第11話 晩秋色の煙管

「また余計なことしてくれやがって・・・。」

校庭にある、葉がうっそうと茂った一番背の高い木の上で、男は苦々しげな顔をした。白い花がゆらゆらと心地よさそうにゆれる後ろにある部屋の窓の、ブラインドの隙間から、大粒の涙をこぼす雪乃と、それをなぐさめている柊の姿が見える。

「ったく、雪乃を何度も泣かせやがって。あの役立たず、あの時助けなきゃ良かったぜ。」

夏の木漏れ日がゆれて、男がつけている面がきらりきらり光る。

すらりと長い鼻に、恐ろしげに描かれた目や眉。夏空に鮮やかに映える朱色と黒のコントラスト、こぼす悪態と似て、いかついながらその奥底に不器用な慈愛を秘めた、それは天狗の面。

「しかし暑いな。」

この面も、天狗に代々伝わる隠れ蓑も、現代の気候には適していない、とつぶやきながら男は面を外した。吹き抜ける風が、木の葉を揺らし、汗ばんだ肌を冷やしてゆく。街の風景や、着るもの、食べるものは時とともに変わっていったが、変わらないものも確かにあると、木陰を通り過ぎる風の心地よさに目を細めた。

― 本当に。良いものも、忌まわしきものも、人間とは変わらんもんよ。 ―

遠い昔から、子をかわいがるのが親の常というものだが、その一方でどの世にも、わが子を愛おしく思わぬ親が一定数はいる。自然界でさえも、育児放棄、なるものをする動物もいるのだから、人間も動物の一種だと言ってしまえばそれまでなのだろうが。

― 知性も言葉も兼ねそろえておきながら、獣と同じとはねぇ。 ―

男は目に怒りと悲しみの入り混じった光を浮かべた。

― なれど。 ―

男の顔に悲痛な表情がはっきりと浮かぶ。シロツメクサのかんむりが、風にそよりとゆれた。

― 人の理から外れぬ限り、何よりも強い絆は親子の縁。そのつながりは、この世のどんな力を持ってしても、断ち切ることは出来ねぇんだなぁ・・・。 ―


「たとえそれが、どんなに惨い形でつながれていたとしても・・・。」


ため息のようにこぼれた言葉が、木漏れ日がさざめく影の中に、妙にはっきりと響く。

― あの野郎、それを知ってて、その上で動いているのだろうか。 ―

先ほどの窓に目を向けると、雪乃は先ほどとは打って変わって、やわらかな笑みを浮かべて柊と嬉しそうに話していた。

― 人の理から外す以外に、どんな手段があるっつーんだろうか。 ―

深まる秋の風が少しでも冷たく吹き寄せれば、ためらいなく、はらはらとその身をこぼす真紅の紅葉のように、雪乃の笑顔も親にはかなく散らされてしまうものであることを、長らく見守ってきた男は知っていた。その笑顔を守らんと、幾度となく奮闘したものの、やはり親と子を包む絆が生み出す力には、男は手出しできなかった。せめてもの救いに、と渡したペンダントだけが、雪乃の体から痛みや苦しみを軽減させていた。

― あんなもの。ただのその場しのぎにしかならねぇし。 ―

傷や痛み、恐れは人ならざる力で軽減できようと、心の傷はそう簡単に消すことはできない。あのやさしくまっすぐな心が、透明な音をたてながら壊れていこうとする様を見過ごせるほど、男は冷酷になれなかった。

― やはりここは力づくでも・・・。 ―

妖といえども万物を知る者は限られている。己以外に雪乃の状況に気づいてやれ、悲しい負の鎖から解き放つことのできる者が出てくるのを待ってはいられなかった。


― 助け出したくて、月の光の妖力を借りて少しづつ雪乃に俺の妖力を注いでいたが、生身の雪乃の身を案じるあまり、これほどの時をかけちまってる。だけど、だけどだ! ―


もうすぐ時は満ちるのだ。誰にも邪魔はさせない。


― やっと救えるってわけよ。 ―


鞍馬に帰る途中、天狗の羽団扇をひょんなことから落としてしまい、探すために変化へんげして潜入した幼稚園にいた、幼い雪乃の姿が脳裏をよぎる。大人も子どもも雪乃を疎み、避け、気味悪がり、垣間見える痣を痛々しいと思うよりも、面倒に関わりたくないと知らぬふりをして目をそらして、まだ物の分別もつかぬような幼子を村八分にしていた。

まだ難しいことが理解できぬのをいいことに、全ての咎を雪乃にかぶせ、のうのうとしていた奴ら。雪乃を憐れに想いながらも、ふりかかる火の粉を恐れて見ぬふりをする臆病者。数多人はおれど、そこには幼い雪乃の行く末を真に案じていた者は一人もいなかった。

そんな状況を知ってか知らずか、クローバー畑でひとり、誰を求めるでもなく花と戯れる雪乃の背中は、あまりにちいさくて、あまりに痛々しくて、どうしようもなく悲しかった。

その姿が頭から離れなくて、どうにも気にかかってしかたなくて、さんざん悩んだ末、男は皆に幻術をかけて幼稚園の教員に成りすますことにした。

昼は幼稚園の先生として、夜は天狗の隠れ蓑でその身をうすやわらかな闇に潜ませながら、幼い雪乃を見守った。小さな体が大人の力でゴム毬のように蹴り飛ばされ懸命に許しだけを乞う、目を覆いたくなるような一方的な暴力を目にする度に、何度も、何度も、蹴り飛ばす足から雪乃を庇わんと雪乃の小さな震える背中に隠れ蓑を着たまま覆いかぶさってみたり、この身が妖であるがゆえに親子の絆という最強の力の前に一切の干渉ができないのならと、ダメ元で天狗に伝わる秘術をあれやこれや試してみたが、すべては水の泡だった。

