第9話 夢のかけら
光が、見える。
蛍のような、淡く、今にも消えそうな、泣きそうな光。
「・・・小春・・。」
乾いた口からこぼれた、少しかすれた自分の声で、柊は自分が雪乃の闇から、無事に
どうやら、無事に連れて帰ることができたらしい。安らかな寝顔に、安堵のため息がこぼれおちる。心底ほっとして、雪乃の体にあてていた手を、そっと外した途端、上半身を中心に激しい痛みが走った。柊の体から氷こそ消えていたものの、ドライアイスのような冷気を発していたものにあれだけ長い時間ふれていたのだから当然と言えば当然の結果ではあった。
柊の体は、上半身を中心に、凍傷をおこしていた。
― むしろこれくらいで済んだことに感謝しないとな。 ―
命に関わりかねない無茶をした挙句、余裕の笑みを浮かべようとした柊に、腹を立てた光が傷にそっと近づいた。光から発せられる熱で傷が痛み、柊は口から苦悶の声をもらす。
― まぁ・・・当分は陽にきちんと当たらねえと、さすがにまずいか。 ―
ひいらぎの木の化身の妖である柊は、植物が光合成を行う要領で、浴びた陽光をエネルギーに変え、体を癒すことができる。普段の生活で出来た軽い傷や、風邪などは、放っておいても治るが、やはり陽を浴びた方が治りは断然早い。特に、今回のような程度のひどいものは、陽光の力を借りなければ自然な治癒は望めそうになかった。
やっとわかったか、と言わんばかりに飛び回る光を横目で恨めしそうに見ながら、凍傷のひどくないほうの腕で、雪乃の体をひょいと抱える。雪乃の体は、高校生にしては小さく、軽かった。部屋に入り、小さな体には余るほどに大きなベッドにそっと寝かせる。秋の空の色にやわらかな雲をといて染めあげたような、やさしい色合いのタオルケットをかけようとして、ふと、柊の目が、雪乃の、白いシルク生地の襟ぐりが深めなネグリジェの首元にかかる水晶のペンダントに留まった。ペンダントトップの水晶は、ほの暗い部屋の中で、蒼い光を発し、ぼんやりと光っている。柊は、その水晶にそっとふれた。
「っ!?」
柊がふれた途端、水晶の中に灯っていた蒼い光が突如としてかさを増し、柊の目に、やわらかく、ゆったりと流れ込んでくる。ゆらゆらとゆれる泉の中から見上げた月の光を彷彿とさせる蒼い光は、柊の全身をそっと包み体内を、雪解け水を含んでゆったりと流れる春の小川のようにゆるやかに駆け巡った。すると凍傷でひどく傷つき痛んでいた体が徐々に癒され、痛みが薄れ、みるみるうちに治ってゆく。蒼い光は全身の傷をすみずみまで照らし、体中の傷を快癒させると、潮が引いてゆくかのように、静かに、静かに、薄れて消えていった。柊は、傷ついて激しい痛みが走っていた方の腕を思いきり動かしてみた。痛みは嘘のように消え失せ、赤く腫れていた肌は、何事もなかったかのように元の通りになっている。
明らかに、人外の者の力の成せる業だ。それもかなり、力の強い者の。
柊の眉間に、深いしわがよる。
人の世にはありえない力を持つ石。きれいに研磨され、加工されている様子からして、はじめからこのような力を持ったものではなく、何者かが元々はただの石だったものに自身の力を意図的に込めたと考えるのが自然なのだろう。自分の力を切り取り、元は何でもなかったただの物に込める。そんなことができるのは、妖の中でもかなり力の強い者だけだ。
誰が?いったい何のために?なぜそんな物を、水城が身に着けているのだろうか。
身動きをせず、考えこむ柊の周りを、帰らないのかと尋ねるように光がふわふわと飛ぶ。もう少し待ってくれと、言おうとした時、寝返りをうった雪乃の背中から、長くやわらかな黒髪がこぼれおち、ずれた襟口から色白い華奢な背中が垣間見える。
