第10話 夕焼け色の花びら

夏の午前の、地面を射抜くような日差しが、国語研究室の窓にかけられたブラインドの隙間から射し込んでくる。

本や資料がたくさん詰まった棚が壁を埋め尽くすように置かれている部屋の、窓際に置かれた机に肘をつきながら、柊はふかりとした黒皮の回転椅子に深々と体をうずめた。埃っぽい部屋に不釣り合いな光沢を放つその椅子は、柊がこの学校に赴任してきた際に、この部屋に最初に持ち込んだ私物だった。

― さて、雪乃にどう話を切り出したものだろうか・・・。 ―

机の上の100円ライターを指でもてあそびながら、窓の外に目をやる。お気に入りのジッポのライターはどこかに落としてきてしまったらしく、着ていた服のポケットや洗濯機の中など思いつくところはすべて探してみたのだが、そのなめらかで妖艶なフォルムはどこにも見当たらなかった。

窓の外に置かれた小春は真夏の日差しをたっぷりとその身に浴びて、大層ご機嫌そうだった。家に置いておいてもよいのだが、小春自身が学校にいたいと望むため、週末の夜に柊の家に持ち帰る以外は、日中は外に、夕方になると研究室の窓際に、場所を移すのがお決まりのパターンだ。小春は生徒たちが体育の授業を受けていたり、昼休みにグラウンドでサッカーをしていたりする様子を毎日飽きもせずに楽しげに眺めている。

― やっぱり見せるのが一番早いか。 ―

視線を少し上にずらし、抜けるような青空を眺めながら、柊は雪乃の背中の痣のことを思い出していた。普通に生活していれば背中に痣などできることはない。武道などを習っているのならともかく、雪乃はそのような部活も、習い事も、してはいないと書類や資料の山に埋もれそうな机の上に無造作に開いて置かれた、雪乃の生徒調査票に記された内容が柊に告げている。

― となると、残りの可能性は・・・。 ―

柊は眉間にしわを寄せ、奥歯をぎりり、と噛みしめた。

なぜなら、その可能性の先にある答えは、長く生きてきた柊の胸の内ですら怒りと悲しみがないまぜになったような感情であふれんばかりになるものだからだ。痣を見た瞬間に頭に浮かんだ考えが、やはり当たっていたことに、柊の表情が渋いものへと変わる。

― 俺も含めて、今まで誰も気づいてやれなかったのか・・・。 ―

自分自身、人の心が読めるとはいえ千里眼ではない。相手が意図的に考えないようにしていることは、さすがの柊でも聴けはしない。そうとわかっている。けれど。

― なぜ気づいてやれなかったんだ。聴こえていたのに。 ―

聴こえない人間には無理かもしれない、だが、聴こえていたにもかかわらず見通せなかった自分が腹立たしくて仕方なかった。

― あいつは、雪乃はどんな想いで、耐えてきたのだろうか。 ―

まっすぐに柊を案じていた澄んだまなざしが、柊の胸を、さらにえぐる。

― まずは、聞かねばならないだろうな。 ―

もしも雪乃が正直に話してくれそうになければ。

― かまをかけてでも、聴くしかないか。 ―

柊の目に、寸の間、悲しげな光が宿った。己の命をこの世に生み落とした存在から、その命を削らんとされる痛みは、その身がよく知っていた。殴られ、蹴られ、物を投げつけられ、小さな体のあちこちにぴかりぴかりと、まるで稲妻が駆け巡るかのように熱い痛みがはしる。けれど、それよりも、殴られている間中絶え間なく投げつけられる心無い言葉に疼く胸の痛みのほうが、己の存在さえも許されないことにずきずきと痛む、体の奥底からこみ上げてくる心細さのほうが、ずっと、ずっと・・。

