Step20 ヴァース
(テープの擦過音。紙の上を鉛筆が走る音)
(男)…あー。テステス。
よろしいようです。それではどうぞ。
(しわがれた声)うーん、で?この老いぼれの話を聞きたいっていうんだっけな、あんたは?
(男)そうです。まずお名前を。それから、ご出身地をお願いします。あとは思いつかれるままに。自由会話の形式の方が語りやすいでしょうし、思い出すことも容易でしょうから。
本格的に取材となると…肩がこるでしょう?
(しわがれた声)んがっはっは。容易、ねぇ。難しい言い方をなさるね、あんたは。うちの末娘とどんな関係でここに来たのか、なんて聞くだけ野暮かな?まあいいさね。
どうせあの娘はワシのことなんぞお構いなし。生まれる前にな、妻の年齢を考えてワシゃあ反対した。それを聞いてからちゅうもの、ず〜っと、こう…ハンコーキ?ってやつでな。
(マッチを擦る音)
アンタの前になんか、黄色い東洋猿と付き合ってたくらいでな。アレに比べたらアンタはなんぼか
なあに、驚くもんでもねえ。ワシは昔、
そうさな…あっとと、名前だったな。
ワシの名前はブレーズ。ブレーズ=フォン=フェルダー。
(男)
(しわがれた声)んがっはっは。アンタ、こんなオヤジがお貴族様生まれと思うかね?苗字はな、結婚した時に
(ドイツ語が混じり始める)
先生…
(パイプをふかす音)
懐かしいだなぁ…あん人にはほんに
(男)その、イアンというかたは、ダニエラ嬢が話していた『大おじさま』というかたですか?
(しわがれた声)ん?あいつがそう言っただか?…あん人とおら達に血のつながりは、いっこもねぇだ。
けんどまぁ…深い意味にゃあ家族。そんなもんだべな。
これがまたよぉ、頑固一徹を肖像画にして飾ってるようなお人でな。厳しいけんど公正で、おら達夫婦の導き役をかってくれてただよ。
はーぁ。先生もイアンさんもとうに天使の仲間入りしちまって…残されたんはおらだけになっちまったなぁ。女房は、ありゃ
…っと、話が
ごっほん、ごっほん!
(英語に戻る)
ワシの出身はフォアアルルベルクじゃ。もうとうにない、帝国の地方の村の出だ。アメリカくんだりまで来て昔語りなんぞしたのは、かなり久しぶりだ…がははっ、つい
(男、ドイツ語)
途中から見事にドイツ語でしたね。それもティロル訛りの。
ご安心ください、私はドイツ語も不自由ありませんので。そちらでも結構ですよ。
(しわがれた声)(これ以後、話者はドイツ語・英語混じり)そうかい。つってもなぁ、もう英語の方が長いからなあ。ってかあんた、訛りがあっても聞き分けられるだか?
あの末娘も大学に行った途端、小生意気になっちまってよ。近頃じゃあ
っとと。妙なチャンポンになっとるのはスマンだな。ま、大目に見てくれろ。
里ことばも忘れちまってることが多いと思ってただに、話し出すと出てくるもんだなぁ…
(男)ご家族は皆さん、奥様と貴方、それにイアン氏とマクシミリアン氏…のほかは、
(しわがれた声)おうさ。ワシと女房、先生とイアンさんは帝国時代のオーストリア生まれじゃ。帝国が崩壊したはじめの
(男)なるほど。第一次世界大戦の後しばらくして…ということは、ナチが台頭してきたあたりでしょうか?
(しわがれた声)そーそー。なんたって女房は半分がたユダヤだかんな。それにヴィル兄やん───女房の父親がよお、ややこしい立場だったもんだで。めっちゃ苦労したらしい。
そんでまあ、おら達がデキ婚して、そっから生まれたガキはみーんなアメリカ人だ。ドイツ語のドの字も話せねぇだよ。おらも教えんの超めんどくさかっただからな。ほんに、マジで懐かしいだな…
いやぁ、それにしてもあんたの
(男)…私の母が、そのまた母からオーストリアの言葉を受け継いで、それをそっくり私に遺してくれただけですよ。祖母はもともとバルカンのとある権威ある家柄の出でした。いうなれば私は、旧帝国の臣民三世といったところですね。
(手帳に鉛筆で書き込む音)
(しわがれた声)ふーん。───アンタ、なあ、
(男)え、いや、私は…
(しわがれた声)ほー!じゃあ良い機会だで、いっぺん
(男)う……では、折角なので頂きます。
(吸い込む音。すぐに咳)うっ、おほっおほっおほ、ごほほ、ごほっ
(しわがれた声)んがっはっはっは!ええ、ええ。初めはそんなもんだでよ。野郎コはやっぱし
(男)ううっ。これは───ふふっ、してやられましたね。
(しわがれた声)オヤジのイタズラだ。大目にみてくれろ。
(ドアの開く音、若い女の声)どうしたの?凄い咳が聞こえたけど、お父様?大丈夫ですか?
(しわがれた声)るっせえ!いちいち騒ぐでねえダニエラ。こっちの
(女)ええ?…それは兎も角、お薬の時間ですよ。あちらに用意してありますから。ルイさんも、少し休憩してお茶にしましょう。
(しわがれた声)おおっ?アンタもルイちゅうのかね。おらんところの長男とおんなじ名前だ。偶然ちゅうのはあるもんだなぁ。ここんとこ退屈しとったが、今日は良え日だで。
(緩やかな足音と杖の音。ドアの閉まる音)
(女)どう?取材は順調?
(男)まあね。先は長そうだが。それも楽しみながらやっていけそうだよ。
(女)あの気難し屋のお父様とよく話が続くものだわ。私なんか
(男)お父上がパイプをね…まだ肺の辺りがジンジンする。糞ッ、えらい目に───失礼。
肺に思い切り吸い込んでしまった。そういうモノではないのだね。まったく人が悪い…おっと、テープを止めないと。
(女)……ねえ。
(男)うん?どうかしたかい?
(女)…それ本当?
(男)ああ。本当だが、何か?
(女)…お父様にとってあのパイプはとても大事な物なの。以前ふざけて触った取引相手を出入り禁止にした事もあるのよ。
(男)一流の経営者というのは、えてして他人には理解し難いこだわりがあるものさ。
(女)相手が産油国の王族でも?
(男)…
(女)
(男)フム。
(女)それならそれで上出来!私達の交際も認めてもらいやすくなるというものじゃない?
(男女の笑い声)
『ニューヨーク・サン』コラムニストの録音テープより
ラベル:1962,7,15
スローワルツ 鱗青 @ringsei
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