夏とはいえ、久方ぶりの晴れた夜の空気は重く湿って、半袖では肌寒さを感じさせる。風邪をひかぬように、ずれたタオルケットを雪乃の肩まで引き上げようとした柊の、褐色の大きな手が、寸の間止まった。背中に残ってはらはらとこぼれる髪を、ひっぱらないようにそっと、その手でどける。
柊の顔が、痛みをこらえたような、やりきれない怒りを懸命にこらえているような表情に変わった。
やわらかなベッドに横たわる痩せた華奢な背中には、真新しい痛々しげな青黒い痣がいくつか、くっきりと浮き出て、透きとおるような白い肌を、悲しく汚していた。
柊はくちびるを噛んだ。華奢で、柊が少しでも強く力を入れようものなら今にも折れてしまいそうな体に、いくつもの理不尽な痛みを負いながらも、無防備で、無垢な寝顔をしている。自分の痛みや苦しみなど一瞬にして投げ捨てて、よろけた柊を気遣い駆け寄った雪乃のまなざしが思い出されて、柊の心を余計に痛めつける。
数時間前に消したはずの迷いが、目の前に突き付けられた現実に、再びその切れ長の目に、静かに浮きあがった。先ほどまでの、なんとかやり切ったという、胸を満ち満ちさせていたすがすがしい気持ちはもろく消し飛び、目を逸らせない光景に、いやおうなく心が揺れる。
深い海の底のような静けさに包まれた部屋の中で、柊は、しばし、黙ったまま立ち尽くしていた。
雪乃の家の裏山に立つ高圧線の鉄塔の上で、山の端から上ったばかりの朝日のような朱色に塗られ、鼻がだいぶ長い、奇妙な面で顔を隠し、頭にシロツメクサのかんむりをのせた男が忌々しげに舌打ちをした。
― あともう少しだったのに・・・。 ―
シロツメクサで編まれたかんむりが、
そのかんむりは、少しゆがんでいびつなかたちをしていた。ところどころ、しおれてしまっている花もある。けれど、男にとってはとても大切なものであるらしい。男は白く長い指を頭にのばし、労わるようなやさしい指づかいで、かんむりをそっとなでた。
なでられたシロツメクサの花が、男の指先に灯った、ゆらめく泉の中から見上げた月の光を彷彿とさせる、蒼い光に沈む。少ししおれていた白い花びらの奥に、そこはかとない蒼さをにじませて、花は生き生きと甦った。
― あの子は、人の理の中で生きるには、あまりにもやさしすぎる。 ―
男の顔が、面の下で、苦しげにゆがむ。
― なんとか、一刻も早く、その身を自由にしてやらねば・・・。 ―
「シロツメクサの花言葉は、約束、だからな。」
切なさそうな表情を浮かべる男のつぶやきを聞いたのは、月に照らされた森の木々で、明日の食料の夢を見てすやすやと眠るカラスたちだけだった。
朝日がうっすらと街をにじんだ朱色に染めはじめたころ、柊は家のドアの鍵を閉めて、電気もつけずに上着やYシャツを歩きながらそのまま床に脱ぎ捨てた。光はふわふわとただよった後、すぅ・・っと白い花の中へと消えた。
「小春、お疲れさん。」
小春は柊の言葉に、かぐわしいやさしげな香りを、そっと、返してきた。どうやら小春もだいぶ疲れているようだ。香りはすぐに薄れ、白い花びらはゆっくりと閉じた。
柊は、よく眠り慣れた自分のベッドに、そのまま倒れこんだ。明日が日曜日だったのがせめてもの救いだろうか。このまま出勤し、授業や業務をこなすのは少し難儀だった。身を包む布団の肌ざわりの良いやわらかさに、こらえていた疲労感が、どっと押し寄せる。ベッドに沈み込んだ石のように重い体は、まとわりつくように浮かんでは消える迷いもやり場のないふつふつとした怒りも解明できていない謎も全て、濁流のように飲み込み、柊の意識をすぐに深い眠りへと沈めていった。
