第12話 墨色に染められた街

仁美は、手に持っていたカップを落とした。

カップの中に入っていたジュースが、みるみるうちに店の床と仁美の靴下を濡らしてゆく。一瞬店内がざわつき、店員が駆け寄ってくる。だがそんなことは少しも目に入らないかのように、仁美は、目の前に座る彼氏を、懇願するような表情で見つめた。


「もう一回、言って。」


向かいに座る男は、周りの視線に少しためらいながら、けれどはっきりとした口調で仁美に告げた。


「好きな子ができた。仁美とはもう付き合えない。」


アイラインが綺麗にひかれた目が、大きく見開かれる。仁美は聞こえた言葉の意味を理解できずに、首をかしげ笑った。


「またぁー、冗談でしょー?」


ついさっきまで、仲良く話していたはずだ。ありえない。きっとまたいつもの冗談に決まっているのだ。だってもう、何度もそう言いながらも半年近く付き合ってきたんだもの。仁美は一番自信のある角度で、上目遣いで可愛く笑って見せた。そんな仁美の笑顔に、男はため息をついて、仁美の目を正面からまっすぐ見た。


「あのさ、そうやって、なんでも自分に都合よく解釈するところがめんどくさいんだよ。あと、可愛ければ、なんでも許してもらえるって思ってるとこ。」


男は頬杖をつきながら、だいたいお前、自分で思ってるほど可愛くないから、鏡と現実はちゃんと見た方がいいと思うよ、と言って立ち上がった。


「え、どこ行くの、待って。」


仁美の呼び止める声に、男は振り返って、露骨に嫌そうな顔をした。


「何?」


返ってきた言葉と表情の温度のあまりの低さに、仁美の顔に段々と焦りが浮かびはじめる。


「や、やりなおせないかな、ちゃんと、悪いとこは直すからっ。」


うかがうように男の顔を見つめる仁美を見て、男は首を横に振った。


「好きな人が出来たって言っただろ?もう無理だよ。じゃあな。」


なんのためらいもなく去って行こうとする男の背中に、仁美は悲痛な声で問うた。


「好きな人って誰よ!それだけでも教えて!じゃなきゃ別れないから!」


男の足が止まり、うんざりした顔で仁美を振り返る。その瞬間、仁美は悟った。もう、彼の中に、自分への情はこれっぽっちも残っていないのだと。今回は、本当におしまいなのだということを。

けれど次の瞬間、彼の口から飛び出した名前を聞いた仁美の顔は、悲痛を通り越して、まるで夜叉のようにゆがんだ。


「水城だよ。水城雪乃。」


じゃあな、と言いながら足早に店を出た彼の声は、怒りで打ち震える仁美の耳を、するりと通り抜けていった。


― 雪乃、またあんたなの。 ―


口の中に、ぱっと咲いた花のように広がる、金臭い鉄の味。噛みしめたくちびるから、血がにじんでいるのがわかる。


― 学年で人気の高い牧原と柊の両方にかまってもらっておいて、みんなの憧れの西川先生にあだ名で呼んでもらっておいて、お屋敷に住んでいるお嬢様でっ、それでも飽き足らず、今度もまた私の彼氏を奪って! ―


実際には雪乃から何かをしたわけではないため、奪ったことにはならないし、なにより、雪乃は仁美の彼氏達に告白されても勉強が忙しいと全て断ってきたため、奪ったことなど一度もないのだが、雪乃を理由にまたもや彼氏に振られた仁美にはそんなことは関係なかった。


― ゆるさない・・・今度という今度は絶対に・・・ゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさない・・・。 ―


仁美の心に立ち上る不穏な空気が空へも伝わったのか、先ほどまで青く澄んでいた夏空に、墨をぶちまけたような真っ黒な雨雲が垂れ込めたかと思うと、あっという間に激しい夕立が降りはじめ、雷がつんざくような大きな音をたてて鳴りはじめた。店内の人々が悲鳴をあげて耳をおさえしゃがみこむ中で、仁美の目だけが、まるで鬼のそれのように、らんらんと光っていた。




