第13話 再会

きぃぃぃぃ・・・。


年代物のドアが、停電で照明の落ちた暗闇の中、音をたてて少しずつ開いてゆく。

雪乃は暗闇をゆっくりとこちらに近づいてくる何者かの気配を感じて、ベッドに横たえていた華奢な身を起こした。


「誰・・・?」


投げかけた問いは、墨色の闇に冷たく呑みこまれ、いらえもない。


「お母さん?」


何者かが動いている気配はあるのに、心の声すら聴こえない。

雪乃の顔にだんだんといぶかしさと恐怖が入り混じった表情が浮かぶ。


「ねぇ、誰?」


どこからか、墨色の闇が、まるでどんどん部屋の中に流れ込んできているかのようだ。部屋の闇の濃さが、刻々と増していっている気がする。

こんな闇の濃さは今まで経験したことはない。あるとすれば、あの蒼い闇の時くらいだろうか。だが、あの時の闇はやさしく澄んでいた。一歩先も見えないような闇でも、あの蒼い闇はこの墨色の闇とは異質のものだ、と雪乃にはわかった。

この闇は、なぜだかわからないが、胸の内をざらざらとした手で撫でまわされるような、とてもいやな感じがする。

本能が、雪乃に告げている。

この闇に、決して呑まれてはならないと。

近づいてきている何かに、決して、捕まってはいけないと。

細く白い背中に、たらり、と汗が流れる。

雪乃はベッドから飛び降りて、少しでも正体のわからない気配から遠ざかろうと、窓の方へとその身を走らせた。細い体が、ふるふると震える。

その瞬間。

「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

雷が、ものすごい爆音を立てて鳴り響いた。そして。

「え?・・・・えっ?」

稲光で一瞬光ったバルコニーに、人影がひとつ、確かに見えた。

見覚えのあるその人影に、さっとうかんだ記憶が雪乃の心に冷気をにじませはじめる。


「・・・仁・・美・・?」


窓の外に、ゆらりと立っていたその人影は、確かに仁美だった。

こんな雨の中外に立っていたらずぶ濡れになってしまうだろう、そう思って慌てて窓をあけようと、鍵に手をかけて、ふと、雪乃の動きが止まった。

ここは三階なのだ。バルコニーには、雪乃の部屋から以外は入れない。

ならば・・・ならば。仁美はいったいどこから三階のこの部屋のバルコニーに入ったのだろうか・・・。そういえば、どうして仁美が自分の家を知っているのだろうか。家を教えたことはないはずなのに・・・。

稲妻が、はしる。一瞬照らし出られたバルコニー、そして。

「ひっ・・・いやぁぁぁぁぁぁぁっ!」

窓にべったりと濡れた身を張り付かせた仁美が、光の中浮かび上がる。その表情は、まるで、鬼。雨に濡れて流れたマスカラとアイラインの下で、黄色く濁った眼が、闇の中らんらんと光り、ぎょろり、ぎょろり、動き回って雪乃の部屋の中を見回している。

その目が、怯える雪乃の姿をとらえると、仁美は口が裂けるような、怖気の走る笑みを浮かべ、顔を大きくゆがませた。その様子はもう、とてもこの世のものとは思えないものだった。

「ぁ・・ぁ・・。」

恐怖で後ずさった雪乃の背後に、もう一つの大きな人影が、ゆらりと立った。

その人影は、手に持っていた手斧を静かに振り上げると、震える雪乃の後ろ頭めがけて、勢いよく振り下ろした。



「くぅっ・・・。」

墨色の中に、鈍色の光が走る。

「逃げろっ、小春!」

光の粒が、戸惑ったようにふよふよと動いた。

「いいからっ、ここから逃げろ!」

とっさに、机の上にあった出席簿で、振り下ろされた刃を受け止める。

「くそっ!」

ぐいぐいと押してくる力は、もう人間のものではない。

みしみしっと嫌な音がしたかと思った瞬間。

「うっ。」

刃が出席簿を貫き、柊の鼻先で止まった。

ぞっとして、背中に滝のような汗が流れる。妖になっても、刃物への恐怖感は人間だった時と変わらない。一度身についた感覚はなかなか消えるものではないのだ。

だが、柊とて無駄に900年もの年月を過ごしてきたわけではない。かつては野宿のような日々を過ごしたこともあった。夜がまだビロードのような闇に沈む時代だったころは、夜盗に襲われかけたこともある。最近は銃刀法なるものが世の中を取り締まるようになったため、少し警戒心や体がなまっていただけだ。