天井まである大きな窓から、朝の光が爽やかに射し込んでくる。
広い部屋の中にひそんでいた夜の蒼さが、朝のやわらかな光で薄められてゆく。
雪乃の重いまぶたが、朝の光のまぶしさにゆりおこされた。
低血圧の雪乃は、実は朝が苦手だ。重い頭をふらふら持ち上げ、上半身をベッドの上にゆるゆると起こし・・・体を支えきれず顔からベッドに倒れ込んだ。枕元に置いてある時計は、今がまだ起きるには早い時間であること、そして今日は学校は休みであることを示していた。
― 今日・・は・・日曜日かぁ・・。 ―
夏とはいえ、もやのかかった早朝はまだ肌寒い。体を先ほどまでくるまっていたタオルケットの中にもぐりこませると、やわらかなぬくもりが雪乃を包みこむ。肌寒さを感じて寸の間こわばった体が、ほぐされ、緩んだくちびるからこぼれた吐息とともに、やわらかくとけた。不思議なことに、まるで学校で倒れた後に目覚めた時に感じるオレンジ色のあたたかな光のぬくもりが体に残っている気がして、雪乃は首をかしげた。
― たしか昨日は学校で倒れてないはず・・。 ―
起きたばかりであるうえに、低血圧が手伝い、ぼんやりと朝もやのかかったような頭で、昨晩の記憶をたぐりよせる。焦点の結ばなかった思考が、射し込んでくる日の光が季節を思い出させる熱を帯びてゆくとともに、すこしずつ、はっきりとした姿を見せ始めた。
― いつものように月の光を浴びて・・・。 ―
そこまで思い出し・・雪乃の体がベッドの上に跳ね起きた。反動で、タオルケットがベッドの下にはらりと落ちる。
― 手っ・・手はっ! ―
光にかざした手は、少し青白くはあったものの、確かな輪郭を持ってそこに存在していた。唇から安堵の息がこぼれ、雪乃はベッドに倒れこんだ。
ふかりとした枕にあずけた頭に、だんだんと姿をみせる昨夜の記憶は、夢を見ていたのではないのだろうかと思わせるには、十分すぎるほどに奇怪なものだった。
事実、雪乃はそれが夢であったのだと、考えようとしていた。現実のものと思うにはあまりにも、現実離れしていた。
― 体が見えなくなって、まっくらな闇の中に不思議なドアがあって・・。 ―
扉の向こうに・・・と考えたところで、シロツメクサのかんむりをかぶった人が、自分を呼んでいたのを思い出した。
― なんだろう・・すごく懐かしい気分になったんだよね。 ―
顔はよく見えなかったが、なぜだか雪乃はそのシルエットによく似た人を知っているような気がした。
― 誰だっけ・・・。誰かに似てたんだよね。 ―
考える雪乃の鼻を、ふわっ、とシロツメクサの香りがかすめた。
― 黒木先生だ! ―
首元でゆれる水晶のペンダントを丁寧にはずして、指先でそっとふれる。すぐにわからなかったのは、雪乃の知っている黒木とはだいぶ雰囲気が違っていたからだった。
― なんていうか・・力が満ち満ちてすごく強そうな感じだったなぁ。 ―
雪乃の知っている黒木は、いつも静かで穏やかな、あたたかな目をした、やさしいお兄さんだった。
― その扉をくぐろうとしたら、柊先生が・・。 ―
― 「俺が、お前の居場所になってやる。」 ―
低く少しかすれた声とともに柊のまっすぐなまなざしがよみがえって、雪乃は切なげな笑顔を浮かべた。
夢の中の柊は、普段より饒舌で、冬の午後に教室の窓からさしこんでくるような、あたたかで、どこか切ないオレンジの光をその身に帯びさせていた。
― あんなこと・・言ってもらえるはずないのに。 ―
自分の想像力の豊かさに、こらえきれずに苦笑する。学年長という立場はとても忙しいのを、たわいもない雑談の