「小春、だいじょうぶか?」

柊は頭をバスタオルでぬぐいながら、植木鉢を国語準備室の机に置いた。

白い花は、大きな雷の音に、小刻みにふるえていた。

「あぁ、やっぱり雷は子どもには酷だよな。」

夕立がくるなら、もっとはやく入れてやればよかったな、すまんかった、と言いながら、柊はバスタオルを首にかけたままやわらかな湯気の立ち上るコーヒーをすすった。

「そういえば、雪乃は無事に家に帰りついてるだろうか。」

小春に話しかけるが、小春は雷が怖いらしく、まともな返事は返ってこなかった。

― あいつもこういうの、ダメそうだからなぁ。 ―

窓にたたきつけるように降る雨を見ながら、柊は雪乃のことを思い返していた。


柊が雪乃を助けたあの夜以来、雪乃は少しだけ柊を頼るようになっていた。

最初は慣れないことに戸惑い、露骨に怯え、一人で百面相しながら四苦八苦していたようだったが、元来頭の回転は悪くない方だからなのか、柊の言わんとすることを理解するのもそれほど時間はかからなかった。

それに並行して柊は、自分の持つ妖についての知識を少しずつ、雪乃に教えていった。

雪乃が今、人間と妖の狭間の非常に微妙な危うい立ち位置にいること、あの扉をくぐってしまうと妖になってしまうこと、一度なってしまったらもぅ戻れないこと、どんな妖になるかは人によって違うこと、妖にも力が強い者と弱い者がいて、力の強い者は時に人の身に不可思議をもたらすこと、そして。


― 妖になってしまったら、人間だった時の、人間の知人友人や親に、自分を自分として認識してもらえなくなること。―


柊の両親も、最後まで、柊を自分たちの子どもだと認識できなかった。その他、今まで何人か会ったことのある元人間の妖の周りの人間たちも、皆そうだった。どれほどに言葉を尽くそうと、自分しか知らないことを、自分が自分であることの証として声高に叫ぼうと、不思議なことに誰一人、誰一人として、認識してもらえた者はいなかった。理由は、誰にもわからない。妖になるとは、人の理から足を踏み外すとは、そういうことなのだろう、一度散ってしまった花びらが、もう二度と花として咲くことは無いように、後戻りはできない道であるのだろう、そうとしか柊には言えなかった。


― だが・・・。 ―


そう教えた時に一瞬、雪乃の顔に寸の間垣間見えた表情が、柊の胸に、焼き付いて消えない。あれは、あの表情は・・・。


― 悦び。 ―


驚きと、さみしさと、悲しみと、けれどその中に、僅かばかりながらも確かにあった、それは愉悦。自分が自分として認識されなくなる、そう聞いて浮かぶ表情の中にあるには、少しばかり明るすぎる、ぱっと広がる鮮やかな色。


― どうして・・・。やはり・・・。 ―


答えのない問いが、またもや柊を悩ませる。助けなかったほうが良かったのだろうか、連れ戻さずあのまま行かせてやればよかったのだろうか。自分のしたことは、ただの押し付けに過ぎなかったのだろうか。

うつむいた柊の顔に、濃い影が落ちる。ここ最近、胸がざわついて眠れていなかった。疲れが顔に出ているのかもしれない。

「いかんいかん。」

深呼吸をして、上を向く。雪乃は他の生徒が気が付かないような細かなことにも気が付く。そして、そこに自分の責任を探して悩み苦しんでしまう。相手が普段と違うのは自分のせいではないだろうか、そう考えて色々に気を揉んでしまう。それは心が読める相手に対しても、柊のように心を読まれないようにしている者に対しても同じだった。どうにも、雪乃は聴こえてくる心の声を全てとは思っていない節があるらしかった。まぁそれは、当たらずしも遠からず、なので柊にも否定の仕様がなく、そのままになってしまっているのだが。どちらにしろ、心が読まれないとはいえ、雪乃に悟られないようにするのはかなり気を遣わなければならない。たかが原因不明の胸のざわつき程度のことで疲れてなどいられなかった。