― 痛くて、苦しくて、なかなか消えなかったなぁ・・・。 ―

あまりに苦しくて、悲しくて、息ができなくなって、幼かった柊は家から逃げたのだった。涙でぐじゃぐじゃになった視界で、家の裏にあった山へ、夜の道を転げるように傷だらけのその身を逃がした。月の光が蒼く照らす道を、ただ走って、走って、走って、もう走れなくなって、地面にへたばりこんだ目の前にその木は覆いかぶさるようにどっしりとそびえ立っていた。


部屋のドアが、控えめに、コツコツと叩かれた。

「入っていいぞ。」

柊の声に、ドアがそろそろと開き、静かに閉まる。

「そこのソファにでも、座っていてくれ。」

そう言って柊は、椅子に総身を任せて、ゆっくりと目を閉じた。普段は読まれないようにしっかりと閉じている心の扉を、大きく開け放つ。

外で鳴いている蝉の声がだんだんと遠ざかってゆく。

心の奥底にしまっていた遠い過去の記憶が、深く暗い水の底から波立つ水面みなもへとその身を浮かび上がらせ、柊の脳裏に像を結び始める。


900年ほど前の夜の森は現代のものとは違い、獣や人ならざるものがうごめいていると言われ、その時代に生きる誰もが、夜の闇の危うさを知っていた。幼い柊ですら、教えられなくともそのことは重々知っていた。けれど、それよりも恐ろしいものが柊の足を、家への帰路にとは向かわせなかった。泥だらけな小さな足を太く黒々とした幹にかけると、あとは簡単に太い枝まで、その身を持ち上げることができた。枝に腰かけ、見下ろすと、遠く離れたところに小さな灯りがぽつぽつと灯っているのが見えた。それは柊が逃げ出した村の家々の灯りだった。闇に浮かぶ家々の灯を見つめる視界が、ゆらり、と揺れて蒼い光がにじんでとめどなくこぼれ落ちた。


それから何日経っても、誰も柊を探しには来なかった。


柊は自分の登った木がひいらぎの木だということ、そしてそのひいらぎの木が、柊の杜の一番奥にそびえ立つ一番立派な木だということを知った。鬼を避けるというその木なら、闇に潜む人ならざる者からも守ってくれるかもしれないと、柊は信じ、すがるようにその小さな身を寄せ、そこに住むようになった。近くにあった別の村の子どもたちと仲良くなり、野原を転がるように遊ぶようになった。けれど、空がやわらかな茜色に染まるころ、皆がそれぞれの家路へとつく背中を見つめる柊の目は、隠しきれないさみしげな光が、静かに浮かんでいた。

やがて時は経ち、大人になった柊は、ふらりと生まれた村に足を向けてみた。体つきも大きくたくましくなり、小麦色に灼けた肌に筋肉が浮き出ている今の柊は、昔とは違い腕っぷしも大層強くなったからだった。怖いものなどなくなった。なくなったと思っていた。

けれどすぐに、柊は後悔することとなった。一番に怖いのは、人ならざる者でも、獣でもなかった。

立ち尽くす柊の目の前には、矢があちこちに刺さり焼き尽くされた村の残骸が、どす黒く、広がっていた。思わず目を背け、はっとして、自分の家があった方へと走る。どんなにひどい目をみさせられてきたのか、わかっていた。決して愛されてなどいなかった。人の心が読めてしまう自分を気味悪がっていたのを、幾度となく聴いた。

けれど。けれど!

― 父ちゃん、母ちゃん、無事でいてくれ! ―

祈る思いは走る柊の目じりから、まるで夏草に宿る朝露のようにこぼれ落ちる。

息をはずませ、やっと見えてきた、懐かしの我が家。

― やった!燃えてない! ―

柊の家は、村から少し外れたところにあったため、火を免れていた。

家の屋根から、煮炊きをする煙が上がっている。

― 一目、逢いたいっ。 ―

心がはずむ。胸が高鳴る。無事を確認して、帰ればいい。ここまで来たんだ、一目だけでも、両の親の顔を見たかった。もしかしたら、もしかしたら、柊が帰ったことを喜んでくれるかもしれない。甘やかな期待を胸に、入口にすだれのようにかけてあるむしろにそっと手をかける。