そこまで考えて、雪乃は、ふっ、と笑った。夢は見る者の願望を表していると一説を聞いたことがある。その一説は、様々な論争を引き起こし、最後には全くの的外れであるなどとさえ言われもしていたが。自分には、柊にそうしてもらいたいという願いが、自分でも気づかない心のどこか奥底に眠っているのだろうか。
― そんなの・・・夢のまた夢、だよ。 ―
雪乃の顔に、諦めたような、悲しげな笑顔が浮かぶ。
柊のやさしさは、教師として、生徒に対するやさしさだから。
― 生徒ではないひとりの人間として、見てもらえる理由なんて、どこにもないもの。 ―
たとえ、特別に扱ってもらえたとしても、それはその年に受け持った生徒の中で特別なだけなのであって、学校を出てしまえばただの他人へと移ってしまう、はかない関係。浅い春の、少し肌寒さを残した風に、はらはらと舞う桜の花びらとともに消えてなくなる、ほんのひとときの、淡い夢。みんな、薄紅色の花びらとともに次の場所へと歩をすすめてゆく。涙がにじんだような青空を、白っぽく染める花びらの雪の中に立ち尽くし、なかなか動けない雪乃を、ふりかえりもせずに。それは時の流れが止まらない限り、至極真っ当なことだから、雪乃はその背中を呼び止められなかった。まるで自分だけ、やわらかな夢の中に居続けたいと駄々をこねている気がして、言えば困らせてしまう気がして、口に出せず、いつからか諦めてしまった、想い。
― どんなに望んでも、かなわないって、知ってる。 ―
黒木も、もう自分のことは覚えてはいないだろう。
― 柊先生も、牧原先生も、西川先生も・・・。 ―
のぞきこんだ底なしのさみしさに体を捕まえられてしまったような気がして、床に落ちたタオルケットを拾い上げ、そっとくるまる。少し贅沢になりすぎているのだろう。心を注げば、それに応えてくれるあたたかな場所があることが、あまりにうれしくて、感謝の気持ちよりも、失くしたくないという気持ちのほうが先に立ってしまっているようだ。
「だめだめ、感謝しなくちゃ。」
雪乃はベッドから降り、窓を開けた。
梅雨の明けた空は、からりと晴れて、歯切れのよい鮮やかな青さが目に染みる。
流れ込んできた、太陽の熱をその身に芳醇にまとった風が、雪乃の体を汗ばませ、痛いほどの日差しが、雪乃の心に宿った影を薄めてゆく。
「よし。」
バルコニーに出て庭園を見下ろすと、庭師のおじいさんが、まるで夏空のまぶしい太陽が梅雨の終わりを知らせるために降り立ったような、黄色い大輪の花を力強く咲かせた
― 着替えて、菜園からトマトでもとってこようかな。 ―
夢のことは考えるのをやめよう、と雪乃はバルコニーで一人うなずいた。
失くす未来は、必ず、来てしまう。それは、逃れようのない、真実。
ならば。
「幸せな今を、しっかり胸に刻んでおかなくちゃ。」
やがておとずれる悲しい時を、あたたかな想い出で、ひとり耐えられるように。
次の場所へと進んでゆく、大好きな人達を、笑顔で見送れるように。
未来への希望の光に満ちたその背中を、決して、呼び止めないように。
雪乃が一人うなずいた、その時。
「いたっ。」
足の裏に、何かを踏んだ痛みを感じて、雪乃はそっと足をどけてみた。
「え・・・。」
― これ・・・柊先生の・・・。 ―
保健室で、ろうそくの火をつけるために西川に貸してと頼まれ、無表情で差し出していた姿が脳裏をよぎる。
そこには、絶対にバルコニーにあるはずのない柊のジッポのライターが、昨晩の出来事が夢ではないことを示すようにしっかりとした存在感を放ちながら、まるで蒼く深い夜からこぼれ落ちた夢のかけらのように、夏の日差しをうけて、にぶく光っていた。
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