そこからの景色

合間ぽてこ

第1話

 いつからここにいたのだったか。

 ずっと昔からいたような気もするし、たった今ようやくたどり着いたような気もする。ただこの狭い世界が終わる前に、跡形もなく消えてしまうまでには何かを成さねばならない。そんな漠然とした焦燥感だけがはっきりと感ぜられた。

 青く染められた空を見あげながら考える。果てしなく続くと思われた空は窮屈そうにこちらへ迫り、有象無象の雲どもが押し合い圧し合いしながら忙しなく通り過ぎていく。何をそう急ぐのか。ここで仰向けになっている私と彼らに、どんな違いがあるというのか。

 迫りくる重苦しい空気に頭痛を覚えて、私は空に向かって手を振りあげた。柔らかく弾力のある感触は何かに似ている気がしたが思い出せない。波打つ空を視界の端に追いやってから辺りを見渡した。とにかく、仕事を探さねばなるまい。

 どこまでも続く、黒く湿った地面。代り映えのしない風景にぽつんと見える点があった。ふと興味を惹かれて近寄ってみる。



 目的地にはすぐ着いた。石磨きだ。頭にタオルを巻いた男が一心不乱に石を磨いていた。


「石磨きさん、少しよろしいですか。」


 石磨きは黒い斑点を丁寧に磨きあげると、億劫そうに振り返った。


「なんだい坊ちゃん、冷やかしなら他をあたってくれないか。俺はこの石を磨くので忙しいんだ。」

「すみません。就職活動中でして。……どうして石を磨くのですか。」

「俺は石磨きだ。ああ忙しい。」

「楽しいのですか。」

「楽しいわけあるか、こんなつらい仕事。俺だって石磨きなんかでなけりゃあ一日中寝て過ごすさ。石磨きでなかったらな。それよりほら、邪魔だから向こうへ行ってくれないか。俺は忙しいんだ。」


 しっしと手で払うような仕草をされて、失礼しますと早口で言うと私は慌ててその場を離れた。どうせするなら楽しい仕事が良い。石を磨く理由を聞きそびれたと気付いたのは、息を整えるためにゆっくり歩き出したあとのことであった。



 しばらく行くと、今度は綺麗な石をせっせと泥だまりに入れる男に出会った。


「あの、お仕事中失礼します。」


 男は泥だらけの顔で振り返った。


「よう兄ちゃん、俺は石汚しってんだ。」

「なるほど、石汚しさん、あなたは一体何をしているのですか。」

「見ての通り、石を汚す仕事よ。」


 歌うように言って泥まみれの足でステップを踏むものだから、私の立っているそばまで泥がピシャッと飛んできた。


「それは何の役に立つのです。」


 石汚しは顎を擦りながら考えるような仕草をした。こびりついた泥がポロポロと落ちていく。


「何の役に立つかと言われれば……何かがあるわけでもないが。ただ、石を汚さない俺は俺じゃねえと、そう思うからこうして年中せっせと石を汚してるってわけよ。」

「そうですか。ありがとうございます。私はこれで。」

「ああ、兄ちゃんも頑張れよ。」


 そう言うと石汚しはまた新しい石を手に取った。磨きたての石はキラキラと光り、辺りが薄らと明るむ。それを躊躇なく泥に投げ入れ、泥ごと練り始めた石汚しをしばらく観察したのち私は踵を返した。石汚しは満足気であったが、意味のない仕事は私には到底できそうもないと思った。



 またしばらく歩いていると、突然現れた小石に蹴躓いた。危うく体勢を立て直し足元を見て驚いた。小さなトカゲがこちらを睨みあげていたのだ。


「おいオマエ。」


 トカゲはキイキイ声で叫んだ。


「せっかくオイラが並べた石をぐちゃぐちゃにしやがって。ここまで並べるのに一時間もかかったんだぞ。弁償だ、弁償。」


 見ると、確かにトカゲの後ろには等間隔に並んだ石が長い道を作っていた。小さな手で一つ一つ丁寧に石を置いてきたようだ。


「ああ、これはすみません。」


 その辺に落ちていた手ごろな小石を拾うと、ちょうど私が蹴散らした辺りに並べてやる。


「違う違う。ああもう、シロウトめ。こうやって並べるんだよ。」


 トカゲはプリプリしながら小石を手一杯に抱えると、私が置いた石の上から隙間なくばらまいた。そしてその尻尾を使って器用に余計な石を払いのけ、一本道を修繕していく。見事なものだと感心していると、得意そうなトカゲが話しかけてきた。