と、その時、家の中から聴こえてきた懐かしい母親の声に、柊の足は、固まった。

― 関白様もここまですることはなかろうに。 ―

― だいたいあの子がいなくなるから悪いんじゃ。わしらは関白様には逆らえんでの。 ―

あの子、とは誰のことだろう。柊は家に入るタイミングを逃してしまい、家の裏手へと回って地面に座った。そういえば、ほかの兄弟たちが見当たらない。まさか妹や弟になにかあったのだろうか。

― 人の心が読める子を差し出せと、ここにいるのは知っているのだと、突然言われてものぅ。あの子は何年も前に姿を消したと言っても、信じてくれなんだ。 ―

大人びた柊の顔が、すこしずつこわばって影を帯びてゆく。

― おまけに村の長老たちがこぞってあの子のことをかばいおってのう、わしらは正直にいなくなったと、必要ならなんでもお教えしますから、ひっつかまえてなんでも好きにしてくださいと言うたのに、あの子はなんでもないただの子じゃ、ただちっとばかり変わり者で利口なだけじゃ、と口をそろえて。 ―


長老たちの顔が、柊の脳裏に次々と浮かんだ。

― かばった?俺を?なんでじいさん達が・・。―

柊が人の心を読めるのは、村でも有名だった。幼いころはまだその力の大変さがわからなかったから、力を使って、欲の張った者どもをからかって何度もいたずらをしていた。そのせいで、誰も、柊には近づかなくなって・・

― いや違う。 ―

心の読めた柊は村でも心根の醜い者を選んでは、いたずらをしてまわっていた。柊がいたずらするたび何度もげんこつをくれたのは長老だった。舌を出して逃げ回る幼い柊を律儀に棒切れを持って息を切らしながら村中を追い回したのはじいさん共だった。柊に聴こえていたのは長老たちの怒りの感情や心根の醜い者の汚い感情だけだった。心根の卑しい者に天誅を下したつもりだったのに、長老たちは問答無用に柊を追い回した。それがうっとうしくて、嫌でたまらなくて、柊は長老たちが嫌いだった。近づかなくなったのは、柊のほうだ。

― そんな俺なんかを、どうして・・・。 ―


聴こえる感情に耳を澄ます。動悸が体中に響き渡ってうるさかった。生あたたかい汗が、背中をたらりと伝った。


― あんな子のことなんか、素直に全部教えて関白様に早く立ち去ってもらえばよかっただ。なのにじいさん達ときたら。 ―


柊の細い目に、驚きがはしる。


― あの子じゃって、好きでそんな風に生まれたわけじゃねぇ。ただ人よりちょっと耳がいいだけで、正義感が強いだけじゃ。だから人の心がみえてしまって、心根の汚いもんが許せんで天誅を下したりもしたんじゃろ。まだ幼かったからのぅ、いろんなことがわからずにいたんじゃろうて。妖の子だとかバケモンだとか訳の分からんことを言うてねえで、命かけて守ったれ。わしらは、この村にいるもんは皆家族だと思うちょる。関白様はあの子の能力を何か悪しきことに使おうとしておるのじゃろう。あの子は純粋で繊細で、心根はやさしい子じゃ。関白様に捕まればきっと心を痛めて苦しい想いをするじゃろう。だから、あの子のことはしゃべってはならん。家族の大人は子供が、たとえ姿をくらましてしもうたとしても、生きてると信じてやらにゃならんし、あの子に危害が及びそうなことから守ってやらにゃなるめぇよ。 ―


そんな無茶苦茶、無理に決まってるわ、気味の悪いもんは気味が悪いんだ、という母親の冷ややかな声は、柊の耳を素通りした。知らなかった。じいさん達が、そんな風に自分を想っていてくれたと、知らなかった。柊の目が、大きく見開かれてゆく。