ならば、と男は幼稚園で、己の妖力を使って雪乃の傷や恐怖感を誰にも気づかれず最大限取り除きながら、今度は幼稚園や近所の人間で雪乃を少しでも不憫だと思っている者たちを選んで、警察や児童相談所に連絡をしたほうがよいのではないのかと来る日も来る日も言ってまわった。だが皆、お茶を濁すばかりで終いにはあからさまに目をそらして男を避けるようになった。

重くくすんだ青空が、日に日に、白っぽい、まるでお日さまを天女の羽衣を透かして見たような、淡い光をにじませはじめたころ、男は、取るに足らない理由で辞表を出させられた。雪乃の母親の家は古くからの名家だったらしく、男の行動を、ご機嫌取りのために耳に入れた者がいたらしい。

この身は妖ゆえ、辞表を出させられようが名家を敵に回そうが特に何の感情も湧かなかったが、振り返った瞬間目に入った、職員室のドアのかげからそっと顔をのぞかせる幼い雪乃を見ると、男の胸は怒りと痛みと悲しみに、一気に支配された。


― あの時、決めたんだよ。どんなに時間がかかろうと、決して見捨てねぇと、決して諦めねぇってな。 ―


カラカラと音をたてて、白い花の置いてある後ろの窓が開いた。ブラインドをあげて、柊がまぶしそうに夏空を見上げている。


「ふん、たかだか900年しか生きてなくて、ちょっとくらい人の心に入れたくらいで何が出来るってんだ。若造のくせに生意気な。」


― ったく、前に助けた時は、夜道でびーびー泣いて今にも喰われそうだったし、あんまりにやかましかったから面倒見のいいひいらぎの木のじじいのとこに適当に放り込んでやったが、ちょっと見ない間に、勝手に一人前の顔するようになりやがって。 ―


男の口元に、こぼれる悪態にそぐわない、やわらかな、あたたかい笑みがしずかに浮かぶ。


― けど、こればっかは譲れねぇのよ。わりいな、柊。 ―


柊の言いそうなことは、大体予測がついていた。


― なんせあのお人よしじじいの跡を継げるんだからな。 ―


本人がどうしたいのか、いろんな事を知ってから決めても遅くはないんだ、なんて悠長なことを言うのだろう。今は見えなくても、想ってくれている人は必ずいる、と。


「・・・あの野郎もまだまだ青いなぁ、ひいらぎのじじい。」


男は慣れた手つきで火をともし、まるで終わりゆく秋を切り取ったような、深い紅葉色の煙管をくゆらせた。夏の高い空を、紫煙がやわらかくぼかしてゆく。


「・・・たとえ想ってる奴がいたって、いざって時に体が動かねぇ生半可な想いは、本物とは言えねぇんだよ。」


母親は、赤子が危ない目に遭いそうになった時には、反射的に、その身を挺して赤子を守ろうとする。その瞬間そこにあるのは、赤子を守りたいという、ただまっすぐな想いだけ。

本当に想ってくれている友人は、目の前の道を友が踏み外そうとしたとき、自分が相手に嫌われることなど考えもせず、止めにかかる。逆に、中途半端な友達ほど、言葉を濁したり誤魔化したり、中身のない、その場しのぎの耳障りのいい言葉だけを並べあげたあげく、大仰な言葉で自分たちの友人関係を飾り立てる。その実、いざ何か起きた時、まるで蜘蛛の子を散らしたように、皆、目をそらし、姿をくらます。


「なんかあった時に、ぜーんぶばれちまうんだよなぁ。」


おまけに、事が大変であればあるほど顕著に出るし、そういう時は当人も精神的にぎりぎりで、余計に傷つくから難儀なんだよな、と空に向かって、肺いっぱいに吸い込んだ煙を、ぷかり、ぷかり、輪の形に吐きながら男はやるせなさそうにつぶやいた。


「・・・んなもんは最初から」


男の視界の端に、雪乃が廊下ですれ違った牧原と西川と笑っているのが映る。


「ない方が・・マシだ。」


男はわしわしと長い黒髪をかきあげた。


「あーっ、もぅ一番大変なとこ全部俺に残して自分だけさっさととんずらしやがって、あのくそじじい!」


ちゃんと教育してから跡くらい継がせろってんだよなぁー、何が、わしは天国で美人とお先に隠居ライフじゃ、後のことはお前さんがいるから安心じゃ、だ、ナメたことぬかしやがって!とぶつぶつ言いながら、ひいらぎの花模様があしらわれた煙管を丁寧にしまうと、男は顔に面をつけ、立ち上がった。


「ま、仕方ねぇ、雪乃のついでだ。」


ガキしつけんのも大人の役目だしなぁ、俺ガキ嫌いなんだけどなぁー、と諦めたようにそうつぶやいた後、ばさり、という羽音を木漏れ日の中に残し、男の姿は木から消えた。




「あ、大きな鳥だ。」

窓から夏空をぼんやりと見上げつつ、光合成をして(させられて)いた柊がつぶやいた。

「どこですか?」

窓際に寄って来た雪乃に、あそこ、と指さしてやる。

「ほんとだ。めずらしいですね。」

― そういえば、ひいらぎの木に住んでた時も、あんな大きな鳥を何度か見たっけ。 ―

柊の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。

― 最初は俺を喰いに来たんじゃないかって、すんげぇ怖かったな。 ―

「どうしたんですか?」

不思議そうに見上げる雪乃に、柊は、にやりと笑った。

「大人の思い出し笑いだ。」


大きな黒い鳥は、しばらく二人を見守るかのように、真っ白で大きな入道雲がまぶしく映える夏の大空を悠然と飛びまわると、山の方へと消えていった。

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