両の手でかかげ、刃を受け止めた出席簿を、刃を持った奴ごと横に投げ捨てると、柊は体勢を整え後ろへと飛びすさった。身構える柊の目に、投げ飛ばされてうずくまる男の姿が映る。

「浦・・・口?」

むくりと身を起こした化学教師の顔を見て、柊の細い目が見開かれる。

名前を呼ばれた当の本人は黄色く濁った眼をぎょろぎょろさせながら、柊の声に反応を示すこともなく、ナイフを出席簿から抜き取ると、柊の首筋めがけてとびかかってきた。




「あっぶねぇー。」

天狗の面の下に、たらりと冷や汗が流れる。手斧が、受け止めた鉄パイプをぐいぐいと押してきて、腕が震える。

「いってぇんだよ、この脳みそ筋肉野郎!」

相手の足に蹴りを入れて薙ぎ払う。体勢を崩された相手は、大きな体を、受け身を取る暇もなく、派手な音とともに床に倒れ込ませ、手斧が暗闇の中、鈍色の光の弧を描きながら宙を舞い、ドアに突き刺さった。

「ふぃ~、ったく、なんて馬鹿力だよ。」

面の下からこぼれた汗を、手の甲で拭ったその時。


「・・・黒・・木先生?」


背後から震えるかすれ声が、墨色の闇にこぼれて、蒼く澄んだ音をたてた。

今にも消え入りそうな声の中に、自分を気遣う温度を感じて、男はうつむいて、面の下でくちびるを噛みながら泣きそうなのを必死にこらえたような苦笑いを浮かべた。

― 顔を隠して、喋り方も素のまんま、もう何年も逢ってねぇってのに。 ―


「あぁもう、ちくしょう・・・なんで気づいちまうかなぁ・・・。」


倒れた男は気を失ったのか、動かない。窓にはりついたままの仁美は、天狗の面をつけた男の妖気の強さにおびえたのか、部屋に入ってこようとはせず黄色い目だけをぎょろりぎょろり動かし続けている。

男は黙って面をずらすと、ゆっくりと雪乃の方を向いた。

「久しぶりだな、雪乃。」

「!」

雪乃の目からほろり、と涙がこぼれる。歩み寄った黒木に、雪乃は昔のようにしがみついた。懐かしいシロツメクサの香りが、雪乃の胸を満たしてゆく。

「・・・あいたかった・・・。」

雪乃の、思わずこぼれたまっすぐな想いに、黒木の顔が苦しそうにゆがむ。

震える雪乃の背中を、きつく抱きしめたいという、こみあげてくる衝動をおさえて、黒木はやさしく背中に手を置いた。

― まだだ。まだ今は、ダメだ。 ―

まだ何も終わっても、始まってもいない。

黒木は雪乃を落ち着かせるようにふるえる背中をやさしくたたくと、雪乃をそのままひょいっと抱き上げた。

「きゃっ。」

黒木の腕の中で慌てる雪乃に、部屋にあった厚手のショールを着せると、その上から天狗の隠れ蓑をかぶせる。

「ちょっと湿ってっけど、無いよりましだから。あと、煙草臭いのは勘弁な。」

そんじゃあ、ちょっくら目ぇつぶってろよ、と言うなり黒木は面をつけ、仁美が張り付いていた窓を、仁美ごと蹴り破った。

ガラスの割れる派手な音とともに、仁美はバルコニーへと吹っ飛んだ。きらきらと割れた窓ガラスが降り注ぐ中を、床に倒れる仁美の脇をすり抜けて、黒木はバルコニーから墨色の空へと飛びあがった。

「ふ~、脱出成功。あぁ~危なかったぜ~。」

もぅいいぞ、と言う声に、もぞもぞと隠れ蓑から顔を出した雪乃は、涙にぬれた目を大きく見開いた。

「空・・・飛んでる!」

物珍しそうにきょろきょろと下界を見下ろす様子が、まるで幼稚園にいた頃のようで、黒木の顔が少しだけゆるむ。

「すごい・・。空なんて、はじめて飛んだ。」

その一言に、黒木は吹き出した。

「そりゃそうだろ、人間は空は飛べねぇだろ。」

「じゃあ、黒木先生は、人間じゃないってことですか?」

「まぁな。」

答えた後で、はっとする。雪乃には、まだ自分が妖であることは告げていなかった。眠らせて、そのまま森の自分の小屋に連れて行ってから起こした方がよかったのかもしれない。逡巡する黒木をよそに、雪乃は下界を見下ろしながら笑った。