理不尽に怒っていると思っていた。俺は正しいことをしているのに、俺が普通じゃないから嫌っているんだと思っていた。嫌われる前に、こちらから嫌ってやるんだと、心を閉じて避けた。けれどその根っこにあったものは、柊が生まれてからずっと、ほしくてほしくて仕方のなかったものだったのだ。ほしかったものは、心底望んでいたものは、手の届くところにあったのだ。気づかなかった己は、なんと浅はかだったのだろうか。若いころの面影はかけらもない細い腕で長老が、自身の手の痛みをこらえながらげんこつをくれていた。昔に比べて足腰が弱り始めていたじいさん達が、息をきらせながら追いかけてきてくれていた。長老達は特殊な力を持って生まれた柊に、ほかの子どもらと何ら変わらず、確かなぬくもりを胸に、まっすぐに、目をそらさずに、向き合ってくれていたのだ。


逢いたい。その一節が胸を突き動かす。逢いたい。じいさんや長老に、逢いたい!


― じいさん達は、じいさん達は、無事・・・。―


けれど、次に聴こえた声で、柊の胸を熱くたぎらせた想いは、はかなく無残に打ち砕かれた。

― 長老達も馬鹿なことをしたもんだよ。あんな子を庇ったがばっかりに。 ―

柊の顔から、血の気がひいてゆく。まるで、さざ波のように血がひく音が、耳に聞こえてきそうなくらいに。

― 庇わなければ、私らのように、生き残れたものを。 ―

まばたきが、出来ない。のどが、カラカラに干上がる。

風が、時間が、心臓が、止まったような気がした。

― おかげで私ら以外の村人はみな殺されちまった。 ―

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」

口から飛び出した声を機に、体が勝手に走り出した。

「うそだっ!うそだっ!」

後ろで母だった者の騒ぐ声がする。

「え?・・・おい待ちな!おまえを待っていたんだよ!」

― 早く関白様に知らせねばっ! ―

「父ちゃんも心を入れ替えたんだ!もう殴らねえよぅ!」

― 褒美はたんまりくれると言っていた。化け物は始末できるし、私らは楽ができる! ―

柊は母親を振り返らずに、どす黒く染まった村を走り抜けた。もう、皆いないのだ。柊を想ってくれていた人たちは、皆、皆・・・!


― 俺のせいでっ、俺なんかを庇ったせいでっ! ―


どす黒かったのは、炎のせいだけではなかったのだ。


― なんでだ!どうしてだ! ―


「どうして俺は!」


帰ってくるかもわからない柊を、最期まで家族と呼んでくれた人達の成れの果てが地面を染めていたのだ。


― 長老っ!じいさんっ!―


「俺なんかっ!」


― 俺なんかを庇って! ―


「俺なんかっっ!」


― ばかやろう! ―


「生まれてこなきゃよかったのに!」


― ばかやろうっっ! ―


「ばかやろーーーーーーーーっっっ!」


抑えきれない想いは音を成して口から飛び出し、茜色に染め上げられた空を切り裂かんばかりにこだました。走りながら顔中を涙で濡らす柊の背中が、薄汚れて悲しく苦しく、朱色に染まった世界に溶けきれずに、黒く浮かび上がっていた。


どこをどう走ったのか、気づけばひいらぎの木の前に立っていた。足をかけて、登り慣れた太い幹をするりと登る。座り慣れた枝から村のほうを見てみると、松明たいまつのあかりが蛍火のように、黒一色の世界を右に左にちらりちらり動き回っている。両の親が関白様に告げたのだろう。不思議と怖くはなかった。もう、これ以上に痛みを感じることなどない気がした。

― 俺も死んだら、長老たちに逢えるだろうか。 ―

消えてしまいたかった。この夜のとばりさえ、柊には明るすぎる気がした。

― 消えてしまいたい。この世から、消えてしまいたいっ! ―

自分さえいなければ、長老たちは長く生きられたのではないだろうか。貧しいがあたたかな暮らしを、自分さえ、いなければ。


― この身を、この世を、人間を、やめてしまいたい! ―


人ならぬものと言われ育ってきた。化け物と言われ、疎まれた。実の親に虐げられ、心までゆがませてしまって、本当に想ってくれていた人のやさしさまで、見落とした。そして、その人たちの命まで。

