪だった。しかし糸子には伝わらなかったようだ。結局上手く説明もできないまま、話は流れる。
「ねえ、大丈夫だから。そんなに心配しなくても、なんとかなるわ」
なんとかなる。それは、なんとかできる人だから、言うのだ。
例えば、糸子のような人。
「ねえ、あたし達、逆ならよかったのにね」
「逆?」
「あたしが病気で、あなたが引きこもりだったらよかった。それであたしが死んで、あなたが生きればよかった。それなら、お互いに、少しは夢や希望が持てたのに」
糸子は何も言わなかった。呆れて言葉も出ないのだろう。それをいいことに、蛍は続ける。
「それなら全部上手くいく。あたしはただ待っているだけで死ねるし、あなたは人生をやり直せる。ねえ、交換する?」
お互いの立場を、と。馬鹿なことを言っている。それ以上に、ひどいことを言っている。入れ替わることなど絶対にできないのだから。ありもしない希望を、見せつけているだけだ。あなたが欲しいものをあたしは持っているのだ、と目の前で見せつけているだけなのだ。
「じゃあ、替わってみる?」
さすがに怒ったのだろうか。糸子の声は、氷のように冷え切っていた。
「替われるって言ったら、替わってくれる?」
どう返事をしていいのかわからず、蛍は沈黙した。蛍があまりに馬鹿らしいことを言ったので、温和な糸子も、ついに怒ってしまったのだと思った。
「これは、真面目な話」
冗談ではない、と糸子は言う。
「本当に、替われるなら、替わってくれる?」
丁寧に、丁寧に、糸子は尋ねる。だから、蛍もそんなとんでもない仮定の話に、真面目に返答した。
「替わるよ。替われるものなら、もちろん」
そう、と言ったきり、糸子は黙り込んだ。仮定の話に対して、糸子はとても真剣だった。
「ねえ、一度、会って話さない?」
明日、二時、病室。
約束はあっさり取り付けられた。
と、いうことは、明日この部屋の外に出るということだ。改めて考えてみると、とんでもないことを約束してしまったものだ。
通話が終了した携帯電話を放り出して、蛍は目を閉じ、考える。
外に出る。
それはいつぶりのことだろう。予備校を辞めて引きこもってからは、せいぜい近所のコンビニに出かける程度で、公共の交通機関を利用することさえなくなった。それほどの距離を移動する必要が、なくなったからだった。
糸子が入院する病院へは、電車とバスを乗り継いで行かなければならない。
途方もない距離に思えた。切符はどのようにして買うんだっけ。
しかも、その旅路の先に待っているのは、高校時代の同級生。当時でさえ、それほど親しいわけでもなかった、数年ぶりに会う彼女。
そしてその彼女は今、不治の病に侵されている。
一体、会ってどうしようというのか。電話で散々弱音を吐いて、会ってまたさらに、何を吐き出そうというのだろうか。
泣いてしまうかもしれない、と蛍は思った。糸子と顔を会わせてしまったら、どうしようもなく弱くて汚い自分を自覚して、泣いてしまうかもしれない。
そしたら、また慰めてもらうつもりなのか。
だったら、行かない方がいいのではないだろうか。いや、それなら絶対に行かない方がましだ。約束をすっぽかして、着信拒否で連絡を絶ってしまえばそれまでだ。糸子のために、お互いのために、きっとその方がいい。
しかし、糸子には糸子の、何か目的がある様子だった。そもそも、会って話そうと提案したのは糸子なのだ。
替わってくれる。
糸子は何度も何度も、蛍に尋ねた。
「お互いの立場を交換する」
そうしてもいいと、言ったのは蛍だけれど。
「そんなの絶対に無理じゃない」
でも、嘘じゃないんだよ、と蛍は心の中で弁明する。蛍が死んで、糸子が生きればいいと、そう思う気持ちは嘘じゃない。
そうだ、弁解しなくては。確かに質の悪い冗談だったけれど、あの気持ちに嘘はなかったのだと、彼女に言わなければならない。
だから、やはり行かなくては。それは直接会って伝えなければ、絶対に伝わらない。蛍のコミュニケーション能力では、相手の目を見て、身振り手振りを交え全力を尽くさなくては、絶対に伝えることなどできやしない。
しかし、たとえ全力を尽くしたとしても、伝わるかどうか定かではない。他者に自分の気持ちを伝えることの億劫さを思い、蛍は辟易した。これだけ自分を鼓舞して、奮い立たせてみても、行きたくないという気持ちがすぐに顔を出す。
それでも、やらねばならない。
でもやっぱり行きたくないなあ、と蛍は頭の中でじたばたと悪足掻きのように考え、実際、両手両足でじたばたと悶えた。
ああ、ああ、それよりも。
そして蛍は頭を抱えた。
明日、着て行く服がない。
どうしよう、と。
久方ぶりの外出は、引きこもりの女性に、まるで恋する少女のように、健全な悩みを抱かせたのだった。
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