「そっかぁ。じゃあ私は、小さい時も妖に見守ってもらってたんだ。」

そう言って自分を見上げる雪乃の目は、大丈夫だよ、人間でも妖でも、なんにも変わらないよ、そう言っているような気がした。

「妖って、優しいんですね。」

まっすぐに目を見てくる雪乃に、黒木は苦笑いした。

「そぅでもねぇよ。」

「そぅなんですか?」

まっすぐに目の奥を見つめてくる、流れる清水のような、涼やかに澄んだまなざし。

「人間と一緒だ。妖も、良い奴もいれば、悪い奴もいる。」

このまなざしを、汚させたくない。この目から、光が消えるのを見たくない。

それは、雪乃に出逢ったあの時から、ずっと変わらぬ、願い。

「雪乃。」

黒木は空を駆けながら、心配そうに家のある方を見下ろす雪乃に話しかけた。

「俺は、少し、お前に言っておかなきゃなんねぇ事がある。」

不安そうな顔で首をかしげる雪乃に、黒木は思わず目をそらした。

「せんせ・・?」

空が暗いのがありがたかった。

こんな顔を見せれば、きっと、雪乃は自分の事のように痛みを感じてしまうだろう。涙を必死にこらえる顔を見るのは、もう、十分だ。

だから、だから。

「少しの間だけ、ごめんな・・・。」

雪乃に聞こえないほどの小さな小さなかすれ声で、そうつぶやいた後、黒木は呪文を唱えた。薄い唇からこぼれた言葉が、文字と化し、蛇のように動きながら雪乃の耳にするりと入り込む。雪乃の目から、不安げな色がすぅっと消えていった。

不安や心配の源を忘れてしまうまじない。強力なものになると、かけられた者の人格そのものを変えてしまうこともある。黒木が雪乃にかけたのは、一番弱いものだった。呪いが切れる前に悪鬼らをなんとかすれば、全て夢で済ませられる。

悪鬼に憑りつかれた仁美の事も、同じように悪鬼に憑りつかれ斧を振り下ろしたのが、雪乃の父親であった事も。

「実はよ・・・。」

「はい・・。」

キョトンとした雪乃に、黒木はにやりと笑った。

「俺、今、山の小屋に住んでるんだけど、掃除してくんない?」

「・・・はい・・・・え?」

雪乃の顔にいっぱい浮かんでいる?が、目に見えるようだった。

「いやー、実はここんとこ忙しくてさ、部屋の床や窓を拭けてねぇんだ。」

俺、こう見えて綺麗好きだから、耐えられないのよー、クイックル○イパーあるから、と言いながら雪乃の方をちらり、と見ると雪乃はくすくすと笑っていた。

「いいですよ。」

― これでいい。 ―

妖である自分が例外的に介入できたのは、親である父親が、妖に憑りつかれて自我を失ったから。悪鬼に憑りつかれると、心の闇が外側に引きずり出される。父親は雪乃を殺したかったのか。血を分けた、我が子を。

黒木の飄々とした顔が、ぎりりと厳しいものとなる。

胸が燃えるように熱く、そして、どうしようもなく、悲しかった。

― こいつが何をしたってんだ。世の中には腐ってるやつはごまんといるってのに。 ―

人よりも優しく、人よりも清らかで、自分の事より人の事を思いやれて、ただちょっとばっかし人の感情が聴けるだけで・・・それだけで。なのに、なのに。

― なんで雪乃がこんな目に遭わなきゃならねぇんだ。 ―

神は怠慢だと思う。頑張っている人をきちんと見守り、幸運を授けるのが神の仕事ではなかったのか。

胸の中で、何かがしっかりとした輪郭を持ちはじめる。

雪乃が妖になるのを迷うなら、迷う時間を奪うより、俺が迷わなきゃいい。 


ならば。


― 雪乃は、俺が守る。 ―




たとえそれが、禁忌を犯すことになるとしても。





そのせいで、この身が滅ぶことに、なったとしても。




降りつける雨が強くなってゆく。腕の中でくしゃみをした雪乃を見て、黒木はやさしいまなざしで笑った。


「少し急ぐぞ。」


墨色の空を切り裂くように、鮮やかな紅色の光が、山の方へと細い尾を引きながら、降りやまない冷たい雨の中を一直線に飛んで行った。

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月の光と桜の花びら 咲水 雪妖 @yukiya

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