― いっそのこと、本当に化け物ならよかったんだ。 ―

そうすれば、皆、死ななくてよかったのかもしれない。

― 人ならざる者ならよかったんだ。 ―

人知を超えた力で、皆の危機を察せたかもしれない。

― 人であることを、やめてしまいたい! ―

皆を、守れたかもしれない。助けられたかもしれない。


突然、蒼い幻想的な光が、血がにじむほどにくちびるを噛みしめる柊の頬を、そっとなでた。

目をあげると、辺りは墨を流したように真っ暗で、その奥に、明らかにこの世のもではないと一目でわかる扉がぽっかりと口を開けていた。誘うようなかぐわしい花の香りが、扉の向こうから流れ込み、柊の鼻をくすぐった。

柊は、迷わずその扉に向かって足を踏み出した。人の理から外れたものであるだろうことは、わかっていた。けれど、悲しみと痛みで虚ろに開かれたその目には、驚きも、恐怖も、何も浮かんではいなかった。柊を人の世に、若くたくましいその身を引き留めるものは、もぅ何もなくなってしまった。

誰のせいでもない、己の、せいで。

死んでもいいと、喰われてもかまわないと、柊は蒼い光で満ちた扉の向こう側へ、その目をそらすことなく、ためらうことなく、足を踏み入れたのだった。



気が付くと、柊は冷たい地面に横たわっていた。どれくらいの時間倒れていたのかわからないが、辺りはあたたかな日に照らされてすっかり明るくなっていた。

痛む体を腕で支え、よろよろと立ち上がり、近くを流れる小川で水を飲もうとした柊は、水に映る姿に後ずさった。


体が、鮮やかな蜜柑色の光を帯びて光っていた。


声を失った柊のすぐそばで、ガサリ、と草むらを踏む音がした。とたん、体に帯びていた蜜柑色の光がぱっと消える。

はっとして振り向くと、そこにいたのは、柊の父親と母親だった。

身構える柊に、二人は、おずおずと声をかけてきた。

「あのぅ、ここらへんで、男を見んかったかね?」

柊の顔に戸惑いが浮かぶ。母親の言葉を継ぐかのように父親が口を開いた。

「お前さんと同じくれぇの年頃のおら達の息子なんだが、昨日ふらりと帰ってきたのに、またいねぐなっでしまっただ。」

久方ぶりに見た父親は、背中が曲がり頭に白髪が増え、心なしか震えている細い体が、昔とは違ってやたら弱弱しく見えた。

「関白様が、息子を探しとるんじゃ。見つからんことに苛立ちをおぼえなさりだしての。日暮れまでに差し出さねば、明日おら達も殺されてしまうだ。お前さん、ここらで見らなんだか?」

どうやら二人は、目の前にいる自分が、その探している息子だと気づいていないようだった。長らく顔を見てなかったから、忘れてしまったのだろうか。いや、昨日母親は後ろ姿だけで自分だと気づいた。なのにどうして、真正面から向き合っている今、自分に気づかないのだろうか。柊は両の親の心に、そっと耳を澄ませた。だが、二人は本当に柊に気づいてはいなかった。

柊は戸惑いながら首を横に、ふるふると振った。

両の親は、そうか、と言ってうなだれた。そこにはかつて、幼い柊に手をあげていた威圧感は、どこにも残っていなかった。そこにあるのは、ただただ己の身の安寧を、明日を、案じてふるふると震えるねずみのような、あわれな小さな姿だけだった。

「すまんかったな。」

今にも消えてしまいそうな一言を小さく残して、去ろうとする両親の背を、柊は呼び止めようと手をのばし・・のばしたその手を、そっとひっこめた。長老たちを見殺しにし、なおも明日のわが身のことしか考えていない二人に、何かしてやろうという気には、どうにもこうにもなれはしなかった。