窓の外がぴかりと光り、ほぼ同時に耳をつんざくような音が窓ガラスをびりびりと震わせた。小春がびくり、と震え、花がふるふると揺れる。

「近いな、落ちたか?」

柊が眉間にしわを寄せた瞬間、部屋の電気がぷつりと消えた。

「停電か。やっぱり落ちたんだな。」

懐中電灯など無くとも、夜目が利くのは妖の特権だ。だから柊は、特に何も慌てることも、身構えることもなく、コーヒーを飲みながら窓の外を眺めていた。電気系統は植物の妖である柊とはあまり相性が良くない。雨の日や冬の乾燥した日の配電盤をいじるのは、もっと他の、得意な人に任せておけばいい。たとえば。

「雷様、とかかな。」

あれは妖なのだろうか、それとも神にくくられるものなのだろうか、雨粒がたたきつけられる窓を見つめながら、たわいもないことに思考をめぐらせていた柊の背後で、薄暗い闇に沈んだ国語研究室のドアが、音もなく、すぅ・・・っと開いた。


木の上に己の妖力で編んだ小屋で眠っていた男は、雷が落ちた瞬間、がばり、とその身を起こした。

なんだか嫌な感じがする。ここ数日、男はあまり眠れていなかった。胸がざわつく久方ぶりの感覚に、男の髪が、ぞわり、と逆立った。

小屋から出て、山の上から、雪乃と柊がいる街を見下ろす。


「・・・なんだあの雲は・・。」


街一帯が、どんよりとした黒雲に覆われ、明らかになにかよくない者の妖気に包まれている。男は知っていた。黒い妖気は、澄んだ妖気を持つ者たちを黒く染めてしまったり、場合によっては命に関わる事態に陥らせてしまったりすること。その妖気が濃ければ濃いほど、人間の身にまで災厄をもたらすこと。例えば、昔からよく知られている悪鬼などがいい例だ。奴らは誰にでもある人の心の闇が、なにかのはずみで深く深く、その身を蝕み滅ぼすほどに大きくなったとき、その人間に憑りついてその身を操ったりする。

そして、妖と人間の狭間、あと一歩で妖になれる所にいる者にとって、その妖気はなぜかあまり影響力がないことも、代わりに、その身は黒い妖気を発する者にとってはとてつもなく美味で、かつ妖力を増幅させてくれるものであるため、誰より狙われやすいことも、長い時を生きて、ずっと人間を見守り、そして見送ってきた男は、きっとこの世の誰よりも、知っていた。

「まぁ、雪乃以外に何があろうが知ったこっちゃねぇけどな。なんせ雪乃が苦しんでるのを見て見ぬふりしてた奴らだ。」

そう言って、無理に作ったような笑みを顔に浮かべ、小屋に帰ろうとする男の足どりは、軽い言葉とは裏腹なずっしり重いもので、それは開け放された小屋のドアの前で、ついに止まった。振り返り、黒く染まった街を見下ろす。自分の痣の痛みより、男の事をまっすぐに案じていた雪乃の顔が、鮮やかに浮かぶ。

「くそっ。」

男は苦々しげに舌打ちをした。苛立ちを隠さない普段よりも大きめな舌打ちも、激しく降る雨が木の葉を容赦なく打つ音に、すぐにかき消される。

雪乃はきっと、涙を流すのも忘れて華奢な背中で庇おうとするのだろう。目の前で、傷つき、倒れた者に、手を差し伸べずにはいられないだろう。

たとえその手が、その背中が、どれほどに非力で、己の身が、実は周りの誰より危うかったとしても。

「雪乃の身はおまえらみたいなクソきたねぇ妖気しか出せねぇ奴らの喰いもんになんてもったいなさすぎる。どうせなーんにも知らねぇあのクソガキの柊には任せておけねぇからな、だから、俺がやるしかねぇんだ。」

別に柊や街の人間なんて知ったこっちゃねぇけどな、雪乃のためだ、あくまでついでだ、と一人言いながら、男は面をつけると、墨色に染められた街へ、まるで紅に染まり急いで、まだ浅い秋の風に散らされ舞う、気の早い一枚の紅葉の葉のように、ひらり、と降りて行った。

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