トレイド

木市村 一

プロローグ 幸せと不幸せ

 藤堂糸子とうどういとこは幸せだった。

 受験に躓くこともなく、友人にも恵まれ、時には恋人と甘い一時を過ごすこともした。高校生最後の文化祭では、クラスメイトとぶつかり、くだらないことで誰かを許せないこともあったし、時には失恋もしたけれど、それは七味や山椒のように、時にはなくてはならないような、ほどよいスパイスだった。

 適度に山があって、谷があった。退屈とは無縁の人生だった。いつだって楽しかったし、やりがいのある日々だった。

 だから、藤堂糸子は幸せだった。

「私が」

 だから、糸子は信じられなかった。まさか私が、と思わずそう言ってしまった。可能性の上では、自分だって例外ではないはずなのに、何故が自分だけは大丈夫だなんて思ってしまっていたのだ。

 いつの間に、そんなふうに考えるようになってしまったのだろう。人間、誰しも平等であるはずなのに。

 当たり前だと思っていた。幸せだということが、当然のことであるかのように、思っていた。自分は、幸せを享受するに足る努力をしているから、当然だ、と臆面もなく思っていたのだ。

 幸せも不幸も、誰にも平等にあるものだと知っていたのに。そのつもりでいたはずなのに。

「私が、病気なんですか?」

 誰かと間違ってるんじゃないのか、と糸子はまずそう疑ってしまった。この私が、なんて呟いてしまう。思い返せば、このセリフは最低だった。一体、何様のつもりだったのか。

「治らない?」

 今の医学では。

「余命?」

 それは一体どこの国の言葉だろう。映画やドラマではよく耳にする言葉だ。余りの命と、こんな漢字を当てはめたのは一体誰だ。

 私の、残りの人生に向かって、それはあまりに失礼な言葉ではないか。

「一年」

 お正月から、大晦日まで。

 今日から、三六五日後の今日。

 それが、藤堂糸子の、人生の余りらしい。

 余りの、命らしい。

 一年なんてあっという間だね、と友人と笑っていたのはいつだったか。

あっという間か、あっという間だろう。きっと瞬く間に終わってしまうことだろう。

 藤堂糸子の残りの人生は、瞬く間に終わってしまうのだ。

「一年」

 呪いの言葉のように、糸子は呟いた。そう、これはきっと呪いなのだ。誰かが、自分の幸せを妬んでかけた呪い。

 あまりに幸せな日々を送っていたから、誰かが自分に呪いをかけたのだ。

 呪いの言葉を受けたこの瞬間まで、確かに糸子は幸せだった。

 藤堂糸子は幸せだった。


 林道蛍りんどうけいは不幸だった。

 受験には躓くし、友人もいないし、恋愛経験はなくもないが、どれもがもれなく片想いで終わっている。誰かと衝突するようなことはなかったけれど、それは本気で誰かと向き合ったことがないからだ。無味乾燥、酸いも甘いもない。人生を彩ることなど何もない。

 山も谷もない。最初から地下深く、右も左もわからないような海底で生きている。だからどこに向かって進めばいいのかわからない。そもそも、一歩踏み出す勇気も持てない、そんな場所にいるのだった。

 だから、林道蛍は不幸だった。

「死ねばいいのに」

 だから、林道蛍は信じたくなかった。

「こんな奴、死ねばいいのに」

 自分で自分に、こんな言葉をかけていることなど、信じたくなかった。

「どうしてお前は生きてるの?」

 こんなに弱いくせに。こんなに矮小なくせに。

 くせに、くせにと自分を貶めるくせに、結局生きているくせに。

「どうして、生きているの?」

 そうやって自分を貶めることで、自分の存在を許してもらおうとしている。自分の価値はきちんと理解しているので、せめてこの世界で小さな居場所をください、と懇願している。浅ましく。

「どうして、生きたいの?」

 そこまでして、どうしてこの世界にしがみついていたいのだろうか。

 何がしたいのだろうか。

 こんな不幸しかない人生に、一体どんな未練があるというのだろうか。

「怖いの?」

 自分を嘲笑する。それさえも、浅ましくこの世界にしがみつくためのパフォーマンスに過ぎない。自分で自分を嗤うから、どうかあなたは嗤わないでください、と。

「どうしてお前は生きてるの?」

 何度も尋ねる。生きている限り、何度でも尋ねる。

 これは、生きるための魔法の言葉だ。この疑問を何度も繰り返している限り、絶対に死ぬことはない。生きる理由を探している限り、死と向き合わなくてもすむ。

 死と向き合う続ける人生。それは果たして、生きているのか、死んでいるのか。

 死を見つめている時間の方が、遥かに長い、この人生は果たして。

 林道蛍は不幸だった。

 これまでも、そしてこれからも。

 林道蛍は不幸だった。

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