柊は立ち上がり、ひいらぎの木へと戻った。

枝に寝ころび、再び蜜柑色ににじむ手のひらを眺めながら、朝から起きた不思議なことに思いを巡らせる。

あれやこれや考えて、昨日くぐった扉のせいかもしれないと思い当たったのは、天高く昇っていた日が西の山のにかかりはじめた時だった。そのことにすぐに思い当たらなかったのは、扉のことは夢を見たか狐に化かされたかのどちらかだとばかり思っていたからだった。

― 体が光るようになっては、もう人ではないのだろう。 ―

自分はおそらく、あの扉をくぐった瞬間、人の理からこぼれ落ちたのだろう。それならば、両の親が自分のことを息子と気づかなかったのも、そのせいなのかもしれない。人の世からはぐれた自分は、もう人ではなくなっていたから、親は顔を突き合わせてもわからなかったのか。

柊は他人事のように、冷静に考える自分に少し驚き、苦笑いをうかべた。人でなくなったと気づいても、胸には何の感情も、浮かんではこなかった。沈む夕日が、山の端を、田畑を、柊の杜を、朱く、朱く、染めてゆく。

木のてっぺんまで登り、朱く染まった世界を見下ろす。日の光を浴びると、なぜだか腹も満ちて、おまけに力が湧いてくるようだった。心なしか、人であったころより体が軽く感じられる。空でも飛べるのだろうかと、下の方にある枝へ飛び降りてみると、体は風に舞う木の葉のように、ふわり、と浮き、少しずつ高度を下げて静かに降り立った。

柊の頬が興奮で赤くなる。自分は空を飛べるのだ。鳥にしか見ることのできなかった世界を、自分は見ることができるのだ!興奮とともに、体から発せられる蜜柑色の光も強くなった。あたたかな夕日のような、そのくせどこか切なげなその光を帯びた手のひらが、ひいらぎの木の幹にふれた瞬間。柊の意識はひいらぎの木の中へと吸い込まれていった。




「よく来たのぅ。」


やさしい声に目を開けると、蜜柑色の光の中で、切り株に腰かけた老人が柊をやわらかなまなざしで見つめていた。きょろきょろと周りを見る柊に、白い衣をまとった老人はふぉふぉふぉと笑って言った。

「ここはひいらぎの木の中じゃよ。お前さんが住処にしているひいらぎの木じゃ。わしは、この木の精霊じゃ。」

きょとんとする柊を見て、老人は言葉を続けた。

「お前さん、妖になって間もないのじゃな。自分のことを何にもわかっとらんというわけか。」

「妖?」

聞き返す柊に、精霊は鷹揚に頷いた。

「ほれ、昨日の夜、お前さんの前に妖の扉が開いて、お前さんはその扉をくぐったじゃろ?あの扉をくぐった者は人の理からこぼれおちてわしらと同じ妖の者になるのじゃ。」

「じいさんも妖なのか?」

「わしは精霊と言ったじゃろう?精霊も天狗も猫又も八百万の神様も、人ならざる者はただその力が違うだけで、みんな妖みたいなもんじゃ。」

「神様も?」

驚く柊に、精霊はいたずらっぽく笑った。

「神様なんちゅうのは人間が勝手に決めただけじゃ。妖の力が強ければ、その妖は人々の畏怖の対象となり、恐れられ、たたられぬようあがめられ、供物を捧げられて祀られるようになり、やがて神様と呼ばれるようになっただけじゃて。」