「ところでオマエ、見ない顔だな。何をする人なんだ。」

「ええ、自分にぴったりの仕事を探している最中なんです。トカゲさん、楽しくて、役に立てて、効率的な仕事を知りませんか。」

「楽しくて、何かのためになる無駄のない仕事。」


 トカゲは尻尾を休め、ムムムと考え込んだ。それを見て私は慌てて言った。


「すみませんトカゲさん、邪魔してしまって。私はまた別の人を探しますので。」

「ちょっと待てよ、ええと、そうだ、この道に沿ってずっと行ったところに大岩がある。そこにいるジジイが何でも知ってるって噂だぜ。ソイツんとこ行けばきっとその……良い仕事が見つかるんじゃないか。」

「本当ですか。どうもありがとうございます。この道を真っ直ぐですね。」

「おう、気をつけてな。」


 ずっと続く石の道を見失わないように、私は俯いて歩き出した。トカゲの尻尾はとても便利だけれど、初めから手で綺麗に並べたほうがずっと簡単だろうと思った。

 空は不気味に低く静まり返っており、気のせいか、さっきよりも体が重い。世界の終わりももうすぐだ。それまでになんとか自分にぴったりの仕事を見つけなければならない。私はコートの襟を立て、早歩きで物知りの老人がいるという大岩を目指した。



 トカゲに言われた岩に着くと、そこには髭がいた。いや、恐らくはこれが例の老人だろう。鼻と思しき突起部分の下から伸びている白いふわふわが体全体を覆い尽くし、その上にあるはずの目は髭と同色の眉によって隠されてしまっている。それが岩の上に丸くなっているので、なおさら人間らしさが希薄になっていた。


「そこのお兄さん。」


 驚いたのは、その見た目に反し力強い声をしていたからで、突然話しかけられたからではない。向こうがこちらに気づいていることを私は知っていた。石磨きも、石汚しも、さっきのトカゲが石並べと呼ばれていることも、私は知っていた。


「はい。」


 世界は既に端から端までいっぺんに見渡せるほど狭まり、私の声はぐわんと反響して空を揺らした。

 私と老人は同じほうを向いていた。空と思えていたのは空ではなかった。水面だった。水中から、水面を見あげているのだ。


「ここは狭いな。」


 老人の呟きはそのまま泡となって浮かびあがる。

 その枯れ木のような指でなでると水面はますます近づいたが、さざ波さえ起らなかった。私が詰めた息を思わずふうと吐くと、波紋は影を揺らしながら笑うように広がる。

 私は泣きたかった。けれど、私の涙の一滴はこの世の寿命を延ばすにはあまりにも小さすぎた。私が何かを成すにはこの世は小さすぎて、しかし私が私を見つけるには十分すぎるほどに大きいのだ。


「見つけた……思い出しました。」


 誰に言うでもなく、私は呟いた。老人の姿はもうなかった。乾きを加速させるものがいなくとも、水面はどんどん近づいてくる。

 今度は意識的に小さな波を一つ起こした。波のへりと世界の境界とはぐんぐん近づいて――境目の向こうはあまりにも大きな人間の影のようなものが――初めて見た外の世界が、私には羨ましかった――そして、すべてが渇ききった。



 ――同時刻、とある街の歩道には、ほんの少しの水が残った水溜りがあった。その上を一人の男児が楽しそうに駆け抜けていく。履き古したスニーカーが水溜りを踏み潰すと、最後に残っていた水もあっけなく飛び散った。あとには、暖かい太陽に照らされる小さな窪みが残されるばかりであった。

 今日は一日中晴天となるでしょう、と誰かが言った。

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