そうだったのか、と目を丸くする柊を、精霊はゆったりと見つめていた。

「じゃあ、俺は、何の妖なんだ?」

元は人の身、何の妖になったのか皆目見当がつかないのだという柊に、精霊はふむ、と思案しながら口を開いた。

「その者がもともと持っているものにちなんだ妖になることが多いな。例えば名前とか。お前さん、名は何というんじゃ?」

「俺は・・・。」

― 名前なんて・・・俺には・・・。 ―

うつむいた柊に、精霊は目を丸くした。

「なんじゃ、名無しか?」

クソガキ、ガキ、こいつ、イタズラ小僧、柊のことを指し示す言葉はあっても、名前と言うにふさわしいものを、柊は持っていなかった。生まれたばかりのころは、あったのかもしれない。だが柊が物心ついたころには、心を読める柊を気味悪がった親は柊の名前を呼ぼうとはしなくなっていた。柊は、自分の名前を知らぬまま大人になったのだった。

黙ったまま下を向く柊の頭を、精霊は、ぽんぽん、としわくちゃのあたたかな手でなでた。

「そうか。若いのに、なかなか苦労したんじゃのぅ。」

出逢ったばかりの他人から、思いがけずかけられたやさしい言葉に不意をつかれて、柊の視界がゆらゆらと揺れた。目の奥が、じんわりと熱くなる。そんな言葉をもらったのは、生まれて初めてだった。精霊のたった一言のやわらかな言葉が、確かな熱を持って、柊のすさんだ心を、まるで綿あめのようなやわらかさと甘さで包み、とかした。

けれど、憐れみを誘っているように思われたくなくて、子どものようになど泣きたくなくて、奥歯を噛みしめてぐっとこらえる。頭から伝わってくるぬくもりは、生まれて初めての甘やかな熱を体中に染みわたらせた。

「ふむ・・・。」

精霊は長く白いひげを手で弄びながら、しばらくの間考えていたが、やがて笑顔になり、柊のほうを向いた。

「お前さん、わしの木に長く住んでおったのう?」

「あぁ、まぁ・・。」

「そして今、わしの中に入ることができた。」

「ここはじいさんの中なのか?」

「まぁ正確には、わしの精神の世界の中かの。」

「精霊の精神???」

「お前さんのその蜜柑色の光は、他人の精神に潜って接触することができるということじゃな。」

「そぅ・・・なのか。」

「てことはじゃ。」

精霊は柊をみつめてにかり、と笑った。

「お前さんの住処はこの木じゃ。」

「確かに・・・ずっとこの木の上で暮らしていたが・・・。」

「名も愛着も持ち合わせなかったお前さんが唯一持っていたえにしがわしとの縁だったというわけじゃ。」

「そんな馬鹿な・・この木に辿たどり着いたのは偶然で・・・。」

「本当に、偶然かの?」

精霊は探るような目で、笑いながら柊を見つめた。

「暗い夜道を、道も知らぬ幼子おさなごが何の導きもなく、この木に辿りつけるとは思えんて。」

柊は目を見開いた。あの日、夜道を無我夢中で走った自分の前に、この木は現れた。それ以来、特に離れる理由もなくここに住んでいただけだ。偶然だと思っていたのに、そんなことがあるのだろうか。信じられないという表情を浮かべる柊の頭を、精霊はまた、ぽんぽんとなでた。子ども扱いされているようで複雑な気分だったが、その手から伝わる熱が心地よかった。

「この木はよわい三千年のひいらぎの木なんじゃ。三千年も生きると、少々不思議な力もその身に宿るようになってのぅ。この木には、人を喰ろうてしまうようなよこしまなもんは近寄れんのじゃ。」

精霊は感慨深げに遠い目をした。

「元々ひいらぎの木はのぅ、鬼をはらう力を持った木なんじゃ。」

夜道を泣きながら走る幼子など、本来ならばすぐにでも闇に住む鬼に喰われてしまっただろう。

「情に脆いどこぞの天狗か何かが憐れに思ったか、幼いお前さんが喰われぬよう、ここに導いたのやもしれぬのう。」

驚いた顔をしている柊に、精霊は、静かにやさしく告げた。

「お前さんは、わしの跡継ぎになったというわけじゃ。」

「跡継ぎ?」

精霊は、そぅっと、柊の頬をなでた。

「わしはそろそろ寿命じゃった。わしが消えれば、この木は枯れるはずじゃった。」

運命とは、わからぬものよのぅ。と笑って、愛おしそうに柊を見つめる。

その目が、やさしくうるみ、静かに近づいてくる別れの時を、そっと告げていた。

「幼いころからこの木に勝手に住み着いたお前さんのことが気がかりで、なかなかこの木を去れなんだが。」

お前さんが跡を継いでくれるならわしも心強い、と言ってにかりと笑う。

「ひいらぎの役割はのぅ、冬の訪れを人に教えるだけではないのじゃ。用心深く、先見の明を持ち、忍び寄る魔から人を保護する、鬼除けの樹木なのじゃ。人の心を読めるせいで用心深く、邪な心根の者を許せぬ正義感の強いお前さんと、悪くない相性じゃと思うぞ。」

あたたかな声音でやわらかな笑みを浮かべる精霊の姿が、少しづつ薄れてゆく。

「じいさん!」

泣きそうな顔で見つめる柊を、精霊は笑って引き寄せ、抱きしめた。しわくちゃの手が幼子をあやすように、背中をぽんぽんとたたく。

「世の中に偶然なんてないんじゃよ。あるのは必然だけじゃ。」

そう言って、精霊は柊の頭をくしゃりとなでた。

「出逢ったものは、全て縁ある故じゃ。あの夜出逢ったわしとお前さんのように。人であろうと、妖であろうと関係ないんじゃ。ただちぃっと時の流れる速さが、寿命の長さが違うだけじゃよ。だからお前さんと縁でつながれた者を、今度はお前さんの力で、守ってやるんじゃよ。」

柊の体に、消えゆく自分の全ての、確かなぬくもりを残して。

精霊は、慈愛の笑みを浮かべたまま、静かに、静かに、消えていった。

「じいさん!」

いつの間にか柊の体は、暮れる夕日に朱く朱く染められた枝の上に戻っていた。さぁっと吹き抜けた風に、視界の端で白いものがゆれた。枝の先に目をやると、先ほどまでまだつぼみだった白い小さな花が満開に咲き、夕日に染められてあふれかえる香りが、深い秋の冷たい風を甘やかに冬色に染めてゆく。それはまるで、幼いころからずっと見守ってくれていた精霊から柊への、最期の贈り物のように。

茜と薄紫が、淡くはかなく染め上げる夕空の下で、無数の夕焼け色の花びらが、澄んだ藍に染まった風に揺れながら、最期の時を華やかにかざらんと、凛として咲き誇っている。その様子はここ何年かの中で飛びぬけて一番に美しく、それでいて、どこかさみしく、はかなくて切なかった。

にじむ視界にもかまわずに、柊は飛びつくように幹に手を当てた。

「じいさんっ!じいさんっ!勝手なこと言うなよ!俺まだ何にも知らねえよ!」

けれど、先ほど感じた感覚がもう一度起こることはなかった。

「・・・ひとりにしないでくれよ・・・。」

― またひとりぼっちになっちまった・・・。 ―

「俺を・・・。」

― 長老・・じいさん達・・・精霊のじいさんっ。 ―

「おいていかないでくれ・・。」

抑えきれずにあふれた嗚咽とともにこぼれた心は、熱い涙と一緒に、座り慣れた枝に染み込んでいった。





柊は静かに目を開けた。

柊の前で立ち尽くし、涙を、宝石のようにこぼれ落ちさせている純粋無垢なまなざしを、そらすことなくまっすぐ受け止め、包み込む。


「見えたか?」


涙をこぼしたまま、そっと頷く様子に、柊はやわらかく笑った。


「これが俺の正体だ、雪乃。」


雪乃は涙を拭わないままそっと、その手に握っていた銀色のジッポを、柊に差し出した。


「ああ、お前のとこに落としていたんだな。」


ありがとな、と言って雪乃を部屋のソファに促しながら受け取ったジッポで煙草に火を灯す。指に慣れたフォルムから灯された、やわらかにゆらめく火は、あの日の夕焼けの色をしていた。

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